奈良教育大学学術リポジトリNEAR
論理経験主義の道?論について
著者 伏見 文雄
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 4
号 1
ページ 37‑48
発行年 1954‑11‑25
URL http://hdl.handle.net/10105/5071
論理経験主義の道徳論について「1)
伏 見 文 雄
I
経験主義は古来合理幸蓑に対立して起って釆たもので、哲学史上この二つが常に対立関係にある事は 哲学の歴史を通読した者ならば分っている。
合理幸義はその代表的なものを古典的理論としてはプラトンに、近世に於1ハてはカントに於いて見る べきだろう。本来合理主菜性知識の問題を中心として発展しているが、これが人間の活動面にも通用さ れて始めて展の合理圭義である。従って、虞冥番の本質そのものが理性的なものであり我々の行為の原 理は理性的合理的に確立してレ、る。それ故に、我々は正しく行為せんがためには、先づ、眞雲呑の本質 を知り、且つ、行為の原理を知らねばならない。知る事と正しく行為する事は平行する。Ethico・COgn・
itiveparallelismこそ虞TEの倫理学詮であるという事になるのである。
その先駆者はソクラテスでありプラトンである。プラトンの後を引く合理主義はこの組をほずれてlハ ない。而して、カン1、の先天綜合の語に於いて環虹完全薇形を見る事が出乗るのである。
我々の遺徳事寒を見るのに−一方では遺微の規則が立っていて命令の形で我々にのぞんで嚢る。しか も、を紅が澤村的と感ぜなれ、梓威を以てのぞむ祈に−一つの特色がある。そこで、その道徳の規則の棍 狸を神におき、神の命令として解釈する仕方が成立つ。この様な考方は、元乗長い人間進化の歴史の内 に出で釆たものと思われるのであるが、その代表的なものはヘブライの思想であって、モーゼの十誠の 如きものはその環もよい例だろう。
所が、倫理、認識の平行論は道徳の絶対性の根元を神という様な自己以外の存在者に見るのでなく、
自己内の理性に於いて見出す所にその特質がある。この考方は道徳の穐威を自己外に見ず、内に見出さ んとしている点で、叉、神の様な絶対者を仮定して、そこから道徳を引出そうとする考方に比Lでは一一 歩進んだものと考えざるを得ない。
併し、理性の紹柳生に道徳の樽戒を見出さんとする毎に且知識の能力として理性が感覚的経験よりも 僚機しているという考方がある。従って、特に感覚的酎灸を越えて人間理性だけによる知識の繹対性の 考(数学、論理等の悸越性の考)が旗低にある訳である。例えばプラトンのメノン筈に於ける徳は教え 得るかの問題についての考方等は明かに之を示している。彼に酎1では倫理的直鍬ま完く康何学的直観 に平行的なものであったのである0即ち、プラ1、ンは倫理的直観は+潤の認識即ち知識だという理論を 樹でたのである0そして、ギリシア人の様な数学の論理的形式を樹立した民族が新しい形式の命令即ち 理性の命令を発見したのであり、その命令の非人称的形式はその命令を一風馬次のものと思わせたの である0この形式のものは神の存否に拘りなしに我々に承認を要求するのであり、叉、神の音志が勘ヽ どうかの問題を排除する0叉、菅をなす苗は優逃した昔志に服従する事に成立つとする擬人主菜的な思 想から我々を解放する0経って、倫理的規則を各人に対する義務として樹てる衷艮の蓬は倫理、認識の 平行論部ち徳は知だという緒言に於いて与えられる様に思えたのである。
近世に入って、スピノザは倫理的規則も演繹的な証明を与え得る事を示そうとした。これはギリシャ の伝統の上に立つものという事司Ⅶ乗る0特に裾が酎丁学を範として1ハる点で貴もギリシャ的である。
併し、倫理的慣紗こ於いてもその寒演繹の行われるのは或る公理が仮定され⊥ば、そこから様々の倫
理的規則が演繹されるという事に外ならない0従って、その関係はif・thenの関係に帰せられる○具体
例をとっていえば、我々が或る馴勺を欲する塁旦蝶、「憾む言ってはならない、」という道徳律に礎わ ねばならない事を意味する。これは渡何学の公理から定理を証明する手旗と論理的には完く同じだとい わねばならない。
併し、充乗論理は結合の道具に過ぎない。礎って、与えられた公理から結締を引出す革具出乗るが、
公理の尾理については我々に何も数えるものでない。公甥の虞理は完く別途に明かにされねばならな い。論理的に明かにされるのは公理と定理との関係、道徳の根本原則と個々の道徳法則との関係だけで ある。即ち、if・thenの関係が論理的に証明可能なだけである。そこで、この分析は倫理の要当性は倫 理的公理の妥当性に還元的乗る事を示しているのである。
以上の様に倫理学の問題を倫理的公理の問題と見たのはカントの功績である。道徳問題の様な複雑な 問題を分析して倫理的公理の問題を見つけ出す事は相当零れた才能の人でなければ出乗ない事だろう。
従って、その解決は兎に角として、問題提出だけでも歴史的に富要な位唖を占める権利を持つものとし なければならない。
カントの之に対する解決は倫理の公理も先天的綜会的だというにある。「雲践理性批判」に於いて、
彼はGrundgeseze der praktischen Vernunft:としてそれを明かにしている。「お前の意志の格率 がいつでも同時性普遍的立漁の原理として妥当する罫が出来るように行為せよ.」と巽践理性の水本原則
、は言い表わされ、この原則の意識は理性の事実(Faktum der VernuI】ft)だと言われている。その他 の倫理的規則は凡てその無制約性、普遍妥当性、必然性をこの根本原則から得て来るのである。
しかも、カントでは倫理、認識の平行論は倫理的公理も、認識的公理も共にその棟処を理性の本性に 塞く先天綜合邦断に持つ事に存している。
巽践理性批判の結語にあるDerbeStirnte Himmeltibermir,das Moralische Gcset2:iElmir.
という語慄カントのこのparallelismを最も端的に表現しているとも見る署が出来る。しかも、この 語は凡ての人間精神の承認を要求している。笑にカントこそギリシア以乗の倫理、認識の平行論の完成 者である。これがまた現代のlogicalempiricismの攻撃の中心ともなる訳である。 (2)
正
規代のlogicalempiricism建一最も巻本的な二つの原理を持っている。(1)在寮的音味を持つ命題 は専ら径験的な関係を持つ且のに限る。(2)この経験的関係は論理的分析によって結論的に示す:事が出 来るという二つである。この程喚キ義的隠哩按論理的方淡によって証明されねばならない。この事は徹 底的繹験主義と分数する論理の説明を要求する。どれは−見舞しい罫の様に思える。何故なら論理的方 法を使う哲学体系は殆んど初年なしに井経験的な結果を生み出すものと考えられているからである。併
し、論理を音昧結合の方法と考えれば、この論理的方法を経験の結果と調和させる事は困難ではない。
即ち、諭理の公式は命題の憲味については何ものも断定するものでなく、たんにか1る音味の結合のさ れ方を示すものとするならば、瀞味の論理的分析に塞く在験主菜というものは不節会ではない事がわか
るe
そして、この哲学の仕事は当然二つの部分に分れる。即ち形而上学から解放された科学的方法の基礎 付けと形而上学によって科学や哲学に導入された償せの概念を排除するという事とである。光来、形而 上学に対する不信は形而上学そのものと殆んど起源を等しくしている。古代の偉大な哲学はいつも棟疑 諭の形でその批判的反動を引起している。中世に於いてこも、公認の形而上学の明らさまの批判は禁じら れていたがラディカルな反形而上学的運動が相当広く行われていた事は疑いない。近代に於いても形而 上学的哲学は凡て同じ様に雷大な批判を受けている。そうした批判の仕事をやった・最大の哲学者はビュ
ーAである。従って、ビュームは諭哩塔験主義の筍∴の仕事に対する組であると見るが出怒る。塀繹的
形而上学に対する徹覆した批判はヒュームとカントにその功績が帰せらるべきものだろう。
併し、諭哩の機構を明かにする点ではビュームは無力である。従って、現代の論理怪険主義の経験主 義的慣向はビュー・ムに帰着さす事は酢乗るが、その論理的基礎は別にある。むしろ、ライブとツツの願 額な方法にさかのぼらせねばならない。論理の命題の構達は近時微寒的に分析されているが、この方向 への第」歩を印した者はライブニサツであった。糠は理性の眞理と暮雲の置現を区別し、この理性の虞 理即ち諭理の虞現の基本的な性質を強調している。即ち、凡て分析的命題の述語は主語に包含されてい る事を示す事が出乗るというのである。事実展哩と理性眞哩の区別と理性眞理の分析とは職をビューム とは机の論理歴験主議のj阻とするものであり、この方向こそ論理経験主義の第二の課題を解決する鈴と なるものである。
さて、ライプニッツに瑞を発する玲理の方向は十九世紀に入ってブール、ド・モルガン等の記号論理 学に発展し、二十世紀に入ってラッセル等の研究となり、記号論理学が新哲学のオルガノンとなるので
ある。Principia Mathematicaは論理学発輿に−新紀元を劃したものといえよう。
続いてラッセルの弟子ヴィトゲンシ3・クインはPrincipia Mathematicaを最も価値ある記号言語 だと考え、論理と経験との間の本質的な結合がなされて璃めて論理がその匡理性を央う事なく経験に対 する通庸可能と意味とを碇樽し得る等を悟った。これは命題一般の性曙並びに論理命題の性質の研究に 導く事になった。その成魔は今夜の主管TractatusLogico−philosophicusに見る事が出来る。 ヴィ トゲンシュクインの研究は構稗言語の規則を構成しようとする企とも見られるし、Principia Mathe−
matica を理論的に完全な言語に対する最初の研究と考えて取救っている限り、それの批判であるとも いえる。叉、それは形而上学を言語の翰理の誤解から起った誤謬と見る限り形而上学の批判でもある。
(3J論理経験主菜を最も完杢な形に押し進めその中心勢力を構成したものはWienerKreisである。
WienerKreisの哲学は玲理的方法により樹立された鞋験主義である。記号論理学の発展並びにヴィト ゲンシュタインその他の人々によるその批判的分析は踵険主義というものが従来の如く心理学的分析に よるよりもむしろ論理的分析に堰いて始めて堪礎付けられ得るものである事を数えている。この考が Wiener Kreisをも支配している訳である。
さて、外見上経験的でない命題は経験的命題に還元可能であるか単に無意味であるかである。経験的 命題に還元可能な命題は有意味であるが、それを分析して(工)矛盾に陥ったり(2)何の決定も与えられ ない要素を持つ命題即ち還元可能であって、不確定の命題に導いたり(3)又は論理的Syntaxの規則 を犯す形式を持つ命題に導くようなものは無意味である0併し、経験的に決宅出額ず、それにも拘らず 何らかの意味を持つと考えられる故に特殊な場合のものと考えねばならない命題もある。この様な命題 が論理及び数学の命題である。この種の命題は経験的等凄記述の図式になるのであって、それ自身では 何ものをも記述するものではない。
この考方を押して行くと論理按本来分析的なもので綜倉的なものは凡て経験に由来する。分析的なも のは自明的であり、ア・プリオリである。踪合的なものけア・ボステリオリであるが知識拡張的である
という事になるのである。
この様な考方は諭理慮験主義に属する現代哲学に共通のものである。舞えば BerIiI】erKreis,Iwow WarsawGroup,Pragmatist及びOperationalist等皆然りという事が出来よう。その外UppBala Kreis∴M血或erKreis,Kaila∴Uorgensen等皆この考方と見る事が出発る。
Ⅱ
さて諭理経除主義の主張が以上の様であるとするとカントの先天綜合邦断の存否は彼等の研究の−・つの
課題とならなければならない0カントは先天踪合抑断の存立を特に数学、純粋物理学に見田しているが、
ラッセル且数学の分析的性質を明かにして、その本性は分析にある事を主張している。数学は論理に外 ならない。しかも、カントの死後直ちに発展した茂何学の進捗は茂向学が任意の公理に塞いていくつも の奮合的な体系を樹で得る事が明かになった。従って、ユークリッドの茂向学が自然の康何学だという 訳にはゆかなくなった。どの旗何学が自然の幾何学であるかは自然研究の結果、即ち、自然観寮の結果 によって始めて明かになる事である。それ故に、数学的茂向学郎自然援何学というテーゼは成立たなく なった。アインシュタインの相対性原理はユークリッド雰間でなく、リーマン笠間が却って宇宙の姦問 である事を明かにしている。叉、数の数学でも数をいかなる方法で樹てるも一対一の対応が成立てば宜 しいのであって十進漁の様な数の体系は決して先天踪合でない事を明かにして舜た。叉、自然科学に於 いてもニュートンの物理学に於ける様な花村的因果性の体系は成立せず、十九世紀以東確率的法則の概 念が導入され、現在の量子力学では自然界成立の墜礎的法則を確率的なものとして来た。これ酬奇問、
罫問、自然についての先天綜合判価の崩壊を意味するものに外ならない。
IV
数学はギリシャ以来実に合理主義の最後の柁牌であった訳であるが、十九世紀以後それが却って合理 主義成立の土台をゆさぶるに至っているのである。叉、諭理学者の論理的研究はアリストテレス流の主 辞賓辞の論理学を打破して関係の論理、命題曲数の理論を展開して来た。その結果、論理は与えられた 与件を関係づける機能が本来の機能で、論理は内容を生産し得ないものであり、その本性匪分析的であ って綜合的ではない事を明かにして釆た。(綜合的とは報知的であり、分析的とは自己説明的の音昧)
さて、カントは倫理、認識の平行論的な考方を取っているが、この平行論が却って倫理学の崩壊に終 る事を予測する事が出来なかったのである。私の内なる遣庶務が星の輝く益が私にあらわす法則と同 型のものだとすれば、それは人間の行為についての経験的な叙述であるか数学的定理の様に倫理的公 理と結論との問の包含関係をあらわす益虚な叙述であるかのどちらかである。いずれにしてもそれは Kategorisch ではない事になる。それ故にカント倫理学の枕木碓点は認識の場合と同様に理性が先天 的綜合的命題を樹で得るとする所にある訳である。
Ⅴ
先天綜合邦断のない事が明になれば合理主菜は崩壊せざるを得ない。従って、諭埋経験主義の研究は 合理主義の倫理学に対して否定的な答を出している訳である。併し、我々は明かに道徳生活を営んでい る。この人間生活の道徳倫理の事実に対する筑樋的な理論はいかなるものであるか。これに対する論理 経験主義の立場はやは恒丘代科学の分析からその結論を出さんとするのである。
倫理学が知識の一形式であるとすれば遺徳哲学者があって欲しいと思うものにはならない。即ち、それ は道徳的指示を与える事は出乗ないだろう。知識は綜合的陳述と分析的陳述とに机つ事が出来るが、綜 合的陳述は事実に関するものであって、あくまで経験的である。分析的陳述の方は笈虚である。従って、
倫理学が一枝の知識であるとして、それが綜合的なものである場合には事実の学として色々な民族、国 民、社会階親の倫理的習慣の学となり、記述的倫理学として社会学の一部となるべきもので、規範的な 晋味は持ち得ない。叉、分析的なものである場合には、それは基底であって何をなすべきかを教える事 は出釆ない。例えば有徳な人とは常にその行為の椿事を一般的立法の原理となるように選む人と定義す
る場合、これで有徳な人とはいかなる人であるか按分るが有徳の人たらんと望むべきであるという署を 証明する事は出釆ない。倫理的命題が分析的であるならばそれ揉道徳的指示(moraldirective)
ではない。
(4J
規範的な倫理学を認識の甚礎の上に箕かんとした二千年雫の努力甘知識の誤解に葛いている。即ち、
知識が規範的な部分を含んでいるものと考える考方から来ている。このような課を犯させたキな原因は 数学の誤解に塞いでレ、る。プラトン以来カントに至る迄数学は自然界を交配する理性の法則の体系だと 考えられたのであるが、この様な先天的綜合的矧塀の考から数学の法則に仮定される様な客観妥当性を 持つ道徳の命令を理性が我々に命令する事が出乗るという考方へは僅かに一歩の茎に過ぎない。数学と いうものは自然界の法則を与えるものではなく、凡ての可能な世界に成立つ茎虚な関係を規定するもの にすぎない革が分れば、認識的な倫理学に現された余地はない事が明かに分る。知識そのものは本釆命 令を与える事の出乗ないものであるから、倫理の形式を与える事が出来ないのである。
一体倫理の認識的解釈は倫理関係を引出すのに論理と知識を使う所から出て乗るのである。この目的
摂
を欲するならば、患飴はこれこれの事をしなければならなヤト一一こういう関係は認識的証明 には近づ き易い。
洪 認識的証明というのは例えば物理学や社会学等の法則と一露に論理の法則を使ってなす証明である。収蓬を 待たいと思えば博子を晋かねばならないというようなものて㍉.これは植物学の法則を使って証明される。
極めて沢山の倫理的諭尊が巽はこのような関仁和こ開している。道徳問題を樗細に観察するとそこに見出 されるものは多く削勺と手段との関係であって、この関係を除いては道礫的必然はない。それ故に、我 々は道徳問題を検討して行く時、或る基本的な目的を満足させようとするならば、その日的に対する手 段という憲味で、その日的に従属する他の目的を邁究しなければならない事を発見するのである。この 点を明かにする事は諭理的な性質のものであって、目的は諭理的に手段を要求するという革を示すに外 ならない。倫理的洞察を語る哲学者は目的と手段との間の関係の玲理的明証性を公理の自明性と捉同し
て:レヽるのごある。いかなる道徳的諾諭も少くとも一つの前程は持っている。合理主語の哲学はそれを公理と考える、そ して、この肝畦(公理)とその他の道徳的規則との問には日的一手段の論理的関係が成立つとするもの だろう。所が倫理的公理はいかなる眞埋ごもない、従って、必然的屋哩でもないのである。倫理の言語 的表現は陳述ではなくて指示(directive)である、命令である。命令は一般に眞偶の範疇には入らない とするのが諭理経除主義の寺.張である。
こiで一一般的に指示(directive)従って、命令というもの1性質を考えYZ:見る事にする。賓要な指 示命令は命法によって与えられる。これは自分に対するよりも他人を指導するために使うのが普通であ
る。「ドアを閉めよ」という陳述は展であるか偶であるかと問う事は無音味である。これ政吉実をしら せる命題でもなければ、反復知ち論理の命題でもない。合法には虞鷹が適用されないものとすれば、そ れは何であるか。それ腰他人に影響を与える(即ち、何かをさせたり、して貰いたくない)音図で使う 発言である。併し、この言語的発言が我々の音図の必要条件ではない。相手の手を取って導いてもよい 訳であるが、人間というものは音志の道具としての言語に反応するように条件づけられている事等を利 用する方が便利だからその様に言語に頼るにすぎない。
併し、命令が発言される時には、常に人の育志についてしらせる相関命題がその蓑にある事は聞達い ない。「ドアを閉めよ」という命法の賽シこ掃こ「×氏はドアが閉っている事を願っている」等という記述 命題が対応しているのである。この命題は眞償いづれかであって、他の心理的舟題と同様にテストする 事の出乗るものである。時には、この租開命題を命令の代りに使われる事もある。とに角命法は展でも 償でもないが、他人に理解され、従って、道具的甘味を持っている。(道具的意味は認識的意味とは区 別されねばならない。)その上に、命港は凡で相関命題で与えられる認識的相関項を持っているのであ る0 .
日分の発する命法はそのものとして放置でも償でもない自分の音志の発現である。躍って、それは曹
志的な発言である。芳志作用は様々な対象に関わる事が出乗るが、我々の中に首志作問を見出すのは当 然である。而して我々に選択の余増を鍔している点で知覚や論理的法則と且興るものである。私は凱場 へ行く事も行かない事も出来る、行くのは私の意志によるのである。我々が果して選択の自由を持って いるかどうかという事は別種の問題である。こ1では単純に我々の行動を指揮する音志決定は我々がす るのだという心理的事等を承認しておけば足りるのである。
さて、意志決定が他人によってなされる行為に関する場合にはそれ且命法の形を取る事でなる。命按 の発せられ方は色々であって、時には力による強請によって脅かす様に発せられる。例えば、政府の楕 カとか指揮者の権威とかによって発せられる。この場合にはそれ融旨逮命令である。時には願望の形で 発せられる。これも余技の一環である。「どうぞ梗草を−木下さい」というようなのはこれであろう。
命令が我々に対して命ぜられたり、願望が我々にあてて弄せられる場缶には、即ち、我々が舟法を受 取る側に立つ時には、我々はこれに対して積極的叉は否定的に反応する。環榛的な反応は我々の側に於 けるその命法を実行しようとする意志作周に成立つのである。否定的な反応はその命法を寒行するのに 反対する意志作用に成立つ。命法によって表現された者志作用に対する秩極的な反応は受取る側に生じ た開放の二次的音志作用に成立つのであり、反応が否定的である場合は二次的な意志作用が一次のもの に反対している訳である。
我々は他人に対する命令には命令法という文接的な形式を持つが、自分に向けられた命令にはそうい う言語形式は持たない。従って、我々は自分に対する命令を「私は‥‥・・…します」という文章の様に命 令の提出について知らせる叙述文の形で表現する。時カは他人について語っているかの様に命洪形を便 つで「………せよ」という事もある。これは命令を受ける側に適用される記号漁を自分自身の方に移し て、自分に与える金津を適して我々自身の中に起る二攻的な意志作用について語るのである。
以上の考察悠認識文章と命令との区別をはっきりとさせる。詔.汲文章叉は命題を与えられて、それに 同音する場合には、我々はその文章叉は命題を展と考える事を意味して「然り」と言う。新が「番者は 発い」と言われた時に、我々は「それは正しい」と言って我々の同音を表すのである。との場合この窟 昧しているのは「香春は悪い」と言ったへの意志がその言某で表現されているのであって、賓者がなけ ればよいと思うとその人は言ってレ・るのである。我々の答はそれに対応する命令であって、我カも寄者 がなければよいと思うという事を意味している。命令に対する積骨的な答は認識的な肯定ではない。韓 手が話手の意志を煩っている事を示す発言に表別した二次的な意志作用に成立っているのである。
以上は大体一般的な指示叉は命令に関するものであるが、衆に道徳的指示叉は道徳命令と呼ばれるも のを見る事にする。
道徳命令の一特徴はそれを合法と考えて我々自身それを受取る例にあると感する事である。従って、
我々の意志作用を二次的のもの、何か高次の棒威によって与えられた命法に対する反応と考えるのであ る。この高次の権威を神その他色々のものと考えて説明するの枕絵言葉による解釈である。心理的に言 えば道徳命令は我々が他人だけでなく自分にも適用されるものと考える去韓感を伴う意志作用として特 徴づけられる。それ故に、例えば、必要な場合には貧乏人を助ける事が我々の蓑鞠であるのみでなく凡 ての人の義戦だと考える。道徳外の意思の冒的は義預感情を伴わないのである。実に道徳命法を他のも のと区別する所以のものは一般に義薄の感情である事はカントの教える所である。
道徳的意志が二次的音志として、即ち、責務の表現としてあらわれるという事実はどう説明されるか。
論理鞋験主義の立場ではその唯一の可能な説明の仕方は、これらの意志は我々の属している社会集団に
よって我見に課されたものだという事、即ち、集団音志だという事である。この様な起源がそれの超個
人的な成績と環徳的決断をなす場合の服従感をよく説明する。
我々が反社会的と考えている倫理も街集団倫理である0従って、犯罪者も鏑磯等の集団の倫理を持つ のである0ニイチエの超人ヤマユアベリの君主の様に完全に個人主義的な倫理は棲めで極端な場合であ って、この様な倫理体系は紙の上以外で行われた事はないと言わねばならない0これは集団意志から心 理的に引出された権威を唯一の尊敬さるべき個人と考えられる一人の人に移した考方に外ならない0
我々の社会生活の倫理は様々な階管の集団倫理の集合物である。例へぼ日本古来の民族的倫理+階級 的倫理+倍数倫理+西洋的倫理+キリスト教的倫理十……0従って、今日社会の凡ゆる道徳的法則を満 足させようとする人慾直ちに倫理的葛藤に直面せざるを得ない。いかなる倫理学の体系も我々の複韓な 道徳生活に快刀乱麻をたつ様な明快な解決を与える事は出来ない。併し、倫理学の体系によって人間行 動の準則を明かにする事が出来なくても、道徳の事実を明かにする革は我々の要求せざるを得ない事で ぁる。道徳の事実を明かにする事によりamoralismに対決する事も出よう。それならば道徳の事実は いかなる塀に成立つのだろうか。
この問題を明かにするために道徳命令の−特質と見られるSollen,erSoll,dusollst・というものi 分析をして道徳命令の本質を研究して見る事にする。この点についての分析についてはH・ライへンバ ッハの分析を借用しつ1見て行き慶い。
ライへンバッハによればSつllenには二つの興った晋味が考えられる。
第一一は包含的意味(implicationalmeaning)である。これは我々が今問題にしている人が或る目的 を択んだ事を知って、この目的が考えられている行為を含んでいる事を言わんとするものである。例え ば「×は喫悼してはならない」と言うとする。これは×の生理的状態のために、叉は、生理学の迭則を 使って、健康たらんとする目的から彼が契噂してはならない事が引き出されるという事を育醸しているe 即ち、喫噂しないという決断骨健艇に生きんとする決断に影響されている。だから、この様な決断は影 響決断(tntaileddpciSion)と呼ばれる。この様な影響鞘、時の義預は包含型のものであって、道徳的 義預でなく論理的義務を表している。
第二は話者の側に於ける幸観的命法の意味である。話者である私が、彼叉は汝がこれこれの事をする 罫を願うのである。この解釈によれば道徳命令は話者に対する欠くべからざる関係を含んでいる。これ は話者による意志放電の表現である。この考方だ探れば道徳命令の意味から話者を排除する事は出来な い。「彼は‥‥‥すべきだ」という句は隠蔽された形で「私は意志する」という句を含んでいる。この点 からは意志の倫理学が出て乗る。
「彼は嘘を言ってはならない」とか「嘘言は道徳的に要だ」というような表現は償せの客観的表現で ある。実際は話者の態度が表現されているのである。「彼は‥‥‥べきだ」という句法話者叉は話す作用 に関係して、様々な人の口で様々な意味を伝える「私」とかl今」という様な用語に比較出来る。この 様な用語は記号反射的(token−reflexive)と呼ばれる。tOkenという語はSignの個々の例を表して1ハ る。二人の人が同じ言葉を発する場合、二人は各々異ったtokeIl 即ち、その言葉の異った例を発言し ているのである。通常は具ったtoken が同じ意味を特つのであるが、その名帝が記号反射的である場 合には、そのtOken の各々は興った意味を持つ事になる。二人の人が「吉田首相」と言う場合には二 つのtoken が同一人を表している。所が、二人の人が「私」と言う場合にはこの二つのtoken は興 った人を表している。反射的(reflexive)という語はtokenに対するこの様な意味の関係を示してい る。この第二の意味のSolle11,命法は記号反射的のものと考えてよい。この場合に融同じ命法でありな がら、その認識相関項は等しくない。即ち、其った人によって発せられた二つの同一の金波は臭った認 識相関項を持つ事になるのである。
さて、Sollenの包含的意味のものは道徳的前提乃至道徳的公理のために使う事は出来ない。それは
43
連射勺前橙が包含関係を表わすものでなく、命令だからである。従って、それが己号反射的なSollenで なければならない。この昔味のSollenが猥繹によって前塊から各倫理的規則に移されるのである。こ の意味の壇移を理解するには帝埠の眞理を緒論へ移す認識領域の演繹を考えればよい。翰緒が断定され なければ結論も断定されない○同様に、倫理的前提が非包含的であり、それ故に、記号反射的なSollen の音味に於いて命令として進められないとすれば、倫理的緒論も命令の性格む持つ事が出来ないであろ
う。
時仁はSollenの二つの潜味が結合されている場合もある。この場合には記号反射的なSo11enで進 められた前提に関係する包含的なSollenが断定されるのである。このSollen の二賓の晋味ははっき りと区別されねばならない。この場合には包含的Sollenが道徳的育味を持つのであるが、それは関係 している人の前提と考えられた命令が話者によって支持された道徳命令だからそうであるに過ぎない。
包含的音味のSollenの道徳的音味はこの場合意志的意味のSollen に還元出来るのである。話手にそ の命令の音志が頒たれていない場合には、そのSollenの道徳的音味はなくなる。例えば、「ヒツ1トラ ーはパリを占領せずに英国に侵入すべきだった」と我々が言う時、これは英国に先づ侵入する事がヒッ
トラーの心にあったゞろうという事を音味し、それ故に、包含的Sollenを意味するのである。我々が ヒットラーの削勺、即ち、当時英国を打ち破るという巨摘勺を煩っていなければ、このSollenは道徳的 命令としては使われていないが、併し、我々が彼と同じ様に英国打倒を削勺として、この言表をしたと すれば道徳的命令となるのである。この例は話者に対する関連がSollenの道徳的音味と不可分である 事を明かにLでいる。道徳的音味のSollenは記号反射的である事を認める事が倫理学の科学的分析の 欠くべからざる基礎である。
Sollen の主観的関係を免れる君国でSollenに対し第三の解釈を試みる人もある。この解釈では Sollen の棍充を集団の意志に見るのであって、初えば「彼ほ……すべきである」という事は「‥…・を なす事を集団が望んでいる」という程の音味だとするのである。この場合には道徳的義預から主観性を 排除しているように見える。併し、この場合にもその昔味が前盲己二つのどれかに還元出来君、場合にだ けSollenの育味が出て乗るのである。我々は先ず集団意志を簿敬する事に関心を持っている其の人の 音志からその行為が出ている場合に、この「彼は‥‥‥すべきだ」を使うのである。この場合には、この 句は箪−の解釈たる包含的晋味を持っているのである。第二に我見が集団意志を頻っている場合にこの 句を使う。しかも、この場合にだけ、この句は道徳的義務を表すものとなるのである。例えば、或る犯 罪者が共犯者を裏切る場合に、その集団がそのような行為を罰するだろうという事、従って、その集団 に属する誰れもが「彼は語るべきでなかった」と言うにちがいない・事を我.々は知ってコハる。そこで、こ の我々がこの句を発言する場合には、我々は包含的なSolleIlを使って、獣っている方がその犯罪者の 利益だったろうに(自分の属する集団の復等行為を受ける事なくすませるから)という音兄を表明して いるのである。併し、道徳的判断の音味で、この句を発言するとすれば、我々は自分の集団を守るのが 人の道徳的義預だと考えるという事を言わんとしているのである。この場合には、それは記号反射的で あって話手の音志の表明を含んでいるのである。
以上のライへンバッハの分析は遺徳命令は本乗音志的性質のもので、話手の意志的決断を表している 事を示している。この結論は我々の晋志を超えて意志を規定する客観的な普遍妥当の原理はない事を示
している。従って、もはや自分の意志を確立すべき確固たる根拠はないように思える。従来の哲学者達 が認識の必然性の類此物として理性の法則の強請力叉はイデア直観の強請カと考えたものは集団晋志を 受取る側に生する義務感だったのである。この比論は詳細に検討する時、前述の様に破れざるを得ない。
屈の遺徳は自己の意志に頼る所から生れる。歪められた道徳玲だけが我々の音志が他の源泉から出て乗
44
る命令に対する反応でない時に、それを悪と断定するにすぎない。
併し、道徳命令が青嵐考究の事柄であるとすれば、何人軋勝子に自分の遺徳命令を樹で1も正しい事 になり揉しないか。しかも、遺徳命令として他人に対してもそれに従はねばならない事を要求するのは 矛盾ではないか。命令の意志的解釈は道徳のアナーキズム、即ち、各人が自分の欲する新をやって宜し いという結論虻導くではないか。
この間の事情を今少しく分析して見る必要がある。私が「或る人が或る仕方で行為すべきだ」という 合法を樹てるとする。これに対して上の主張即ち道徳のアナーキズムは「レ、や、彼は自分の欲する所を やって宜しいのだ」と黄海する事になる。この「宜しい」は私の命法「べきだ」の反対である。即ち、
私は自分の命法を樹てる権利はあるが、普遍的義預、即ち、他人に対する命法を樹てる権利はない事を 主張している。併し、「誰々は、権利がない」という文章は認識文章ではなく「誰々はこれこれをなす べきだ」という事を意味する命法である。それ故に、このアナーキズムの反論は一つの合法で私の主張 に答えている事になる。私が他人に対する命法を樹てるべきでない事を命令しているのである。この命 令を基礎づけている極利は何eあるか。それは道徳のアナーキズムを主張する人のその意志に塞いてい
る。私の音志に反対するにその人は自分の意志を以てしているのである。
こ1の新虹極めて大切と考えられるから、今少しく吟味して見安い。先ず「誰れも、権利を持つ」と いう文を考えて見る。碍一一にこれは法の構成は誰の活動も酢限しないという事を音昧し得る。これは認 識命題であって、上記のアナーキズムの緒諭の意味するものとは異っている。即ち、「二置億命令が音志 決定の事柄であるならば法的権威は誰の活動も軋限しないだろう」という命題は道徳のアナーキズムの 言わんとして1ハるものではない。希二に「詰れも、徳利を持つ」という句は何人の活動も制限さるべき でないという事を意味し得る。この「べきでない」は舟渡を表し、前の分析によれば二つの意味を持つ
事が出来る。第」の晋味は話者によって与えられた合法の音味である。即ち、「道徳命令が音志決定の 事柄であるとすれば、私は何人の活動も制限さるべきごないと主張する」という事になる。この場合に は、単に論理的関係を樹て二日ハるのでなく話者の意志を表明している事になる。「べきでない」の第二 の意味は額繹的舟法に導く論理的関係を示す甘味の虻のである。即ち、「誰かゞ遺徳命令は菅志決定の 事柄だという原理を固執するならば、その人は何人の活動摘l二匹さるべきではないという命法を固執す る事になる」という事である。これは妥当な推理ではない。何故なら、港かゞ或る目的を欲し、しかも、
他人がこの目的に反対する様な活動を取扱される事を望むという事は完全に再会的だからである。元兼、
「何人もその活動を制限さるべきでない」という事が演繹的舟渡であるのならば、それは他の命法から 演緯されるのでなければならなない。所が、その前提になっているのは「道徳命令は意志決定の事柄で ある」という認識命題にすぎない。この認識舟題からはいかなる合法も引出す事は出来ない。余技は他 の命法叉は認識命題と結合した金浜からだけ引出す事が出乗るのである。認識命題だけから引出す事は 出来ない。それ故にこの推理は不可能ごある。
道徳命令の意志的解釈は話者が凡での人に各日の沢宝に従う栴利を許すべきだという結論には導かな い尊が以上で分る。例へぼ、私が或る意志的目的を樹て1、他の人々も之に従うべきだと要求する場合 に、この要求は不合理だといって論理的に反対する事はrIl来ない。たゞ、「誰れでも自分の欲するもの をなす低利があるのだ」という別の舟渡を樹で1反対する事が出来るだけである。私の倫理の体系を不 合理として、論理的に何人も自己の欲するものをする権利を私に許させる事を証明する事は出来ない。
論理は私が何事かをなすように強請するものではない。私の樹てる命令は倫理道徳についての私の考方 の論理的結論ではないのである。叉、論理性どのような舟渡が凡ての人に対して義務的であるかを教え るものでもない。私は自分の倉法を忍の意志として樹てるのであり、個人的命令と道徳命令とを区別す
45
るのも私か意志つ事柄である。遭慾存命と禁私が弟男のために必要と考え、何人もこれに従って行動す る事を私が要求する命令である。
道億がいかなる新に成立ち、道徳性とはいかなるものであるかむ分析して見ると以上の様な結果にな る。この轄果且甚だ人を失望さすもの1様に思える。併し、我々が同じ人顆に属し、同じ歴史的社会的 制約の下に生きている限りは、その意志する所はそれ程ちがったものにはならない。我々人間は凡て整 史的社会的産物である。従って、その意志する新が一致して来るのがむしろ自然である。
それにも拘らず、道徳性の本質は如上の様なものである。これが論理篠験主義の立場からの帰結であ ろう。而して、論理経験重義というものが民主々義的社会の産物である限り、それは極めて民主々墓的 な根本的原則へ導かれる。
なにびとも自分自身の道徳合法を樹で、なにぴともとの倉法に従うべき事を要求する権利を与えられ てレ、る。
この原則は各自の意志に綴れという事である。勿論、人間の善意の上に立って始めてこれは立瀕な道 徳原理であり得る訳である。併し、これは純粋理性から引出されたものでなく、民主々去国象の几ゆる 政治的社会的生活の基礎にある原理を規定しているにすぎない。従って、厚史的社会的状況の如何によ っては変化して行くものである。
さて、以上の所論の帰結を今一度まとめて見ると
(1)我々の樹でる遭應命令は倫理学についての我々の考方の論理的帰結亡はない。
(2)論理はいかなる金浜が凡ての人に対して義務的と考えるべきかを教えはしない。我々は自分の会 誌を自分の意志として放てるのである。道徳的命令か香かも我々の意志の事柄である。
(3)道徳命令とは私が集団のため必要と考え、何人もそれに従って行動する事を私が要求する所の命 令である。
(4)何人も自分自身の道徳命令を樹で、凡ての人がこの舟法に従うべき事を要求する臆利を有してい る。
Ⅶ
きて、現寒の人々は色々と意見を異にしている事がある。併し、この相異は哲学者の作った倫理学の 体系では解決されない。むしろ、じかに瀞兄を闘わすことにより、状況の変化、個人と環境との磨擦を 通し−⊂のみ克服されて行く。我々の道徳的評価は活動を通して形成されて行くのである。M.シユリツ クの言う様に、我々の準柁すべき絶対的な価値はない。我々は行為し、その行為について反省する。叉、
他人からの批判を参考にしつ1更によいと考えるものに従って行為せんとするのである。我々の行為は 我々の展に欲するものを見出さんとする試行である。意志の目的は通常は明瞭な直観であらわれるもの ではない。しかも、我々の態度の無意識的叉は牟意識的な背景をなしている。明かに我々の途を照すよ うに見えるものは、却って、それに達すると同時に魅力を失うものにすぎない。それ故に、虞に立派な 道徳的態度は明噺な道徳原理を掲げ絶対倫理を説く新に学ばれるのではない。却って、相争う意志によ って生活が清々としている集団社会の中で学び取られるのである。この事は、反面、或る一方向的に凡 てを決定して居る社会、重体主義的体制の社会で揉屁の遺徳は育成し難い事を示している。
道徳というものは或る状況の下に於ける主体的意志が互に楷率い柿互に摩擦しあう所に成立つ。併し、
倫理は音志の追究である反面、集団環境による意志の制約でもある訳である。個人宅叢は集団に属する 事から生する意志の満足を見落している限り近視眼的である。集団による意志の制約を有益と見るか危 険と見るかは我々がその集団を支持するか反対するかにか1っている。しかし、そういう集団の影響が ある事は認めなければならない。
46
意志制約の過程が広い範囲迄認識関係である事は疑いない。舟坊間の包含関係は諭理的に証明出来る。
而して、この色合関係の猥する役割は想像以上に大きいものである。或る二堤本的な目的が同じならば相 当に多くの道徳的論点が論理的翰点に変形される。即ち、我々の日常当面する意志決定は多くは影響決 断である。従って、道徳問題には認識的解明が大きな音義を有する事は肛違いない。政治、経済、健鹿、
性生活、刑罰等皆そうである。併し、このような認識的解明がなされても何我々の意志的態度をかえ る事が出来ない事は屡々である。これは根搾い因習、伝統になずむ心理的事実である。この様な因習や 伝統に打克って行くには認識的な結諭が我々の音恵的態度の再適応に,支えられなければならない。集団 による教育が欠くべからざる役割を演ずるのはこの点である。新しい評価が連行される環境に生きる事 によってのみ我々はそれを受け入れる事を学ぶのである。諭理的演繹が我々の基本的別勺の帰結である 事を明かにしたものを音志するカを獲得するのである。集団と結合した論理が我々の音志的態勢を組轍 する助となるのである。
Ⅶ
虞の遺徳は社会集団の要求と個人の音志とが合致する新に成立つと言って宜しいかも知れない。併し、
これは個人が集団に常に適応する所に道徳が成立つというのではない。経験≒義者は集団から多くの事 を学ぽんとするが、叉、自分の意志の方向に集団を向けて行かんとする。個人と社会との相互作柄が両 方に効果を与える。従って、人間社会の倫理的方向づけは相互順応の産物である。而かも、その鹿に動 くものは意志の磨擦である。意志の磨擦こそ倫理的進展の推進力である。それ故に、道徳的評価の変化 に於いて指導的役割を現するものは広い意味に於ける力(5)だと言う酌咄私
Ⅷ
道徳の究極は各自の一次的目的にか1るのであるが、これと二次的目的との間の包含関係は認識的の ものである。そして、この事寒が非常に多くの倫理問題を解決する。我々の当面する道徳的決断の大部 分は−一次の目的でなく二次的目的に関している。そして、必要な事は今考えられている決断が或る基本 的な目的の実現に対してなす貢献を分析する罫である。箔債的な包含関係を認識的な包含関係と分ける 事によって、この哲学はその様な関係の諸諭を排除して社会科学に属せしめるのである。倫理学の諭理 的分析は従嚢哲学的と考えられていた多くの問題を経験科学の課題とするのである。併し、経験科学も
結局認識的包含の関係を明にするだけで、人に何をなすべきかを教える事は出釆ない。はっきりした形 で選択に対決させるだけである。選択をなすものは我々の意志である。
Ⅸ
以上で天体諭埋経験主義の立場に立って道徳を分析して見たのであるが、この立場は科学的な哲学の 立場を主張し、その科学的哲学は究極に於いては道徳的命令を与える事は出釆ないという結諭になる。
併し、我々の倫理関係の中には目的と手段、目的と他の目的等色々の論理関係があって、この諭:哩関係 を明かにする事が寒際生活には大に役立つ事を主張する。そして、絶対的菅、絶対的な道徳的原理はな いのであって、人間の絶対的究極的削勺はない。獲得し得ないような目的を梯て1進む事は無益である と主張する。
耗対的な善の原理を否定して意志の倫理学を主張する点には色々同感すべき理由がある。併し、たん に意志だけで道徳を説く番には相当の無理があるようである。我々の音志が自律的に自己を:制限し一て、
他の音志と対立しつ上、他の意志を認めるという点が出て始めて道徳が成立つ。即ち、艮心の働き、更
に叉、これに基く愛の働が道徳の世界の成立つ水本条件であると思う。正反対の立場に立つ哲学が説く
心拍o&jて'/蝣byJ.iら,'i;:>.rjた1.、.,
WienerKreisの互頭SchlickもGliickfahigkeitの思想をその倫理学の中心点におきながら「か iるGluckf云higkeitの必然的条件はMotivlustとErfolglustとの分裂しない様な傾向性であって
、ォ・i口:‑̀''Jm.'・:V.・蝣'・・'蝣;.∴・こ∴';ヾ∴:∴;!:'!‑..・.蝣、∴VI・illJ‑;.・:.,し∴..!・はか しI・二‑t':'.‑∴.‑I:.‑.1こト、・;・]蝣'.'∴'・."‑‑'I、‥:目‑I‑∴二t*l‑1
Il.1‑こ
たされる革を教えている」と言っている。私はか1る傾向性こそ愛の根幹をなすものと思うMitmen‑
schenを顧慮し、凡w>る行為に戯い‑CMitmenschenの要求に適応してやる、温く考えてやる事が道 徳的性格の本質であると思う。
・r‑>.:、!∴l∴こ*/‑fi:.‑v',.,・:・.・':‑ぺ1.二、い'・:肯昔∴‑.一・蝣I.f∴I.1'l蝣.."..i'.・'.‑."・蝣・;>,、Z',!∴・・iX'、
徳は極めて困難な事態に当面しているが、醇史の進む方向を見誤らないで社会的衝動又は利他的傾向性
!i:ア了j*・::∴JL、・t:蝣'.i∴ニー∴.こ・;‑│.∴二:∴さ蝣J¥‑∴",'・";.J‑‑"・':∴・・'!l‑:']:yI,If:‑∴∴.i!‑,.'*・
あると思うのである。
註(日論理経験主養(logicalempiricism)の道徳論といっても.やはり.人によりまちまちである。今は主とし てBeichei‑bachの所説を中心として見る事にした。従って.この哲学の中心勢力であるWienerKreisの人々と は若干異なる点もあるが.最後迄形而上学的傾向を排する点で最もempiristicな主張だと考えてよいO (2)先天的綜合的判断の存否問題は中々重大なr‑j韻であるOライ‑ソバツ‑は其向から否定しているが、論理 経験主葬の立場の者でも必Lも明瞭な態度を聴らぬ者もあるC.
(3)私は論理経験主義の源流をヒユ‑ムとライブ‑=ツツにあるといったが、Kantも、この派の人々から色々 攻撃されるに拘らず、一つの源をなすも甲と考えたい。その知識諭か経験の所与とアブl)オ少の形式(論理と考 える事が出来る)から成立つ尊を主張し.知識としての形而上学を排斤している限り.そう考える事が出来る。
(4)direohiveというもC7)は事実を叙述すろものではなくヽ命令に似た性棒を持っているo何がなさるべきかを 命じない限り於いてだけ命奇と異なる。併し、permissionを許す。規則に用いられるmaybesubstitutedmay beas号criedという様な句はこのdirecもiveの性椎を表している.そこで.directiveには真偽の概念は適用されな い.その代りにdirectiveはjustiiicaもionを要するo即ち*directiveはそれが樹てられた目的に役立つ尊.即ち, 特殊な目的に刻する手段である事が京されねばならない。論理の規則はdirectiveである(JReichenbach,Theory ofpiobabilityP.24参照)これが遺徳方面に適用されればmoraldirtctiveであるmoraldirectiveの場合は論 理の場合とちがって積極的に「せよ」という意味が強くなり命令と解しってよいと思う。
(5)カは古には物理的な力即ち暴力、武力等であったか知れないが人間精神の発展は軽々のカを良開させた。
文明の進臣とは安配的力の概念が一層高次のものとなる尊だとも解せられるo従って、こゝでは広い意味に用い ているのである。
参考文献
Platon,MenonSpinoza.EticaKant,KritikderreinenVernunfl.
do,KritikderpraktisehenVernunft.3,Jorgensen,DevelopmentofLogicalEmpiricism.
Weinberg,AnExaminationofLogicalpositivism.K.Carnap,LogicalSyntaxofLanguage.
Wittgenstein,Trac紬usI‑ogico‑philosophicus.H.Keichenbach,TheTheoryofProbability.
do,ElementsofSymbolicLogic,do,TheBiseofScientificPhilosophy.
M,Schlick.FragenderEthik.V,Kraft,DieGrundlageeinerwissenschaftlichenWe∫tlehre.
B,Bussell.&,A.N,whitehead,PrincipiaMathematica.
⑳本稿は1953年10月開西大学に於いて開かれた開西倫理学会の席上発表したものi原稿である。