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「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法 則」の二重性について (1)

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(1)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法 則」の二重性について (1)

その他のタイトル Double Character of "Socialist Commodity Production and Law of Value" (1)

著者 長砂 実

雑誌名 關西大學商學論集

巻 13

号 1

ページ 23‑51

発行年 1968‑04‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021264

(2)

「社会主義的商品生産」および

「社会主義的価値法則」の二重性 について (1)

(23) 23 

長 砂 実

目 次

は し が き

第一節 『スターリン論文』以後の論争概観

第二節 「社会主義と商品生産の非両立性,価値法則否定」説 第三節 「社会主義的商品生産,市場社会主義,価値法則=『生産の規

制者』」説 (以上,本号)

第四節 「社会主義的生産の二重的性格,価値法則=補足的な『生産の

規制者』」説 (以下,次号)

第 五 節 総

は し が き

社会・共産主義経済学の体系のなかで,「社会主義のもとでの商品生産およ び価値法則」論ほ,周知のように,きわめて重要な位置を占めている。商品

・価値的諸範疇を捨象した社会・共産主義経済学の体系ほ,現在のところ,

考えられない。しかも,近年における「経済改革」が,商品・貨幣的諸関係 と価値法則とのいっそうの利用を不可欠の重要な要素としていることから,

「社会主義のもとでの商品生産・価値法則」綸ほ,新たな輪争の対象となっ てきている。ほとんどの論者が,「商品生産・価値法則論」にかんする従来か らの自己の見解を基本的に変えることなしに,それをいっそう発展させなが ら,「経済改革」を理論的に根拠づけようと試みている。見解の相違ほ,「経済

(3)

24 (24)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

改革」の評価を契機として拡大しつつある,とさえいうことができる。

もともと,資本主義から社会主義への過渡期における,また社会主義のも とでの,商品生産および価値法則をめぐる議論ほど,その基本的な論調が,

しばしば,しかもいちじるしく変化してきたものは,他におそらく例をみな いであろう。現在もなお,確固とした通説は形成されていない。わが国の社 会主義経済学研究の分野においても,事態はおなじである。

本稿の課題は,ソ連邦における新しい論争を批判的に検討するなかで,す でに断片的に主張してきたわれわれ自身の「社会主義のもとでの商品生産・

価値法則」論の基本的諸命題を確立することである。

第一節 『スターリン論文』以後の論争概観

周知のように,「社会主義のもとでの商品生産・価値法則」論争史のなかで,

スターリンの『ソ連邦における社会主義の経済的諸問題』(1952年)の諸命題 は,画期的な意義をもっている。それらは,つぎのようなものであった。 (1) 社会主義のもとでの商品生産の必然性を規定するものは,社会主義的な社会 的所有の二つの形態の存在である。 (2)商品生産の範囲は基本的に消費物資の 生産と流通に限られており,国家セクター内で生産され流通する生産手段ほ 商品ではなく,商品としての「外被」を保っているにすぎない。 (3)価値法則 の作用範囲は厳重に制限されており,それは生産の規制者の役割を演じない。

(4)商品流通は社会主義から共産主義への移行の展望と両立しないものであり,

しだいに生産物交換を発展させるべきである。

〜これらの諸命題は,当時,高く評価された。しかし, 1956年からの論争は,

これらのほとんどを,大きく修正するか,あるいは投げすてていったのであ 「スターリン批判」以後の論争の第1期は1956 1959年である。この時 期には大規模な学術討論会がいくども組織され,多くの論者が自説を自由に 展開した。この時期にあきらかとなった諸論者の見解の相違ほ,基本的に,

現在まで尾をひいている。第2期は19601962年である。この時期には,社 会主義と商品生産および価値法則との非両立性を主張したイ・マルィシェフ

とベ・ソーボリの見解をめぐって論争がおこなわれた。

(4)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂) (24) 25 

この段階までの,論争の内容を,上記のスターリンの諸命題と関連させて 概観すれば.つぎのようになるであろう。・

第一に,商品生産の必然性の根拠にかんしては,社会的分業と相異なる所 有形態の存在(基本的には社会主義的所有の二形態)にもとめる見解(カ・

オストロビーチャノフなど),全人民的所有と直接に社会的な労働との未成熟 性にもとめる見解(ヤ・クロンロードなど),の二つが有力であったが,ほか にも,「占有」を重視する見解(ペ・ザオストロフツェフ),労働に応じた分配 にもとめる見解(エム・コルガーノフなど)などがみられた。

第二に,生産手段非商品説は少数の例外(イ・コゾドーエフなど)を除い て,一般にはもはや支持されなくなった。しかし同時に,•生産手段にかぎら ず社会主義企業の生産物一般の商品的性格を基本的に否定する議論が,一連 の論者たちによっておこなわれた(イ・マルィシェフ,、べ•‘メーボリ,エヌ

・ヘッシン,ア・ユートキン・ア・カシチェンコ,ゼ・アトラスなど)。

第三に,価値法則の作用範囲は消費物資の生産と流通にかぎられず生産手 段のそれにもおよぶことが一般に承認されたが,価値法則が社会主義的生産 の規制者ではないという命題は堅持された。また,一部の論者は,価値法則 の作用を否定した。

第四に,商品・箕幣的諸関係の発展ほ共産主義の建設に矛盾するどころか,

むしろ共産主義への移行の諸条件の創出に奉仕するものである,と一般に理 解されるようになった。このことは, 1961年採択の『ソ連邦共産党網領』の なかでつぎのように表現された一ー「共産主義建設においてほ.社会主義時 代の商品・貨幣的諸関係に固有な新しい内容にしたがって,この諸関係を完 全に利用しなければならない」_。

この論争は19621965年のいわゆる「利潤論争」によって中断された(あ るいは.「利潤論争」という形で継続した.ということもできよう)。

そして,現在は,論争の第3期である。この時期の論争・(1966)の特徴 は,「経済改革」を与えられた事実としてうけとるという共通の基盤にたちな がらも,その理論的根拠づけにかんする左右の偏向をめぐって, iまげしい理 論闘争がおこなわれている点にある,とわれわれは考える。このなかで,「社

(5)

26 (26)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

会主義のもとでの商品生産・価値法則」論ほ,新しい展開をみせつつある。

論争は二つの焦点をもっている。一つは,社会主義的生産の商品生産的性格 をどのように把握すべきかということであり,もう一つほ,価値法則の「生 産の規制者」的役割をどのように,どの程度に承認するかということである。

そして,われわれは,この論争のなかに,つぎの三つの重要な流れを区別す ることができる。

第一の流れは,社会主義と商品生産との非両立性を主張し,価値法則の作 用も本質的には認めない見解である。エヌ・ヘッシン,ア・エリョーミン,

ゼ・アトラスなどがそのような論者である。

第二の流れは,いわゆる「市場社会主義」説とよびうるものであって,事 実上,価値法則を「生産の規制者」とみなす見解である。エリ・レオンチこ フ,イ・コンニク,ゲ・リシチキン,エヌ・ペトラコフなどがその論者であ

第三の流れは,社会主義生産の二重的性格を説き,価値法則の補足的な

「生産の規制者」的役割を承認する見解である。これには,エヌ・ツァゴー ロフやベ・チェルコベツなどの一派のほかに,ヤ・クロンロードやペ・ザオ ストロフツェフなどの論者が属している。

第一の流れが,「社会主義のもとでの商品生産および価値法則」の意義の過 小評価を特徴とする「左」翼的偏向であるとすれば,第二の流れは,それの 過大評価を特徴とする右翼的偏向であり,第三の流れほ,いちおう,正統的 な見解とみなすことができるが,その見解は,論者によってけっして一様で はない。そして,これらの見解は,それぞれ,長所と欠陥をふくんでいる。

以下で,われわれの問題意識から,それぞれの見解を順次に批判的に検討し,

そのあとで,われわれの「社会主義のもとでの商品生産および価値法則」論 の諸命題を総括することにしよう。

なお,以下での検討にさいして用いられる文献を,主要なもののみ,論争 の時期別(および主要見解別に)一括してしめしておこう。以下での引用そ の他ほ,この文献ナンバーによってなされる。

(6)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂) (27) 27 

(1956 1959

1.  3aKOH CTOHMOCTH H era HCilOJlb30BaeB HapoHOMX03CTBeCCCP. 

rocnoJIHTH3aT.1959. 

2.  3aKOH CTOHMOCTH H era pOJJb npH coaJJH3Me. foea3,ZJ;aT.1959.  IT. (19601962

1.  11.  C. MaJJhlweB, OomecTBeHHbIH ytieT TPYaH ueHa npH coaJJH3Me. COU9KrH3. 1960. 

2.  B. A. Co6oJJb, QqepKH no BonpocaM 6aJJaHca  Hapo.n;Horo xo3CTBa. roccTaTH3aT.1960. 

3.  3KOHOMecenpo6JJeMbl  nepexo.n;a  OT COUHaJJH3Ma K KOMMYHH3Ma. 

Blll.  1960. 

4.  51.  A. KpoHpoeHbrHB couHaJJHCTecKoMo6mecTBe.  roeHH3

aT.1960. 

5.  K. B. OcTpOBHTHOB,CTpOHTeJJbCTBO KOMMYHH3Ma H TOBapHO噴 紐e eOTHOWeH皿. rocnoJIHTH3aT.1962. 

6.  JI. faTOBCK雌, M.CaKOB, npHH皿 皿aJJbHOHOCHOBe 9KOHOMeCKHX HCCJ!eOBaH雌. ≪KOMMYHHCT≫,1960,婦 15.

7.  11.  MaJJbIWeB, B.  CooOJJb, ・ Hay OHOCHOBe H3ytieH conHaJIHCTH qecKOH 9KOHOMHKe.  ≪KOMMYHHCT≫, 1961, 8.

8.  110  IlOBO.n;y  CTaTbH 11: MaJJbIWeBa, B.  CooOJJ.SI.  ≪KOMMYHHCT≫, 1961,  M 8. 

]I 1966 ) 

A. 1.  H. XeccHH, Bonpocbl TeopHH TOBapHoro npoH3BOCTBaB Tpy.n;ax  B. l1. JleHHHa.  ≪BecTHHK MY≫, 1967, M 3. 

2.  A. EpeMHH, K Bonpocy o MeToOJJOrHHTeop CTOHMOCTHnpH CO•

aJJH3Me. ≪3KOH. HayKH≫, 1966, M 2. 

3.  A. EpeMHH,  ToBapHo噴 紐e>K e cpopMbI  npH  COUHaJIH3Me.  ≪3KOH. 

*この時期の文献については,岡稔『計画経済論序説』岩波書店, p.257261がく わしい。

(7)

28 (28)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

H8YKH≫, 1967, N2 4. 

B.  1.  JI.  JieoHTbeB, X03雌 CTBeHHapeOpMa1;:I HeKOTOpbie BOIIpOCbl 31{0•

HOMHtJeCKOH Teop皿. ≪3KOHOMHK8≫. 1966. 

2.  r. JIHCHKHH, TIJiaH  H pb!HOK.  ≪3KOHOMHKa≫. 1966. 

3.  11.  KOHHHK,eHbrH B rrepHO)(CTpOHTeJihCTBa  KOMMYHHCTecKoro o6iuecTBa.<H8HCbI≫.. 1966. 

4.  11. KOHHHK, TIJiaHOMepHOCTb H TOBapHo‑,n:eHeHb!eOTHOIIIeHH <<3KOH.

HayKH≫, 1966, N2 6. 

5.  11. KOHHHK, TIJiaH  H pb!HOK B COUH8JIHCTH1leCKOM  o6iuecTBe.  ≪Borrp. 

3KOH.≫,  1966, N2 5. 

6.  11. KOHHHK,  TOBapHoe rrpoH3B0)(CTBO  rrpH  COUH8JIH3Me.  ≪TIOJIHT.  ca‑

M006pa3.≫,  1966, 11.

C.  1.  M. COJIO八KOB, 0  HeKOTOpb!X  BOrrpocax  TeOpHH TOBapHoro rrpOH3・ 

Bo.n:cTBa  11p11  couuaJIH3Me.  ≪Bee. MY≫, 1966, N2 4. 

2.  H. UaroJioB, TioJIHhI社 X03pactJeT,38KOH CTOHMOCTH H IIJI8HOMepHOCTb  COUH8JIHCTH1IeCKOro rrpOH3B0)(CTBa.  ≪Bee. MY≫, 1966, 1.

3.  B.epKOBeu,CoBepIIIeHCTBOBa皿 e COUH8JIHCTH1IeCKHX rrpOH3B0)(CTBeH‑

HhIX OTHOIIIeHHH Ha coBpeMeHHOM 3Tarre.  ≪Bee. MY≫, 1967, 1.

4.  5I. KpoHpo, 3aKOHblIIOJIHTHtJeCKOH 3KOHOMHH COUH8JIH3Ma.  ≪Mb!CJib≫,  1966. 

5.  5I.  KpoHpO八, ToBapHo‑.n:eHeHhie OTHOIIIeH B COUH8JIHCTeCKOH 3KOHOMHKe.  ≪TIOJIHT.  C8M006pa3.≫, 1966, 6.

6.  5I. KpoHpO八, 3KOHOMHecKaHpeq>opMa H HeKOT.Ophle rrpo6JieMhl IIOJIH  THtJeCKOOH 3KOHOMHH COUH8JIH3Ma.  ≪Borrp. 3KOH.≫,  1966, 10.

7. 5I. KpoHpo, 3aKOH CTOHMOCTH H 3KOHOMHKa K8IIHT8JIH3Ma  H cou1‑1a‑

3Ma. ≪ M 3  H MO≫, 1957, 1.

8.  A. TiaIIIKOB,  0 6  3KOHOMeCKHX 3aKoHax COUH8JIH3Ma.  ≪TIJiaH.  X03.≫,  1967, N2 1. 

(8)

「社会キ義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂) (29) 29 

9.  n. 3aocTposneB, 0 HenocpeCTBeHHOo6mecTBeHHOM Tpy.11:e  npH co 8JIH3MeH KOMMYHH3Me.  113

. 仄

JlfY,1965. 

10. n. 3aocTposneB, 06 9KOHOMHqecKHx aaKoHax, perypy10mHxcouHa

CTecKoeo6mecTBeHHoe npoH3BOCTBO. 9KOHOMHqecenpoeMbl CTpOHTeJibCTBa KOMMYHH3Ma.  11紐• JIry, 1967. 

第二節 「社会主義と商品生産の非両立性,価値法則否定」説 現在でもなお,ソ連邦の一部の論者は,理論的にも実践的にも,社会主義 と商品生産とは両立しないことを根気づよく主張している。エヌ・ヘッシン はその代表的な論者である。彼はつぎのように述べている。 「わが国では,

根本的に商品生産とは正反対に対立する,原則的に新しい型の社会的生産が つくりだされている。共産主義建設の実践は,社会主義と商品生産との非両 立性についての,両制度の正反対の対立性についての,科学的共産主義の理 論の網領的諸命題の正しさを確認した。現在,われわれのところでは,商品 生産のもっとも深い本質,その基本的矛盾と基本的属性,およびそれに関連 した他の諸標識,すなわち,未知の自由な市場,生産者にたいする市場と物 の支配,自然成長性,無政府性,発展の不均衡性は清算されている」(IIIA 1,  CTp. 26) 。すなわち,「社会主義的生産の生産物は,……商品の外観••…•を もってはいるが,……本質的には商品ではない」(同上, C

. . . . . . . . . . . . . .  

Tp.25)のであり,

「市場によってむすびつけられた孤立した生産者たちの制度」としての「商 ... ・‑..。・・・・・

品生産」と,「社会的所有と計画的に組織された社会的分業とによってむすび

. . . . .  

つけられた,結合した生産者たちの生産」としての「社会主義的生産」とは 両立しない(同上, CTp.21,傍点ー原文)。したがって,社会主義を「特別 な種類の商品生産」,「社会主義的商品生産」あるいは「社会主義的な計画的 な商品生産」として特徴づけるのは誤りであり(同上, CTp.22), 今 回 の

「経済改革」はけっして「社会主義的商品生産」の発展を意味しない(同上,

CTp. 26)

本質的にこれと同一の見解を,ヘッシンはすでに論争の第1期において主 張していた (12,CTp. 50 62)し,すでにふれたように,第 1期,第 2期を

(9)

30 (30)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

(1) 

つうじて,一連の論者が,このような「非両立性論」を主張していた。また,

現在でも,たとえば,エム・ソロトコフによれば,「大多数のソビエト経済学 者は,……社会主義的生産諸関係は本質的には商品生産関係ではない,と考 えている」 (IIIC1,CTp. 4)のであり,「社会主義は商品生産の一種ではな い」という見解は根づよく存在している (BorrpOCbl8KOHOMHKH≫, 1967, Ng 

7,  CTp.  151   153参照)。

このような「非両立性」論をどのように評価すべきであろうか。

第一に,「社会主義と商品生産との非両立性」についての古典的命題そのも

....... 

のの正しい理解が必要である。周知のように,マルクスは,「直接に社会化さ

. . . .  

れた労働」を「商品生産と正反対に対立する生産形態」と規定し,エンゲル スは,「社会が生産手段を掌握するとともに,商品生産ほとりのぞかれ」ると 主張し, レーニンもまた,「私的所有を社会的所有に転化する」こととの不可

. . . . .  

分の関係で,「商品生産を社会主義的生産によっておきかえる」べきこと,「社

(2) 

会主義」とは「商品経済の廃止」であること,を述べた。すなわち,生産手 段の私的所有—直接に私的な労働—~商品生産—無政府性,というシェ ーマに「正反対に対立する」,生産手段の社会的所有ー一直接に社会的な労働

—非商品生産(=直接に社会的な生産)ー一計画性,というシェーマが,

マルクス,エンゲルス, レーニンによって構想されていたことはあきらかで ある。このことは,いささかも軽視されてはならない。

そして,ここでの「社会主義」と「商品生産」がそれぞれどのような内容 においてとらえられていたか,をまず明確にしておく必要がある。 「社会主 義」にかんしていえば,それが,生産手段の社会的所有の諸関係一般として,

直接に社会的な労働一般として,つまり,資本主義から社会主義への過渡期 における社会主義ウクラッドも,共産主義構成体の両段階—社会主義と共

(1)  12, crp. 109118; II1,CTp. 23, 72 73; 112, CTP, 48 49; 117, CTl). 82   83 113, CTp. 91, 320321, 368. 

(2) 『資本論』,邦訳,青木文庫①206ページ,『ゴータ綱領批判』,邦訳,『マル・エ 2巻選集』,大月書店,第215ページ,『反デューリング論』,邦訳,大月書店,

新訳研究版308ページ, B.11.  JieHHH, Coq,, 4oe H3T.4,  CTp. 212, T.  6, C中.7,  T.  15,  crp.  115  116. 

(10)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について11)(長砂) 31)  ;!1 

産主義―も包括する経済的内容においてとらえられていることはあきらか であろう。したがって,この命題における「社会主義」と現実の社会主義と を無条件に同一視するようなことがあってはならない。

さらに,この命題における「商品生産」とはなにか。マルクスによれば,

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

商品とは「相互に独立して営まれる私的諸労働の生産物」(『資本論』,青木文 庫①173ページ)であり, レーニンによれば,商品生産とは,「市場によって

. . . .  

たがいにむすびつけられた,孤立的な生産者の生産」 (Coq.T.  1,  CTp. 386),  あるいは,「生産物が個々の孤立した生産者によって生産され, しかも各生産 者はなにかある一つの生産物の生産に専門化されていて,そのため,社会的 諸欲望を充足するためには,市場で生産物を売買すること(このために生産 物は商品となる)が必要であるというような, 社会経済組織」 (Coq.T. 1,  CTp.77)である。これらに依拠して,ヘッシンは,商品生産のもっとも深い 本質を「社会的分業にもとづく生産者たちの孤立性」にもとめた (IIIA1,  CTp. 17)。われわれは,このような商品生産を,「本来の意味の商品生産」あ

. . .  

るいは簡単に「本来的商品生産」とよぶことができる。そして,この場合の

「生産者たちの孤立性」は,社会的規模での生産手段の私的所有の諸関係の 一つの重要な経済的内容である。たしかに,共同的所有の原始共同体のあい だで商品生産・流通は発生した。そして,それを根拠にして,かつて,たと えばイ・マルイシェフのように「商品生産は私的所有によってのみ生みださ れる」 (Il1,CTp. 17, Il7, CTp. 82 84)というような見解は,商品生産一般 と資本主義的商品生産とを同一視するものである,として批判された(たと えば, II5,CTp. 6  15, Il6, CTp. 82)。また,以前には商品生産の根本的特徴 を「社会的分業にもとづく私的生産」にもとめたヘッシン (I2,CTp. 56) 現在ほ,「生産者たちの孤立性はひじょうにさまざまの法的所有形態のもとで 発展しうる」 (IllA1,CTp. 20) ことを認めて,商品生産を私的所有とだけ にむすびつけてはいない。共同体や国家,資本主義的国有企業やユーゴスラ ビア型の社会主義企業などは,なるほど,それ自体としては私的所有者では ない。だが,それらが事実上「彼等の労働諸生産物の交換によって初めて社 会的接触を結ぶ」(『資本論』,青木文庫①173ページ)関係にあるならば,そ

(11)

32 (32)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

して,それらで支出される労働が,事実上,「相互に独立して営まれる・しか

. . . . . . . . . . . . . .  

し社会的分業の自然発生的な諸環として相互に全面的に依存しあっている・

. . . . . .  

私的諸労働」(同上,①176ページ)であるならば,それらは,社会的規模に おいてほ,事実上の私的商品生産者であり,そこでは社会的規模での私的所 有がおこなわれているのである。だから,このような生産者の孤立性と私的 労働および私的生産者を排除しうるのほ,社会的規模での生産手段の社会的 所有の諸関係であって,マルクスやレーニンが商品生産との非両立性を主張 したのほ,まさにこのような生産手段の社会的所有の諸関係としての社会主

. . . . . . .  

義についてであったのである。つまり,本来の意味での商品生産関係とは,

社会的規模での生産手段の私的所有関係の経済的実現形態であり,それは,

けっして,社会的規模での生産手段の社会的所有関係の経済的実現形態とは なりえない。 「社会主義と商品生産の非両立性」にかんする古典的命題を,

われわれはこのように理解する。

第二に,上述したところに依拠して,「社会主義と商品生産の非両立性」に かんする古典的命題の現実的妥当性を検討しなければならない。この古典的 命題は現実の社会主義にどの程度に妥当するであろうか。そして,まさにこ の点で,現代の「非両立性」論ほ,ある点では不当に,またある点では正当 ドグマ的性格をもっている,と批難されるのである。周知のように,現 実の社会主義には「商品・貨幣的諸関係」が存在している。 iまたして.ヘッ

シンが主張するように,「古い商品・貨幣的諸関係からはその外的形態だけが 残っているめであって,それは.内容の点では.なにかまったく新しいもの である」 (IIIA1.CTp. 26)だろうか。また.現実の社会主義の生産物ほ

「商品の外観」をもっているだけで.「本質的には商品ではない」(同上)だ ろうか。周知のように.他方では.古典的命題は共産主義の高い段階にのみ 妥当する,という見解が有力におこなわれている。たとえば,カ・オストロ

ビーチャノフによれば.「彼ら(マルクスとエンゲルスー引用者)の予見ほ,

共産主義の高い段階については正しいが.社会主義的な発展段階については あてはまらなかった」 (I2,CTp. 67)のである。われわれは.だが.古典的 命題の現実的妥当性についての過大評価も過小評価もともに誤りである,と

(12)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂) 33) 33 

考える。

現実的妥当性の過大評価にかんしていえば,現実の「商品・貨幣的諸関 係」を,古い「形態」一ーそれほしばしば「遺産」としてとらえられる一 とまったく新しい「内容」との機械的な分離・結合においてとらえることが 誤りであり,そのことは,結局は現実の社会主義に固有な「商品・貨幣的諸 関係」の意義の過少評価およびその裏返し.としての過大評価に通じる。さら に,社会主義的生産が本質的に「直接に社会的な生産」の性格をもっている,

という主張そのものは正しいが,その本性自体が社会主義的発展段階では未 成熟であること,また現実の社会主義的生産は,のちにみるように,なお,

... 

「本来の意味のそれではない商品生産」あるいほ簡単に「非本来的商品生 産」の性格をもっていること,そしてこの両者が,現実の「商品・貨幣的諸 関係」の存在を規定している.という事態についての無理解がある。

現実的妥当性の過小評価にかんしていえば.古典的命題はいかなる意味で も社会主義的発展段階には妥当しない,とするのは暴論である。たしかに,

それが全面的に,完全に妥当するのほ,共産主義の高い段階においてであろ

. . . . . . . . .  

う、。しかし,現実の社会主義にも,それらの未成熟を特徴とするところの,

社会的所有—直接に社会的な労働—直接に社会的な生産(=非商品生産)

—計画性,という論理のシェーマは現実に貫徹している。そのことは,具 体的には,国民経済計画のなかで各生産部門の生産物量が確定されているこ と,および,各企業で生産高および生産物品目が,義務的計画指標として遂 行されること,そのことに,直接に社会的な労働の支出が照応していること にあらわれている。一方で社会主義のもとでの「直接に社会的な労働」を承 認しながら,他方では「直接に社会的な生産」を否認する,というのは首尾 一貫しない誤りである。古典的命題は,原則的には現実の社会主義にも妥当 しているのであって,ただ,全面的にではなく,完全にではない,というに すぎない。具体的にほ,生産物が現実的な社会的使用価値であるかどうかは.

基本的には,計画によって前もって社会的に確定されているとはいえ,なお,

それらが市場においてどの程度に実現されうるかという事後的,補足的な社 会的承認がなお不可欠であること,また,直接に社会的な使用価値に対応す

(13)

34 (34)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

る直接に社会的な労働の支出量は,なお,直接に労働時間によっては測定さ れえないこと,にあらわれている。そして,その全面的かつ完全な妥当性へ の過程は,社会主義革命による重要な生産手段の国有化を出発点とし,社会 主義ウクラッドと社会主義的発展段階の全体とを包括する,とみなすことが できよう。だから,この限りでは,「共産主義的生産様式にかんしていえば

(その低い段階をもふくめて),その抽象的かつもっとも一般的な形態は,直 接に社会的な生産形態であって商品形態ではない」 (l2,CTp, 110),という ア・ユートキンの指摘は正しい要素をふくんでいる,といわなければならな

" o  

第三に,上述の観点から,「非両立性」論の個々の命題を検討しなければな らない。まず,「社会主義的生産」と「社会主義的生産物」は,たんに非商品 生産,非商品として消極的に規定されるにとどまらないで,しばしば,「直接 に社会的な生産」,「直接に社会的な生産物」として積極的に規定される。た とえば,ゼ・アトラスによれば,「社会主義的生産ほ,その本質においては,

. . . . . . . . . 、

商品生産ではなく,直接に社会的な生産である」 (113,CTp. 91, 368,傍点ー 原文)。またユートキンも,「社会主義的生産は,その本質において,直接に 社会的な生産であって商品生産ではない」し,「直接に社会的な生産の生産物

. . . . . . . . . .  

は,なによりもまず,直接に社会的な生産物である」と述ぺた (12,CTp. 109  110, 113114,傍点ー原文)。ア・カシチェンコもまた,「生産物の新しい 社会的形態の発生といっそうの発展」について,一貫した主張を展開してい る(たとえば, 113,CTp. 320321, ≪9KOH. HayKH, 1961,蝸 2,CTp. 132) このような,「直接に社会的な生産および生産物」が,本来の意味の商品生産 および商品に正反対に対立する範疇であることはいうまでもない。そして,

現実の社会主義的生産および生産物の本性は,けっして「直接に社会的な生 産および生産物」によっては完全に規定されつくさないとはいえ,また,「直 接に社会的な生産および生産物」そのものがなお未成熟なそれであることを 忘れてはならないとはいえ,社会主義的生産および生産物の本質的に新しい 経済的形態規定性にかんする「非両立性」論の主張には,きわめて積極的な 意義があることを認めなけれぼならない。

(14)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂) 35) 35 

つぎに,「非両立性」論では,「商品から直接に社会的な生産物への転化」,

「商品生産から直接に社会的な生産への転化」が論じられる。ユートキンに

. . . .  

よれぼ,このような転化は「始まっただけでなくすでに基本的に完了した」

. . . . .  

のであり,それは,「社会主義革命によっておこなわれる経済の革命的改造で ある。生産と生産物の新しい社会的形態を確立したこの革命的変革にもとづ いてのみ,直接に社会的な生産関係の発展と改善につれて古い商品形態の残 りかすの進化的克服がすすみうる。だがこれはもはや『生産物への商品の進 化』、ではなく,商品形態の諸要素をもった直接に社会的な生産物の,『純粋 な』直接に社会的な生産物への進化である」 (l2,CTp. 113114,.傍点ー原 文)。マルイシェフも,「商品から非商品への転化にとっては質的飛躍が必要 であり,生産手段の資本主義的私的所有の社会主義的,全人民的所有への革 命的転化がそのような飛躍である」と述べ(II1,CTp. 30),ヘッシンも「商 品の非商品への転化の弁証法的過程」について述べた (I2,CTp. 58)。これ をどのように評価すべきだろうか。

このような主張ほ,「共産主義の高い段階への移行のための諸前提が創出さ れるにつれて,商品の生産物への転化が,あきらかに,国家的全人民的所有 になっている生産手段から始まる」,というようなオストロビーチャノフなど にみられる通説的見解にたいする批判として,原則的に正当である。だが,

いくつかの点でなお正確化が必要であると思われる。第一に,ここでの「転 化」は,本来の意味での商品と商品生産から直接に社会的な生産物へのそれ であって,単なる「非商品」あるいは「生産物」へのそれではない,という ことである。すなわち,社会的生産物の一つの経済的形態規定性の他のそれ への転化にほかならず,商品という特殊な経済的形態規定性の単なる消失で はない。第二に,このような「転化」は,生産手段の社会的所有関係の創出 とともに始まるが,新しい経済的形態規定性の成熟過程は共産主義の高い段 階にいたるまでつづく。したがって,ここでの「転化」は,根本的かつ原則 的な質的飛躍とともに,その新しい本質の成熟過程をもふくむ,とみなさな ければならない。第三に,「直接に社会的な生産および生産物」という新しい 経済的形態規定性の未成熟性は,「新しい社会的形態はまだそのなかに古い形

(15)

36 (36)「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂)

態の諸要素をふくんでいる」 (I2,.CTp.110),という形でとらえられるべき ではない。現実の社会主義的生産および生産物は,未成熟な新しい経済的形 態規定性をその規定的な側面としてもっており,同時に,いわゆる「古い商

............ 

品的形態」.正確にいえば,本来の意味のそれではない商品生産および商品,

あるいは簡単に非本来的商品生産および商品という経済的形態規定性を,そ の従属的な側面としてもっているのである。この二つの側面の統一として,

現実の社会主義的生産および生産物は,いわゆる「社会主義的商品生産・商 品」なのである。二つの側面はこのように密接に関連しているとはいえ,混 同されてはならない。なお,資本主義から社会主義への過渡期における社会 的生産物は,また,一定の条件のもとでは社会主義のもとでのそれしなお

. . . . . . .  

本来の意味での商品という文字通り「古い」経済的形態規定性をも部分的に もっていることが忘れられてはならない。

したがって,「非両立性」論による現実の「商品・貨幣的諸関係」の評価を もう少し立ちいって検討する必要がある。ゼ・アトラスによれば,「社会主義 のもとで存在する商品・貨幣的諸関係と……諸形態は先行する社会構成体の 遺産である」 (Il3,CTp. 91)。ア・カシチェンコも同様な見解を述べている

(同上, CTp

.

.3

.

1

.

7)

.

。またユートキンは「商品生産の発生と発展が問題なので

. . . . . . . . . . .  

はなく,その主要な質的内容をうしなった古い商品・貨幣的諸形態の利用だ けが問題である」 (I2,CTp. 117,傍点ー原文)と主張し,ヘッシンも「問題 は商品生産の必然性にはなく,共産主義建設の実践における商品・貨幣的諸 形態の利用の必然性である」 (I2,CTp. 55および IIIA1,CTp, 26も参照)

と主張している。だがこのような見解には同意できない。現実の商品・貨幣 的諸形態を単に「遺産」とみなしてはならない。なぜなら,それらは現実に たえず再生産されており,社会主義に「内在」していることは疑いないから である。それだけではなく,「遺産」説によっては,資本主義から社会主義への 過渡期の非社会主義ウクラッドに,また部分的には社会主義ウクラッドにさ

. . . . .  

え現実に残存している,つまり多ウクラッド状態に規定された,本来の意味 での商品生産=本来的商品生産と,社会主義ウクラッドに発生して社会主義 経済制度の確立のあとも存在しつづける,つまり「旧社会の母斑」の存在に規

(16)

「社会主義的商品生産」および「社会主義的価値法則」の二重性について(1)(長砂) 37) 37 

. . . . . . . . . . . .  

定された,本来の意味のそれではない商品生産=非本来的商品生産との区別 を理解する道が閉ざされてしまうことを指摘する必要がある。さらに,すで にふれたように,現実の商品・貨幣的諸関係について,古い「形態」と新し い「内容」とを機械的に分離・結合させるのは誤りであろう。なぜなら,本 来新旧の生産関係にそれぞれ新旧の経済的形態規定性が照応するからである。

それだけではない。このような議論は,一方ではその古い「形態」に重点を おいて,現実の商品・貨幣的諸関係の意義を過少評価する「左」の誤りにおち いるとともに,他方では,その新しい「内容」を重視してその意義を過大評 価する「右」の誤りにおちいる。たとえば,マルイシェフとソーボリが,現 実のすべての「価値的範疇」を「社会主義のもとでの社会的労働の計算の範 疇」,「社会主義社会とともに生まれ発展し,その特有な歴史的本性を表現す る,新しい範疇」としてとらえる (17,CTp, 87)ときがそうである。だが,

現実の「商品・貨幣的諸関係」は,客観的に,未成熟な直接に社会的な生産 の諸関係と,本来の意味のそれではない商品生産の諸関係とをその重要な構 成要素とし,部分的にはなお,本来の意味の商品生産の諸関係をも構成要素 としている,複雑な「形態」と「内容」をもっている。要するに,現実の

「商品・貨幣的諸関係」は,単純に,古い「形態」と新しい「内容」とでと らえることはできない。

このように,われわれは,現代の「非両立性」論の具体的な個々の論点に は,多くの点で組みしえない。

第四に,最後に,「非両立性」論における価値法則の取扱いを検討する必要 がある。 「非両立性」論は,首尾一貫するためには,社会主義のもとで,本 来の意味での,あるいは本来的な価値法則が作用することを否定せざるをえ ない。だが,否定の仕方は,論者によって異なる。たとえば,ヘッシンは,

社会主義のもとでの価値法則といわれている法則は,本来の価値法則にくら べて根本的に「変容」していることを指摘したあとで,つぎのように述べた ことがある。「『価値法則の変容』という用語の裏には,つぎのような事実の 確認が隠れてはいないだろうか。すなわち,価値法則は一般に作用していな いということか,それとも,それにかわってなんらかの新しい法則が作用し

参照

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