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昭和四年九月十八日未明の淺間山噴火に就て

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(1)

昭和四年九月 十八日未明の

浅間山噴火に就て

長野測候所長

円 4 ﹄ ; 戸 l

百川

と多分'重複しない地動の方面を主とし乙れに報告未済の雑件を附する。 今岡の噴火に就ては中央気象墓でも石川技手の詳細な御調査もある様であるから‘本文に於ては乙れ 地動観測の由来と観測所の位置 浅間山の地動観測は明治四十三年九月(二十一日から翌月三日迄)震 災深防調査舎の大森博士が湯の平の火山館(今日の火山観測所の北東約三

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米)に於て描針倍率百倍 の筒草微動計を以て観測芯れしに始ま

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其の後同命日と長野測候所との共同事業として笠岡明治四十四年 一河九日よ

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同三月五日迄中腹芦の平に℃、叉同年六月二十五日よ

b

同八月二十六日迄再び湯の卒で観 測を行った。此の年火山観測所の新築が成ったので同二十六日以後は乙の茶成した新観測所に於て簡単 微動計の外倍率百五十倍の微動計(東西分動、だけ)共他を据付けて観測を開始し、爾後毎年五月から十 査舎の欧文紀要第六舟及第七舟に接表 3 れ て 居 る 。 月迄六箇月間観測を質施して大正十三年に及ん、た。乙れ等の観測結果の中大正五年迄の分は震災珠防調 大正十二年に冬季間の観測所として山麓に追分観測所が出来ョ山上の火山観測所と略同様に微動計 1 筒 一 四 五

(2)

﹄四六 思微動計等を据付け同年 f T M 一 月 から観測を始めたが、大正十四 の る

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・/一一肌・ e 。測所、広不断り浅間火山観測所と r F f r F ! ﹁ 圃 F d ,h 日 J J -4 りす、トな b , 山 上 の 火 山 観 測 所 は 臨 o v - - 〆 F 一 圃

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為・‘ 固 一

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逮 問 1 -l'I 国 年以後は長野測候所草抑制で観測 に常ずりなければならない乙とに なったりで吋結局山麓追分の観 五十五年は入、九の二箇月)毎 年山上の観測所で観測を行ム ととがで

. 3

た の で あ る 。 乙 の 大 正十五年以来の夏季三箇月の山

(3)

上、山麓の並行観測にょっ℃火山地震が雨地に於℃如何に遣っ℃現れるか、遠地の地震が雨地に如何ーに a 遠つで戚ぜらるるか巳路明かに夜、ったが下乙れは叉他の機含'に一議

b

,此慮では今同の噴火前の微震に限 る乙と、する。 各観測所の位置は第一固に一不す遁

b

で!大正元年測面陸地測量部の地闘に擦れば噴火口の中心は来径 一三八度三一分,北緯三六度二四分,山頂の海抜は二五四二米である。山上の火山観測所(来径一三八 度 三 O 分 、 北 緯 三 六 度 二 四 分 ) は 火 口 の ・ 中 心 か ら ・ 一 雨 六 入 度 西 に 営

b

二 六 O O 米の距離にあ i y ・海抜一九四 七米であるから山頂よ

b

五九五米低い。叉山麓の追分支所(束径一三八度三三分,北緯一ニムハ皮二 O 分) の火口中心から南一九度末七四

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米の距離にあ'夕、海抜九九九米であるから山頂よ

b

3

乙と一五四 三米で火口中心から山上の火山観測所と山麓の追分支所とに引いた直線(の水平面への射影)は路直角 をなす之とになる。 今年山上の火山観測所に据付けたものは大森式の微動計(振子の目方六

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描針倍 率 一 一 -一 0 ・週期一三秒)で乙れによ

b

来西分動を'記録した。乙の外七

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倍の簡単微動計を用ひたが今は一 乙れに燭れない乙とにする。消息分支所の微動計は山上のと大差なく唯描針倍率が一 O O で あ る 。 山上の火山観測所では七月↓日に観測を開始しだが、浅間山から殺した火山性の無戚由党微震は七月上 噴火前の微震 句人向、中旬三向、下句無し・、八月上旬二同、中句無し、下旬一問、だけであった。九月比至

b

五日一六時 四 七 ' ,

(4)

l四 i¥. 三五分五三秒に弱震 ( m m ) があった。後日の調査によれば乙の地震は山麓地方では総て無戚受で予追分支 所では東西動最大会振幅六四﹁ミクロン L であったが山上では凡そ三三 O ﹁ミクロン﹂に注した。乙の 地震の後同日二三時

O

二分

O

四秒に無戚莞微震があ

b

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叉六日.七日.十二日、十三日にも各一同の無 戚受微震があったが、十五日に至って微震同教は著しく増加して、三時二七分から二三時五

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分迄の問 その数一九同の多主に建した。五日二三時過ぎの微震と乙の五日に現れたもの九大部分とは可な

b

額著 なもので、会振幅の大なるものは三四?ミクロン﹂に達し、之の外会振幅の一

0

7

ミクロン﹂以上のも の三あ h J ,山麓追分に於℃もその大部分の記録されて居る之と次表の遁

b

である。十六日は微震の同数 務減じたるも命ほ一一同を算し振幅は何れも小で五﹁ミクロン﹂を超えない。十七日は微震の数は吏お 減じ六回となったが振幅は前日に比し却って幾分増大した。 乙の外十七日の記象紙には一時から七時迄の同に会︿地震の形態を具備せゴる極微動が甚だ頻繁に現 れ何庭を初、何庭を終と採ってよいか判断に苦しむものが砂くないが、ゴっと数へ℃凡そ二百同を超え る。之れは之の問谷を停って吹上げる風が烈しく家屋を動捺せしめた翁で火山活動とは直接の関係な

3

ものである。斯くて十八日一時

O

分二七秒に至って大噴火となった。次に乙れ等の噴火前に現れた火山 性の地震を山上山麓封照して表示する。山麓に於ては蛍時﹁タイムチヅク L が甘く行って居・なかった翁 双方に記録注れたものは山上の後震時を正しきものとして乙れのみを採

b

,山麓にのみ戚じたものはや

(5)

むを得一ずその後震時を採ったが一一、三分位の誤差は免れないであらう。 山 五 一 一 一 七 六 日 設 時 正幸'" βえ 日 時 分 秒 一 穴 、 一 一 一 五 、 五 三 二 一 一 一 、 O 一 一 、 O 四 一 四 、 五 一 一 、 二 八 二 一 、 一 回 、 O 九 一四、二一よ二 四 、 一 穴 、 02 三 、 ニ 七 、 O 一 足 、 三 O

七 、 O 八 、 一 豆 七 、 三 八 、 四 三 , 七 、 五 一 一 、 四 四 一 O 、 四 四 、 五 八 一

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上 最 大 金 振 幅 μ 三 三 O 、 0 一 一 一 、 七 ニ 、 五 一 、 一 一 一 、 七 一 、 七

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豆 、 八 一 、 五 一 一 一 、 = 一 四 、 一

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穴 、 八 一 一 、 一 一 六 、 七 一 一 、 七

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、 0 山 振 勤 時 問 、 ヨ ホ ア ' ヌ 葉 t ニ 、 ニ O 一 、 三 O 、、 O 一 五 二 四 四 一 三 四 一 一 三 八 六 七 八 九 二 大 一 七 八 王 二 一 四 九 麓 最 大 会 振 幅 一・ノ、 一 四 O

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(6)

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一 一 一 一 、 一 一 、 五 一 二 二 、 一 一 一 一 、 五 九 一 、 四 足 、 一 三 四 、 O 入 、 二 八 四 、 コ 一 七 、 一 一 一 二 一 問 、 五 C 、 O 二 日 a 七 日 一 五 O 四 九 一 五 、 。 四 、 二 一 、 九 三 二 一 五 四 l五 回 大 大 七 事 、 ー . 一 四 一 O 二 一 四 - 一 五 } ・ 一 二 三 三 一 大 六 七 六 五 回 . 九 大 四 一 六 穴 九 0':0..:-0八 。 、 九 二 、 王 冠 i 七 一 一 一 、 五

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乙の最後.のものは大噴火に件ふ、地動である。 扱て斯くの如き頻繁な火山地震は常に噴火を件ムかと云ふに必ずしも然ら中、大正六年以後同十三年 迄の地動観測の詳細は後表され℃ないし、明治四十四年から大正二年までは噴火も微震も甚だしく頻多 で今同とは比較が困難である。依て大正三年、四年,五年の観測結果に就℃見るに、大正三年は観測寅 施(五月 11 十月)中は微震数一日三向。ど超えた乙となく二同の噴火も・なかったが、観測を止め℃後十一 月十二日に強く噴火し、同十五日にも亦強く噴火した。斯様な誇で乙の噴火の直前に頻多に地動が現れ たかどうかは知る由もない。大正四年は前年に比し微震同教は稿増加し,九月二日に八向、同十九日に は七同観測せられた且つ乙の頃有戚貸の微震や弱震が幾同もあかったが、途に一同の噴火も・なかった。 大正五年には微震は相営にあっ℃殊に九月と十月の前宇とは最も多く、その中九月四日に二十六同.十 かったのである。今同の九月五日の弱震 月五日には三十八同の無戚受微震を観測したが‘共の後大正七年の末に到る迄訟に一同の噴火も起らな ( 弱 ) と云ぴ同十五、 十七日の移しい微震と云ひ今日 ナ 六 、 から免れば何れも噴火の前駆であったと考'へられ、るが、間平に乙れだけを以て事前代噴火を深知する乙と 一 五

(8)

噴 火 器 の 気 象 は 末 、 だ 不 可 能 と 一 五 ふ 外 な い で あ ら う 。 一 五 日 日以来の気象表を掲げる 噴火前の気象要素の援化がどうであったかは多少興味ある乙と、思ふから次に九月五 五 日 -L・ / 、 日 ー ヒ 日

1、 日 ゴL 日 O 日 時 ムハ時 一 四 時 二二時 六 時 一 四 時 二二時 六 時 一 四 時 二二時 穴 時 一 四 時 二二時 大 時 一 四 時 二二時 六 時 一 四 時 毘 ム ハ O 五 、 七 回 、 八 五 、 一 豆 、 七 大 、 八 七 、 六 七 、 四 七 、 三 七 、 ニ ム ハ 、 一 五 、 四 一 、 九 一 、 五 一 、 六 六 0 0

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(9)

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四 、 二 八 、 心 一 一 、 = 一 六 、 六 二 三 、 0 二 穴 、 四 。 、 六

(10)

一 四 時 七 、 一 七 、 一 一 回 、 五 七 、 七 表中の気 ! 璽 は 二二時 間早に温度の更正のみを施した値 易い事貨は に知られて居る庭で今向の噴火 般 止 M U E 岳部悦溺吋一・ 3 自 給 一五回 A l!.-L) 七 七 0 0 八 九 である。火山 の大噴火や炭坑の爆殺が高気回世の 時 ' に 起

b

も亦高気摩中 に於℃起った。高山の頂では下界 に於ける 桧 山 富

(11)

程には気一魅の遜化が大主くないがそれでも高気座中に於℃は相官の上卦を見る乙とが此の表並に第二回 の 遁 b である。固に於℃噴火の空気振動の翁めに起った自記晴雨計のペンは約一

O

粍の上卦と三粍の下 降 と を 一 不 す c 何れが先であったかは乙れ、だけでは分明しないが上井の方が先であったらうと一五ふ乙とは 破れた硝子が悉く屋内に落ち、折損した戸や障子が皆屋内に向って外れたら倒れた λ リした乙とから想像 される。追分支所の晴雨計室の窓硝子(乙の・窓は噴火口に直面して居る)二枚はそれから二間隔った南 側の乙の室の入口の扉に打っかつて落ちて居た。元乙の硝子は床から三尺位の高主にあったものである から、その飛んで行った勢の猛烈さは凡そ乙れで想像で

3

る で あ ら う 。 温度については格別言及する事もないが.只十七日二十時から翌十八日の六時過ぎ迄の問に凡そ二十 分か三十分位の不規則な週期と二度前後の振一怖とを有する妙な援化が縫いた乙とは第三国の遁 b である 乙の妙な遜化が噴火と何等かの関係があるのであるのではないかと疑を抱かれた人もある、か同様の現象 は此庭では高気懸の夜間には乙れ迄も皮々例のある事である。例へば乙の外にも今年七月の十五日、十 六日、廿三目、廿四日.廿九目、八月六日、七日、十二日、九月廿三日.廿四日等の晩には何れも起っ て居る。その原因については此庭では風向風速の不断記録を取って居ないから充分に乙れをつきとめる 乙とができないが、自分の考では斯様な高気回ゅの晩には膏火口原たる湯の卒に冷却した安気が漸次に溜 ってそれがある程度設で蓄積せらる、を待つ℃火口溺を停ひ谷に下って行く。乙の時気温は低川慨に注し 乙れが下ってしまった後は一日一溢度が上'-夕、その後冷気が堆積するにつれ温度は又次第に降る。斯くの 一 五 五

(12)

一五六 如き乙とが問欲的に繰

b

返されるものであらう。 次に降水量であるが噴火前の四日聞は会く雨が・なかったがそれ以前は随分降水量は多い。殊に九日. 十日の雨日には一七 O 倹粍の降水があった。火口の総面積が約八四

000

平方米であるから火口内に乙 の雨日に降

b

込 ん 、 だ 総 量 は 約 一 四

000

立方米となる。火口内の高溢の震に口底に建せずして途中で蒸 殺するものも可な

b

の量になるであらうし、口底迄到達してそ乙で蒸援する畳は更に多量であらう、地 下迄侵入して噴火の勢力を培養するものがあったとしてそれがどの位の長になるか或は火口外に降った 雨が噴火に役立つかは会く見営がつかない。 記録に現れたる噴火彊度の比較 れば次の遁

b

で あ る 。 明治四十二年一月廿九日の噴火鳴動(窓気振動の乙となるべし)の翁岩村田、小諸.御代田に多 少の被害があったと云ふ。今同と何れが果して強かったか悉しい乙とは判らないが路相似た程度であ ったがと思はれる。 同年十二月七日の噴火山林の焼失があ

b

北佐久マは一菅波の翁硝子窓の破損、鴨居の墜落.戸障子 の脱落等があったと一去ふ。山麓の地方被告の耗皮は今岡と相似て居る。 明治四十四年五月八日の噴火熔岩塊を多量に噴出し登山者中一人死亡、御代田、小沼等では窓気 波動の翁天井の落下一、鴨居の墜落二、戸障子の脱出六十軒と云へば乙れ亦山麓.地方の被害程度は今 明治四十二年以来の噴火記録によ b 今同の噴火の強 3 の比較を試 U 。

(13)

同のと略伯仲の間にある。 大正二年七月十九日の噴火、観測所附近に落下した岩塊は地面に径六'尺の孔を穿ったと云ふ。乙の 黙は今同のに稲近いが地動の黙では最大会振幅が一五二﹁ミクロン﹂であるから此皮の五分の一に足

b

な い 。 同年八月十二日の噴火 観測所の構内にも拳十八の岩塊が落下し.地動の会振幅は四七三﹁ミクロン﹂ なる故噴火の強志は恐らく今同の二分の一以下であらう。 大正十年六月四月の噴火 火山槻測所に於℃は気振甚だ強く自記晴雨計の記録は十二粍の土井と十 五粍の下降とを一不し事務室の硝子障子は骨子諸共破壊せられしもの四五箇所、墓所入口の堅固なる板 戸は二つに折れた A Y と云へば乙れ等の結よ'りすれば今向よ b 一層強からしも.岩石地出距離は今同と 客伯仲し、大なる岩塊を多数噴出せる乙と弘、山麓地方の気振による被害とは今同の方稿大な

b

と認 めらる。地動の最大会振幅は叫七九アミクロン﹂であるから今岡の八

O

O

﹁ミクロン﹂以上なる民比 し凡そ二分の一程度である。以上の諸勅を綜合した・ならば噴火の会勢力は今同の方が和大な λ リ ﹀ 一 見 る が至営であらう υ 斯く見ホゆれば過去二十年間の浅間山噴火に於て今同と大健同耗度のものは二三認めらる、も乙れ以上 強烈な噴火は乙れを求むる乙とがで

3

ない。地動振帆の大なる姑に於ては今同のものが従来創刊測 S れ 一五七

(14)

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一 五 八 たもの、中最大なるものである。 観測所附近の落下岩石並に寝員説明 火口の西南西二六

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米にある火山観 測所附近に落下した岩石につ

3

主とし て堤、波透雨技手の調査に基づいて述 べる。第四聞は乙の附近内落下岩石の 分布と乙れによって地面に穿たれた穴 の大さの航路とを一不す。問中山は径六 O 糎前後ものらしく、 乙れによって穿 れた穴の径は南北六米東凶六、七米深 S 一、八米、終日湯気を立て、居た。此 の外は何れも三 O 乃至五 O 糎位の径を 有するものと思はれる、が、その大部が 地中に埋れてほんの一部、だけが面を出 して居るもの、破﹂接してその一部分は

(15)

飛散し去ったもの等が多く大・さの測定は仲々困難である。仰の穴は径四、二米深さ一、三米、

m

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の 穴 は共に一米内外の径を有し向はその北方屋根に蛍ってそ乙から飛び来ったもの、だと云ム。叫は穴の径約 四 米 、 深 志 一 米 、

m w

は穴の径約三米、向は露場内に落下した拳大の石で乙れは地に - m ハを穿つには至らなか った。無線電信のめや一中線に営って乙れを切断したのが乙の岩石であらう。第五闘は乙の山間穴を南南西 から見たもの、潟異の上端中部品曜に僅かに観測所の木柵が見えその右の端に迭に火山館を望な。 湖測所の南約一

O

O

米にコ一年耗前に建てられた放合峰の小屋と一広ふのがある。此庭は安会地帯、だと一五 って登山客の吸牧に努めて居るが、乙の安全地帯の北附から僅か二米程の彪に径四、五十糎位かと思はる る岩石が落下して南北四、三米東西四、六米の大穴を穿ち岩石の破片と土砂とを小屋の屋根に打掛けた 光景は第六回に示す。丁度乙の大穴のすぐ内に小屋の主人は寝て居たの、芦と云ふ。乙の小屋の南東六米 許

b

の庭にも一岩石の降下したものがあった。渡透技手が後に調べた所では火山館以下牙山の麓、峯の 小屋附近観測所の北西崖下を含 h u 区域内に於て目ぼしい岩石の降下四十を算したと云ふ。火山館では拳 大の石が二箇屋根を貫清一したがその北側六米ばからのい混と更にも少し距った庭とに可な

b

の大物が落ち て 居 ' り J 東側少許の庭に乱数筒落下したものがあった。 第七回は湯の卒に落下した岩石の中で二番目に大きなものである。高芯二米弱周国六、二米噴火蛍日 の午前十時頃三人掛

b

で巻尺を以て測ったが岩石の高熱の翁尺度が焼けそうなので大念ぎで手早く測っ 一 五 九

(16)

一 六 O たものである。場所は火山館の北方二

OO

米許

b

の庭. 一度前掛山の山麓に近い傾斜面に段下してそ乙 から轄落したものである。第八回、第九国は前掛山と剣ガ峯との中間天狗の露路と得する場所に落下し た岩石の穿った大穴、第十同第十一一同は問所附近の降下岩石の翁薙倒ぷれた溶葉松林である。 第十二闘は南側火口壁上にある岩石で昨年二月の噴火に噴出されたもの,乙れ迄はその頂は五口人の身 長よ λ リ逢かに高く手を差延べて頂に届かず禁登も頗る困難であったが比の噴火で約一米埋まち翁に頂に は易々と手も届けば禁登る乙ともで

3

る様になった。浅間山頂上に於ける唯一の噴出物堆積の深

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-一 不 す目標である。噴火蛍日の十一時三十分波法投手の撮影である。 手各

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