冠を編み上げる花 : ジョン・ダンのLa Corona再考(その1)
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部 A) 第44巻 第2号 lofHokkaido Universi Jouma ty of】&iucat i ionIA) Vo t l 44 2 on(Sec . . ,No. 平成 6年3月 March ,1994. 冠を編み上げる花. - ジ ョ ン・ ダ ン の “La Corona” 再 考 (そ の 1) - - 本. 堂. 知. 彦. は じ め に. いわゆる形而上詩の 特質として, 展開する比嚇, 特異な奇想, 演劇的な構成 個人的な性格 論 , , 理的思考への好みなどが, 従来から論 じられてきた. ジョ ン・ダン ( 15 72‐1631 ) の詩は, そのよ うな形而上詩の特質を 端的に示すものとして広く考えられている‐ グリ アソンやエリオ ッ トに端を. 発する今世紀前半の形而上詩の再評価も, 上に挙げたような形而上詩の特質が, 現代の読者, 批評 家の関心を引きつけたからであ った‐ したがっ て ダンの詩の評価も, 主としてそのような形而上詩 的な (ここではバロック的と言い換え ても良いかもしれない) 特質への関心からなされることが多 かっ たといえよう. しかし, そのような観点からの 評価は, 一面的なものに偏っ てしまう危険をはらんでいるの では ないだろうか‐ たしかに, ダンの詩の多く にはそのような特質が見られる し またそれ こそがダン , をして当代随一の詩人たらしめ ているともいえよう‐ しかし, ダンはいつ もそのような詩ばかりを 書いていたのではなかった. 我々現代の読者は, 過去の詩のほとんどを既に編纂された詩集のなか で鑑賞するのが通例 である‐ このような鑑賞の 形態は, その詩人の作 品全体を通観するためには非 常に便利であるが, 個々の作品の評価 については必ずしも好都合 ではなく むしろある種の弊害を , さえ伴っ ているのではないだろうか. 我々の手にする詩集の中では, 祝婚詩と追悼詩 流行歌の歌 , 詞と厳粛な 膜想詩, そのようなあらゆる異なっ た性格を持つ 詩が一冊の書物の中に押 し込められて いるの である. しかし, そうなると, 個々の作 品がどのような形態で発表され 当時の受容者層に , どのよう に受け入れられたのかとい ったことに関する情報が 現代の読者にはきわめて伝わりにく , くなっ てしまう. このような場合, 明確な特徴の比較的乏しい作品は 作者の作風を端的に伝える , 作品に隠れて, とかく軽 視される傾向にあるのではないだろうか 筆者には ダンの場合にもこの . , ような傾向があり, 現在も事情はあまり変わっ ていないように思われる そして そのような状 況 ‐ , の中で等閑視され てきたダンの作品の代表的なものの一つ が, 宗教的連作 ソネ ッ ト集 “La Coro‐. na” で あ る.. ”L C a orona” は そ の ソ ネ ッ トと い う 形 式 か ら,. 他の19編の “Holy Sonnets” と 比 較 さ れ, 同 列 そのような場合の “LaCorona” の評価は概して芳 しいも. に論じられることが多かっ た. そして, 1 )」 とかなり手厳 しいものさえある たしか のではなく, 中には 「ダ ンにも失敗することはあ る( ‐ i に, こ こ に は ”Holy S onnets“ に見 られたような 信仰上の葛藤や, おそ らく はダンその人の 個人 的な体験を反映しているような要素は希薄であり, それに代わ っ て落ち着いた情調と静かな 観照と がある‐ しかし, それをもっ てこの連作を非難するのは適切なこととは言えない たとえば 他の . , 宗教詩でも3編の hymn などは,激しさよりはむしろ静かな信仰心を表 しているものといえる( 2 ) . 85.
(3) . 本 堂 知 彦 した が っ て,“La Corona” の 評 価 は, も っ ぱ ら “Holy Sonnet. との比較においてなされてきた. ことによる不幸な結果ということもできるのではないだろうか‐ も ち ろ ん,“La Cor ona” を正 しいコ ンテクス トのなかにおいて, 再評価を試みよう とする企て 5 ) ) P F オ コ ンネ ル( 4 3 ) M モ ー ラ ー( は 少 な か ら ず な さ れ て き た. と り わ け, L.L. マ ー ツ( , .. , .. 等の研究は注目すべきものといえよう. さらには, この連作がマ グダレン・ハーバー トという ”女 性” に捧げられたもの であることに注目して, その聖母信仰的内容との関連を 追求した M.サ ビン 6 )も大変に興味深いものである しかしながら いずれの研究も “La Corona“ を 一つ の研究( , , ‐ のまとまりを形成する連作と捉えて, その全体像から再評価を試みている点において は共通してい る. そのため, 連作を作り上げている個々のソネ ッ トの鑑賞, 評価等はいまだに十分になされてい るとはいえないところがある. むしろ, この連作の名誉のために, 敢えて個々のソネ ッ トの評価に 立ち入ることを避けているような嫌もないとはいえない. しかし, 全体が真に価値のあるものであ るな ら, そ れを構成する 部分 もま た価値の ある もの でなく て はな らな い. ダ ンはこの 連作 を, ’ ‘ d i’ と 呼 ん で い l hl t thi s crown of prayer and praise ,/ Weav din mylow evow me anc o e. 7 )が ここでの‘ る( crown’とは神が戴く王冠であり, キリス トの茨の冠であり, また同時に一つ , のソネ ッ トの最終行が次のソネ ッ トの第1行になり, 全体が一つ の円環を作り上げているこの 連作 そ の もの の こ とで あ る. した が っ て, “La Corona” を 一 つ の 冠 と す る な ら ば, 個 々 の ソ ネ ッ ト は lower always’ i その冠を作り上げる宝石,あるいは花の輪を編み上げる花(8行目の‘wh ch dothf を参照されたい) ということになろう. 編み上がっ た冠が美しいのは, そこに編み込ま れた一つ- つ の花もまた美 しいからではないだろうか. ここでは, その花である個々のソネ ッ トをとりあげ,. 順を追うて分析と鑑賞を試みることにする. 本稿は前後2部に分けて,ここでは第1ソネ ッ トから第4ソ ネ ッ トまでを扱い,残りの第5 ソ ネ ッ トから第7ソネッ トは続く第2部で扱うことにする. このように単一の論文を前後2部に分けたの は, 本学紀要の規定, すなわち-編の長さが16枚以内という記載上の制限による ものであることを お断り して おきたい.. I. De igne at mL raise, y handsthiscrown ofprayer and p 、 ’ Wr eav din mLylow devout 食le1ancho1ie, Thou which ofgood, hast, yea arttreasury, i AI 1changing uachang’d Ant entofdayes, l Butdoe not, wi l th a vi e bayes, ecrowne offrai i Reward. t 〕 【 つ Ly mLuses wh e slncerity, But whatthythorny crowne gain’d,thatgi ve 北1ee, lower alwayes; A crowne of G1ory, which dothf Theendscrowne our workes, butthou crown’stourends, For at ourendbeg ins ourendlesse rest, ,. Thisf i rstlastend, now zealously possest, 86.
(4) . 冠を編み上げる花 vvi th a Strong soberthirst, nQy s。ule attends ・ ’Ti i f stinQethatheartand voice bel tedhigh, Sal iont。 al lthat wi l lisnigh. vat. 7編からなる連作を開姶する第1ソネ ッ トは, この連作を捧げる献呈 の祈祷によっ て始まる 最 ‐ ’ と い う 箇 所 は や や わ か り づ ら い が シ ー ク ロ ス は‘ 初 の ‘De igne at my hands ョ condescend to , ’という注解を 付けている( 8 ) つ まり この連作詩集を被献呈者 が拒む acceptfrom myha nds ‐ , ことなく受け入れるようにという願いなのである‐ この語り手 (ここでは作者) の祈願が いっ た , い誰にたいしてなされているのかは, しばらく は明らかにされない 3 行 目 で 初 め て ‘Thou’ と . ,. 呼びかけられる対象が現れるのだが, そこではまだそれが誰なのかは明かされな いのである この . 3行目で, 「善なるものの宝庫の所有者 にして, 宝庫そのもの である汝」 と説明されているのだが , この いささ か も っ てま わ っ たい い方 は, 単 に韻 律上 の制 約 か ら来 たの で はなく む しろ この , ‘Thou’に対する読者の 興味を引き つけ高 めるための方策として用いられ ているように思われる‐ そ して, ‘Thou’によっ て示される存在は, 4行目の後半 すなわち第1ク ォ ー トレイ ンの最後に , いたっ て初めてその実体が明らかにされるの である もちろんそ の実体とは 神に他ならないので ‐ , ’と いう 見 慣 れ な い 言 葉 を用 い て い る あ る が, こ こ で た ん な る ‘God’ で はな く ‘Ant i ent。fdayes ,. こ と に 注 目 した い‐ ダ ン が 神 を 指 し て ‘Ant i ent。fdayes’ と い う 呼 び名 を 用 い て い る の は, こ こ. 1箇所においてのみである. これが旧約聖書のダニエル書からと られたもの であることは 多くの , ’という呼び名 は あま 注釈書にもあ るとおりである‐ しか し, それにしても‘Ant i fdayes ent。 , り に特殊す ぎはしない だろう か‐ 他の多く の詩の中 で ダンは何度 も神 に呼 びかけ ているが , , ‘Ant ’ という呼びかけ方は決 して しなか た その理由に関しては どの注釈書も i fdayes ent。 っ . - , 研究書も満足のゆく 解答を与え てはくれない. というよりは ほとん ど触れられてもいないのが実 , 態 である. ここではダンがそのような特殊な言 葉をここで用い ている理由につ いて少し考え てみた い‐ ‘Ant i ent。fdayes’ は, ダ ニ エ ル 書 に 現 れ る 神 の 呼 び 名 で あ る‐ そ こ で の 神 は, 白 い 衣 を ま と っ. た白髪の老人 の姿をしており, 裁きを行う至高の存在であり ふつう 「日の老いたろ者」 と訳され , る. しかし, このダニエル書から得られる 「日の老いたろ者」 の姿や行為から ダ ンの こ の ソ ネ ッ , ’という 呼びかけの必然性を導き出すことは難 しい 理由は聖書の トにおける‘Ant i fdayes ent。 ‐ 中にではなく, むしろこの作品の中に求められるのではないだろうか そこで私は仮説として二つ ‐ の理由を考えたい. 第1の理由は, 単純に音の上 の問題 である 第4行目を見ると ‘AI 1chang‐ ‐ , ’ とな っ て おり 「日の老いたろ者」 を修飾す る形容辞 は ‘AI ient 。 ・ng uncang’d Ant fdaye s 1 , changing unchag’d’ と, ei の音 が2 つ 含ま れて いるの であ る そ れ に対 し て 修 飾さ れ る . ,. ‘Ant ient。fdayes’ に も 全 く 同 様 に 2 つ の ei音 が 存 在 し て お り こ の こ と に よ り こ の 1 行 の な か , に 何 と 4 つ の e i 音が含まれていることになる 先にも述べたように この第1クオー トレイ ンは. ‐ , 神に対する祈願と 呼びかけを表しているのだが, 対象の名を唱え るこの最終行に同一の二重母音が 繰り返されること は, 祈祷の厳かさを高めるうえ でまことに効果的である しかもこの第4行目で ‐ ’と長母音 であっ たり ‘Ant ’を3音節 に発音 したりと 全体に重々 しく は他の母音も‘AI I i ent , , , 長く引き延ばされた印象が強い‐ このこともまた この行が与え る儀式的な厳粛さを増す ことに寄 , 与 していると考えられる‐ 理由の第2は, このク オー トレイ ン, ひいてはこの連作全体の性格に関わるものである たしか . ’ は聖書からの引用なの で あるが 当時の読者 にと てさえ に‘Ant i fdayes ent。 この名前は必 っ , ,. 87.
(5) . 本 堂 知 彦. ず しも親 しみの あ る もの で はなく, む しろ 最初 は奇 異な 印 象を 与 えた の で はな い だろう か‐ ‘Ant ’はたしかに 「日の老いたろ者」 と訳されるのだが その意味するところは必ず i entofdays ,. ’とはどのような意味なのか ダニエル書に現れている老人のイメ ー i しも明瞭ではない. ‘Ant ent . ’からはもっ と様々な意味が汲み取れるのではないだろ i ジがそこにはあるだろう. しかし‘Ant ent うか. たとえば天地創造以来の長い時の流 れを思い起こさせもする だろう し, 「神の時」 の悠久さ を思わせもするであろう‐ また, この言葉からはルネサンス人であったダンにとっ ての 「古代」 が 1chang・ng unchang’d’ に 4 世 紀 の 聖 ア 連想されはしないだろうか. ヘ レン・ガー ドナーは‘AI } 事実このソネ ッ ト全体の書き方はゞ 遠く ギリシア, 9 ンプロ ジウ スのエコーを読み取っているが( , ローマの叙事詩に範をとっているのである. 詩の冒頭で, 詩人によっ て神に対する呼 びかけがなさ れるのは, ギリシア時代以来の叙事詩に特有の開始の仕方である. この連作は, 聖母マリアとキリ るのであるから, そこには当然のこ ととして叙事詩的な性格が認められ ストの生涯を追っ て進行す・ るのである. したがっ て, この冒頭の神への祈願は, 叙事詩としての連作にとっては ごく自然な開 ’という語に いにしえの詩人たちのひ i 始の方法なの である. そして, そこに現れている‘Ant ent , そみにならおうという作者の意志を読み取ることは, あながち不自然でもないのである. この叙事詩的な祈願は, 続く第2ク オー トレイ ンにも引 き継がれる‐ ここでは, いかにもその祈 願の調子にふさわ しく, ミ ューズの名が言及されている. ところが, この連作が捧 げられる対象は あくまでもキリス ト教の神なのであっ て, 異教のミ ュー ズではないのである. その こ とが最も明瞭 l l th avi ebayes ecrowneoffrai に表れているのが5行目から6行目の ‘Butdoenot ,/ Re- , wi incer i t ty’ と い う 箇 所 で あ る. こ こ か ら わ か る こ と は, ミ ュ ー ズ の 名 が es ward my muses whi. 言及されてはいるものの, ミ ューズは決して祈願の対象ではなく, ここでその対象 とな っ ているの は, 詩が捧げられるキリ ス ト教の神なのである. ふつう ギリシア以来の叙事詩においては, 自らの 詩に霊感を授けてくれるようにと, 詩人による祈願の対象は詩神であるミ ュ」ズになっ ているの だ が, ここではさらにそ れよりも上位に存在する神がミ ュー ズにとっ て代わっ ているのである.・すな わち, 詩人は一般の詩作よりさらに一段高い志を抱いていることを表明 していると考えられるので ’からも明らかである 月 桂樹の l i l あ る. そ の こ と は 5 行 目 の ‘wi th a v ebaye e crowne offrai s . せ 冠とは,ギリシアの伝統では 術家に与えられる最高の名 誉を表していた‐ところが, ここでは 「は かない月 桂樹で作っ た, つ ま らない冠」 と, ひどくその価値 が腹められているのである‐ ここから わかることは, 詩人は決して個人の世俗 的名誉のために詩を書いているのではないということであ る. つまり, 先にも述 べたように, 一般的な詩作の態度よりもさ らに高速な目的があるこ との表明 なのである. ここで ダンは, ギリシア時代以来の 叙事詩の伝統を利用 しながら, それをキリスト教 における信仰の表明という (少なく とも詩人にとっ ては) より高次の目的に奉仕 させているといっ てもよいであろう. しかし, ここで月 桂冠が言及されているのは, たんにキリス ト教の信仰を相対 的に高位に置くた ’を導き出してくるた めばかりではない. それは, もう一つ の冠, すなわち‘A crowne of G1 ory めのものでもあるのだ. そして, この 「栄光の冠」 とは至高の者を飾る王冠であり, キリス トの受 という連作ソネ ッ トそのも 難の茨の冠であり, さらには全体で一つの円環 をなす “La Coron のを指すのである. とすれば, 表面上は詩人は自分の詩作に対する報酬 として 「栄光の冠」 を求め ているかに見えるのだが, 実はその裏に, あたかも古代の詩人たちがミ ュー ズに霊感を希求 したよ うに, 円環をなす見事な詩集が完成することを神に対 して祈願しているという意味をも含むのであ る. つまり, 叙事詩の慣習をより高次の ものに転化するということと, その慣習をそのまま利用 し て芸術の成就を乞い願うという二重の 意味で, 古典の形式が生かされているのである. 88.
(6) . 冠を編み上げる花. セステッ トでは, 初めと終わりに関する パラ ドクシカルな議論が中心となっ ている. この議論そ のものにはさ して目新しさ は見られないのだが, このパ ラ ドックスは連作全体を象徴するイ デーと して, 常に意識されなくてはならないのである. なぜなら, この 「初めにして終わり」 という神を 象徴する思想を表すためにこそ, -編のソネッ トの最終行が次の ソネ ッ トの第1行になるという特 異な形式が採用されているからである. このように, 「初めにして終わり」 という思想は, 7編か らなる連作全体を通 じてひとつの円環 という形で体現されるもの .である. しかし, この第1ソネ ッ トにおけるように, すでに連作を形作っ ている構成要素のひとつ (すなわち個々のソネ ッ ト) の中 に, すでに 「初めにして終わり」 というこの思想を表現 している箇所が存在している点に, われわ れは大いに注目しなく てはな らない‐ いいかえれば, 全体として一つの大きな円環を作り上げてい る構成要素の一つ の中に, すでにより小さな円環が作り上げられているの である. さらにこの第1ソネッ トは, 連作の冒頭において連作全体の形式を宣言しているという意味で, 他のソネ ッ トの場合以上に円環に関する言及が重要な意味を持つ‐ そして 「初めにして終わり」 と いう思想が連作の形式と不可分の関係にあることを,実に巧妙に示している表現が随所に見られる. ’の用法である それはこの現世における存在の終わり すなわち死を表してい そのひとつが‘ end . , るのだが, 二義的な意味として, ソネ ッ トの最終行を指しているとは考え られないだろうか‐ つま り, 9 行 目 の ‘The ends crowne our workes’ と い う 箇 所 に お い て,‘workes’ が 人 の 生 前 に な し. ’はその人の生涯の終わり 成就を表 しているのだが もうひとつの レベ ル うる行いを指 し,‘ ends , , の 意 味 と して,‘workes’ が 作 品 と して の ソ ネ ッ トを,‘ends’ が そ の 最 後 の 行 を 表 し て い る と も 読 め. るのである‐とするとこの箇所の意味は「(ふつうは) 最後の行が作品を飾るものなのだが」 とい っ た内容になり, この連作においては個々のソネ ッ トの終わりは必ずしも一般的な意味での終わりで ’と複数形になっ ’‘workes はないという, 作品全体の形式への言及と解釈されるのである‐ ‘ ends , ているのも, 複数のソネ ッ トからなるこの作品を表すのにふさわ しい. このように, この第1ソネ ッ トには, 連作全体としてはもとより, このソネ ッ ト自体への言及も 随所にちりばめられているので, すべての行をそのようなレベルにおいて読み進 めることも求めら れるのである. そうすることによっ て初めて, 「ダンにも失敗することはある」 とは決していえな い, 連作の巧級な見事さが理解されるの である. たとえば8行目の‘A crowne of G1ory, which ’は 敬度な信仰者としての詩人がその信仰の真正さゆえ に神から受ける名誉 dothf l lways owera , を 指 して い る の だ が, こ の ‘crowne’ を 円 環 を な す 連 作 そ の も の と 考 え る と,‘which dothf lower’. は, この円環が実は花の輪であることを表している. そしてこの花で編んだ輪こそ, イタリア語で ’の意味するところなのである つ まり ここにも作品自体への言及が見て取れるのであ corona . , る‐ したが って, この第1ソネ ッ トは神に対しての祈願という, 叙事詩における序の部分の役割を 果たしながら, その真の目的は叙事詩的形式をさらに高い目的に奉仕させ, 同時に作品自体の形と 意味にも言及 しているという意味で, 宗教的内容を持つ連作を開始するものとして実に巧妙に作ら れ て い る と い っ て よ い‐. 2‐ Annunciation Sal ion to al lthat wi l li vat snigh, 89.
(7) . 本 堂 知 彦 1every where, That AI 1 ch alwayesis AI , whi lsinnes mLustbeare, Which cannotsinne, and yet al h Whi ch cannot die e , yetcannotc use butdi , 1 l f l 1V i i Loe d h i . f t th u rg n, yee s lnse e o ye ,fai ln prison, in thy wolnbe; andthoughhethere ’ l Cantake no sinne, northou gi l weare ve , yethe wi f Takenfrom thence f l h h i h d h t e nnay trie‐ o r c e s , w c ea s , Ere byt he sphearestilエ ーe was created, thou s d Brother Wastin his・ninde , , whoisthy onne, an. W÷ ho 1m thou conceiv’st, conceiv’d ; yea thou artnow Thy M [akers maker, andthy Fatherslnother, Thou’hastl ightin darke; andshutstinl i leroo1me, t t lnln・ensi ty cloysterdi nthy deare wo 1mbe ‐. 第 1ソネ ッ トは, 他のソネ ッ トにな らっ て副題をつ けるとすれば‘Advenご とすべき である と ) そこではマリアやイエスの生涯における特定の事績につ いて 具 lo ガー ドナーは述べているが( , , 体的には触れられてはおらず, 先にも述べたようにあくまでも連作の序としての機能を果たしてい る. したがって, マリアとイエスの生涯 を追いながら, その節目の出来事を主題としてソネ ッ トが 作られているのは, この第2ソネ ッ ト以降ということになる. 第1ソネッ トを締めくくるカ プレッ トで喚起された, 救いを待ち望む気分はそのまま第2ソネ ッ トを開始する気分につ ながる. その気 分は, このソネ ッ トの主題である 「受胎告知」 にふさわしい‐ ’の指 し示す対象の変化と 全と無とにかかわる パ 第1ク オー トレイ ンの中心をなすのは, ‘a l l , l r は, 第1ソネ ッ トの最終行のそれと同様に, ラ ドックスである. まず第1行目に現れ ている‘a 救いを待ち望 むすべてのキリス ト教徒の ことである が, こ れが2行目ではす ぐに大文字 による ‘A1r に変化し その指 し示す内容は 「全なるもの」 すなわち神である このことから つ な ぎの , . , 行 (すなわち先行するソネ ッ トの最終行であると同時に, 次のソネ ッ トの第1行となる行) が, た んなるつ な ぎ以上の有機的な役割を果たしていることがわかる. そ してこの1行目から導き出され ’の中にも取り込まれて 一気に増殖する いかにもあまねく ’ は2行目における‘a た‘a l l lways , . ’が溢れかえっ ている そ して3行目で 存在する全なるものにふさわしく, この行には3つ の‘a l l . ‘a ’ は, ‘alr は再び意味を転 じ, 人間のあらゆる罪 ( ) という概念を示し, 自らは一つ の l ls i nnes 罪をも犯すことなく, 人類のあらゆる罪を背負っ て十字架にかけられたイエスを表すパラ ドックス を作り上 げているのである‐ そして第4行目には早く も2度にわた っ て, 「死ぬ」 ぐd ig) という 動詞が現れている. これは 「受胎告知」 という, 降誕を前にした晴れがま しい主題にはいかにもそ ぐわない不吉さを暗示している. このことは, イエスがその誕生以前から, 人類の罪を背負っ て十 字架上で死ぬことが約束されていることを意味するのであり, この不吉な影が, 受胎告知の喜ばし い情景に一種の厳粛さを与えているのである. しかし, ここでもうひとつ, どう しても見落とすことのできない観点がある. それは, 誕生を知 らせる喜びの内に, 約束された死が含まれているということ, すなわち始まりと終わりが同時に存 在しているという パラ ドックスである. これは, 第1ソネ ッ トの中心をなす概念であ ったばかりで なく, 7編のソネ ッ トすべてによっ て作り上 げられる, この連作全体の核となる思想である. ゆえ に,こ の 第 2 ソネ ッ トにもまた,第1ソネ ッ トと同様の自己言及があると考えられる‐ つ まり, 「初 90.
(8) . 冠を編み上げる花. めにして終わり」 という概念は, 連作全体 によっ て作り上げられるばかりではなく, 個々のソネ ッ トの中にもあたかも入れ子細工のように存在しているのである. 第2ク オー トレイ ンは, マリアに対する呼びかけで始まる‐ ところ で, この連作全体につ いてい えることなのだが, それぞれの詩の中での語り手と聞き手との関係が必ずしも明瞭ではない‐ この “La Corona“ 以降に書かれたとされている “H l t においては, 語り手たる 「私」 が oySonne じつに頻繁に 登場しており, そこか らはダンの強烈な自我の意識が読 み取れるのであるが, この “La Cor na” には そのような自意識を持 た 「私」 は存在せず 実際に登場してくる 「私 の o っ 」 , , 存在感はまことにささやかなもの である. この第2ソネ ッ トでは, 語り手が実際に 「私」 としては 現れていない. もちろん, ここでの語り手が第1ソネ ッ トから引き続いて, 詩人自身であると考え てもいっ こうに不都合はない‐ただ,ここでソネ ッ トの主題である 「受胎告知」 を考えてみるなら, ここにはマ リアのもとに使者として遣わされた天使ガブリエルが現れていない‐ したがっ て, ここ での語り手をガ ブリエルと解釈することの可能性も生じてくる‐ 少なく とも, 語り手がその 腹想の うちに, ガブリエルの立場に身を置いていると考えることは可能であろう. この第2クオー トレイ ンにもパラ ドク シカルな要素が色濃い.ここでは,第1ク オー トレイ ンからの 「罪」 という概念が, マリアの胎内を表す「牢獄」と結び付けられている‐ 本来, 牢獄とは罪人が入るべき場所であるが, イ エ ス が そ こ に 入 る の は, ま さ に そ の 罪 か ら逃 れ る た め な の だ と い う の が, こ の ク オ ー ト レイ ンの. 中心的パラ ドックスである. そ して, 牢獄といういかにも聖母に対しては不敬ともとられかねない 語を用いているのは, イ エスがこの世でまさに 「罪人」 として十字架にかけられたこととの直接の つ ながりを表すためである‐ つ づく受肉と死とのパラ ドックスは, 誰にとっ てもすでになじみ深い ものであろう. セ ステッ トでは, オクテッ トで語られた マリアの受胎がもつ 意味につ いて語られる. その意味で は, セステッ トがオクテッ トの説明になっ ているともいうことができ, ソネ ッ トという形式に特徴 的なセ ステ ッ トとオクテッ トの対照関係が図られているのである‐ ここではとく に9行目に注目し たい‐ ガー ドナーによると, これはプラ トンやアリス トテレスにも現れているような, 宇宙の創成 11 ) とともに時が生まれ, 宇宙の運行とともに時が進行するという考え方に基 づく ものだという( とすれば 「天球によっ て時が創造される以前に」 というのは, 天地創造以前にということになり, マリアの受胎はこの世の始まる以前にすでに神の計画の中にはいっ ていたことになる. そう考える と, マリアの受胎はイ エスの生涯の始まりではあるが, 神の計画の成就という観点から見れば, そ れは一つの終わりをも意味するの である. つまり, ここでも 「初めにして終わり」 という, この連 作の中心的主題が言及されているのであり, 連作全体におい ては言うまでもなく, 個々のソネ ッ ト における自己言及的性格が見て取れるの である. 自己言及という問題に関していうなら, ソネ ッ トを締めくくるカプレッ トにもそれは見られる. 1 3行目の前半にある 「あなたは闇のなかに光をもっ ていらっ しゃる」 は, 現世という闇に射し込ん だ一条の光としてのイエスの誕生を指すとともに, マリアの子宮というひとつの闇のなかに, 神の 子たるイエスが宿っ たことをも指 しているのだが, この暗い子宮のイメージは同じ行の後半の 「小 さな部屋」 へと引き継がれる‐ この 「小さな部屋」 は, 6行目の 「牢獄」 と関連するイメージのも とに用いられている言葉なのであるが,この言葉からは,ダンのもう一つの別の詩が思い出される . そ れは Tぬe so71gs α7zd so7zれ鑑s の な か の “The Canonizat ion” で あ る. そ の32行 目 に ‘We’ 1 l ’ ldin sonnets pretty r bui とあり 詩を美しい部屋にたとえ ている‐ しかも, そこでは詩 oomes , ’ と 呼 ん で い る の で あ る ま さ に そ の ソ ネ トそ の も の の 形 式 を 持 つ “L C を ‘sonnet ッ a orona” に . ‘ ’ おいて roome という語から, 詩そのものを連想するのは自然な ことであろう し, そう解釈 した 91.
(9) . 本. 堂. 知. 彦. ト. ときに, このソネ ッ トにおける自己言及性はよりいっそう明瞭なものとなるであろう. そして, こ のセステッ トからは, 自らの書く詩の中に神の恩寵がこもっ ている という詩人の自負が読み取れる のではないだろうか. ソネ ッ トの最終行は, 小さな部屋であるマリアの子宮に, 広大無辺の神が宿るという パラ ドック スをさ らに付け加えて次のソネ ッ トへと続いてゆくことになる.. 皿. ‐. \-. 3. Nat i i t vi e .lnnQensi ie cloysterdinthy deare wornbe t ,. lbe lov’din Now leaves hi 〔 ・prisonnlent s we , Therehehathlnade hinnsel feto hi sintent Wr ldto conlエ ーe; eakeenough, now into our wor Butoh,forthee, for him, hathth’lnne no roome? f 1 Yetlay hi l h’or i Qt l l linthisstal ent , and ro・ , Starres and wisel t i l lt l l e o e v e : n nw nt rave pr , ldoome Th’ef fectof Herodesjealous general. . Seestthou lny soul thseyes, how he ththyfai e , , wi. Whichf i lsai lplace, yet none holds. him, dothlye? W′as not hi tytowardsthee wondrous high, spi That would have needto bepi i t t edbythee? Kissehinl thhi l l ・into Egyptgoe, , and wi Wi thhiskinde mother, who partakesthy woe ‐ こ の 第 3 ソネ ッ トにおいて著しい特色をなしているのは, 語り手と聞き手との関係である. 聞き. ’のなかに現れており これは先の第2ソネ ッ トか i 手は, すでに1行目の ‘ nthy deare wombe , l ら引き続き マ リアを指 して いる. したがっ て, 6行目の‘ ayhim’という命令の 呼びかけも, 語 り手から聖母マリアに対してなされたものと考えられる‐ このマリアへの命令はすでに第2 ソ ネ ッ IVi トの 5 行 目 に も ‘Loe thful i rg n’という形で現れており, このことからはカ トリ ックの信 , fai 仰における一種の精神修養である黙想において, 黙想する者がその対照にきわめて親密に寄り添っ ている姿 を思い起こさせられる. このソネ ッ トは, いよいよイエスの 「降誕」 という最も喜ばしい場面を迎える‐ ところが, この ソネ ッ トには, その開始から不吉な響きが伴っ ている. 2行目は 「いま, その愛してやまない牢獄 を後にする」 となっ ており, ここからまず思い浮かぶイメージは, ながく獄につ ながれた後に, い よいよ時が来て刑場に引かれてゆく死刑囚の姿であろう. ここでもまた, 第2ソネ ッ トの場合と同 様に, 誕生という始まり 、のなかに, 死という終わりが忍び込んでいるのである. これは, 取り も直 さず 「初めにして終わり」 という全体の主題を, 部分としてのソネ ッ トの中で表してみせているの である. 死刑囚のイメージは, 十字架上で 息絶えるイエスの未来を暗示するものであり, その悲劇的な気 92.
(10) . 冠を編み上げる花. 分はけっ して晴れることなくソネ ッ トの前半に浸透 している‐ オクテッ トにおいて強調されている のは, この世に生を受けるために, 弱い肉体を身につ けたイ エスの姿であり, 誕生の喜びよりも引 き続いて起こる数々の苦難の方へ関心が向けられている‐ したがっ てそこから引き起こされる情調 も, 晴れやかな喜びではなく, 恐れの入りま じっ た憐れみなのである‐ この世にマリア, イエス母 子を守り, かくまうような宿はなく, かろうじてヘ ロ デの残虐さからイエスを守るのは, 東方から はるばると訪ねてくる3賢人だけ, という状況がオクテッ トの後半で語られる. この晴れがま しさ が極端なまでに抑えられた 「降誕」 のソネ ッ トは, しかし 「初めにして終わり」 というテーマに忠 実に従っ ているのであり, 語り手は強いて 「降誕」 という喜ばしい始まりの中に, 終わりの意味を 読み取ろうとしているかのようである‐ 先にも述べたように, このソネ ッ トでは聞き手の問題がある‐ 同じ2人称で呼びかけられている tthou, my soule’ と, 聞 き 手 対象が, 詩の中で交替するのである. セ ステ ッ トの開始早々,‘Sees がマリアから語り手の魂に代わっ たことが明らかにされる‐ このことは, 曝想を通じて神, もしく は自己の魂との対話に到るという, イ グナチウス流の様式化された腹想の形を示すものと考えられ る. た しかにそう考えると, このソネ ッ トの展開の仕方はよく説明されるであろう. ただし, この ように詩の前後で聞き手が交替していることが明らかにわかるのは, この第3ソネッ トと最後の第 7 ソネ ッ トのみである. その他のソネ ッ トの場合には, そのようなオクテッ トとセステッ トにおけ. る語り手と聞き手の関係の変化は, それ ほど明瞭ではない‐ したが っ て,“La Corona“ 全体につ いて, カ トリ ック的隈想 との関連を厳密に証拠立てることは難 しい. マーツ は,“La Corona” が ) それでは 12 fHoly Sonnet とは異なる曝想の様式に従 っ ているの だと説明 しているが( 他の ‘ , 個々のソネ ッ トの内部での展開を説明するには不十分である‐ というより, この連作においては, 13 ) の構 成 に や や 統一 感に欠 ける と ion( tuat そ の よ う な 詩 の 内 部 に お け る い わ ゆ る rhetori calsi ,. ころがあるのである‐ それが, ソネ ッ トという形式が本来持つ前後の対照が必ずしも十分に生かさ れていないといっ た結果になるのであろう. そこで, この第3ソネ ッ トの場合を見ると, まずその ような前後の対照は, 先にも述べたとおりすでに明瞭である‐ 前半のオクテッ トにおいて, 皆に祝 福されるべきイ エスの誕生 が, 現世では必ずしも受け入れられず, ヘロ デの残忍な手さえ及ぼうと している という痛ま しい状況を述べながら憐れみの感情を高め, その感情がセステッ トでの自己の 魂への呼びかけを引き出しているのである. このオクテ ッ トからセステッ トヘの推移はまことに自 2行目で人類に対して限り無い憐れみの心を 然であり, そこに一貫している憐れみの感情は, 11~1 h his kinde もっ ているイ エスが今や憐れま れるべき境遇にあることを思いつつ, 最終行の “Wi t ” め れ と な mother , whopartakesthy woe に よ っ て 普 遍 的 な 宗 教 的 感 情 に ま で 高 ら る こ に る. そ. の意味でこの第3ソネ ッ トは, -編のソネ ッ トとしての完成度が高いといえよう. しかも, その基 調となっ ている情調は, 「降誕」 のソネ ッ トであるにもかかわ らず, 禁欲的なまでに明るい喜びを 抑えた書き方がなされることによっ て, いっ そうきわだっ たものになっ ているのである.. 4‐ TemLple. V V i th hiskinde mother who partakesthy woe, ld doth si Joseph turne backe; see where your chi t , 93.
(11) . 本 堂 知 彦 B1owing t , yea blowing outthose sparks ofwi , v ▽hi fe on those Doctors did bestow ; chhi .nsel The Wordbutlat elycould notspeake, andl。e l tsodenly speakes wonders, whencecon t : lesi , Thatal l which was l which shouldbe writ , and al , A shal low seemingchi ld, shoulddeeply know? His Godhead was notsoulet。 hi s・nanhood, Norhadtil low’d hin l : l el nel Qtothi s ri enesse. p , But asf。r one wh is good ich hath alongtaske, ’t , v ▽i ththe Sunneto beginnehis businesse, Hein his ages nlorning thus began. By・niraclesexceeding power ofpQan ‐. この第4ソネ ッ トは, 7編からなる連作のちょうど中央に位置するもの である‐ 第1から第3 ソ ネ ッ トまでが, イ エスの生誕に関連した内容を扱い, 第5から第7ソネ ッ トでイエスの死 と復活が 語られているので, この第4ソネ ッ トはそれらの間にあっ て, やや平穏な間奏曲といった趣がある といえるかもしれない. 先のソネ ッ トの場合のように, この第4ソネ ッ トにおける語り手と聞き手 との関係を考え てみると, いささかの戸惑いを禁じえない‐ 語り手は, やはり詩人自身 であろう. そして聞き手は, マリアの夫であるヨセフである. したがっ て, 先のソネ ッ トとのつ なぎの行であ ’は語り手の魂 であっ たが ここではそれがヨセフに代わっ ている その る第1行目における‘ hy t , . 事自体はむしろ, 詩作の上でのひとつの 技法として評価することが できるのだが, このソネ ッ トで 問題なのは,そのヨセフが詩の展開の中で,何の有機的な役割も果たしていないということである‐. ‘ ’ ‘ ’ た しか に 2 行 目 の ‘ turneback’ , see , 5 行 目 の loe と い う よ う に 命 令 の 形 で 呼 び か け ら れ て は. いるのだが, 語り手の関心が実際にヨセ フに向かうことはないし, ヨセ フが詩の内容と直接に関係 することもない. 関係があるとすれば, ルカ伝の第2章で語られるこのイエスの逸話に両親が登場 するということであろう. しかしながら’ このソネ ッ トの内容から見る限り, ここにヨセフが登場 することの必然性ははなはだ希薄 であるといわざるを得ない. その必然性は, むしろ連作全体の構成のなか に求めることができるかもしれない. 序の役割を果 たしている第1ソネ ッ トは別として, 第2, 第3ソネ ッ トのオクテ ッ トにおいて聞き手は聖母マリ 1 4 } アであった‐ またそこでの語り手の 関心もイエスよりはマリアのほうにあったといってよい( . すなわち, 連作の前半において中心を占める登場人物はマリアだっ たのである. これに対して, 連 作の後半はイエスの受難と復活とが扱われていることからもわかるとおり, その中心はイエスであ る. そのような前半と後半をつ な ぐものとして, この第4ソネ ッ トにヨセフ が登場しているとは考 えられないだろう か. 事実, このソネ ッ トの冒頭, 1~2行目で, 不幸な境遇を悲しんでいるのが マリアばかりではなく, ヨセフもまた同様であ っ たことがわかるのである‐ しかも 1行目には, ‘hi ’ (ヨセフ) と 親子3人がすべて含まれて ‘hy s’ (イ エ ス), ‘his kinde mothe (マリア) , t , いるのである‐ 1 2歳にして神殿で博士たちに知恵を語るという, 悲劇的要素の少ない主題を扱う こ の第4ソネ ッ トは, それゆえ平穏な聖家族の園像を見ているかのような印象もある. 前半と後半の それぞれに苦悩に満ち, かつ劇 的な情景を結び付けるものとして, この穏やかな ソネ ッ トにヨセフ が姿を見せているのも, じつ は周到な計画に基づく ものと考え られるのではないだろうか. しかしながら,先にも述べたようにここでのヨセフがもつ機能的役割は ごく 限られたものであり, 94.
(12) . 冠を編み上げる花. 語り手の関心はもっ ぱら知恵を語る1 2歳のイエスに向けられている. そしてオクテッ トとセステッ トとは, ひとつの疑問とそれに対する答えという関係にある. オクテッ トにおける疑問とは, 年端 もいかない子供が, 深い知恵に溢れる言葉をなぜ話すことができるのかということである‐ そして ’と い う 表 現 に 要 l whi l which shouldbe wr i その知恵の性質とは, 7行目の ‘al t ch Was , and al 約されている. 「書き記されたすべて, そして今後書き記されるべきすべて」 というのは, 神の計 画に含まれるすべてのこと, すなわち旧約聖書と新約聖書によっ て約束されたことのすべてを意味 していると考えてよかろう. しかし, これはまた過去と未来という二つ の相における時間が, イエ スという一個の存在の中にあるということをも表 しているのであり. 言い換えるな ら, ここに 「神 の時」, つ まりあの 「初めにして終わり」 というこの連作全体を通じて流れる主題がまたしても姿 を現しているのである‐ そのように考えると, ここにもまた連作を構成する個々のソネ ッ トにおけ る自己言及的な性格が現れているといえるのではないだろうか‐ セステッ トはオクテッ トの疑問に対する解答という形になっ ている‐ その最初の行である9行目 ’はやや難解な箇所であろう ここでは神性を の ‘His Godhead was notsoule to hi s manhood . ’とが対比的に用いられており 「あのお方 表 す ‘Godhead’ と人間であることを表す‘monhood , に備わっ た神性が, 人間としてのあのお方の魂なのではなかっ た」 と解釈することもできようし, ’をたんなる魂ではなく 「核心」 という意味にとるな ら 「あのお方の神性が あのお また‘ soul e , , 方が人間の姿をとっ ていることの意味の本質なの ではなかっ た」 というように読むことも可能であ ろう.A‐J ‐スミスはこの行の解釈を「キリス トは人間の体をま とっ た神ではなく, 人間の魂をもっ 15 ) いずれにせよ この行のいわんとする内容は 「人間としてのイ ておられたの だ」 としている( ‐ , エスがあのような知恵を語るのは,イエスが神であるからではなかっ たのだ」ということになろう‐ さらに続く1 0行目で 「時が, あのお方をこのように豊かに成熟させたの でもなかっ た」 と, 真の意 味が別の所にあることを示唆しつつ, 最後の4行で解答を与えているのである‐ そこにはダンの宗 教詩にしばしば見 られる‘ sun’(太陽) と‘ son’(息子) との パ ン (語呂合わせ) があり, 日の出と ともに (すなわち子なるイエスとともに) 仕事に励むことが善なることであると強調される. この イエス, 太陽, 朝のイメージにはたしかにある種の清新さが感じられる‐ しかし, この第4ソネ ッ トの セ ス テ ッ トに は,先 の 第 3 ソネ ッ トに見られたような聞き手の交替がない‐したがっ てセステッ トにおける聞き手は依然としてヨセフであると考えられる‐ ただ, ここでは聞き手はいかなる形で も呼びかけられることがなく, 語り手の関心は, もっ ぱら知恵を語るイエスに集中 しているの であ る. そのために, ここでの聞き手は存在感が非常に希薄なものとなっ てしま っ ており, 仮にそれが マリアであるうと, 語り手自身の魂であろうと, いっ こうにかまわないといっ てしま っ てもよいほ ど で あ る‐つ ま り,こ の ソ ネ ッ トに は い わ ゆ る rhetor icals i ion の 展 開 が 存 在 しな い の で あ る. tuat. その結果として, この 「神殿」 のソネッ トが 「降誕」 のソネ ッ トなどと比較 して, やや平板な印象 を与えるもの になっ ていることは否定できない‐. 注 1 ( ) Murray Ros ton, rたeso賜 qf w比: A StudッqfJoた7 ) zDo九たe (oxford , p‐157 ‐ ,1974. 2 ( ) ダンの ”Hymneざ が, 彼の他の詩の中にあっては特異な存在であることを認めている評者も多い‐ たとえば ガー ドナ ー は, “Hymnet heピ を表して 「そこにはふつう我々がダンとは結び付けて考えるこ o GodtheFa t との少ない落ち着きがあり, その恋愛詩の舞い上がるような調子のかわりに抑制の効いたメロディ ーがある‐」 と して いる‐ He l Z ヱ郡oれα7 ter餌 we (oxford,1971) en Gardner zdLi ,p , Re ‐ ‐192. ( ) LouisL- Martz, Tれe poetry oゾ Medi 3 t砺i o九 (Yal e ‐ , PP ,1962) ‐107一12 95.
(13) . 本 堂 知 彦 4 ( ) Margaret Maurer,‘The Circular ArgumentofDonne’s“La Corona”’,SBL,22 (1982), pp.51一68 ‐ ‘“ ” ’ l i T 九e gαg解 α7 t ( ) Patrick F. 0’Connel 5 zd 幼e Doひe: Reαss- ca sacra’ , La Corona : Donnes Ars Poe ,7 1九g Joあれ 刀o i ), pp 7 es z肥 (Mi ssour - ,1986 .119一130 ( ) Maureen Sabine 就航 E d d ぞα沈ん (Macm man,1992) 6 em e れ e た e r e g , pp . , .43‐58 7 { ) これは “La Coronぼ 第 1 ソネ ッ トの 1 -2行目であるが,テキストの引用はすべてガー ドナーの版によった‐ I T He l れe PI災“ePoems げ J en Gardner Oた7 2Do7 z解 (oxford,1978) . ,ed ., 7 7 7 れ C D } John T. Shawcross 定雄 p J ん ) ( 8 t f oe か q o 九 o 7 1れe (Anchor ,p ‐ , e omp ,1967 ‐334 } Gardner ( 9 ば 5 8 c o ,p . ‐ , p‐. Q O } それぞれのソネットの題名は, 写本によっては付いていないものもあり, ここにその題名を採用したのはたんに 便宜上のことであり, ガー ドナー自身, その正当性を認めていない‐ ヱ id b ‐ ‐57 .,p bid qD Z ・ -, P -59. 鋤 L .L . マーツは, この連作がいわゆるロザリオの祈りと習慣に基づくものだとしている. さらにここでは一般 i 的な聖母マリアを対象にしたものではなく,イエスを対象としたものであるという‐L‐ L t t z . Mar ,op.c ‐,p ‐ 107 ‐. 鰯 これはルネッサンスの詩に対して, バロック詩の定義を試みようとして, ネルソンが考えた修辞的特質をいう言 ion 葉で, 詩の中での語り手と聞き手との劇的な関係を指している‐ ネルソンによれば, このrhe tuat i lsi t or ca β L i が変化, 発展してゆくことがバロ ック詩の大きな特徴である. Lowry Nelson Jr P tゥ 研o ” e r c o e q y ‐, l (Ya ) e , pp . ,1961 ‐87一98. 側. このようにマリアが祈りの対象になるのは, ロザリオの祈りの形式としてはむしろより一般的なものである.. 鰯. L‐ L‐ Mar i t 乙 z ‐ , op‐ c ., p ・105 Smi 6 2 2 th, o野‐, P . .. 96.
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