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賢明な風刺 : ジョン・ダンの「風刺詩第三番」に おける名指しの詩的戦略

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賢明な風刺 : ジョン・ダンの「風刺詩第三番」に おける名指しの詩的戦略

著者 友田 奈津子

雑誌名 Core

号 34

ページ 27‑47

発行年 2005‑03‑15

権利 同志社大学英文学会Core編集部

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015064

(2)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 27 

賢明な風刺‑ジョン・ダンの

「風刺詩第三番 J における名指しの詩的戦略

友田奈津子

ダンの「風刺詩第三番

J

(Satyre III")は、手稿に付された「信仰につい て

J

(Of Religion"あるいは UponReligion")という副題によって、宗教 についての風刺作品として知られる。宗教的に緊張状態にあった時代風潮を 反 映 し l乱立し混乱する宗教をいかに那捻しているか、時代的背景とダン 自身の伝記的要素から、彼の一体いかなる宗教的信条がこの作品に顕れてい るかということを明らかにすることが、批評家のこの作品に対する研究の多 くを占めてきた。2けれどもこの作品は決して宗教詩の一環として、あるい は当時頻繁に出された宗教論争のパンフレットでもなく、風刺という厳粛な 主題を換骨奪胎する遊戯的な文学形式をその枠組みとして設定しているO こ の点に焦点を当ててみることで、従来とは違った「風刺詩第三番」の姿が見 えてくるのではないか。

ダンが『風刺詩

J

(8αfyres)を創作した1590年代は、3エリザベス女王の 晩年にあたる。宗教改革後の軌道修正に失敗し、王位継承への緊張感の高ま

りの中で、風刺を誘発した時代であった。名指しで行われる過剰なまでの個 人への「中傷

J

を日にしたダンは、風刺について次のような見解を述べる。

It is not the first time that our age hath seen that art practised, That  when there are witty and sharp libels made which not onely for 

(3)

28  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 liberty of speaking, but for the elegancie, and composition, would  take deep root, and make durable impressions in the memory, no  other way hath been thought so tosuppresse them, as to divulge  some course, and railing one: for when the noise is risen, that libels  are abroad, mens curiositie must be served with something: and it Is  better for the honour of the person traduced, that some blunt  downright railing be vented, ofwhich every body is soon weary, then  other pieces, which entertain us long with a delight, and love the  things themselves. (89‑90) 

「あの技が実践されるのを見るのは私たちの時代で初めてのことではない」

と、 1612年の書簡の中で彼が回想するのは、ほかの風刺作品とともに、お そらく『風刺詩』を発表した青春の時期のことである昨今の乱発される

「中傷」を苦々しく眺める彼は、昔を述懐しながら風刺のあるべき姿を語る のであるO 風刺とは「発言の自由」だけではなく、「上品さ」と「構図の美 しさ」を兼ね備えたものであり、「喜び

J

を与え「楽しませる j ことこそが 風刺であるとO ダンにとって風刺はエンターテイメントにほかならない。

ダンが若いころ書いた『風刺詩jが、実際どこまでこの理想を満たしてい たかはともかく、「楽しませる

J

という意識が彼の中にあったことは確かで、

あろう。ダンは反骨精神溢れる風刺もまた「教えかっ楽しませる」というル ネサンスの理想的な文学の目的を実践する文学ジャンルであることを主張す O

ダンはこの風刺の詩的綱領の中で、風刺に耐久性のあることを重視するO

「長く」人々の記憶の中で愛され楽しまれるために、ダンは「不畿で率直な

(4)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 29  罵倒

J

を吐き出すことで人々を「昨易と」させることを非難する。そして風 刺作品の耐久性のためにダンが主張するのは、人物を明らかにしてあからさ

まに「罵倒

J

しないということである。こうした要素を排除した心楽しき作 品に痛烈で機知溢れる風刺の「技

J

を見る。

確かに『風刺詩Ji5編を通してダンが攻撃したのは、対象となる人物の類 型であり、風刺の「技

J

を毒舌を撒き散らす個人攻撃には行使しない。見事 に対象のタイプを描き出し浮き彫りにすることによって、その本質を暴き出 し潮笑する。6

けれどもダンは、彼の雇主であったエジャトン卿がダンの風刺の主題の多 様性に半ば飽きながら嘆息したように、「巨大に膨れ上がる、治安の怠惰な 無数の審判たちの群れ

J

7と、ありとあらゆる時事問題を因習と偽善に強張 った世界に取材する社会風刺を生み出した。ダンが「審判」として悪を弾劾 したのは、宮廷を中心にダンが当時法学院の学生として関係していた法曹界 など多岐にわたるO こうした時事問題に深く根ざす風刺において、ただ耐久 性のためにこの点を無視しては本当の風刺の姿が見えなくなる。夕、ンはどの

ような詩的戦略でこの矛盾を埋めていくのか。

「信仰について

J

という道徳的な言説が作品全体に敷街する「風刺詩第三 番」において、個人攻撃をしないと断るダンが、個人の名を出すシーンが2 箇所あるO 最初に登場するのは、当時乱立した諸宗教である、カトリック、

新教、英国国教会などを擬人化した5人の男たちに付与された名前であるO

そしてもうー箇所、これらの宗教の混乱を生み出した当事者である、各国の 玉、そして宗教改革者たちである。本稿では、避け、隠蔽されるべき個々の 名前が前面に押し出される「風刺詩第三番

J

において、ダンがいかなる風刺 の「技」を用いて人々を「教えかっ楽しませる」作品を創作したのかを模索

(5)

30  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番jにおける名指しの詩的戦略 するO

詩人は「風刺詩第三番jの冒頭、怒れる風刺の語り手を登場させる。

Kinde pitty chokes my spleene; brave scorn forbids  Those teares to issue which swell my eyelids;…(1‑2)

「牌臓」は、ルネサンスの生理学において、期笑とメランコリーを発生させ る器官とされる。この「牌臓

J

を「圧迫する」といったヒステリーの様相を 呈す詩人のこの激しい第一声は、逼迫した不安感と怒りを端的に示す。そし てこの官頭の一行の中で、「優しい憐れみ

J I

勇敢な明り

J

という、連打され る撞着語法により読者は、非常に濃縮されたパラドクスの世界に足を踏み入 れる。そしてこの劇的独白は詩で語られる世界が論理的な明確さ、通常の意 味合いを脱構築する語り手によって語られる詩的世界であることを予見す る。

けれども、読者は『唄とソネット j(Songs αnd Sonets)などの恋愛詩で、

恋人たちによって頻繁に流されていた涙が、ここでは押し留められることに 気付く。ダン得意の感情過多の涙すらも風刺の「勇敢な醐り」によって流す ことを禁止されるのだ。この緊張感のもと、混乱をもたらすかと思われたパ ラドクスは続く 2行ですばやく修整が試みられる。

1 must not laugh, nor weepe sinnes, and be wise,  Can railing then cure these worne maladies? (3‑4) 

ダンの眼前に広がるのは「擦り切れた病癖jの蔓延する世界である。この絶

(6)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 31  望的な病状の前に、追い詰められ「笑うことも泣くことも出来ない」詩人。

そしてこの異様な、病的な世界にあって、しかし詩人は「噸ることでこれら の擦り切れた病癖が治せるのかj と問い質す。罵倒することが無意味だと実 感している詩人の提示する打開策は、抜け目ない風刺を展開することであ O

「罵倒

J

(rai1ing")は、「中傷

J

(叩bel")とともに、苛烈な人身攻撃・誹 務中傷が主流であった当時の風刺の類語である。この風潮の中であえてダン は「罵倒

J

から身を引き、「賢くなる」と宣言するのである。風刺というジ ャンルを意識しながらも、ダンはその攻撃性を抑え賢くなると、自分を風刺 の世界から棚上げしてしまうのである。「賢く」この「病癖」に対峠してい くというのは詩人のどのような態度なのか。ダンがこの作品の中でこの慈り に駆られた「病癖

J

を癒していくため、彼が選択した風刺の具体的な戦略を 見ていこうC

そもそも詩人は何に逼迫感を伴うほども悪りを感じているのか。

Is not our Mistresse faire Religion,  As worthy of all our Soules devotion  As vertue was to the first blinded age?  (5‑7) 

詩人は昔盲目の時代に美徳に対して向けられていたような全霊を捧げるよう な信仰、「私たちの恋人である美しき信仰」がない、ということを嘆くO

けれども、「私たちの

J

という言葉が指示するように、この信仰の不在が 嘆かれるのは、詩人個人の問題ではない。モノローグで語り始めた詩人は、

5行目以降何の簿謄もなく、「私たち」へと語り手の中にこの作品の読者を

(7)

32  賢明な風刺ージョン・ダンの[風刺詩第三番jにおける名指しの詩的戦略 恋意的に包含させてしまうO 読者は、この「賢い

J

風刺の観衆であると同時

に同行者となり、一方詩人はこの罵倒を避け、抜け目ない語り手となり読者 を導くO そして読者の性質や状況をわきまえた上で、相手にわかる言葉で話 すことを前提とする風刺を展開するO この環境の中、風刺は、この読者を前 にして彼らが前もって了解していたことをいかに述べるか、という形態の芸 術であったといえる。 詩行の上で詩人と読者が交じりあい、作品は彼らの 交歓の場となる

この信仰なき時代、読者は詩人によって美徳に対して向けられていたよう な献身を、「勇気」に対して向けられることなる。「この恐れこそが大いなる 勇気( courage")でありもっとも高潔な勇気( valourり な の だ

J

(16)と いうように courage"と"valourヘ心身両方から強調される「勇気」は、当 時の若者たちに求められる重要な美徳の一つである。ダンは詰問する。

Dar'st thou ayd mutinous Dutch, and dar'st thou lay  Thee in ships wooden Sepulchers, a prey 

To leaders rage, to stormes, to shot, to dearth?  Dar'st thou dive seas, and dungeons ofthe earth?  Hatthou couragious fire to thraw the ice 

Offrozen North discoveries?  and thrise  Colder then Salamanders, like divine 

Children in th'oven, fires of Spaine, and the line,  Whose countries limbecks ourbodies bee,  Canst thou for gaine beare?…(15‑26) 

(8)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 33  ここで述べられる「勇気」とはまず「オランダ人を助ける勇気を持ち、木の 墓のような船に乗って、指揮官の怒りや大嵐や鉄砲の玉や飢餓にさらすだけ の勇気があるか

J

というように、ダンが自身の書簡詩の中で、歌ったカディス 遠征などへの挑戦であるO 若者たちが立身のために現実に従事し、彼らのも っとも悲惨な記憶と勇気の舞台である航海を想起させることによって、読者 の興味と共感を呼び覚ます。この「勇気

J

のカタログはイングランドの大航 海と植民地への希望と野心を字んで膨み、さらに「勇気」は「北極海の氷を 溶かすほどの情熱」、あるいは「火とかげよりも冷血で蒸留器に負けない熱 気j と、実現不可能なものとの比険により伸張される。

この「勇気j を試す詩人の壮大なカタログは、最後の詰問に至る。

and must every hee 

Which cryes not, Goddesse, to thy Mistresse, draw,  Or eate thy poysonous words? courage of straw!  (25‑28) 

「お前の恋人を女神と崇めない者には剣を抜くか

J

と詩人が尋ねるとき、こ の Mistresse"とは、もちろん彼らの世俗的な恋人を指すのであろう。けれ ども文脈上、この騎士道精神が働くのは Mistresse"、つまり「女王」エリ ザベス 1世を想起させる。「勇気」を尋ねたとき、立身出世を願う詩人とそ の読者にとって、エリザベス朝ルネサンスを彩る拡張する航海のイメージと 宮廷は切り離せない。9

さらに Mistresse"のために戦うことと「毒気のある言葉」風刺を味わう ことが並置され、同じ文脈上で語られていることに注意したい。詩人によっ て「勇気」についてのカタログ上を遊覧した読者は、「この毒気のある言葉

(9)

34  賢明な風刺 ジョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 を食らう勇気はあるか」という一節で風刺の紙面に戻される。そして積み上 げられた「勇気」のカタログは次々と重ねられる修辞疑問が否定を予弁して はいるものの、「そんなものは藁の勇気に過ぎない」とあっさりと一蹴され てしまうのであるO 詩人は宮廷、法廷など彼らの社会的成功を願う場所を 瑚笑してみせ、彼らが実人生の中で試されるこの「信仰

J

の代替物になりう

る可能性のある「勇気」を、あえて彼らの眼前で否定する。

けれどもこうして否定された「勇気j は、彼らが世俗的な世界に対して無 関心であることを示すものではない。いまだ彼らは「世界のあらゆる部分は 衰えている」と、老女となったこの世界を愛さずにはいられない (36‑8)。

この認識の強化によって、「勇気

J

という何かを得ょうとするための情動を 通過し、真実求めるべき Mistresse"へと詩人は読者を誘うO

Seeke true religion.  0 where? Mirreus 

Thinking her unhous'd here, and fled from us,  Seekes her at Rome; there, because hee doth know  That shee was there a thousand yeares agoe,  He loves her ragges so, as wee here obey 

The statecloth where the Prince sate yesterday... (43‑8) 

「真実の信仰を求めよ」という大きな命題が提示される。そしてこの命題 に対し、周囲を見渡す詩人のさまよう視線は、「風刺詩第三番」の詩行の中 にはこの社会全体を見渡す特権的視点がないということを示唆する。ダンは 眼前の16世紀末の宗教的混乱を「ああ、どこへ」というこの一つの嘆息の 中で明らかにするのだ。この全体を見ることを出来ないことを表明した詩人

(10)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 35  は、「信仰」を断片化し、各宗派を検索し、類型化するのであるO カトリッ ク、新教、英国国教会、無神論などの相克する各宗派・思想をダンは列挙す る。

けれどもこれら宗派は一度もその直接的な名称を作品の中で告げられな い。代わりに示されるのは、直前の崇高な間いに対し客体的な Mirreusと いう男の名前であるO ダンの「風刺詩第三番」は、このMirreusを筆頭に 次々現われる「宗教」に名前を与え擬人化し、彼らの特性を紹介することで 各宗派の姿を浮き彫りにする。

この擬人化される各宗派の教徒に対応して、彼らが信奉する対象が顕在化 するo 5行自の「私たちの恋人である美しき信仰」と同調し、「真実の信仰」

には「美しい」という女性を表す形容詞が付与されるO さらに「勇気

J

のカ タ ロ グ に お い て 示 さ れ た Mistresse"へ の 言 及 も 上 塗 り さ れ るO

Mistresse"の存在は、常時詩行の中にそして読者の頭に埋め込まれること となる。そして「真実の信仰を求めよ」という命題が契機となり、女性とそ の女性を求める男たちに物語が取って代わるO 詩人は、 Mistresse"という 言葉の連想により、真面目な宗教議論を即物的な世俗的恋愛遊戯へと反転さ せる。

この人物たちがどのような宗派を示すかは、共通の文化的基盤を持つ読み 手たちには容易に想像できただろう。それぞれの登場人物がどの宗派を示す かを思い浮かべながら読み進める読者を前にし、ダンはこれらの男たちが

「信仰j という美女を求めている有様を描く際、手がかりにするのは「女好 きの気質

J

(53)である。つまり詩人がしようとしているのは、このさまざ まに異なる「女好き」という視点から男たちの気質描写をすることにより、

個々の教えや神学的特徴ではなく、「宗教

J

一般に共通する性質を説明しょ

(11)

36  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 うというのだ。つまり各宗派を擬人化した個々の名前を持った人物たちは、

一見宗教とは無関係な描写によって書き分けられていくO けれども、このダ ンの視点の低さは真面目な宗教論議を破続させながらはるかに鮮明に各宗派 の特徴を剥き出しにしていくこととなるO この機知に富んだ鮮やかな風刺の 手際を解す読者に対し、これら登場人物の特性をいかに適切かつ巧妙に、彼 らを納得させるフォルムで描き分けて見せるか、というのがダンの風刺詩人 としての技量の見せ所となる。10

まずMirreusの特性は「ここにいない」ことであるO ではどこにいるか というと、「ローマに千年前から存在すると思うので、そこで」探している のであるO その上、 Mirreusはこのかなり年老いた「恋人のぼろ布」をいつ までも愛していることがあげつらわれる。 Mirreusという名は、カトリック の儀式に使用される「お香

J

(myrrh")に由来し、その女性性が示されるO

そしてけばけばしい「ぼろ布」を、「王が座った天蓋

J

と重ね合わせること によって、この年老いた女が、晩年のエリザベス女王であることをさりげな く連想させる。11ダンはイングランドからの不在と、偶像崇拝、聖遺物崇拝 を端的に言い当てることによって、「年老いた女」カトリックを浮き上がら せる。

次に登場するのはジュネ}ヴに住むCrantzであるO

Crantzωsuch brave Lovers will not be inthrall'd,  But loves her onely, who at Geneva is call'd 

Religion, plaine, simple, sullen, yong,  Contemptuous, yet unhansome. As among  Lecherous humorshereis one that judges 

(12)

賢明な風刺 ジョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 37  No wenches wholesome, but course country drudges. (49‑54) 

彼はカトリックの「けばけばしい」女には決して魅了されない。 Crantz の愛するのは「飾り気の無く素朴で、むっつりし

J

というように単音節の形容 詞の重なりで、そのそっけなさが強調され、さらに嫌みたらしく冗長な調子で

「愛想もなくその上不細工

J

と罵られる女であるO この不細工と断言されて しまう女性、つまりカルヴァン派は、先のカトリックの古色蒼然としてはい るもののデカダンな派手さとは無縁の「若い

J

女である。この健康だけが売 りという不細工な女をあえて愛すという風変わりな好みを持つ新教徒は「た だ彼女のみ愛する j極端な愛情の持ち主であるO 通俗的にイメージされる新 教徒への瑚笑に満ちたレッテルを女性の姿に措き込み、その愚直さを一層痛 烈に際だたす。

続いて登場するのは国教会のGraiusである。 Graiusの愛する女は「祖 国に留まっている」点が最初に指摘される。

Graius stayes at home here, and because 

Some Preachers, vile ambitious bauds, and lawes  Still new like fashions, bid him thinke that shee  Which dwels with us, is onely perfect, hee  Imbraceth her, whom his Godfathers will  Tender to him, being tender, as Wards sti1l  Take such wives as their Guardianoffer,or Pay valewes.  (55‑62) 

(13)

38  賢明な風刺 ジョン・ダンの「風刺詩第三番jにおける名指しの詩的戦略 Mirreus、Crantzが「恋人

J

を求めて外国にいるのと反対に、「キ、1)シャ人」

を意味する Graiusは国内にいるというただそれだけの理由で「唯一完全な

J

となされていることが強調されるO けれどもこの完全な Graccusの欺臓を 詩人は舌鋒鋭く暴く。つまり Graccusは「嫌らしい、貧欲な女街」である 聖職者と、「絶えず流行のように変わる

J

法律によって、「彼女を抱きしめて いる」のだO 女街によって紹介され、流行を追い求め、男に抱きかかえられ る娼婦のごとき女は国教会であるO 実際、 1581年以降頻繁に出された反カ トリックに関する法律に悩まされていただろうダンとしても、この「絶えず 変わる法律」は嫌悪せずにはいられない非常に現実味を帯び、た問題で、あった ろうO こうした法律のもと、「若いから、懐柔されてしまう

J

(Tender to  him, being tender")という言葉遊びによって軟弱なGraccusの「若さ」が 潮笑されるO

最後に登場する Phrygius、Graccusは極端な趣向を持った男たちであるO

前者は無神論者、後者はすべての宗教を受け入れる者たちであるO

…Carelesse Phrygius doth abhorre  All, because all cannot be good, as one 

Knowing some women whores, dares marry none.  Graccus loves all as one, and thinkes that so  As women do in divers countries goe 

In divers habits, yet are still one kinde... (627)

この両派をダンは一方は「すべての女を嫌い」、一方Graccusは「すべての 女を平等に愛している」という対照的な比較で締約するO 一見正反対の両派

(14)

賢明な風刺 ジョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 39  は「すべてj という言葉でその逆説的な同一性が単純な形で示される。それ までの、 Mirreus,Crantz, Graiusの分析に比べかなり極端な分類だが、過 度の女嫌いと過度の女好きである彼らの極端さは、「女性

J

に対しての様々 な趣向を、「すべて

J

という言葉で満たし隙間なく配分することによって、

ダンは5人の登場人物の中ですべての男性の「女好きさまざま」とも言うべ き類型化を速やかに充足させる。そして、彼らにとって、 Mistresse"とは、

「娼婦」あるいは「すべてを一つj というように、完全なる存在であるとい う商義的な存在であることが示されてこの気質描写は終る。

果たしてこれらの肖像はどのような意味を持つのか。ダンはここで「家に いる/いなしづ、「若い/年老いている」、「派手/不細工」、「すべてを愛す/

愛さない

J

というように、素朴なまでに単純な描写で断片的設定を積んでい くO それぞれの宗派の信仰の有様を表すのに、端的に描写された特徴が適切 であればあるほど読み手の意を得るO そしてこの当意即妙な描写が「女好き の気質」という非常に低俗な視点から宗教を描き分けることで、その猿雑さ と面白みを増し読み手を楽しませるO

さらにもうひとつ重要な目的があるO つまり本来の目的であった「真実の 信仰jの在処であるO各宗派の求めるMistresseの様相を編集してみせた後、

ダンは述べるO

…but unmoved thou 

offorce must one, and forc'd but one allow;… (69‑70) 

「惑わされずに断じて強引に一つを求めなくてはならない」と、「一つ」とい う言葉が二度繰り返されるo

r

真実」は「一つ」と同意語であるO ダンは現

(15)

40  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 存する宗教のサンプルを並べ、それぞれの特徴やキーワードを明確にし、

Mistresse"をその総体として見出そうとする。部分を類型化していくこと で総体をみる。雛型を描き、「真の信仰」という一つのヴイジョンを探そう というのが目的であるO 次々現われてくる各人物間とその特性に張り巡らさ れたこの単純な描写が、 Mistresse"という一つの宗教を構成し、概観して いくのに密度を高める。 この経過を経れば、全体として一人の「美しき」

「真実の信仰」という女性像が浮き上がってくる。

ところが「聖像を拝むのも、軽蔑するのも抗議ばかりするのもすべて悪い ことだろう

J

(76‑7)と、各宗派を規定するすべての行為が否定されること によって、積み上げられた各宗派には結局何の意味も無い不毛なものである ことが明らかにされるO わかりやすく描写された各宗派は、もはや過激に世 俗化され「女好きの調子者」である負の類型化以外の何ものでもありえな し、。

また遊戯的に展開される擬人化された宗教の羅列は衝撃的である。そもそ も当時は「信仰」とは初めから「一つ」であり普遍的なものであった時代で ある。けれども詩人はこの普遍性を疑い破棄するO 最終的に男たちに帰せ られる属性や特性を集めても全体を作ることはできない。けれども「真実の 信仰」を求めるために、羅列された各宗派が暴露したのは決して「一つ

J

なりえない反目する宗教である。

峻厳なテ}マに対するこの煩雑な話題の展開をどれだけ真面目に読むこと ができるだろうか。詩人はこの放蕩振りを読み手と共有し、「信仰」という 真面目なテーマの探求を、不真面白なものへと反転させるスリル溢れるゲー ムを楽しむのである。ダンが描き出す各宗派の教徒のカリカチュアは、軽や かに真面目な教義論争をすり抜けていくと同時に、激しく弾劾するよりはる

(16)

賢明な風刺 ジョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 41  かに効果的にその無意味な現状を明るみにする。

各宗派に対するダンの命名に、指示する内容との明確な適合性は見いだせ ない。彼らの個々の名前は無意味な信仰の標識の残骸として放置され、それ 自体の面白みによってテキストの中を戯れているOけれども「風刺詩第三番j ではもうー箇所こうしたこの惨d謄たる宗教的混乱を引き起こした当事者たち の名前が実名で言及されるO ダンは再度嘆息した後その名を告げるO

…Oh, will it then boot thee  To say a Phi1ip, or a Gregory, 

A Harry, or a Martin taught thee this?  (95‑98) 

軽いニュアンスで呼称されている Philip" Gregory" Haηf Martin"は、 スペイン王フェリベ2世、教皇グレゴリス、イングランド王ヘンリ‑8世、 マルテイン・ Jレターに相応するo16世紀の宗教闘争の戦犯者たちに「とか いう」という不定冠詞が付け足されることによって、彼らの名前によって表 象される宗派そのものを包含する。けれどもこの軽薄な呼称は擬人化された Mirreus、Crantz、Graius、Phygirius、Graccusといった無意味ではある が大仰なラテン語名の響きとは反対にはるかに剣呑な印象を与える。

Is not this excuse for mere contraries, 

Equally strong? cannot both sides say so? (98‑102) 

ダンはここで列挙した人物たちについて、擬人化された各宗派たちの気質描 写に比べほとんど詳細を伝えない。詩人はただ彼らについて「単なる対立

J

(17)

42  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 の原因であり、そして「同等に強いのに、一体どうやって双方からそう言え るのだ」と短く述べる。けれども彼らが自らの宗教上の正当性を賭け闘争を 繰り広げてきた事態がいかなるもので、あったか、各宗派の寓意的な宗教描写 で教導された読者であれば詩人が意図することを受け入れることに抵抗はな いだろうO 詩人は各宗派を一つの信仰を探究するために分節化したのと同 じ方法で、権威を分節化する。彼らの対立など結局同等に不毛なものであり、

それぞれにいかなる差もない。各宗派によって提示された名前の引輸は、こ の名指しの場面において詩行に現われている以上に効果的な役割を果たす。

各宗派の気質描写によって弾劾されたものが、この名指しによって相互に意 味を増大し、さらに風刺の度合いを深めることとなる。逼迫した教義的選択 を見事に粉砕した詩人は、同様に彼らの「権力

J

の実態を暴露する。

詩人が言う「権力」とは宗教だけではなく「専制君主的な

J

権力もまた意 味する (106)012

政治的な「権力 j、女王を中心とした宮廷といった権力中枢 において、栄達を望む者すべてが晒されている緊張感と危険性が彼らに常に つきまとうO 詩人は権力体制に従事する者たちに対して「名前」について、注 釈することにより警告を与える。

That thou mayest rightly obey power, her bounds know: 

Those past, her nature, and name is chang'd ; to be  Then humble to her idolatorie.  (98‑102) 

「力の限界を知り、正しく従え

J

と読者に命じる詩人は「いきすぎは、その 本質と名前を変えてしまう

J

と述べる。詩人は、「名前」と「本質

J

とを並 列し、それらが等比に合致する性質のものであることを示唆する。「名前

J

(18)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番」における名指しの詩的戦略 43  は「本質

J

を規定し、「本質

J

は「名前

J

を与えられ輪郭を明確にする。こ の「名前」と「本質」の密接な関係において、詩人は信奉する対象によほど

「正しく」接しなければ、「偶像崇拝」になってしまうと断言するO

ダンにとってこの厳密な緊張感の上に存在する名指しによる弾劾とは、書 簡の中で触れているように、「法で裁くことのできないほどの偉大な人物か 普遍的な悪を持った人物

J

に対して使用するものである (91)0 ダンはこの

「風刺詩第三番」で、個人の「名前

J

を好色な各宗派の総体的な姿を浮き彫 りにする気質描写の中で用い、その上で権力者たちを名指してみせた。アフ ォリズムに満ちたこの作品において詩人が差し込む「名前」は際だ、って軽妙 な印象を与えるO この「名前」に大きな関心を寄せる詩人は、深刻なテーマ を語るために「名前」の遊技を展開し、宗教・権力に対する盲目的な隷属と いった危険性をより痛烈に批判する。

ダンは既成の宗教・政治制度が字む緊張感を「名前」に収殺させていく作 業によって、真面白さと譜譜が相補的に共存する風刺の世界を構築するO

「風刺詩第三番」を貫く「真実の信仰を探せ

J

という命題に対して、イデオ ロギー的な「真実の信仰

J

の存在を疑う中で提示されたのが個々の名前であ った。けれども 'Mistresse"という呼称のもと、その実体が真実の信仰の代 弁者たる王であったのか、それとも単なる娼婦であったのか、尽きない憧僚 とさりげない批判的な不快を述べる術を心得ている詩人の真実の信仰を巡る 言説は、「賢く疑う

J

(77)と物事をシニカルに捉えることを勧め、問いかけ と否定の連続により、その答えを遅延しつづける。そしてダンはこの遅延の 合聞に皮肉と軽妙さを混ぜ合わせた「名前

J

を持ち込むことにより、直接怒 りを顕わにし、 j罵る以上の効果を風刺の詩空間にもたらす。この懐疑的な

「賢さ

J

が、作品を「罵倒」から遠ざけると同時に楽しくも鋭い風刺へと導

(19)

44  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 く構想、の核となる。

当時隆盛を極めた多くの風刺が1599年の検閲によって風前の灯へと追い やられ、その繁栄は一旦の休止を余儀なくされた。13ダン自身もまたかなり の危険性を感じていた。けれどもこうした緊張感はそれだけ、ダンの周辺で も大きな話題の一つであり、彼らの関心を惹かずにはいられなかった。決し て罵倒しないとしたダンの風刺に対する美意識は、「名指す」ことの緊張感 を読み手に楽しませながらも、危険性を掠めることに成功する。詩人の笑い ながらも毒気に満ちたしたたかな風刺の技を「風刺詩第三番」は私たちに見 せるO

当時の宗教的混乱はAntoniaFraser, F<αith and Treαson: The Story of the  Gunpowder Plot in 1605 (London: Weidenfeld Nicolson, 1996)に「火薬陰 謀事件jまで至る緊張の揺箆期として述べられているO

Z  John R. LauritsenDonne's Satyres: The Drama of SelfDiscovery," 

Studies in English Literature, 1500‑1900, (1976 )117130は、「風刺詩第三番J がダンの信仰上の問題を扱う道徳的な作品として最も風刺らしくないとしてい ThomasM. Hester, Kind Pittyαnd Brave Scorn:John Donne's Sαtyres  (Durham:Duke University Press, 1982), 5472, Richard StrierRadical Donne: 

'Satire III,'" English Literary History, (993),283‑321は、それぞれ立場は違う がダンが由緒あるカトリックの出身であることを考慮し、この作品でいかなる教 義論争が行われているかを、各宗教の教義の分析を通して考察する。

3 風刺詩』の創作年代に関しては、R.C. Bald, John Donne: A Life (Oxford:  Oxford University Press, 1967)参照。『風刺詩J1590年代に集中して創作さ れたことがわかる。また特に「風刺詩第三番Jの創作年代についてはPaulR.  Sellin, 

Quαrterly (1988), 275312において詳しく論じられている。

(20)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 45  本稿のダンの引用は、詩に関してはHerbertJ.C. Grierson, ed., The Poems of  John Donne. Vols.  (Oxford: Clarendon Press, 1912)に、散文書簡について M.Thomas Hester, ed. Letters to Severall Persons of Honour (1651),  CDelmar, N.Y. : Scholars' Facsimiles and Reprints, 1977)に拠るものとするO この書簡の著された1612年前後の風刺を取り巻く状況についてはAndrew

McRae, Literαture, Sαtireαnd the Eαrly Stuαrt Stαte (Cambridge: 

Cambridge University Press, 2004)を、当時の風刺全般についての概説書とし ては、AlvinKernan, The Cαnkered Muse: Sαtire of the English Renaissαnce  (New Haven: Yale University Press, 1959)を参照のこと。

ゴスはダンの風刺をジョウゼフ・ホールの「一般的な毒舌J(general  invectives')、ジョン・マーストンの「個人に対する妄想のような誹誘中傷」

(fantastic libels against individuals")と比較し、「一連の気質と、皮肉な類型 の肖像J(series of humours and sardonic portraits of types")と述べる。

Edmund Gosse, The Lifeαnd Letters of John Donne Deαn ofSt. Pαuls. Vols.  (Gloucester, Mas自. : Peter Smith, 1959), 1.37. 

7  Norman Egbert McClure ed, The Letters of John Chαmberlain  CPhiladelphia: The American Philosophical Society, 1939), 97. 

Arthur F. Marotti, John Donne, Coterie Poet (Madison: The University of  Wisconsin Press1986), 2595は、『風刺詩』が、エジャトン卿の秘書として公職 につく前、リンカーンズ・インの法学院生であったころにリベルタンとしてのイ メージが強かったダンが、そのポーズを作品の中で実践してみせたものであり、

決して詩人の個人的な内省を示す類のものではないと指摘する。また時期を同じ くして頻繁に創作がされるようになった風刺を、法学院の若き文人の手習いとし て 見 る む き も あ る 。 当 時 の 法 学 院 生 の 文 学 修 養 に つ い て は PhilipJ.  Finkelpearl, John Mαrston of the Middle Temple (Massachusetts: Harvard  University Press, 1969)が参考になる。

多くの手稿の中で、ダンの『風刺詩Jが航海の苦しみを歌う書館詩の "The Storme" The Calme"とともに編纂されて一冊の"book"と呼ばれ、独立したエ

(21)

46  賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 デイションとして認知されていたoPeter Beal, lndex of English Literαry  Mαnuscripts, 1:  14501625, Part 2.  (London: Mansell Publishing, 1980)24361  を参照のこと。

10 

r

気質描写J(charactersketch"あるいは"Character")は、元来ローマの詩 人テオフラストスの人の性格をタイプ別に論じた『人さまざま』を起源とする文 学ジャンルである。『人さまざま』は1592年にイザ、ク・カソボ}ンによってラテ ン諸に訳され広く流布した。英文学史上においては、ジョウゼフ・ホールが 1608年にCharαctersof Virtuesαnd Vicesを著したのが最初である。 1590年代 の風刺を中心とした古典主義から始まった17世紀におけるこのジャンルの広が りについては、 EdwardChauncey BaldwinThe Relation of the Seventeenth  Century Character to the Periodical Essay," PMLA, (1904)75114が参考にな

る。この環境にあってダンがCharactersに対してどれくらい意識的であったか は、 TheCharacter of a Dunce""TheCharacter of a Scot at the First  Sight"2篇が彼のものとされることを考慮すると十分可能性はある。ただし

こ の 点 に 関 し て は 、 両 作 品 が 収 め ら れ て い る HelenPeters, ed. John  Donne:Pαrαdoxesαnd Problems.  (Oxford: Clarendon Press, 1980) !こおいて dubiaとされ作者特定に疑問が持たれており、テキストの問題も含め今後の研究 課題としたい。

11  エリザベス女王と天蓋の連想、は、ヒリアードの細密画などによって当時馴染み 深いものだった。 RoyStrong, The Cult of Elizαbeth: ElizαbethαPortrαiture  αndPαgeαntry (London: Thames and Hudson, 1977), 368参照。

12  ダンのこうした宗教から政治への話題の移行は一見唐突に感じられる。けれど も国王が教会の首長であるイングランドにおいてはなおのこと、宗教と政治が切 り離せないものであるという事実に対し非常に意識的で、あったことは想像に難く ない。 DeboraKuller Shuger, The Renα1SSαnce Bible: Scholarship, Sαcriβce,  αnd Subjectivity  (California: University of California Press, 1994)の研究は、

宗教的言説の換縮されたテキストである聖書を各宗派の教義についての個別的な 分類に留まるのではなく、社会風潮・思潮の混濁する場として読むものであり、

(22)

賢明な風刺ージョン・ダンの「風刺詩第三番Jにおける名指しの詩的戦略 47  ルネサンス期イングランド以降の政治社会と宗教について考える上で示唆的であ

13  Cyndia Susan Clegg, Press Censorship in Elizαbethαn Englαnd  (Cambridge: Cambridge University Press, 1997), 198‑217を参照のこと。

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