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『恋愛詩集』再読 - 詩論 の ア レゴ リー - フランス ・ル ネ ッサ ンス詩再読 (その

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(1)

『 恋愛詩集』再読

‑ 詩論 の ア レゴ リー ‑

フランス ・ル ネ ッサ ンス詩再読 (その 2)

江 口 修

ピエール ・ド・ロ ンサールの詩業中 もっとも人 口に胎灸 し,かつ拝情的完成 度 が高 いとされ るのが刺 蘭 であつかお うとす る 『 恋愛詩集』であ るo アマ ン 派 による再評価 よ りこのかた, この詩集 に関 して どれだけの辞価や論文が書 き 継 がれて きた ことだろ う

フローベールの感動 を綴 った手紙 の文面 を思 い起 こ してお くの も, いかに この詩集 が フランス人 の拝情 の核 に触 れ る ものかを示す もの と して無意味ではなか ろ う。

「 僕 はフォ リオ版 で二巻 の ロ ンサール全集 を持 っています。 や っとの忠 いで手 にいれた ものです。 日曜 日には二人で心行 くまで味わ うことに しま しょう

普通売 られている月並 みな選詩集 ときた らどれ もこれ も抜粋 が ど んな ことなのか,現代語訳 の無残 な ことの見本です。一番美 しいところが 抜 け落 ちているんですか ら。 で も貴女 に してみれば ロンサ⊥ルがどれ ほど の詩人 なのかお分 か りにな らないことで しょう。凄 い! 本当 に凄 い詩人

本稿での 『 恋愛詩集』初版 ( 1 5 5 2‑1 5 5 3 ) の引用はすべて H. e t C.WEBER 編の

Ga r n i e r 版 ( 1 9 6 3 ) に依った。理由は M.DAS SONVI LLE がこの版を底本としているよ うに, Ga r ni e r 版が刊行当時の姿を忠実に再現 しているからである。 したがって,訳は 高田勇先生の 『ロンサール詩集』( 青土社 ,1 9 8 5 年)に載 っているものはそのまま拝借さ せて戴いたが,同訳詩集は La u mo n i e r 版 ( 1 9 5 7 年)を底本としているためソネの番号 に異同がある。本稿では異同のある場合はすべて Ga r n i e r 版に統一 した.高田先生の訳 については引用の下に注記 した。注記のないものは拙訳である。ソネの引用については 番号を付すにとどめ脚注による指示は省略させて戴いた。原文の提載 も都合により省い

た。

〔 1〕

(2)

2 人 文 研 究 第 7 6 輯

です。なん と素晴 らしい高揚感 ! ヴェルギ リウえ以上です し,ゲーテに匹 敵す るで しょう,少な くとも拝情の きらめきにあ っては 。 」 1 )

偉大 な誤解 だろ うか。 フロ「ベールの手紙 を読んでい くな らば, この発言が フランスにおける詩 の置かれた立場,すなわち俗物精神 の専制支配下,言 い替 えるな らば,明に暗 に常 に多数の良 とす ることに気を配 ることが性 とな って し 、 まっている文化 にあ っては,規範 を無視 したよ うな生 な情感の突出たる真の拝 情 は排斥 されざ るをえない運命 を見据 えた上 の ものであ ることが分か る。 フ

ローベールによれば,詩聖 とはいかなる思 想 に もいかなる哲学 にも回収 される ことのない殆 ど身体 と呼ぶべきものの現前 を核 に持 っていなければな らない ら しい。 そ して当然の こととして フランスには十七世紀以後詩聖 は出て こなか っ

た 。

「フランスで は詩 を隠蔽 しておかねばな りません

詩 は嫌悪 されている か らで,古典古代 あるいは他 の国にみ られるようにス トレ「 トに詩人であ りえだl のは多分 ロンサールただ一人で しょう 。 」 2 '( 下線部原文 イタ リック)

十九世紀末か ら広範 に意識 され始 める詩 の危機 を見事 に先取 りした, あるい は十七世紀以降 フランスにおける詩 の不幸 の真因を的確 に見抜 いていた という べ きか。 さ らに, フローベールはこう断罪 してはばか らない。

1) FLAUBERT,CORRESPONDANCE 2 t ome s ;( Col l .《 Pl e i ade 》 ) ,Par i s ,Gal ‑ 1 i mar d ,1 9 8 0. T. I I ,p. 4 5. ( l e t t r e畠Loui s eCoLET: 1 e 1 6 f e vr i e r 1 8 5 2 ) 2) I b i d. ,T. Ⅰ Ⅰ ,p. 2 0 9. ( l e t t r e、 aLoui s eCOLET:l e 1 6 de c e mbr e 1 8 5 2 ) . もちろ

ん ,Ⅴ.HUGO が フローベールの視野か ら落 ちていたわけではな い 。 しか し, ロマ

ン主義的叙事詩 の快作 『 諸世紀 の伝説』の初版発行が 1 8 5 7 年であること,そ して恐

らく余 りに同時代人であ り過 ぎたことを合わせ考えるな らば, フローベールのこの

判断 も無理か らぬ ものであるまいか。

(3)

『 恋愛詩集』再読 3

「この世 で ロ ンサ ールを読 まない ものな ど軽蔑す る しか あ りません, そ ん な輩 は根 こぎに してや りま しょう 。 」 3 )

「 神経 がおか しくな る 」 4 ) はどフローベールを興奮 させ るこの ロ ンサ ールを フ ローベールの特異性 と見 るべ きか ど うか は論 の分かれ るところであ ろ うが,宮 廷御用詩人 の一面 を持っ ロ ンサールが 3 0 0 年 の隔 た りを超 えて直 に一人 の作家 の感受性 を揺す るとい う事件 は ロ ンサールの拝情 の強度 の優 れてい ることを認 め ることな しには理解 で きないだ ろ う。

だが,本小論 で は この拝情を正論 か ら取 り扱 うことは しない。 いささか披行 的 にで はあ るが , 『恋愛詩集』を詩論 を内包 す る作品 と して読 め は しないか とい う問題設定 に基 づ いて, ロ ンサールが行情 を どのよ うに捉 えて いたか を作品 自 体 に尋 ねてみ よ うとい うのが主眼 であ る

なぜ な ら, ロ ンサ ールの拝情 に関 し て は P. ローモニ工の ものを始 め と してすで に数多 くの優 れた論考 が著 されて お り , 5 )近年 の研究動 向か らす れば , 6 )普遍相 と しての拝情 に昇華 させて論ず る よ りもむ しろ十六世紀 とい う転換期 でのその現 れを作品 に探 るべ きと思 われ る

3) I bi d. ,T.Ⅱ. ,p. 4 5 ∴さらにロンサールとフローベールの関係を論 じたものとしては 次書がある 。Al i s onFAI RLI E , " Fl aube r tandt heAut hor sofFr e nc hRe nai s s ‑ a nc e "i n Th eFr mc hRe na i s s a nc eandi t she n' t a ge ,London,Me t hue n , 1 9 6 8 ,p.

4 316 2 : 女史はロンサールと並んでフローベールの偏愛 した十六世紀の作家とし てラプレーとモンテーニュについて も取 り上げ,モンテーニュが思想的に又 ライ フ ・スタイルの面で大 きな影響を与え, ラプレーが創作上そうであったのに比べ, ロンサールはフローベールの文学判断における 「リトマス試験紙 」( p. 4 7 ) の役割 しか果たしてないと見ているが,フローベールを論 じる任でもなく又その能力のな いことは認めつつも,我々としては純粋な強度 としての拝情 という点で両者共通 し ているのではないかと考える。

4) OD. C i t . ,T .Ⅱ. ,p. 4 5

5 ) ローモニエ以後最 も精微な研究 としてはFe r na nd DESONAYの Ro ns ar d P o e t e deI ' Amo u r ,Br uxe l l e s ,Pal ai sde sAc ade mi e s ,1 9 6 5 ( r e i mp.del ' e d.de 1 9 5 0 )

が挙げられるだろう。拙訳に大いに利するところがあった。

6) 特に Re vued' Hi s t oi r eLi t t e r a i r edel aFr anc e 1 9 8 6 年第 4 号 はロンサール特集

で最近の研究動向を代表する人達が論考を寄せている。

(4)

4 人 文 研 究 第 7 6 輯

・ か らである。

だが直 ちに,拝情の緊密な展開たる 『 恋愛詩集』 に詩論を見て取 る根拠が果

M. カステラ一二 も述 べているよ うに

,7

)プ レイヤ ッ ド派 に限 らず 1 6 世紀の詩

人たちは,公 にされた詩論 においてよりもむ しろその作品に本意を込 めている よ うに思われ ること。 さらに,多 くのテクス トに自己言及が,顕在的な形であ I れ解釈 の可能性 としてではあれ,見受 け られ る。 この ことにつ、 いて詳述す るに は稿 を改めねばな らず,本稿ではさ し' ぁた り 『 恋愛詩集』 に絞 って検証 してみ たい。純粋 な強度 としての拝情 の流れを擦 めるようにそ こここに配 されてある 鏡,引用の網 目に仕組 まれた詩人の鏡像, と、 りあえず こう言 ってお くことがで

きるか も知れない。

*

『 恋愛詩集』の成立 については架言 を費やす必要 はないと思われ るが,本稿 の 論 旨に係わ る重要 な分析 として, M. ダッソ ングィルの指摘 について少 し触 れ て置 きたい。

8

)彼 によれば ,1 5 5 0‑1 5 5 2 年 に掛 けての ロンサールの寡作振 りは 深刻 な詩 の危機を示 している 。1 5 5 0 年すでにフランスに捧 げ られる 『アユネイ ス 』 たるべき 『フランシャッ ド』 を構想 していたロンサールにとって,当面 の 庇護者 ミシェル ・ド・ロピタル と前年没 した とはいえ宮廷 きっての文学通 マル グ リッ ト・ド・ナヴァ‑ルの威光 に頼 って,国王 ア ンリ二世 のお墨っ さが是が 非で も欲 しいところであ った。だが国王の反応 はほとんど無視と言 っていいほ ど鈍 く,王室顧問,王室施物分配僧職 にあったメラン ・ ド・サ ン‑ ジュ レ一に は王の面前, マルグ リッ ト・ド・フランス ( ナヴァール王妃 の妹) と ミシェ

7) I bi d. ,G.MATHI EU‑CASTELLANI《 Poe s i ee ts p色 c ul a i t 卓二l ar e pr e s e nt a t i on de l' e c r i t ur edamsl e sAmour sdeCas s andr e 》 ,p. 6 5 9‑6 6 7 .

8) Mi c he lDASSONVI LLE ,Ro n s ar dEl u dehi s t o r i q uee tl i t t e r ai r l el I IPn' nc ede s

po e t e so uPo e t ede s h i ' nc e s ( 1 5 5 0‑1 5 5 6 ) Ge ne ve ,Dr oz ,1 9 7 6 ,p. 1 3‑2 8.

(5)

『 恋愛詩集』再読 5

ル ・ド・ロピタルが伺侯 している場で罵倒 され,新参 の悲哀を思 い知 らされ, この構想の実現 は当面諦めざるを得なか った。 つまり, 『オー ド集』 によって

「カルテ ィエ ・ラタンの高名人士 にその才を示 した 」9 ) ロンサールにとって, フ ランスの ピングロスたるべ く意気軒昂に乗 り込 もうとしたセーヌ右岸の宮廷世 界の態度 は意想外 に冷たか った。さらに,自分たちを 「ブリガー ド ( 部隊) 」と 名付 け文学革命家 を気取 る跳 ね返 り達 に対す る手厳 しい反論 が待 ち受 けてい た。旧態依然たる宮廷の文学趣味 にはね返 され,異教的 との攻撃にさらされ, さして有効 な手立て も兄 いだせないままロンサールはヴァン ド‑モワ地方への 帰郷 を選ぶ。 この故郷への感傷旅行 でのカ ッサ ン ドル との運命的な出会 いが

『 恋愛詩集』へ と結実す る,即ち新 たな詩想の獲得 と見 るのが これまでの見方で あった。我 々もこの見方 を否定す るわけではないが,一つの特権的経験を絶対 化あるいは伝説化 しそれがあたか もレクチュールの到達点であるかのように考 えることは, ダッソングィルの言 うとお り, ロマ ン主義的虚構 に過 ぎないだろ う。先に 「 拝情の強度」 と述べたの もこの虚構を回避す るためであ り,特 に十 六世紀の拝情詩 に相対す るときは注意が必要である。 テー与はむ しろ月並みな が らも言語の緊張度をいかに して高め維持す るか, フランス ・ルネッサ ンス詩 の力点 はそ こにあるように思われるか ら。

要約 してお くな らば , 『 恋愛詩集』はいったん撤退を余儀な くされたセーヌ右 岸 に再 び進撃すべ く鍛え上 げ られた武器ではなかろうか。宮廷を制覇すべ く, リュー トを援軍 に従えたアモル (ヴェニュスの息子 たち)の軍団 と言 うべ きか。

いささか比境 に流 れ過 ぎて しまったか もしれないが, このよ うにみればロ ン サールの多様性 と呼ばれるもの も戦略的な一貫性 に支え られた ものとして捉え 返す こともできるだろう。以下 , 恋愛詩集』自体 に戦略 としての詩論 を読み取

る可能性があるか否かを具体的な検討 してみよう。

9) I b i d. ,p. 1 5 .

(6)

6 人 文 研 究 第 7 6 輯

‑ 「 過剰」の詩学

まず 『 恋愛詩集』 の ロンサール的詩学 の特質 につい七概観 してお こう。 フ ローベールの感 じる息苦 しいまでの強度 は何 に由来す るのだろ うか。単純 に 言 ってそれは, イメージの極度 の流動性 を もった展開による.だが このイメー ジの奔流を可能 にす る詩学 についてのまとまった見解 は今 までの ところ, ダッ ソングィルを除いて見当 らないよ うである. 彼 によれば

,10'

J ギ リシャ ・ローマ の神話 を圧縮 して重 ねることによ り物語性 や寓意性 が後退 し,意味的な機能 よ りむ しろ映像的な機能 を担 うようになる

ただ彼 は絵画 との比職を通 じて この 過程を説明 しているが,たとえ今 日以上 に神話が精彩を帯 びていわば共同幻想 として機能 していたとはいえ,言語が純粋 なイメージに成 り得 ると考え るのは 受 け手 の側の思 い込 みに過 ぎないであろ う。誰の言葉を借 りるまで もな く, ネ ガとしてではあれポ ジとしてではあれ, いかにイメージたろうとして も言葉 は 不可避的な意味の華 をまとって しまう。 したが って ロンサールの場合,神話 は.

その物語や寓意性 をほとん ど記号 (シーニュ) に近 い状態 にまで凝縮 されそ し て系列化 されて提示 され ることによって,意味の拡 が りとしてよ りも輪郭 の定 かな らぬある運動体 として現れ るというべ きであろ う。 そ うであるか らこそ強 度 として体験 しうるのだ。

大 いなる虹 もユノが雨時 に 母 を育み し水 を覆す とき, 陽の光を帯 びたとてか くも 彩 りをすぼ らしく変 じえず

ユ ピテルが怒れ る腕 もて豪 けさ雷 にて エペイロスの山々や不遜 な申 リアを

1 0 ) I b i d. ,p. 3 1‑7 1.

(7)

『 恋愛詩集』再読

撃 とうとて,天空 をか くも 紅 に染めるはかなわず

太陽の曙に清 く澄み肱 き光をかざす とも か くも見事 に燦 め くはかなわず 私 があの人を見 たときほど その顔が百 に色 を変 じるのを

その眼が燃 え上が るのを旺 しい一閃が 私 の心 を虜 にす るを見 たときほど。

(ソネ六十五番)

7 ̲

ルーベ ンスの絵 に比 しなが らグ ッソング ィルは この詩篇 に上 に述 べた ロ ン サールの美学 の典型 を見て取 る。 なるほど 「 光」 をめ ぐって展開 され るイメー ジの速度感溢れ る乱舞 は絵画 と同質 の ものであるかに見える

だが私見 によれ ば, このよ うな効果 を もた らすのは実 は換境の速度 による物語作用の後退 によ るものと考 え られ る

無論, この場合の換境 とは伝統的意味での修辞学上のそ れではない。 ラカ ンの言 う,言葉 の多義性 を支 えるシニフィ ア ンの転移す る特 性の ことである1 1 ) 。 もしこの詩篇 に壮大 な古典古代の神話 を土台 に成立す る隠 職の連鎖,すなわちア レゴ リーの意匠をのみ見 ようとすれば,∵ そこには余剰 と

しての装飾 しか認 め られな くなるだ ろ う

このよ うな分析的方 向での読 み は

『 恋愛詩集』が持っ,言 い換えるな らソネとい う定形短詩で試 み られた,あるい は思 いがけず もた らされた詩学 を見失 うことになる。上 の詩篇で起 きている七 とは,ユノとユ ピテルの夫婦神 にまつわ る壮麗 に して荒 らぶ る所業 とカ ッサ ン

ドルとロンサールの出会 いをア レゴ リカルに重ね合わせ ることではあるまい。

ロンサール二人が地上 の人 として荘然 とカ ッサ ン ドルの超人間的な魅力を仰 ぎ

l l )J .LACAN , Em' t s I e t I I ( c o l l . 《 Poi ht s 》 ) , なお この点については拙論 「ロン サール , 讃歌集』および 『 讃歌集第二の書』について」( 「 人文研究」第 7 0 韓 ,1 9 8 5

年)を併せて参照願いたい。

(8)

♂ 人 文 研 究 第 7 6 輯

見ているのである。 また, カ ッサ ン ドルの顔の輝 きやその眼の光を同定す るた めに神話が援用 されているので もあるまい。 この詩篇を律 しているのは,超速 で逃 げ去 る,恋す る者 にとって輝 ける絶対 の シニ イフイア ン,すなわち絶望的 な距離 を一気 に越え,恋す る者 の欲望を励起 させては突 き放 し,引 きず り回す 容赦 ない絶対的力を追 い駆 ける加速 される換職の運動ではないのか。

苦悩が もはや私 の顔卑黄色 くしないの も, 快楽が私のなかに住みつ くの も,

陽光 よ りも暗が りを好 むの も,

聖 なる夢 よ,それはおまえのおかげだ。

おまえ とともに私 は空 を期 けるだろ う, けれど私 の眼のなかに漂 うこの肖像 は いっ も私 の喜 びを欺 き途切れさせ る

おまえは私の幸福のさなかに逃 げてゆ く, 無 に帰す る稲妻か,

風 に霧散す る雲 さなが らに。

(ソネ二十九番 高田訳)

「 聖なる夢」とはまさ しく絶対 の シニフィア ンではないのか。その形姿 である かに見えるカ■ ッサ ン ドルの 「肖像」 は 「 漂 う」 シニフイア シで しかな く,詩人

は終 にそれを措 らえることはない。『 恋愛詩集』とはこの シニフイアンに追 いす がろうと換職の速度 を高める ( 結果 として グッソンヴィルに言 うようにイメー ジへの純化 に見え る)試 みなのだ。静 かに旋回 しなが ら構築 され るデ ュ ・ベ レーの詩空間 と較べてみるの もよいか も知 れない。 ともか く,オー ドによって 神話系をア レゴ リカルに活用 し,物語性 の上 に豊かな隠職の拡が りと換境の リ

ズ ミカルな運動 とか らなる詩空間を造 り上 げたロンサールは, ソネの制約 と対

(9)

『 恋愛詩集』再読 9

時す る中か ら新たな武器を手 に入れたようだ。「 愛する人の気紛れ」とい うペ ト ラルカ主義の流れに立っかに見える 『 恋愛詩集』の散乱す るイメージ群 は,そ の速度感 と強度 において新 たな位相 に立 っている。神話系の ソネへの圧縮 に よって換境が優位 となり,絶対の シニイフ・ イアンを欲望す るという 「 愛」の力 学を担 うに相応 しい詩学の成立である。 グッソングィルにならって これを 「 過 剰」の詩学 と呼んでおこう。 ただ し過剰なのはあ くまで シニイフイア ンである

ことはいうまで もない。

だ如 こうした 『 恋愛詩集』の中核を成す詩篇に交 じって,方向を違えた詩篇 が散見 される。 まるで 「 愛 」 の奔流が しば し広瀬 となり多様な拡が りの中に休 むかのように。

‑ 詩人あるいはテクス トの自己言及

例によって ミューズへの祈願 と奉献を済 ませた後 , 『 恋愛詩集』のソネ第一番 は愛 に弄ばれ,瀕死の痛手を被 った詩人の自己顕示で始 まっている。

どんなに一人の神が私を打 ちひ しぎ, I 私 を攻め,勝 ち誇 るか,

私の心を燃 えたたせては凍 らせ,

私 の恥を もって身の誉れ とす るかを見たいな ら, 己の不幸の的を躍起 になって

空 しく追 う若者を見たいな ら, 私を見に釆給えト私の苦悩 と,

私を征服する射手 の苛酷 さが分かるだろう。

(ソネ一番,高田訳)

(10)

10 人 文 研 究 第 7 6 輯

愛 にまつわるデ ィスクールは常 に孤立す る, いかなる一般化 も居心地 の悪 い もの となる,とロラン ・バル トは述 べているが

,12)

な るほど恋愛詩 とは必ず,個 別の体験 の,他な らぬ 「 私 」 による報告 という体裁を取 るもののようだ。 もっ

とも普遍的な欲望 の現象であ りなが ら, いかなるコー ド化 もその現相 をか らめ 取 ることー ので きない 「 愛」 は,対象化 しようとす るやいなや,単 なる肯定か否 定かの断言 しか許 さない。可能 なのは唯一, どのよ うに喜 び, どのよ うに苦 し んだかを,欲望す る側か ら自分の ファンタスムの運動 として措 くことである。

ロンサール もその体験 を 「ささやかな物語」( 献詩)として ミューズ達 の神殿 に 捧 げるうるのみで,愛 の対象 カ ッサ ン ドルは彼の 「 心臓」( 献詩)を捧 げるべ き

「 偶像」として神達 の側 に永遠 に超越 して しま う,あるいは意図的に追 いや って しまう。 なぜな ら欲望の展開,あるいはファンタスムの成立 は必ずや求 める対 象 との絶対的隔た りを要請するか らである。 またそれ無 くしては 「 愛」 にまつ わるディスクールは成立 しないだ ろう。

だが, ̲ .こうした必然性か らはみだす形での自己言及が 『 恋愛詩集』 には散見 され る。例 えば,古代の詩聖 と己との比較。

たとえ私が格調高 きオ ィヴィディウスにあ らず とも, 貴方の目は美 しく輝 ける屋,

手 は美 しき百合,髪 は絹の糸。

(ソネ十七番)

あるいは同時代の詩人仲間 との比較。

私 に必要 なのは熱 さ韻 ではな く, マコンの人 ポ ンチュスが激情,

1 2 ) R.BARTHE ,Fr a gme nt sd' u ndi s c o ur samo ur e u x,Pa r i s ,S e u i l ,1 9 7 7 ,p. 5.

(11)

『 恋愛詩集』再読

ア ンジュの河岸 は青 さオ リーグを さらに青めさす神の歌,

さらにはデゾテル,

そ してそのメ リーヌを きらめ く歌で 輝せ しかの格調高 さバ イフ

(ソネ八十五番)

ll

このような言及が,当時では慣習的であった ことは認 めっっ も, いま一歩 そ の役割 について再考すべ きと思われ る。 なぜな ら,単 なる装飾的過剰, あるい は儀礼 と して切 り捨てるには余 りに多様 なロンサールが顔を覗かせているか ら である。 さらに,暗示的な詩への自己言及 を合わせ考え るな らば,『 恋愛詩集』

は特異 な構造 を持つ ことが浮かび上が って くる。 それが どのよ うな ものである か, それを解明す るためには,明示的な言及 と暗示的な言及 とを区別 して考察 すべ きと思われ るが, 先 に述べた 「 愛 」 のデ ィスクールが機能上必要 とす る

「 私」と詩人の自己言及の主体 としての 「 私」との区別 は実 はそれほど明確 には できないのではないだろ うか。 どこかでオーバーラップ しているのが当然 とい

うべ きだろう。

ところで, ソネ八十五番での詩人仲間 に対す る言及の中に,実 はフランス詩 史上重要 なポイ ン トとなるものが含 まれている, それは 「アンジュの河岸」 と いう具体的な地名 の登場であ り, 詩人 たちの出身地‑の言及 である。 『 恋愛詩 集』 にはロンサールの故郷 ロワール地方 にまつわ る具体的な固有名詞が他 に も 登場 している。「‑‑私 の蒼 ざめた顔 か ら/一輪 の花をル ・ロワール川 の岸辺

に咲かせたい/私 の名 と苦悩 が措 かれて いるよ うな花 を 。 」 (ソネ十六番)や

「ゲァン ドームに近 さル ・ロワールに咲 く小花達‑ ‑ 」 (ソネ三十六番),「ブロ ワの町,意中の女性 の住む町 , 」(ソネ一三三番),そ して中で も取 り上 げるべ き は次 のソネであろうか。

聖なるガチ‑ヌ,私の苦悩の しあわせな聞 き手 よ,

(12)

1 2 人 文 研 究 第 7 6 輯

おまえは森のなかで答えて くれる,

直 ∴

H C ‑E

ル ・ロワール川よ,・ いっ も私が飢え渇望す るあの美女を 責める私を聞 けば,

ヴァンドーモワを流れるいとも早 い水の 気俵 な流れをおまえは停めて くれる。

私が吉兆を得たうえに,

わが眼が私のやさしいタレイアのやさしい限ざ Lに 昨 日欺かれなか ったな ら,

おまえたち は今後 は私を詩人に したて, あまね くフランスで讃え られるだろう,

一方 は私の月桂樹,他方 は私のカスクリアの泉 と。

、(ソネ百六十番 高田訳)

時人の自己言及の典型が ここにある。 その分析のためにも, とりあえず地誌 的名称が持っ意味を確定 してお こう。 まず, ここに決 して近代の意味における 地方色を見 るべ きではないだろう,明かに神話系 とダブらせ る形で ロンサール は自分の 「いま, ここ」を賞揚 しようとしている。高橋薫によれば, ロンサー ルにおける地誌的固有名詞の登場 には十六世紀の世界認識の特徴が現れている という。

「 風土的自然 に向け られた心性を構造化す る神話 は,その 〈自然)を日常性 の 平面か ら引き起 こし,固有の時間 と存在を与える。それぞれの川や泉 にはそれ

ぞれのニ ンフたちが棲み,それぞれの物語を抱 いていよう 。 」 1 3 )

(13)

『 恋愛詩集』再読 1 3

つまり, ロンサール以前では,一方で固有の地名や地方 につ いて語 られ;一 方で神話が装飾 としてあるいは詩想 をそ こか ら汲み取 るべき寓境的 レフェラン

スとして機能 していたと して も,両者が意識的かつ組織的に結 び付 け られ るこ とはなか った。ロンサールの特質 を見事 に捉えた指摘である。ただ 『 恋愛詩集』

の段階で地誌的言及が 「 固有の時間 と存在 」 をにな うまでにいたっているかは 検討の余地があ りそうである。丁 一つ考え られ ることは,お定 まりの宮廷風に‑

撃 を加えようと しているのではないか,つまり閉塞的な恋愛詩 の舞台を文字 ど お り 「 野」 に放っ ことによって想像力 に新 たな活力を与えよ うとして早るので はあるまいか。窒息 しかか った 「かなわぬ恋を追 い求 める男」の紋切 り塵 のイ メージを打 ち破 ろ うとしているのではあるまいか。 しか しなが ら, ここでは神 話系が織 り成すアルカデ ィアのイメー ジの方が優勢 であ り, ヴァン ドーモワそ

して ロワールはそのイメー ジで染め上 げ られてお り,「それぞれの川 や泉 に棲 む」 のは未だ古代 のニ ンフたちではなか ろうか。 ともか く, この一撃 によって

ロンサールのフランス詩王‑の道 は大 き く開かれたと見 ることがで きよう。

議論を要約 してお こう 。 恋愛詩集』の大枠 はペ トラルカの伝統をはみだす も のではない。だが,カ ッサ ン ドラへの愛 の苦闘の主調音 に交 る詩人の自己言及, 詩人仲間への言及 そ して彼等のアイデ ンティテ ィーを保証す るかのよ うな地誌 的言及, これ らはテクス トの自' 己言及 として,内 部か らと同時 に外部か ら 『 恋 愛詩集』 を相対化 しか ってない奥行 きと拡が りとを もた らしている,月並みな 比境だが,バ ロック音楽 における通奏低音のような役割 を果た しているので は あるまいか。 あるいは,陰のア レゴ リーとして 「 過剰 」 な シニ イフイアンの運 動 を底支 え しているといったほうがよいか もしれない。

さらに詳 しく検討 してみよう。例えば 「ロンサール」がそのまま出て くる詩 ノ 篇 は,巻頭の奉献詩,

1 3 ) 高橋薫 「ロンサール,自然,フランス 」( 「 駒津大学外国語部論集」 第 2 6 号 ,1 9 8 7

年 ,p2 1 2 .

(14)

1 4 人 文 研 究 第 7 6 輯

「ロンサールは,た くみに彼を狂わせ る美女 を, 後の世が父か ら子 へ

記憶 にと/ どめるようにと,

右手 でわが祭壇 に献 じる,

彼の不滅の書物 なるささやかな物語を, 左手で彼の心を この偶像の足 もとに」

ソネ五十八番

神 なが らのデュ ・ . ベ レーよ,・ ・ ・ ・ ・ ・

いまだに恋する人の嘆 きを聴 いて おまえの耳が襲 しむな ら,

蒼ざめ,悩 みの狼 に揺れ,

‑神 に向か って空 しく手 を組 み, 畷 り泣 き,悲嘆に くれるおまえの

ロンサールの声を聞 け,

そ して ソネ六十三番

( 高田訳)

( 高田訳)

苦悩 ガコノ森 ノ中デ殺 シタ

グァン ド‑モワノ恋人 コノ下 二眠ル,

ソノ貴女 ノ美 ワシキ眠 ヲアマ リニ愛 シスギクガタメこ。

( 高田訳)

(15)

『 恋愛詩集』再読 15

恋への殉教 を墓碑 として詩 中に置 くのはペ トラルカ趣味であることはいうま で もない。しか し , 過剰」の シニ イフィア ンに満 ちたソネ群 にあ って これ らの 詩篇 は 『 恋愛詩集』独 自の意味を持づよ うに思われる。 まず第‑ にソネ五十八 番のデュ ・ベ レーへの懇願 であるが, ここには新 プラ トン主義 の正道 を遥か彼 方へ,静寂 の境地 ( サ ンク レチスム)へ と向か ったデュ ・ベ レーと未だに恋 に まっわ るあ りとあ らゆる欲望 と格闘す るロンサールとの対比 を見て取 ることは 易 しいだろう。 さらに一歩進 めて, 自己をカ リカチ ャライズ しようとす る意図 を読み取 ることはで きないだろうか。 よ く語 られ る冷笑的 ロンサールを今一度 戦略的側面か ら捉え返 してみよ う。

しも

「いち早 くあなたの こめかみに白髪 の花が咲 き , 」

最後のときまでい くぱ くの日もないで しょう 夕べを待 たずあなたの一 日は終わ り,

希望 に裏切 られ,想 いは消え るで しょう。

わた しを感動 させ ることな くあなたの書 き物 は色槌せ, あなたに破威を もた らすのがわが宿命 となり,

私 を愛す ることであなたの死が定め られ, あなたの溜息を後世 の人 々は笑 うで しょう

あなたは俗衆 の もの笑 いにな り, 砂上 に楼閣 を築 き,

虚空 に空 しく絵 を措 くで しょう

(ソネ十九番 高田訳) こと ば

「ニ ンフの予言」( 同 ソネ) として 「 私」を卑下 して見せ , 死」を避 け られぬ

定 め と受 け入 れ るの はロ ンサールであ ると同時 に ロ ンサールで はない。愛 の

ディスクールは本来, たとえそれがネオプ ラ トン主義的な至高への挑戦であろ

(16)

16 人 文 研 究 第 7 6 輯

うと, 「 秘 め事」 である。 そのあか らさまな露出 は殆 どの場合陳腐 な戯 れ事 に なって しまうだろう

ロンサールの場合 も,完壁 であろうともペ トラルカの踏 襲で はもはや済 まされない。 ま してや文芸が世俗化の速度を早 めっっあった時 代l ° ) であった ことを考え合わせればなおさらであろう。 愛のデ ィスクールを支 える発話主体 「 私」 を裸形で晒す ことを巧妙 に回避す る仕掛 けとして上 に引用 したソネ群を読み取 らねばな ら̲ ない.「ロンサールは死んだ」とすることによっ て愛への殉教 の伝統 を踏襲す るに見せか けなが ら実 は 「 私」は宙吊 りにされ る。

さらにロンサールをカ リカチ ァライズす ることによって, この 「 私」 はいよい よロンサール本人なのか,仮構 の ロンサールなのか,純粋 な愛 のデ ィスクール の主体 なのか, あるいは自己批評す る詩人 なのか,様 々な レJ T <ルに措定 され う ることになる

ここか ら 『ドン ・キホーテ』 までは僅かではないのか。 カ リカ チュアは自己を相対化す る上での最 も有効 な武器 の一つであり, 自己批評の装 置を内蔵す ることにより, テクス ト自体がテクス ト批判 となる可能性 を持つ。

むろん 『 恋愛詩集』がカ リカチュアの書である, あるいはそのよ うに読 むべ き であると主張す るつ もりはまった くない。 あ く . までテクス トに向か う際の一つ の読 みの可能性 と して問題 にt Lよ うとす るだけである。 だが公式 の詩論 と異 な り,新 たな詩学 を模索す る詩人の姿が 『 恋愛詩集』を通 じて, いやそれが恋愛 詩であるか らこそ一層鮮明 に現れて来る よ うに思われ るO そ して, こうして相 対化 され る 「 私」 はロンサールの拝情 に多様 な拡が りを もた らすであろうし,

これ こそロンサールが 『 恋愛詩集』 に据えた戦略の要諦ではなか ったか。

‑ 詩 論 の テ レゴ リー と して読 む 『恋 愛詩 集 』

ロンサールは詩 を書 くことに駆 ける情熱 とその意味をソネ百九十三番で謡 い

1 4 ) ルネッサ ンスの特質の一つ に文化の世俗化が挙 げ られ るだろう. ブルク‑ル トの描 いたイタ リア, ホイジンガの描 いた北 フランス, フランドル地方 そ こには現世肯定 の止 めよ うのない動 きが生 き生 きと現れている。 フランスの宮廷文化 も 1 6 世紀 こ

の波 に乗 って急速 に世俗精神を取 り込んでゆ く。

(17)

『 恋愛詩集』再読

上げる。

そこな奴,手練れの腕で刈 り取れよ 緑の時季の麗 しき花の彩 りを,

そ して力一杯家中に撒 き散 らし

幾重 にも重ね彩 り豊かな繊壇 とせよ。

岩 より穿たれ し私の歌 う竪琴

できるな ら魅惑 したいかの婚薬, その美 しい目は私の分別を狂わせ る 恋 しい女性の抗い難 い流 し目よ。

私 にイ ンクと紙 を与えよ 幾枚 とな く私の憂 いを記 し

私が忍んだ苦悩を書 き残 しておこう ダイヤよりも硬 い紙 に幾枚 とな く

後の世が私が愛 したがゆえに 被 った苦 しみを知 るように。

17

『 恋愛詩集』に永遠の命を与えるためにロンサールは 「 彩 り」の広が りと厚み を,そ して拝情 ( 「 歌 う竪琴」)の強度を最高の段階にまで高めねばな らない。

そのためにまず ロンサールは神話 に求めた詩のアルカディアに地誌的固有性を 交え神話 の超越性 にひび割れを生 じさせ, さらに自己言及によって 「 私」を相 対化 し , 「いま,ここ」とアルカディアを結 び付 けようとする。そ して墓碑 に刻 むことによって愛のディスクールの危 うさを救お うとす る。だが 「ダイヤより

も硬 い紙」 に刻印す るためには想像を絶す る拝情 の強度が必要だろう,ユマニ

スムの洗礼を受 けたロンサールにひたす ら至高を目指す宗教的没我 はもはや無

縁であろう,たとえ愛への殉教 においてそのような姿勢を取 って見せ るとして

も。言 い替えるな らば,現世を否定 し彼岸の救 いを希求す るゴシック的志向か

らバ ロック的志向にすでに移行 しつつある。即 ち,現世をあるいは人間の具体

(18)

18 人 文 研 究 第 7 6 輯

相 を肯定 しミクロコスモスとして宇宙を内に凝集 させその凝集 のエネルギーに よって彼岸 あるいは普遍相へ接近 しようとす る

。15)

ペ トラルカ主義の ロンサー ル的変容であろう。 そ して詩論のア レゴ リーとして 『 恋愛詩集』 を読む ことは

この変容を確認す ることで もある。

微小 の実体が弧を措 いて回 りなが ら あて どないきままの落下 に身 を任せ ぶつか りあ って世界を造 った

様 々な取 り合わせで結 び付 きなが ら 哀傷,苦悩,千 々に乱 れる想 いが

空な私 の底知れぬ愛 を打 ち 強い秤で私の心 に

愛 の宇宙を創 った

されどあの三つ編 みに結 った金髪が バ ラの指が,そ して象牙の手 が

\ 私の命を滅ぼすな ら, どこにもどるのか

この小 さき世界 は,水,大気,大地 それ とも火にか いやそれは声 に,そ して大 いなる宇宙 に

私の愛す る女性 の栄光 を永遠 に響かせ るだろう

(ソネ三十七番)

およそ恋愛詩か らはかけ離 れたイメージが用い られた この詩 は,だが しか し 極 めてルネサ ンス的である。 エ ピクロスの世界観 をア レゴ リカルに導入部 に用

い, ミクロコスモスとしての 「 私」 とマクロコスモスを対比 させ る結構 はユマ ニス トロンサールの面 目躍如 といったところであろうか。だが,女性 を表象す

1 5 ) ミクロコスモス と新 プ ラ トン主義 の関係 は非常 に微妙 であ り, その解明 な しにこの

よ うな断定 を下す ことは危険 と思われ るが, それは別稿 に譲 りた

い 。

(19)

『 恋愛詩集』再読 19

るものが 「 金髪 」 , 「 指 」 , 「 手 」であることに注 目しよ う。『 恋愛詩集』において 詩人を殺すのは 「 眼」であった (ソネ六十三番) 。 さらに 「 私」の愛 の ミクロコ

スモスを律す るの も 「 眼」である。

あの褐色 の二つの眼,私の命の二つの松明は その光で私 の眼を く、 らませ,

私の若 き自由を奴隷草 し 〔 ・ ・ ・ ‑〕

〔 ・ ‑‑〕

かた くなに操 を立てようと した私 は もはや他の眼を見 ようとしなか った。

(ソネ二十五番)

恋 に落 ちる件 ( イナモ ラメ ン ト)での最大 の契機 は 「 眼」であり, それはす べてを照 らす光源 ( 「 二つの松明 」) となる

もちろん ロンサールは愛す る女性 の美をすべて賞揚 しているわけだが,詩 の トポスか ら見て も若干趣 を異 にす る

ソネ三十七番 は注 目に値す るよ うに思 われる。一義的 には苦 しみ こそ愛 に形 を 与えることを謡 っているが , 「 弧を措 きなが ら 」 , 「あてどない落下 」 , 「 様 々な取 り合わせで結 び付 き」 といった表現 は我 々の読 みに微妙 なア レゴ リカルな逸 れ を誘 う。確かた愛す る女性 の眼 はすべてを照 らす光源であったが, それだけで は愛の ミクロコスモスは成立 しえない。光を映す さまざまな形姿があ って こそ

「 空な愛」は世界 として具現す る。この時 エ ピクロスの原子宇宙論 は単 なるアナ ロジーとしてではな く, ロンサールの詩法のア レゴ リーとして読 み取 ることが で きは しまいか。 そ して第四連 の 「 声」 こそ詩 の究極 の在 り様 なので はないだ ろうか。 さらに分析を進 める前 に一応 の仮説 と七て以上の経過 をまとめて置 く とすれば以下のよ うになるだろ う。

1 ) イナモラメ ン ト‑表現への欲望の発生

(20)

2( ) 人 文 研 究 第 7 6 輯

2) ミクロコスモスの成立‑磁化 された表象 ( 言葉)の集合

3) マクロコスモスへの昇華 ‑永遠の シこ イフイア ンとJ Lての詩 の成立

まずイナモラメ ントに関 して は,本稿 は恋愛 を論 じるもの′ ではないので言及 す るには及 ばないだろ う

焦点 となるのは 2) ミクロコスモスの成立 であ り, そ してそ こか ら3) マクロコスモスへの昇華 に至 る契機である. , .さて 「わが春 に千 の矢 の一撃 を/美 しい眼か ら脇腹 に受 けたその日」 (ソネ六十番,高田訳) か ら , 過剰」な欲望の シニイフイア ンを絡 め取 る. べ くロンサールは抽象具象を 問わずあ らゆるものに可能性を求 めて メ トニ ミーを加速 させ る。 まず は神話 で あるが, その役割 の幅 は広 い。 たとえば,

勇猛 なるカ ッサ ン ドラよ,私 は 、 ミュル ミドネスで も戟士 ドロー ビオ シ

ま してや必殺 の槍で貴女 の兄上 を難 し

貴女 の町を焼 いた ピロクテ‑テスではあ りません

(ソネ四番)

ペ トラルカ趣味の常道 を行 くあ りふれたア レゴ リーの意匠であろう。 だがや がてほとん どエロチ シズムとしての神話境が現れ る。

なみなみ と黄金の雨 と化 して, わが美女 カ ッサ ン ドルの美 しい胸に

‑ しず く‑ しず く降 りて行 きたい,

〔 ‑‑‑〕

まやか しの牡牛 に姿 を変えて 巧みに彼女 を手 に入れたい,

〔 ・ ‑‑〕

苦悩 を癒すために私 はナルキ ッソスに,

(21)

『 恋愛詩集』再読

彼女 は泉になってほしい

一夜 たっぷ りといずみにひたるために。

(ソネ二十番 高田訳)

あるいは,

あ りあまる精力に苛立 ったユー ピテルが いっ もの恋の火をたっぷ り畷 って, ほて った熱 い腰か ら

ユーノーの うるんだ胎内に種を降 ろすいま

(ソネ百五十五番 同上)

21

ソネ百五十五番 は春を愉 した もので,した もので , 「 私」の欲望のアレゴ リー ではないが,外界を表 しなが らもその衝迫力 には眼を見張 るべきものがある。

これに較べてカ ッサ ン ドルを表象す るメ トニ ミーは圧倒的に身体の具象性 にま つわるものとして展開 される。

私の腕に絡みつ く・

千の撫子,千 ゐ百合を, I 恋 に燃え愛す る枝 を

待ち切れず締 めっける葡萄の蔓よりも強 く抱擁す るの も, (ソネ二十九番 同上)

あるいは,

‑ さは銀色 に光 るこの二列の百合,

珊瑚 のようなその真紅の口のなかに

二列 に植え られたあのダイヤモ ン ド,

(22)

22 人 文 研 究 第 7 6 輯

(ソネ百三十七番 同上)

目まいを覚 え る程 の視覚 の転移である。「 一瞥す るだけで,たちまち/感 じる 千 のメタモル フォーズ」(ソネ九番)が見事 に捉 え られている

しか し, これ ら 神話喉 もメ トニ ミ‑ も空 しく展開 され るだ けである。

私 は情熱 のプ ロメテウス, 恋 のためすべての力を失 い,

何 ごともな しえぬまま力 の限 りを尽 くす。

(ソネ十二番 同上)

言 い換 えれば,神話境であろうとメ トニ ミ‑あるいはメタフォールであろう と 『 恋愛詩集』において安定 した相 に据 え られ るものはなに もない。そ して 「 狩 りたて られれば,/ます ます遠 くへ逃 げ去 る」(ソネ百十三番 同上)イメー ジ の群れ は 「 私」を も流転 の うちに巻 きこんで行 くだろ う 。 「 私」は様 々に変身す る鏡像 の流れに身を任 す はか はない。

では手 の届かぬ絶対 の シこ イフィア ンを求 めるプ ロメテ ウス的所業 を止 め る 術 はないのか。「 私」が死 を受 け入れ ることは叶わぬ望 みであることはい うまで もない。 プロメテウスに死 は禁 じられてい るのであ るか ら。 この とき詩 のエク リチュールと しての本質が浮 かび上 が って くる。「ロンサール は死 んだ」と書 く ときエ ク リチ ュール も自らの死 を宣告 して いる

.

止 めよ うのないメ トこ ミ‑の 運動 に横 を打 ち込 む ことによ ってそれまで可能体 と して しか存在 しなか ったエ ク リチ ュールは初 めて軍在す るもの となる

しか し同時 にち ょうどエコーがそ うであ ったよ うに純粋 な声 と してその実在 を消 し去 らねばな らないのだか ら。

「 眼」 が メ タモル フォーズの ミク ロコスモスを照 らす光源 で あ り絶対 の シ

ニ イフィア ンの逃 れ去 る方向を示す唯一 の手掛 りセあるとす るな らば , 「 声」は

唯一 じかにそれ とつなが る可能性である。 もちろんその 「 声」 は もはや主 を持

つ ことはない。

(23)

『 恋愛詩集』再読

彼女 の声か ら滴 り落ちるこの うえない ここちよさ, その声 にはん とうに耳傾 けない人 は

いかに愛 の神がその網 でわれ らを捕え るか,わか りは しない。

愛 の神を も魅惑 し,や さしく笑 い,

や さ しく歌 うこの声 を聞かねば,わか りは しない, 彼女 のそばで ここちよ く死ぬのが。

(ソネ三十八番 高田訳)

23

「 彼女 の声」を聞 く瞬間 「 私」は死 ななければな らない。彼女の声 は もはや誰 の もので もな く,詩人の ミクロコスモスを無窮のマクロコスモスに同化 させ る 絶対 の媒介 となる。 そ して詩 はこの声 に共鳴す る振動体 として詩人の墓碑 とし

て残 される。

だが このマクロコスモスへの昇華への願 いは新 プラ トン主義 として当時共通 の詩的土壌 を成 していたであろう。 したが って ロンサールの詩法 とこれを呼ぶ には当 らないか もしれない。 だが神話職 に映像的 メ トニ ミ‑の加速度的運動 を 重ね ることによって,愛 のディスクールの危 うさと凡庸 さとを首尾良 く逃れ, 純粋 な強度 としての拝情を打 ち立てていることは 『 恋愛詩集』を詩論のア レゴ

リーとして読 む とい ういささか軌道 を外れた読みか らも認 め られたのではある まいか。議論 の締 め くくりにロンサール以上 に欲望 と冷笑 を同時 に合わせ持つ ロラン ・バル トの言葉 に耳 を傾 けてお こう。

愛 のデ ィスクールが部屋を飛 び回 る蝿の動 きに似て予測不可能 な仕方で

立 ち回 る無数 のフイギ ュ‑ル ( 詞姿) に過 ぎないとはいえ,少 な くとも後

か らそ して想像力 にまつわ るものとして見れば,規則立 った変化の過程 を

認 めることがで きる。 この物語的 ファンタスムか ら私が往 々に して導 き出

すのが恋物語である

。16)

( 下線部原文 イタ リック)

(24)

24 人 文 研 究 第 7 6 輯

『 恋愛詩集』にロンサールの真実の恋愛体験 を見て取 り,それを再構築 して伝 記的事実 として捉 えようとす る読 み もある意味では無理か らぬ ことであるだろ う。だがそれは結局のところファンタスムが示す物語性で しかありえない し, 物語 はいか様 に も紡 ぎ出せ るだろう

デ ィスクールとしての愛 は微細 な差異 し

か示 さない もののよ うだ, む しろ ファンタスムの運動 を どのベ ク トルで引 っ 張 って行 くのかを見 ることにこそ意を注 ぐべ きであろ う。

*

『 恋愛詩集』の特徴 は一言でいって映像的転位 (ファンタスムのメ トニ ミー?) の過剰な展開である

だが一方で,永琴 に生 き続 ける㌢ニイフイア ンとしての

「 声」を,過剰なメ トニ ミーを支え うる純粋 な強度 としての拝情 を発振 し続 ける 結晶体 と してその内部 に生 み出そ うとす る試み も見据えておかねばな らないだ ろ う

もちろん この指摘 はとりたてて新 しい ものではない。 ロンサールあるい は詩人 としての 「 私」の変身 (メタモル フォーズ) は以前か ら着 目されて きた ことであ りフランソワ ・リゴロや高田勇先生

17)

が見事 に分析 してお られ, わざ わざ映像的転位 などと言 い替え る必要 はないか もしれない。 ただ強調 してお き たいことは, リゴロの言 うようにロンサールは 「 比較 によって, 自らを神格化 す る

」18)

ことを目指 したのだろうかO もしそうであるとして もそれはあ くまで ミクロコスモスでの ことではないのか。 ロンサールは 「 私」を相対化 し ( メタ モルフォーズと して現象す る), ミクロコスモスの凝集 一散乱 の運動 を加速す ることによって,永遠の シニイフイア ンが住 ま うべ きマ クロコスモスの普遍相 に至 る道を目指 したのではないだろうか。 ジョアシャン ・デュ ・ベ レーの 『オ

1 6 ) ‑ Op. c i t . ,p. 2 3 3

1 7 ) 高由勇 「ロンサールの 『 恋愛詩集』の構造 一 多重の変身 I T 」( 「ロンサール研究」

第‑早 ,1 9 8 8 年)この論文 はペ トラルカとの比較を手際よくまとめた上で ロンサー ルのメタモルフォーズの詩学を見事に浮き彫りにしている。十分に利用させて戴 く 時間的余裕がなか ったのが悔やまれる。

T 11 8 ) Fr a nc gi sRI GOLOT ,LeTe x t ed e l a Re nai s s anc e ,Ge ne ve ,Dr o z ,1 9 8 2 ,p. 1 0 4.

(25)

『 恋愛詩集』再読 25

リー グ 』 ( 1 5 4 9 年),ポ ンチュス ・ド・チ ャールの 『 恋 の過 ち』( 同年)に刺激 さ れたワンサールが同 じペ トラルカの土俵でその腕の冴えを見せようとソネに挑 戦 したとき,すでに 『オー ド四部集』 に示 されていたア レゴリーの特 にメ トニ ミカルで荘重華麗 な展開 が はか らず も凝集作用 を受 けて異常 な緊張 を生 C,

「 過剰」の美学 および拝情の強度の元進を もた らしたのではないだろうか.オー ドとソネ, ロンサールはオー ドの方をはるかに好んだようだ。 フランスの詩王 ■ たるには, オー ドの延長線上 に奪え立っべ き 『フランシャッ ド』を完成 させな ければな らな くもあった. だがペ トラルカへの挑戦で手 に し声拝情 の詩学 はそ の後 のオー ドや讃歌 に明 らかに影響 を及 ぼ して いるだ ろ う。 おそ らくフラン ス ・ルネ ッサ ンス詩の華中の華である 1 5 5 3 年の 『 恋愛詩集』第二版 の 「カ ッサ ン ドルへのオー ド」 はこの間の消息を伝える詩篇 と して今一度その響 きを新 た に しは しまいか。

ああ, ごらん, これ ほど束の間に, 可愛 いひとよ,バ ラは大地 に,

ああ, ああ, その美 しさを散 らして しまった おお,何 と無慈悲 な 「自然」 よ

この花の命 さえ

朝か ら夕べまで とは。

さあ,可愛 いひとよ, 私の言葉を信ず るな ら,

あなたの齢が花の盛 りに匂 う間に, 摘 め串,摘め, あなたの青春 を,

この花のように,老 いて, あなたの美 も曇 るか ら 。1 9 )

( 高田訳)

(26)

26 人 文 研 究 第 7 6 輯

「 花の盛 り」,一瞬すべての要素が緊密な調和を示 し,マ クロコスモスの祝福 が垣 い間見え るとき,それを掠め取 り刻印 し永遠 なるシニ イフイア ン ( 美のイ デア)を研す る声 の響 き。 ロンサールの拝情 は純粋 な強度 の体験 として フロー ベールを魅 し, そ して我 々の 「 読 み」を励起 し続 けるであろう

そ してその声 の響 き渡 る 『 恋愛詩集』の在 り様 は, ち ょうどバ ロック宮殿の回廊を飾 る絵画 や彫刻 の群れに比す こともで きるだろう。見事 な来 るべ き新時代 の先取 りでは なかろうか 。2 0 ) ‑

1 9 ) Laumoni e r 版 ロンサール全集 第 5 巻 p. 1 9 6.

2 0 ) もちろん Da s s onvi l l e ( 前掲書)をは じめ多 くの研究者 が これ とは逆 の中世的な もの の残存を指摘 しているo た しか にソネ百六十四番 は完全 に中世的 ア レゴ リーにの っ とった もので あ る し, カ ッサ ン ドル との関係 に騎士道 め影響 が見て取 れ る。 だが 我 々と して は, これ らの古 きものすべてを巻 き込んで ロ ンサールの詩学 はバ ロック

へ向か っていると考 え る

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