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自己回復の場としての詩 : ジョン・ダンの二編の「朝の歌」をめぐって

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Academic year: 2021

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(1)Title. 自己回復の場としての詩 : ジョン・ダンの二編の「朝の歌」をめぐって. Author(s). 本堂, 知彦. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 40(2): 17-24. Issue Date. 1990-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4199. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部 A) 第40巻 第2号 I i Sec i t ty of 飯iucat lof Hokkaido Umversi 1ouma onIA) VO on( .40 ‐2 ,No. 平成2年3月 MarCh ,1990. 自己回復の場 としての詩 -- ジ ョ ン・ ダンの二編の 「朝の歌」 をめ ぐっ て --. 本. 堂. 知. 彦. T 1 【. 英国17世紀の, ジョ ン・ダンをはじめとする一群の詩人たちを称して用いられる, 「形而上詩人 i lpoet 」という言葉はすでに一般的な文学用語として定着している. しかし, たと (me taphys ca えばダンの詩の代表的なものをいくつ か読んです ぐわかるように, それらは哲学につ いての詩では ナ まし).. 脳 Loり8 Po釧硲 グ ルゐ7 2Do“”β は, 100 ペ ー ジ ほ どの, 小 さ e s か らの 主要 な, 愛 す べ き ア ン ソ ロ ジ ー で あ る. こ こ に は, Z跨e so“gsαれd so”縫 お と Z脳 E‘総Z. マクラミン社から出版されている. ・ 十分に素養のある読者が折りに触れ読んで楽し な詩編が集められて いるが, 注釈の類は一切なく , むために編まれたものと思われる. このアンソロジーに添えられた前書きを, 編者は次のように書 き 出 して い る. 「私 が 初 め て 手 に し た ジ ョ ン・ダン の 詩 集 は, あ る 冬 の 日 の 夕 暮 れ に, ロ ン ドン の チ ャ リ ン グ‐ ク ロ ス ・ ロ ー ドで買 わ れ た も の で あ る. そ れ は, 当 時, 私 が 親 しく し て い た 少 女 が, 私. のために買っ てく れたもので あっ たかもしれないが, 今となっ ては思い出すこともできない. ただ, 6歳の私には, 私の気持ちを実に完壁に表している詩を見つけ出すの そのころ私は恋をしており, 1 1 1」 は, 心ときめくことであると同 時に, ある意味で慰めでもあったことは, 今でも怯えている( べきものではなく て片付けられる このような印象は, けっ してセンチメンタルなものとし , むし ろダンの詩のある 重要な特質に触れ得ているようにも 思われる. しかし, そのような恋愛を扱っ た 詩を, あえて 「形而上詩」 と呼ぶことの意味もま た考えられなくてはならない. この 「形而上詩」 と いう 呼 称 に 関 して は, グリ ア ソ ン に よ る ア ン ソロ ジ ー の 編 纂 と, そ れ に つ づく T‐S.エ リ オ ッ ト の. 「形而上詩人論」 力 決定的な役割を演じたのであるが, この言葉が ドライ デンによる以下の 一節か ら の も の で あ る こ と は い う ま で も あ る ま い. ly in hi He a i f fectsthe l1 i じ norous verses lataphysics sa s satires, butin h , , not on l md re ign; and perplex the mi 1 th nice Where nature on nds ofthe fai rsex wi y sho i ー losoPhy ionsofphi rhea忙s at sPec可 ,and ente貢ainthem , When heshould engagethe ( 2 ) ththesoftness oflove . Wi しか し, ドライ デン 以 後, サ ミ ュ エ ル ・ ジ ョ ン ソ ン を は じめ と して, エ リ オ ッ ト を 含 む 多く の 批. 評家たちによっ て説明がなされてきた形而上詩の特質は, 必ずしも形而上学そのものと関連したも のではなかっ た. ならば, ドライ デンが 「彼 (ダン) は形而上学を装っ ている」 と言ったことの真 意 が 見 失 わ れ て し ま う こ と に な り は しな い だ ろ う か. こ の こ と に 関 して, ジ ェ イ ム ズ ・ ス ミ ス は, 17.

(3) . 本 堂 知. 彦. ダンの詩のなかに, 真に形而上学的な特質を読みとることによっ て, ドライ デンの批評の意味を再 3 } そのなかでスミスは ダンの詩における形而上学的な特質の一つ 確認しようとしている のである( . , 一対多とい として, う主題を挙げている. これは単一で不変のものと, 複数で可変のものとの関係 と言いなおして良いかもしれない. もう少し具体的に言うなら, たとえ‘r‘Love sGrot噴け’に お ける 波紋のイメージ によっ て示される, 唯一にして不変の愛と, 生長し変化する愛とのテーマである . ‘ ‘Twi ckna Lm Ga rde口’のなかで比較される語り手 (さらには語り手に どう しても愛情を向けようと しない理想の女 生) の愛と, 世の移り気な恋 人たちの愛も, この主題の一つのヴァリエーショ ンと ‘LovesG t叱打 考 え て よ い だろ う. し か し,‘ ro ’においても明らかであるように, 永遠に不変の愛を保 つことは難しい. 愛は実際に成長してしまっ たのである. ダンの詩のなかでは, 不変のものと, 移ろいやすいものとの対比が頻繁に扱われる マクラミン . のアンソロジーをまとめた編者の1 6歳の心を捉えたのも,ダンの詩のこのような特質であったのか もしれない. 不変の愛の希求, 自己の不変性の主張は, ダンの詩で繰り返される主題である ここ . では, 変わらぬ愛, あるいは成就した愛 を主張している (もしくは主張しているかに見える) 二編. i の詩, “The smne Ri s ng’と”The Good ‐morrow’を 取 り 上 げて, こ の 主 題 と の 関 連 に お い て 考 察 を加えてみたい.. 1 1 ”The Sunne Ri i s ng’も”The Good )」 で あ る. 何 れ の 詩 の ‐morrow’も と も に 「朝 の 歌 (aubade. なかでも, 愛する女と一夜を過ごした語り手が, 明くる朝, 相互の愛を確かめ それを高らかに主 , 張する, という状況が扱われている. 4 )や レ ッ ドパ ス( S )が 解 説 して い る よ う に 朝 の 歌 と い う テ ー マ は ダ ン の も ち ろ ん, リ ー シ ュ マ ン( , ,. 創始したものではなく, そのモデルを古くローマ時代の詩に求める ことができる したがっ て 大 . , 切 な の は そ の 伝 統 的 な テ ー マ を ダン が い か に 扱 っ て い る か と い う こ と で あ る む しろ 『ロ ミ オ と ジ . ,. ュ リエッ ト』 第3幕の, あの有名な朝の別れの場面などのほう が, ダンのモデルに近いのかもしれ ない. ここでのロミオとジュ リエ ッ トとの対話は, 実に美しい全き詩となり得ているが 戯曲全体 , を一つのオペラに醤えるなら, この朝の別れは美しいアリ ア (ここに限っ て言えば 二重唱といっ , たほう が正確かもしれない が) である. オペラのアリアが, オペ ラから切り離さ れ 独立した歌と , して歌われることがしばしばあるように(あるいは演奏会用 アリアという形式があるように) ダン , も芝居のなかの名場面 を取り出したように, その詩を書いたのかも しれない . ジュ リエ ッ トは, 初めロミオを引き留めるため に朝の到来を否定する しかし 留まることがロ , . ミオの命の危険を意味することを知り, ジュ リエッ トは進んで朝を受け入れ ロミオを立ち去らせ , る. これは“TheSunneRi i s ng’のなかで, 初めは太陽を拒絶しながら, 最後には太陽を招き入 れる にいたる, 語り手の態度の変化と実によく似てはいないだろうか . ジュ リエッ トにおける, 朝の受け入れについての態度の変化は, 次のようなロミオの台詞から当 然予想されるロミオ の死が前提となっ ている. lhave more care to stay thal l lto go. lwi Come death l i l l t wi tso. come e si . Jul ,and we ’ ’ How i ? Le lk. l tsta st ti s not day , mysoul . 18.

(4) . 自己回復の場としての詩 (尺ひ粥の α ) 7 2〆 /幻影Z .23一25 ,豆Lv. ジュリエッ トにとっ て完成した愛をそのままに保つためには, ロミオがそこに留まることが必要で 6 } あ っ た. つ ま り, 「恋 、人 た ち の 時 間( 」 が 停 止 す る こ と が必 要 だ っ た の で あ る. し か し, そ の こ と が. ロミオの死を意味する (それがジュ リエ ッ ト自身の死でもあることに彼女はまだ気付いていない) のを知り, 恋人たちの時間を持続させるために, 朝の到来を受け入れるのである. 愛の成就, ある いはその持続は, 言い換えるなら, あるカイロス的な時間の実現である. これに対して, 朝の訪れ を認めるということは, 連続し, 経過する時間, すなわちクロノス的な時間のなかに自ら参入する ことを意味する. クロノス的時間の根底にあるのは, 変化である. ジュリエ ッ トは, 愛が変わるこ となく持続することを求めて, その拠り所として, 現世の時間, すなわち変化を選び取っ てしまっ た の で あ る. ロ ミ オ と ジ ュ リ エ ッ トの 対 話 の な か で,ジ ュ リ エ ッ ト の 朝 に 対 す る 態 度 の 変 化 を も た ら し た の は, ロミオの死 つまり二人の愛の終烏に対する恐れであ た では ダンの朝の歌であ る“TheSunne. っ . , , Ri i ng’において, 語り手の太陽に対する態度に, 変化をもたらしたのは何であっ たのだろうか. s i lsituation の i t Z跨B S鯛gsα na cvoi ce あ る い は rhetor ca 7 2d so“縫お の多くの詩のなかでの dran 問題は, これまでにも幾つかの重要な研究がなされてきたが, なかでもネルソンによる“Thesul・ne i ls i ion の 展 開 に つ い て 極 め つ く して い る と い っ て tuat Ri i ca nど の詳細な分析は, こ の 詩 の rhetor s 7 ) この展開し 変化する語り手の態度から 何らかの意味 あるいは背後に存在するメ ッセ- いい{ , , , .. 8 ) ケ ア リ ー の 評 論 は ダン の 評 伝 と いう ジ を 読 み 取 ろ う と して いる の が, ジ ョ ン・ケ ア リ ー で あ る( , . ‘The sml 形 を と る こ と で, ダ ン の 人 と 作 品 と を 関 連 づ け て い る の だ が, こ こ で ケ ア リ ー は‘ ne. Ri i nぎ を, ダンがアン・モアと秘密のうちに結婚したことが発覚し, それによっ て世俗社会での出 s 世の道が閉 ざされた, 失意の時代の作と位置づけている. そのコンテクストにおいて, この詩は, 自らの社会的失墜に対する怒りであり, 世俗の権威に対する嫉妬であり, アンとともに再び世俗的 lごという開始の呼び掛けは, 太陽に対 i 栄達の道に復帰したいという願いなのである.tBus eoldf oo しての蔑みであると同時に, 語り手の怒りの感情の発現である. それは単に恋人と二人だけの寝室 に太陽が間入してきたことに対する怒りではなく, 自らが社会的な権威を失っ てしまっ たことに対 iごと は, も はや ダン にと っ て, 願 っ て も 得 る こ と の で き な い す る 怒 り で も あ る. と いう の も, tBus. 状況のことであるからなのだ. 語り手は初め太陽に向かっ て虚勢を張っ てみせ, 太陽を世俗の雑事 ’と太陽に対する絶対的な優越を ipseandc loudthem wi ldecl thawi へ と 追 い 払 お う と し, 『cou nk 主張して, 自らを至高の権威にまで高めようとする. しかし, 第一連において, 太陽がなすべき世 俗の雑事を並べたてているのは, 世俗社会に対する, 語り手の拭い去りがたい意識の表れでもある. そして, 重要なことは, 語り手が自らをすべての王侯たちに優る王者に讐えているのは, 自分が決 して王などではない, 普通の人間であるということが前提となっ ているという点である. これをダ ンの場合に当てはめていうなら, 自らの社会的失墜を招いた恋によっ て, 今, 自分 は王のように感 じている, ということになる. すなわち, アンとの結婚は, 社会における自己の存在を掛けるに値 するものであっ た, という主張に他ならないのである. しかし, 実際には, 太陽に対する態度は和 解の語調へと変化する. それは王者のごとく感じながらもなお, 二人の男女は暖めてもらう ことを 必要としていることを示している. Thi incethy dut i ne age askes ease,and s es bee ’ To war he wor l d lnet n wanning us. ,thatsdonei 19.

(5) . 本 堂 知 彦 1 1 Sh ine here to us, aI ) Idthou artevery where;( ‐ 27一29. 語り手は決して愛人と二人 だけでとり残されることを望んではいないのである. さらにいうなら, 【 ’ ’ tTo warmethe wor ld ld s Donnぎと 読 む こ ,thati ,thatsdone と い う 箇 所 は, To warmethe wor. とも可能なのだ. i こうして考えてくる と, “TheSmneRi ng’という詩は, 太陽にさえその優越感を誇示してみせ s ている愛の賛 歌というよりは, 秘密の結婚という自らの選んだ道と, その結果としてもたらされた 社会的権威の喪失との間で苦しむ人間の悲痛 な訴えという別の姿を明らかにするようになる. そし て, 詩のなかで語り手の太陽に対する態度を変えさせたものは, 失われた社会的権威を回復したい と いう 切 なる 願 い な の で あ る. こ の よ う な 解 釈 は, い わ ゆ る ニ ュ ー ・ ク リ テ ィ シ ズ ム の 立 場 を と る. 批評家たち が慎重に避けてきたものである. しかし, ダンの作品に限らず当時の詩は, ゴーテリー と呼ばれる文学を愛好 する人々の仲間内で, 原稿の形で回し読みされたという事実を考えるなら, ケアリーのよう な解釈の方法は, 完全に正当であるばかりでなく, ダンの詩のより深い理解のため に大いに意義のあるものといえよう. マロッティ もまた, ダンの著作全体をゴーテリーの文学と捉えて, 新たな解釈を試みているが,. ( lme(太 陽)’ 9 } マ ロ ッ ティ に よ れ ば て 彼 は さ ら に 一 層 大 胆 な 仮 説 を 展 開 し て い る( l甘ul yS皿lnぎの Su ,u .. は,t son (息子)’との パン (語呂合わせ) なのである. 失意のうちに子供ばかりが増えるという生 ) に覗き見られてしまう. 活を送っている男が, ある朝, 寝室に妻と二人でいるところを息子 ( son そこから生じる倫理的罪悪感が, 社会的無力感を表しているというのである. この場合もまた, 詩 のなかで語り手を演じているのは, 己の恋愛関係に満足しきっている男などではなく, 失われた自 己を再び完成させたいと願う 一人の人間なのである. i i ケ ア リ ー の 解 釈 で も, マ ロ ッ ティ の 解 釈 に よ っ て も, てThe SI紅・ne R ngの語り手は, 自己の権 s 威の, あるいは自己の存在そのものの危機に直面 していることになる. しかし, 当時, すなわちダ ンが生きていた時代に, その権威が危機に晒されたのは, それまで全世界の中心, 全宇宙の中心と して, 文字どおり不動の地位を保っ てきた地球それ自体でもあっ たのだ. コ ペ ル ニ ク ス が, DB 尺8のZ励め〃必然 を 著 し た の は 1540 年 で あ る が, そ れ が 出 版 さ れ た の は, コ. ペ ルニクス自身の死の年,1 543年をもっ て, 中世が終わっ て近代が始ま 543年のことである. この1 , るという見方がある. それほどコペ ルニクスの, いわゆる地動説がヨーロッ パ社会に与えた影響は 大きかっ たのだが, この著作自体は, 必ずしも最初から学術書として出版されたわけではなかっ た. この著作が持 つであろう 影響力については, だれよりもコペ ルニクス自身がよく認識していたはず で, だからこそ最後までその出版に磯 賭があっ たのだろう.コペ ルニクスが De尺gw初物覆ろ硲 の最 初の校;正刷りを受け取っ たのは, その死の床においてであっ たという話はよく知られている. しか も, そ の 出 版 に あ た っ て, ア ン ドレ ア ス ・ オ ジ ア ン ダー は, コ ペ ル ニ ク ス の 意 思 と は か か わ り なく. 読者に向けた序文を添え, そのなかで, コペ ルニクスの説はあくまでも仮説であっ て, それが真理 であるか否かが問題なのではないと断っ ている. しかし, この序文はコペ ルニクスの説の価値を疑 めようと意図したものでは なく, コ ペ ルニクスの著作を世に出すための, 一種の方便であっ たと見 るほうが妥当であろう. 慧眼なオジアン ダーは, コペ ルニクスの地動説が真面目に受け取られた場 合に, 世の中, 特に教会を中心とする権威がどのような反応を示すかを気遣っ たのであろう. つま り, オジアンダーの序文によっ て, コペ ルニクスの著作は読者に対する存在のありようをすっ かり 変えられてしまっ たのである. 当時の 「新しい学問」 がダンの著述のなかに, どのように取り入れられて いるかについては, す 20.

(6) . 自己回復の場としての詩. でに多くが謂Fられているが, トーマス・ ドカティ ーは, コペ ルニクスの地動説と, その著作がどの 1 0 } ような形で出版され, 読まれたかに注目している( . マロッティ の場合もそうであったが, ドカティ ーもまた, ダンの詩を当時の文化的, 社会的コン テクストの なかに置くことによっ て, 新たな読みの可能性を求めようとしている. ドカティ ーは, オジアンダーの序文によっ て, コペ ルニクスの著作がテクストとして どのように変容したかを説明 ’ す る た め に, 「詩」と い う 言 葉 を 用 い て い る. い う ま で も なく, 詩 (Poem) と は, t somethi ng made. を意味するギリシャ 語に由来する. オジアンダーがいうように, コペ ルニクスの仮説が, 真理から 離れたところで, 計算と思索によっ て生みだされたものであるとするなら, それはまさしくフィ ク シ ョ ン, す な わ ち 「詩」 と 変わ る と こ ろ が な い の で あ る. 詩 で あ る 限り に お い て, コ ペ ル ニ ク ス の. 著作は, 作り物として受け入れられ, それゆえ厳格な検閲の対象から除外される. また, 詩となる Z Z ことによって, 多様な解釈の可能性が生まれる. コペ ルニクスの De尺eのZ Z o煽ろ硲 は, 天文学書で あり, 哲学書であり, 神学者であり, また文学書でもあるのだ. コ ペ ルニクスが当時のヨーロ ッパの知識階級に与えた影響を, ドカティ ーは次の3点に要約して いる. 第一に, 常に中心から排除されているのが, 人間の基本的な在り方だという認識. 第二に, 中心から排除され, 絶え間ない動きのなかに身を置いたことによっ て, 人間が世俗の歴史のなかに 組み込まれたということ. そして第三に, 一元論的真理が, 解釈の多様性によっ て取っ て代わられ, 詩に限らず全てのテクストを読むことと書くこととにおいて, 解釈上の問題が顕在化してきたこと で あ る.. ジョ ルダーノ・ ブルーノやガリレオの迫害は, コペ ルニクスのテクストの解釈の, ある可能性を 追及した結果ともとれよう. そして, ジョン・ダンの詩は, 別の解釈の現れとみることも可能であ ろ う. コ ペ ルニ ク ス の 著 作 は, オ ジ ア ン ダー の 序 文 と と も に 「詩」 と な っ た わ け だ が, ダ ン の テ ク. ストは, 詩という形式で書かれたコ ペ ルニクス的思想の解釈なのである‐ ダンの詩においては, 中 心から排除され, 権威を失っ た自己が, それを回復して再び自己を確立しようとしているのである.. “TheSum・ i sぎ に示されている宇宙観は, 一見すると中世以来のプトレマイオス的宇宙観で eRi s ’ てThi ldfoo l あるように 思わ れ る. しか し, そ の よ う な 宇 宙 観 の な か で の 太 陽 は, tBusi eo neage e ,. a ske sea sgなどの箇所からも明らかなように, もはや年老いた存在でしかない. 実際に, 周辺の軌 道に追いやられ, 中心から外れて運行を続けることになっ たのは, 語り手の依っ て立つ基盤たるべ き 地 球 な の で あ る.tSawcypedantique wr t e c菖という呼び掛けからは, 当時の新しい知識であった 地動説によっ て宇宙の中心という王座に着いた太陽に対する空しい反抗の声が聞き取れよう‐ にもかかわらず, 古い宇宙観にしがみつき, 強引に地球をその中心に据えようと しているのは, すでに中心から除外され,権威を失っ た自己を再び確立しようとする意志があるからに他ならない. そ して, 人 間 が 組 み 込 ま れ て し ま っ た 世 俗 の 歴 史 に 対 立 す る, カ イ ロ ス 的 時 間 と し てて loversseasod. を持ち出すのである. そこで実現された愛は, すべての世俗的な時間を超越する‐ Love a lal ike l yme , l ,no season knowes,norc ,. Nor houres, dayes, months i 1 1 ‐10 ) ch are the rags oft l ne ‐ ( ‐ 9- ,whi. しかし, このように主張しながらも, 語り手には経過する時間に対する恐怖心が依然として残って い る の で あ る. i loudthem wi lcould ecl th a winke, pseand c 21.

(7) . 本 堂 知 彦 Butthatl woudl ight 締 め7 lotlose he 2g rs. 1 1 ‐一14 ) ‐ 13. ほんの一瞬, 目をつぶることによっ て, 愛する女の姿を見ることができなく なるのが, それほど長 く感じられるのは, 語り手が世俗の時間 (クロノス的時間) のなかに身を置いていることの証であ る. 経過する 時間, すなわち世俗の歴史は, 必然的に変化を伴うものである. 変化のないところに 時間の経過は存在しない. したがっ て, 次に目を開くときに, 女の姿が, あるいは語り手と女の関 係が, もとのままであるという保証はどこにもないのである. 語り手はさらに, 二人の愛を全世界に誓える. 男と女のいる寝室が, 全世界の写しとなる. もう 少し正確にいうなら, 女が全世界で, 男はそれを統治する王者である. Looke l l mee ,andto morrow late ,te , ‐ ’ Wrhe仇erboththeて lndia sofspi ce a1 ・d Myne Be wherethoul i 1 1 t th mee ) ef stthem,orl ehere wi - ( - 16一18 ’i l IStates l IPr She i sa nces ,1 , ,and a Noth i l 1 1 ) nge sei s . ( . 21一22. ここには ダンが好んで用いた地図のイメージが現れているのだが, 全世界を包含することの誓えと して持ち出されている, 香料のイ ン ド (アジア) と鉱山のイン ド (中南米) は, 大航海時代の交易 の比硫でもある. 交易とは元来相対的なものである. そこには絶対的な基準など存在しない. 語り 手が, その存在の空間的基盤と考えた女性もまた, きわめて不確かな存在といわ ざるを得なくなる. 失われた自己を回復するために想定した存在の基盤が,ことごとく変化と不安定を指し示す以上, 語り手は新たな価値に向かわなければならない. かく して語り手は, 太陽に和解を申し出る.. “TheSunneRi ing’に お い て, マ ロ ッ テ ィ が指 摘 し た( s s tm’どsodの パ ン は, 一 般 に は, 太 陽 と,. 子なるイエス・キリストを同 一視するために用いられることが多い. この詩においても,てTheson 1 1 ) その場合 第一連 Ri i s ngという読み方が当然考えられて然るべき であると ドカティ ーはいう{ . , , て 第二連を通じて, 冒涜的な表現が過度であるともいえる. しかし, Thybeames,soreverend,and t thou an every wh s rong や, t e rぎなどは太陽とキリストを結び付ける パンを支持する表現と考え ることもできる. それ以上に, 太陽をキリストと考えるときに, この詩を構成している, 反逆から ‘The 和解への ドラマが重大な意味を持つことになるのではないだろうか。 そのようにしてみると,‘ i su ng’は,終末論が横行する時代に新しい思想の台頭によって信仰の基盤を危うくされたキ ・ 1 neRi s i リスト教徒の心情を表しているものということになる. もしそうなら, “TheSunneRi ng’は, 後 s の 鼠o夢 So“%βあ の世界にきわめて近 い世俗詩の一例となりえよう.. m “TheGood‐morroW’は あ る 意 味 で ダ ン の 詩 の う ち で 最 も 愛 好 さ れ て い る 一 編 で は あ る ま い か , .. ここには, 相互の新しい愛に目覚めた男女がいて, その愛に自足しながら静かに見つめあっ ている. 互いの瞳を鏡に誓えた第四連は, ダンの数多い詩のなかでもとりわけ美しい箇所であろう. しかし, その美しさは必ずしも完全に獲得された安定の上に立っているのではない. 22.

(8) . 自己回復の場としての詩 マ ロ ッ テ ィ に よ れ ば, こ の 詩 は“TheSunneRi ing よ り 以 前 に ア ン・モ ア と の 秘 密 の 結 婚 を 前 s ,. にして, アンとの関係を背景に書かれたものだという その文脈において この詩をみると 語り ‐ , , 手はダン自身, ダンが両者の愛が永遠不滅であることを説いて聞かせている相手がアン というこ , とになろう. しかし, アンとの結婚がきわめて大きな危 険を伴うことは ダン自身がよく知 てい っ , たはずである. むしろ, このような確信 に満ちた詩を書かな ければならなかった (もちろん 心理 , 的に) ことの背景には, 大きな不安があっ たにちがいない . 第一連では, 語り手にとっ て過去の恋愛 経験は 新しい愛の前 では無に等しいものであることが , 語られ, 第二連 では, 恋する二人にとっ ては 小さな閉じられた部屋が全世界にもまさると言い聞 , かせ, 最後の第三連で, 両者の愛が不滅 であることを訴える . 先に述べたよう に, 確信の表明は不安 に対抗するための手段であるという ことを考えるなら こ , の詩が打ち消そうとしている不安とは, およそ次のようなものだとマロ ッティ は考えている . 第一連:語り手 にとって, 現在の恋愛は, これまでの幾多の恋愛のうちで最も新しいものにすぎ ない, 第二連:二人の結婚が引き起 こすであろう最悪の事態は 実社会からの追放である 第三連: , , 両者の愛は長続きしないであろう . マロッティ のこのような見解は, この詩の持つある種の切実さを説明するものとして たいへん , 興 味 深 い が, ドカ ティ ー は, さ ら に 違 っ た 見 方 を し て い る こ の 詩 で 讃 え ら れ て いる 「朝 は 恋 」 , .. 人どうしがともに過 ごした夜が過 ぎて, 初めて獲得さ れたものなのである すなわち 獲得された ‐ , かに見える永遠の時間は, 経過する世俗の時間を前提としていることになる 世俗の時間が必然的 . に変化を伴うものである以上, ここでの愛も変化の危険を免れることができないのである . この詩の不安定な要素は,{waki thnotoneanotheroutoff ngsoules ch wac earぎと い う ,/ Whi 箇所にも表われている. ふたりの魂は, 互いに見つめあうのか あわないのか 愛の確信という 文 , . 脈において読むなら, もちろん魂は互い に見つめあうの である しかし これを不安の文脈のなか . , に 置 いて み る と, 「魂 は, 恐 ろ しく て, 互 い に 見 つ め あ う こ と が で き な い 」 と な る そ し て 実 際 . . ,. に見るのは, 恋人の姿 ではない‐ 第三連 で語り手が見つめているのは 恋人の瞳のなかに映った , , 自分 自身の姿なのである. 語り手は, 恋人の瞳という閉じられた小さな世 界のなかに かろう じて , 自 己 を確 立 しよ う と す る の で あ る てGood ‐morrow と い う 朝 の 挨 拶 は, 自 己 が確 立 し た そ の 時 に こ . そ, 自分 自身に向けて発せられるべきものかもしれない. . しかし, やがて朝は過 ぎて夜が巡っ てくる 「恋人たちの時間」が 経過する時間に依存する限り . , ,. t thegood …morrow は, tagood‐morrow と し て 朝 ごと に 繰 り 返 さ れ な け れ ば な ら な い あ る 朝 が . ,. 他の朝とは確実に違っ ているように, 語り手が確立 しようとする自己は 連続する時間のなかで , , 絶え ざる変化に直面 しなければならないのである ‐. 『ロ ミ オ と ジ ュ リ エ ト の 朝 の 別 れ で ジ リ エ ト が ッ 』 ュ ッ , , 初 め は 否 定 し た 朝 の 訪 れ を, 最 後 に. は進んで受け入れたのは,幸福な夜のなか に永遠に留まることができないのを知っ たからであった . 世俗の時間の流れのなかに存在する者が, 不変の自己を確 立しようとするとき その者は死によ っ , て世俗の時間から自らを切り離さなくてはならない その意味で ロミオとジュ リエ ッ トの死後 . , , 二人を記念して像を建てる ことにした判断は正しいのだ . しかし, コペ ルニクス以後の近代人にとっ て, いっ たん揺らいだ自 己の存立を回復することは容 23.

(9) . 本 堂 知 彦. 易ではなかっ た. 彼らは石像や銅像になるわけにはいかない. 絶えず変化し, 移り変わってゆく歴 史のなかで, 彼らは何か確固たる拠り所を求めずにはいられなかっただろう. ダンの場合についていえば, その不安の時代にあっ て, 秘密の結婚によっ てもたらされた社会的 失墜という, きわめて具体的な事件によっ て, 自己の存在そのものが重大な危機に晒されたのであ る. 崩壊してゆく古い秩序や, 危機に瀕した実人生のなかで, ダンは当時の人間や社会が置かれた 状況の危うさを痛烈に感じとっ ていたことであろう. ダンの2編の朝の歌に, すなわち“TheSunne Ri i ‐mo r row’の向こうに透 けて見える不安感のなか ng’の太陽に対する複雑な態度や, “TheGood s に, 我々はそれを読み取ることができる. そして, 詩を書くという行為によって, つまりコペ ルニ クス以後, 解釈の多様性を与えられた文学 (ゴーテリーの文学が, 解釈の多様性の上に成り立っ て いることと無関係ではない) という媒体を利用することによっ て, 自己の存在を回復しようと試み たのではなかっ ただろうか. それが, 朝という, 一日の新生の時間に場面を設定した2編の詩のな かで行われているということは, きわめて象徴的であるように思われる.. 註 M Ml l ,1982 た D l 1 ) Char ) { es Fowkesed .ix. . ,p , Z膨 Loり8 月姥粥s qf た ” o““β( ac i an ‐ thed 2 { ) Jo} l n Dryden,A DZ S c鰯鴛e Co 7 2αγ〃Z zg 云膨 0γをZ欄Zαれd Pのgだs sqf s防ぎ彫in AJ.smi ‐ , R l 9 Z d 1 7 5 1 5 1 D Z脳 C“郷 劫 “加 t ( ) e e おれ7 2 o 7 2%8‘ α g 8B ou g, . . ,p ”in Sc粥云 t ton Meta hys IP す 2 222一39 i t th { 3 ) lames Smi : c a o e r り y p ‐ , , H B L hm 肌 効 彬鷲 h i 1 9 5 1 i ( 4 ) j 7 1 脳 t ( u c nson ) 7 2 αγ け o .188一189 . . . es an ,pp , , ( 5 ) Theodore Redpath ed. 1 綾 ,7. 勘72部. ) 7 2d soれ8お け 力た“ Do““8 α . .ed ‐(Methuen ,1983 ,P ,2nd. 233 . ’で あ る が こ れ は 詩 の な か で す ぐにt ho ing’の な か で は, loversseasons ( ) “The Sunne Ri 6 l#g, s , tda es ’tmon値s ’と ト t t 解される こ と に なる の で, loversseasonsをloverst無噂 と 読 み か え て も y ,. さしつかえなかろう. l l ( ) Lowry Ne ) 7 e son丁r . - ,PP-87一98 ,1961 , みαmq“B Lyγ北 Fo獲り (Ya F b An } jo } C れ D d ( 8 財物d ( a er ) α“ ln arey .108一110 . ,1981 ,pp , あ “ o”欄 二 L脆, た H 5 7 D C d i m 1 9 8 6 1 5 6一1 i 鑑 t z ) W ▽ ル ( 9 ) Anhm F.Marot c o n 7 2 o 7 2 % 8 o g B D s s p p ‐ , , . , , o Q ) Thomas Docher ty,力ね7 ) z Do%“8 2do“8(Methuen,1986 . ‐17一50 ,pp , ひ7 ) あZd‐ ( 1 1 . ‐34一35 ,pp (本 学 講 師. 24. 札 幌 分 校).

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参照

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