• 検索結果がありません。

ジョン・ダンのHoly Sonnet XVIIについて

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ジョン・ダンのHoly Sonnet XVIIについて"

Copied!
14
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. ジョン・ダンのHoly Sonnet XVIIについて. Author(s). 本堂, 知彦. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 43(2): 105-117. Issue Date. 1993-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4256. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第4 3巻 第2号. 平成5年3月. P国 lo fHo嘘ロ 組doU口前e i SeC巨on1A)vo fEduG JO L43 1 I I g s 土 yo adon( .2 ,No. Ma ーはb ,1993. fXVI目ごついて ソ ョ ン ・ ダ ン の 嵐o夢 Soれれg. 本. 堂. 知. 彦. 祝婚詩や追悼詩などのように特定の機会に書かれたことがはっきりとしているものや, 書簡詩を 例外とすると,ジョン・ ダンの詩のなかにはその創作の年代を正確に特定できるものが実に少ない. ある詩が, いっ, どのような状況のもとで, 誰のために書かれたのかという問題は多くの議論の対 象となってきたし, 今後も最終的な結論は期待できそうにない. したがって, 例えばベッ ドフォー -中Ga d ド伯爵夫人 を念頭において書かれたとされる‘?顛ck= e〆 や, ハーバート夫人を歌っ たも r の と さ れる ”nbeAummman“‘こし て も, こ れ ら を 論 じる 場 合, そ の 内 容 と 貴 婦 人 た ち と の 具 体 的 な. 関連は, その扱いに慎重を期さなくて はならない‐. 1 )は そ こ に 現 れ て い る sI ′江( そ の よう な ダ ン の 詩 の な か に あ っ て 旦o汐 S 1ぎ が ダ ン の 妻 {加粥f×\ ,. の ア ンであ り, こ のソ ネ ッ トがア ン の 死 後 (ア ン は1617年 8月15日 に12人 目 の 子 供 を 死 産 した 後12. 日目にして死んでいる) 彼女を悼んで書かれたものであるという点で多くの研究者の意見が一致し ており, その意味ではいくぶん特殊な-編といえよう. つまりこの詩の解釈には常に ダン自身とア ンとの関係がついてまわるのである‐ おそらくは野心的な動機も含んでいたであろうと思われる秘 密の結婚とその失敗, それに続く失意と貧困, 毎年のように生まれる子供, なお抑えがたい栄達へ の野心, そして国教会への改宗, そういったダンの個人的な体験を色濃く反映したものとしてこの 2 ) 」 -編とされている. ソネッ トはとりわけ 「感動的な( S山ceshe who ー mell ovd astd aydherl ebt ,ha位 p dt d mygoodi d TO Naな に 1 le 1 sd税 1 1 o hers 1 l ,a ,a , ′鑓t h i h d l Andhersomee 桟 - v e n 窟v s e z 江 o y ,. l 〕無di ▽ ~ r ho ve副y 出血g 蔓 i smy立 sseは. yin h( Hered head鴎y i i d whett ロghetmy域ねdd l. Toseeke 化lee Gbd;sosせ矯皿es doshew dle h-蔓ld, ’ Bu 1 l a d位ee t鯨s t免d t億ou啓11 ve 角wl , and 街oumy 仙遊s , Aho l b d 崖 l t s smeeyet工 l y 童opsy me yd Bu twhysho通dlbe rel ove 圭廻 mo ,whenas 麹ou Dost wo (鳩 mysome ,lorherso伍釦g 組 出血e:. l l Anddostnoto副y云eareleastla ow Myl a j b o l i血ロ dAロge t ovet os sa l ・ s e , 出血gsd , Bu hyt l t面d tdoubt enderj ea osydos l l証 lpu Leas d t t位eeout t出e Wo r モ溺 De ,y ,昼eshe. l05.

(3) . 本 堂 知 彦. ダン夫妻の波澗に満ちた結婚生活の経緯を考えると, ここには悼んでもなお余りある亡き妻への思 い が切々と訴えられ, さらには妻の愛情に代わってその大いなる愛を差し出す神に向かおうとする 詩人の姿が感じとられ, たしかにこのソネッ トは 「感動的」 である‐ 20世紀イ ギリスの作曲家, ベ 3 ) その なか で は ン ジ ャ ミ ン・ ブリ テ ン は ダン の 旦o夢S伽 解な か ら 9 編 を 選 ん で 作 曲 を して いる が( ,. この第17番がとりわけ「メロディツクで分かりやすく」それゆえ「分析のし甲斐がない」ものとなっ ) こ れも ま た こ の ソ ネ トが 与 え る 一 般 的 な 印 象 が ど の よう な も の な の か と い う こ と 4 て い る( ッ . ,. を証言する事象の一つといえそうである. しかしこのソネッ トはけっ して 「分析のし甲斐のない」 ものではなく, むしろそれほど簡単には 論じきれないような問題を多く含んでいる. ここでは他の宗教詩や世俗詩との比較も交えながら, この ソネ ッ トの 持つ 独 自性 につ いて 考 え て み た い‐. このソネッ トは一見すると ダンの作品としては比較的平明なものに思われがちであるが, 実は解 釈上の問題がいくつか残されている. まずそれらの問題点を明らかにしておきたい. 最初に問題となるのは次の箇所である‐ S i t astd eb nceshewhomell ovd , 加故 paydhell TO Na ture ) o hers oodi sdead ,andt ,and myg , 皿 1一2. 5 ) ヘ レン・ ガー ドナ ー は この 2 行 の 読 み に 関 して 3 通 り の 解 釈 の 可 能 性 を 示 唆 して いる( . ‘ ha故 paydher媛s tdebt/TO Na t血ぎ はま ち が い な く 「彼 女」 の 死 を 述 べ て いる の だ が, 問題は次 の‘ ha故 paydher駁s tdep t/TO Na t u re andtoh ohe rg と いう よう に, 1o erぎ で あ る. こ れ を‘ ,andt herぎ を‘ TO Na tw噂 と 同 様 に‘ payd と いう 動 詞 につ な げて 読 む こ と が でき る‐ こ こ に 第 1 の 解 釈 が ‘ 生じる‐ こ の 場 合 toherg の 意 味 す る と こ ろ は‘ t oher 総 画yand 伍endぎ と な り, こ の 2 行 全 体 の. 意味は 「私の愛した女性が自然 (神) と彼女の家族や友人に最後の借りを支払って, 私のいとしい 人 は死 ん で しま っ た.」 と いう こ と にな る. toh t 第2, 第3の解釈 は‘ ohergoo寸 と す る 場 合 で あ る. erぎ を 次 に 来る‘mygood と 並 列 さ せ て‘ ‘ は h こ こ で は‘ dt h d ぜ d h i d dt di d ( ) an o ers oo s ea an s e s ea o ergoodandto mygood と 書 き ,an myg. 換えられよう. 第2の解釈は, 彼女が自分自身のためにも愛する男のためにも善行を為しうる可能 性を死が奪い取ってしまっ たので, 「彼女は死んでしまい, 彼女自身に対しても私に対しても, も はや善を為し得ない.」 というものである. 第3の解釈はこの2行に続くクオートレインの残りの2行の内容から導き出される. i Andhersomeea1ly′ nto h f 蔓 l venradshed ,. l i i ロdi Who l h i ngsmyl sse比 皿 y 無heavemyt. 4). つまりこういうことである.彼女は早々と天に召され,私の心はひたすら天のことを思うようになっ たのだから 「彼女は死んだが, それは彼女にとっても私にとっても良いことだったのだ.」. 7 } ピ ー タ ー . ミ ル ワ ー ド( 8 ) 6 )や ロ ジ ャ ー . B . ロ リ ン( 第 1 の 解 釈 は ウ ィ ル バ ー . サ ン ダー ズ( ,. 106.

(4) . ジョン・ダンの 国≧ソネット第17番』. らが支持している‐ たしかに ダンとアンの思慮を欠いた結婚が引き起こしたであろう親類や知人と の争いや確執を考えると, 「彼女は家族や友人に最後の借りを返した」 とするこの解釈はいかにも 妥当 で あ る よう に 思 わ れ る. しか し テ キ ス トに即 して み る と TO Na tw 〔ど の 後 の toherぎ を 1oher 9 } しか し こ の 読 み に 無冠yand垣endざ の よう に 読 む の はや や 無 理 が 大 き い の で はな い だろ う か( . , i d 従 え ば (こ こ が こ の 第 1 の 解 釈 の, 第 2, 第 3 と は 異 な る と こ ろ な の だ が) ‘ e s aα の 主 語 が ‘ l oved と 読 ん で い る が, 自 ら そ shぎ で はな く 加ygood と な る‐ ガー ドナ ー は 加ygooぜ を 加ybe l の不自然さを認めている. サンダー ズはこの解釈に従いながらも 恒ygood を 加ybe oved と は読 ま ず, む しろ 「私 に と っ て の 善 い こ と」 と いう よう に 解 釈 して いる (ロ リ ン と ミ ル ワ ー ドにお いて. はこの点がやや暖昧である) ‐ サン ダーズによれば詩人は妻の死を決して 「善いこと」 と見ること ができ な い の で あ る‐ つ ま り この第 1 ク オ ー ト レイ ン に お い て, す で に 語 り 手 の 神 に 対 する 不 満 が 表 れて いる と いう の で あ る‐ l o } ノ ヴ ァ ー はこ の 解 釈 もま た ガー ドナ ー 第 2の 解釈 は デイ ヴィ ッ ド. ノ ヴ ァ ー が支 持 して い る( ‐. 自身が不自然であると判断しているのを認めたうえで, なおこれが「不自然ではない」 と主張する‐ それによると, 「彼女」 が為しうる善行とは現世におけるものなのであり, けっ して来世における 善行なのではない. すなわちここでの‘ ood とは, きわめて現世的な意味での男女間の愛情を指す g ので ある. こう 考 える と こ の ソ ネ ッ トは, 早く も 開始 の 2 行 の 中 に地 上 の 愛 にな お心 ひか れる 語 り. 手の態度が現れていることになり, その意味ではサン ダーズの解釈に近いと言える. ノヴァーによ れば, これこそがこのソネッ ト全体の主題と一致することなのだ. 宗教的な題材を扱いながらも, ’ 語り 手 が‘ good(善 い こ と) と 認 め る の は 現 世 の 愛 な の で あ る‐ ダン はそ の 世 俗 詩, た と え ば 「he E凝as i や ”TheC boが においてきわめて世俗的な題材を扱いつつ 抽象化され理想化され a i mo瞳Z. , たいわ ば来世的な愛の優越性を歌ったのであった‐ それと比較してみると, この宗教的ソネッ トは まことに対照的な様相を示しており興味深いもの がある‐ 第 3 の 解 釈 を 支 持 して い る の は ジ ョ ン . ケ ア リ ー で あ る(n) ‐ ケ ア リ ー は他 の 解 釈 は全 く あり え な い か の ごとく 次 の よう に い い き る‐ 「こ の 詩 に 関 して 注 目 す べ き こ と の 一つ は, 悲 しみ が欠如 し. て いる と いう こと で あ る‐ ダン の 高 揚 した 調 子 が 悲 し み を 抑 え つ けて いる の だ‐ 2 行 目 で 彼 は実 際, 妻 の 死 を 善 いこ と - 彼 女 にと っ て 善 い こ と, そ して 彼 に と っ て 善 い こ と - と して い る. な ぜ な ら. 彼女は天国を手にして, 彼は地上の欲望から解き放たれたのだから.」 この解釈に従えば, ソネッ ト前半のオクテイ ヴにはまだ語り手の現世的愛への執着は見られないということになり, サン ダー ズやノヴァーの解釈とは対照的である‐ しかしそれだけ一層後半のセステッ トとの対比 (セステッ トは‘ Burという接続詞で始まっている)が際立つことになる. ケアリーは「悲しみが欠如している」 というが, このことに関してガー ドナーは 「その忍従の調子から見て, このソネッ トはダンが妻を 失った直後に書かれたものではなさそうである‐」 としている‐ このガー ドナーの 「忍従の調子」 に対してケアリーは 「事態に敢然と立ち向かおうと, 超人的な努力をしている人間」 と少々異なっ た 見 方 を して いる が, こ れ につ い て はま た後 に述 べ る こ と にす る‐. 以上が開始の2行に関しての3通りの解釈であるが, 次に問題となるのはセステッ トのなかの以 下の 2 行 であ る. Butwhyshou l dlbel弼 morelove, whenas 故ou Dos twooemyso通e 10 ) so故血gan仙遊e: 皿.9÷ ,角rher. 107.

(5) . 本 堂 知 彦 1 2 ) そもそも ま た して も herざ で あ る‐ そ し て こ こ で も ま た 3 通 り の 解 釈 が 成 り 立 つ よう で あ る( . 10行 目 の パ ン ク チ ュ エ ー シ ョ ン は こ の ソ ネ ッ トが 収 め ら れ て い た ウ ェ ス トモ ア ラ ン ド写 本 で は ‘D st w e l ′ で あ り, 本 論 中 の 引 用 は ガー ドナ ー の 編 ん だ テ キ ス トに 従っ た o oo mys e めrhe班s;. ou .. も の である. ま ず は, そ の ガー ドナ ー の 解 釈 か ら見 て ゆ き た い. 第 1 の 解 釈 は ガー ドナ ー の も の で あ る‐ ガ ー ドナ ー は パ ン ク チ ュ エ ー シ ョ ン を 変 更 す る こ と に よ っ て, 対照 関 係 に あ る の が‘mysou lご と‘ herぎ で は なく ‘ herg と‘出血ぎ で あ る こ と を 明 ら か に し. ている‐ この場合‘お・h (あなたは) 彼女の e rぎ は 「彼女の魂の代わりに」 であり, 10行目後半は 「 魂の代わりに, あなたの魂のすべてを差し出して」 となる. セステッ トを通じて明らかなのは, 詩 人の魂が天上の愛と地上の愛に引き裂かれそうになっているということなのだから, 「彼女の魂」 と 「あなた (神) の魂」 の競合関係を作り出すガー ドナーの解釈は, きわめて妥当性が高いように 思われる‐ ガー ドナーの解釈に弱点があるとするなら, それはその解釈がガー ドナー自身が変更したパンク チ ュ エ ー シ ョ ン に 基 づ い て いる と いう こ と で あろう. 第 2 の 解 釈 は, 本 来 の パ ンク チ ュ エ ー シ ョ ン. ( ) 1 3 を尊重したA .J .スミスのものである . 「神は, 今では天国にある魂 (亡き妻の魂) のために, 天で再び結び付け, 要せようとして詩人の魂を要求している‐」 したがって, ここでの 街・h e rぎ は 「彼女の魂のために」 である‐ ガー ドナーは, このソネッ トの主題である神の 「優しい嫉妬」 と全 く矛盾するとしてスミスの解釈を否定している‐ たしかにガー ドナーの言うとおり, 天上で二人の 魂を結婚させるくらいなら, 神は詩人の魂に言い寄る (覇oo emysoulぎ) 必 要 はな い こ と になる. ではスミスの解釈はその正当性を主張できないだろうか. そうではないだろう‐ まず第一にスミス の解釈における 「天上で再び結婚させる」 という考えは, ダンの実際の結婚生活を考えてみると実 に魅力的である. 現実のダンの結婚は惨傭たる結果を招いた. それゆえ 「今度こそは天国で晴れて 皆の祝福を受けて……」 という含みを持つこの解釈は, 何か哀切なものを伴っており捨てがたい. さらに天上で再び結婚するということは, 必然的に詩人の現世における死を要求するものである‐ つまりこの解釈では 「神が私の魂に言い寄る」 とは単に神が詩人に絶対の信仰を要求することを表 しているのではなく, 詩人が自らの死を差し迫った問題として考えていることを表してもいるので ある‐ 信仰のうちに死ぬことを思いながらも, なお現世的なものに引かれる詩人の姿, というのが スミスの解釈の核心なのではないか‐ こう考えると, この発釈もあながち否定し去れないものがあ る よう に思 、わ れる. 1 ) 第1 第 2 何 れの 解釈 に 4 第 3 の 解釈 も 本 来 の パ ン ク チ ュ エ ー シ ョ ン に 基 づ く も の で あ る( . , ,. おいても‘危・h e rぎ の 「彼女」 とは死んだ女 (アンと考えてもよいだろう) を指すのであるが, こ こでは 「彼女」 とは人間の女のことではなく, 詩人の魂を指しているというのである. したがって 街rherso放出gan出血ぎ は 街rmyso証sl lmg 証 批yl oveo伍e ovぎ (私 の 魂 の 愛 を 求 め て, あ な た の べ ガー 愛のす てを差し出して) となる‐ ドナーはこの解釈の可能性を認めてはいるが, このソネッ ト全体のなかでの‘ r, ‘moぜ, ‘ hど (私, 神, 亡き妻) という3つの代名詞が果たす役割の重要 s 性に照らして, その妥当性については疑問を呈している. 単に解釈上の問題点が残されているというだけで, その詩が複雑かつ難解ということを保証する ことにはならないにしても, 細部の解釈の多様性が, これほど詩全体の解釈の可能性を豊かに広げ る目の当たりにすると, やはりこれはこのソネッ トが本来的に複雑で暖昧な要素を含んでいること を示しているのだと考えるのが妥当なのではないだろうか. 次にこのソネッ トの全体を通して, 少 し詳しく見てゆくことにしたい. 108.

(6) . ジョン・ダンの 『聖ソネット第17番』. ヘ レン・ ガー ドナ ー は こ の ソ ネ ッ トに 「忍 従 の調 子」 を 読 み 取 っ て い る‐ ガー ドナ ー 自 身 は必 ず. しも明らかにはしていないのだが, 先に挙げた開始の2行の解釈については彼女はどうやら第3の 1 5 ) この解釈は3つのうちでは最も穏やかなもので 詩人は妻の死 解釈に傾いているようである{ ‐ , を神の意思として静かに受け入れようとしている‐ ケアリーは基本的にはこのガー ドナーの解釈に よりながらも 「忍従」 というよりむしろ 「事態に敢然と立ち向かう」 姿勢を読み取っている. この 両 者 の 違 い は恐 らく ケ アリ ー が 乍a循shed と い う 語 に 注 目 し て いる た め で はな い だろ う か. も ち ろ ん こ こ で の‘焔晒shed は第 一 義 的 に は 「法 悦 の う ち に 天 に召 さ れ る」 ほ ど の 意 味 で あ る の だ が こ ,. こに 「凌辱される」 という意味を読み取らずに過ごすことはどうしてもできない. われわれはダン が他の宗教ソネッ トのなかで, この語をどれほどの激しさを込めて用いたかを思い出さなければな らな い‐ Whydo l 力 鎖ede V訓 menusu l ご pe 血 mee? Whydo位hesteale,nay 窟顕sh mars 鉱yn仲t江月o夢S伽 鰯tn n ) , .9‐10. この2行で詩人は, 神が住まうはずの自らの肉体が, 今や悪魔に占領されていることを神に訴えて. いる の だ が, い っ た ん‘ lご と いう 語 を 使 い な が ら, す ぐ にそ れ を 打 ち 消 し て さ ら に 一 層 激 し い t s ea ‘窟晒s甘 と いう 語 で 言 い 換 え て いる の で あ る こ こ で の‘猿賓S i r に 凌 辱 のイ メ ー ジを 読 み 取 る こ と は . いと も簡 単 で ある‐ しか しさ ら に激 し い の は有名 な‘ Baはermyhe a賦’に始 ま る ソ ネ ッ トの 一 節 で あ ろう‐ 免rl ’ E×cePtyou en曲臨証 広lee,nevershanbeをee , NoreverC ぬas t ]W,亘 ‐(嵐o夢S伽鰯rX ,exceptyou 鞭dsh mee .1. 14 ). こ こ で述 べ ら れて い る 状 況 はS伽“e lの 場 合 と ほ と ん ど 同 じ で あ る が こ こ で はセ ス テ ッ トで - tl , ’と いう 語 と の 対 比 か ら こ の‘ d け が 貫 して用 い られ て いる 結 婚 のイ メ ー ジ, さ ら に は‘ t ( ) cha s e 窟 s ,. まさしく 「凌辱する」 の意味で用いられていることは明らかである‐ ダ ン が宗 教 的 な ソ ネ ッ トを 書 く に あ た っ て かつ て (S {加鰯iXV口 が 他 の ソ ネ ッ トと比 較 して, ,. より後期に属するものであることはほぼ間違いのないところである) 彼が同じ形式の詩の中で使っ , た語を, 違う意味で用いたとは到底考えがたい‐ まっ たく同じではないにせよ, その余韻を響かせ て いる と 考 え る の が 自 然 で あ ろ う. し た が っ て‘山ロdhersou l eedri nt oheavenl adshed に は, 愛. する女性を暴力によって奪われてしまっ た男の激しい訴えが読み取れるのである‐ 愛する女が強引 に 連 れ去 ら れ た, 仇 は 天 に あ る‐ と す る と 次 の べ バ 7 ho l l h i ngs my mi odi sse化’も 「私 の y 山heaven yt. 心はもっ ぱら神聖なものへの思いで満たされている」 という一義的な意味の底に, 「私の心は愛す る妻を力ずく で連れ去った仇を求めて, ひたすら天を晩んでいる」 という意味が忍び込むのではな い だろう か. こと に‘ seげ と いう 語 の き っ ぱ り と した 感 じがそ の 気 分 を 強 め る.. 次 の 第 2 ク オ ー ト レイ ン も そ う で あ る. 5 行 目 の 習ere meadn血mgher myn l i ndd i d wheぜ の. ‘ 1 6 ) やはりここでは He rg に関してノ ヴァーは現世とも来世とも読める可能性を示唆しているが( , 詩人が今実際に身を置いている現世と取るのが至当であろう. またこの1行は 「彼女」 の生前の , 109.

(7) . 本 堂 知 彦. 徳を讃えて, 「彼女がこの世にいた頃 は……」 というようにも読めよう が, やはり詩人の心が天を 指向するようになったのは彼女の死が直接の原因となっているのだから, 「今この現世で, 亡き妻 の徳を思うと……」 とするのが自然であるように思われる‐ そしてこの1行を先ほどの 「力ずくで 妻を奪われた男」 という文脈の中に置いてみると, ‘ wheぜ という語が生きてくる‐ すなわちあた がら仇を求める心を研ぎ澄ましていると 強奪された妻を思いな かも戦いに備えて剣を研ぐように, いう態度が見えてくるのである. もちろんこのような読みはこのソネッ トにあっては第一義的なも のであってはならないだろう‐ しかし, 詩全体の底に行き渡り, その表の意味の色彩を裏から輝か せ一層の深みを与える下塗りのように, この神に反逆する詩人の態度は存在しているのではないだ ろうか. そして ガー ドナーが認めた 「忍従」 という情調に対してケアリーが 「事態に敢然と立ち向 かう」 調子を認めている理由は, まさにそこにあるのだろう. h 6行目の‘sos立eamQesdos ew 出ehe ad には詩篇第42篇 「神よ, しかが谷川を慕いあえぐように, 7 )」 の エ コ ー があ る か も し れ な い さ ら にそ れ と 重 な っ て こ こ に 1 わ が魂 も あな たを 慕 い あ え ぐ( . ‐ , は涙 のイ メ ー ジがあ り は し な い だろ う か. ‘ sせeameg と 複 数 形 に な っ て いる の も, 二 筋 の 涙 を 思 わ. せる‐ 亡き妻を思うと涙が流れる, その涙の意味を尋ね, その源を求めてゆく とそこには神があっ た. 先ほどの詩篇との関連でいえば, 神を求める人の心は谷川の水を求める鹿と同様に乾ききって いる. この行の前半と後半のつながりは一見唐突のようにも見えるが, このように2重のイメージ の下に読むと, そこに巧妙な必然性が存在しているの がわかる. そしてここから次の7行目が引き 出される. lha o皿d 位eぎ は ダ ン の 生 涯 7行目で詩人は信仰という 泉に辿り着き, 水を飲む‐ ここでの‘ v ef 61 5年にダンが国教会の聖職者となったことを指していると考えること の事実と照らし合わせて, 1 もできよう. しかし, 過度に伝記的事実と関連を追い求めると, アンの死と聖職に就いたこと が時 間的に逆転することになるので注意しなくてはならない‐ 詩人が神を見つけたのは, 死んだ妻を思 Burで始まっているが, う膜想の中から得られた結果なのである. 第2クォー トレインの後半は‘ Buぜ と 同 じで あ り. こ れ は セ ス テ ッ トと オ ク テイ ヴの 対 照 と いう こ こ れ はセ ス テ ッ トの 始 ま り の‘ とか らいえ ば, そ の 効 果 を や や 弱 め て いる と 言 え る か も し れ な い.-しか し, こ の セ ス テ ッ トに お い. て‘ Buビに導かれている部分は, 神という泉から飲んだにもかかわらずまだ渇きが残っているとい う事実を客観的に述べたものであり, 自己の内面に目を向けているセステッ トとは性格的に異なっ て いる の で ある‐ こ こ で そ の 渇 き を‘愈opsy (水 腫)’と いう 病 気 を 比 噛 に用 い て い る の だ が, こ の. ‐ ePer 水腫のイメージは ダンにおいてわれわれがよく馴染んだものである‐ 例えばE超滋IV”□h ” ’ ’ ‘ o h i M E 垣ざ N I n s S の or 1 h吻d ) や 同 じ く Ee物 XV 症頃ざ の By 憧y Hydr ec opdque 燈故er 鎚t .( ‐6 ’ あ る い は 嵐o夢S i i l dr ) (牌煽す m の Th篭ydr opd t sp ease lmg ehy ‘we sp ch ophque Du , , q 42 ,sh紙 故eed ‘ ず いう 形 容詞 の 形 を と っ て は t魚g 翫e免,Q dr聖出a i仰t - scou rd ,9y な ど, い れ も hydropbquご と ,andn. いるがやはり水腫の比除がみられる‐ ただしこれらの例から推測されるように, ダンにおいて 「水 腫」 とは水腫そのものを指すよりむしろ, たちの悪いアルコール中毒, いくら飲んでもさらにまた 酒を要求するといっ た状態を指すようである‐ “ し か し, こ の 水 腫 の イ メ ー ジ で 最 も 注 目 す べ き 例 は So l l l l l an ゑ容 α”d税加解あ の な か の A Noct ‘ i tdaず の 6 行 目 に 見 ら れ る Thegene r迎 baばれe m霞ydropdque es Day upons . Luc ,bemg meshones ” ’ ‘ を ん はあ る 女 性 の 死 悼 あ も で 書 か れ た も の で あ り, ろう と いう の N Q h 出 金山水 で = n t w印刻 oc e 2 1a ‐ , そ の女 性 が他 な らぬ ア ン で あ る と いう 推 測 があ る か らで あ る. グリ ア ソ ン はこ れ と は違 っ て‘Noc ‐. 1 8 ) ケアリーやL L mm避’を ベッ ドフォー ド伯爵夫人の病気を創作の動機に結 び付けているが( .‐ , “ を1617 l l t山中a マ ー ツ はこ こ で 追 悼 さ れ て い る 女 性 を ア ンと す る 説 を 探る. マ ーツ は 「ダン は‘Noc 110.

(8) . 7番』 ジョン・ダンの 睡!ソネット第1. 年のアンの死後に書いたというのは大いにあり得ることだと私には思われる. ……いずれにせよ ‘No ” は ダンの詩が彼の詩人としての生涯を通じて 聖なるものと世俗のものとの間の大 u c無血a , , いな る 境 界 に そ っ て 進 ん で い っ た と いう こ と, そ して, 今 度 は聖 な る も の へ, 次 に は俗 な る も の へ. と向き合いながらも, つ ねにその両方を強く意識していたということを鮮やかに示しているのであ 1 9 )」 と 語 て い る つ ま り ほ と ん ど同 時期 に 書 か れ た 2 篇 の 詩 が 一 方 は世 俗 詩 と して そ る( っ . . , , ,. してもう一方は宗教詩としてその形態を保ちな がらも, その内容においては限り無く互いに近づい て いる こと を 強調 して いる の で あ る‐. ケアリーは, ダンのソネッ トと聖イ グナチウスの黙想との関連付けを必要以上に強調することに. 2 0 } ‘Noch m 証’の 女 性 を ァ ン で あ ろ う と 推 測 して い る 点 関 して は 批 判 的 な 立 場 を と っ て い る が( m ,. においては (かなり控え目にではあるが) マーツと一致している‐ 「しかしダンの精神の複雑さと 不安定さを考えてみると, もしそうしたいというのであれば, これら2篇の詩が同一の機会に書か れたと信じるのは難しいことではない‐ そして最も鋭敏なダンの研究者の何人かはこのような結論 に 達 して い る の で あ る. も し 彼 ら が 正 し い と す る な ら, ダ ン は 聖 職 に 就 い た 2 年 後 に な お Sのな容 2)」 αれds伽鰯な に新 た な 作 品 を 加 え て い た こと にな る(1 ‐ 一と も 呼ぶ べ き 2編の詩の中に こ の よう に, 言 わ ば姉 妹編 , 共通して水腫のイメージが用いられて い る の は興 味 深 い こ と と 言 う べ き で あ ろう‐ ‘Nochmm 避’で 水 腫 に か か っ て い る の は大 地 であ り,. それは全世界に生命力を与えるべき霊気を貧欲に吸い取ってしまう. 世界は昼の長さが一番短くな る日にその生命力を最も弱らせるのだ‐ 詩の語り手は, 愛する人を失っ た自分は, 生命力を失った 世界以上に死んでいるのだと言う‐ これに対して 嵐o夢S伽鰯fで は水腫にかかっているのは詩人自 身であり, 彼は神の愛を受け取りながらもなお飽くことを知らず求め続ける. これら2つの比峨は 一見違う事柄を表しているようにも思われるが, 実は語り手の精神状態においては大変に近いもの がある‐ ‘No血u l r において生気を吸い取られた世界と自己とを比較しているのは, 水腫病みの ma 1 大地以上に, 語り手自身が水腫病みであるかのように詩の世界から生気と光を奪い取っていること を 言 わん が た め で ある. つ ま り, こ こ に共 通 す る の は語 り 手 の け っ して 充 足 さ れる こ と の な い 不 満. なのである‐ 詩の語り手は, 自分は無から生じたさらに一層純粋な無だと考える‐ Forlam eve ead口謹めg ly d ,. 垣 whomlove wrou仲tnew 風c旗晒e ‐ For ms 印比 d i de resse ) q ) d D 0 A qU tessenceeven 官om no出血鱒l esse ,. Fromd証 pdvadons,andl inesse:ぐNoc t tm 園” ) eaneemp ,1 12‐16. 語り手は自分が無であると言いながら, 同時にその無はありきたりの無ではない特別の無なのだと 2 2 )」 無 と 主 張 する‐ し か し ケ ア リ ー は言 う. 「特 別 で あ る と い う こ と は, 無 で はな い こ と な の だ( ‐. はある究極の状態を指す言葉だろう. そして特別な無という状態を望むということは, 究極をさら に超えた状態を飽くことなく求めるという姿勢の現れである‐ これがソネッ トの ho l yt制ks坪 drop‐ ‘ l t sr の 持つ 意 味で あ ろ う. こ れ に続 く me smeご という表現にノヴァーは, 愛を求める欲求の熱が ) さ らに は水腫の た め に水膨 れとなり 2 3 溶 か す の だ と, 錬 金 術 的 なイ メ ー ジ を 読 み 取 っ て い る が( ,. 自ら崩れさるという グロテスクなイメージも考えられよう‐ セステッ トでは詩人の心の視線は, 天から自らの内面へと移る‐ このソネッ トをアンの死と関連 づ け る と き, Whyshoudlbe ovど の‘more を ア ン の 旧 姓 で あ る 仙l orご と の パ ン で あ る と モ弼 morel 111.

(9) . 本 堂 知 彦. 2 4 ) 「なぜ自分は亡き妻アン.モアの愛をさらに求めてしまうのか 」 考えることも当然可能である( . . このセステッ トの開始の2行の解釈については先に述べたとおりであるが, いずれの解釈を採るに せよ, 詩人が現在自分に差し出されている神の愛に不足を感じていることには間違いない. だが ‘ u出血ぎ と自ら認めているように, 詩人は神がその 「すべての」 愛を差し出していることを -o飯無ga 疑ってはいない. むしろ詩人が不満を抱いているのは神に対してではなく, 神の愛を受けながらも なお満足するということを知らない自分自身に対してである. 愛する女が死んだのは, 彼女にとっ ても自分にとっても善いことであっ たはずだし, 彼女の死は自分の心を天に向かわせてくれた‐ 自 分は神を見つけたはずであった. にもかかわち ず自分はけっ して神の愛で満たされることがない‐ そのような詩人に対して神は嫉妬する. 嫉妬の対象としてまず挙げられているのが,「聖人」 ,「天 使」 そして 諸々の神聖なもの これらが何を表すのかについては 「 」 である やはりこのソネ ッ ‐ , , トをダンの実人生と絡めて考えるのが有効のよう である‐ ダンはトマス・モアの血を引く英国でも 有数のカトリ ックの名門に生まれながら, その改宗によってカ トリックを捨てたのである‐ すなわ ち, ここで神が嫉妬するのはすべてのカトリック的なものなのである. 聖人や天使・ を崇拝すること はいうまでもないことだが, 「諸々の神聖なもの」 にはたとえば聖遺物やミサで用いられる華美な 道具など, プロテスタントが排斥したものを含んでいるのであろう. 神が嫉妬するものとして次に現れるのが, 「現世」 , 「肉体」 , そして 「悪魔」 である. これも先ほ どの場合と同様に, ダンの生涯と照らし合わせてみると, そこから想像されるのはダンの現世的な 愛の対象, つまり失った妻のアンのことであろう‐ それを 「悪魔」 というのは, 前半のオクテイ ヴ での妻への思いと比較すると, いかにもふさわしくない言葉遣いにも思えるが, 逆にそれが詩人の 2 5 ) また先に引用 したケアリーの言葉にあるよう 葛藤を一層大きなものに感じさせてもいるのだ( . に, ダ ン が聖 職 につ い て か ら も な お世 俗 的 な 詩 を 作 っ て い た と 考 え る の な ら, その こ と も こ こ で 合 わせ て考 えて よい のか も しれ な い‐. ダンの生涯で最も大きな意味を持つ2つの転機を考えるなら それはいうまでもなく アンとの , , 結婚, そして英国教会への改宗である‐ アンとの結婚は, ダンにとって世俗的な道で出世する可能 性を閉ざしてしまい, 以後二人はきらびやかな社会の外で辛酸を嘗めることになる‐ また国教会へ 2 6 ) つまり セステ ト の改宗はダンの心に消し去りがたい屈辱と悔恨とを残したことであろう{ ッ ‐ , では ダンの生涯の大きな2つの出来事をめぐって, 詩人が自らの心の内をじっと見据えようとして いるのではないだろうか. そうすると当然のように詩人は自らの弱さと過ちを見せつけられる結果 となる. それは苦痛を伴う行為に違いない. そしてその苦痛に打ち勝つためにこそ 「より多くの愛 (morel 」 が必要なのである. o v e). 先 に 「姉 妹 編」 と いう 言 葉 を 使 っ て, こ の ソ ネ ッ トと‘Noc tu血組” を 比 較 した が, ケ ア リ ー は こ 2 のソネッ トに最も類似している恋愛詩として‘ 0ves 超d imt enesぎ を 挙 げて い る( れ そ れ は 次 の よ. うに始まる. 茸ye tl始ve1 t迎 位yl o l ove , DE組,lshm neverhavei tan; 但.1-2 ). 112.

(10) . 7番』 ジョン・ダンの 耀きソネット第1. これは語り手が, その議論を開始する際に提出した仮説であって, これを証明するために詩全体の 長さに渡って論理を展開させるのである‐ このかなり晦渋な詩を一貫して展開してゆく議論につい 2 8 ) 彼はそれを実に簡潔かつ的確に次のように要約して てはレッ ドパスが詳しく解説している が( , いる‐ 「愛する女の愛のすべてを手に入れたいと願いながらも, 同時にその愛が絶えず成長するこ 2 9 )」 と を も願う と いう, や っ か いな パ ラ ドッ ク ス を 解 決 し よう と す る 試 み で あ る( ‐ こ こで は語 り手 の男 は, 愛 す る 女 か らそ の す べ て の 愛を 受 け 取 っ て い る と は考 え て い な い‐ そ も. そも 「すべて」 とは何なのだろうか. 「すべて」 とは 「無限」 の概念を包括するものなのだろうか‐ この 疑問 が “Loves 皿imt enes の議論の根底にある. これに対して, 語り手は第2スタンザで“皿 ’ t証 という結論を出す‐ そしてこの結論から導き出されるのが, 最終スタンザの次の2行 wasb u であ る‐ Yetlwo山d not] 鯨ve 訓 yeも. Heet ha ) tha故 訓 伽 haveno more , 也 2&24. つまり 「すべて」 は 「すべて」 以上ではなく, 「すべて」 を得たと認めることは, もうそれ以上に 得る可能性を自ら否定することなのである. どんな恋愛においても, 恋する人を悩ませるのは 「相 手は自分が相手を愛しているほどに自分を愛してくれているのだろうか‐」 という疑問であろう‐ この詩においては, 語り手の女に対する愛は日々成長するのだ が, もし女の愛のすべてを既に得て しま っ て いる だと す れ ば, そ こ に愛 の 不 均 衡 が生 じる. こ れ が 語 り 手 の 男 を 悩 ま せ る の で あ る‐ こ れ はそ のま ま 互o勿S {粥鰯fX1m の 投 げか け る 疑 問 に 重 な る. Butwhys ho l mdlbe圭壌 morelove, whenas 化 l ou Dos l t wooe mys ) so放出gaU出血e: 皿 9‐10 ou e ,おrher. こ こでの‘証 に 与 え ら れ て い る 意 味 は “Loves顔重態t enesず に お ける そ れ と 同 じで あ る. 絶 対 者 で あ. る神の愛も絶対のものであるはずだ‐ しかし, 詩人は 「より多くの愛」 を求めることにより, 神の 愛に対しても成長することを要求するのである‐ かつ て ダ ン は“Loves Gr h” の な か で 次 の よう に 語 っ た‐ owt lsca・ce be l eeve myl ovetobeso pu・e. AS1hadmou抑ti tl椛s , Bec bendu・e tdod ausei Vidss i前de ÷4) se; 皿 1 ,as 位e gas ,andseason. ここでの語り手は, 純粋な愛は絶対に変わることがないと信じていた. ところが語り手の愛は植物 が季節を経て成長するように, より大きな愛へと成長してしまったのである‐ しかし成長するとい うことは必然的に変化を伴うものである. 成長した愛に比べると, かつて変わらぬことを誓っ たと き の 愛 は, より 小 さ な も の で あ っ た‐ そ して そ の 成 長 し大き く な っ た 愛 も ま た, 草 がいつ か は枯 れ て しま う よう に, 失 わ れて しま う か も し れ な い の だ. そ こ で 語 り 手 は言 う‐ 「僕 の 愛 はかつ て 考 え. ていたほど純粋だとは思えない」 と‐ つまり,・ソネッ トにおいて神の愛に成長を求めることの内には, その純粋性を否定するという大 113.

(11) . 本 堂 知 彦. きな矛盾が含まれるのである. 詩人は神がその 「すべての」 愛を差し出していることを認めている‐ そして, もはや 「それ以上」 はあり得ないことを十分に理解しながらも, 「より多くの愛」 によっ て救 わ れる こと を 要 求 して い る の で あ る. ソ ネ ッ トに力 を 与 え, 痛切 な もの に して いる 要 素 の 一つ がこの パ ラ ドッ ク ス で あ る.. と題された詩が3編ある. ”A Hyp 1ms i t t 位e Au位or tgo sl as ng mt o ometo C ,a “ “ Gen服mず , Hyp { 街d G d i i 如 G の る A H d値 F 埴 r 3 篇 あ t t で e o m o n m s c e s s e o o e a e pm y y 凹面 ‐ , , このう ち “A Hymmeto C I = i が m A 故 G は そ の 制 作 代 は t l i m き t 年 り t t a r s e u o r s a s o n o e l m a n っ g g , , して いる 数少 な い作 品 の 一つ であ る. そ の 題 名 か らも わ か る と お り, こ れ は1619年 に ドンカ ス タ ー ダン に は “Hymm. 子爵が外交使節として ドイツに渡っ た折に, 随行司祭に任ぜられたダンが出発を前に書いたものと 3 0 ) こ の1619年 を ガー ドナ ー は 嵐 りS 3 ( 1 ) さ れ て いる( 。 (m欄t×Vn の制 作 年 と 推 定 して い る . そ して ‐. その根拠となるのが, この2作品に見られる著しい近親性である. その近親性とは, 両方とも共通 して神を嫉妬深い恋人としている点である‐ もっとも, 神を嫉妬深い恋人と見るのは, この2編に. 限 っ た こ と で はな い‐ た と え ば‘翌aはermyhe a = ”” の ソ ネ ッ ト に も そ れ は 見 ら れ る. しか し, こ の ” ”H卿凹eto C i 1msr の次のよう な 行 を 読 め ば, S nceshewhomell ovが の ソ ネ ッ トがど ち ら に よ り. 近いかは明らかであろう‐ As 故ou 叙ti d ea rd ous , レコ ,solamoieadousnow, ’ . Thoul Vi og mor tnoも 皿 をoml ovs o e , 故ou 宣ee Mysou l ) e: 皿 17-20. であるよりも”mo rざ であろう‐ ここでもやはり神に対して 「より多くの愛」 を求めているのである‐ さらには次のような箇所もある. キー ワー ドは 喉副ou. As 故e せeessap do故 seeke 出erootbe l ow ln 前面t er n my 団鴎t ernowlgoe ,i , 皿.1. 3 1 ). ” の 一 節 を 思 い 起 こ さ せ る 先 に 引 用 し た 旦o夢S ”を こ れ は‘Noc I 1と‘Nocmman tuman (粥解tXV . ,. 姉妹編と見るマーツの説を考えてみると興味深いことである‐ こ の よう に “H切 { 加解iXvnとほぼ時を同じくして書かれたとすること o皿eto C1msr を, 嵐o夢S には, それなりの根拠がありそうである. しかしノ ヴァーは, 両者の間に決定的な違いを見てい 3 2 ) そ れ は そ れ ぞ れ の 詩 が個 人 的 な 性 格 を 持つ か ど う か と いう こ と で あ る ソ ネ トで は る( ッ . . , ,. 詩人の心は神への愛と失った女への愛によって引き裂かれ, 現世的な愛の喪失を埋め合わせるため には, 神 がより多くの愛をもっ て詩人の魂に求愛 しなくて はならないと訴える. これに対して “H I = i sr では詩人の心は来る べき死へと向けられ, ymmeto C. 死を前にして詩人はすべての現世的. なものとの辞を断ち切る覚悟を決めているのである. ソネッ トでは, 神の愛に対立させられている の が, 失 っ た 女 へ の 愛 で あ る の に 対 して, ”Hymmeto CI = i sr で は, 神 の 愛 の た め に縄とうと し て い る の は, ‘価sl l ap寸, ‘ au whomll oザぜ, ‘訓” oザd meg と い う よう に, 一 般 的, 全体的な .whol も の にな っ て いる. ま た‘凪se1msセesseg と 糾 弾 さ れて い る の は, ソ ネ ッ トで の 「肉 体」 や 「悪 魔」 か ら, 賃 mぎ, ‘鞘ど, 質opeg と い っ た も の に 変 わ っ て い る‐ こ の こ と か ら ノ ヴ ァ ー は 「こ の 114.

(12) . 7番』 ジョン‐ダンの 憧≧ソネット第1 “Hymm〆 はその状況や態度においてはるかに伝統的である そしてその状況が人生という大海原 ‐. を航海するすべての人に共通するものであり, その感情が敬度なものであるという点において, ソ ネッ トほど特異ではなく, より公共的である. その状況や態度を何ら歪曲することなく, T を 3 3 ) ‘ 」 と言う‐ そしてその非個人的な性格は, 旅立ちを前にした決 Wぎ に置き換えることができる( 意のほどを表明すると同時に, 随行司祭としての自分の立場を明らかにするという動機に基づくの で はな いかと 推測 して いる‐ i i こ の よう に 考 え る と, ”S sr と多くの共通 ovが の ソ ネ ッ トは, ‘質卸metoCm nceshe whomell. 3 4 ) また ダ 点を持ちながらも, より個人的な性格が強いという 点で際立っ ていること がわかる( . , ン が生前”Hy ー mmぜ の方を, 公衆の眼に触れることを許していたという事実も, ソネッ トの特色を 裏付けるものと言えよう‐ もし ガー ドナーらの推測のとおり, これら2編の詩が同じ時期に同じ機 会の下に書かれたのだとすれ ば, 詩人として ダンの人格が, 双生児とも言える2編の詩を書かずに はい られな か っ た と 言 え る の で はな い だろ う か.. V 「ジ ャ ッ ク ・ ダ ン か ら ジ ョ ン ・ ダ ン博 士 へ」 と いう 転 身 は, も はや ダン の 芸 術 を 語 る 上 で は意 味 を 持 たな い よう で あ る‐ ジ ョ ン ・ ケ ア リ ー は 「二 人 の 人 間 が い たの で は な い‐ 詩 と 説 教 を 読 め ば読. むほど, それらが同じ想像力の要求に支配された, 同一の精神の産物 だということが見えてく. 5 3 )」 と 言 い そ の 想 像 力 の 源 が 満 た さ れな い 野 心 と 実 現 さ れ な い 自 己 に対 す る 不 満 に あ る る( ‐ , , , fXvn は, ま さ に こ の 不 満 と, そ れ を 自 己 の 内で 解 決 しよう と す る 詩 の だ と 説 明 す る. 旦o夢S {m”g. 人の魂の葛藤の記録である‐ そしてその解釈に当たっては, ダン自身の生涯との関わりを考えるこ と がどう して も 避 け ら れ な い こ と の よう に 思 わ れ る‐ 確 か に ブ ル ッ ク ス はニ ュ ー ・ ク リ ティ シ ズム 3 6 ) し か し ダン が そ の 生 前 詩 l海ado定 を 見 事 に 読 み 解 い て み せ た{ の 手 法 を 用 い て ”The Cano ‐ , ,. を個人的に親しい ・さなサークルのなかに意図的にとどめておいたことからも想像できるように, ダンの詩は彼の個人的な精神生活を色濃く映し出したものと考えなくてはならない. ところがダン の詩には, その制作年代や動機を特定しがたいという大きな問題がある‐ それゆえ新批評的手法は 今後も生命を失うことはないであろう.ベッ ドフォー ド伯爵夫人という特定の女性とのつながりが, ”Tmc k 園山Ga d e〆 という素晴らしい詩の解釈に, それほど大きな変化を与えるとは思われないし, 1 r ハ ー バ ー ド夫 人 と “TheAu t umn証’と の 関 係 に して も そ う で あ る‐ は, ダ ン の 生 涯 を 見 据 え な が ら も, 失 わ れ た デイ ヴィ ッ ド・ ノ ヴァ ー の 猛oかS {牌鰯zXvn の 解 釈・. 女性をアンと断定せずに詳細な読みを試みている点で貴重なものである‐ しかしながら, 今まで見 て き た よう に, ア ンと の, そ して ダ ン 自 身 の 改 宗 と の か か わ り にお い て こ の 詩 を 読 む と き に, い か. にその解釈の可能性が豊かに広がるかということを考えると, やはり生涯の特定の機会と作品とを まっ たく切り離して考えることの限界もまた感じざるを得ないのである. ノ ヴァ ー はこ の ソ ネ ッ トと “H画面et o Cま蹟sr と を 比 較 し て, 後 者 に お い て 詩 人 が 迫 り 来 る 死 を 意 識 して いる 点 で 前 者 と は異 な る, と して い る‐ お そ らく こ れ は正 し い だろ う. た だ, 一つ 興 味 深. いのは, ガー ドナーが退けた A j ‐スミスの解釈を採る場合である‐ スミスの 「天上で二人の魂を 再び結婚させる」 という解釈に従えば, 神が 「私の魂に言い寄る」 というのは詩人の死を要求する ことを意味し, ノ ヴァーの説明とは逆に, この2編の詩の近親性をもう一度証明することになるの で ある. 115.

(13) . 本 堂 知 彦. 先に述べたように, このソネッ トはダンの生涯の最も重要な出来事にかかわっており, 詩人は否 応なくその出来事の記憶と向き合わねばならなかった‐ サンダー ズは言う‐ 「仮に, 他のソネッ ト の作風がオペラ的一大オーケストラ用に編曲された感情-とするなら, このソネッ トは慎ましくも 激しく, 深い表現力を持つ無伴奏の歌曲である‐ それはある種の, 形をとっ た自己との対話である. ダンは自分の経験という水面を深くのぞき込み, 影と実体を選り分けるという微妙な作業を試みて 3 7 )」 自己の心の内を偽りなく見極めるという作業は 宗教的なソネッ ト (それ いるように見える( . , がカ トリックの黙想の様式に関係のあることも無視することはできない) をいくつも書く中で, ダ ンが次第に身につけていったものであろう. 我々がこの 嵐o汐S ‘ 加鰯≠Xvuを 「感動的」 と思うのは, そのようなダンの献身と誠実さに打たれるからではないだろうか‐. 注 1 姻解Po鋼悉ダルたれD伽- l 膨Df ( 1 ) ソネッ トの番号はグリアソンのものであるが, 引用はすべて, He e nGar面ぼ,e ,7 d )によっ た‐ 粥,2nded(0禰o r ,1978 ( 2 W れ D 似雁yne ) F園o kj 勾 P o k / e o “ 鯛鰯( . ‐ ‐110 , ,198の,p Z 膨 風 鼠 れ D 1 945 3 ( ) Ben iはen 榔 ) 物 ザ ノ j 粥鰯 o ” 伽鰯 ‐綿堰 けc彰 an血 B1 .35( . , ,op. この歌曲集は, ブリテンの最も優れた理解者であった名テナーのピーター・ピアーズと作曲者自身のピアノによ る演奏で録音 が残されている. 英 デッ力 417 428一2LH3 ‐ fTwe雨em- l ( t 4 ) PauIL. Gastoq ‘侶dt d eαsDomeand mePr omi seo c enロロyse日加gずi nC a udesml umer sandT -し如け e Pebwo=鴎 ed 1膨 E啄Z ) NGS =鴎 1986 s Bの可 旋 D仰e( SO . . ‐210 ,7 ,p 5 ) Ga 1 1 4 ( 5 3 5 l並ぼ, リーメ乙 ‐ p p . , . 6 ) Wi た“D伽鰯’ ( めursande Ca b i dge 38 ) s r sPo e勿 ( m α r ‐ .1 ,/o ,1971 ,p iq‘でan塑雨quea仰ぎ 無SwI 44 ( 7 ) RogerB.Ron Mme r sandpebwor鱒 噂. αん p ‐1 ‐. 4 8 9 7 9 ( 8 ) ピーター・ミルワード ) 』(荒竹出版,1 ‐ ‐1 ,p , 『ジヨン・ダンの 謹≧なるソネット」. ( 9 ) ショ ーク ロス の解釈 はこの不自 然さを避 けて, he tt t r i u ea sahmp umbemgwhoi ss ub ec odeam’と し rざ を 領erna An強o ている. Shawqos lm T Z ) s BP0 βあ げ/o卿 D伽輝( r ‐349 . . ,1967 ,P ,Jo ,ed:Z脳 C物噂彦. 回 ノヴァーの解釈が他の多くの解釈と大きく異なる点は, このソネッ トとアンの死を結び付けることに関して, き わめて慎重な態度をとっ ている ことである. Da i 980 dNov ) s加卿γば 雌雄8(Come乱 1 v a館,Z膨 Df .123 . ,p ) QP j ぬ”D伽鰯′L於,M蓄郷 の A“ 煙aber o如C a r e o ‐58 ‐ y ,p ,1981 ,/ ( 1 2 } Ga dne 54 r r ‐ .1 ,p , り. 域. ( 1 3 I域仇 ed たれD伽鰯;r膨 C物呼毎彰β噌稔たPoの ) ) AJ り略 企enか凪 1971 .635 ‐ . .S ,p ,/o dne 回 これ はlo r r anBemeは の説と して ガー ドナー が紹 介 して いるものである. Ga .154 . , ゆ.αL P. Q 5 ) ガー ドナー自身は, どの解釈が最も妥当であるかについては慎重な態度をとって明らかにはしていないが, ノ ヴァーによれば第3の解釈がガードナーの解釈のようである. また, ガードナーから直接の教えを受けたケアリー は, はっきりと第3の解釈を探る. ( の No頓 24 1 a l l .1 ‐ , ゆ. 域. ,p. 5 5年版によった‐ Q ) 詩篇からの引用は日本聖書協会の19 7 l i d d Q 8 ) He b徴tj ) o r r s o聾 Z膨 Po鋼馬 メメo卿 D伽鰯,vo r . .10 ‐2(Q ‐C ‐Ghe ,1929 ,p M r P e d物鍬 形 1 9 2 6 2 1 5 Q9 膨 } Lo通sL 測血 fM α謎 ) e o e好 Q . . . , ,p ,. 鈍 り ケアリーはマーツによる亙o夢S { 加解” の解釈をはっきりと 「誤読」 であると断定する. Ca r ey . ‐53 , 物,d乙 ,p を 1 ) “餌. 9 3 . ‐ ,p なめ あ“. . ,pユ73 回 Noα an, の.dz - ‐124 . ,p 2あ. ) 鰹 h 2 回しコ ) Do電p u幽晦 r膨 Po効か けわたれD伽欄(Greenwoo 1951 .1 ,p. 116.

(14) . ジョン・ダンの 『聖ソネット第17番』 縄 ダンの恋愛詩においては, 男女間の愛は理想化, 抽象化されてほとんど神聖なものにまで高められた. それとは 対照的に, このソネットでは世俗的な愛が 「悪魔」 と結びつけられていることにノヴァーは注目して, このソネッ トがダンが聖職に就いた後に書かれたことを示す根拠の一つとしている‐ Nowa i ェ .126 . , 叫 ばた ,p 回 ダンの弟,ヘンリーはカトリック信者と通じた嫌疑で捕らえられ,獄死している‐また伯父のジャスバー・ヘイウッ ドをはじめとして, 親類のものも迫害を受けた‐ このような受難の原因となったカトリックに対して, ダンが複 雑な心を抱 いたであろう こと はケアリー が指摘 している‐ Ca r ey .2 21 ‐ , ゆ. 域‐ ,pp ,2←25 セガ ヱ ろ紙,p ‐ .59 @め 罰b d ) eodo r eR e故uen a飽 Z膨Sのり郡 の舛So”魔 QfたたれD伽鰯,alded e p ‐ oq .4143 . ,1983 ,pp. ◎ 跡肌,P 0 7 ‐2 ・ 回 Ga l面ぼ,妙 dん p .106 . 回 跡灸L P 8 ・7 ‐ 回 Novm,ゆ.dt ‐128‐131 ‐ ,pp る詔- 修め ヱ .129 . ,p 図 ‘習MmmetoC1msr25行目の教会への言及は, 華やかなカトリック寺院に対するあてこすりとして, 質素なプロテ スタン ト教会のことを指 して いるのかも しれない‐ そうするとこれもま た, ソネ ッ トと共通する要素となろう. 的 Ca i 乙 r ey ‐11 - ,p ,ゆ.c ” e 属pg熊g @ 6 D C I fp コ ぞ mC I緩m位 Br 9 4の,p e孤拙 Br ook s eo a瞳do I微c ooks o u r ら1 p , “b . , 膨 蘭娘 鰯糊噂競び畑 G ‐ 21 例 S孤de l s .136 . , ゆ.dた,p. 117.

(15)

参照

関連したドキュメント

海なし県なので海の仕事についてよく知らなかったけど、この体験を通して海で楽しむ人のかげで、海を

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

巣造りから雛が生まれるころの大事な時 期は、深い雪に被われて人が入っていけ

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

都調査において、稲わら等のバイオ燃焼については、検出された元素数が少なか

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので