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ジョン・ダンのA Hymne to God the Fatherについて

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Academic year: 2021

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(1)Title. ジョン・ダンのA Hymne to God the Fatherについて. Author(s). 本堂, 知彦. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 44(1): 95-105. Issue Date. 1993-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4280. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第44巻 第1号 i ion工 A) Vol 44 I ty ofEducat lof Hokkaido Universi t Jouma on(Sec . . , No. 平成 5年7月 l Ju y ,1993. ジ ョ ン ・ ダ ン の ”A 丑γmれe 云o God 法e F煽れe〆’ に つ い て. 本. 堂. 知. 彦. ) A Hymne to Godthe Father(1. T 1. l Wi tthou forgivethatsinl le wherel begl紅1ne , VVhi コ 士 loughi t were done before? chi s mーy sin,t h f i i ▽v i l h td ou org ve t ose S nnesthrough whi chl nαnne, Anddoethem s i l l i l lldoe deplore ? t t :thoughs VVhenthou has t not d。ne, t done,thou has For l。re ‐ ,1 havelr. 1 1 ’have wonne l v▽ i tthouforgivethatSinne by whi chl othersto sinne? and, made my sinnethe i ? r door i 1 i h f 釈′ h h i t h i h.d i d tt ou orgve ats nne w c s unne l A yeare or two:but wal ow’din a score? ,. ,. VVhenthou hast done,thou has t n。t done, For ‐ ,lhave more. 1 1 1 ’have s unne . .have a sinne 。ffeare p ,that when. △江ylastth i r IPer i ed sh ontheshore; ,1shal Sweare byt hyse fe l ,that at my deaththy sunne. Sha l lshine asi tshines now, and heretofore; And ing donethat t done, ,hav , Thou has lhave no more ‐. 95.

(3) . 本 堂 知 彦. T▲. Iの読み解きを試みたことがあっ たが, そこではこのソネッ ト 筆者はかつて, 鼠oか 勘れ“鑑 XVI. ‘A H~mone to C ing into I鯉i t go t s と い わ ば創 作 上 の 双 生 児 の 関 係 に あ る ‘ , at the Authors las. Ge rmanゾ’との関連において解釈することで, 宗教詩という外観を持ちな がら実はか ぎりなく恋愛 t” s 詩に近い内容を持つこのソネ ッ トの特異性が明らかになっ た. それに対して “A H)mnneto C1庭i は, 神を嫉妬深い恋人として見るという共通のモチーフに拠りながらも, ソネ ッ トとは異なり典型 9年に ダンが ドンカスター伯の 随行司祭として ドイ ツ 61 的な宗教詩たり得ていた. このhymn は1 に赴いた折りに書かれたものであるが, 同時に ダンのhymn としては最初の作品でもあっ た‐ それ 9編からなる 鼠o拶 So”- までダンは様々 な形の宗教詩を書いているが, そのなかで最も重要なのが1 ”磯 であ る こ と は いう ま でも な い. ソ ネ ッ ト が ダン の 全 作 品 の 中 で, 一 つ の ま と ま っ た 一 群 を な し. 2 ) ダンの作品としてはやや地味 て主要な地位を占めているのに 対して,hymn は数も3編と少なく{ , ◇“α の連作も含め な存在であることは否定できないであろう. ソネッ トに関しては, 初期の LαCo〆. ると,かなり以前から書いていたことがわかるが,hymn はいずれもダンが国教会の司祭として聖職 5年以後に書かれている‐ そのころすでに, ダンはかつての奔放な恋愛 に就いてから, すなわち161 詩の作者としての評判を拭い去ろうとするかのように, 自分 の作品が衆目に触れることを極力避け ていた.hymn はそのような状 況の下で書かれたのであっ た. したがっ て, 自分 にとっ て全く新しい i t” を 書 い た こ と で あ ろ s 分野の仕事, 初めて手がけるジャ ンルとして, ダンは“A H肌D ome to Chr つ.. こ こ で採 り 上 げ る “A H~moneto GodtheFather’は hymn と して 第 2 作 目 に あ た る も の で あ る.. この作品においては, 何よりもその整然としたスタン ザ形式が特徴的である. ダンはそれまでも機 ようにはっきり としたスタン ザに 会詩とでも言うべき宗教詩をいくつか書いてきている が, この′ t” が4 ス タ s よって書かれたものはなかった. そのスタンザの数から言え ば, “A H~川one to C1姻i i ンザ, “H~mnneto God my God cknesse” が 5 ス タ ン ザ か ら な っ て い る の に 対 して, こ の ,in mys. 作品は全3スタンザと最も小規模なものとなっ ている‐ しかも, 他の2編のhymn と比較して, 最 も 著 しい 特 徴 と な っ て い る の は, こ の hymn に は リ フ レイ ン が あ る と い う こ と で あ る. そ して 規 則 正 し い ス タ ン ザ の 感 覚 は, そ の こ と に よ っ て 一 層 強 調 さ れ る こ と に な る. し た が っ て, こ の hymn を. 詳しく見ていくためには, スタンザごとの構造から取り かかることが有効であろう. それぞれのスタンザは6行からなっ ており, 基調となる韻律は弱強5歩格である. しかし, これ はスタンザの前半4行のみを支配する韻律であっ て,残りの2行,すなわちこれがリフレインとなっ ているのだが, この2行は弱強4歩格と弱強2歩格のそれぞれ1行ずつか らなっ ている. さて, こ 5歩格による前半の4行を見ることにしたい. こで弱強・ ▽v i 1 ivethatsinne where.begunne tthouforg , ? V▽hi t were donebefore chi s mーy sin,thoughi hrough whi Wi l ivethosesinl t 故ouforg lest chlrunne, ? l i l lldoe deplore l Anddoethem st i t :thoughs 11 ) ( . 1‐4‐. 96.

(4) . ‘A 互 蹴7 ジ ョ ン・ ダン の‘ 8 わ God 物8 Eα妨げ”について y 2. これは見事な弱強格を保っ た4行であるが, 同時に見事なシンメトリーをも見せている.「あなた はお許しになる でしょ うか」 という疑問文が二つ, しかも全く 対称をなす形で並ん でいる‐ それぞ れの 疑 問 文 の 後 半, す な わ ち 2 行 目 と 4 行 目 に は 同 じ 位 置 に caesura が あ り, そ の あ と に は hough…と, いささか言い訳がましく見えなくもない保留が続く. このように, 鏡に映したように同 t 一の構成を見せている二つの 疑問文 であるが, それぞれの構造もまた興 味深いもの である‐ まず ’と い う 疑 問 文 は 時 制 は 未 来 形 で 発 せ ら れ て い る そ し て 許 さ ‘Wi ? i l tthou forgive thats nne” ‐ , , .. れることを望んでいる罪が生じたのは過去のことである. 一行目の‘whe l nご と い う 一 節 rel begt i l の動詞begunneは現代綴りになおせ ばbegun であるが, これは意味の上から考えると, 過去形と解 釈 さ れる‐ begin をhadbe i n(始まる)とい gun と過去完了形に取ることも可能ではあろうが, beg. hough i t う動詞の意味からいっ ても完了形はやや適切さに欠けるかもしれないし, また2行目の‘ t f weredon o rぎ(その罪は過去になされたものではあるの ですが) という箇所が過去形であるこ ebe とから考えても, それに合わせて過去形と取るのが妥当のように思われる. ではなぜbegan ではな くてbegun なのかというと, それは単に韻律上の問題にす ぎない. すなわちこの詩のスタンザはす 7(私 が そ こ か ら 始 べ て ababab とい う 韻 で 統 一 さ れ て い る の で あ る. ‘ that sin, where l beg l ne i i r ま っ た 罪) と いう の は 「私 の 一 生 は 罪 と と も に 始 ま っ た」 と い う ほ どの 内 容 で あ ろ う‐ さ て, 罪 が. なされたのは過去のことである. しかし, それで終わっ たわけではない. 1 テ目で語り手は, 過去 に犯した罪が, 未来において許されるか どうか気遣っ ている‐ ところがその罪は, けっ して過去に h i 清算されたもの ではないのである‐ 2行目には 今度は現在形が用いられている.‘W÷ chZs mysid. 過 去 に お い て なさ れ た 罪 は, 現 在 も な お 語 り 手 に と っ て の 罪 な の であ る. 続く ‘ thoughi tweredone ‘ ’ ’ before は, いくつか の 写 本 で は thoughi t w婚 done before と な っ て い る よ う に, こ れ は 過 去 形. である‐ つまり, このわずか2行のうちに, 語り手の罪の過去, 現在, 未来が現れているのである‐ 次に来る2行にも全く同様のことが言える‐ 問いかけは, やはり未来形 である‐ つ づく一節には ’ と いう 箇 所 で あ る が リ チ ャー ド・ ウィ ルモ ッ ト に よる 少 し 問題 が あ る. ‘ through whi chlrunne ,. 注釈では‘which1α粥 inthehabitofcommitting と,. 罪 に 関 して の 語 り 手 の 現 在 の 状 況 であ る か. 3 } す な わ ち ウィ ル モ ッ ト は runl の よ う に 解 釈 さ れ て い る{ le を現在形として解釈しているのである ‐ . ’と 何 の 対 照 も 生 じ な い も っ と は っ き り 言 え ば i l l しかしながら, これでは次の‘&ロddogthem st , ‐ ’は 実 質 的 に ま っ た く 同 じこ と を 言 っ て い る に す ‘ i l l laminthehabi ig と‘doethem s t tofcommi t t. ぎなくなっ てしまう‐ この詩のように凝縮された作品の中で, そのような無駄を ダンが敢えて行っ た と は 考 え が た い. した が っ て, こ こ での runne は, 1 行 目 の beg l ne と 同 様 に, 過 去 形, あ る い l l r ’(そ i l l は 過 去 分 詞 と 考 え な け れ ば な ら な い‐ そ し て こ こ で は, 1 行 目 と は 異 な り,‘Anddoethems t. して, いまだに罪をなしているのです) との関連から, 意味的には完了形と解釈すべきであろう. i l lを 「い ま だ に (now ここでもやはり, 押韻上の問題が手掛かりとなる‐ ところ で, 筆者はこのs t 4 ) こ れ に 対 し て 続く ly)」と 解 釈 し た が, こ の 用 例 は ダ ン の 時 代 に は 既 に 存 在 し て い た( asf ormer , ‐ ‘ ’ l lldeplore p に お け るs i t i l lは, 当時の英語ではより一般的に用いられている用例 で 現 thoughs t. , lwaysに相当する. したがっ てこの箇所は 「私はいつ でも (罪を) 嘆いているのですが」 代英語の a となり, 現在における語り手の悔俊を, 控え目に ではあるが神に対して主張しているのである. 同 一の単語を同一の詩行において意味をずらして用いるというのは, ダンの得意とする表現法である が, こ こ では そ れ が caesura を は さ ん で効 果 的 に 使 用 さ れ て い る の が わ か る. こ の こ と に よ っ て,. 語り手が現在において罪を悔いながらも, 同時に罪を犯し続けているという矛盾がさらに強調され h rough which l るという結果になる. この4行目全体の時制は現在 であり, 問いかけの未来形, ‘ t runnど の完了形と合わさっ て, やはりスタンザ前半の2行と同様に, 語り手は過去から現在を経て 97.

(5) . 本 堂 知 彦. 未来へと, 自己の罪を見つめることになる. 「 2行目と4行目む こは, それぞれ caesura が あ っ て, と も に 次 に はthough‐ ”と い う 言 い 訳」の パ ッ セージが続くのであるが, この2つの部分 は総合して 「私は罪深い存在ですが, それを行っ たのは 過去のことであっ て, 今ではそれを悔いて嘆いているのです」 と, 語り手が現在の状況を訴え, 罪 の許しを請うていると考えて差し支えなかろう‐ 次に問題のリフレインが来る. リフレインの歩格は変則的である. それま では規則正しい弱強5 歩格が続いてきたのだが,スタン ザ最後の2行は,弱強4歩格と2歩格のそれぞれ1行ずつからなっ ている. このように歩格を変えたのは, この2行がそれ以外の箇所とはリ ズムのうえからも, 内容 のうえからも独立した感覚を与えるため, すなわちこの2行がリフレインである こ とを強調する た tnotdonご と いう 一 見 し て 矛 盾 めである. 4歩格による 5 行 目 は‘Whenthouhastdone ,thouhas と 思われる, 謎掛けのような一行である‐ ここでの完了形は, その意味するところから判断すると, in i 未 来 完 了 と いう こ と に な ろ う. ‘ tdonど に お け る done の 意 味 す る と こ ろ は, f thouhas shed で あ ‘ ’ ins と し て ま ち が い な い であ ろ ini iving my s り, こ こ では ウ ィ ル モ ッ トに し た が っ て f shed forg. 5 ) 「あなたが私の罪を許したとしても 許したことにはならないのです」 とはどういう意味なの う{ , . 「 だろうか. この謎はスタン ザの最 終行で 解 か れ る. ‘For ,lhave moreノ す な わ ち な ぜ な ら 私 に は さらに多くの罪があるからなのです‐」 という1行により, 「あなた (神) は私の罪を許してく ださ いましたが, じつは私には許していただいた罪よりももっ と深い罪があるのです」 という パラ ドク シカルな解答が与えられるのである. この解答となる1行は, きわめて短い2歩格によっ ていかに もきっ ぱりと, そして印象深く示されて, その効果を高めている.. 11 以上が第1スタンザの構成の分析であるが, 次に第2スタンザを見ていきたい. 第1スタンザで は, 主として時間的な観点から, 語り手は自己の罪を認識していたのであるが, この第2スタンザ ではそれとは異なっ た観点が導入されている‐ スタンザ全体の構成は第1スタン ザと全く同じであ る‐ すなわち各2行からなる疑問文による神への問いかけが2つ, それに第1スタンザと同一のリ フ レイ ン であ る. で は, こ の ス タ ン ザ の 最 初 の 問 い か け か ら順 に 見 て い く こ と に す る. ’ v▽ l have Wonne i tthouforgivethatsinne by whi chl i ? othersto sinne? and, made my si[methe r door 11 ( ) . 7-8 ‐. 問 い か け の パ タ ー ン は 第 1 ス タ ン ザ か ら ま っ た く 崩 れ る こ と な く 続 い て い る. 8 行 目 の caesura. の位置も同じである. ところがこの問いかけには, 第1スタンザのそれに見られたような巧妙な時. ’ i 1 have womle は 完 了 形 で あ る し, ‘made my simle the 制 の 使 い 分 け が 見 ら れ な い. た し か に‘ r. doo rP は過去形で, 一見すると第1スタンザと同様の書き方のようにも 思われるのだが, 内容は語 り手の過去から未来にいたる状況に関心を向けているのではない. ここでは語り手以外の他者が登 場してくる. 語り手は自らの罪によっ て, 自分の身の回りの他者まで罪の道に引き入れてしまっ た ことを悔いているのである. 第1スタンザでは, 語り手の罪の意識は時間という観点から述べられ ていたのだが, この第2スタンザではそれとは違ってむしろ空間的な概念が導入されてきていると 98.

(6) . ’に つ いて ジョ ン・ ダン の “A 圧 2 8 わ God 劫e EQ妨げ’ ツ粥7. い っ て よ い‐ 罪 は 語 り 手 と いう 一 点に凝集しているのではなく, 語り手を起点として拡散していっ i た の で あ る. ‘made my sinnethe r door という一節からは, 狭い戸口をく ぐり抜けて, 広大では. あるが穣れに満ちた罪の世界へ逃れ出ていく 人々の姿が思い浮かべられる. 続く2行はどう であろうか. id shunne l 斬′ i tthou forgivethatsir口le whichld low’din a score? A yeare or two:but wal ,. ,. 11 ( ‐ 9-IQ). ここには先行する2行に見ら れたよう な空間的広がりは感 じられない. 特徴的なのは‘A. yeare ,. と‘ascore と い う 具 体 的 な 時 間 で あ る‐ し た が っ て こ の 2 行 で は, 再 び 第 1 ス タ ン ザ と 同 様の時間の概念が戻っ てきているといっ てよい. しかし今回は, 語り手の罪の意識は, 第1スタン. ortwd. ザにおけるように過去, 現在, 未来という全般的な時の流れを考えているというよりは, もっ と具 体的な, 語り手その人の生涯の中での何かの出来事を考えているような印象がある. もちろん具体 的 と は い っ て も, 正 確 に 1, 2 年 と か 20 年 と い っ た 長 さ の こ と を い っ て い る の で は な い だろ う‐ こ. こではむしろ前者によっ て比較的短い年月を, そして後者によっ てそれよりはるかに長い年月を示 していると考えるべき である. ただ, いずれにしてもいえることは, 語り手は比較的最近になっ て 罪の悪習から去っ たのではあるが, それまでは長い間その悪習に染まっ た生活を送っ てきたという ことである. 語り手に罪深い生活をやめさせた原因は何なのか, いっ たい彼の人生に何が起こっ た のか, 詩の読者は想像をたくましくすることになる‐ つまりここでの時間的概念の機能は, 経時的 な時間の流れを読者に意識させることなのではなく, 人生におけるある一点によっ て前後に分けら れた語り手の生涯の, 前の部分 と後の部分との精神的比重の問題を問いかけるということにあるの だ. いいかえれば, 語り手はこの一節 で, 生涯のある時期に起きた重大な出来事の真の価値を計っ て い る の であ る‐. 第2スタンザは, 前半では空間的広がりを感じさせ, そして後半では生涯のある特定の時点に 注 目しているという意味で, 第1スタンザの経時的な流れの感覚に対して, こちらは通時的といえる かもしれない. そしてこの後には, 第1スタンザのそれと一字一句違わないリフレインが続くので あ る. し た が っ て 第 1, 第 2 ス タ ン ザ は, 2つが合わさっ て, 語り手の罪がいかなる相においても その糾弾を免れないことを示しているかのよう である.. 1 11 第3スタンザは, それまでとまっ たく異なる響きを持っ ている. 第1, 第2スタンザとは異なり, ここには疑問文による問いかけがない. ここでは語り手の発する言葉はすべて, 決然とした断定の 響 き を 伴 っ て い る‐ た だ し 第 1, 第 2 ス タ ン ザ に お け る 疑 問 が, こ の 第 3 ス タ ン ザ の 始 ま り に お い. lhaveα てす でに解消してしまっ ているわけではない‐ 語り手の疑問や懸念, 不安といっ た要素は‘ ’ s劫 解 け たα惚 という一文に凝縮されている. ’ ffeare,that whenl havespunne lhave a si・ l ne o Dなylastロ] lper i sh on 化l eshore; red ,lshal 99.

(7) . 本 堂 知. 彦 11‐ 13‐14‐ ( ). しかしキリスト教徒にとっ ては, 神による救済を疑うということ自体が大きな罪なのである. 自己 に対して誠実で良心的であろうとすれば, 自己の罪に正面から向き合わねばならない. そう して自 己の罪を認識するなら, その罪の重さゆえに救済に対して懐疑的になら ざるを得ない. ところが神 による救済に対して疑問を抱くということ自体が, 大きな罪を犯すことになるのだ. こういっ たジ. ’ レ ン マ こ そ が こ の 作 品 の 核 心 であ る と い っ て も 間 違 い で は な か ろ う.‘whenl havespwlne/Mylast. 7とは 定められた生涯を生きて現世に別 れを告げることをいっ ているの だが 次の shal l hr t ed , , ’に 関 し て リ チ ャ ー ド・ ギ ル は 2 通 り の 解 釈 の 可 能 性 を 提 案 し て い る す な わ ち i shontheshore per .. 「私は岸辺で廃れてしまいます」というのは( )私を船にたとえて, 目的地に到着する前に座礁してし 1 まうことを表しているとも, ( 2 )私はこれから神という大海原に乗り出そうとしているのだが, 海を 目前にして岸にたどり着いたところ で力尽きてしまう, ということを示しているとも取れるという 6 ) いずれの可能性も否定し去ることはできないが ダンにとっ てのh凹面 の第1作であっ のである( , . ’を引き合いに出して いずれの解釈がより妥当性が高いかを考えることは た “A H)mnnto C ] 恒i sだ , ’ ’は 次 の よ う に 始 ま る i t できそう である. ”A H~加on to Chr s . 工n whatton・e ship soever工embarke, Thatsh ipshal lbe myembl emeofthy Arke ; l lood VVhatsea soeverswal ow mee ,thatf lbeto mee an embl Shal emeofthy blood ; ‘ ‘A Hymneto Chr he Authorslas i t t ( tgoinginto Germanダ’ t ) a s ‐ 1-4 . , ,11. ここ ではあきらかに語り手は, 神を彼岸にあるものとして, これから体験する航海のことを考えて いる‐したがっ て海は神そのものというよりは,苦難の象徴としてキリストの受難の血と重なりあっ ている. この航海のイメージには二重のレベ ルが存在しているものと思われる. まずひとつには, ペ トラルカ以降綿々と続いてきた恋愛と航海の比嚇である. ここでは恋愛詩の伝統が宗教的目的に 奉仕するように,Arkeやb l oodという宗教概念を取り込みながら, 巧みに換骨奪胎して用いられて いる. これはいわゆる 「聖なる パロディ ー」 の精神の応用 であるが, ダンに限らず広く17世紀の宗 教 詩 に お い て 行 わ れ た こ と であ っ た. Gardner の 説 に よ る と, ダン が “A H~mnne to Chr i t” を 書 s ‘A H 7 ) い た の が 1619 年 か 1620 年, ‘ )mnneto GodtheFather” を 書 い た の が 1623 年 と い う こ と で{ ,. 両者の創作は必ずしも同時期というわけにはいかないが, 後者の創作の折にこのジャンルにおける 第1作としての前者を 思い起こしたということは, 大いに考えられることである. そしてもうひと つは, 創世記の大洪水のイメージである. バーバラ・ルワルスキはこの洪水のイメージを次のよう に 説 明 して い る.. . ′. 語り手は自分自身を新たな箱船に乗っ て, 新たな洪水を体験する, 新たなノアであると想像して いる. ……語り手の洪水はノアの洪水の対型であるキリストの血の象徴で, 彼の船は、(箱船の対 型である教会と同様に) それが彼を慣れ親しんだ世界から切り離すことによっ て彼の精神的成長 8 ) を促進するという点で, 精神的救済をもたらす手段となるのである{ ‐ lshal と す る と, ”A H)mnneto Godthe Father” に お け る‘ lper i sh ontheshore と い う 表 現 が 含 100.

(8) . ジ ョ ン・ ダン の “A 圧 2 8 力 God 物B Eα劫eγ” につ い て ツ粥7. むイメージは, ペ トラルカ以来の伝統の余韻を響かせ, それと同時にきわめて聖書的な象徴を担う 難破のイメージであると考えるのがよさそう である. 続く2行は命令文になっ ている. 先行する2つのスタン ザにおける問いかけに対して, この最終 スタンザに初めて現れる 命令形が与える, はっ とさせるほ どの効果はこのh四皿 のなかでもとりわ け印象的な箇所であろう. s Sweare byt hyse l fe ,that at my death thy unne. Sha l lshine asi tshines now, and heretofore; 11 6 ( ) ‐ 15-1 .. ]恒i こ こ でも ま た 前 作 の “A H柳D sr を思い出さないわけにはいかない. 先行する2行の難 ome to C ’か ら は 嵐 lshine 破 のイ メ ー ジ は こ の 2 行 に も 引 き 継 が れ て お り, ‘ ・ lne/Shal at my deaththy su ,. が去っ て, 難破しかけた船に再び太陽がその穏やかな光を降り注がせる光景が思い起こされる三‘A ” の5行目から6行目にかけて ‘Thoughthouwi i loudsofangerdod thc Hymneto C]誼i t sg滋se/ s , ’ Thyf 共通のイメージが存在しているのであ という一節があるが やはり嵐の海と太陽という ace ; , る‐ と す れ ば, ダ ン は “A H~mnneto Godthe Father’ を 書 き な が ら, 同 じ ジ ャ ン ル の 第 1 作 の こ l lshine と を 念 頭 に お い て い た の は, か な り 確 実 な こ と の よ う に 思わ れ る‐ と こ ろ で 16 行 目 の‘Sha. ’には再び過去 inesnow andhe f tsh asi to re re o ; , ,. 現在, 未来にわたる時間の流れが述べられてい ザにおける時間の概念が思い出される るが, このことから当然のように第1スタン . すなわち, こ こに至って第3スタンザと第1スタンザの対応する関係が明らかになるのである‐ 第1スタンザに おいて時間という観点から述べられた語り手の罪の意識は, この第3スタン ザにおいて同じ時間と いう概念を踏まえて解決に導かれる‐ つまり, 語り手の生涯はその始まりから最後にいたるまで, 罪に満ちたものであっ たが, いかなるときにも, たとえ語り手が罪にまみれた生活を送っ ていたと きにさえ, 神という太陽は明るく輝いていたのである‐ そして語り手が最も懸念している過去の罪. でさ え, 実 は神 の 保 護 下 に あ っ た と い う こ と を 強 調 す る た め に,こ の ス タ ン ザ では 16 行 目 の caesur ‐ ’ ‘ h f わ だ た せ て い る を き d t て 1詩脚分後ろにずれて それまでとは変わ の位置が e r e o o r e an ; a っ , ,. のである‐ それまでのスタン ザとは情調のうえからも, 構成のうえからも異なっ ているのが第3ス タンザの特色であるが, それが最後のリフレインに至っ て, もっ とも著しい効果を発揮することに な る‐ i d And t done, ,hav ng onethat , Thou has. l have nolr lore ‐ 11 ( ) ‐ . 17‐18. ’ ‘ ’ thou ha t not done t done こ こ では そ れ ま での‘ s , が Thou has , と いう ま っ た く 反 対 の 内 容 に 変. わっ ている. 「そして, それをなしてしまうと, あなたはなしたことになるのです」にも必ずしも簡 ’と先行する having donethaど を‘ havingf ini 単 に は 解 釈 でき な い 問 題 が あ る. ‘ shedforgiving me 6行目までの内容と連続させ スタンザにおける場合と同じように解釈することも考えられようが,1 ‘ h ば h i t な ら n る t というように取ることも可能であろう. すなわち 「私が死 ea , evng s one a my d に臨むそのときに, あなたという太陽が輝いてく ださるのなら, それであなたは私をお許しになっ たことになるのです」 ということになる‐ そうすればここにも同一の単語の意味をひねっ て用いる 101.

(9) . 本 堂 知. 彦. という技法の例を見ることができるのである‐ 最終行には大きな問題がある‐ いまま で筆者はヘレン・ガー ドナーのオ ッ クスフォ ー ド版のテキ 9 ) ガー ド ストに準じて論を進めてき たのであるが, じつはこの作品にはもう一つの重要な版がある( . have no ナーの版が, 16 33年版に基づきながらも他の写本なども考慮にいれて, その最終行を ’ lfeareno more moreノ と して い る の に 対 して, 1633 年版では‘ . と な っ て い る. 現 代 の 多く の 詩 集 や ア ン ソ ロ ジ ー に 採 用 さ れ て い る の も, こ の 1633 年 版 で あ る こ と が 多 い. で は feare と have と で. は,どのような違いが生じるのであろうか.まずf eareの場合を考えると,第3スタンザの1行目(つ ’ lhaveas im・eoffeare ま り こ の 詩 の 13 行 目) の‘ , と の 対 応 関 係 が 明 確 に な る の で あ る. 神 に よ る. 救済に疑問を抱くこと自体が大きな罪なの であっ た. しかしこのスタンザの終わりに至っ て, 語り 手の葛藤は解決を見出し, 救済に対して抱いていた疑念や不安が解消していることが, 最後の行で l feare no mo 明 らか に な る. つ ま り ‘ ノという版では, 第3スタンザの中での整っ た枠構造が形 re. 成されるのである. これに対して. haveno mo ノの版 では, r e. 他のスタンザとの対応が明らかにな. ’ 「 る. 第 1, 第 2 ス タ ン ザ の リ フ レ イ ン の 終 わ り は‘For . で あ っ た. 私 に は, さ ら に ,工 have more. 多くの罪があるのです」 という語り手の問題は, 第3スタンザで 「私には, もうこれ以上の罪はな ’ いのです」 というように解決を見出すのである. すなわち haveno more . の 版 では, ス タ ン ザ 単 位ではなく, この詩全体の流れのなかでの整合性が重視されているといえよう. このように一見単純に感じられるこのhymn は, じつはきわめて入念に 作り上げられているので あっ て, その入念さ, 複雑さが, そこに表れている宗教感情に一層の重みを与えている‐ ガー ドナー はこの作品を大いに高く評価して,「英詩のアンソロジーに収めるために ダンの詩を5編だけ選ぶこ とを許された者ならだれでも, 1623年に重病に躍っ た折に書かれた A 圧y伽%8 わ God 云友 野雄彰γ 1 0 ) を そ の 5 編 の 中 に 選 ぶ こ と だろ う( 」 と ま で い っ て い る. あ の ガ ー ドナ ー を し て そ の よ う な 高 い 評. 価を与えさせているのは何なのだろうか. ガー ドナーは続けていう.「この詩には, 我々 がふつうは ダンと結び付けたりはしない落ち着きがあり, 恋愛詩の舞い上がるようなリズムの代わりに抑えら 1 1 ) れたメロディ ーがある( 」 . たしかにこの作品における語り手の自己の罪を見つめる態度には, 浮つ いたところは微塵もなく, その心理的解決に至る過程は深い感動に満ちている‐ しかし,「ダンの個 人的な ドラマの論証的な表現と, ペン・ジョ ンソンがいつも書こうと努めていた基本的に古典的で 1 2 } 公衆的な詩の, 程度の違いではなく, 質的な違い{ 」 というリーシュ マンの言葉によって, ダンの 特質が要約されているのだとすれば, そのようなダンの詩の個人性と, このhymnの関係を どう 説 明すればよいのであろうか. それにはガー ドナーを含む多くの研究者が認めている done と Dorme の パン (語呂合わせ) がヒントになると思われる. このパンに注目しながら, この詩のもつ個人性 に つ い て 次 に 考 え て い く こ と に す る.. IV ダンの名前に 絡 ん だ パ ン は, い う ま で も なく リ フ レイ ン に 含 ま れ て い る. ‘▽rhenthou hastdone, ’は‘Wh t tnotdone, tdone tnotDol thouhas ul eデ で あ り, 「あ な た が 許 して く en houhas ,thouhas. ださっ ても, あなたは私 (ダン) を受け入れたことにはならないのです」 といっ た含意をもつこと になる. これを, 作品の中に人目につかないようにそっ としのばせた作者の署名 であると解釈する か, あるいはこの作品をダンその人の生々 しい体験に基づいたものと取るかによっ て, この詩は見 る者に違っ た印象を与える であろう. ここではダンの名を頼りに, この作品を作者 ダンに引き寄せ 102.

(10) . ジ ョ ン ・ ダン の “A H努〃“e お God 劫8 Eα劫8〆’に つ いて. て考えてみたい‐ 作者の名前の パンに注目し, そこからこの作品に表れている ダンの個人的体験に迫ろうとしてい 1 3 ) 第 1 ス タ ン ザ 冒 頭 の‘ ime wherelbe thats le は ふ つ う る の が ト マ ス ・ ドカ テ ィ ー であ る{ を犯nr ‐. にはキリスト者に共通した原罪の認識と説明されるのだが, ドカティ ーはさらに一歩踏み込んで, これをダン自身 がこの世に生を受けたことと関連させている‐ すなわち男と女の交わりによっ て自 分 は生まれたのだが, それと同じ行為によっ て, アンという女性とその子供たちを苦しめることに なっ てしまっ たことに対する罪の意識だというのである. これはあまりに生々 しすぎる解釈かもし れないし, 過度に強調すると詩全体の均衡を グロテスクに崩してしまいかねない‐ しか しこのよう な解釈の可能性を支持する証拠がないわけではない‐ それはもうひとつの隠された名 前, すなわち. ‘ 「 ‘ ’ lhave more . に 含 ま れ る ア ン の 旧 姓 More で あ る‐ lhavemoreノ は 一 義 的 に は 私 に は さ ら に 多 「 く の 罪 が あ る の です」 と い う こ と だ が, ア ン と の 関 わ り に お い て は 私 の 心 か ら は 亡 き 妻 (ア ン ・ ‘A H~mnneto C]誼i 1と ZXVI t” に は 嵐o汐 So““e モ ア) の 面 影 が 去 り ま せ ん」 と い う 意 味 を 持 つ. ‘ s ’ “ の著しい近親性が見られたが, このよう に考えると A H四皿eto Godthe Father に も 聖 職 に 就. いた後もなお亡き妻を思う心に苦しむ詩人の姿 が見られるのである‐. ime by that s 第 2 ス タ ン ザ に も 同 様 に, ダン の 個 人 的 体 験 の 反 映 を 見 て 取 る こ と が で き る. ‘ ’ ’ i ? の一節を書いたときに ダンの念頭には彼の妻や子供たち i e/otherstos chlhave woml n l e wh l. , のことがなかっ ただろうか‐ 第1スタンザにおけるように自らの結婚を罪と考えるなら, ここで「私 が, 罪を犯すように他人を仕 向けた罪」 というのは, 社会的な破綻を招いた結婚によって, 結果的. に妻子を苦しめることになっ てしまっ たことへの悔恨の念の現れといえるのではないだろうか‐ 9 行目と10行目む こ関しては, 先に, 語り手の生涯における何か特定の出来事を考えているのではない が, アン との関係 と いう 文脈の中 で考える とさ らに 興 味深い‐‘A 意味のことを書いた かという ’ あ 年 年 前 に何 があっ yeare ,ortwo を 額 面 どお り に 受 け 取 っ て, こ の 詩 の 制 作 年 で る 1623 の 1, 2. 621年のセント・ポール寺院の首席司祭への就任がある‐ たかを見てみると,大きな出来事としては1 3年 しかしそれ以上に可能性があるのは,1617年のアンの死である.1617年はこの詩が書かれた162 の6年前だが, これはさほ ど大きな問題ではあるまい. アンの死が与えた衝撃が大きければ大きい l l ほ ど, 年月が経過してもその記憶は生々 しかっ たはず である. それに‘wa owdin,ascorぎ は, ア ン と 共 に 過 ご した 年 月 を 思 い 起 こ さ せ る. そ の よ う に 考 え る と, そ の す ぐ後 に 続 く リ フ レイ ン が,. いっ そう痛切な響きをもっ て迫っ てくることになる.「私の心からは, 亡き妻の面影が去らないので す.」 lfeare no mor 多く の テ キ ス ト で は, こ の 詩 の 最 終行は‘ eノ であるが, ガー ドナー版ではここが ‘ ’ lhaveno mo e r e とな ている このことが作品全体に及ぼす影響については先に述べたが mor. っ , . とアンとの関係を考えてみても,ガー ドナー版のほう がより深い意味をもっ ているように思われる. 「私はもはや亡き妻の面影に苦しむことはありません」 としたほうがこの詩全体の締めくくりとし lhaveno mo ノの一義的な解 て, は る か に ふ さ わ し い も の の よ う に 感 じ ら れ る. さ ら に い え ば, ‘ r e. 釈が, かならずしも 「私にはもうこれ以上の罪はありません」 とはならず, むしろ 「私にはもう現 世に執着させるようなものは何もないのです」 としたほう がよいかもしれない. そうすれば, そこ に ア ン のイ メ ー ジ を 読 み 込 む こ と が, さ ら に 自 然 な 行 為 と な ろ う‐. 103.

(11) . 本 堂 知 彦. V この作品に関してもうひとつ忘 、れてならないのは, これが実際にメロディ ーをつけて教会 で歌わ 1 4 ) ダン の 詩 の 多く は 原 稿 の 形 の ま ま ごく 限 ら れ た 少 数 の 人々 の あ い だ で た と いう こ と であ る( . ,. 覧されたのであっ たが, 教会で歌われるとなると, それを受 け取る 人数は比較にならないほ ど大 くなる. ダンがこのような公的な目的のために詩を書いたこと自体, 特殊なことといわなければ らないのだが, そのよう な目的にかなうものとしてhy mnn という 形はまことに望ま しいもの で っ たのだろう. この作品が一見したところ, 激しさよりは平穏さを, 個人的体験よりは普遍的感 を印象づけるのは, 歌われるという特殊な目的と無関係ではあり得ない. 歌にして大勢の前で披 されるということがいかなることなのか, ダン自身がよく知っ ていたはず である. そのことに多 ipl の譜諺を込めて言及している例として, So”g e Fool e” と い s α”d so““eあ の な か の “The Tr 小 品 が あ る. こ こ で は, 自分 が作っ た詩に節がつけられて大勢の人々の前で歌手が歌うことにっ て, 次 の よ う に 述 べ ら れ て い る. But whenlhave done so ,. Some man sa比 and voice to show, ,hi Doth set ands ing my palne, ight ing many,frees againe APdby del Gr i i drestraine‐ ch verse d efe , whi ‘ ‘The Tr 1 5 ) ( i lさ’ ( e Foo pl - 12-16 - ) ,11. けれども僕が詩を作っ てしまうと, 誰かがその技量と美声をひけらかそうとして 僕 の悩みに節をつけて歌っ てしまう, そうして大勢の人達を喜ばせながら, もう一度 詩に閉じ込めておいたはずの悲しみを, 解き放ってしまう. 実際にダンの詩のいくつかが, 当時の作曲家たちの手によっ てメロディ ーをつけて歌われたこと “ ( 1 6 ) ipl e Fool e” に 関 して は , ガー ドナ ー が 実 例 と と も に 紹 介 して い る . 残 念 な が ら こ の The Tr. のような証拠は残っ ていないよう だが, その内容から見て, これが歌曲として歌われたであろう とは容易に想像がつく‐ そう でなければこの詩の軽みと譜諺性が生きない. 自分 の作っ た詩が歌 れることを, いくぶん目噸的なユーモアを込めてやや大げさに嘆いてみせるという内容をもつ詩 ゞ , 実際に歌曲として歌われるというところにこの詩の面白さがある. 詩の性格はまっ たく異なるものではあるが, これと同じようなことをダンは“A Hymneto God eFather“ に お い て も 行 っ て い る の で は な い だ ろ う か‐ い ま ま で 述 べ て き た よ う に, こ の hymnn に. 見方によっ ては個人的な色彩がきわめて濃厚である. その詩が聖歌隊によっ て会衆の前で歌われ ことに, ダンは大いなる俄悔のような意味を感じていたのではないだろうか. ただし, 世俗詩の 日合と大き・ く異なっ ているのは,世俗詩 ではダンに特徴的な個人性が明瞭に現れていたのに対して, ”においては 個人的な要素は少なくともその表面上からは慎重に A H~加Qne to Godthe Fa故e r , ‘H mneto God m God in E除さ れ て い る と いう こ と で あ る. た し か に こ の h班mm は, た と え ば‘ y y ,.

(12) . ’について ジ ョ ン・ ダン の “A 丑y粥7 2 8 わ God 劫e お雄秀好’ i my s ckness己’ な どと 比 較 す る と, よ り 単 純 であ り, イ メ ー ジ の 豊 か さ に も 欠 け る と こ ろ があ る.. しかしそれだけに, 宗教詩としてはより厳粛で普遍的なものとなり得ている. 高名な聖職者が作っ た聖歌として会衆の前で歌われるに耐える 内容をもちながら, なお詩人ダンの消し去りがたい特質 と, 高 い 技 法 を 見 せ て い る と こ ろ に “A H~mnne to Godthe Fa山e r”の真の価値がある‐. だE l ) ( 1 ) “A H)moneto GodtheFather’の引 用 は He sqf力ゑれ Do““e(oxford 2 en Gardner . ,1978 ,ed , T脳 D力粥ePOB“ に よ っ た‐. l lf があ to l se Hami ( t 2 ) ダン に はlames Hami onの追悼のために書いた”An Hynαnetothe Saints ,and Marques るが, Dれ初gpo “鮎 の隣習に従って, ここではこれを数えていない‐ e dge i 74 ZP0e鳶(Cambr l lmot i ) t ( 3 ) Ri c α chard Wi ‐ ‐ . ,p ,1985 , 層の〃 肌e如ぬりs ,ed 4 { ) ( 5 ). ’4 a l l OED‐ ‘ i t s ,. . すん P Wi l lmot 74 t . . , 噂‐ じ. 115‐116 ) l l 6 edβd po醐硲 (oxford ( ) Richard Gi 7 2 Do れ粥jSBZ . ‐ . ,1990 ,pp ,ed ,たた すん P 106 109 ( 7 ) Gardner ‐ . . ,P , の- c え‐Ce“≠ ince す嫌 の d 物ese災“Z膨れ云 ) 云 ton 云搭加川 Fog 8 ”り 尺〆を〆α岱 乙タガC(Pr ( ) Barbara KieferLewalski o ,1979 , ,P“ 280 p . .. ( 9 ) この作品の版についての問題は, ガー ドナーが自分の版を採用した理由について述べているところに詳しい‐ し かしガードナー版は現代において流布している様々なテキストのなかでは, いまだ市民権を得ているとはいいが iん pp 109-111 た い‐ Gardner の ‐ ‐ c . ,o ( 1 の. 191”192 He l ) ord en Gardner 7 2α ”乙 gm粥だ (oxf ‐ . ,1971 ,pp , 尺〆忽わ〃 α. ( 1 1 ). 珍蔵. 192 . . ,p. 27 ( 1 2 ) j‐B‐Leishman, Z膨 朋o“解 ” ザ 粥冴(Hutchinson,1965) . . ,p { 1 3 り. 218 Thomas Docher thuen ) ty 2doれ8(Me 7 2 Do“%8 . ‐ ,1986 ,p , たた , び7. l i r ton によっ てこの作品につけられた音楽は Gr ( ) 当時の作曲家Jo 1 4 e r s on版のテキストに収録されている. ま 1 n Hi h版の全集には何とJ S た,Shawc r os s . .Bachの旋律をこの詩に当てはめたものが紹介されている‐ これは後世に. 教会でおおいに歌われたらしい‐ 251 254 ) ザ ノoた“ Do““8,vol ‐ ‐ .2(oxford ,1912 ,pp A h 1 9 6 7 3 D T h ) r ね S d P Joln ‐ awcross 2 om⑦β( nc or o“ゆ励B o鑑か け た 7 .93 . , ,P ,e. , T脳 C )に よ る‐ 5 l Q ) 引 用 は He 7 2 Do“%8(oxford 7 2〆 物g so”gsα“d so““e鳶 ダ ルた en Gardner ‐ ,1965 ,ed , T脳 EZ昭 郷 α 1鱗 Po鋤硲 Herbe i tJ l er son .C.Gr ‐ ,ed ,7. ( 1 ①. 238‐247 為す メリpp . ‐. 105.

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参照

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