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エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念とその教育学的示唆について

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(1)Title. エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念とその教育学的示唆について. Author(s). 古川, 雄嗣; 宮北, 琴子. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 68(2): 31-46. Issue Date. 2018-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/9647. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第68巻 第2号 Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 68. No.2. 平 成 30 年 2 月 February, 2018. エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念とその教育学的示唆について 古川 雄嗣・宮北 琴子* 北海道教育大学旭川校教育学教室 *. 札幌市立南郷小学校. Erich Fromm’s Concept of ‘Love’ and Its Pedagogical Implications FURUKAWA Yuji and MIYAKITA Kotoko* Department of Education, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education *. Sapporo City Nango Elementary School. 概 要 本稿は,20世紀の社会心理学者エーリッヒ・フロム(Erich Fromm, 1900-1980)における 「愛」の概念を明らかにするとともに,そこから得られる教育学的示唆について考察したもの である。フロムは現代人が直面しているのは実存的な「孤独」の問題であり,それを克服する ための唯一の方法は「愛」を実現することであると述べている。「孤独」とはどのような問題 であり,なぜ,どのような意味での「愛」がそれを克服し得るのか,そしてその「愛」を実現 し得るための教育実践とはいかなるものであるかが考察された。. はじめに 本稿は,20世紀の社会心理学者エーリッヒ・フ ロム(Erich Fromm, 1900-1980)における「愛」 の概念を明らかにするとともに,そこから得られ る教育学的示唆について,若干の考察を試みるも のである。フロムはいわゆるフランクフルト学派 の代表的人物の一人として知られているが1,彼 の最も根本的な問題意識は,現代人が抱える「孤 独」の問題であったと見ることができる。そうし て, その孤独の問題に答え得る唯一の解答が「愛」 であるとフロムは主張している。 ところで今日,教育現場において子どもたちが 抱える諸問題の背景には,まさに「孤独」の問題 があるという指摘がある。例えば教育社会学者の 土井隆義は, 『キャラ化する/される子どもたち』 (2009年)の中で,日常生活と学校生活を営む上. で,いわゆる「キャラ」を演じる中高生の現状を 分析している2。土井によれば,それは学級の中 に存在するグループ同士の関係を円滑にし,かつ 自身がその所属するグループから外れないように するための手段である。自分を殺し,自分のポジ ションにふさわしい「キャラ」を演じることによっ て,他者との衝突を避けようとするのである。土 井はそこに,現代の子どもたちが「ぼっち」や「圏 外」と呼ばれる状態を過剰に恐れる傾向を見て 取っている。つまり,「孤独」である。グループ から外れ, 「ぼっち」や「圏外」と呼ばれる「孤独」 の状態に陥ることだけは避けなければならない。 そのための手段が,自分を殺して「キャラ」を演 じるということなのである。 土井自身は,このことを必ずしも否定的に評価 しているわけではない。しかし,「キャラ」を演 じ続けるということは,すなわち「孤独」を恐れ. 31.

(3) 古川 雄嗣・宮北 琴子. 続けるということであり,だとすれば根本的な問 題は何ら解決されないままであろう。問われるべ きは,子どもたちが自己を殺してまで「キャラ」 を演じる必要がないような学級や学校,ひいては 社会をつくるためにはどうすればよいのかであ り,それは言い換えれば,孤独をいかに「回避」 するかではなく,いかに「克服」するかという問 題である。このような考えのもと,本稿では,そ のための手がかりをフロムの思想,特に彼がその ための唯一の方法として示した「愛」の思想の中 に求めてみたい3。 以下,本稿では,まず第1節において,フロム の思想における「孤独」と「愛」の概念を,続く 第2節において, 「愛」とほとんど同義に用いら れる 「生産性」 , およびその反対である「非生産性」 の概念を,各々明らかにする。そのうえで,第3 節では, 「非生産性」の克服について,教育学的 視座からの考察を試みる。それらを踏まえ,「非 生産性」を克服し, 「愛」の実現を可能にするた めに必要な教育実践とはどのようなものである か,最後にその展望を示してみたい。. 第1節 「孤独」と「愛」――『自由からの 逃走』,『愛するということ』 1 「孤独」という問題 フロムの根本的な関心は現代人の「孤独」の問 題にあったと述べたが,それはどういうことか。 それを集中的に論じた『自由からの逃走』 (1941年) を主に参考にしながら,まずその点について見て みよう。 フロムによれば, 人間はもともと「第一次的絆4」 というもので世界と繋がれているという。これは, 例えば「子どもと母親を結びつけている絆5」の ように, 人間を外的世界と繋ぐ原初的な絆である。 この絆のおかげで,人間は世界と繋がっていると いう安心感や帰属感を得ることができるが,反面, この時点では,一人の人間として自立した状態で はない。しかし人間は成長し,はじめは母親の力 を借りずには何もできなかった状態から,だんだ んと自我の力を強めて母親から離脱するときが来 る。この過程をフロムは「個性化」と呼ぶ。この 「個性化」の過程をたどることによって,人間は 「第一次的絆」を断ち切られ,一人の「個人」と して世界に存在することを求められる。つまり, 個性的な自我を獲得し,自立する反面,「第一次 的絆」によって得ていた安心感や帰属感を失い, 自分は世界の中に一人ぼっちだという感覚に直面 する。これが「孤独」という問題である。. 32. むろん,この意味での「孤独」の問題は,人類 共通の普遍的な問題であると言える6。しかし, フロムはこれを,特に現代において深刻な問題で あると捉えている。なぜならば,この「第一次的 絆」からの脱却と「個性化」の過程は,単に個人 の内的な成長・発達に関する心理学的な問題であ るだけではなく,社会構造の変化の問題でもある からである。 彼の見方はこうである。中世の社会では,人間 は社会的秩序の中で自分の役割に繋がれていた。 生まれたときからすでに明確に固定された地位を もち,「人間は全体の構造のなかで根をおろして いた7」のである。確かにそこに現代的な意味で の自由はなかったが,個人的には「第一次的絆」 を断ち切られた状態であったとしても,社会的に は未だ「第一次的絆」で結ばれ,安心感や帰属感 を得ることができていたと考えられるのである。 しかし,中世末期に経済や文化が発展し,社会機 構が大きく変化することになる。資本や個人の経 済的創意や競争が重要になり,従来の中世的社会 組織が崩壊していったことに伴い,かつて社会組 織が与えていた地位や階級,生活の固定性や安定 性が破壊され,個人は社会的にも一人ぼっちにさ れたのである。これはいわば,社会的な「個性化」 の過程である。人々は自由を手に入れることで「個 人」としての力を発揮できるようになったが,同 時に固定した地位を失い,自己の生活の意味や安 定感を失ったのである。これが,現代人の「孤独」 の問題にほかならない。 では,人間がこの「孤独」の問題と相対したと き,どのようにそれを克服すればよいのだろうか。 そもそも世界と自分とを繋いでいた絆が断ち切ら れることで孤独になったわけであるから,当然, もう一度世界との繋がりを取り戻すことで,孤独 を克服することができると考えられる。しかしそ のとき,ちょうど子どもが母親の胎内に戻ること ができないのと同じように,一度断ち切られた「第 一次的絆」と同じような繋がり方を求めることは できない。そういったなかで,人間が選ぶ道がい くつかあるとフロムは言う。 第一の道は,人間が自らを後退させ,自由を捨 てることによって,個人的自我と世界との間に生 じた分裂を消滅させることである。具体的には, サディズムやマゾヒズムのように,支配と服従へ の努力という形で自らの自我を放棄しながら「第 二次的絆」を求める「権威主義」や,生を破壊し, 生きることすら放棄する「破壊性」などがある。 しかし,これらはフロムが「けっきょく一つのこ ・・・・・・・・・・・・・・ とをねらっている。個人的自己からのがれること,.

(4) エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念. ・・・・・・・・・ ・・・・・ 自分自身を失うこと,いいかえれば,自由の重荷 ・・・・・・・・・・・ からのがれることである8」と言うように, 「個性 化」によってせっかく獲得した自我を放棄し,自 己の同一性を失うものでしかない。 第二の道は, 「集団への同調」である。フロム はこれを,現代において最も一般的な方法である として,次のように批判的に分析している。. たいていの人は,集団に同調したいという自 分の欲求に気づいてすらいない。誰もがこん な幻想を抱いている――私は自分自身の考え や好みに従って行動しているのだ,私は個人 主義者で,私の意見は自分で考えた結果なの であり,それがみんなの意見と同じだとして も,それはたんなる偶然にすぎない,と。彼 らは,みんなと意見が一致すると, 「自分の」 意見の正しさが証明されたと考える9。 今日,平等といえば,それはロボットの,す ・・ なわち個性を失った人間の平等である。現代 ・・・・・・ ・・・ ・・・・・ ・・・ ・・・ では平等は「一体」ではなく「同一」を意味 ・・ する10。 要するに, 「集団への同調」は孤独を「克服」 するのではなく,孤独を恐れて「回避」している に過ぎない。しかも,そのことに自分自身が気付 いていないという点で,より一層深い孤独の状態 であるとも言えるであろう。冒頭に示した,孤独 を恐れて回避するためにひたすら「キャラ」を演 じ続ける現代の子どもたちの状況は,まさにこれ であるとも言えるであろう。さらに,この状態に おいては,自分の意見が客観的に正しいかどうか という理性的な価値判断がなされず,みんなと意 見が同じだから正しいのだと安心することにな る。 これでは自我を確立して生きているどころか, 集団に生かされていると言っても過言ではないで あろう。かくして,この場合でも, 「個性化」によっ て獲得した自我や自己の統一性を,集団に捧げて 放棄してしまうことになるのである。 そこでフロムが提案する第三の道が, 「自発的 な活動」によって世界と自分とを結び付けること である。 自発的な活動は,人間が自我の統一を犠牲に することなしに,孤独の恐怖を克服する一つ の道である。というのは,ひとは自我の自発 的な実現において,かれ自身を新しく外界に ――人間,自然,自分自身に――結びつける から。愛はこのような自発性を構成するもっ. とも大切なものである11。 フロムが求めるのは,このように,「個性化」 によって獲得した自我や自己の統一性を失うこと なく,かつ孤独を克服する方法である。その方法 が「自発的な活動」であるとフロムは言う。また, それを構成する最も大切なものが「愛」であると いうことが,1941年の『自由からの逃走』におい てすでに明言されていたことにも注意しておこう。 では,その「自発的な活動」とは,どのような ものであろうか。もう少し詳しく見てみよう。 自発的な活動は,自我の自由な活動であり, 〔中略〕人間の感情的,知的,感覚的な諸経 験のうちに,また同じように人間の意志のう ちに,働くことのできる創造的な活動と考え る12。 ここでは, 「自発的な活動」が「創造的な活動」 と言い換えられている。また,別のところでは「生 産的活動」という言い方もしている。そして,例 えば芸術家の創作などがそれであるとフロムは言 う。「どんな種類の創造的活動の場合も,創造す る人間は素材と一体化する。素材は,彼の外にあ る世界の象徴である13」。芸術家は,外界の象徴 である素材と向き合い,創作する。それは誰から 指図されたわけでもなく,自我の意志のもとに行 われる活動であり,結果的に創作という行為を通 して人間と素材が繋がるのである。このように, 創造的活動によって,創造の過程で人間は世界と 一体化するのである。 しかし,とフロムは言う。 生産的活動で得られる一体感は,人間どうし の一体感ではない。〔中略〕完全な答えは, 人間どうしの一体化,他者との融合,すなわ ・ ち愛にある14。 かくして,フロムにおける「孤独」と「愛」と の関係が,まず明らかとなった。「孤独」の克服 のために自我や自己の同一性を放棄することなく 世界と繋がる,すなわち一体化するためには創造 的活動が望ましい。そしてその最たるものが,人 間同士の一体化であるところの「愛」である,と いうことである。 では,その「愛」とは,具体的にどのようなも のであろうか。それを引き続き見ていくことにし よう。. 33.

(5) 古川 雄嗣・宮北 琴子. 2 「愛」とは何か フロムは 『愛するということ』 (1956年)の中で, 愛は 「技術」 であると述べている15。ここで言う「技 術」とは,原著で‘art’と表現されているように, 経験を通じて習得する「わざ」というほどの意味 である16。つまり,「愛」というものは本来,何 もしていなくても自然に「落ちる」ものでもなけ れば, 「愛される」という受動的な経験であるの でもなく,自らが経験を通じて習得し,能動的に 行う行為であるということである。フロムはこの 能動性を, 「愛」の「与える」という性質や「配慮・ 尊敬・責任・知」という要素に見出している。先 に見た「自発性」とは,まさにこのことを指して いる。そしてこの能動的な行為である「愛」によっ て,人間は「孤独」を克服し得るのである。 ・ ・・・・・・・・・・・・・ 成熟した愛は,自分の全体性と個性を保った ・・・・・・ ・・・・・・・ ままでの結合である。愛は,人間のなかにあ ・・・・・・ る能動的な力である。人をほかの人びとから 隔てている壁をぶち破る力であり,人と人と を結びつける力である。愛によって,人は孤 独感・孤立感を克服するが,依然として自分 自身のままであり,自分の全体性を失わない17。. ここで注目したいのが, 「成熟した愛」という 言葉である。フロムは「成熟した愛」と「未成熟 な愛」 とをはっきりと区別している。 「未成熟な愛」 は, 「共棲的結合」と呼ばれるサディストとマゾ ヒストの関係のように,孤独の恐怖から逃れるた めに結んだ人との関係である18。それに対して「成 熟した愛」は能動的で生産的な生き方に基づくも のであり,「人と人が中心で交わる」ことで孤独 を克服し得るものであるという。 では, 「人と人が中心で交わる」とは,より具 体的にはどういうことを言うのであろうか。フロ ムは次のように述べる。 愛とは,能動的に相手のなかへと入っていく ことであり,〔中略〕融合において,私はあ なたを知り,自分自身を知り,すべての人間 を知る19。 これは, 愛の能動性の要素の一つである「知る」 ということについて述べられたものである。与え ることによって与えられるという愛の性質と同じ く,あなたを知ることによって自分自身をもまた 知るということである。また,次のようにも言わ れる。. 34. 二人の人間が自分たちの存在の中心と中心で 意志を通じ合うとき,すなわちそれぞれが自 分の存在の中心において自分自身を経験する とき,はじめて愛が生まれる。この「中心に おける経験」のなかにしか,人間の現実はな い。〔中略〕二人の人間がそれぞれの存在の 本質において自分自身を経験し,自分自身か ら逃避するのではなく,自分自身と一体化す ることによって,相手と一体化するというこ とである20。 ここで述べられている「自分たちの存在の中心 と中心」というのは,おそらく「人間の本質」と いう意味であろう。愛によって互いを深く知るこ とによって,互いが共有している「人間」として の本質を知る。従ってそれは,先の引用にもあっ た通り,「すべての人間を知る」ことでもある。 そうしてそれは,深く自分自身を知り,その意味 で自分自身と一体化することであると同時に,相 手と,ひいてはすべての人間と,一体化すること でもある。かくして人は孤独を克服するのである, ということであろう。 しかし,ここで注目すべきことは,愛において は,自己と他者とが一体化しながらも,なお自己 はあくまでも自己であるという点に,明らかな矛 盾があるということである。この矛盾を批判する 者もあるが21,フロムはむしろこの矛盾こそが「人 間が人間たるゆえん」であるとしている22。つま り,それこそが人間の本質である,ということで ある。ということは,まさにこの矛盾を経験する ことこそが愛の行為であるということになるであ ろう。問題は,矛盾があるから愛の実現は難しい ということではなく,この矛盾をどう理解し,い かに実現し得るかであると思われる。 さらに,ここからもう一点,愛の重要な性質が 導かれる。それは,愛が能動的な行為であり,技 術と能力の問題である以上,それは対象の問題で はないということである。 愛とは,特定の人間に対する関係ではない。 愛の一つの「対象」にたいしてではなく,世 界全体にたいして人がどう関わるかを決定す ・・ ・・ ・・・ る態度,性格の方向性のことである23。 もちろん,フロムが続けて「ただし,愛が一人 ではなくすべての人にたいする態度であるといっ ても,愛する対象の種類によって愛もさまざまな種 類があるという事実が否定されるわけではない24」 とも言うように,愛には兄弟愛,母性愛,異性愛,.

(6) エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念. 自己愛など,様々な形があり,そのそれぞれに特 徴がある。しかしながら,それでもフロムは,そ の様々な愛の形の中でも,最も基本的なそれは, 「人類全体にたいする愛」であるところの兄弟愛 であると言う。 兄弟愛とは人類全体にたいする愛であり,そ の特徴は排他的なところがまったくないこと である。もし愛する能力がじゅうぶん発達し ていたら, 兄弟たちを愛せずにはいられない。 人は兄弟愛において,すべての人間との合一 感,人類の連帯意識,人類全体が一つになっ たような感覚を味わう。兄弟愛の底にあるの は,私たちは一つだという意識である25。 要するに,愛する能力が「成熟」した状態であ れば,人は誰をも愛することができるのであり, その愛によって孤独を克服することができる。こ のようにフロムは言うのである。 しかしながら,このフロムの主張にはなお疑問 が残る。ここでは,次の二つの疑問を提示してお こう。 まず第一に, 頻繁に使われている「成熟した愛」 という概念についてである。その意味には一応の 理解はできるが,ではどうすれば「未成熟な愛」 が「成熟した愛」へと成長・発達できるのか,あ るいはそもそも「未成熟な愛」と「成熟した愛」 とは質的に異なるものなのか,そのあたりは必ず しも明瞭とは言えない。 「生産的」であるか否か がその指標であることは,繰り返し述べられてい ることから理解はできるが,ではその「生産的」 や「生産性」という概念が,より具体的にはどう いった態度を意味するのかは,やはり明瞭とは言 えない。従って,愛についてより理解を深めるた めには,まず一つ,この「生産性」という概念に ついて,さらに詳細な考察が必要であると考えら れる。 第二に,「自己愛」をどう考えるかという問題 がある。先に述べたように,フロムは兄弟愛,母 性愛,異性愛,自己愛など,様々な愛の形につい て分析しているが,この中で自己愛は特異な位置 を占めるように思われる。と言うのは,フロムも 言うように,他人を愛するのは美徳であるが自分 を愛することは罪であるとか,自分を愛する人は 他人を愛さないなどと言われることがある。しか し,フロムは自分を愛することもまた美徳である と言う。なぜなら,自分もまた一人の人間である からである。さらに,愛が能力であり,世界全体 に対しての関わり方を決定する性格や態度である. からには,自分を愛する能力がないということは, 他人を愛する能力もないということにもなる。 自分自身の人生・幸福・成長・自由を肯定す ることは,自分の愛する能力,すなわち気づ かい・尊敬・責任・理解(知)に根ざしてい る。もしある人が生産的に愛することができ るとしたら,その人は自分自身をも愛してい る。もし他人しか愛せないとしたら,その人 はまったく愛することができないのである26。 ここで重要なことは,この意味での自己愛と, 利己主義ないしエゴイズムとの違いである。フロ ムは,この両者はしばしば混同されるが,実はまっ たく正反対のものであると言う。すなわち,利己 主義は自分が外界から何を得られるか,自分の役 に立つことは何かということにしか関心がなく, 従って,与えることや他人への関心,尊敬といっ た愛の能動性・生産性をまったく欠いている。こ ・・・・・・・ の意味で,利己主義は自分を愛しすぎているので ・・・・・・・・ はなく,むしろ愛さなすぎているのであり,実の ところ自分を憎んでいるのであるとまでフロムは 言っている。真の自分を愛することができないた めに,埋め合わせをしようとして利己的になり, いつまでたってもその空虚感と欲求不満から抜け 出すことができない。これが利己主義である,と いうのがフロムの分析である。 この自己愛と利己主義との区別は極めて明晰で あり,示唆深いものである。しかし,確かに概念 としての区別は極めて明晰ではあるが,現実的に も,両者をここまではっきりと区別できるもので あろうか。あるいは,第一の論点と同じように, 両者はまったく異質なものなのか,それとも利己 主義から自己愛へと成長・発達していくべきもの なのか。さらに,仮に後者であるとすれば,どう すればそのような成長・発達が可能なのか。この ような疑問が生まれる27。 いずれにせよ,まず明らかにされなければなら ないのは,第一の論点として示した「生産性」の 概念である。見たように,結局は自己愛と利己主 義との相違も,生産性の有無に求められている。 そこで,続く第2節では,この「生産性」という 概念に焦点を移して考察を進めていくこととしよ う。. 35.

(7) 古川 雄嗣・宮北 琴子. 第2節 「生産性」と「非生産性」――『人 間における自由』 , 『生きるということ』 1 「生産性」と「非生産性」 フロムの言う愛の概念の意味内容をより十全に 理解するためには,愛の性質として繰り返し示さ れている「生産性」の概念を明らかにする必要が ある。しかし,実はフロムは,この「生産性」と いう概念を,愛の性質の一つというよりも,むし ろ愛とほとんど同義の概念として用いている。た とえば, 『人間における自由』(1947年)では,次 のように言われている。 人間存在はまったく孤独であって,世界から 切り離されているという特徴をもっている。 しかし,彼はこの孤立に耐えることができな いので,関係という一体化を求めずにはいら れない。彼がこの要求を実現する方法はたく さんあるが,彼が独自の実体であることをそ こなわずにすむ方法は一つしかない。人間が 完結性と独立性とを同時に求めなければなら ぬということ,すなわち他者と一体であって, しかも同時に自己の独自性と特殊性とを維持 するということは矛盾している。すでに述べ たように,このパラドックスにこたえるもの は――そして人間の道徳的問題にこたえるも のは――生産性である28。 『愛するということ』において「愛」という概 念で指し示されていた内容が,ほとんどそのまま, ここでは「生産性」という概念で指し示されてい る。 さらに言えば,そもそもフロムは,これを人間 が「生きる」ということの本質そのものであると も捉えているようである。 「 生きてある」(to be alive)という概念は ・ 動的なものであって静的なものではない。存 ・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・ 在ということ,有機体のもつ特殊な力の展開 ・・・・・ ということとはまったく同じ意味である。有 機体はすべて自己のもつ特殊な可能性を実現 しようとする生来の傾向をもっている。した ・・・・・・・・・・・・・・・・ がって,人生の目標は人間の本性にはたらく ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 法則にしたがってその力を展開することであ ると理解されるべきである29。 ここで述べられている「有機体のもつ特殊な力 の展開」や「自己のもつ特殊な可能性を実現しよ うとする生来の傾向」 ,これが「生産性」という. 36. 概念の意味内容であると理解される。そうして, 実はフロムは,「生産性」という概念について, これ以上の具体的な論述はしていない。彼は,ほ とんどひたすら,この意味での生産性が重要であ り,生産的に生きることが大切であるということ を繰り返し訴えるばかりなのである。それが人間 の「生来の傾向」や「本性」である以上,人は誰 でも,精神的情緒的に損なわれていない限り,生 産的に生きることができるはずであり,それがい わば,人間の本来の生き方である。これは,何ら かの分析の結果として導かれた結論と言うより も,むしろフロムの思想の前提としてある人間観で あると言ったほうが正確であるように思われる30。 従って,フロムの分析は,「生産性」そのもの よりも,むしろそれが「精神的情緒的に損なわれ」 た状態としての「非生産性」のほうに向けられて いる。そこで,以下では我々も,いわばネガとし ての「非生産性」を明らかにすることを通じて, ポジとしての「生産性」を浮かび上がらせること を試みてみたい。 フロムは『人間における自由』において,人間 の「性格」を「生産的構え」と「非生産的構え」 の二つに分類し,さらに後者を「受容的構え」「搾 取的構え」「貯蓄的構え」「市場的構え」の四つに 分類して,詳細な分析を行っている31。 一つめの「受容的構え」とは,あらゆる善の源 泉が自分の外部にあると思っており,自分の欲し いものを得る唯一の方法は,誰かから受け取るこ とだと感じている構えである。この構えにおいて, 「愛」の問題は「愛されること」の問題として捉 えられる。そして,人から愛されたり,何かを受 け取ったりするためには,その人に対して忠誠を 誓う必要が出てくる。従って,この構えの人は, 人に対してノーと言うことができず,誰に対して も「イエスマン」になる。かくして自らの批判的 能力が弱まると同時に,そのことによってますま す他人に頼らなければならなくなる,という負の 連鎖が起こることにもなる32。 二つめの「搾取的構え」も,受容的構えと同様, あらゆる善の源泉は自分の外部にあり,自らは何 一つ生産できず,欲しいものは何でも外に求めな ければならないと考えている。しかし,受容的構 えと異なる点は,他人から受け取ろうとするので はなく,力と策略を用いて奪い取ろうとすること である。あくまでも他人のものを奪い取るという ことに価値を見出すため,この構えの人は,誰の ものでもないものには興味を示さない。反面,他 人のものは常に高く価値付けし,いつでも奪う機 会を狙っている。従って,彼らの他人に対する態.

(8) エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念. 度は冷淡であるが,その裏面には羨望と嫉妬があ る。また, 言うまでもなく,彼らにとっての「愛」 は,他人が所有しているものを「奪い取る」こと として捉えられる33。 三つめの「貯蓄的構え」は,前述した二つの構 えとは異なり,むしろ外界から得る新しいものは ほとんど信用しないという構えである。この構え で生きる人たちは,自分がすでに持っているもの がすべてであり,それを守るために高い壁を作る。 新たに得ることではなく,すでに持っているもの を失わないことに,もっぱら固執するのである。 従って,彼らにとっての「愛」は,愛するものを 「所有」することとして捉えられる。さらに,す でに所有しているものに固執するため,過去の記 憶や思い出にすがり,それを美化することもしば しばである34。 四つめの「市場的構え」は,現代において有力 に発展したものである。これは,自分自身を商品 とし,自己の価値を交換価値として体験すること に基づく性格の構えである。この構えにおいては, 人は商品であるから,社会に求められ,認められ る 「人材」 であろうとする。そしてそのためには, 周りに求められる人材像を敏感に察知し,その流 行に乗った生き方をしなければならない。さらに は,より一層自らの交換価値を高め,良い商品に なることが,彼らにとっての人生の目標となる。 また従って,彼らにとっての「愛」は,多くの人 から好かれるであろう人になろうと努力し,自分 の商品価値と交換可能な対象を選択することを意 味するようになる。この構えに基づいた生き方で は,確かにいわば社会の歯車としての一定のポジ ションを獲得し,一見,安定を得られるかに思わ れるものの,その実,人が交換可能な商品である 以上,いつ他人に自分のポジションを取って代わ られるかわからないという不安が付きまとうこと になる。この点は,まさに冒頭で述べた,孤独を 回避するために「キャラ」を演じ続ける現代の子 どもたちの姿そのものであるとも言えるであろう35。 さて,以上四つの「非生産的構え」の特徴を概 観してみると,そのすべてに共通する性質がある ことがわかる。それは「所有」である。受容的構 えと搾取的構えにおいては,何らか価値あるもの を自ら生産することなく,もっぱら自己の外部か ら獲得し,所有しようとする。貯蓄的構えは,す でに所有しているものに固執する。市場的構えに 至っては,自分自身をも商品という所有の対象と してしまうのである。この「所有」という性質に, 「非生産性」の本質があるのではないか。まずは このように考えられる。. そして実際,フロム自身もまさにそう考えてい るように思われる。と言うのは,フロムは『生き るということ』 (1976年)において,人間の「性格」 を決定付けるものとしての「存在様式」の分析を 行っており,そこで「持つこと」と「あること」 という二つのそれを対比して論じているのであ る。言うまでもなく,前者が「非生産的構え」の, 後者が「生産的構え」の,根底にあるものである。 そこで,引き続きこの二つの「存在様式」の分析 を見てみることで,「生産性」と「非生産性」の 概念にさらに迫ってみよう。 2 「持つこと」と「あること」 フロムはこのように述べている。 持つこととあることとは二つの基本的な存在 様式であって,そのそれぞれの強さが個人の 性格やいろいろな型の社会的性格の間の違い を決定する36。 ここで言われる「存在様式」とは,自己と世界 との繋がり方と言い換えることができる。そして, 「持つ様式」は世界との繋がりを「所有」に求め, 「ある様式」はそれを「一体化」に求める。 この違いは,フロム自身が挙げている具体的な 例をもとに考えるとわかりやすい。例えば,我々 自身もしばしば,「私はこれこれの考えを持って います」とか「私はこれこれの悩みを持っていま す」とかという言い方をする。しかし,本来「過 程や能動性は所有されるものではなく,ただ経験 されうるのみ37」であるから,これは正しくは「私 は考えています」「私は悩んでいます」でなけれ ばならない。「私は考えを持っています」や「私 は悩みを持っています」は「持つ様式」であり, 「私は考えています」や「私は悩んでいます」は 「ある様式」なのである。前者の場合,所有する 主体である私と,所有される対象である考えや悩 みとが,切り離されている。ここには,考えてい る自分や悩んでいる自分を自分自身が認めず,そ れを自分とは関係のないものにしてしまいたいと いう願望があるともフロムは言う。それに対して, 後者の場合,私と考えや悩みとは,一体であって, 切り離すことはできない。いわば,考えや悩みそ のものが私という存在であるのである。 もう一つ,同じ例として興味深いのが, 「学ぶ」 という行為における違いである。「持つ様式」の 人は,学んだ知識や技能を所有しようとする。そ れに対し, 「ある様式」の人は,聞き,受け入れ, 反応し,自ら考えるという思考過程に集中する。. 37.

(9) 古川 雄嗣・宮北 琴子. つまり,自己とは切り離された,客体としての知 識を,ただ所有するだけの人と,知識を自らの中 に取り入れ,自己と知識とを一体化させる人との 違いが,ここにはあるのである。 そして, もはや言うまでもないが,本来の「愛」 は, 「ある様式」においてのみ実現する。 「愛」は抽象概念であり, 〔中略〕実際には, ・・・・・・・・ 愛するという行為のみが存在する。愛するこ とは生産的能動性である。それは,人物,木, 絵,観念を尊重し,知り,反応し,確認し, 享受することを意味する。それは生命を与え ることを意味し,彼の(彼女の,それの)生 命力を増大することを意味する。それは自らを 更新し,自らを増大する一つの過程である38。 ここからも,愛を「所有」の問題として捉える 存在様式が,前項で見た四つの「非生産的構え」 に基づく「崩壊した」愛の形を生み出しているこ とが,改めてわかる。また,前節で見たように, フロムが本来の愛は行為であると主張していたこ との意味も,より明確になった。厳密な言い方を するならば,私が愛するという能力や技術を所有 するのではなく,愛するという生産的な行為が私 において実現し,私はそれを経験する,と言った ほうが正しいであろう。 では,なぜ現代社会においては,「ある様式」 ではなく「持つ様式」,そしてそれに基づく「非 生産的構え」が優勢になり, 「愛の崩壊」が生じ てしまうのであろうか。フロムはその原因として, 現代の資本主義と個人主義とが,所有権や財産感 覚を刺激し, よりよいものやより多くのものを「持 つ」人が優れている,という感覚を助長している ことを指摘する。 「個人主義」は,その肯定的な意味では社会 的な鎖からの解放を意味するが,否定的な意 味では「自己所有権」,すなわち自分自身の 成功のために自分の精力を投入する権利―― そして義務――を,意味する。 〔中略〕自我は, 私たちの財産感覚の最も重要な対象である。 なぜならそれは多くのものを含むからであ る。 〔中略〕本質的な点は自我の中身が何で あるかということよりも,自我が私たち各人 の所有するものと感じられ,この「物」が同 一性の感覚の基礎になるということである39。 つまり,個人が解放された現代では,人は孤独 と向き合わなければならないだけでなく,自分自. 38. 身をも所有の対象である「物」として感じてしま うという,もう一つの新たな問題に直面すること になるのである。これがいわゆる「疎外」の問題 にほかならない。しかも,この両者は連動してい る。というのは,個人は,孤独を克服しようとし て,より多くのものを所有しようとする。しかし, 自我がその所有するものと同一視される以上,常 にそれを失い,従って自我そのものを喪失する不 安を抱き続けることになる。このように,孤独の 恐怖が同時に自我喪失の不安でもあるということ が,孤独の問題をより一層深刻にしているように 思われる。そして,だからこそフロムは,人は「あ る様式」で生きるべきであることを訴えるのであ る。 ・・・ ・・・・・・・・・・・・・・ もし私が,私があるところの人物であって, 持つところのものでないならば,だれも私の 安心感と同一性の感覚を奪ったり,脅かした りはできない。私の中心は私の中にある。私 ・・ のある能力と,自らの本質的な力を表現する 能力とは,私の性格構造の一部であって,そ れを左右するのは私である40。. 「ある様式」は自己と世界との一体化である。 従って,この様式に基づいた生き方をすれば,個 人は孤独を克服できると同時に,自分自身を失う 不安もない,ということになるであろう。 疎外されない能動性においては,私は能動性 ・・ ・・・ の主体としての私自身を経験する。疎外され ない能動性は,何かを生みだす過程であり, 何かを生産してその生産物との結びつきを保 つ過程である。このことはまた,私の能動性 は私の力の表れであって,私と能動性と能動 性の結果とは一体であるという意味も含んで ・・ いる。私はこの疎外されない能動性を,生産 ・・・・ 的能動性と呼ぶ41。 ここに至って,ようやくフロムの言う「愛」の 概念の輪郭が見えてきたと言えるであろう。 「愛」 すなわち「生産性」とは,まず何よりも自己と世 界との一体化であり,いわば世界が世界自身を生 産していく動的な過程を自己において経験するこ とを意味する。従って,この意味での愛によって, 人間は「第一次的絆」を断ち切られた孤独を克服 すると同時に,自己を所有の対象と見なす疎外状 況をも克服することができる,ということであろ う。 しかし,ではどうすれば,「ある様式」に基づ.

(10) エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念. く「生産的」な生き方ができるのであろうか。そ の点についてはほとんど論じられてはいない。と はいえ,現代においては「持つ様式」とそれに基 づく「非生産性」とが優勢であることは明らかで あるから, 「生産性」の実現のためには,まず「非 生産性」を克服する必要があることは示唆される であろう。では,どうすれば「持つ様式」と「非 生産性」とを克服することができるであろうか。 これがさらなる考察の課題となる。. 第3節 ナルシシズムと「愛」――『悪につ いて』 1 「非生産性」 の最たるもの ――「衰退の症候群」 どうすれば「非生産性」を克服することができ るのか。それを考えるためには,まずはその克服 すべき「非生産性」の性質を,さらに掘り下げて 理解しなければならない。 フロムが「非生産性」を主題として論じた文献 が, 『愛するということ』の「否定的な片われと しての対をなしている42」とも評される, 『悪に ついて』 (1964年)である。そこでは, 「非生産性」 が生む人間の攻撃性と破壊性,およびその原因と なる「オリエンテーション43」の分析がなされて いるが,その中でも最も有害で危険な形態の基礎 をなすものとして,「死を愛好すること(ネクロ フィリア) 」 「悪性のナルシシズム」「共生的・近 親相姦的固着」の三つが挙げられている。これら が重症化して関連を持ち始め,一つに集中してく ると, 「衰退の症候群」を形成するとフロムは言う。 以下はそれをフロムが図示したものである44。 近親. 相姦. 由 ー自 独立. 成長の 症候群. 的固. 着→. 母固. 自然 隣人と異邦人への愛. ナルシシズム. バイ オフ ィリ ア. 着. 衰退の 症候群. ア ィリ ロフ ネク. 正常 前進の段階. 退行の段階. 「成長の症候群」は生産的な方向であり,「衰 退の症候群」は非生産的な方向である。図を見る と,中心に「正常」な範囲というものが存在し, そこから生産的なオリエンテーションと非生産的 なそれとが伸びている45。このことからも,「生 産性」と「非生産性」はやはり別個に存在するも のではなく,同一線上に伸びている両極の性質で あり,従って,生産的に生きるためには非生産性 を克服する必要があるということが再確認でき. る。つまり,図の右側の「衰退の症候群」へと向 かう三つのオリエンテーションを克服することに よって,人は図の左側の「成長の症候群」へと, オリエンテーションを向け変えることができると 考えられるのである。では,その克服すべき三つ のオリエンテーションとは,どのようなものであ ろうか。 一つめの「ネクロフィリア」とは, 「死(ネクロ) への愛好(フィリア)」であり,「生きていないす べてのもの,つまり死んでいるすべてのもの,屍 体,腐敗,排泄物,汚物に魅せられ幻惑されてい る46」ことを言う。ではなぜ死を愛好するのかと 言えば,生,すなわち有機体や成長するものは, 予測できず,制御できないがゆえに,それを恐れ るのであると言う。 ネクロフィラスな人は,成長しないものや機 械的なものをすべて愛する。そして又,有機 体を無機体に変貌し,生きているものを物体 であるかのように機械的に接したいという欲 望にかられる。あらゆる生命過程,感情,思 考はすべて物体に変貌される。経験よりは記 憶が,存在よりは所有がここでは重要なので ある。それを所有する場合にのみ花とか人と かを,客体として関与しうるのである。それ 故,自身の所有物に対する脅威は,自身に対 する脅威であり,もし所有できなくなれば外 界と断絶すること,になる。それ故,たとえ 生を失うことにより所有するものが存在しな くなったとしても,所有するものを失うより は生を失う道を選ぶという,逆説的反応が見 られる47。 このことから,ネクロフィリアは前節で見た「持 つ様式」の典型であると考えることができる。あ らゆるものを「所有」したいと望むがゆえに,所 有の対象である物体を好み,さらには,あらゆる ものを物体として扱い,ときには物体に変貌させ ようとするのである。 また,ネクロフィラスな人は,未来よりも過去 を重視し,過去を美化する傾向があるとも言われ る。これも,未来は予測できず,制御できないも のであるがゆえに,それを恐れる反面,過去に持っ ていたもの,または持っていたと信じているもの の記憶にしがみつこうとするのである。 このオリエンテーションが, 「貯蓄的構え」や「市 場的構え」,さらには「搾取的構え」に繋がって いくことは言うまでもない。何かを所有し,さら には人から奪い取るためには,それが物である必. 39.

(11) 古川 雄嗣・宮北 琴子. 要がある。それゆえに,ネクロフィリアは,すべ てのものを物体にして搾取し,所有し,支配しよ うとするのである。かくして,彼らの生きる目的 は生を与えることではなく,生を破壊することで ある,ということになる48。 二つめは, 「悪性のナルシシズム」である。フ ロムによると,ナルシシズムはそもそも人間が 持っているものであり,そこには正常なナルシシ ズムの発達というものがある。つまり,子宮内の 胎児は絶対的で自己充足的なナルシシズムの状態 で生きているが,生まれ出ることによって,変化 する外的世界を認識し,対象を発見するようにな る。ナルシシズムは完全になくなるわけではない が,個人の成長とは,絶対的ナルシシズムから, 客観的な理性と他体愛への進化である。しかしそ の過程が十分ではない場合,成長してもナルシシ ズムの傾向が強く,衰退の症候群に向かう原因と なる。それをフロムは「悪性のナルシシズム」と 呼ぶのである。 ナルシスティックな人の特徴としては,とにか く自分のことが好きということが挙げられる。ま た,それゆえに,優れた他人と関わることを拒否 する,他人の立場が自分の立場とは別であるとい うことを理解できない,自己に対する極端に肯定 的な先入観,つまり,自分は誰よりも美しい,自 分は誰よりも有能である,といった先入観がある ため, 外界に対しての関心がほとんど示されない, などの特徴がある。あるいは,むしろ,ナルシス ティックな人には真の意味での外界は存在してい ないと言ってもよい。 ナルシスティックな人は,自分が世界のすべて だと感じているのであるが,その「自分」は全体 としての自己ではなく,自分のパースナリティの 一部や,自らが作り上げた「自己像」であり,そ れを愛着の対象とすると同時に,その「自分」と 関連のあるすべてのものに対しても同じ愛着を示 す場合がある。また,自らの失敗の事実を認めた り,自らがナルシシズムの対象としているものに 対する他人からの正当な批判を受け入れたりする ことができず,激昂したり,激昂できない場合は 鬱になったり,自分に都合のいいように事実を歪 曲したりすることがある。また従って,自分以外 の他人や自分のものではないものに対して偏見を 持ったり,それを過小評価したりするということ がしばしばある。 このように,ナルシシズムの危険な点は,客観 的認識や合理的判断ができず,客観的に妥当な事 実を歪めてしまうという点にある。そして,自分 が作り上げた自己像や世界像を壊されることを避. 40. けるために,外部からの客観的な認識や批判が自 分に響かないよう,ますますナルシシズムを増大 させる場合がある。この構造に基づいて,悪性の ナルシシズムは負の連鎖を起こして重症化しやす いと考えられる。 なお,ナルシシズムは個人のみならず集団に対 しても向けられる場合がある。自分が所属してい る集団をナルシシズムの対象とするのである。そ れが病理的になると,自分の集団を過剰に美化す る反面,他の集団を過剰に貶めるということが起 こり得る49。 ナルシシズムが良性であるならば,人は自らの 努力の結果として,自分が行った仕事や作ったも のを誇りの対象とする,とフロムは言う。つまり, この種の誇りをもつためには何らかの生産的な活 動が必要であるのである。それに対して,悪性の ナルシシズムの人は,自分が持っている(と信じ ている)ものを愛着の対象とする。つまり,自分 は何かを成し遂げたために偉大であるのではな く,自分が持っているもののために偉大である, ということになる。そうすると,生産的な活動も, 外界との関係も,何らかの努力も,必要なくなる。 そうして次第に現実から遠ざかり,ナルシシズム によって膨れゆく自我が空虚な想像の産物である ことが暴露されないよう,さらにナルシシズムを 充実させて身を守らなければならなくなる。こう して,悪性のナルシシズムは自己制限を加えるこ となく増大し,外界との距離がますます広がり, 外界からの孤立がますます深刻になっていくので ある50。 三つめの「近親相姦的固着」は, 「母なるもの」 に絆を求め,依存することを意味する。これは第 1節で見たように,人間が個人であることの孤独 を克服するために,新たな絆を求めて前進するの ではなく,むしろ第一次的絆へと退行しようとす る動きにほかならない。ただし,文字通りの母親 だけではなく,他人や集団にその対象が置換され ることが多い。 近親相姦的固着によって関係付けられている人 は,その人なくしては生きていけないという依存 状態に陥り,自分と寄主との間に明確な一線を画 すことが難しくなる。さらに,その関係を持続す るうちに,自分と相手が一体であり,混合してい るという感覚にまで陥る。「依存している」とい うことは,自分と相手は分離しており,二人の間 に明確な区分があるということになるが,重症に なると,この区分さえ曖昧になり,従ってこの関 係を「依存している」と表現すること自体が誤り になるまでになるとフロムは言う。.

(12) エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念. この近親相姦的固着が進み,病理的になったと きに現れる弊害は,第一に,事実の歪曲である。 自己が依存している対象(例えば母親)が否定さ れれば,自分自身の存在が否定されてしまう。そ こで,客観的な事実を歪曲し,対象を美化しよう とするのである。第二に,「合理化」と呼ばれる 現象が生じる。合理化とは,自己の行為や状態に 合理的な理由を付けて,それを自分自身に対して 正当化することを意味する。例えば,事実は近親 相姦的固着によって母親に依存している人が,母 に仕えるのは私の義務であると考えたり,国家に 依存している人が,自分は崇高な義務に基づいて 国家に奉仕しているのだと主張したりする場合が それである。このように,近親相姦的固着をさも 道徳的に正しいことであるかのように考えること で,自分自身がその事実を認めることを避けよう とするのである51。 さて,ここまで「衰退の症候群」を構成する三 つのオリエンテーションについて考察してきた が,ここからわかる一つのことがある。それは, この三つのオリエンテーションの本質にはナルシ シズムがあるということである。言い換えれば, ネクロフィリアと近親相姦的固着もまた,ナルシ シズムの一形態であるということである。それは どういうことか。 まず,ネクロフィリアはあらゆるものを物とし て扱うが, それはあらゆるものを物として所有し, 支配することによって,自らのナルシシズムの対 象とできるからにほかならない。また,物は自ら のナルシシズムを傷付けない。生きた人間は自分 の思い通りではなかったり,自分を批判したりす ることもあるが,死んだ人間にはそれがない。ネ クロフィリアが生を恐れて死を愛好するのは,実 は自らのナルシシズムが傷付くことを恐れるがゆ えなのである。 次に,近親相姦的固着について言えば,これが ナルシシズムの一種であることは明らかである。 なぜなら,これは「母なるもの」としての他人や 集団を自らのナルシシズムの対象とすることにほ かならないからである。そもそも,子宮の中の胎 児が,外界の存在しない絶対的なナルシシズムの 状態にあるのであるから,そこへの退行はすなわ ちナルシシズムへの退行である。従ってまた,こ こには事実の歪曲,客観的判断の停止,対象の美 化といった,ナルシシズムと同様の病理が生じる のであり,悪性のナルシシズムと同様の負の連鎖 にも陥るのである。 かくして,衰退に向かう非生産的なオリエン テーションとは,結局はナルシシズムであるとい. うことが明らかとなった52。要するに,様々な「非 生産性」の最も根源にあるものが,ナルシシズム であるのである。 すると,こういうことになる。「愛」と「生産性」 とはほとんど同義であるのであった。そして,実 は「ナルシシズム」と「非生産性」も,ほとんど 同義であると考えてよい。ということは,「非生 産性」を克服して「生産性」を実現するというこ とは,すなわち「ナルシシズム」を克服して「愛」 を実現するということであるのである。かくして, 問題はナルシシズムの克服という一点に集約され る。 ところが,そうすると我々はここで,第1節の 2で示した,フロムの「愛」の思想に関する第二 の疑問,すなわち「愛」と「自己愛」との関係の 問題に帰ってくることになる。ナルシシズムを克 服して愛を実現するということは,「間違った自 己愛」を克服して「正しい自己愛」を実現すると いうことでもある。しかし,それはどういうこと なのか。それはいかにして可能なのか。また,そ もそも両者はそのように截然と区別できるものな のか。最後に残された問題として,この点につい て考察してみよう。 2 ナルシシズムと自己愛 これまでの考察によって,「愛」の実現とはす なわち「非生産性」の克服であり,非生産性の克 服とはすなわち「ナルシシズム」の克服であるこ とが明らかとなった。ところが,このナルシシズ ムの克服という問題についてのフロムの主張は, 実はかなり曖昧であると言わざるを得ない。 例えば,一方では彼は,ナルシシズムはある程 度人間の生存にとって必要なものであると言って いる。 それぞれの個人は自己の肉体的欲求,関心, 欲望に大きなエネルギーが負荷されなけれ ば,どうして生きつづけてゆくことができる のか? 生物学的に生を保持するという見地 からみて,人は他の何人よりもはるかに高い 重要性を自分自身に付与しなければならな い。もしそうでなければ,他人から自己を守 り,自己の存在のために働き,自分の生存の ために闘い,他人の主張に対抗して自己の主 張を貫くエネルギーと関心を,いったいどこ からかれは手に入れるのだろうか?〔中略〕 人間の場合,本能という装置はその本来の能 力をほとんど失っている――それ故,ナルシ シズムは非常に必要な生物学的機能の役割を. 41.

(13) 古川 雄嗣・宮北 琴子. 果たすようになるのである53。 しかも, これは個人のナルシシズムのみならず, 集団のナルシシズムについても同様であるとフロ ムは言う。その場合,血族,国家,宗教,人種な どがナルシスティックな情熱の対象となり,その 情熱は集団の生存のために用いられるのである。 しかしながら,前節で見たように,ナルシシズム は病理的になるとかえって生存にとって脅威とな る。 そこで解決方法としてフロムが提示するのが, 量的に 「最大の」ナルシシズムではなく, 「最適な」 ナルシシズムをこそ,生存に役立つものとして求 めるという方法である。これはつまり,ナルシシ ズムを完全に克服するというわけではなく,あく までも「最適な」ナルシシズムを追求するという ことである。 ところが,他方では彼は,ナルシシズムから完 全に脱却することが人間の完成には必要であると も述べている。 人間の完成は,かれが個人のナルシシズムな らびに集団のナルシシズムから完全に脱却す ることによって成就される54。 そして,そのためには,人間のナルシスティッ クなエネルギーの対象を, 「人類」へと向け変え ることが必要であるとも提案している。 すべての国の教育制度が,それぞれの国の業 績ではなく,人類全体の業績だと強調するこ とができれば,より自覚的・感動的状況が人 間であるという誇りによって生まれるであろ う55。 国際連合が強化され,集団間の闘争が理性的 かつ平和的に解決されることが,人間愛とそ れにより生ずる共通の仕事が集団ナルチシズ ムの対象となるための必要条件である56。 ナルシシズムの対象を特定の個人や集団から, 人類すなわちすべての人間へと向け変えること で,ナルシシズムからの脱却を目指そうと言うの である。また,同時に彼は,教育の重点を技術的 な方向から科学的な方向に変更しなければならな いということも主張している。それは,ナルシス ティックな人に欠けている批判精神や客観性,理 性, 現実の直視といった力を育てる教育によって, ナルシシズムからの脱却を目指すべきである,と いうことであろう。. 42. このように,ナルシシズムの問題に関するフロ ムの主張には,明らかな矛盾や曖昧な点が見受け られる。改めてまとめてみよう。 第一に,生存のために「最適な」ナルシシズム が必要であるのか,それともナルシシズムは「完 全に」克服され,脱却されるべきものであるのか が,不明瞭である。第二に,もし「最適な」ナル シシズムが必要であるのであれば,具体的に何を もって「最適な」量と言うのかが,よくわからな い。そして第三に,もしナルシシズムがあくまで も克服・脱却すべきものであるとしても,提示さ れているその方法があまりにも現実的ではないよ うに思われる。ナルシスティックなエネルギーを 人類全体に向けるなどということが本当に可能な のか。あるいは,仮に可能であるとしても,その ときにはそもそもナルシシズムという概念そのも のが成立しないのではないか。この点に関しては, ゲルハルト・P・ナップも次のように批判してい る。 もし全人類が,特定の人種や国家や政治体制 の代わりに,集団的ナルシシズムの対象に なっていたなら,状況は劇的に変わっただろ う。ナルシスティックな集団行動に固有な, 攻撃的傾向は阻止されたし,その可能性とし て,国家を越え,すべてを包みこむような人 類の生産的な固着がそれにとって代わること ができただろう。しかし,このようなばあい には,ナルシシズム自体がもはや存在しない だろう。それは,「不合理な」権威が「合理 的な」教えに道を譲ったように,ヒューマニ ズムによって置き換えられるだろう。だから, フロムの議論は妥当なものではない。つまり, 彼の解決は,言葉上の矛盾に依っている。さ らに言えば,ナルシシズムの存在が,リビドー 的な固着に,そのような変化をさせないだろ う。同様に,「全ての国の」教育機関が,あ る特定の国の偉大さや栄光の代わりに,上記 のような人類の業績を強調すべきであるとい うフロムの提案は,どうみてもユートピア的 である57。 このナップの批判を本稿も共有する。フロムは 別の解決方法として,ヒューマニズムの哲学と人 類学を教育することも主張している。人類の中に あるあらゆる哲学的・宗教的差異がなくなること は期待できないが,共通のヒューマニズムと信条 は存在し, 「人間の条件」は万人にとって同一で あるから,それを教育すべきであると言うのであ.

(14) エーリッヒ・フロムにおける「愛」の概念. る。しかし,これもまた,「どうみてもユートピ ア的である」と言わざるを得ないであろう。 概して, フロムの思想は,現代社会の負の側面, すなわち非生産性の分析は極めて克明で説得的で ある一方, その解決策となると,途端に曖昧でユー トピア的になる傾向が否めない。結局彼は,人間 の性格やオリエンテーションが社会の構造に影響 される以上, 人間が非生産性を克服するためには, まず社会の変革が必要であると考えているように 思われる。このことを彼は, 『悪について』のほか, 『希望の革命』 (1968年)や『破壊』(1973年)な どでも繰り返し主張している58。しかし,それこ そ「革命」によって一挙に社会が変革されること を別にすれば,社会を作り,社会を変えるのもま た人間である以上,まずは人間が,つまり私たち 一人ひとりが,いかに非生産性を克服し,生産的 な生き方を実現していくことができるかを,いわ ばよりミクロな視点で,より実践的に考えていく ことのほうが先決であるように思われる。ここに, フロムの思想を実践的な教育学へと展開させてい くことの必要性が見えてくる。 そしてその場合,ナルシシズムの「完全な」克 服を目指すというよりも, 「最適な」ナルシシズ ムのあり方を考え,それを目指していくことのほ うが,はるかに現実的であり,またフロム自身の 論にも則った考え方であるように思われる。と言 うのは, すでに前項で見たように,フロム自身も, ナルシシズムには「正常な」発達の過程があると いうこと,その過程においてもナルシシズムは完 全になくなるわけではないということ,そして何 より,生産的な活動に基づく「良性の」ナルシシ ズムがあるということを,はっきりと認めている からである。問題は,あらゆるナルシシズムを完 全に克服するという「ユートピア的」な目標を追 求することではなく,いかにナルシシズムの「正 常な」発達を援助し,それが「悪性の」ナルシシ ズムへと「衰退」することを防ぐか,あるいは, もしすでに「悪性の」ナルシシズムに陥っている のであるとすれば,それを「良性の」ナルシシズ ムへと転換することを,いかに援助することがで きるかであると思われる。 では, 「良性の」ナルシシズムとは何であろうか。 それが自己の生産的な活動の結果に対する「誇り」 であると表現されていたことに注意すべきであろ う。明らかに,これは第1節の2で見た,「利己 主義」とは正反対の「自己愛」にほかならない。 フロムはこう述べていた。「自分自身の人生・幸 福・成長・自由を肯定することは,自分の愛する 能力, すなわち気づかい・尊敬・責任・理解(知). に根ざしている。もしある人が生産的に愛するこ とができるとしたら,その人は自分自身をも愛し ている。もし他人しか愛せないとしたら,その人 はまったく愛することができないのである59」。 自分自身の愛する能力に根差した自己肯定,つま り,自分は誰かを愛し,何かを生産することがで きたということに対する「誇り」は,「良性の」 ナルシシズムなのである。それは「正しい自己愛」 であり,その意味での自己愛は他人を愛すること ができるための基盤であるとさえフロムは述べて いたのであった。 それに対して,「利己主義」は,自分自身の愛 する能力とそれに対する肯定が欠如しているがゆ えに,何か・誰かを「所有」することによって, その欠如を埋め合わせようとするのである。明ら かに,これは「悪性の」ナルシシズムと同義であ る。 以上の考察から,「孤独」を克服し,「愛」を実 現するための教育実践は,「悪性の」ナルシシズ ムとしての利己主義の克服と,「良性の」ナルシ シズムとしての自己愛の獲得を目標とすべきもの であることが明らかとなった。そしてそれは,結 局は自己肯定の問題である。一口に自己肯定と 言っても,いわば,誤った・悪性の自己肯定と, 正しい・良性の自己肯定とがあるのであり,後者 を実現するためには,まず前者を克服する必要が あるのである。であるとするならば,いわゆる「自 己肯定感を育む教育」と称して,その実,誤った・ 悪性の自己肯定を助長してはいないか,我々はよ くよく注意する必要がある。もしそうであるなら ば,そのとき我々は,「愛」の実現を阻害し,子 どもたちをますます「孤独」へと追いやっている ことになる。善かれと思ってなされる教育実践が, かえって事態を悪化させてしまうのである。 重要なことは,ただ闇雲に「自己肯定感を育む」 ことではなく,正しい・良性の・生産的な・「あ る」ことに基づく自己肯定感と,誤った・悪性の・ 非生産的な・「持つ」ことに基づく自己肯定感と を,教育者がまずはっきりと識別し,前者を実現 するために,まずは後者からの脱却を意図するこ とである。これが,本稿におけるフロムの「愛」 の思想に関する考察から得られた,教育学的示唆 である。とりわけ,悪性のナルシシズムが圧倒的 に優勢となっている現代社会にあっては,この脱 却を図る教育実践は,決定的に重要な意味を持つ はずである。. 43.

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