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学位論文審査要旨

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学位請求論文審査要旨

Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、古典論理学(Prācīnanyāya)と決別し、新論理学(Navyanyāya, 新 ニ ヤ ー ヤ )の 基 礎 を 築 い た ガ ン ゲ ー シ ャ・ ウ パ ー デ ィ ヤ ー ヤ(Gaṅgeśa Upādhyāya, 1320 年頃)の解脱論を、彼の主著『タットヴァ・チンターマニ (Tattvacintāmaṇi, 真理の如意宝)』の「解脱論」の箇所を解読することを通して、 明らかにしようとするものである。 解脱論はインド思想のなかの最重要なテーマであるが、問題は多種にわた る。「解脱とは何か。苦の滅か、楽なのか」、「解脱の達成手段は何か。知識 なのか、行為なのか、それともその併合なのか」、「解脱の認識手段は何か。 聖言なのか、知覚なのか、推理なのか」「生前解脱は可能か」、「解脱のプロ セスに必要なものは何か」などであり、それらに関連して、天啓聖典、認識 氏 名

や ま

 本

も と

  和

か ず

 彦

ひ こ 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 乙第 65 号 学位授与の日付 2012 年 12 月 24 日 学位授与の要件 学位規程第 3 条第 2 項 学 位 論 文 題 目 インド新論理学の解脱論 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 兵 藤 一 夫 (副査)大谷大学教授 宮 下 晴 輝 (副査)大谷大学教授 門 脇   健 (副査)信州大学教授 茂 木 秀 淳

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手段、推理知、真理知、ヨーガ、ダルマなどが語られる。 解脱やダルマの考察は、バラモン思想諸学派(サーンキヤ、ヨーガ、ニヤー ヤ、ヴァイシェーシカ、ミーマーンサー、ヴェーダーンタの諸学派)に共通するも のであり、ミーマーンサー学派やヴェーダーンタ学派などバラモン思想の正 統派だけに特有のものではない。ただ、正統派と非正統派とを分けるもの は、ヴェーダなどの天啓聖典に対する態度である。前者は天啓聖典を絶対的 なものとするのに対し、ニヤーヤ(論理)学派などは天啓聖典の所述の妥当 性をさらに推理という別な認識手段で検証するのである。 本論文で扱うニヤーヤ学派(新ニヤーヤ学派を含む)の解脱論は、正統派の ミーマーンサー学派のように解脱の達成手段として祭式行為を重視するのと は異なって、智を重視する。『ニヤーヤ・スートラ』(紀元後 150 年頃)では、 伝統的な解脱論と世俗的な認識論・論理学が併せて語られており、解脱とい う目的の手段として真理知(tattvajñāna)が位置づけられている。 この聖と俗との重層性をどう考えるかについて、俗(認識論・論理学、範疇 論)から聖(解脱論)への時間的な流れがあると想定する先行研究がある。 例えば、ヴァイシェーシカ学派(ニヤーヤ学派の姉妹学派)の『ヴァイシェー シカ・スートラ』の原型は、範疇論であり、解脱論は後代の付加であるとい う考えである。しかし、著者はここでは異なった見解をとっている。それは 世俗的なカテゴリー論と聖なる学問である解脱論とは『ヴァイシェーシカ・ スートラ』成立当初から重層的に併存していたという見解であり、さらに 『ニヤーヤ・スートラ』に関しても世俗的な認識論・論理学と聖なる解脱論 とは成立当初から併存していたとするものである。 以上のような基本的な立場に立って、本論文は新論理学派の解脱論、特に その学派の主要な人物であるガンゲーシャの解脱論、を明らかにしようとす る。本論文の構成と内容は次のとおりである。 序論 第一部 論理学派における解脱論

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40 (学位論文審査要旨) 第 1 章 論理・勝論学派の解脱論の歴史 第 2 章 『ニヤーヤ・スートラ』の解脱論 第 1 節 序論 第 2 節 先行研究 第 3 節 分析 第 4 節 解脱の定義 第 5 節 真理知の内容 第 6 節 解脱のプロセス 第 7 節 真理知の発生 第 8 節 まとめ 第 3 章 ウダヤナの解脱論 第 1 節 序論 第 2 節 先行研究 第 3 節 ヴァイシェーシカ学派の解脱論 第 4 節 『キラナーヴァリ−』の解脱論 第 5 節 まとめ 第 4 章 シャシャダラの解脱論 第 1 節 序論 第 2 節 知行併合論 第 3 節 対論者の解脱論 第 4 節 生前解脱と究極の解脱 第 5 章 ガンゲーシャ解脱論 第 1 節 序論 第 2 節 『タットヴァ・チンターマニ』の構成 第 3 節 解脱の定義 第 4 節 解脱のプロセス 第 5 節 苦滅論 第 6 節 知行併合論批判

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第 7 節 対論者の解脱定義 第 8 節 まとめ 第 6 章 結論 第二部 『タットヴァ・チンターマニ』「解脱論」テキスト・科文・和訳 第 1 章 テキスト 第 2 章 科文 第 3 章 和訳 参考文献 本論文の第一部では、第 1 章でニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の解脱論 の 歴 史 を 概 観 し た 後、 第 2 章 で ニ ヤ ー ヤ 学 派 の 開 祖 で あ る ガ ウ タ マ (Gautama)の『ニヤーヤ・スートラ』を分析し、それが解脱論と認識論・論 理学の二つの層から成り立つことを示し、解脱は教説に基づくヨーガの実修 によって真理知が生ずることで達成されることを明らかにする。 第 3 章では、旧来のニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の立場を総合した最 終段階の人物で、ガンゲーシャの批判対象とされるウダヤナ(Udayana, 10 世 紀または 11 世紀頃)の解脱論を彼の主著『キラナーヴァリー』に基づいて検 討している。そして、彼の解脱論の特徴はヴァイシェーシカ学派のダルマに 基づく解脱論を知行併合論に移行させたこと、を明らかにする。 第 4 章では、ガンゲーシャの直前に位置し、新論理学派の先駆をなす人物 であるシャシャダラ(Śaśadhara, 1300 年頃)の解脱論を彼の主著『ニヤーヤ・ シッダーンタ・ディーパ』に基づいて検討している。そして、シャシャダラ はさまざまな学派の解脱の定義(合計で 16 に及ぶ)を示して批判する中で 「解脱は絶対的な苦の滅である」とのニヤーヤ学派のそれを支持しているこ と、生前解脱と究極解脱の区別をしていること、を著者は明らかにする。 第 5 章では、本論文の主要な内容となるガンゲーシャの解脱論を、彼の主 著『タットヴァ・チンターマニ』第 2 章末尾の「解脱論」の箇所に基づきな がら考察している。ガンゲーシャは、人間の目的は解脱であり、その解脱と

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42 (学位論文審査要旨) は苦の滅であることを示した後、次のような解脱へのプロセスを明らかに する。 ①天啓聖典を聴聞(アートマンは身体と異なる、梵我一如など)する。 ②天啓聖典の内容を“推理”する。 ③推理の内容をヨーガによって直接体験する。 ④ヨーガから純粋なダルマが発生する。 ⑤純粋なダルマが真理知を生起させる。真理知が誤知を滅する。 ⑥過失の滅。 ⑦活動の滅。 ⑧出生の滅。 ⑨苦の滅=解脱である。 『タットヴァ・チンターマニ』では、解脱論が第 2 章「推理」の末尾に置 かれことの意味を含めて、解脱において“推理”が重要な役割を担ってい る。“推理”という認識手段は、ディグナーガ以降、自分のための推理と他 者のための推理(論証)の二つに分けられるが、ここではその両方ともが大 きな役割を担っている。先ず、解脱へのプロセスでは、苦の滅に直結する最 も重要な段階は③∼⑤の推理の内容をヨーガによって生じた“直接知覚”で ある「真理知により誤知を滅すること」であるが、それに至る②段階(聴聞 した天啓聖典の内容を推理する)では“推理”(ここでは自分のための推理)が重 要な手段として組み込まれ、推理の役割が明確に示されている。また、人間 の目的は解脱とされるが、「解脱とは苦の滅である」との正しい定義が決択 されるのは他者のための推理(論証)に基づくのであり、ここにも解脱に関 して推理が重要な役割を担っていることが認められることを指摘する。 第二部では、ガンゲーシャの著作である『タットヴァ・チンターマニ』第 2 章「推理」の最終部分にあたる「解脱論」のテキスト校訂、科文、和訳が なされる。当該「解脱論」の解読研究はこれまでなされておらず、本論文は その最初のものである。

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Ⅱ.論文審査結果の要旨 本論文は、インド六派哲学の一つであるニヤーヤ(正理、論理)学派の流 れを汲むナヴィヤ・ニヤーヤ(新論理)学派の解脱論を論じたものである。 新論理学派の解脱論の研究は少ないが、その中でも、新論理学派の中心的な 人物であるガンゲーシャの主著『チンターマニ』に基づく研究はこれまでほ とんどなく、本論文がガンゲーシャの解脱論の一端を解明したことは意義あ るものであり、今後の研究の本格的な端緒となり得るものと評価される。 本論文において最も評価できることは、先に論文内容の要旨の第 5 章にお いて述べたように、 ・ 解脱に関する多くの定義の中で、他者のための推理(論証)によって 「解脱は苦の滅である」と決択したこと、 ・ 解脱に至るプロセスが明らかにされ、その中における自分のための推理と 直接知覚(ヨーガに基づく真理知)の役割や位置づけが明確にされたこと、 を示したことであろう。ただ、そのことについての著者の表現の仕方が簡潔 であるため、著者の理解が十分に伝えられていないようにも思われるので、 もっと丁寧に説明をする必要があったであろう。このことは、ガンゲーシャ 自身の重要なことばであり、本論文でも重要なものとして扱われている「推 理の究極的な目的は解脱である」ということに関しても言えることである。 ところで、この解脱のプロセス、すなわち天啓聖典を聴聞し、聴聞した内 容を推理し、推理したものをヨーガによって直接知覚することは、仏教の 聞・思・修(ヨーガ)所成の智慧が次第して生じて覚りの智慧に至るとする ものに酷似している。今後は仏教を含めて、他学派からの影響の可能性を検 討する必要があるかも知れない。以下、論文の内容に沿って、気づいた点を 幾つか述べておく。 本論文第一部、第 1 章では、ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派における解 脱論の歴史が概観されているが、もう少し詳しい説明がなされてもよい。 第 2 章は、大旨妥当ではあるが、『ニヤーヤ・スートラ』における「至福」 と「解脱」の語の意味については、ヴァイシェーシカ学派の「繁栄」という

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44 (学位論文審査要旨) 語との関係も含めて、もっと踏み込んで説明することが求められる。 第 3 章では、ウダヤナの解脱論が述べられるが、彼は旧来のニヤーヤ・ ヴァイシェーシカ学派の立場を総合した最終段階の人で、彼の見解を確認し ておくことは重要である。本章の説明も大旨妥当なものであろう。 第 4 章では、シャシャダラの解脱論が述べられる。彼は新論理学派の先駆 をなす人で、ガンゲーシャの思想を研究する場合はその検討は不可欠である が、本章での考察は全体的に見て不十分である感が否めない。特に、シャ シャダラが対論者の解脱定義を列挙して順次に批判する箇所は、ガンゲー シャのそれと重なる箇所も多いので第 5 章と重複することにもなるが、その ことを考慮した上で、両者を関連づけながら論ずる工夫が必要であろう。 第 5 章では、ガンゲーシャの解脱論が解説されるが、大筋では妥当な論述 であろう。ただ、『タットヴァ・チンターマニ』の構成(科文)を示す際に、 第 2 章「推理」の最後に「解脱論」が置かれている意味をもう少し詳しく説 明し、その次に、「解脱論」の科文(第二部の和訳の中で示されるもの)を提示 しておくべきであろう。また、第 3 節「解脱の定義」は、語義に沿ったもっ と丁寧な説明が必要であろう。特に、著者はガンゲーシャの解脱の定義は シャシャダラにおいては批判されていたものであるとしているので、両者を 関連づけてのより詳しい説明が必要であろう。 本論文第二部では、『タットヴァ・チンターマニ』の解脱論のテキスト・ 科文・和訳が示されている。当該和訳に関しては、訳語の不統一、訳文の意 味の不明瞭さや一部に誤訳などが見られるものの、現在のところ英訳等もな く初めての現代語訳であり、本論稿の重要な成果の一つとして評価される。 以上のように、本論文には考察や論述の仕方などに問題点や不十分な点も 見られるが、全体としては、新論理学派の主要人物であるガンゲーシャの 『タットヴァ・チンターマニ』に基づいて彼の解脱論に関する重要な部分が 解明されるなど、幾つかの新たな研究成果が認められる。 審査に必要とされる最終試験および語学試験については、審査委員全員に

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より 2012 年 9 月 18 日に試問を行なった。その結果、審査委員一同一致し て、山本和彦に大谷大学博士(文学)の学位を授与することが適当であると 判断した。

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学位請求論文審査要旨

Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、大乗仏教を一貫する菩提心論、つまり上求菩提・下化衆生の課 題から日本浄土教を見直し、その課題に応えた仏道こそ親鸞の『教行信証』 であると、論証したものである。その意味では、菩提心という観点から親鸞 の仏道の積極性を、大乗仏教という大きな土俵の中に位置づけ直したとい う、筆者独自の視点を持つ論文である。 論文の方法論を序章で筆者は、清沢満之の「自信教人信の誠を尽くす」等 の言葉に注目し、そこに大乗仏教の菩提心の表現があると見ている。清沢の 信心は「世界的統一的文化の原造者」とか「世界人類の安心を求めんと期す る源泉」という言葉が示すように、宗門の枠を超えた人類の課題を直接見据 えている。その生きた信心を、清沢は先のように菩提心として表現するのだ 氏 名

ふ じ

 原

わ ら

   智

さとる 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 99 号 学位授与の日付 2013 年 3 月 15 日 学位授与の要件 学位規程第 3 条第 1 項 学 位 論 文 題 目 親鸞の菩提心観 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 延 塚 知 道 (副査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 安 冨 信 哉

(副査)大谷大学教授 Ph.D.[Harvard University] Robert F. RHODES (副査)同朋大学教授 博士(文学)[大谷大学] 尾 畑 文 正

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から、他力の信心の内実を明らかにするという清沢の方法論に倣って、論を 進めたいと筆者は表明している。 そのため、清沢に從って「我々に於いて最大事件なる自己の信念の確立」 という回心の体験に立つかいなか、換言すれば、本願の仏智に立つのか理性 の分別に立つのかを、常に念頭に置き区別しながら論を進めようとしてい る。その方法論が、論文全体に貫徹されているかどうかは問題があるにして も、清沢の仏道観に立って親鸞の『教行信証』を菩提心の観点から考えたい という筆者の姿勢は、評価に値する論文であると思われる。この筆者の姿勢 が成功している点は、源信の『往生要集』、法然の『選択集』、さらには『観 経』の三心釈その他を、親鸞の自力無効に立った本願の成就から照射し直し ている所にある。そこに露わになる人間の課題に応えるものは、一言で言え ば阿弥陀如来の本願力しかない。「如来回向の故に菩提心」という親鸞の表 現は、本願力回向の信心によって人間の問題が解けたということであり、そ こに大乗仏教の極致があることを、浮き彫りにしようとしている論文である。 各章は、以下のようになっている。 序章 研究の視点―清沢満之の求道を通して― 第一節 清沢満之の求道的関心 第二節 研究の課題 第一章 浄土教と菩提心―源信『往生要集』を通して― 第一節 親鸞と叡山浄土教 第二節 叡山浄土教の興起 第三節 『往生要集』の念仏論 第四節 『往生要集』の菩提心論 第二章 法然の菩提心観 第一節 法然の活動とその影響 第二節 選択本願の念仏 第三節 法然の菩提心観

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48 (学位論文審査要旨) 第四節 法然の残した課題 第三章 親鸞の菩提心観 第一節 親鸞の思想的営為 第二節 回向の信心 第三節 『観経』の三心解釈―顕彰隠密の義― 第四節 三心一心問答 第五節 菩提心釈―二双四重の判釈― 第四章 菩提心が開く仏道 第一節 摂取不捨と金剛心 第二節 金剛心の行人―教化の志願― 第三節 知恩報徳―第二十願の課題― 第一章では、親鸞や法然の思想的背景として叡山浄土教について論じてい る。その中心となる、源信の『往生要集』の念仏論を考察し、そこに述べら れる念仏と菩提心の関係を明らかにしている。その上で、『往生要集』で菩 提心が「浄土菩提の綱要」とされている意義を考察している。 第二章では、法然の主著『選択集』の思想について、特に源信が「浄土菩 提の綱要」とした菩提心を廃捨する法然の愚の自覚について、力を込めて考 察している。そしてそれを批判した明慧の『摧邪輪』を検討し、その上で、 親鸞が菩提心に見据えた課題が、『大経』と『観経』の三心をどのように了 解するかという点にあったことを、尋ねている。 第三章では、『教行信証』「信巻」を中心に、源信と法然を通して見出され る課題に、親鸞がどのように答えていったのかを考察している。特に三心一 心問答を中心にして、親鸞が、念仏の信心こそ菩提心であると言い得る原理 として如来回向を論じていると指摘している。そして菩提心について行う二 双四重の判釈について、「横出」と位置づけられる「他力の中の自力の菩提 心」こそ、親鸞が課題としていた事柄であると尋ねている。 第四章では、親鸞が述べる如来回向としての菩提心がどのような仏道を展

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開するのか、『教行信証』「信巻」の真仏弟子釈を中心に尋ねている。まず親 鸞が菩提心と共に語る金剛心について、それが如何なる自覚内容を持つのか を考え、その金剛心の利益として「常行大悲」を語る意義を考察している。 さらに真仏弟子釈と表裏の関係として、「化身土巻」での第二十願の思索が あることを指摘し、菩提心の探求が終にはこの第二十願に極まっていくこと を論じている。そして最後に、親鸞の語る仏道は機の深信の徹底にあり、本 願力の回向成就に浄土の大菩提心があることを結論としている。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 本論文は文章も分かりやすく、筆者の菩提心という問題意識で一貫され、 博士論文としては十分な研究量も備えていてよくまとまった優れた論文であ る、それが審査員全員の感想であった。論の焦点は、以下のように絞ること ができよう。 そもそも大乗の仏道は、菩提心によって仏の覚りを獲得するということが 前提である。叡山浄土教の代表である源信の『往生要集』でも、それが「菩 提心は、是浄土菩提の綱要」と表現される。ところが法然が『選択集』で、 自力の菩提心を廃捨したために聖道門との思想的な戦いになっていった。そ れを受けて書かれた親鸞の『教行信証』は、本願力回向の他力の信心だから こそ「横の大菩提心」であると、本願力という視点から積極的に菩提心の問 題を捉え直し、大乗の課題が他力の信心だからこそ十全に果たされると、主 張するのである。このようにこの論文は、親鸞の『教行信証』特に「信巻」 の「菩提心論」を、大乗菩薩道の課題から照射し直し、そこに大乗の極致と しての意義を見ようとするものである。それに際して筆者は、中国の善導、 日本の源信、源空、さらに『選択集』を批判した明恵の『摧邪輪』、比叡山 の思想状況等を踏まえて、以上の趣旨を論証しようとしたスケールの大きな 論文である。比叡山仏教の持つ課題、『選択集』の担っていた課題、それを 止揚した親鸞の『教行信証』の課題をよく捉えて、親鸞の仏道を大乗の土俵 の中で明らかにしようとした力作である。

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50 (学位論文審査要旨) しかしいくつかの問題点も指摘されたので、以下それを纏めてみたい。ま ず形式的なことから挙げると、親鸞の菩提心論に至るまでの思想史的な展開 が主たる内容となっているのだから、『親鸞の菩提心観』という論題に、サ ブテーマを付けた方がよかったのではないか。また「まえがき」と「あとが き」を付けて、本論文の課題と問題意識を前書きに記し、書き切れなかった 問題とこれからの研究課題を後書きに記すべきではないか、という指摘が あった。さらに序章の「研究の視点―清沢満之の求道を通して―」は、筆 者の仏道に対する姿勢や論文の方法論に関することであるから、「まえがき」 に入れるべきではないか。あえて筆者が序章とした為に、大乗の菩提心の問 題が、清沢満之の個人的な菩提心と勘違いされる恐れがあるという指摘が あった。 内容について、第一章では比叡山の思想を『摩訶止観』の常行三昧等を押 さえながら論述しているが、叡山浄土教と言うのならば『観経』の九品往生 等の幅広い視野が必要ではないか。比叡山の思想状況については、筆者が下 敷きにしている園田香融氏の説が一応定説とされるが、吟味が必要との指摘 を受けた。第二章では法然の回心は転回点として重要ではあるが、それ以前 の比叡山の思想的な影響も視野に入れるべきではないか。第三章では、『教 行信証』の「信巻」を「証大涅槃」と「菩提心論」だけで読み通せるであろ うか。『観経』の三心釈や二双四重の教判で、第十九願、第二十願の機の問題 が論述されるが、親鸞の場合は菩提心という視点だけではなく、やはり往生 という文脈と重層的に考える必要があるのではないか。第四章で第二十願の 課題が論じられるが、この問題も親鸞の思想からすれば往生という仏道観を 無視できないのではなかろうか等々の指摘があり、活発な意見が交わされた。 筆者は本論文を枚数制限内に収めるために、相当の部分を割愛した。その ために言葉足らずの点があること、さらに親鸞の思想を菩提心論だけで見通 せないであろうことは、十分に承知している。ただこれまでのように往生と いう視点だけで親鸞の思想を理解するだけでは、菩提心の視点が必然的に弱 くなる。親鸞思想を証大涅槃と了解して、菩提心の積極的な意味を明らかに

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したかったということであった。 以上のように、本論文は、源信の『往生要集』、法然の『選択集』、親鸞の 『教行信証』に渡る浄土教の思想の中で、菩提心の了解について異なる点と 共通の点を明確にしながら論を進めている。浄土教の菩提心について源信は 肯定的であるが、法然は否定的である。その大きな要因は、『観経』の三心 釈の了解による。愚の自覚に立って「順彼仏願故」という本願の信に裏打ち された称名念仏、それ一つで浄土教の独立を果たした法然は、非難を覚悟で 敢えて菩提心を否定した。しかし法然が残した課題は、自力を表す『観経』 の三心と他力の信を表す『大経』の三心との関係、これが親鸞の二双四重の 教判として受け継がれ明らかにされる。もう一つ法然の残した課題は、「本 願力回向」という問題であるが、これに答えたのが「信巻」の「三一問答」 である。親鸞は本願力回向の信心を、「横の大菩提心」、「如来回向の故に菩 提心」と表明して、大乗の菩提心の持つ人類の課題が本願力によって充全に 答えられていると、表明している。その親鸞の本願史観によって、逆に法 然、源信を見返せば共通の本願に立っていると、そこには異なる面と共通の 面があることを善導教学を背景にしながら論述している。 筆者独自の視点、論述の明快さ、充分な研究量からいって博士論文として 認められる論文である。審査に必要とされる最終試験については、審査員全 員により 2013 年 1 月 9 日に試問を行った。その結果、審査員一同一致して、 藤原 智に大谷大学博士(文学)の学位を授与する事が適当と判断した。

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学位請求論文審査要旨

Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、インド中期中観学派のチャンドラキールティ(Candrakīrti、ca. 530–600)の主著『入中論』(Madhyamakāvatāra/-bhāṣya)を中心テキストとして、 彼の修道論の解明を目的とする。中観学派は瑜伽行学派と異なり明確な実践 道が見えないと言われてきたが、『入中論』は『十地経』(Daśabhūmikasūtra) の十地の菩薩階梯に基づいて著されたもので、中観学派のチャンドラキール ティが菩薩の修行道を説き示しており、その意味でも興味深い文献である。 ところが従来の先行研究の多くは、チャンドラキールティが『入中論』で示 している菩薩階梯の特色というものを十分に確認しないまま議論を進めてい る。そこで本論文で筆者は、『入中論』において第六地を中心とした菩薩階 氏 名

お お

 田

  蕗

ふ き

 子

学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 100 号 学位授与の日付 2013 年 3 月 15 日 学位授与の要件 学位規程第 3 条第 1 項 学 位 論 文 題 目 『入中論』における菩薩の十地思想 ― 大乗教義学に見られるもう一つの修道論 ― (副 論 文) 『入中論』第 1 章、第 3 章、第 7 ∼ 13 章の翻訳研究 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 兵 藤 一 夫 (副査)大谷大学教授 宮 下 晴 輝 (副査)龍谷大学教授 Ph.D.[トロント大学] 文学博士[京都大学] 桂   紹 隆

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梯が描かれる背景を『十地経』との関係を辿りながら検討し、チャンドラ キールティの大乗菩薩道を明らかにしようとするのである。 本論文の構成は次のようである。 序論 1.チャンドラキールティと主著『入中論』について 2.問題の所在 本論 第 1 章 『入中論』第六地の行道とチャンドラキールティの縁起解釈 1.はじめに 2.『入中論』における初地の菩薩 3.『十地経』第六地―十二支縁起と唯心― 4.『入中論』第 6 章における縁起観察 5. 法無我―事物は「これを縁とすることのみ」として成立している にすぎない― 6.人無我―自我は依存して想定されたにすぎない― 7.まとめ 第 2 章 『入中論』の菩薩階梯における滅尽定 1.はじめに 2.阿含・ニカーヤにおける想受滅定(滅尽定) 3.有部の修道論における滅尽定 4.『入中論』における滅尽定 5.『十地経』における滅尽定 6.ナーガールジュナが示す菩薩の十地と滅尽定 7.『入楞伽経』における滅尽定 8.まとめ 第 3 章 『入中論』に説かれるチャンドラキールティの仏陀観 1.はじめに

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54 (学位論文審査要旨) 2.チャンドラキールティによる仏陀の徳性 3.無顕現の対境を有する仏陀が真実を知るあり方 4.チャンドラキールティの仏身論 5.仏陀と慈悲 6.チャンドラキールティの菩薩階梯と受用身の関わり 7.まとめ 結論 Appendix I 『入楞伽経』第 4 章「現観の章」試訳 副論文 『入中論』第 1 章、第 3 章、第 7 ∼ 13 章の翻訳研究 先ず第 1 章では、チャンドラキールティが、第六地を中心とする菩薩階梯 を描いた背景を、彼が依拠した『十地経』第六地の記述を確認しながら検討 し、その上で、『入中論』第 6 章における第六地の菩薩の行道を明らかにし ている。『十地経』の第六地では、菩薩が十二支縁起を観察し、一切法を無 我であると理解し、空・無相・無願の三三昧を体得し、般若波羅蜜行を現前 化するという次第が説かれているが、このことは『十地経』自体が十地の菩 薩階梯の中で第六地を、真実を現証し般若波羅蜜を現前化する重要な段階と して位置づけていることを示している。『入中論』は、その『十地経』第六 地の次第を受けて、縁起を見る段階とされる第六地に、チャンドラキール ティ自身が縁起を説く論書ととらえている『中論』の縁起の理解の仕方を持 ち込み、第六地の菩薩の行道の内容とするのである。そして、第 6 章では、 法無我を四不生の論理によって考察し、人無我を五種あるいは七種の考察に よって観察し、世俗的な事物は無我(無自性)なる「縁起」という仕方でし か成立し得ないという結論を導き出している。このように、チャンドラキー ルティが第六地を要とする瑜伽行派と異なった修道論を立てるのは、『十地 経』の記述に忠実に従った故である。しかし、瑜伽行学派の菩薩の修道論が すでに完成していた時代に、チャンドラキールティの構築した菩薩道は大乗

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仏教の教義学としては異色のものとなっている。 また、チャンドラキールティは、菩薩と声聞・独覚の差異に関しても、瑜 伽行学派とは異なった独自の立場を示している。瑜伽行学派では種姓を重視 し、菩薩の種姓に属する者は、声聞・独覚の種姓には覚り得ない法無我を理 解するとされる。一方、チャンドラキールティは『入中論』の十地の次第の 中で、声聞・独覚にも人無我理解の前提として法無我の証得を認める所説を 展開している。そして、第六地の行道の中で菩薩は、声聞・独覚を凌駕する 智慧を得て、第七地で完全に般若の力によって彼らを凌駕する。その際、菩 薩には円満に理解される法無我が声聞・独覚にとっては完全には理解されな いと述べて、両者を区別している。ここで菩薩と声聞・独覚との智の差を生 み出す一番大きな要因は、種姓ではなく利他行をなす慈悲の有無とされる。 無自性を体得する菩薩の智慧は、その慈悲によって支えられているため法無 我を円満に理解できるが、声聞・独覚の智慧はそのような慈悲を欠いている ことから法無我を円満に理解することができないため、第七地において、菩 薩に凌駕される。このように、チャンドラキールティは、『入中論』におい て菩薩の根本の不可欠な徳性は慈悲であるとし、慈悲に基づく行道が十地の 菩薩階梯を特徴づけているとするのである。 このことは、第 2 章で、『入中論』の菩薩階梯における滅尽定を考察する ことからも確認される。『入中論』では、『十地経』に基づいて菩薩が第六地 において最終的に獲得する徳性として、滅尽定を得ることが述べられる。滅 尽定はチャンドラキールティによって、真如・実際(bhūtakoṭi)に入定する こと、戯論寂滅の境地として定義される。すなわち、チャンドラキールティ は、真実の直証を滅尽定の獲得と同一視しているのである。その際、『入中 論』では、第六地で菩薩が仏陀の真実を証得して滅尽定を現証するが、そこ に止住するのではないとされる。そのため、第七地では、刹那ごとに滅尽定 への入出定を繰り返すと言われ、第八地では、菩薩が滅尽定に入定したまま でいると、諸仏が滅尽定より菩薩を呼び起こすと説かれる。すなわち、第六 地で縁起を観察し真実を証得した境地である滅尽定を得た菩薩は、利他行を

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56 (学位論文審査要旨) なさない声聞・独覚のようにそのまま般涅槃してしまうのではなく、真実を 直証する(滅尽定に入る)ことを交えながら、慈悲に基づいて有情利益に努 めていくのである。そのため、『入中論』の第七地以上の菩薩階梯は第六地 までとは異なり、慈悲に基づいた有情利益の実践を核とする菩薩階梯とな り、真実の証得だけに満足せず所知障を完全に断じて一切相智たる仏地へと 至る菩薩道が示されるのである。 第 3 章では、その仏地のあり様をチャンドラキールティがいかに説いてい るかを仏身論の視点から検討している。菩薩階梯を歩んだ菩薩が仏地に達し 成仏した後、仏としての有情利益のはたらきを、チャンドラキールティは仏 の三身説によって提示する。チャンドラキールティは、仏身の根源である法 身を『中論』(XVIII-7)に従って寂静で心と心所とが止滅した存在であると 規定する。そのように、勝義としては何も説いていない仏が、世俗におい て、説法を行う仏身として、受用身と変化身とが立てられる。受用身と変化 身は、菩薩時代の誓願と有情たちの善根を原動力とすることで、努力や意欲 することなしに作用をなすとされる。受用身は仏のすべての徳性を享受する 仏身であるが、戯論を離れた菩薩たちにだけ顕れ、変化身はあらゆる有情を 対象として顕れる仏身であり、いずれも説法を中心とした有情利益をなすの である。 以上のように、チャンドラキールティが『入中論』において示す菩薩の修 道論は、『十地経』に忠実に基づいたものであり、すでに確立していた瑜伽 行学派の修道論とはかなり異なった菩薩階梯を有したものとなっている。し かも、中観学派の中には、このように菩薩の十地に沿った具体的な修道論は 見られないこともあり、『入中論』に説かれる菩薩道は、瑜伽行派のそれと は異なった中観学派の修道論を示しているという点で貴重である。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 本論文は、先ず全体としては、チャンドラキールティの主著『入中論』を 菩薩の修道論の観点から捉えて、チャンドラキールティの修道論、それは中

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観学派の修道論とも言える、を明らかにし、ひいては瑜伽行学派とは異なる 大乗の修道論を明らかにしており、大いに評価されるべきである。以下に、 その中の幾つかのことがらについて、評価すべき点と不十分な点などを具体 的に述べておく。 第 1 章では、『入中論』が『十地経』の菩薩階梯に基づいて著作されてい ることを十地全体にわたって明確に示したことは評価される。中でも、(i) 初地においては、『入中論』の菩薩たることの根拠(因)は慈悲と不二智と 菩提心の三つとされるが、その中でも慈悲が最も根本の因とされることを示 したこと、(ii)『十地経』の第六現前地における十二支縁起の観察、一切法 無我の理解、般若波羅蜜に住することの現前ということが、『入中論』第六 地では、中観学派の立場から自性としての不生(すなわち無自性縁起)の理解 による勝義への悟入と捉え直されていることを明らかにしたこと、は意義あ ることである。ただ、瑜伽行学派の修道論との比較に関しては、瑜伽行学派 が種姓を重視する立場だけを取り上げて論じているため、彼らの菩薩道を正 しく踏まえた上での考察になっていないことが惜しまれる。特に、瑜伽行学 派では真実を現前した智(無分別智)の後に得られる世間智(分別智)、すな わち後得清浄世間智が説法等の利他行のための智として重視されていること などを考慮に入れることで、さらに意義深い考察が可能であると思われるの で、今後の検討が期待される。 第 2 章では、『入中論』の滅尽定の理解(実際を現証すること)は、『十地 経』や『入楞伽経』などの大乗経典の伝統に沿ったものであり、チャンドラ キールティ独自のものではないことを示したことは評価される。ただ、ナー ガールジュナ(龍樹)の『宝行王正論』において『十地経』の第六、七地の 滅が言及されるが、『中論』XVIII-7 偈に説かれる「心の行境の滅による不生 不滅の境地」との関連も考えられるので、それを滅尽定と捉えることにはも う少し慎重な検討が必要であろう。また、第七地以降で菩薩は滅尽定にとど まらず刹那ごとに入・出定を繰り返すことは、般若経などで「実際を現証し ない」と説かれることと同じく、有情利益のためであることを明らかにした

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58 (学位論文審査要旨) ことも重要である。 第 3 章では、『入中論』における三身説が考察され、法身(自性身)は寂静 で心・心所が止滅しており、受用身は仏のすべての徳性によって飾られた色 身であって無漏の智慧を得た菩薩たちにだけに顕れ、変化身は誕生・正覚・ 涅槃を示す形でもってすべての有情たちに顕れるものとされる。その中、 『入中論』では、仏の受用身を見ることができる菩薩は、般若波羅蜜を得て 戯論を寂滅した者だけであると限定されることから、第六地の菩薩であり、 彼らに対しては受用身は寂静でありながら説法を行なう仏として顕れること を示したことは評価できる。ただ、受用身は成仏の結果として仏のすべての 徳性を受用していること、すなわち成就していることでもあるので、その面 を併せた形で明示したほうがよいであろう。 また、本論文は『入中論』第 6 章を中心にしたものであるため、すでに当 該の章には幾つかの先行研究があるとは言え、副論文の中に第 6 章の翻訳研 究を収めることが望ましいとの意見もあった。 以上のように、本論文には考察や論述の仕方などに問題点や不十分な点も 見られるが、全体としては、チャンドラキールティの『入中論』の基本的性 格や彼の修道論の特色の幾つかが明らかにされるなど、重要な新たな研究成 果が認められる。 審査に必要とされる最終試験については、審査委員全員により 2012 年 12 月 18 日に試問を行なった。その結果、審査委員一同一致して、太田蕗子に 大谷大学博士(文学)の学位を授与することが適当であると判断した。

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学位請求論文審査要旨

Ⅰ.論文内容の要旨 本論文は、説一切有部における修行階梯、(1)身器清浄位、(2)三賢位、 (3)四善根位、(4)見道、(5)修道、(6)無学道の中、無漏慧を具えた聖道 位を示す見道(現観)の形成過程を加行道(四念住と四善根位)の考察を通し て明らかにしようとするものである。その際、一次資料としては、阿含・ニ カーヤ、六足発智、『婆沙論』、『心論』系論書、そして『倶舎論』『順正理 論』等、有部の主要な論書が用いられている。本論文の構成は次のようで ある。 序論 本論 第 1 章 阿含・ニカーヤにおける現観 氏 名

き む

   敬

きょん

 姫

(KIM Kyunghee) 学 位 の 種 類 博士(文学) 学 位 記 番 号 甲第 101 号 学位授与の日付 2013 年 3 月 15 日 学位授与の要件 学位規程第 3 条第 1 項 学 位 論 文 題 目 説一切有部における現観道形成の研究 (副 論 文) 『倶舎論』第六章「賢聖品」(第 5 偈∼ 32 偈)翻訳研究 論 文 審 査 委 員 (主査)大谷大学教授 博士(文学)[大谷大学] 兵 藤 一 夫 (副査)大谷大学教授 宮 下 晴 輝 (副査)武蔵野大学教授 博士(文学)[東京大学] 田 中 教 照

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60 (学位論文審査要旨) 1.阿含・ニカーヤにおける現観の用例 2.阿含・ニカーヤにおける現観の意味 3.まとめ 第 2 章 説一切有部における四念住の展開 1.南伝における四念住の性格 2.第一期阿毘達磨論書における四念住 3.第二期阿毘達磨論書における四念住 4.第三期阿毘達磨論書における四念住 5.まとめ 第 3 章 説一切有部における四聖諦現観の意味と四善根について 1.有部初期論書における四聖諦修行への展開 2.四善根 3.まとめ 第 4 章 説一切有部における煩悩説の展開 1.一切の結・縛・随眠・随煩悩・纏の展開 2.有部における見所断煩悩(三結)の展開 3.まとめ 結論 副論文 『倶舎論』第六章「賢聖品」(第 5 偈∼ 32 偈)翻訳研究 第 1 章では、現観(abhisamaya)の対象とされる法を検討することを通し て、有部の現観道の思想的背景を解明している。有部における現観(見道) は「涅槃に直面して正しく覚ること」であると定義され、涅槃と覚りに結び 付いた概念である。その背景を探るために、阿含・ニカーヤにおける現観と いう語がどのような文脈で用いられているのかを考察し、その結果、現観の 対象とされる法は(i)縁起(十二支各支)、(ii)四聖諦、(iii)五蘊であるが、 それら対象の法に通底する本質は、縁によって起こった諸法であるというこ

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とを明らかにする。すなわち、現観の対象である十二支各支は「因を有する 法」であり、生起するものは必ず因を有し、因がなければ生起しないので消 滅することになることを意味しているのである。無明を根本として人間の苦 の生存が形成される過程を示す縁起の順観は、苦集聖諦にあたり、苦の原因 なる渇愛は五取蘊が起こる原因でもある。一方、苦の消滅を表す縁起の逆観 は渇愛の滅なる苦滅聖諦(涅槃)である。そして無明は、明である「無常・ 苦・無我」を如実に知ること(現観)によって滅するが、このことは、有身 見・疑・戒禁取の三結を断じ預流位に入ること(法眼を得ること)でもある。 したがって、現観には、(i)有為法の無常性を洞察すること、(ii)有為法の 因果関係に対する疑惑である三結を断じ慧を獲得して涅槃に到ること、とい う意味が含意されているのである。 第 2 章では、有部の第一期から第三期阿毘達磨論書までを通して、有部の 修行道における四念住修習の変遷過程と位置づけを考察している。四念住に 対する記述は、論書ごとに特徴を有しており、阿含・ニカーヤにおける法の 現観と軌を一にするものとして有部特有の法体系とも関係づけられている。 特に『婆沙論』にいたって、念住としての法の観察そのものが断惑という実 践と結合され、四善根などの一連の修行階梯として位置づけられるようにな る。さらに、『心論経』『雑心論』にいたって、四念住を自相と共相によって 観察することが明確にされ、それが『倶舎論』に影響を与えたと考えられ る。一方、四念住を所縁念住、相雑念住、自性念住に分類し、その自性を慧 であると定義することは、有部の論書において一貫している。これらのこと から、有部における四念住の修習は、有為法を如実知見して煩悩を断滅し涅 槃に向かう修行階梯の一段階であり、それは自性念住・相雑念住・所縁念住 ということを通して四善根につながる重要な段階として位置づけられること を明らかにしている。 第 3 章では、第 1 章で考察した現観の対象のうち、四聖諦が有部の修行道 の修習対象(所縁)の中核となっていくことを有部の初期論書を中心に考察 している。その際に、阿含・ニカーヤにおける現観との関連性を考慮するこ

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62 (学位論文審査要旨) とによって、それが阿含・ニカーヤのものを引き継いでいることを明らかし ている。すなわち、有部は『法蘊足論』において、阿含・ニカーヤにおける 現観の概念を受け入れながら、その所縁を三界(欲界と上二界)の四聖諦に 限定しているのである。現観たる無漏の慧は、四聖諦なる所縁を実有なる 十六行相によって捉えるものであるから、「行相の自性は慧(prajñā)」であ ると定義される。したがって、現観は四諦十六行相と不可分なものであるこ とが認められるとする。 また、この章では、有部特有の思想である順決択分における法の内容と位 置づけが検討されている。有部における修行道の中心は四聖諦を十六行相に よって観察することであり、それが加行道たる順決択分位から本格的になさ れることを明らかにしている。 また、この章では、それぞれの論書における四善根の解釈を検討して、論 書によってその解釈に特徴があることを確認している。その結果、動善根に 分類される煖善根と頂善根において、『発智論』『婆沙論』『順正理論』等の 有部の正統論書は信との関わりを強調するが、『心論』系論書は信と関連づ けておらず、信との関わりは重要な論点の一つであったことを指摘してい る。一方、不動善根に分類される忍善根と世第一法のうち、忍善根は世第一 法の段階に向けて下品・中品・上品の順序に増長していくが、特に「中品の 忍」位は、「減縁減行」を用いて欲界の苦諦を二行相によって二刹那修習す るまで減じてゆくという独特な過程があることが他の善根との大きな違いで あること、そして、上品の忍の無間に聖者になる直前の段階である世第一法 が生じるとされることから、これら煖などの四善根が見道の加行道として明 確に位置づけられることを示す。 第 4 章では、現観と深くかかわる煩悩説について、「結・縛・随眠・随煩悩・ 纏」と七随眠を手がかりに有部の諸論書において考察している。まず、『婆 沙論』では、「結・縛・随眠・随煩悩・纏」の五つを具足するものが「煩悩」 であるという染汚法の総称として「煩悩」の語が用いられる。この考え方 は、初期阿毘達磨論書に分類される『集異門足論』『法蘊足論』に痕跡が辿

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られ、最終的に『界身足論』における染汚なる煩悩心所の分類として現われ ることを指摘する。次に、阿含・ニカーヤでは「法の現観によって“三結 (有身見・戒禁取・疑結)”を断じて預流に入る」ことが定型化されているが、 有部では三結よりも詳細な“七随眠(欲貪・瞋・有貪・慢・無明・見・疑随眠)” を所断の随眠として採用し、それがさらに五見と関係づけられて“十随眠 (貪・瞋・慢・無明・有身・辺執・戒禁取・見取・邪見・疑)”とされ、さらには、 所断の煩悩を三界と四聖諦に対して分類して見所断八十八・修所断十なる 九十八随眠説へと展開していくことを示す。 Ⅱ.論文審査結果の要旨 本論文は、説一切有部における修行階梯の中、聖道位である見道(現観) の形成過程を、その準備の階位である加行道(四念住と四善根位)の考察を通 して、明らかにしようとするものである。その結果、有部は阿含・ニカーヤ の考え方を忠実に継承しながらも、見道に至るまでに加行道(四善根たる順 決択分)を設けるなど有部特有な修行道を組み立てたこと、その際に、法の 観察そのものが断惑という実践につながるということが加行道から見道・修 道へと続く修行階梯において一貫していることを有部の諸論書に基づきなが ら示したことは、これまで十分に明瞭にされていなかった有部の修行道の根 本的なことがらの一端を明らかにしており、先ず評価することができる。さ らに、有部における現観、四念住、四善根、煩悩説についても評価すべき幾 つかの新たな知見を提示している。それらを概説すれば次のようである。 第 1 章では、阿含・ニカーヤの現観の対象とされるものを検討し、縁起 (十二支)、四聖諦、五蘊が対象とされるが、それらは「因を有する法」とし ての視点が共通しており、有為法を現観することは、アートマン(我)など に執することなくその因果関係を如実に知ること(如実知見)、それは「無 常・苦・無我」を如実に知ることでもあることを明らかにし、法を現観する ことが「法眼を得る」や「預流果に入る」とも言われることを示したことは 評価される。ただ、阿含・ニカーヤにおける預流に入る方法をすべて示した

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64 (学位論文審査要旨) 上で、有部は法の現観を選択したことを示すことができれば、より納得でき るものとなったであろう。 第 2 章では、法の現観の一環である四念住に関して、四念住を自相と共相 によって観察することが『心論経』『雑心論』において現われ、それが『倶 舎論』に影響を与えたことを指摘したこと、『婆沙論』において、四念住の 修習は有為法を如実知見して煩悩を断滅して涅槃に向かう一連の修行階梯の 中で四善根に繋がる重要な段階として位置づけられていることを示すこと で、有部の加行道としての四善根の階梯の確立過程を明らかにしたことは意 義あることである。 第 3 章では、第 1 章で明らかにした現観の三つの対象の中で、有部では、 四聖諦が中心となっていくことを明らかにし、また、有部の四聖諦の現観は 「涅槃に直面して正しく覚ること(現等覚)」と定義され、阿含・ニカーヤの 現観の概念を忠実に継承していることを明らかにしている。また、四善根の 中の煖・頂は慧だけでなく信とも関連することについて、『婆沙論』や『順 正理論』などでははっきりと述べられるが、『心論』や『倶舎論』では言及 されないとの指摘は重要である。ただ、その違いの背景について十分な考察 がなされていないのは残念である。この問題は仏教における信と慧の関係と いう根本的なこととも繋がっており、今後の更なる検討が期待される。 第 4 章では、有部における煩悩説の展開が論じられるが、『婆沙論』にお いて「結・縛・随眠・随煩悩・纏」の五つを具足するものが「煩悩」とされ、 初めて染汚法の総称として「煩悩」の語が用いられること、現観によって断 ぜられる随眠(煩悩)説が、有部において七随眠 → 十随眠 → 九十八随眠へ と展開した次第を明らかにしたことは評価される。 上で具体的には言及しなかったが、説明が簡潔すぎたり文意が不明瞭であ ることにより論述が不十分な箇所、論点に関連する考察が不十分な箇所も幾 つか認められる。例えば、第 3 章での、「有部修行体系における見道説の大 枠がすでに『集異門足論』において成立していた」というのは、もう少し厳 密な言い方、例えば、世第一法以外の煖などを含めた四善根ということは見

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られないことなどを付加するなどが必要であろう。 以上のように、本論文は考察や論述の仕方などに問題点や不十分な点も見 られるが、有部の実践道の核心である現観の根本的な性質や形成過程につい て、幾つかの重要な新たな研究成果が認められる。 審査に必要とされる最終試験については、審査委員全員により 2012 年 12 月 5 日に試問を行なった。その結果、審査委員一同一致して、金敬姫に大谷 大学博士(文学)の学位を授与することが適当であると判断した。

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