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(1)

[資料] アマルフィ海法の序章的研究 : 断片的伝承 のころからMansi本の再発見まで

その他のタイトル [Material] Studio introduttivo sulla Tavola di Amalfi

著者 栗田 和彦

雑誌名 關西大學法學論集

巻 50

号 5

ページ 1070‑1103

発行年 2000‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00023590

(2)

少し以前のことになるが︑箪者は︑日本海運集会所のはからいにより︑海事法研究会誌一四二号(‑九九八年二月号一ー三〇

頁︶に﹁アマルフィ海法におけるコロンナ契約﹂という小稿を寄稿する機会を与えられたことがある︒

99, 

一断片的伝承︵幻の海法︶

(P ar de ss us )

Fo sc ar in

i本の発見

五新しい発見︵二例︶

Fo sc ar in

i本の帰郷

Ma ns i本の再発見

むすびにかえて ー断片的伝承のころから

M a n s

i

本の再発見まで││ アマルフィ海法の序章的研究

︹資 料︺

栗 田

(10

0)

(3)

アマルフィ海法の序章的研究 手には︑長期間に及ぶ別個の困難が予測される︒

同拙稿は︑アマルフィ

( Am a l fi )

海法(‑八四三年に発見が報じられた︑いわゆる

F os c a ri n

本︶がもっとも多くの条文を割い i

ているコロンナ契約の概要を示すものであるが︑同法が規定する一制度︵最重要の制度であるが︶に関する各論的研究の性質を有

するものである︒筆者自身︑同拙稿の執筆当時から︑それに対置されるべき序章的ないし総論的研究の必要性を認識していた︒

(2 ) 

しかし︑同拙稿の執筆準備段階で知ったある文献のタイトルが︑アマルフィ海法の編纂時期などを扱った序章的・総論的研究で

あろうことを容易に想像させたが︑その文献は︑長らくのあいだ︑多様な手段を尽くしても︑入手不能であった︒筆者としては︑

その文献を参照することなく︑序章的・総論的研究を進めることに躊躇せざるをえなかったため︑同拙稿においては︑コロンナ契

その後︑かねて親しくご教示を仰いでいる

Gu st av oR om an el li

(R om a)

大学名誉教授と

Mi ch el eM .  C om en al e  P in to   (S as sa ri )

大学教授の格別のご好意により︑その文献のコピーをようやく入手することができた︒その文献は︑筆者が

想像していたとおり︑アマルフィ海法に関する新しい情報および研究成果を報知している︒とりわけ︑

F os c a ri n

i 本とは異なるア

(3 ) 

マルフィ海法の写本

(M an si

本といっておく︶の︵再︶発見に関する記述は︑興味をそそるものがある︒

本来であれば︑それらの最新の情報および研究成果を検討・分析したうえで本稿の執筆に着手するべきであろうが︑それらの入

とりあえず︑本稿においては︑主として︑

F os c a ri n

i 本の発見以前になされていたアマルフィ海法の存否に関する議論︑

Fo sc ar

( 4 ) ( 5 )   i n i

本の発見・公開に至る経緯︑

Ma ns

i本の︵再︶発見・確認に至るまでの経緯などについて論じたい︒

(1

)

現在︑アマルフィ市役所付属博物館

(M us eo c iv i c  

0といわれているが︑資料展示室ないし小図書室と称すぺき程度の大

きさ︶に保管されている︒従来︑現存する唯一のアマルフィ海法の写本︑とされてきた︒前掲拙稿︱一頁注(4)は︑

Ma ns i

本の︵再︶発見・確認により︑修正を要するかもしれない︵後注

(3

)

(2

) 

Cl au di o  Schwarzenb

er g, i  G an   Luigi   La l l i n i F,   ra nc es co   Scanzano,

o  R be rt o  M od en a, n  I tr od uz io ne   al l o  s t u di o   de l l a  T av ol a 

約の概要のみを示して︑満足するしかなかったのである︒

(1 0

(4)

0

(1 0

d i  Amalfi,

e  R vi st a  europea

e  d   de re ch o  d e  l a   navegaci6n

a  m ri ti ma

 

a er o m iu t i ca ,  1 98 9,

v o  

l .  

4 ,   p p.   24 5  , 2 7 6.  

( 3 )

現在︑カヴァ・デイ・ティレーニ

(C av d e a i   T i r re n i )

の大修道院に保管されているもの︑と思われる︒最近︑存在が確

認されたが︑全体で三五ケ条しかなく︑

F os c a ri n

i本︵六六ケ条︶に比べると︑かなり条文数が少ない︵完全なものかは︑

(4

)

寺田四郎﹁南伊太利アマルフィノ海法﹂海法会誌六号︱二七頁が︑アマルフィ海法の序章的・総論的研究を行っているが︑

かなり古い文献であり︑一般の読者には︑参照が困難のようである︒窪田宏﹁アマルフィ海法によせて﹂ジュリスト四二九

0頁は︑短いエッセイ風の論説であるが︑示唆に富んでいる︒

(5 ) 

Ma ns

i本については︑イタリアにおいても︑充分に検討・分析が蓄積されていないようであり︑筆者もほとんど情報を

えていない︒本稿においては︑その︵再︶発見・確認に至るまでの経緯について︑若干の紹介をなしうるにとどまり︑詳細

な検討は︑将来の課題にするほかない︒

法諺に﹁社会あるところに法あり﹂という︒社会共同生活の場には︑成文法のかたちを採るか︑あるいは︑不文の慣習法のまま

であれ︑かならず︑法︵規範︶が存在する︒

周知のように︑アマルフィは︑ビザンツ帝国の︵形式的な︶支配下にあったにしても︑九世紀ころから︵︱二世紀にかけて︶︑

海洋共和国と称されるほどの自立性︵自律性︶を有し︑地中海の海商の中心地のひとつになっていた︒その後︑ノルマン人の統治

に服するようになってからも

(1

0七三年︑より強固には一︱三一年︶︑アマルフィの海商が急に途絶えたわけではない︒

すると︑当時すでに︑アマルフィにおいて︑その海商を規律する固有の海の法︵アマルフィ海法︶が存在したであろう︑と想像

(1 ) 

しても︑それは︑根拠に欠けた単なる推量ではなく︑経験則に適合した合理的推測︑というべきであろう︒

その法は︑立法者によって最初から人為的に制定された成文法として存在したのではなく︑多くの商事法がそうであったように︑ 関法

(5)

da

m  s a

e c u l

i   XV 

p r a e

f a t i

o )

に求めることができる︑といわれている︒多くの論者がその年代記の一節を引用しているが︑間接的

(1 ) 

引用のためか︑それぞれ若干異なっている︒その最大公約数的な部分をまとめると︑以下のようである︒

アマルフィ海法の序章的研究 アマルフィ海法に関するもっとも古い記述は︑

 

海商の実務のなかから︑慣習法として形成されたもの︑と考えられる︒

慣習法は︑認識の容易性・便宜性において︑成文法に劣ることは否定できない︒規律対象者は︑その現在の姿を成文化されたか

(2 ) 

たちで確認することを欲する傾向にある︒アマルフィの海商の実務にたずさわっていた人々が︑彼らのあいだで妥当していた慣習

法の成文化を欲したであろうことは︑不思議なことではなく︑むしろ︑自然の成り行き︑というべきであろう︒

アマルフィにおいて︑その海商を規律する慣習法の編纂︵成文化︶が実際になされたか︒なされたのであれば︑何時︑だれに

よって︑どのような形式でなされたのか︒また︑その適用範囲︑存続時期など︑後世の歴史家ならずとも︑興味は尽きない︒

アマルフィ海法の原本は︑今日に至るも︑まだ発見されていない︒また︑古来より︑多くの文献がその存在について論

じていたわけではなく︑若干の断片的伝承が残されていた程度である︒アマルフィ海法は︑長きにわたって︑﹁幻の海法

( a r a

b a

f e n i

c e   : 

アラプの不死鳥︶﹂とされてきたのである︒

(1

)

社会共同生活の場には︑かならず︑法︵規範︶が存在する︑といっても︑その法は︑その共同体にのみ妥当する固有のも

のとして存在するとはかぎらない︒政治的・経済的に劣位にある共同体は︑優位にある共同体の法の適用を受け︑固有の法

を有しないこともありうる︒逆に︑強力な共同体は︑支配下の共同体にまで適用範囲が及ぶ法を有することもありうる︒

(2

)

統治者においても︑重要な慣習法を成文化することによって︑治世の便宜を図ることができる︒慣習法が成文化された例

は︑洋の東西を問わず︑枚挙にいとまがない︒わが国のいわゆる﹁廻船式目﹂などは︑治世者が慣習法を成文化した例とし

て知られ︵伝承され︶ている︒

一五世紀の匿名の年代記

一五世紀に書かれた匿名の年代記

( C h r

o n i c

o n A

ma

lp

hi

ta

nu

m  A

no

ny

mi

  cu i

u s   , 

(1

0

(6)

﹁筆者は︑子供のころ︑老人から︑議会様式の文字で羊皮紙に書かれたこの年代記の原本が

Ta bu la pr ot ho nt in a  m ar ls

Do nn or so

家に保管されていることを何度も聞いた︒そして︑市民は︑自分たちの手元に多くの証拠を保持するため︑

それから写本を作成していた︒われらが

La di sl ao

王のころ︑アマルフィの支配者であったV

en sc el ao i     d Sa ns ev er in   0がその

原本を

Do nn or so

家から徴用し︑彼の家に持ち去った︒そして︑その原本は︑行方不明になってしまい︑市には︑各人が家で

大切に保存していた写本のいくらかが残った︒﹂

( 2)  

この記述は︑多くの論者が引用しているように︑かなり︑信憑性の高いもの︑と理解されている︒ちなみに︑この記述にみられ

る ︑ La di sl ao

王は︑ドゥラッツオ

(D ur az zo

D

ur re s  ; 

アルバニアのドゥラス︶王であり︑

位につき︑一四一四年まで生きた人のようである︒また︑

Ve ns ce la od i   Sa ns ev er in  

0は︑一四0一年に死亡している︒このふたり

(3 ) 

が実在したことは︑各種の年代記に記された周知の事実である︒

また︑ここにいう

pr ot on ti no

は︑海運関係者の長であり︑海事車五件に関する裁判権を有していた︑といわれている︒

pr ot on ti no (4 )( 5)  

という名称は︑一三世紀のはじめには︑すでに存在し︑同世紀の中頃の文献に頻繁に現れるようになったようである︒

この記述が信頼するに値しうるにしても︑われわれは︑一四世紀の終わりか一五世紀のはじめあたりまで︑

Ta bu la pr ot ho nt in a  ma ri

sといわれる文書がアマルフィに存在していたことを知りうるにとどまる︒それの内容︑作成時期︑形式などについては︑

いっさい知ることができない︒

(1

)

その年代記は︑

P el l i ci a R, ac co lt a  d i  v a r ie   c ro n i ch e d i ,   a ri   ed   a l t r i   o pu s c ol i   co s i t i   a li a n i  c om e  l a t i n i   appartenenti

l l   a a   s t o ri a   d el   R eg no   d i   Napoli,

o l   v .   5 , 

Na po li , 

17 82 , p p

143  , 161.  

5められている︑という︵後注

( 2 )

(2

) 

Pa ul   Lab an d, a  D s  S ee re ch t  v

on m  A al fi ,  Z e it s c hr i f t  f i i r   d as   ge

sa mm te a  H nd el sr ec ht , 

18 64 , 

SS . 

296 297 

An to ni o  G ua ri   ,  n o,   Mi to   e s t o ri a   de l l a  T av ol a  d i   Amalfi,

n     i La   Ta bu la   de   Ama lp ha ,  C av a  d e i  T i rr e n i,  

19 65 , 

p .  

19 , 

n .  

19; 

Sc hw ar ze nb er g  e t   a l t r i ,   o p.   c i t . ,   p .  

25 4,  e c c . 

(3

)

Do nn or

0s家から︵年代記の原本と︶

Ta bu la   prothontina

a  m ri

s が持ち去られたのは︑ 関法第五0

一三八六年から一四〇 ニニ八六年に王

(1 0

(7)

年のあいだ︑ということになる︒

(4

) 

Ma tt eo   Ca me ra ,  M em or ie   st o r ic o

  , diplomatiche

e l   d l 'a n t ic a   ci t t a   du ca to   di   Amalfi,

o l   v .   1 ,  S al em o,

1876  (ristampa: 

S al e r   ,  n o,  

19 72 ),  p .  

530

10

八年の文書に

Io an ne sr e g iu s   pr ot ho nt in us m   A al fi

e との署名がみられる︑という︒

(5

)

pr ot on ti no

による裁判は︑現在の

Pa la zz oottocentesco 

(アマルフィの中心部ドゥオーモ広場:

Pi az za   Du om o

南側に面する建物︶で行われていた︑という

(C en tr od i C  ul tu ra   e  S to r i a  Amalfitana,

m  A al fi   la   c i t t a   f am os a,   la   c i t t da   a  s co p r ir e N a,   p ol i ,  1 99 5,  p .  

61

)

年代不詳の年代記の記述

︳ーーでみた一五世紀の匿名の年代記より以降のものであって︑いつの時代のものか不明であるが︑

(l ) 

述より以前のもの︑といわれている年代記︵やはり︑この筆者も匿名︶が︑アマルフィ海法について言及している︒

(2 ) 

その年代記の記述は︑羅針儀︵盤︶について語るなかで︑アマルフィ海法について言及したもの︑といわれている︒その一節は︑

以下のようである︒

︵羅針儀の発明は︶﹁たしかに︑アマルフィの人の天賦のオにふさわしく︑そのオによって︑海の法が編纂され︑それに基づ

き︑船乗りのあいだの紛争は︑この王国の大海事裁判所において︑解決されている︒﹂

この記述は︑先の匿名の年代記より︑さらに断片的である︒この断片的記述から︑多くをえることはできない︒ナポリ

a p ( N o li )

の大海事裁判所において︑アマルフィ海法が適用されていた︑とする部分について︑最近の研究は︑それが多分に誇張

(3 ) 

である︑としている︒しかし︑それらの研究も︑うえの記述がアマルフィ起源の海法の存在のひとつの証拠であることを承認して

(1

) 

Lu ig i  V o lp i c el l a ,  D eg li n t   a i ch i   ordinamenti

  ma r t ii t m i  d i   T r a ni , n     i D el l e  a n t ic h e  c on su et ud in i  e  l eg g mi   ar it ti me e l   d l e  pro  ,  v in c i e  n a po l i ta n   pe , e r  c ur a  d i   N ic co la   Al i a ne l l i,   N ap o l i,  

18 71 , 

p .  

1 0  

Sc hw ar ze nb er g  e t   a l t r i ,

 

p .   c i t . ,   p .  

25 5.  

アマルフィ海法の序章的研究

(1 0

I三でみる

Fr ec ci a

(8)

‑ I

第五0

Fr an ce sc o  Pansa,

s t   I o ri a   de l l 'a n t ic a   repubblica

  d' A m al f i ,  T om . 1 , N a  

p ol i

,  1724 

(r is ta mp a:  B ol og na , 

19 65 ),  p .  

17 . 

Gu ar in o,

 

p .   c i t . ,   p p.  

19 20 

Sc hw ar ze nb er g  e t   a l t r i ,

 

p .   c i t . ,   l oc o   c i t .   Fr ec ci aの著述

アマルフィ海法の存在を論じた文献のなかで︑出版時期が特定されている最古の文献は︑

Ma ri no F re c c ia ,

e  S  D

ub fe ud is   Ba ro   , 

Napoli, 

1554

nu m et l n   v es t i tu n s  F eu do ru m 

そこにみられるアマルフィ海法に関する記述も︑のちにみるように︑詳細なものではない︒論者によっては︑それをもって︑ア

マルフィ海法の存在の論拠とするが︑その内容がアマルフィ海法の存在を論証するには乏しすぎる︑とする者もいる︒

‑│︱および一ーニでみた年代記が匿名の著者︵語り手︶によるのと異なり︑

F re c c ia

は︑実在しただけではな

く︑著名な法律家であったため︑彼の著述は︑アマルフィ海法の存否にまつわるすべての論争の源になっている︑といってよい︒

(1 ) 

著述の一節を引用するまえに︑

Fr ec ci

aについて︑若干の紹介を試みておこう︒

Ma ri no   Fr ec ci a  ( F re z z a)  

0三年︵月日不明︶︑法律家

An to ni oF r e cc i a  (

Sv ev aVentimiglia 

(

C Vi ca ri ae

0

日 ︑ Tr ac ta tu sd e  praesentat10ne

n   i st ru me nt or um   ad   nt um   ma gn ae   un ae   (2 ) 

一五三九年(︱二月八日︶︑王国参議

( co n s ig l i er e )

一五六六年九月二八日ナポリで永眠する︒死後︑親類や友人たちによって︑多くの著作が出版・再版される︒

Fr ec ci

aが当時のナポリではもっとも成功した法律家のひとりであったことは︑まちがいなさそうである︒その彼がつぎのよう

﹁王国︵両シチリア王国︶においては︑海のすべての紛争︑すべての訴訟そしてすべての争いは︑ロード海法によって判決さ

( Ra v e ll o )

(2

) 

(3

) 

関法

(1 0

(9)

れるのではなく︑人々がアマルフィ海法と呼んでいる法典によって︑今日に至るまで︑決定されている︒﹂

しかし︑これが︑多くの研究者によって引用されている

Fr ec ci a

のアマルフィ海法に関する論述のすべてである︒この記述は︑

先に︑この記述がアマルフィ海法の存否にまつわるすべての論争の源になっている︑といったが︑実際︑これがただちに論争を

引き起こしたわけではない︒この記述が有名になるのは︑二世紀以上を隔てたのち︵途中︑何人かによって引用されたことがあっ

Mi ch el ed e  J o ri  

0によって引用されてからのことである三ーニ参照︶︒

ただ︑われわれは︑ここで︑引用者のあいだにみられるひとつの差異について︑注目しておきたい︒それは︑うえの引用部分の

(4 ) 

冒頭にある︵両シチリア王国︶である︒多くの論者は︑これを挿入していないが︑

La ba nd

Gu ar in

o は︑これを挿入している︒

(5 ) 

この差異は︑些細にもみえるが︑はなはだ大きなものである︒

Fr ec ci

aの著作を有していないので︑引用部における︵両シチリア王国︶の有無を直接確かめることができない︒

筆者に指摘できることは︑その有無により︑アマルフィ海法の適用範囲にきわめて大きな差異が生じることである︒すなわち︑

︵両シチリア王国︶がなければ︑アマルフィ海法の適用範囲は︑最大限︑ナポリ王国の全域になるが︑︵両シチリア王国︶があれば︑

その適用範囲は︑両シチリア王国の全域にまで拡大されることになる︒

(1

) 

Ca me ra ,  M em or ie   c i t   ,  , 

v ol   , 

2,  S a l er n o , 

1881 (ristampa

  : S a

l er n o , 

19 72 ),  p p

389390だけではなく︑最新の人名辞典︑たと.  

Di zi on ar io b io g r af i c o  d e gl i   it a l i a n i ,  

v ol   ,50 

Ro ma , 

19 98 , p p

346.  

  , 349~

(2

)

このことばの意味は︑きわめて多様である︒国王

Ca rl

0五世の協力者であったことから︑本文のように意味づけておく︒

(3

  )

Ca me ra , 

p .  

c i t   ,  ,

p , 

390

Fr ec ci

aが死亡した日は二九日︒

(4

) 

La ba nd ,  a .  a .   0 . , S .  

  297

  ; Guarino,

  op . i t .   c ,  

15 . 

(5

)

Fr ec ci

aがいうロード海法がなにを指すのか︑すなわち︑いわゆる投げ荷に関するロード海法をいうのか︑偽

ロード海法をいうのか︒あるいは︑

Fr ec ci

aが一五五四年の時点で

(F ra nc es co Ba ud ou

in

An to ni o Agostin

oおよび

アマルフィ海法の序章的研究 その内容の乏しさにおいて︑‑│︳および一ーニでみた匿名の年代記と変わりがない︒

一 七 ︱ ︱

(1 0

(10)

Si

mo

n  S

ch

ar

dより以前に︶偽ロード海法のことを知っていたかについても議論は残りそうである︒ここでは深入りしない

ことにする︒その疑問については︑

A l i a n e l l D e i , l le   a nt i c he  

c i t ,

  p

p.

X  

VI

X

Vl

l

F re c

c ia

の著作が世に出てからも︑アマルフィ海法に関する論説・文献の数が増えたわけではない︒後世の研究者によって比較

的頻繁に引用される報告は︑二例にすぎない︒

Ca

me

ra

がみた︑という一五七一年の公文書である︒契約当事者がアマルフィ海法の定めるところにしたがうことを

(1 ) 

宣言した旨が記載されている︑という︒

その文書は︑いまでいう公正証書のようなものであろうが︑作成の月日︑作成地︑作成者︵公証人︶︑契約当事者の氏名︑契約

内容などのすべてが不明である︒その報告を信じるにしても︑当時︑アマルフィ海法がまだ存続していたことの証としうるだけで

Ca

me

ra

が報告している一六0三年の文書である︒

Am

br

og

io

a   C

ul

in

o によって作成された︒ナポリの

Mu

zi

oA

li

an

o 

(

(C

on

ca

)

As

ca

ni

Ao

mo

de

o (

だで二本マストの帆船

( f e l u c a )

の半分の売買がなされた︒買主は︑航海ごとに︑﹁アマルフィ海岸の法にしたがい︑

Mu

zi

0が有

(2 ) 

する帆船の残りの半分について︑現実のそして正確な報告﹂をなす義務を負う旨が記載されている︑という︒

これは︑第一例に欠落していた点がほとんど網羅されており︑第一例に比べれば︑はるかに詳細である︒また︑充分に信頼に値

するもの︑と思われる︒たとえ︑ここに登場する契約当事者が実在の人物であったのかを確かめる術がないにしても︑公証人の存

否は︑当時のナポリの公証人名簿によって︵残っていれば︶︑確認することができる︒ただ︑

Ca

me

ra

以外︑その公正証書をみた

( 3)  

者がいないのが惜しまれる︒

I

0

0三年二月一七日︑ナポリにおいて︑公証人

Gi

ov

an

ni

(1 0

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*2 Kanazawa University, Institute of Science and Engineering, Faculty of Geosciences and civil Engineering, Associate Professor. *3 Kanazawa University, Graduate School of