和 彦
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(2) !. 一. 003. 石であった︒. こうした貴重品︑それによってつくられる装飾・美術・工芸品は︑農民をはじめとする庶民層には直接縁のある. て考古学的に証明する手立てはないのだが︑交易の対価となったのが︑これらシュメiルの大地の恵みであったと. らはいずれも食料・衣料で︑運ばれた地でいったん消費されてしまえば︑痕跡すら残らないものである︒したがっ. 農耕社会が産した豊かなオオムギ・コムギ・ビール・ナツメヤシ・ゴマ油・野菜︑そして羊毛であったろう︒これ. これらの財と交換に︑南部メソポタミアから送りだされたものはなんであったろうか︒それはおそらく︑ここの. れぬ交易者の手によって運ばれたのであろう. れてくる︒これらの財は︑街遺ぞいにできた無数の宿駅︑天然の入り江につくられた多くの停泊地を経由し︑数知. 前二〇〇〇年代にはいると︑陸上の交易路だけでなく︑ペルシア湾からインドにいたる海上交易路も切りひらか. フシャン︑いずれも今日のアフガニスタンに所属する地域である︒. オマーン半島であった︒紅玉髄ニフピスラズリの原産地はもっと遠かった︒前者はヒンドゥークシュ︑後者はバダ. 銀はタウルス山地︑銅は東南アナトリア︑南イランやその対岸︑そしてアラビア半島からペルシア湾に突きでた. マヌス・レバノン山脈である︒. は西アジアをとりまくアマヌス・タウルス・ザグロスなどの山岳地方︑木材︑とくにレバノン杉や糸杉材などはア. それでは︑これらの原材料資原や貴重品はいったいどこから南部メソポタミアに運ばれてきたのだろうか︒鉱石. 定・繁栄が保障され︑大地の恵みの豊かな配分が実現されることになったはずだからである︒. 民の夢もかなえられなかつたはずである︒なぜならこれらによる強大な支配権の確立によって︑再分配社会の安. 商品ではなかった︒それは支配者の身辺を飾る遺具立てで︑いわば支配権の象徴だった︒しかしこれなしには︑庶. =. 早稲田商学第388号.
(3) 想像しても間違いではないだろう︒. 農産物資源は︑この時代︑多くの人々に需要される︑もっとも高い価値をもった商品であった︒ 人々はその増産 に励みながら︑山岳地帯が生みだす天然資源の獲得をめざしたことだろう︒. 文化から文明へ. 戦略物資や高価な貴重晶が集まる交易の拠点には︑それらの提供者と︑それを求めようとする都市国家の交易者. とが会合した︒この時代の交易は︑当事者によるその命運をかけた生計戦略として行なわれたと考えられてよい︒. たがいに必要としあうものを確実に交換しなければならなかった︒そのためには︑当事者のあいだにはなにより. も信頼関係が確立されねばならなかった︒交易は︑管理交易でなければならなかったであろう︒そうしたなかで︑. この時代の交易は︑初期定住化︑初期農耕化時代のそれよりもずっと自由取引の要素を強めていったことだろう︒. そこには︑集団という単位で︑利益のチャンスを求めようとする営利動機が大きくはいりこんだといってよいので. はないだろか︒なぜならこの時代︑都市国家がつぎつぎと成立し︑それらがたがいに覇権を求めてはげしく対決し あうようになるか ら で あ る ︒. 都市国家の存亡を決定する要因には︑軍事的侵略あり︑自然条件の変化あり︑災害ありと︑それはさまざまなも. のがあったことだろう︒そのなかでも大きな要因となったのが︑都市国家の交易・市場政策の成否ではなかった か︒それに失敗して︑衰亡を余儀なくされた都市国家も数多くあったことだろう︒. いずれにしても︑営利性を高めた交易を組織することによって︑シュメール社会は︑初期農耕祉会よりもずっと. 多くの戦略物資や貴重品を獲得した︒なかでも特別重要な輸入品は︑農工具あるいはその原材料である︒農工具は. 1002. 市場と文明の進化誌② 量.
(4) 早禰田商学第388号. これまで木器・石器であったが︑この時代から青銅製にかわりはじめていた︒この青銅器を人々に公平に配分する. 役割を担ったのが︑都市国家の行政的再分配システムである︒しかし平等に配給される農工具だけでは満足できな. い人々も存在した︒そうした人々の需要に応えたのが︑政治都市に誕生した市場システムである︒. 再分配と市場の二つのシステムを介してシュメール人が手にいれることのできる青鋼器の量は︑ウルク期には大. きく増大したのであろう︒このときから人々は高度な灌概農法︑冬作農耕を展關するようになるのである︒. これまでの灌激農耕は︑自然の水量の増減にしたがう夏作農耕システムだった︒ティグリス■ユーフラテス河の. 水勢は一一月に増水期にはいり︑翌年四−五月に最高水位に達する︒人々は︑︑この四−五月の高水位期を直接利用. する灌概システムによって︑ムギ類の夏作を行なってきた︒しかし夏作では収穫に限度があった︒人々はこの限界. を越えようと︑青銅製の農工具によって水量の増滅をみずから管理し︑一一月からの増水を利用する冬作農耕に切 りかえていくのである︒. 冬作農耕ま︑ムギ類の生産力を飛躍的に高めた︒人々に配分される農産物の量も増大した︒都市国家は輝ける存. 在となった︒たくさんの人々が大地の恵みの豊かな配分にあずかろうと︑都市国家に群がった︒既成の都市国家は. 規模を拡大し︑新設される都市国家もその数をふやした︒これとともに南部メソポタミアは︑どこよりも豊かな穀. 倉地帯に変貌し︑ここは︑それを実現させた民族の名をとって︑シュメール地方と呼ばれるようになる︒. 行政的再分配をべ−スにしつつ︑そこに政治都市市場を組みこんだ農耕社会︑それが具現した高度な農耕生活. は︑シュメール人がこの甫メソポタミアの地で育んだ一つの文化だった︒それが最初に形成されたのは︑ユーフラ. テス下流域のウルクから最南端のエリドゥにかけての狭い地域だったが︑ウルク期に範囲を拡げ︑やがて初期王朝. 期になると︑シュメールの地を越えて︑その北に連なるアッカド地方︵ちなみにシュメールとアッカドを合わせた. 1001.
(5) 市場と文明の進化誌②. 地域がバビロニア︶に広がっていく︒農耕を基本生計戦略としたこの生活様式は︑ 他の地域に拡散していく普遍的 な文化︑すなわち農耕文明にかわっていくのである︒. 王国の原型. こうしてメソポタミアは︑つぎに農耕文明拡散の時代を迎えることになる︒この地域で人類が選択した文明拡散. の方法は︑諾勢力を対決させ︑そのなかから軍事に長けた専制君主を登場させて中央集権的な広領域国家をつくら. せ︑そこに人々をいやおうなく巻きこんでいくという強引なやり方だった︒しかもそれをつぎつぎと繰りかえして. いくやり方だった︒その役割を最初に担ったのが︑シュメールの北︑メソポタミア中部に生まれたアッカド王国 ︵前二三一二四−二一五四年︶である︒. 広領域国家形成の動きは︑前二〇〇〇年代前半にはじまった︒シュメール地方に生まれたたくさんの都市国家. が︑灌激の水系︑その覇権をめぐってはげしく対立しはじめたのである︒やがてそのなかから︑複数の都市国家を したがえた中央集権的な領域国家が誕生する︒. シュメールの領域国家の支配者として知られているのが︑都市国家ウンマの王ルガル・ザゲスィ︵前二三五〇年. ごろ︶である︒彼はラガシュ・ウル・ウルクニフルサ・ニップールなど数十にのぼるシュメールの都市国家と︑そ. れに違なる灌混農耕地帯を征服し︑広大な領土を支配する専制君主となる︒こうした專制国家が全盛期を迎えたの が前二〇〇〇年代の半ばごろである︒. そのシュメール人によってはじめら牝た領域国家の形成に刺激され︑メソボタミア中部から立ちあがったのが︑ アツカドである︒. 1OOC.
(6) アッカド人は︑シュメール人とは異なるセム系民族である︒セム族とは︑言語学的には喉音と口蓋音に富む慣用 2︺ 語法を共有する諸民族の集合概念であみ︒セム人の故地はアラビア半島やシナイ半島の砂漠地帯︑彼らの生業は遊 牧だった︒. 乾燥地帯では生命のバランスがきわどいところで保たれている︒一定の空間が養える部族の数も︑一つのグルー. プが率いることのできる有蹄類の数もほぼきめられている︒その限度を越えると︑生命の再生産はむずかしい︒そ. れにもかかわらず︑砂漢の人口は増えつづける︒人口の増加に気候の異変が加われば︑その圧力は加速される︒人. 口増加︑気候の異変︑それにともなう生活の破綻は︑砂漠の民族の大移動を引きおこす︒彼らの移動さきは︑つね. に先進文明地帯だった︒移動は民族を鍛えあげ︑人々を戦闘的にする︒砂漢の民族ははげしい破壊力をもって文明 地に襲いかかった︒砂漢は︑なん度となくこの歴史を繰りかえした︒. セム人もまた︑この砂漢の運動律に支配された民族だった︒彼らは前三五〇〇年以後︑アラビア半島︑シナイ半. したシュメールの領域国家を打ちやぶるのである︒それだけではなかった︒彼らはその強大な軍事力によって︑全. に︑シャルル・キーン︑別名サルゴン︵在位前二一二四〇1二二八四年︶の傘下に結集し︑ルガル・ザゲスイが支配. アッカド人もはげしい戦闘力をもった民族だった︒彼らは︑シュメールの領域国家形成の動きに合わせるよう. 再分配と市場の巨大国家. 成するようになった︒それが︑アッカドの原型である︒. 大移動を繰りかえした︒その一派がシュメール地方の北辺に定住し︑農耕を営み︑シュメトル人に倣って都市を形. 島からナイル︑シリア.パレスティナ︑そしてティグリスーーユーフラテスの豊穣な文明に引かれて︑なん度となく. 六. 早稲田商学第388号. 999.
(7) メソポタミア︑北シリア︑それに小アジアの東南部にある都市国家を支配下におく広領域国家︑アッカド王国を建. 設するのである︒アッカドという名は︑この王国がメソポタミア中部においたとされる首都︑アガデに由来する. が︑アッカド王国の出現とともに︑メソポタミア中部はアッカド地方と呼ばれることになる︒. アッカドによって形成された広領域国家は︑領土を植民地化してそれを一つの政治・経済システムに再編すると. いう強固な統合力をもった国家ではなかった︒それは︑他国の都市の掠奪︑交易基地の確保︑金属その他の資源の. 獲得などを目的とする︑遠征をべースにしてできあがった荒削りな国家だった︒しかしアッカド王国は︑そういう かたちでメソポタミアに最初の申央集権国家を打ちたてたのである︒. アッカド人もまた︑メソポタミアの広大な世界を統治するために︑再分配を主要な分業統合システムとする社会. をつくりあげようとした︒強大な軍事力を背景にした王権によつて︑各都市国家の首長を総督に任命し︑これを官 僚制度のもとに動かすことによって︑広大な国家を運営しようとしたのである︒. しかしメソポタミア全域にわたる広領域国家の統合のシステムが︑再分配だけで十分なわけがない︒アッカド は︑それを補うために︑市場を大きく進化させたはずである︒. 複数の都市が一つの国家のなかにとりこまれることによって︑都市間の交流密度がこれまで以上に高められたこ. とだろう︒それとともに各都市の内部と周辺のあいだの人・モノ・情報の流れがはげしくなっていったことだろ. う︒その動きと密接に結びついているはずである︒アッカド時代には︑人々が私的に農耕地を開墾し︑それを個人. 所有していく動きがうかがえるようになるのである︒共同所有としてはじめられた農耕生活に個人所有がはいりこ. んだことは大きな変化だった︒その割合はわずかではあったが︑私的所有によって︑人々の農耕生産に競争がはい りこむようになったのである︒. 998. 市場と文明の進化誌② 七.
(8) 997. ユーフラテス河の申流に位置したとされるアッカドの首都︑アガデはまだ発見されていない︒遺跡が見つかれば. る︒これを機に︑自己の危険負担と利益計算によって営利を追求する遼隔地商業の歴史がはじまり︑それとともに. 国家の大経済システムの陰で︑私的な交易活動が芽生えたことは︑市場の歴史にとって一つの画期的事件であ. 要に応えるべく︑公の仕事の背後で︑私的な営利活動を展開していたのであろう︒. る︒この動きは︑農耕地の個人所有化のはじまりとも関連しているのだろう︒交易者たちは︑その私的所有者の需. 易活動に便乗して︑交易者たちがみずからの利益をもあげようと努力していた様子を伝える史料が発見されてい. しかしここには︑新しい動き︑つまり私的な活動が生じはじめてもいるのである︒宮廷の命令で従事している交. れた様子である︒. く︑王から授けられた耕作地︑あるいはその徴税権であった︒その意味で︑アッカドの交易は国家事業として営ま. を王国の交易者︑つまり官吏に任命し︑国家のために働かせた︒交易者の報酬は︑交易活動からあがる利益ではな. 朝期に︑各都市国家の王宮や神殿の交易を組織した人々︑あるいはその末蕎たちだったらしい︒アッカドは︑彼ら. アッカドの交易は︑基本的には支配者の独占だった︒王国の交易を担った主要な交易者は︑シュメールの初期王. アッカド王国は︑強大な中央集権的再分配システムのなかに︑それを補完する市場システムを大きく内蔵させな 訓 がら︑その外部の世界との交易に乗りだした︒. 巨大国家を背景にした交易. いは都市間に市場の世界を大きく拡げたと想像されるのである︒. もつとたしかなことがわかるだろうが︑おそらくアッカド社会は︑首都や自国に再編成した諸都市の内部に︑ある. 八. 早稲田商学第388号.
(9) 市場と文明の進化誌②. 市場がその取引の自由度を高めていくことになるからである︒しかし本格的にそうなっていくまでにはもう少し時. 間がかけられねばならない︒この時代には私経済化の動きはまだかすかにしか感じとれない︒その意味でアッカド の交易は︑基本的には国家の独占事業として営まれていたと推測してよいだろう︒. アッカドが国営事業としてメソポタミアから外に向けて輸出したものは︑穀物・ゴマ・油・羊毛・織物・皮革な. どの農産物︑輸入したものは︑石材・木材・金属などの原材料資原で︑その種類はシュメールの都市国家時代とほ. ぼかわらない︒しかしその規模と内容ははるかに大きくなった︒アッカドの諸王︑それと手を結んだ諸勢力の手に. 強大な軍事力が集中すると同時に︑租税・貢ぎ物・戦利晶などにより莫大な富が蓄積されたからである︒. 資源の大量調達. シャルル・キーン以前から︑北シリアや東地中海沿岸地方は︑メソポタミア農耕民のあこがれの地であった︒そ. こは彼らが必要とした木材︵とりわけ杉材︶︑貴金属ならび鉱物資源の原産地であったからである︒あこがれの地. は遠かった︒原産地を出た産物は︑ユーフラテス川の中流域を経由してメソポタミアの南部まで運ばれてきたが︑. 交易路上にはいくつもの交易勢力が存在し︑そこを経由するたびにその量が目減りした︒. もっと多くの資源を直接手にいれたい︒これは都市国家の形成に参加したメソポタミア人に芙通の願いだった. が︑長いあいだこの夢は果たせなかった︒ところがそのメソポタミアに強大な軍事国家ができあがったのである︒. 人々は交易の拠点を支配し︑原産地まで手をのばそうとするはげしい意欲をもたずにはいなかった︒アッカドの交. 易者は︑ユーZフテス河ぞいにある交易路を軍事的に制圧させると同時に︑﹁杉の森﹂と﹁銀の山﹂︑すなわちレバ. ノン山脈からタウルス山脈までの諾地域を服属させつつ交易し︑大量の貴金属・原材料資原を手にいれた様子であ. 996.
(10) 一〇. 早稲田商学第388号. る︒. シュメールの初期王朝期には︑都市国家の交易者たちは︑ペルシア湾岸にある交易の拠点にみずから出向くのが. つねであった︒だが自分たちの企画でキャラヴァンや船団を組織し︑遠隔の地に旅立つ交易は︑つねに危険ととな. りあわせのものだった︒しかもその割にはもちかえることのできる交易品の種類・数量は少なかったのである︒. みずからの国に他国の交易者を招きいれ︑労せずして豊富な輸入品を手にいれるというのは︑メソポタミア人の. 積年の願いだった︒それがいまや現実のものとなったのである︒全メソポタミアを支配下におき︑巨万の富を蓄え た巨大な王国となったからである︒. テイルムン︵シュメール語ではディルムン︑バーレーン島を中心としたペルシア湾商岸地域︶︑マガン︵ペルシ. ア湾の東出口あたりの地域︶︑さらにははるか東のインダス河谷文明圏に属するメルッハ︵ペルシア湾の出入口︑. ホルムズ海峡よりもさらに東方の世界︶の交易者たちが︑ユーフラテス河︑それに結びついた運河網を船でさかの. ぼって︑王国の首都アガデまでやってきた︑とシャルル・キーン王の碑文は伝えている︒. 王国の交易者は︑異国の交易者を自国に往来させることによって︑大量の資源を獲得する役割を栗たしたはずで ある︒. 交易によって獲得された大量の資源は︑王国の手工業部門によって農工具にかえられ︑人々に配分されたことだ. ろう︒豊富な農工具は︑農耕に利用可能な土地の開墾︑灌概網の建設をいっきに進め︑農耕世界を大きく拡大させ た︒. 軍事国家は︑その荒々しい力で︑広大な領域をその版図のなかに組みこみ︑それによって無数の人々に︑大地の. 恵みを豊かに配分していくのである︒こうして農耕文明1は︑メソポタミア全域に拡散していくことになる︒. 995.
(11) バビロン第一王朝. 軍事力を背景にした農耕文明1の拡散は︑一回だけではおわらなかった︒メソポタミアは︑それを繰りかえしな. がら︑農耕文明1の最後の時期に︑最大の広領域国家︑バビロン第一王朝を登場させ︑農耕文明を極限まで拡散さ せるのである︒. 前二一五四年︑アッカド王国は︑内部のシュメール系都市の反乱と外部からの山岳民の侵入によって瓦解してし. まう︒約一世紀にわたる分裂の時代を経て︑メソポタミアにはあらたな軍事的広領域国家が出現する︒シュメール. の都市ウルの総督︑ウル・ナンム︵在位前二二一−二〇九四年︶によって建てられたウル第三王朝︵前二一一 一−二〇〇四年︶である︒. ウル王国もまた︑国内の緊張と外からの圧追を受け︑崩壊する︒前二〇〇四年のことである︒ウル崩壊後約二五. 〇年聞︑複数の領域国家が分立する時代がつづくが︑前一八O○年ごろ︑その小国分立の時代をおわらせ︑メソポ タミアを再統一しようとする動きが各地ではじまる︒. その一つは︑ラルサ王リーム・スィーンによってはじめられた南部統一の動き︑いま一つは︑シャムシー・アダ. ド一世︵在位前一七五〇1一七一七年︶をいただくアッシリアがはじめた北部統一の動きである︒この二つの動き. に合わせるように中部メソポタミアの統一を開始するのが︑バビロン第一王朝である︒. バピロン第一王朝を建設したのは︑アラビア半島︑シナイ半島から移動してきた砂漢の民︑セム系のアムル人で. ある︒彼らは︑ウル第三王覇崩壊後の小国分立の時代に︑アッカドの地︑都市バビロンに侵入し︑王朝を立ててい た︒. メソポタミアに統一の動きがはじまったとき︑アムル人たちは︑第六代の王ハンムラピ︵在位一七九二−一七五. 994. 市場と文明の進化誌② 二.
(12) 三. 早稲田商学第388号. ○年︶のもとに結集して︑アッカド地方を統一しつつ︑南部を攻め︑シュメール地方を自国に編入した︒アッカド. 地方とシュメール地方を合わせて︑バビロニア地方と呼ぶようになるのはこのときからである︒. バビロニアを本拠地としたアムル人はつぎに北に向かい︑北部メソポタミアを制圧し︑かつてアッカドやウルが やったのと同じように全メソポタミアを統一するのである︒. バビロン第一王朝は︑これまでの広領域国家のなかで︑もっとも統合力の高い国家を形成した︒. アッカド王国︑ウル王国も︑軍事力を背景にした強力な王権によって統合力のある国家をつくった︒王国は支配. 下の各都市に総督をおき︑これを官僚制度のもとに動かすことによって広大な国家を統治しようとした︒しかしそ. の統治の仕方はまだゆるやかだった︒総督に任じられたのは︑各都市国家のかつての首長で︑彼らには︑その地で. 独自の財政・行政・司法権を行使しうる余地が認められていたからである︒各地方都市は︑それなりの独立性を 保った小国家でもあったのである︒. これに対してバビロニア時代の地方都市の総督は︑王によって任命され︑行政上の問題を処理するだけの行政官. 吏におきかえられた︒地方都市は︑王国を運営する一つの行政単位にかわったのである︒そして王国は︑この官僚. 制度を動かすために︑一つの包括的な法体系をつくった︒ハンムラピを頂点にし︑そこにメソポタミア全領域の財. 政・行政・司法・軍事のすべての権隈を統一した﹁ハンムラピ法典﹂がそれである︒法典の整備は大きな統合力を. 発揮した︒これによってメソポタミアのすべての人々を統一国家のメンバーに組みいれ︑その生活のすべてを法に よってコントロールすることができるようになったからである︒. 993.
(13) 市場と文明の進化茜② ;. 共同所有と個人所有の組み合わせ. 勾. こうした豊かな統含力をつくりだしながら︑バビロニアの王国もまた再分配的な方法と市場システムとの組み合 わせで国内を統合しようとした︒. もちろん主要な統合システムは再分配だつた︒バビロン第一王朝は︑租税というかたちで収穫を申央に集め︑そ. れによって獲得した資源を行政的な方法で各地に配給することによって人々の基本的な生活を実現させようとし. た︒しかしハンムラピの王国は︑その再分配システムをわずかながら後退させ︑その分市場システムを前進させた. のではないだろうか︒王国は︑共同所有と個人所有を組み合わせた農耕社会をつくりあげようとしたように想像さ れるからである︒. すでにふれたように︑アッカド時代には︑農耕地の共同所有が分解をはじめ︑私的な土地所有にもとづく農耕が. 姿をあらわしはじめていた︒またそうした個人所有者の需要に応じようとする私的な交易も登場をはじめていた︒. その私的所有・私的交易はアッカドの崩壊後にはさらに大きく進展していた様子である︒それをうかががわせるの が︑銀通貨の発達である︒. 貨幣は︑人類の社会が交換を発展・促進させるために開発した一つの補助手段である︒貨幣は価値尺度・価値貯. 蔵・交換手段の三つの役割をもつが︑それは最初︑商品貨幣というかたちであらわれた︒文化圏の違いによって︑ 家畜・穀物・労働用具・装身具・金属など︑多様な商品が貨幣として使われてきた︒. このなかで︑多くの民族が採用したのが金属︑とりわけ銀だった︒銀は供給量がかぎられ︑その価値が重量と純. 度できまり︑椙場の変動を受けることが少なかったからである︒また銀は均質性が高く︑少量でも高い価値を有し. たから︑遠くへもち運ぶのにも適していた︒さらに銀には耐久性があり︑将来の購買力を保存するのに便利だった. 992.
(14) 一囚. 早稲田商学第388号. からであろう︒. メソポタミア人も銀を選択し︑前一〇〇〇年代のはじめ︑ウル第三王朝崩壊後の小国分立の時代には︑これを通. 貨として定着させていたのである︒この時期︑銀はまだ鋳造されていない︒それは粒銀・割銀・銀線・延べ棒ある. いは腕輸・遺具のかたちであったが︑一シケル︵あるいはシクル︑約八グラム︶︑一ミナ︵あるいはムナ・マナ・. マヌ︑約五〇〇グラム︶という重量単位であらわされ︑家や土地︑奴隷や家畜︑農産物や衣服の価値をあらわす基 準︑その支払い手段︑価値保存手段として広く流通していた︒. もし農耕地がすべて共同所有だったとしたら︑交換の手段はそれほど必要ではなかったはずである︒こうした銀. 通貨の定着は︑アッカド崩壊後に進展した農耕地の個人所有化の動きをあらわしているのではないか︒そして人々. が再分配システムのなかに︑市場の世界を大きく拡大させたことを物語っているのではないだろうか︒. 私経済化と市場の進化. バビロニアの王国が登場するころには︑個人所有︑それに結びついた市場生活は︑もはや無視できないところま. でやってきていた︒これを認めなければ︑王国の建設はできなかったのではないか︒いや王国は︑それを希望する. 人々の利益を代表することによって建設することができたのだといったほうがよいだろうか︒. もちろんこの時代には︑個人所有にも︑そして市場化にもまだ大きな制約があったはずである︒それを自由にし. ては︑中央集権国家は成りたたなかったからである︒王国は︑個人所有・市場システムを大きくコントロiルしつ. つ︑それと共同所有・再分配とを組みあわせる体制をつくったのではないだろうか︒. 家族あるいは少数の奴隷を使って農耕・手工業を営む小規模な家政が︑その生活の基盤を拡大するためにはどう. 991.
(15) しても資金が必要になる︒また天侯の異変︑自然の災害︑戦災あるいは社会の変化によって苦境に陥った小さな経. 済単位が︑そこから脱出するためにも資金は欠かせなかった︒この資金の提供者として登場するのが︑王国の交易. 者︑﹁タムカールム﹂であった︒後述のように︑タムカールムは王国の交易にたずさわりつつ︑自己の利益を追求 した︒彼らはその利益の一部を︑私的所有者に貸しつけたのである︒. もちろん中央集権的再分配社会では︑私人による資金の貸しつけを無制限に認めることはできない︒それを規制. したのが﹁ハンムラピ法典﹂である︒法典はその多くの条文のなかに︑タムカールムを貸し手として登場させてい. る︒貸しつけ利子の上限を定めたのが第八九条で︑銀では二〇パーセント︑オオムギの場合には三三と三分の一 パーセントになっている︒これがこの時代のほぼ適正な利率であったのであろう︒. ﹁ハンムラピ法典﹂に先立つエシュヌンナの﹁ビララマ法典﹂でも同じ利率が定められている︒しかし現実に貸. しつけで使われる利率はしだいにこれを越えて上昇する傾向をもっていた様子である︒タムカールムは︑債権者と. してこの貸しつけ業からも利益をえ︑私経済化する杜会のなかで︑それを促進する重要な存在ともなっていた︒. 私経済化の進展とともに︑各家政経済が生みだす生産物を売買する市場も︑都市の内部に︑そして国内に広がり. つつあったのではないだろうか︒この時代に残された碑文を見るかぎりでは︑商晶の価格は王の命令によってきめ. られている︒しかしさまざまな文書を比較検討してみると︑実際の価格は︑各地方の生産状況や需要によってき まっていた︒現実には市場価格が支配的であった様子である︒. バビロニアのどの都市の遺跡にも︑商人が店をならべられるような市場広場を確認することはできない︒しかし. 人の往来のはげしい通りや城門の近くに︑都市に暮らす人々の生活に必要な野菜・塩・魚・布・土器その他の産物. をならべる市場が立ったことであろう︒また私的な家政経済がその生産のために使う道具や原材料を売買する市場. 990. 市場と文明の進化誌② 一五.
(16) ;. 早稲田商学第388号. が開かれたことであろう︒そしてここにはこの土地の特定の産物を買いつけにやってくる私的な商人たちも集まっ たはずである︒. とはいえ︑社会内部の市場の世界はおのずとかぎられていた︒なぜならメソポタミアは︑ほほどこでも似たよう. な産物しかとれず︑このような世界では︑分業の成立する余地はかぎられざるをえなかったからである︒. 交易と商業の組み合わせ. こうした国内の市場の進化を反映して︑社会間の交易もまた私的な活動の余地を高めた様子である︒. 王は︑アッカド崩壊後に私的商業の腕を磨いた交易者︑つまり遠隔地商人を国家の交易を担当する官吏に任命し. た︒商人たちもまたそれにしたがった︒交易の最大の依頼主が宮廷となったいま︑その依頼を受けなければ︑仕事. の余地は極端にせばめられてしまうからである︒また王の商人となることによってえられるメリットも大きかっ. た︒強大な王権の保護のもとにはいれば︑旅の安全も確保できたし︑かずかずの特権も享受することができたから である︒. こうして商人たちはふたたび中央集権国家の強力なコントロールのもとに加わり︑宮廷の委託を受ける王の交易. 者︑タムカールムになったのである︒そのタムカiルムの行動を規定したのが﹁ハンムラピ法典﹂の八八−一〇七 条なのである︒. 王は︑法によってタムカールムの営利動機を抑えると同時に︑職務に対する報酬として農耕地を用意し︑商人た. ちを身分動機によって動かそうとしたが︑実際には︑彼らを王国の官吏にすることはむずかしかった様子である︒. タムカールムは︑一方では宮廷が発注する交易にたずさわりつつ︑他方では私的な遠隔地商人として︑自己の利益. 989.
(17) を追求し︑資金を蓄積していた様子である︒遠隔地商業から生みだされたこの利潤の一部が︑先述の私的な経営を する農民への貸しつけに向けられたのであろう︒. いずれにしても︑公の交易システムに私的な商業システムがはいりこむことによって︑交易活動は大きく進展し. た︒交易に使われる銀通貨もまた大きく進化し︑この時代の模形文字文書によれば︑重量と純度を保証する﹁刻印 された銀﹂が使われるようになった︒. 豊かな配分. バビロニアに本拠をおいたメソポタミアの強国が︑国境を越えて輸出した品目は︑どのようなものだったのだろ. うか︒それはバビロニアの農産物で︑前二〇〇〇年代以来ほとんど変化しない︒かわったといえばコムギの輸出量. が減ったことぐらいである︒この時代︑メソポタミアの南部に塩害が発生し︑コムギの生産量が減っていたからで ある︒. これらの輸出晶と交換にメソポタミアに輸入されたものも︑銅・錫・木材などの原材料︑オリーブ一ブドウ酒な. どの嗜好品︑金・銀・宝石・象牙などの蓉修品で︑その構成要素はほぼかわらない︒いずれの品々も︑バビロニア. 国内の河川ぞいに走る交易ルートを利用したロバのキャラヴァンで︑あるいはティグリス・ユーZフテス︑その支 流や運河を使った船便で運ばれた︒. しかしその輸出先・輸入先の重心はしだいに東南から西北へ︑つまりペルシア湾圏から地中海沿岸地域へと移り. はじめているのである︒その理由の一つは︑前一〇〇〇年代の初期には︑ペルシア湾文明圏が衰退し︑それから数. 百年後には︑さらに遠方のインダス河谷文明が崩壊をはじめ︑メソポタミアの東に形成された一つの交流世界がそ. 988. 市場と文明の進化誌② 一七.
(18) 一八. 早稲田商学第388号. のおわりを迎えて い た か ら だ ろ う ︒. いま一つの理由は︑東地中海地域のシリア海岸・キュプロス島・クレタ島に高度に発達した港湾都市︑商業都市. が生まれたからであろう︒それを媒介に︑ヒッタイト・エジプトといった強大な中央集権国家が交易に乗りだした. からだろう︒それら港湾都市︑中央集権国家を構成要素にした一つの新しい文明交流圏︑東地申海文明交流圏が形 成されていたからであろう︒. バビロニアも︑こうした新しい諾状況に創造的に対応し︑東地中海地域へのルートを切りひらき︑交易市場を開. 拓した︒こうした交易市場戦略をもとに︑メソポタミアには大量の資源・道具が運びこまれ︑それが再分配システ ムと市場システムによって人々の手にわたったのである︒. これまでメソポタミアの灌混施設は︑ユーフラテス河が中心だった︒テイグリス河は流水量が多く︑流速が速. かったからである︒しかも︑それが季節的に大きく変動したからである︒しかしそれを制する遺具・技術の開発が. 大きく進展し︑多くの人々に行きわたったのであろう︒この時代からティグリス河流域が豊かな農耕地にかわって 5︺ いくのである︒. こうして前一〇〇〇年代の前半︑メソポタミアは︑再分配と市場を組みあわせた重層な中央集権社会をつくりあ. げた︒ハンムラピとその後継者たちの支配下にはいることによって︑人々の生活がきびしい状況におかれることも. あつたかもしれない︒しかしこの広領域社会は間違いなく︑共同所有地を拡大し︑個人所有地を増大させた︒メソ. ポタミア人はこの世界に参加することによって︑どこよりも豊かな大地の恵みの配分にあずかったのではないだろ うか︒. 987.
(19) メソポタミアの退場. 前一〇〇〇年代のなかごろ︑バビロニアに本拠をおいたメソポタミアの中央集権国家︑バビロン第一王朝は衰退. に向かう︒それにかわって︑メソポタミアを支配するのは北に本拠をおく中期アッシリア王国であった︒. アッシリアは︑前八世紀︑サルゴンニ世︵在位前七二一−七〇五年︶のときに︑地中海からペルシア湾にいたる. 王国を築きあげる︒さらに前七世紀︑センナケリブ︵在位前七〇四−六八一年︶のときには︑地中海岸を南下して エジプトの国境まで達する巨大な国家をつくりあげる︒. しかしこのとき︑すでに西アジア・地中海の農耕文明がn段階にはいっていて︑メソポタミアはもはや文明の中. 心ではなくなってしまうのである︒その意味では︑バビロン第一王朝は︑メソポタミアの農耕文明1の最後の統一. 国家だった︒メソポタミアは︑その最後に最大の広領域国家を登場させることによって︑市場と文明の可能性をぎ りぎりまで拓いたのである︒. エジプト. それでは︑東地中海にできた文明交流圏を舞台に︑メソポタミアと大きく交流をすることになるエジプトに話を 向けよう︒. 2. ナイルの地. エジプトは︑天然の要害に恵まれていた︒北には地中海があって︑外に向けて開かれている︒しかし南には六つ. のカタラクト︵急滞・岩床︶︑東にはアラビア砂漢︑西にはリビュア砂漢があつて︑これらが自然の防壁を形成し. ていた︒これによって異民族の流入・混合がおさえられ︑エジプトの農耕文明1は︑エジプト人を中心に形成され. 986. 市場と文明の進化誌② 一九.
(20) 一δ. 早稲田商学第388号. た︒. エジプトの文明形成の仕方は︑メソポタミアのそれと共通点をもっている︒それは︑人々が強大な権力をもつ支. 配者を生み︑その傘下にはいるという収敷度の高い農耕社会をつくったこと︑しかもそれを諸勢力がはげしくぶつ. かる対決の原理によってつくりだした点である︒しかしエジプトでは︑複数の民族の興亡はなかった︒ここで展開. したのは同民族を中心とした興亡だった︒その意味では︑エジプトの文明形成は︑メソポタミアのそれと比べて静 態的である︒. エジプトはアフリカ大陸の北東部に位置している︒そのほとんどが不毛の砂漠である︒人の住めるところは︑こ. こを南北に流れるナイル河の河谷とデルタ地帯にかぎられ︑それはいまもむかしもほとんどかわりはない︒. 古代エジプト人が農耕生活をはじめたのは︑アスワンにある第一カタラクトより地中海の河口まで︑約二一〇〇 キロメートルほどのナイルの流域地帯である︒ 6︺. 前一万一〇〇〇年以前︑ナイル流域は大乾燥期にあった︒それが︑地球の温暖・湿潤化とともにその様相を一変. させ︑大洪水期にはいるのである︒ナイル河は︑その上流で三つの水系を集める︒白ナイル川︑青ナイル川︑そし てアトバラ川である︒ナイルに大洪水期をもたらしたのはこれら河川の増水だった︒. 白ナイルは︑ザイール・ウガンダ国境のルウェンゾリ山群に源を発し︑その流れはいったんヴィクトリア湖には. いる︒地球環境の変化は︑ヴィクトリア湖一帯を湿潤化させ︑湖水位を上昇させたのである︒それ以来︑白ナイル は年問を通して豊かな水量をナイルに供給するようになったのである︒. これに輸をかけたのが︑エチオピア高原に源流をもつ青ナイル川とアトバラ川の増水である︒五月︑エチオピア. 高原には強い季節風が吹き︑これがたくさんの雨をもたらす︒気侯の変化はこれを増幅させ︑青ナイル川とアトバ. 985.
(21) ラ川の水量を増大させたのである︒. ナイル河は︑この三つの水系の増水によって︑流域に巨大な洪水を引きおこすようになるのである︒. ナイルの氾濫は定期的だった︒それは夏に集申する︒五月︑ふくらんだ青ナイルとアトバラの水がゆるやかに下. 流の水量を増加させる︒エジプトの南境アスワン︑デルタ先端部のメンフィスが増水をはじめるのが︑それぞれ六. 月︑七月︒水位はしだいに高まり︑九月には最高位に達する︒渇水期より七−八メートル上昇した水は︑河岸を越. えて氾濫し︑小高い丘を除く両岸のほぼ一帯を一−ニメートルほど冠水させる︒水は一一月半ばごろから引きはじ め︑あとには上流から運ばれてきた肥沃な泥土が残される︒. 温暖化以来︑ナイルはこの定期的な氾濫現象を繰りかえし︑そのたびに河岸に沖積土を積みあげてきた︒. 統一国家の形成. この豊かなナイルの地に︑狩猟・採集・漁労生活から︑オオムギ・コムギ・豆類・ナツメヤシなどの栽培︑家畜. の飼育にウェートを移していく人々があらわれ︑彼らによって農耕社会が形成されていった︒時代は前六〇〇〇年 ごろ︑エジプトにおける農耕社会の登場は︑メソポタミアよりも少し遅れている︒. 最初の農耕社会は血縁で緒ばれた共同体であった︒これらの血族杜会は︑人口がふえるたびに分裂し︑周辺には. つぎつぎと新しい農耕共同体が形成されていったに違いない︒やがて前三五〇〇年ごろ︑同じ地域にある共同体が 連合して︑灌概技術による農耕社会を形成するようになる︒. それまでエジブト人は︑氾濫による耕地づくりを自然のリズムにまかせてきた︒人々はそこに人工の手を︒加える. ようになったのである︒堤防をつくり︑自然の地形と耕地とを区切った︒そしてその耕地に給水路を使ってナイル. 984. 市場と文明の進化誌② ….
(22) …. 早稲囲商学第388号. の水を流しこみ︑湛水させるようにしたのである︒. やがてナイルの減水とともに水位が低くなると︑人々は湛水していた水を排水路に流し︑豊かな養分と水分を含. んだ耕地を準備したのである︒沈泥が乾くのをまって︑鍬や黎でもって大地を耕し︑播種して翌年の三月から六月. にかけて収穫する農法をつくりあげた︒この作業とともに︑地縁をきずなとする農耕社会が誕生した︒. 灌概農耕社会は︑人々を上手に動かして耕地を開拓・維持させ︑その収穫物の分配をたくみに統轄する行政組. 織︑そうして生まれた耕地や収穫物を外敵の略奪から防ぐ役割を担う軍隊︑鍬や黎などの原材料資源を調達する交. 易︑調達した資源を加工する手工業部門を分立させつつ︑それを一か所に集中させた政治都市を生みだした︒そし. て人々は︑この都市に︑行政・軍隊・交易・手工業を統括する小さな王を誕生させるのである︒. 都市をもつ農耕社会は︑メソポタミアの場合には都市国家と呼んだが︑エジプトでは小王国と呼ばれることにな. る︒都市をもつ灌概農耕社会づくりは各地で進行し︑ナイルの流域にはたくさんの小王国が立ちならんだ︒. 前三三〇〇年ごろになると︑それらの小王国を戦わせて︑統一国家を形成しようとする動きがはじまる︒. 古代エジプトの国土は上・下二つに大別される︒アスワンからカイロ付近までの河谷地帯︑すなわち東西を砂漠. にはさまれ︑高温・乾燥の大陸性気侯のもとにある﹁上エジプト﹂と︑ナイルが地中海に注ぎこむデルタ地帯︑す なわち広い田園をもち︑穏和な地中海性気侯下にある﹁下エジプト﹂である︒. 小王国群の統一運動は両地域で進行したが︑先行したのは上エジプトであった︒上エジプトは︑ホールス種族. ︵鷹神ホールスを守護神とした種族︶を中心とする連合勢力を生みだした︒彼らは︑上エジプトを統一しつつ︑下. エジプトを制圧し︑エジプトに最初の統一国家を出現させるのである︒時代は︑前三一〇〇年ごろのことである︒. 国土が狭かったためであろうか︑メソポタミアよりもさきに統一が実現されることになった︒このときからエジプ. 983.
(23) トは︑. 王朝時代にはいることになる︒. 巨大な再分配型社会. 統一国家の支配者となったのは︑上エジプトのティス︵ティニス︶出身のホールス種族の王たちだった︒彼らは. 大王︵ファラオ︶と呼ばれ︑彼らに支配された統一国家は︑大王国といわれるようになった︒大王国は︑デルタの. かなめにあたるメンフィスに新都を建設した︒初期王朝時代︵第一−二王朝︑前三一〇〇1二七〇〇年︶のはじま りである︒. 大王国ができたとき︑かつての小王国はその州となり︑この統一国家の行政単位となった︒州はエジプト人に. よって﹁セパト﹂と呼ばれた︵ギリシア人はのちにこれを﹁ノモス﹂と呼ぶことになる︶︒そしてかつての小王国. の族長が︑大王国の名門貴族となりつつ︑各セパトの総督に位置づけられたのである︒セパトには行政の中心地︑. メトロポリス︵首府︶がおかれた︒そしてここから往復一日ほどの距離に︑各郡役所の所在地が広がり︑それらを 中心に農耕社会の日々の暮らしが営まれた︒. 各州は大幅な自治権を有していた︒名門貴族たちは︑ファラオに対して貢納や有事のさいの軍務を義務づけられ. てはいたが︑メトロポリスを中心に︑自己の領地を組織する行政・裁判・軍事の権限を留保していた︒各州民も. ファラオに直属することなく︑各郡役所を通じてかつての小王国の族長の支配下に暮らしたのである︒王朝時代の エジプトには︑全国で四〇あまりの州があったと想像されている︒. ファラオは︑広大な直轄領をもつと同時に︑そこに王都を建設した︒それは王の公式の居所であり︑各州あるい は全国を統轄するための中央行政機関がおかれている首都であった︒. 982. 市場と文明の進化誌② ….
(24) =四. 早稲田商学第388号. ファラオがこうした王都をつくりあげ︑再分配社会である各州の頂点に君臨し︑これらをまとめてさらに上位の. 再分配社会をつくりあげたのが古代エジプトであった︒あるいは各州がそれぞれ独自性をもちつつ︑ファラオを頂. 点とする統一国家へ結集することによってつくりあげられた一つの巨大な再分配社会がエジプトだったといいかえ てもよい︒. ファラオを頂点とするエジプトの再分配杜会が︑いつでもゆるぎないものであったわけではない︒中央政権の力. が弱まったり︑あるいは各州が自立するエネルギーを噴きだしたときには︑エジプトは旧時代の小王国を単位とし た再分配社会群に立ちもどつてしまう︒. エジプトに最初の統一政権ができてから︑アレクサンドロろ二世︵大王︑在位前三五六−三二三年︶がやってく. る前⁝二二年までの約三〇〇〇年間に︑こうした求心力を失った時期︵中問期︶を三度ほど数えることができる︒. その中聞期をはさみつつ︑エジプト人は︑ファラオを頂点としてそこに人々が結集する︑収激度の高い統一社会を. 三度にわたってつくりあげた︒古王国時代︵第三−六王朝︑前二七〇〇−二二〇〇年︶︑申王国時代︵第一一−一. 二王朝︑前二〇五〇1一八OO年︶︑そして新王国時代︵第一八−二〇王朝︑前一五七〇1一〇九〇年︶がそれで ある︒. エジプトは︑この三つの時代にわたる大王国︑中央集権的再分配システムを積みあげることによって農耕文明1 を形成し︑それをナイル流域のすみずみにまで拡散したのである︒. ゆるやかな市場の進化. エジプト人は︑農村はもとより︑ 都市においても厳格な再分配システムのなかで暮らした︒その傾向は首都に. 981.
(25) =五. 市場と文明の進化誌②. あってもかわらなかった様子である︒ファラオは南北に細長く広がる国土を統合するために首都を建設した︒古王. 国時代の首都は︑初期王朝時代に引きつづいてメンフィスであったが︑その後ヘラクレオポリス.イセトタウイ. テーべ・アケトゥアトンというふうに︑つぎつぎと移しかえられていつた︒. 首都に住んだのは︑主として貴族・神官・官僚・軍人といった支配者層に属する人々︑そして手工業にたずさわ. る工人層だった︒支配者層は︑ファラオから所領を拝し︑それの生む収穫物で暮らした︒彫刻師・指物師・金属細. 工師・ビーズ職人・陶工・鍛冶職人といった工人層も独立自営の存在ではなかった︒工人たちは︑ファラオ直属の. 工房︑神殿あるいは貴族の経営する工房に雇われ︑賃金は︑暮らしに必要な生活財でもって支給されていた様子で ある︒. そのなかで︑当然のことながら政治都市市場も形成されている︒それを伝えるのが︑古王国時代のサッカラのピ. ラミッドの墓1の墓室画である︒そこには︑都市に暮らす古代エジプト人の売買−物々交換1の情景を描いたいく 7︺ つかの市場画が残されている︒. エジプトの政治都市の市場の進化は︑メソポタミアのそれと比べておだやかであったと想像される︒古代エジプ トには長いあいだ交換手段としての貨幣が導入されなかったからである︒. もちろんエジプト人は︑古王国時代から商品の価値を表示し︑商晶の交換比率を測定するための単位をもってい. ね︒古王国時代に使われたのは︑﹁デベン﹂と﹁シャト﹂である︒十二進法で︑ニアベンが二一シャトに相当し. た︒両者はもともと重量単位︵一デベンは約九〇グラム︑一シャトは七・五グラム︶だったが︑古王国時代のエジ. プト人は︑この単位を金に緒びつけ︑晶物の価格をあらわすときには︑﹁金四シャト相当のベッド﹂とか︑﹁全ニ シャト相当の布地﹂というあらわし方をした︒. 980. 割.
(26) 二宍. 早稲田蘭学第388号. 新王国時代には︑金にかわって銀が墓準金属となり︑十二進法から十進法にかわった︒シャトにかわって﹁キ. テ﹂が使われるようになったのである︒一デベンが一〇キテ︑一キテは約九グラムに相当し︑人々は﹁穀物八袋︑ 銀五キテ相当﹂︑﹁羊六頭︑銀三キテ相当﹂といったあらわし方をした︒. しかし人々の暮らし自体には︑金や銀は無縁なものであった︒エジプト人はこうした価値尺度を使いながら︑現 物の商品を支払い手段︑交換手段にしたのである︒. エジプト国内に通貨が導入されるようになるのは︑前四世紀になってからである︒それは︑エジプトがペルシア. に征服され︑人々がペルシア王のもとで生きた時代だった︒古代エジプト人が︑ファラオをいただいて暮らしてい. た時代には︑貨幣は商品貨幣だったのである︒それで特別不自由はなかった︒交換は物々交換で足りる範囲内にお. さまっていたからである︒それだけに︑エジプトの政治都市に出現した市場の進化はゆるやかとならざるをえな かった︒. しかしそうだからといって︑市場の果たす役割が小さかったわけではない︒エジプトの政治都市市場はそういう. かたちで︑国家の再分配を補完する重要な分業統合システムとなり︑農耕を基本生計戦皓とするナイルの民の日々 の暮らしに欠かせない存在になっていったことだろう︒. 軍事的遠征. エジプト人は︑みずから交易を組織して︑社会間の交易市場に乗りだすことが少なかった︒古代エジプトには︑. 長いあいだ﹁商人﹂という語すらなかった︒商人という言葉は︑新王国時代も後半︵第一九王朝ラムセスニ世時. 代︶になってやっとあらわれるが︑それも宮廷や神殿の使用人︑あるいは外国人商人︵主にシリア人︶をさす言葉. 979.
(27) ゆ. だったのである︒. もちろんそうだからといって︑エジプト人が外の世界と交流しなかったわけではない︒エジプトは︑原材料資原. を産しなかった︒エジプト人もまた︑資源を他国から獲得するという前提に立って灌激農耕社会をつくる運命をも たされていたのである︒. 原材料の獲得をめぐる社会聞の交流は︑まだエジプトが統一国家を建設する以前からはじまっていたが︑上一下. 二つのエジプトがファラオのもとに統一されるようになると︑交流はいちだんと大がかりになっていく︒ナイル一 帯に大規模な土木事業や灌概網の整備がはじめられていくからである︒. エジプトが選択した社会間交流の一つは︑軍事的遠征である︒エジプト人が遠征の対象としたのは︑南のヌビア と東のシナイ半島だった︒. ヌビアは古代エジプトの南の国境︑アスワンから今日のハルトゥームまでの︑六つのカタラクトをもつ長い回廊. に面した地域で︑金をはじめとする鉱物資源の供給地であり︑アフリカ内陸産の貴重晶︑象牙・黒檀などが集結す る交易基地だった︒シナイ半島は金属︑とくに銅の原産地だった︒. 先王朝時代には︑ヌビアとシナイは︑エジプトと同等の関係にあった︒しかしエジブトが統一国家を形成するよ. うになると︑両地域は未開の後進地にかわった︒エジプトはここに遠征を繰りかえし︑在外商館を建設したり︑土 着民を雇って鉱山を開発したりして︑貴重品や資源を獲得したのである︒. 交易の委託. しかし軍事的遠征だけでは︑ 十分な資源の確保はできない︒豊かな社会間の交流︑ 豊富な資源の獲得をめざすさ. 978. 市場と文明の進化誌② 二七.
(28) 二八. 早稲田商学第388号. まざまな試みのなかから︑エジプト人は︑交易をこれを専門とする民族に委託する方法を選択していくのである︒. シリア・パレスティナは︑エジプトにとって特別重要な原材料供給地だった︒この周辺一帯は︑建築材料となる. 石材︑王の墓室をつくるための聖なる木材︑ナイルや地申海を航海する船を建造するための角材の宝庫であった︒. タウルス山脈は銀を産し︑キュプロス島では鋼が採掘された︒それだけではない︒シリア・パレスティナは︑小ア. ジア・メソポタミアなど︑遼隔の地のさまざまな物産・技術・情報が集散する交易拠点でもあった︒. この地域には︑早くから先進農耕社会を相手に︑原材料資原を切りだしてそれを提供する弱小な交易民族が集住. してきた︒エジプト人は︑そこの交易民族の一つ︑ビュブロスに交易を委託した︒ときには圧倒的な政治力や軍事. 力を用い︑ときには下賜品や寄進物を用いて彼らを動かし︑ナイルの恵みを輸出し︑東地中海の資源やそこに集ま る産物を輸入するという国家事業を任せたのである︒. こうした交易の委託は︑エジプトだけでなく︑オリエントのさまざまな農耕社会によって行なわれたのであろ. う︒それによってシリア・パレスティナの交易民族は大きく成長した︒前一〇〇〇年代の初期になると︑彼らは資. 源提供者という役割から脱出し︑交易事業・港湾事業を基礎に︑都市国家を形成するまでの存在になる︒それとと. もに︑シリア・パレスティナは︑オリエントの巨大農耕文明社会の交流舞台︑東地中海文明交流圏になるのであ る︒. それに乗じるようにして︑エジプトもまた︑新王国時代にはここの交易都市国家を媒介に︑小アジアやメソポタ ミアの先進農耕社会と交易を展開するようになるのである︒. 977.
(29) =九. 市場と文明の進化誌②. 列強との交易. 在位前一四二二−二二七七年ごろ︑アメンヘテプ四世. 在. その様子の一端を伝えるのが︑現在のテル・エル・アマルナ︑かつてのエジプトの首都アケトゥアトンから出土 ①① した﹁アマルナ書簡﹂である︒. これは︑前一四世紀︑ファラオ︵アメンヘテプ三世. 位前二二七七−二二五八年ごろ︶が︑西アジアの模形文字圏の諸王と︑バビロニア語でかわした書簡である︒. これによれば︑農耕文明を形成した王たちは︑たがいに﹁贈り物﹂を交換しあっていた︒贈り物のやりとりは︑. 宮廷相互聞の外交関係を維持する目的をもっていたが︑しかしそれだけでなく︑それをべースにしてそれぞれが必 要とするものを融通しあう︑一種の管理的市場交易となっていた様子である︒. ﹁贈り物﹂は高価であればなんでもよかったわけではなく︑申味がそれぞれ指定されていた︒バビロニア王が. ファラオに贈ったものは︑イラン山地︑あるいはそのはるか東の地域を原産地とするラピスラズリその他の貴石類. だった︒アッシリアの宮廷が贈りだしたものは︑馬や車だった︒その見返りとして西アジアの諸王がエジプトから. 期待したものは︑象牙・黒檀︑とりわけナイル河の第一カタラクトの上流地域で掘りだされる黄金だった︒. 黄金は︑はるかな昔から富の象徴であったが︑前一〇〇〇年代の後半になると︑とりわけ高い価値をもつように. なっていた︒それは︑この時期に金が商品交換のべースとなり︑一部分ながらもっとも信頼度の高い支払い手段と なっていたからである︒. ﹁贈り物﹂の交換は︑たがいの善意から出発しているとしても︑それが交易としての要素を含んでいる以上︑相. 互の利害︑損得がはいりこんでくる︒贈り物の品質や数量が問題になるし︑なによりも市場価値が問われることに. なる︒当事者聞ではげしい駆け引きが行なわれた︒エジプト人と先進諸国との交易はすでにその内部に営利の要素. 976.
(30) 皇O. 早稲田商学第388号. をたっぶりともっていたのである︒︒. ﹁贈り物﹂の輸送距離は長く︑旅はつねに危険と背申あわせだつた︒. ︐. −︒﹁・. 西アジアとナイルのあいだを行ききする﹁贈り物﹂は︑陸路・海路いずれのルートもシリア・パレスティナを. 通つた︒陸路ではロバやラバの背に揺られて︑デルタとパレステイナを緒ぶ﹁ホールスの道﹂を通り︑海路では帆. と擢を備えた船で︑シリアの沿岸づたいを運ばれた︒シリア海岸とユーフラテス河のあいだでは︑﹁贈り物﹂はタ ドゥモル︵パルミュラ︶を経由し︑シリア砂漢のステップ・ルートを運ばれた︒. キャラヴァンが一日約三〇キロメiトル進んだとしても︑およそ三か月の長旅となる︒陸路においては︑遊牧民. の暮らすステップ地帯だけでなく︑領主のいる都市のあいだを結ぶ街遺でも略奪が行なわれた︒︑. 海上の場合も事情はかわらなかった︒急激な気象の変化が起こり︑海底に沈んだ﹁贈り物﹂一の数も多かった︒海. 上では海賊行為も横行した︒海賊行為は︑それを生業とする海賊によって行なわれただけでなく︑ときには東地中 海沿岸の港湾都市までがそれに手を染めたのである︒. 一富裕な農耕地. 新王国時代のエジプトも︑一﹂うした営利性の高い︑危険な要素を多くもつ先進文明国との交易事業を︑ふたたび. ビユブロスに委託したのである︒ビユブロスはこのころにはすでに大きく成長し︑レバノンを代表する都市国家に 変貌していた︒. エジプトはビュブロスに軍隊を上陸させ︑ここをみずからの国港にすると同時に︑その後背地を自国の領土にす. るのである︒そうしながら︑ピュブロスの領主や神殿に対してさまざまな寄進物を贈り︑その優れた交易の腕を発. 975.
(31) 市場と文明の進化誌② 三. 揮させようとした︒. ビュブロスもまたこれに応えた︒そうすることによって利益をえ︑一つの民族として発展するチャンスが保障さ. れたからである︒彼らは臣隷国として︑宗主国エジプトの船団やキャラヴァンの世話をし︑﹁贈り物﹂を旅先に向. けて輸送する手はずを整え︑人やモノの滞在申や旅の途申の安全を確保する任務を果たしたのである︒. 交易都市ビュブロスの存在とその役割を抜きにして︑エジプトの交易はありえなかった︒エジプトは彼らを媒介. にして西アジアの文明国との交易に参加したのである︒彼らの力を借りて︑外部からさまざまな資源を獲得したの である︒. エジプトの交易は国家の独占だった︒しかもこの交易は︑このように他国の交易者に依存する方法だった︒しか. しこういう間接的な方法で︑エジプトは交易市場を育み︑社会聞の交流をつくりだしたのである︒それによってえ. た豊富な原材料資源を再分配を主︑市場を従とする分業統合システムの組み合わせによって人々に分配し︑ナイル 流域を西アジア・地中海でもっとも富裕な農耕地に仕上げたのである︒. ナイルのたまものを手に. こうしてエジプトはムギ類をはじめとする豊かな農産物をつくりだしていくのだが︑それではこの大地の恵み. は︑この国の庶民に十分に配分されたのだろうか︒この問いに対する過去の見解はその多くが否定的である︒. たとえば古代エジプト人が後世に残した巨大建造物︵ピラミッド・神殿・墓陵︶に関しては︑つぎのような見方. が支配的であった︒これらの建造物はすべて強大な権力を握った支配階級のためのものであって︑民衆は収穫物の. 多くをそれらの建設に振りむけねばならなかつた︒それどころか人々は︑それらをつくるために奴隷として働かさ. 974.
(32) 一三. 早稲田商学第388号. れた︒巨大建造物は絶対的権カのあかしであり︑その支配下にあった庶民の犠牲の象徴であると︒. たしかにファラオ︵大王︶の権力・権威は絶大だった︒強大な権力者を登場させ︑人々を緒集させなければ農耕. ・. 地の開拓・縫持は不可能だったからである︒絶対的な権威者を生みだし︑人々を同意させなければ資源の公平な再. 分配は実現できなかったからである︒. しかし権力の集中と民衆の犠牲はかならずしも一致しない︒吉代エジプトではむしろ︑権力の集申は民衆に大き. な恩恵をもたらす役割を果たしたのではないだろうか︒それを裏づけるのが︑大ピラミッド︵クフ王のピラミッ. ド︶建設にたずさわった人々の墓︵ワークマンズ・ビレッジ遺跡︶を発掘・調査したエジプト考古庁の最新の研究 報告である︒. レポートはつぎのように述べている︒クフ王のピラミッドを建てたのは奴隷ではなく︑みずからの意志で働きに. 出たごく普通の農民︑その家族だった︒そして彼らが従事したピラミッド建設は︑実は国家権力を活用し︑ナイル 河の氾濫期を利用して遂行された有償の公共事業︑国家プロジェクトの一つだったと︒. おそらくそうだったのであろう︒豊かな大地の恵みを産出するためには︑青鋼器をはじめとする最先端の農耕具. が必要だった︒うるおいある農耕生活を送るためには︑こまごまとした生活品が欠かせなかった︒国家はそれらの. 配分に総力をあげた︒しかし配給だけでは満足しない人々もいた︒彼らは不足分を︑政治都市で開かれている市場. で買おうとした︒市場での購入には資金︵商品貨幣︶が不可欠だった︒人々は農閑期の公共事業︑国家プロジェク トに参画することによって︑それを確保したのであろう︒. 大ピラミッドに代表される巨大建造物は︑国家権力の象徴であると同時に︑民衆が手にした配給・資金の豊富さ. のあかしだつた︒古代エジプトの庶民もまた︑強大な国力によって外都世界と交流し︑その成果を再分配と市場の. 973.
(33) 三三. 市場と文明の進化誌②. 組み合わせによって配分する巨大農耕国家に参加することによって︑どこよりも豊かな大地の恵み︑ナイルのたま ものを手にしたのである︒. 東地中海文明交流圏の崩壊. メソポタミアやエジプトに代表されるように︑西アジア・地中海では︑人々が農耕文明形成の舞台として選んだ. のは︑大河の流域だった︒そこがこの時代にあっては︑もっとも豊かな恵みの期待できる大地だったのであろう︒. しかしここには︑農耕の展開に必要な原材料資原はない︒人々は︑農耕地と資源地とを交流させる体制をつくりだ すことによって資源を獲得し︑それによって農耕文明を形成しようとした︒. 人々が選択した方法は︑一方では︑再分配を主︑市場を従とする農耕社会をつくりだすことだった︒そして他方. では︑この社会と資源供給地とのあいだに交易市場を育み︑それを媒介にして資源を確保し︑農耕文明を形成する ことだった︒. 人々は︑小さな集落からはじまった農耕社会を︑都市国家︵小王国︶︑広領域国家︵大王国︶へと大きく進化さ. せ︑政治都市市場・交易市場を拡大し︑さらに豊かな交流をつくりだすことによって︑文明を拡散させた︒. ここで支配的だったのは︑集申の原理である︒人々は︑強大な権力を一手に握る支配者を生み︑そこに自分たち. が結集するという収敏度の高い社会をつくりだすことによって︑市場と文明を形成した︒またここでは対決の原理. が支配的だった︒人々は︑同民族同←⊥をはげしくぶつかりあわせることによって統一国家をつくりあげた︒それだ. けではない︒ここでは出自を異にする複数の民族を登場させ︑それらをはげしく興亡させることによって︑市場と 文明の可能性を拓く遺を選択したのである︒. 972.
(34) 三四. 早稲田商学第388号. さて前二二世紀末になると︑西アジア・地中海の文明形成を大きく進展させた東地申海文明交流圏は崩壊をはじ. める︒そのきっかけは︑前二二世紀末に起きたインド・ゲルマン語族に属する民族︑﹁海の民﹂の大移動であつたω. ﹁海の民﹂は︑工ーゲ海域をわたって攻めこんできて︑東地中海交易の中心諸都市を征服・圧迫していく︒彼らの. 来襲はまた︑申央アナトリアや上メソポタミアに住む小アジア諸民族集団の移動を引きおこし︑それによって大国 ヒッタイトが瓦解していく︒. 前=一世紀には︑﹁海の民﹂はナイルのデルタ地帯にも追る︒それに呼応して︑西方の砂漠からはリビュア人が 侵攻をはじめ︑第二〇王朝後半期にあったエジプトも凋落していく︒. この時代︑西アジア・地中海で大きな勢力を誇ったのは︑アッシリアだけだった︒しかしそのアッシリアも東地. 中海沿岸に出ることができなかった︒そこへ向かう街道には︑﹁新ヒッタイト﹂あるいは﹁後ヒッタイト﹂などと. 呼ばれ︑かつてのヒッタイト王国の伝統を継承しようとする諾勢力が生まれて︑アッシリアの行く手を阻んでいた. からである︒こうして東地中海文明交流圏は崩壊し︑これとともにあらたな勢力が生まれ︑西アジア・地中海の農 耕文明は皿段階に向かうことになるのである︒. 中国世界. その検討にはいるまえに︑ユーラシア大陸の東︑申国世界に形成された農耕文明1に目を転ずることにしよう︒. 二節. 二つの基本作物. 申国世界の農耕文明化は︑ 人々が異なる二つの地域で︑それぞれ異なる墓本作物を選択したごとからはじまっ. 971.
(35) た︒. 申国世界はユーラシア大陸の東に位置する広大な地域である︒ここは地形の境界となる東西の基本線︑秦嶺・潅. 河線によって南北二つに分けられる︒黄河を中心とした黄土地帯からなる北の華北︑長江を中心とした河谷低地か らなる南の江南である︒. 華北では二種の基本作物が選択された︒一つは在来系︑いま一つは外来系である︒華北は︑西アジア・地中海と. 同じ乾燥地帯に属しているが︑西アジア・地中海が冬雨型の乾燥地帯であるのに対して︑夏に雨が集中する夏雨タ. イプの乾燥地帯である︒ここに生育する植物のなかで︑もっとも生産性・貯蔵性の高かったのが︑一年生の夏植. 物︑雑穀︵アワ・キビなど︶であった︒華北の人々は︑このなかのアワを基本作物として選択したのである︒しか. し華北人が選択したのはこれだけではなかった︒彼らは西方から伝えられた外来系基本作物︑ムギ類︵オオムギ︶ をも受容し︑これとアワとを組みあわせた農耕を展開するのである︒. 江南は︑夏にモンスーン雨期が集中する夏雨型の湿潤地帯である︒この生態系のなかでもっとも高い生産性・貯. 蔵性をもつ植物が︑一年生︑夏作の雑穀の一種︑イネであった︒江南の人々はこれを基本作物として選択し︑水田 というあらたな栽培地を用意して農耕を展開するのである︒. アワ・ムギ類とイネは︑それぞれ異なる基本作物だった︒この基本作物の違いが︑華北と江南で︑それぞれ異な. る生活様式11文化を育んでいく︒しかし中国世界では︑この異なった生活様式が︑それぞれ独立した文明とはなら. なかった︒二つの文化は相互にぶつかりつつも︑やがて一つの文明n中国文明に融合をしていくことになる︒ 農耕文明化に先行した定住化の時代から話をはじめよう︒. 970. 市場と文明の進化誌②. 婁.
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