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パラグアイの幼児教育改革とその実践的展開

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Academic year: 2021

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(1)平成19年度 学位論文. パラグアイの幼児教育改革とその実践的展開. 兵庫教育大学大学院 修士課程 学校教青研究科 学校教育専攻 幼年教育コース. 長 尾和 美 儲06069C 指導教員:佐藤哲也 准教授.

(2) 目次. はじめに ・疇…. uuu唖日u層u暎麟蟹日’賑u. 灘 7. 第1章パラグアイにおける幼児教育の背景 ・一・・… 一。・. 3. 第壌節 パラグアイ共和飼の歴史と文化 ・・一・・ 第2節 ラテンアメリカにおけるパラグアイの幼溌教育 ・. 鷲. 第3節 幼児教育をめぐる人口動態と貧困の濁題 ・・・・・・…. η. 第2章パラグアイにおける幼児教育改革 ・…. D一・・・…. 第肇節 国際駕時代におけるパラグアイの幼児教育法政 ・・. 第2節 パラグアイにおける幼児教育の現状 ・・一・・ 第3節 幼児・就学前教育改善プログラム ・・・…. 薗 舖. 鐙 35 42. 第3章 パラグアイにおける幼児教育改革の現状 ・・・・・・・…. 第壌節フィールド・ワークから見えるもの ・. ・. 娼. 第2節 保育現場からの声 ・・・・・・…. 聡. 第3節 フィールド・ワークからの考察と分暴. §3. おわ攣に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 引用参考文献一覧 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 文献 論文. その他. 参考資料. ①パラグアイ地選 ②パラグアイ教育制度 ③パラグアイ教育省組織構成図 ④アンケート質周内容く原文・和訳文). 謝辞. 鎗 §7.

(3) はじめに 南米パラグアイは日本にとって「遠い」国である。文字通りまさに地球の裏側,反対側 にある。「開発(または発展)途上国」ωと称され,われわれ日本人には情報も少なく,興 味・関心が低いと言っても過言ではない。私は,2005年6,月までの2年間パラグアイでJICA (現・独立行政法人,国際協力機構)のシニア海外ボランティアとして,幼児教育分野で 活動していた。その中で様々な驚き,発見や感動とともに,疑問,違和感,「理解不能」感 を味わった。. たとえば,教育省の職員でさえも「公立はレベルが低いから」(2)と平然と言い,自分の息. 子たちを私立に通わせる。貧しい子どものことを話すとき,「忘れてはいけない,それは全 て神が望んだことであり,決めたことなのだから」という職員。この言葉を聴いたのは, 2004年8,月にパラグアイで大きなスーパーの火災(3)があり400人以上の人が亡くなった,. その数ヶ月後だった。悲しかった。その時こう思った。「では,亡くなった人たちは,彼ら は神が決めたから“仕方ない”のか。」親として,一人の人間として,その説明で諦められ るのだろうか。一体,宗教とは何なのだろう,と疑問に思った。また,「私はパラグアイ人 だけど,先住民(ガァラニー族)ではない」(4),「彼らは私たちとは違う」と言い切る職員。. だが一方で,言葉のできない外国人・異邦人を(一般的にとても「家族(家庭至上)主義」. なパラグアイ人であるが)もてなすのが大好きな人たち。家族の結びつきが強く,週末ご とに集まり,家族の絆を確かめ合う。時間にはルーズで大雑把である。しかしその一方で,. 彼らの真摯な姿に共感したし,何か自分にできることをしたいという思いにもかられた。. 筆者は1995・97年にも南米のボリヴィアで,青年海外協力隊の一員として活動したことが ある。その時感じたのは,貧しくても明るくたくましく生きる姿であり,人間としてのご く当たり前の,自然な「つながり」「関係性」のようなものでもあった。使い古された言葉. かもしれないが,南米での4年間を通じて日本には失いかけている「何か」があるような 気がしたこ:とも少なくない。. 2年間の活動(合計すれば4年間であるが,パラグアイでの2年間は,年齢,立場も変わ り,自分の能力と相手側から求められているものの隔たりに大きなジレンマを感じた)の 中で得るものも多かったが,いろいろな葛藤や壁にもぶつかった。自らの知識・経験・語 学力不足は否めなかったとしても,改めて今振り返ってみると,「日本的価値観」や「個人 的経験」から生じる偏見,思い込み(5)があったことも事実である。ひとつのある実態・現象. を理解,把握しようとする時に,この「フィルター」がかかることは避けがたいのかもし れない。だがそれが「対象」の本当の姿,本質を見る(観る)ことを阻害していることも また事実である。つまり.は何かを知る・学ぶという行為も,自分に向き合い,結局は自ら に還ってくるということである。. 江戸時代初期の思想家,藤i原怪窩(1561−1619)は「人,其ノ異ナノセヲ見テ,其ノ同ジ キヲ見ズ。…. 学者各々心ヲ以テ之ヲ正シ,身ヲ以テ之ヲ体ス。・・必ズ自ラ知りテ然ル. 1.

(4) 後二己マン」と述べ,「異なる面ばかりに眼を注がず,同じきところを掲げて,相補い相扶 けて学の発展を期すべきことを強調」して(太田,1985)(6)いる。われわれはともすれば,. ある枠組みの中にいて対象をラベリングしながら眺めがちである。「途上国」の定義に見ら. れるように,この「ラベル」が表しているものの実態は「経済的」側面からの視点にすぎ ない。文化にも,教育にも,子育てにも優劣はない。この「江戸文運の開拓者」の「広い 学的態度」から学ぶとするなら,他(異)から学ぶこと,二者または複数のものを相対的 に見ることによって気づくことは多様にあるはずである。たとえば,パラグアイは独裁政 権崩壊(1989)以降,近代化・民主化の道を歩んできているならば,その過程で日本が捨 ててきた(忘れ去った)「何か」が見えるのかもしれない。他国もまた日本が経験してきた 葛藤(7)の道を辿っていると言うことができるのかもしれない。また日本を,日本の教育(幼. 児教育,保育も含めた)を違う視点から,または視点をずらして捉え直すきっかけになる かもしれない。そういう側面においては,この相対化は無意味ではないと思われる。. このような姿勢や態度こそが「比較教育学」が目指しているものでもある。比較教育学 は決して古い学問ではない。独立した学問として成立したのは19世紀末からである。二宮 は,比較教育学的研究の目的を大きく2っに大別している⑧。「個性記述的目的」と「法則 発見的目的」である。前者は,「比較的アプローチを通じて他国および自国の教育を理解す. る」ことにあり,各国の教育の理解のために「要因分析法」などが用いられている。たと えばシュナイダー⑨は,教育の形成要因として,①国民性,②地理的空間,③経済的要因, ④文化的要因,⑤宗教的要因,⑥学問・科学的要因,⑦社会・政治的要因,⑧外国の影響,. ⑨教育の内的発展,の9っを挙げている。シュナイダーはまた,「国民性」の説明では「国. 民の特性は,種族・地理的環境・宗教・社会的組織・文化などの一連の状態に依存してい る」とも述べている。つまりは,教育を取り巻く要因は互いに影響しあっているというこ とであろうご. 文化的,宗教から来る価値観の違いが教育に影響することは比較的理解しやすいが,筆. 者は南米の2っの隣国に住んだ経験から,地理や自然の影響も国民性を作る上で(そして つまりは教育に関係する)決して小さくないということを感じた。ボリヴィアとパラグァ イは,文化・歴史的にその価値観や国民性は似ているはずである。しかし,パラグアイ人 とボリヴィア人の国民性や性格において大きく異なる。ボリヴィア人は一般的にそれほど 愛想が良くない。パラグアイ人は,表面上はとても丁寧で穏やかであるが,表面と内面の 差が大きい。つまり本音は出さない,形式的であるように思われる。ある意味で日本人と 似ている。このことは,日本と同様,湿気の多い気候や自然が,その大きな一因のような 気がしてならない(・・)。また,日本の近代史とパラグアイの歴史の一部が似ているという指 摘もある(1D。. 一方後者の目的は「比較的研究から世界の教育の動向や傾向を解明したり,パターンを 認識したりすることによって教育事業を説明することである」という。たとえば,世界の 家族の比較研究では,「類型」的アプローチが行われている。「欧米型」,「東アジア型」,「イ. 2.

(5) ンド型」,「アフリカ型」の4類型で,それぞれ夫婦関係,父子関係,母子関係,兄弟関係. を重視しているという5そして各類型の背後には,キリスト教文化,仏教・儒教文化,ヒ. ンドゥー,イスラーム文化が横たわっているという説明がされている。筆者は以前フラ ンスとの関わり(1988−1992の間フランスに留学,1997−2003の問に在日フランス人学 校に勤務)があり,最初は無意識にではあるが,日本とフランス,または欧米一般(特に 子どもに関係する側面)との対比をしていた。我々が「子ども」社会(または「子ども中 心」の生活)(12)であるのに対して,彼らは「大人」社会であるように感じられた。「親子」. 関係(特に母子関係)に対し,「夫婦」関係重視である。当然,単純な図式化は出来ないと. しても,その傾向はあるのではないだろうか、それらは,子育て,しっけ,教育に強い影 響を与えている。そこから考えた時,果たして南米の国々は,とりわけパラグアイは,ど の分類に位置づけられるのだろうか。パラグアイも,フランス同様にキリスト七色の強い 国である。しかし,意識されていない土着信仰の面や先住民の伝統や文化も,ある部分で は存続していると言える。またキリスト教的「父子関係」の強さもある一方,現実には「家 族のなかでの母の威厳」,「現実に子供たちが頼りにするのは母」,「親族一堂に揃った時の. 中心は,母である」といった,「マチスモ」に対する「マリアニスモ」も共存する㈲。こう. した,日本にも通じる傾向に関しては,今後考察や分析の必要があると思われるし,日本 と欧米の中間に位置すると思われる南米の家族の類型や,しつけ・子育てのパターンなど は,研究の面白い素材になると思われる。 人は普毅と違う状況に置かれ,違和感や理解不能感に陥ったり,何かを「比較」「対比」 しょうとするとき,そこから無意識に「違い(差異)」や「共通点(普遍性)」を見出して,. 何かを読み取り,学ぼうとしているのだろう。それは,前述の藤原怪鳥が言わんとするこ とも同様であろう。. 一方で,一つの社会集団(国,地域,民族など)の子育てや子ども観は,如実にその文 化・歴史・価値観の一部を体現化している。それは,人類学がしばしば子育て(あるいは,. 子どもの社会化)を対象に民族学的理論研究を行ってきたことでも明白である。当然なが ら(国家としての)教育政策には,一方で「政治的意図」が潜んでいることは否定できな い。しかし,他方で人々の文化・価値・慣習・行動様式,等を無視した形で進めることは できない。ある社会集団の,(一員としての)「人間」「自己」を形成していく初期段階であ. る子育てや幼児教育を理解することは,その社会の根幹に関わる部分を知ることになる。. また,それなしには意味を成さないとも言える。つまり,自己や人間形成の土台となる子 育てや教育を,背景・文脈としての「社会(集団)・文化・歴史・政治」から,総体として 探ることが必要なのであろう(14)。「対象」を見る時に可能な限りの客観性を持つ,偏見を. 捨て去ろうとする態度をとることは,他者,他民族,他価値,他文化を見るのと,子ども を見る時,または保育に関わる時の姿勢とでは何ら変わりはない。すなわち,そこに自分 を「介在」させざるを得ない。パラグアイという国とその幼児教育改革が目指している子. 3.

(6) ども像を見ることによって,私が2年間の滞在で感じた違和感や理解不能感を,自分とい う媒介を通しながら少しずつ紐解いてみたい。より客観的に,でき得る限り偏見を捨てて,. 幼児教育を「総体」(経済,政治,文化,歴史を背景に,ひとつの「人間形成」の大きなシ. ステムとしての子育てや保育,教育)として見ていく作業は,自分への帰着となるのかも しれない。. 本研究は,大きく分けて3部構成とした。第1章ではまず,前提となるパラグアイ幼児 教育の背景を探っていく。まずはパラグアイ国の概要として歴史,文化,日本との関係を 知ることから始める。その上で,世界の,またラテンアメリカにおける,パラグアイの幼 児教育がどのように進んでいったのかを辿っていく。その後,幼児教育の背景として人口 と貧困の問題を提示し,それらがどのように幼児教育に影響を与えているかを考察してい く。第2章では,パラグアイの幼児教育改革の理念について論究する。まず,世界的な流 れの中でパラグアイの幼児教育がどう位置づけられているか,改革の中での法的基盤から 捉えていき,パラグアイの幼児教育の現状がどうなっているのかを分析していく。その上 で,現在進行している「幼児および就学前教育改善プログラム(2004∼2008)」(15)の目的,. 内容,取り組みを検証してみる。第3章では,幼児教育改革の理念が,実践の場でどのよ うに行われているかを,フィールド・ワークを通して検討していく。改革の成果や今後の 課題 日本の保育を考える際に示唆となる視点についても探ってみたい。. 4.

(7) 〔註〕 はじめに. ωこの用語を『広辞苑』では,「経済が発達の途上にある国。国民一人当たり実質所得が低 く,一次産品への依存二度が高い。開発途上国」(1998,岩波書店)としており,また他 には「経済発展・開発の水準が先進国に比べて低く,経済成長の途上にある国をさす」「一. 般的には経済協力開発機構の開発援助委員会が作成する『援助受け取り国・地域リスト』 (DACリスト)第1部に記載されている国および地域を指す」という定義も見られる。 (2)このセクター間の差については,「就学維持と学力は,私立の方が断然比率が高くなって. おり,私立校では1990年の1年生の入学者のうち29%が中等教育を卒業し,一方,公 立校では18%のみになっている」というデータが挙がっている。(JICA『パラグアイ国 教育セクター調査・分析(最終報告書)』2004年10,月,pp,69−70) (3)1アスンシオン市内,アルティアガス通りにある大型スーパー・イ.クア・ボラーニョス(Ycua. Bolaios)で8月1日午前11:30頃に爆発・火災が起き,400人以上の使者を出し,「パ ラグアイ史上最悪の惨事」となった。「店のオーナーは人命より品物が大事で,盗難を恐 れて全ての出口を閉ざしこのような惨事となった」とも言われた。. ht〃www eocities’!ara ua i alnews htmlより(2008年1月4日にアクセス) この翌日は,官庁,学校等が休みとなり,国民が喪に服した。我々のようなボランティ アも教育省の職員らと共に病院や青少年局などに,何か出来ることはないかと奔走した が,結局はボランティアが出来る体制が整っておらず,何も出来ずに終わった。 (4)石附は「比較文化教育学」で「教育を含み込む文化とは,人工的な線引きによって画定 された国境を,ある場合には超え,それと必ずしも重なるものではない。…(略)…『国』. と民族『文化』の区別を十分頭に置いた教育比較でなければならないであろう」として いる。このあたりは,筆者が「民族」よりも「国」の方が重要な枠組みであると捉えて いた面があることを否定できない。(石附実『教育の比較文化誌』,玉川大学出版部,1995, P.9). (5)このことについて,たとえば内田は「私たちにとって『ナチュラル』に映るのは,とり. あえず私たちの時代,私たちの棲む地域,私たちの所属する社会集団に固有の『民族誌 的偏見』にすぎない」と述べている。(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文芸春秋,2002, P.18). (6)太田青丘『人物叢書 藤原捏窩』吉川弘文館,1985,p.142. ωたとえば沼田は,日本と西欧の近代化の過程における考察の中で「日本の近代化は成功 した」が,「『子どもの世界』は犠牲にされた」「子どもに対する伝統的文化をもう少し尊. 下すべきだった」と述べている(沼田裕之「第12章 教育の近代化によって子どもたち が失ったもの」,マーク・プレイ編著『比較教育学』馬越徹・大塚豊監訳,東進堂,2005, P.341)。. (・)二宮皓「16章 学校の比較教育学一比較教育文化論」,二宮皓編著『世界の学校一比較. 5.

(8) 教育文化論の視点に立って』福村出版,1995,pp.238−244 (・)F.シュナイダー『比較教育学』沖原豊訳,1965,御茶ノ水書房,pp.220−276 (・・)誤解のないように付加しておくと,これは筆者の体験(居住地)から来るところが大き. い。パラグアイは一般的に「亜熱帯」気候といわれているが,西部には乾燥地帯が存在 する。またボリヴィア国内においては,高度も地形も非常に多様であり気候の差は大き く,低地は一般的に湿気が多い。和辻は風土から「世界地域の民族・文化・社会の特質 を浮き彫りにした」と言われるが,その中で「モンスーン域の人間の構造を受容的・忍 従的として把捉することができる。この構造を示すものが『湿潤』である」としている。. 筆者の感じた二面性,形式的な部分については特にふれられていないが,その関連性を 検討する必要はあるかもしれない(和辻哲郎『風土一人間学的考察』岩波書店,1979, P31)。. ω前田は,パラグアイ戦争(または三回戦争)前後の歴史と対比させて,「鎖国,開国,文. 明開化,富国強兵,大戦,敗北の道をたどったパラグアイの歴史は確かに日本のそれに 似ている」としている。前田正裕『ラテン・アメリカと海一近世対日関係外史』近代文 藝社,1995,pp.98−108 (12)石附実『世界と出会う日本の教育』教育開発研究所,平成4年,pp.130−131。ここで石. 附は,日本の親たちの姿から「子ども中心」社会であると述べ,日本の子ども観とユダ. ヤ教キリスト教のそれと対比させている。 (13)三田千代子・奥山京子編『ラテンアメリカ 家族と社会』新評論,1992,pp.284−285. ωホフマンは「子育てや幼児教育に関する様々な言説は,その背景に人間とは何か,より 本質的にいうならばそもそも自己(the seh)とはいかなる存在かについての文化的理想像. を背負っている」「その自己についての観念は,歴史的に見て他から何らの影響も受けな. い文化的空間に隔離されているわけではなく,脈々と続く政治的,教育的,社会的変容. の過程に組み込まれている」と述べている(ダイアン・M・ホフマン「第10章アメリカ 社会における理想的な子ども像」,前掲書,マーク・プレイ編著,pp.246−247) (15)このプログラムについては,本論(第2章第3節)にて解説。. 6.

(9) 第1章 パラグアイにおける幼児教育の背景. 7.

(10) 第1節パラグアイ共和国の歴史と文化 南米のほぼ中央に位置するパラグア む も. イは,人ロ516万人,面積40万6752. のハ. km2(日本の約:L 1倍)ωの亜熱帯気候. の国である。公用語はスペイン語とグァ 一’P㌧. @. 墾ミ㌧み恵・. ラニー語で,人種は白人と先住民の混血. 覇のの,蓼●副、. 苓 ボ. (メスティソ)が97%を占め,欧州系. 、、雨険. が2%,その他が1%という割合になっ. び. 毛8R^刎r /㌧.』 メ争. 醐鷹脚. ている。パラグアイ政府の規定する「先. コ舶88‘.48 ;. 漆蕊}嘉繍. 住民」は総数7万7千人にのぼり,その. 』!璽壽、∵.. 中のグァラニー先住民は約3万6千人 を占めると言われる暁宗教は,カトリ ックが90%,プロテスタントが6%とな っている。. SO櫨山 A巳h踊Ii‘. GM(国民総所得)は6,442百万ドル,. {}o巴鱈“. 国民1人当たりのGNIは1,170ドル (『中南米諸国便覧2004年版』,20D2). となっており,これはラテンアメリカ・. 輔の暮腰. 譜. カリブ海地域33力下中,ハイチ,ガイ. 、徽. アナ.ボリヴィア,ホンデュラスに次い. で低いものとなっている。主要産業は 図1 南米大薩におけるパラグアイ. 農牧業(綿花,大豆),牧畜業(食肉),. 林業で,国民の大半が農民である(約 (出典:一) 50%が農業・牧畜・森林労働に従事している)。経済面は農牧林業の生産及び同産品の輸出 に左右されており,特に大豆(41%),綿花(7%)の輸出額が半分近くを占めている。また,. パラグアイは,南米の中ではボリヴィアとともに海を持たない国であり,内陸国にとって 国際市場で競争力のないことを意味し,経済開発の上で最大の問題となっている。. ラテンアメリカの国々は1492年のコロンブスの新大陸の「発見」(西インド諸島到着)伽 により,その後1800年代前半に次々と独立を勝ち取るまで3㏄}年以上の間,植民地として スペイン・ポルトガルによって支配されてきた。ヨーロッパの新大陸への大航海は,「3つ のG」が動機だったと言われている。すなわち,G61d(黄金), Glo正y(栄光), G⊂xl l Go8p61. (宗教)である。当時のスペイン王国は富や名声だけでなく,福音を求めたと言われてい る。この3世紀間の植民地時代の教育政策は,「布教=(教化と)同化=教育」の事業,つ まり「魂の征服」であったω。. パラグアイは1521年にスペイン人に「発見」されるまで,先住民のグァラニー族が支配 していた。彼らは焼き畑農業を営む温和な先住民で,スペイン人(探検家)と友娼な関係. にあったと言われている。その当時のヨーロッパからの野心に燃えた移住者たちは,一般. 8.

(11) 的にラテンアメリカの先住民を農奴として過酷な労働を強制し,教化し,ヨーロッパから の移住者のための福祉事業,教育施設,植民地の政治,社会の上で隠然たるカを発揮して いた。しかし,パラグアイだけは違っていて,イエズス会の宣教師渉レドクシオン(強化 保護区,Re伽㏄1舳)という,キリスト教に改宗した先住民の人たちのためにセルツメント といった共同社会を作り,その中にヨーロッパからの移住者は入れない形であったため, このレドクシオンは∫先住民のラテンアメリカで唯一の楽園」劔だったという見解もある。. 1750年に全レドクシオンからイエズス会が追放され.その後1776年スペイン王室が二 二・デ・ラ・プラタ」三王領を設置した。これには現在のアルゼンチン,ウルグアイ,パラグ. アイ,ボリヴィアぶ含まれている。現在中南米を一般的に,メキシコ・中米・カリブ海地 域・アンデス諸国・ブラジル・ラプラタ地域に分け,パラグアイはラ・プラタ諸国に属し ている、これはその時代の名残であると言える《その後,溝リヴィアは文化的にアンデス 諸国に近減しているということで含めず,3三国となった)鰐.. その後,パラグアイは1811年,(スペイン語圏の)ラテンアメリカの申では最初にスペ. インから平籍的に独立した。独立後1814年に就任したフランシア総統《」厩(油p鯉 Ro{㎏e箔de Fr鋤cia,1?66−1840)(在職1813一一1840)は鎖国政策を敷き,完全な自給 自足状態を取り,安定した独立国家を建設する。このため先住民と白人の混血化が工み, 民族的に均質な,非常に民族主義的な国になる.乳人種の増場」を成しているラテンアメジ. カにおいては,ラ・プラタ諸国はやや例外的で,3力国とも人種的同質性が極めて高い。そ. の中でもパラグアイは白人の比率が高い他の2力国と違っており,またラテンアメ夢力の 中でも混血の割合が非常に高いと言われている鰯 1844年にカルロス・アントニオ・ロペス大統領《Ca驚藍osA菰。樋oL⑫鋤1790−1862)(在. 職1844−1862)力蹴任してからは,開放的経済政策を上甑教育の拡充を行い,ラテンア メリカで最も早く義務教育制度を実施した眺しかし,1865∼70年の三二戦争,19訟∼35 年のボリヴィアとのチャ3戦争により,大きな痛手を受けた.特に前者では国土は4分の3 に,人口も半分以下に(成人男子の8∼9割とも言われ.このため,一宍多妻制を認めざる を得なかった)激減し,戦争の打撃はかなり大きかったと言われている眺. 近年においてパラグアイでは玉989年,35年間に及んだスト鐸スネル(A幽do Stτoes磁er,1912一盆006)政権(軍事独裁政治)(在職1954−1989)がクーデターにより. 崩壊した。ロドリゲス 〈A駐d■6s Ro娩ue認923−97)(在職1989−1993》新政権は二二. 化と人権尊重」を掲げ,新憲法(Cops磁u{茄丑N謡。副)を公布く1992年)して国内敢治 体制の民主化を進めた。民主主義への移行の中で,教育改革は常に重要テーマであ鞍,現 在も引き続き改革は進められている。. こうした歴史的経過をたどったパラグアイであるぶ,文化面はどうなっているか,駐を 転じてみよう。 先住民の言葉であるグァラニー語は,言語学的には「トゥピ・グァラニー(丁睡ρi−G腰a㎡)」. 語族に属する.話者数は約600万人と言われ,アルゼンチン,求リヴィア.ブラジルの一 部地域でも使用されている。パラグアイ国では人口の約40%がグァラニー語のみを話し. バイリンガルは50%,スペイン語だけを話す人は6%のみという罰合である.つま穆題民⑳. 9.

(12) 大半がグァラニー語を話す。そのためか,「国民の±:着言語に対する誇りは,それが差別的. に扱われてきたアンデス諸国とは異なって」かなり強いω。ただし,先住民と混血である 大半の国民との間の垣根は高いといわざるを得ない。砺. この国で最も特徴的・印象的な文化のひとつに「マテ茶(Mate)」(写真左下)というハ ーブティーが挙げられよう。冬には湯を使い,夏には氷水を使い「テレレ(霊brele)」という. 名称になる。町や村の至る所で見かけられるこの飲み物は,栄養価が高く,「飲むサラダ」. ωと言われている。また,ニャンドゥティ(Nandu瓦伝統的な手編みのレースで「蜘蛛の 巣」の意),日本の夏に勝るとも劣らない高温多湿な気候,アルパ(Alpa,インディアンハ ープ)を使った民俗音楽,などもパラグアイに思描いた文化として有名である。. 写真2 アルバ 出典:即「パラグアイへ行こう」. 写真3ニャンドゥティ http:11響■曹.6rafρy. oo■』〆dhOPノ. 写真1 マテ茶のセット(テルモ,グアンパ,ボンビージャ) (2007年8月29日撮影). パラグアイと日本との関係を押さえておこう。日本人の移住は1936年から始まり.2,3 世も含めると現在では約7,000人が暮らしている。移住地は5ヵ所(ラ・コルメナ,アル トパラナ,イグアス,アマンバイ県,イタプア県)あり,その大半が大豆や小麦の農家(農 業従事者は約4,000人)である。. また,日本はドナー国としても常に上位に位置ついており,ついでスペイン,米国,ド. イツ,と続いている(1976年以降1991年を除き,最大の援助供与国となっており,1996 年までに合計1502.5億円の援助を行づている)。パラグアイに対するJICA(現・独立行. 政法人,国際協力機構)の青年海外協力隊の派遣は1978年に開始され,2006年2月まで に合計1,138名ボランティア(他形式のボランティアも含め)が派遣されている{囑この ように,日系移民の努力や政府の援助もあって,パラグアイ人の日本に対する評価・認識・ イメージは一般的にすこぶるよい,と言ってよいであろう。砺. 10.

(13) 第2節 ラテンアメリカにおけるパラグアイの幼児教育 ラテンアメリカにおいて,またパラグアイにおいて,幼児教育・保育はどのような経過 を辿ったのだろうか。ここでは,教育学者マリア・ヴィクトリア・パラルタ博士①ra.三曲. 職伽rぬPar磁a)の著作『幼児教育カリキュラム灘に挙げられている5つの時代区分にそっ. て考察してみることにする嚇 第一の時代区分は,アメリカ征服と植民地化以前の先コ隷ンビア時代である。こ:の時代.. 既にそれぞれの民族や文化による教育システムが存在していた。彼らの文化に子どもを積 極的に同化させるために,どのようにしつけ,教育するかという方法ぶ確立していたので ある.例えば,マプチェ族やインカ族では,子どもも一部の成人の活動毒ご参加していた。 グアマン・ポマ(Fe恥e G囎man Po漁d6ム¥段1日,茎536・玉綴④㈱の資料の中でも,子どもの. 発達の段階や,この文化のこの時代の育児の墓準が三野に描かれており,教育がシステム 化されていたということを知ることが出来る.また他にも,メキシニやチ墾の先住疑は, 幼少年に対する特別な教育実践の先駆者として描かれている。. 第二の時代区分は16,7世紀から19世紀にかけての植民地時代から最初の共和国ぶ生ま れた時期である.幼少年期の教育のために最初の努力淋払われた時期である。この時期, ラテンアメリカにおける子どものための幼児教育・保育の出発点となったのは,基本的に 健康と栄養に対するケアと関係していた.. ラテンアメリカにおいて最初の幼児教育施設(こども園)㈱が創設された時期,トップ. を切ったアルゼンチンの1823年に続き,ブラジル1875年,キューバ1880年,メキシ隷 1883年,エルサルバドル1886年,ウルグアイ三892年,エクアドル1900年,ペル igO2 年,ボリヴィア1906年,チリでは同年最初の公立幼稚園,パナマ1908年であった。パラ グアイは1942年まで待たねばならなかった。 これら最:初のfこども園達はその当初から,優れて教育的な方向性を持っており,幼児. 教育において基礎的なパラダイムと主要な原顯を踏まえていた、例えば,学びにおける子 どもの積極的な役劉,出生時からの教育の重要性,家族の中での労働の重要性,遊びを基. 礎的な方法にしていたこと,などである.しかしな溝ら.これらの初期段階の試みは,社 会的にも制度的にもほとんどインパクトはなかった、. 第三期は,彦0世紀初期∼二期にかけての,幼児教育の補強・強化の段階である。上記の ように,チリ,アルゼンチン,ウルグアイ,メキシコ,キューバなどの国において,『こど. も副は創設され始め,教員丁丁校において最初の幼稚園教諭の養成も始まった.しかし,. 幼児教育を維持・発展させるにはまだ困難な段階が待ち構えていた。そして,この二二の 経費や教育効果の問題について議論され始めていった.フォーマル形式での,また主に4 −6歳の子どもの保育を中心に,緩やかではあるが基礎的な発展が続いた.一部の国々で は,教育省による幼児教育クラスの創設によって,これらの子ども園の独立の必要性を検 討することになった.しかし,この時代の就園率はごく限られていた.方法論としては.. 1叢.

(14) フレーベル(Fde面ch F■oebeL 1782−185のの理論に,モンテッソーリ(醗 Mo蹴te8soh,1870−195a)とデクロリー(0祓de:De¢ね臨1871−19鋤の影響を統合させた ものだった。. パラグアイでは,「新教育」㈱思想の出発点となった19盟一24年の教育故革において.. その推進役で代表者だったのは,ラモン・インダレシオ・カルドソ教授(R脚6nI船三二o Cafdozo,1876−1943)である。カルドソは,パラグアイの幼児教育にも大きな影響を及ぼ. した。その一つは,1942年にイヒニオ・モリニゴ(H二面oMio掘go,1940−1948)政権下 で行政権の政令により,パラグアイで最初の「こども園」を作ったことである。. パラグアイの教育史を回るとき,決して忘れることのできない教育者カルドソは,1876 年ビジャリカ(V臨むa)に生まれ,1943年ブエノス・アイレ’ス(Bue嚢os A㎞e§)で亡くな. った。45年間の教師生活を過ごす。1898年から,ビジャリカの学校長となる。そこでエッ セイ,研究調査,革新的実験を実施。1914年に最初の農村部教員養成校となったこの学校 の学習プログラムは,農業讃練,手工芸,料理芸術,実践衛生に門門化したものであった。. 幼児教育に関するカルドソの主要な思想を探ってみることにしよう.カルドソは幼児教 育の価値について,その著作『新教育の教育方法 第3巻 新教育の実践(ba P翻購㎎訟de 三aE㏄uela A£纐vaJbluo II江. La Practlca de la㎞¢1温A痴va)』の中で次のように述べて いる。. 一就学前教育の準備(段階)は,子どもの人生において先導的な影響を与える。. 一就学前教育は,その体制,方法,手段において,噺教育」に一番近いものである.なぜ なら,教育方法を機械化していないし,子どもの生来の自発性を開癸しており,教具を 使うことによって,子どもを自分自身の発達の動作主に変えるからである。. 一子どもを単なる「知識の倉庫」に変えるのではなく,教育的遊びを通して,また適切な 活動によって感覚を発達させ,能力を癸揮できるような知識を獲得させるのである.. 一幼稚園を伴わない小学校は,暇をおろした」教育とは言えない。それは栄養を奪われた 表面的な植物に過ぎない。普通学校の低学年クラス(小学校の最初の数年間)は,その 技術,方法,手段において幼稚園の延長であるべきである。 一付属幼稚園で実習を行った学生一先生(将来の教員)は,その特徴と気質を磨き,発展さ. せ,母性を再確認し,他方で子どもの利益のために全ての厳格さや権威主義を放棄する べきである。なぜなら,そうでないなら,教員が気まずさを感じ,愛情から遠ざかむ,. 下界の理想的な政治である民主主義の対極に陥るからである。だからこそ我々は,幼稚 園が教員養成校にとって必要で不可欠な補完であるべきだと考えてきたし,考えている のである。. 彼の主な著作としては,『パラグアイ人山,『教育覚え書き』,『ペスタロッチと現代教門, 『普通教育によって』,『新教育の教育方法』,『フェレイレ博士の哲学・宗教思想』,璽初等. 12.

(15) 教育における回しい方向性』,『アン・アルバー講演鐵.匿新教育と農村文鯉,膿二部の 学校一そのあり方と方法』,『学校改革プロジェクト渥など瀞挙げられる。. また,カルドソの主な教育的活動として,サンチェス《舳be五S鋤地幽露猛下認の茎0項 目をあげている.. 1.わが国の教育における「新教育」の理想に間するエッセイ. 鼠国内く学力)テストの作成 鼠アスンシオンの学校での身体測定の実旛と,パラダアイの5歳から亙4歳までの子ども の成長記録表の作成. 41922年の法令無L689を基本とした初等教育の改革の実施。人民教育の二三や,『①括. 動から教育へ。②手工芸,③自由や自発性』を基礎とする噺敬翰の醗を導入。 義1925年の教員養成校の組織の改革.新思想による教員を養成するた轟鱒教育プ瞬グラ ム・計画の改革瑠. 6小学校に付属の幼稚園の創設 τ新教育のための指導下の作成 &首都と地方における,「新教育」の実験学校への転換. a学校教育課程に,農業,料理芸術,家庭経済,手工芸の教育実践を導入。 10.地域と学校の接近を目的とした会議を設立し,学校の二二や物質縫・道徳的な改善. また設備,食料,薬.病気の予防策,被教育者への援助に溺する誌を行う。. この時期パラグアイでも初めて,就学前年齢の子どもに封ずる組織此され翫課育誤,鉤. 児教育専門の施設で行われるようになった。幼児敦育の施設は.この時代においては 『】血{壇gar捻盤幼稚園」の名前で始まった.二三の公立の『キンダー夢ルテ:遡として.. 首都教員養成校葱撮(E蕊ue1aN侃澱烈d¢P憩愈綴聡§翼b.1面麺C覆p重工》の赫属七三園丁. 創設された。この幼稚濁において,師範学校の学生は観察のモデルと,理論と婁銭を照合 するための心理研究所を同時に獲得したのである。また,民間セクターにおいては.パラ. グアイでは初めて1928年3月,インターナショナル・スクール(C6㎏g沁蓬磁瓢蹟珈舩爵. に幼稚園が創設された.リリアン・ビーンズ教師(P㎡鐡磁:B加瑠勇三二⑳下,劫丁丁 が作られた。彼女は3ロンビア大学で専門家として曇腰とされる学問を修轟.実践と経験 を通した学びに重点を置いた新教育方法を導入するためにパラグアイにやって来た。それ らは他の教員たちのために重要な参考として役立った.. この他にも三咲深い経験としては,マニュエル・アマリージャ学校《馳h簸通巌瞳 A鵬ar避a)の中に創設された幼稚園,女子クラスがある。これは,マ夢ア・聲ディノ(瓶 Rod㎞)校長の下,モンテッソーリやデクロリーから着想を得た教師アデラ・ロッシ山回 R◎ssのによって捲導されたものである.この学校はまもなくモデル校とな聾.員覚ましい 発展を見せた、新教育の先駆者の一人であるアドルフ雷・フェ墾エレ(翫A面痴飽融聡)麟. 13.

(16) はこの学校について.院全で,より適合された教材」ド素晴らしく献身的な才能を持った 教員たち」と褒め称えている。その後,アルゼンチン共和国学校(H8c腿el蹟】鴎ρ莇鼓餓 A営ge澁t血a)においても,幼稚園が創設された。イシドラ・メサ(短面鵜臨za)とシルヴ. ィア・メサ(S三王M¢za)という2人の教員たちによ駐指導され,彼女らの献身的な働き によって丁半を得ていった。. これらの女児のための幼稚園クラスは少しずつ増えていき,1930年には首都に6クラス,. 地方に5クラスに存在していた。しかしながら,当局の無理解により多くは廃止に追い込 まれ,残ったのは公的セクターの師範学校のものだけだった.またこの時代,地方におい ても幼稚園教育の必要性が取り上げられるようにな綬,ミッション棚のサン・プアン・バ. ウティスタ教員養成校(遜cuela Nc瓢紐de P跡㈱瑠{楚Sa丑Jua避B灘廊ta{沁蜘 M面ones)でも,校長カルメン・ロサの責任下において幼稚園が創立された.. もう一方で,教員養成校や小学校の付属幼稚園の形以外にも,いわゆる『福祉」濁機能 の強い幼児教育の施設もこの時期に現れ始めている.飼えばチャコ戦争(193琶一35)淋終わ. った時,ブリア・ミランダ・デ・エスティガリビアQ地子鋤面a憩E8瞬訟)とカ ルロス・サンティヴィアゴ博士(D凱C謝os S臨tiv三二)により,ゆりかごの家『カルロス・ サンティヴィアゴ博士」{Casa c級na“D菰Caτ藁㈱Sa磁晦bりが創立され,た.これは求仙. ヴィアでの戦争で身寄りぶなくなった子どもの保護のために作られたものである.この施 設は現在,厚生省の管轄である。また1940年には,ハンセン病者の子どもの避難,宿泊を させる為,乳幼児施設「サンタ・テレシータ」(Hog擢1㎡二刀鷹韻愈e馳糊iぱ)が創設さ れた.シンティア・ジー・エスビノサ(Cy虚hぬLee{葱E8継no痴)薯ま,素ランティアの婦 人の団体とともに,クアトロ市場(Me星¢a面{畑撫})で働く一母親の子どもの世話や育児の. ためにゼラス・アメリカス保育園」(Jafd熱de】睡Aコ臣eh螂)を創設した.1946−8年の 期間,教員養成丁丁λ1や外国においても,幼稚園教員の養成ぶ行われている.. 第四期は,1960−80年にかけての.幼児教育の社会的・緊急姓への対応.新しい代替え 案の設置の時期と言えるであろう。この時代,?0年にはチリにおいて,0一窪歳の段階に焦. 点を当てた,幼児教育レベルのための専門的な保育のための,誕翻(義膿雄N餐歯1虹h葱 ぬrd沁es I漁㎡豆es,国家幼稚園委員会)と社会福祉のコロンビア学校が翻設された.キュ. ーバにおいては1961年に,最初の「0−5歳児のための子どもサークル」解創設されてい る。. パラグアイのこの時代において:重要な二丁事としては,1957年の教育改革麟挙げられる.. 教育改革の状況の中で幼児教育は,3−5歳のための三児園(δ幽)」と,6歳児緯ため のf就学前教育(P艶p三三。)」の2つの段階に構成された.また嗣年,就学前教育と小学. 校教育のためのf教育活動計画」淋承認された、これは,調麹的・総合的な形で子どもの 人格形成をするための,近代的,民主的,活動飽な教育への丁丁に応えるものであった。. (1957年9月24目の法令,Nq29594)この時点で就学前教育は,幼児期の人格形成のま っただ中の重要性を認められながらも,義務という形式を与えられなかった.三958年には,. 玉4.

(17) 保育園「クアトロ市場の子どもの家」(Guarde㎡バCasa A皿paro a玉蟹㎞del魑ercado 4つ. が,この地区で働く母親の子どもたちを世話する員的のため創設された。この機関は.ア スンシオン市の二会サービス局に所属する丁丁活動である。. これらの子ども園は,教育省と厚生省の三岡の形で管轄運営することになった。これら はすぺて,ヨーロッパの幼児教育の先駆者の原理に,また新学校の原理と構成に着想を得 ている。パラグアイにおいてこれらは,ラモン・カルドソにより導入されたのであるが,. パラグアイのこの教育家が,この国の教育システムの最初の段階のためにもたらした寄与 は,計り知れないほど貴重である。. 1961年には,子どものニーズに応じてより柔軟な方法を考えるために,幼児教育レベル の様々な分野におけるプログラムの見直しが,教育専門家チームによる行なわれた.. 1970年代の終わりには,託児所,乳児園としてこども園が,自治的形式で.都市部と同 様地方にも創設された。また,「教育革新」を掲げた教育改革の状況において,幼児教育の 段階は,5歳児「幼児園(Jard血de In魚就es)」,6歳児ゼ就学前教育(P欝e㈱GO漉)」と命 名された。. 1975年L月には,高等師範学校(hstituto Su】ρe蜘f融E伽㈱¢i6A ISE)の中の保育園 が,教員養成校の学生の観察と実習のために開園した。1976年には,「子どもの表現アトリ エ(丁皿eτde E即τesi6n I㎡an紐,TED jが初めて幼稚園教諭のための養成セミナーを実施. した。この時から現在まで毎年,幼児教育の教員のために,2月の問には集申講座ぶ,また. 年度の途中にはセミナーが実施されている。1983年3月にはISEで高校卒業生や現職教員 のために就学前教員のための2年間のコースが開始された。現在はそのプ探グラムや力参 キュラムは多様化させながら,期間は3年に延長されている。また同年,アスンシオン, カトリック大学の哲学・人間科学部の申に幼稚園教諭コースができた、その教育課程は現. 在まで,理論授業と保育園での実習を5学期間,バカンス・コロニーでの実習の1学期間 を含んでいる。教育文化省は1985年5月,省令N(L1368により,幼稚園教論の資格を許 可した。. 1985年には,ユネスコ,ユニセフの協力により幼児教育の最初のプログラム渉実施され た。また同年,ノン・フォーマル形式の初めての試みfミタロガ」(M董tぎi}㎏縦)鋤プログ ラムぶ機能し始めた。. 最後に第五期としては,199(〉一2㎜年とそれ以後の,幼児教育分馨の活動・内容の価値 化の再編成,強化,拡大の時期が挙げられる。実践の見直しをはじめ,このレベルの教育・. 保育を整理する必要性ぶ確認されていった。一般的にノン・フォーマル保育は,持続姓と 質に欠けているとされる。現在まで下位カテゴジーの代替え案と見なされており,フォー マル・プログラムと同様の価値ある代替案に変えるために,技衛基準を強化しながら.再 カテ:ゴリー化が迫られていた。それと平行して,よ吟相互制度的な方法,より公平な質を 持つように,このレベルのための独自の教育政策も計画された。. この時期の特徴として特筆すべきことは,幼児教育分野で初めて,保育内容の共通の質. 15.

(18) の基準と方向牲淋検討され,カリキュラムの作成が行われたことである。メキシコ,ニカ ラグア,コスタリカ,チリ,エクアドルにおいては,フォーマル・プログラムにおけると 同様,ノン・フォーマルのものが作成され,アルゼンチン,ペルー,キューバ,メキシ箕,. ブラジル,コスタリカ,チリ,パラグアイでは,3歳までのカリキュラムの導入を実現し た。. パラグアイにおいては,1993−4年に教育改革ぶ始まり,カリキュラム講成に幼児教育 を統合させ,就学前教育のための教育課程を取り入れた時期でもある。ただし,現実に「国 内幼児教育計画(Pl組Na{如舩l de猛du㈱e三6n I旙{畑,盆002一慧01£力の発信を伴って,こ. のレベルの制度化と独自性の強化ぶ始まったのは,2000年からのことである.この改革以. 後,幼児教育の形式は,乳児園0−3歳,幼児園3−4歳,就学前教育5歳の段階に分けら れた。. その後1995年には,現在の教育改革における幼児教育の規則が認定された.1997年に は,米弼機構(OEA10AS)㈱とユニセフの援助を受け,「第1回困内幼児教育フォーラム」. が教育省によって繊され,開催された。また同年,パラグアイは幼児教育の最初の顛内 委員会としてOM鵬P(世界幼児教育・保育機構)㈱に癩入した。1998年には教育基本法く法 律Nα1624198,玩yGe難eral dd撮u㈱¢董6憩が発蒲された、2◎00年12月には,教育省と. 米州開発銀行くBID)の問で「幼児・就学前教育強化プログラム」(P憩og憩凱a轟e FOft曲。童面e丑to dda冠au¢aci6u Ink紐yP魏s¢o瓶20◎1禽003)の協定が認定された.パ. ラグアイにおける乳幼児期のための新しい活動ラインは,このプログラムによって,そし て何よりもギ国家幼児教育計画」によって決定されているのである。. パラグアイの幼児教育の歴史をロメイ(Lo田醜Rg鵬ρ㈱は,「ここまでの流れは.現在 のパラグアイの幼児教育において,統合への長いプロセスを思い起こさせる.すでに土台. は設置されてはいるが,まだ長い道のりがあることが見て取れる.6歳未満の子どもたち によりよい結果が獲得できるように,この土地を耕していくという仕事麟,教師としての 我々の手に委ねられているのである」と結んでいる。. 以上,幼児教育の流れを見てきた。これらの軌跡からも窺えるように.ラテンア野田力 の中でもパラグアイにおいて,幼児教育はゆつく瞬とスタートを下鞍,1900年代後半から. 緩やかな発展を遂げた、特に1994年の三二改革」以降,とりわけ2001年以降急ピッチ で幼児教育の本格的な改革が進んでいるという二丁の中にいるのである。. 16.

(19) 第3節 幼児教育をめぐる人口動態と貧困の問題. Am質酬Par司u8y. Sd瞳。●=0●卿a画b「㎞60唱敷1995.U凹. lJ晦1994. 緬. 2368α72 6答543210 輪h〕 撤dP馴瞬i㎝=㎜31㎝1. 0123456胃 〔F創旧」0 233『783. 図2.パラグアイの人払ピラミッド 出典:ht. :’㎞2mbl o ne 一㎞a. md4. htm. パラグアイにおける幼児教育の実態を捉えようとするとき,その社会的背景の中でも, 人ロ構成と貧困の問題は避けて通れない㈲。パラグアイは,「発展途上」国に多く見られる. ように,人口構成から見ると若年齢層が中心になっている国である。統計・調査・国勢調. 査局(DGEEC,2005)によれば,総人ロ5,837,253人のうち,0−14歳の子どもは35.6% で,15−64歳は58.9%,65才以上が5.5%という割合になっている。200〔}一2005年時点. での平均余命は,男性68.6歳女性73.1歳となっている㈱。パラグアイの人ロピラミッ ドは「富士山型」で,裾野がかなり広がっている(図2.参照)。この「富士山型」は人ロ ピラミッドの3つの基本定型のひとつで,「高出生率と高死亡率の組み合わせ,または高出. 生率と緩慢に低下しつつある死亡率の組み合わせによって現れる」型で,途上国に多く見 られるものである。経済発展に伴って釣鐘型へ,さらにはつぼ型(現在の少子高齢化社会 の日本はこの型である)へと移行すると言われている。経済発展の水準に対応して考える と,「多産多死」から「多産少死」㈱に向けての移行段階である。後者の段階は「人口的転. 換期」ともよばれ,「拡大する教育機会への需要を相対的に小さな生産年齢人ロによって財. 政的に満たしていかねばならない時期」でもある臨 パラグアイの主題においては,子ども数の多さに反して,大部分の子育て世代が労働を 担っている。「生産年齢人則が不足しているとも言え,実際に子どもも重要な労働力源と. なっているのである。それでも貧困の状態は厳しく,失業率も高い。また,労働をしてい ない「祖父母」「老齢」世代が少ないという現状がある。つまりは子育てする人がいない。. 育児世代は労働に忙しく,子どもに「構って」いられない。一般的に多産であり,先進国. 17.

(20) に見られるほど子どもに時間や手間,お金をかけない(あるいは,かけられない)という 現実,価値観が存在する。反面,兄弟姉妹が多いので,その申でともに育つという部分も. ある.日本に見られるほど地域・家族は「崩壊」していないので「育ちあう1環境も残っ ていると言えるかもしれない。しかしな淋ら一般的には,貧困層の子どもは兄鵡数も多く,. 働かざるを得ず,つまり教育を受けられず,学歴は概して低い。早くからドロップアウト して,避妊への理解と知識がないため,若くして親になる、当然,幼児教育も含め予ども の教育に対する意識は低いままである。. 親や大人の権威主義的な態度や「それは子どもがすること」.呼どもは遊んでいる譲力 といった子どもに対して無(能)九未熟というような意識(子ども観)ぶ一般的であ鞍,. それ溺代々引き継がれ,変化していないと思われる臨一方で,若い母親やシングルマザ ーが多く存在していても,家族問のつながりがかな塑強く,大家族謝渉残っているので, 親が孫の面倒を見るという形態も多く存在している.fコンパドラスゴ(60瓶ρadτa細(代. 父母捌)」の習慣ぶ存続しており,国家の社会福祉を晴代わり」してきたという一面頭あ る{30塗。. ただしその「方で,上記の状況とまったくかけ離れた,いわゆる中間∼上流町層,富裕 層は,まったく違う価値観を抱いている。学歴の高い家廃の子ども数は,一般に少なく,. 長期にわたる教育を享受している鋤。貧困層と相対するこの現状は,結局は教育の購生 産」が行われ,『貧困の輪」から抜けられない現実ぶあることを示唆している。. その経済的側面の貧困を具体的に数:字で見てみると,パラグアイの貧困層は全体の 33.9%で,そのうちの極貧困層が15.6%,都市部では前者演27.6%,後者麟7.1%,地方で. は前者が4L3%,後者が25.6%となっている、また,0−14歳の人口の錫%が貧困層 (DGEEC,200α2001)で,これは貧困の若年齢層化ぶ進んでいると言える。そして,ξパ ラグアイにおける極貧困問題は,ほとんど地方問題と言える」〈JICA。20◎4)としている. こうした実態は,当然教育にも影響を与えて居る.その格差はそのまま学校数:,クラス数,. 教員数,そして留年率,中退率へとつながっているのである。また,門門においては男性 家長の70%が農業に従:涌している。また一般農業者の80%が非識字者だともいう縞こう した状況下では,子どもたちも学校に行くより労働に従事するべきという価値観や必要性 が生まれてきたとしても決して不思議ではない.. ここまで教育の背景の閣題点をその人口動態から探ってきた。パラグアイの社会・政治. を研究しているソットリとクライネ(So伽h&Crine)は,その上で,社会文化的な野点 から,パラグアイの幼児期の問題点として,家族,文化,公共政策の3つの要素を以下の ように分類している㈲。. ①嫁族」要因:構造の悪化と解消,親の欠如または父親の不在,親の教育水準の低さ鱗,. 愛情関係および早期刺激㈱の質の低さ,持続的な貧困状況から来るフラストレーシ葺 ンの問題。. 18.

(21) ②「社会・文化」要因=成人男性が占める中心的なポジションに基づいた文化的な条件, ジェンダーの不均衡,子どもを不完全なものとする見方(親の「モノ」的考え),独裁的・. 軍国主義的な子育ての習慣,および宿命論的なあきらめの姿勢。. ③「公共政策」要因:戸籍登録㈹のカバー率の低さ,乳幼児に関する登録およびシステ ムの不備,子どもの権利に関する情報の限られた普及,基本的な社会サービス(水道,. プライマリーヘルスケア,幼児教育)への部分的または不十分なアクセス,障害児対象 のプログラムの不備。. パラグアイ政府やユニセフによる子ども の出生登録を呼びかけるポスター. 「パラグアイでは1年に15万人近くの子ど もが生まれています。しかし,そのほぼ半分 は出生登録がされていません。出生時にあな たの子どもを登録して下さい。それは親とし ての責任であり,国家に対する義務です」と 書かれている。. 写真4 ユニセフのポスター(2007年9月6日撮影). ソットリとクライネは,これらの問題は多くの幼児に影響を及ぼす「第一レベル」に位 置づけており,教育,身体的健康,リプロダクションヘルス,精神衛生,情緒発達等につ いての基本的かつ普遍的な政策を必要としている。また,虐待・性的暴力および児童労働㈲. 等,その深刻性から,具体的な取り組みの政策を必要とするより多くの「社会的リスク」 を第二のレベルに位置づけている。さらに深刻な問題として,特殊な保護対策を必要とす る「家族の絆」の弱化,または崩壊を挙げている。. 以上のように,パラグアイの幼児教育の背景としての社会状況を考えていく時,人置動 態と貧困,地方格差の問題は深刻であり,大きく影を落としていると言える。教育省とし ては,この「貧困の輪」を断ち切るという意味においても,教育水準を全体的に「底上げ」. するために,より早い時期からの格差解消に挑戦しようとしている段階である。幼児教育 (特に就学前教育)を国家の学校教育の第一段階として位置づけ,学校教育の効率性を上 げることは,基礎教育によって最終的には国民の生活水準を高めていくことをねらったも のでもある。これは,第二段階の「多産少子」型社会に向かうパラグアイにとって,そし て今後の経済発展にとって,大きな意味を持つと言える。. 19.

(22) 〔註〕 第1章 パラグアイにおける幼擬教育の背景 第璽節 パラグアイ共和国の歴史と文化 {睡 『国際連合 世界人口年鑑選2003,VbL 55,20G2年の絞計よ箏.. 纏 田島久歳ζ先住民たちの現在」『言語選馨0◎6,蕊超越,大馨館,μ三曲蛎島またこ鱒. 先住民は,グァラニー,サム識,マタコ,マスコイ,ダァイクルーの薮つ⑳言語系幽ら. なる17のエスニック・グループに下位分類でき,綾らは490近い共緯鯵《居留勉》に 居住すると述べている。 紛 この,ヨー灘ッパ側の視点・歴史観に立った響新大1垂《アメ夢力)発見』の表方ま.環. 在では批判にさらされていることは周知の通ゆである.謝llは匿に継歯繭にぎいまま. でわれわれはヨー狐ッパ中心の世界史の中で.騨翼ンブス淋薪大蓬を登見した遇とい うことばを疑いもせず承認してきた」,にの大睦にとって,ヨー鐸ッパ白人縁新来者で. あり侵盛者であ鋤、つまた残虐な征脹者であった」など,この発見の区誤謬」について ふれている.(皆想卓三「ラテン・アメリカ鞍育史硬究一その緒論一《アジア・アフ夢爵 の教育と貝本ぞ一)」,『教育選22(7)号,1躯2,載育群風浪究会親ノ轡土嚢:.ρ聾100一鐙1海. また斉藤はこれらのことを踏まえ,灘ロンプス鱒アメ婆露癒着5百周奪を記念して麟 欝92年のイベント。行事に際し,罫二つの挺舞の出会い」というE綴塗訟ニュアン叢を 含んだメイン・スローガンが採用」された経緯を逮ぺている{斉藤泰雄『ラテンアメ墾 力教育史の原像」,『国立教育研究所研:究集録遡,識量.1994,ρ露露&繍. 韓 斉藤,前掲論文,即.34−36. ㈱ 鈴木孝壽『ラテンアメリカ探訪10三岡一豊饒と貧隔の世糊垂心謡,1蜘.離隔薮§ ㈱ 申州文雄・松下洋・遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメ夢露現代吏E アンデス・ ラプラタ塘域還由籍出版社,1985年,p.鋤 鱒 中毒・松下・鉛毒井,前掲書,p.%6 鋤 同上,μ露96 紛 同上,P.303. ⑳蛮野井茂雄『第VI章 南米・民主主義の地平」.撫茂雄三諦鯵郵国際鯖報べ一シジクシ. リーズ⑨ ラテンアメリカ第2版毒,艶005第£版《1999浅識),窪出国疑鮭,謝謝 鱒この溝や垣根については,いくつかの資料にもふれられている.たとえば吟臼のパラ グアイ国民は,ダァラニー文化の影響を強くうけているものの,いわ懸る先住疑と購昆. の大多数の問には大きな溝ぶある」(出島,前掲論文,罫妬S)などである.筆者自身 も,パラグアイ滞在時にそれをしばしば感じた、たとえば教育文化省の総員の,謬被 らは私たちとは違う」,職ら自身が1われわれと詞じ教育を)求めてい綴い叢など融言 葉を聞いたことがある. ㈱この表現はパラグアイ人による言葉というよ齢.潤系人や臼本人の闘で綾われている言. 葉のようである.マテ茶やその成分については,鞠輯敬裕職能性と肇養に優れた南棄. のマテ茶一徴むサラ列で糖尿病やアレルギー予騎一渥ハート出賑.ふるさと文鷹 20◎4 が詳しも㌔. 20.

(23) ㈱霞CAパラグアイ事務所HP念007年12月20. 貝にアクセス)による。. htも:〃WWW泳識。0顧1ara a/ac赫V簸e創擾ch短》eO5蟻. ⑭パラグアイ(人)の員本(人)への評儀を.鈴本はゼ大豆をはじめとする農産物の舜に 見えての品質向上と輸出力の強化という貢献と,それを支援する日本の経済力」(前掲書,. pp.183−186)と述べている。また現地に暮らす濤本人のHP「パラグアイに行こうj ht :〃ww職eo¢猛沁s 1鍵a a ’a/b翻一3斌 によると,「対日イメージは一般 的に非常に良嬉である。その主凶は,60年前に始まった翼本人移住者の譲実な生活ぶ墾 と,峯国の農業に対する顕著な貢献を当国官民が高く評写していること.また,選年の わが国の経済・技衛協力にある」と記されている。. 第2節ラテンアメリカにおけるパラグアイの幼擬教育 ㈲パラグアイのおいては,自国の幼児教育の歴史に関する資耕は数少なく,筆者ぶ参考に. した論文(の中の一部。下記註㈱のもの)と,幼児教育の教員養成《研諺)のための 授業で使用されているテキストの申の歴史部分には,パラルタ博士の5つの段階,痔代 野分に沿って描かれている。. 、. ⑯ペルーの先住晟族の酋長で,絵画によってその時代の特徴的な生落様武や出来事を表し. た。白人とインディオの混血であるポマ淋,1?世紀の一肌ニアル時代の絢30年間にわ たって描いたもので,インカ時代の風習からスペイン植民地時代の宗載や習慣,そして スペイン人入今後の白人達の生活を描いている,と言われる。 ㈹パラグアイの幼児教育施設の名称に寄しては,なるべく直訳に近い形で⑳訳を基本とし た淋,資本のシステムと多少異なっているので,誤解を避けるため,違いを意識した表 境にしている.これ以後出てくる幼児教育施設の名称は,原則的に以下⑳ように表饗し た。. “K血dergar艶かー幼稚園(初期のみにて使用された), ‘‘Jar{血虚e雄醸粧重eボーこども園〔総称としての幼児教育施調, ご‘Pyee8¢o塁ぱ(1973以降)または?聡一pぬ澱麟a響(玉967・一玉973)一就学前教育.. 篭ar(湿または“Jard血de晦te♂一幼児園, 駕Mater回避一乳児園, ”G秘鍵de践ボー保育園・託児所, ’℃a§ac磁♂一ゆ姿かごの家, 頻H:{劇’一(子どもの.乳影響)施設. ㈱ht 〃es wiki d盆。/w丑dレEs¢疑ela N疑eva (2007年12醤24韓にアクセス〉によれ. ば,「『新学校』また他の著者の言葉によれば『活動学欄『親教育醒は,19世紀末に起 こった心理教育学の1つの運動である」とあ蓼.「新教育(運動)」のことを指すと思わ. れる。 ㈱htt:〃www;ed軽㈱乱。塑.aゴ旧識(滋8潤給dノ瑚 鍵i眺撫泌3撮e無搬 メ欝賦沁乱. 麹 @007年想月24目にアクセス)よ鞍 ㈱ 噺教育」の重要な代表者。ベルギー人.. 21.

(24) 戯 「臨t雄Rogajはグァラニー語で「子どもの家」⑳慧.こ:れは,ユニセフの協力を得た. ユネスコ,ラテンアメリカ地域のプログラムである. ㈱米州機構は,英語では“飯ga血a伽遼of A鵬醜翫a鎗S⑩醗.スペイン語では ¢0㎎a三等嚢轟e】船猛s塩“08A血樋㈱uo6(0露.《ンとなる。1951年に発足している、. 伽OMEPとは, k㎏a応sa伽n:Mo轟diale po耀胆d縫餓三無P撫》簾曲」《フランス譲の 名称で,「世界幼児教育・保育機構」と訳されている。. 鮒本2節の主要な情報源となったのは,LG噛恥朧重舘綴ρ㎎鰺eg搬鰍海]瞬鱒聡 ddos pa{地8魂e二面避ざ’2004の中の,㌦08鯉聰de轟僚郵融ぬ醗囎磁誕韮虚謡醐 Lat㎞a雛¢蜘a y e駐Paraguayηの部分である.&}舳e建ま数育省の職員で愚ある.. 第3節 幼塊教育をめぐる人口動態と貧困の問題. ㈱JICAの『パラグアイ国 教育セクター調査・分析 最終報告書薄(糊醐獲ぼ冒頭に 「パラグアイの教育の特徴を述べるには,貧困の蹴握ぶ当分析への入蓼繍と言え勧 とあり,他の教育関連の資料にも,貧困の問題は最靭に大きく擦馨挙げら干ている《鯛. えば,MEC馨幼児および就学前教育の国内現状分析還『D瑠麺飴纏麟ゆ藪蜘姻璽{掘ぬ Edu¢韻6汎1謳。濾yP讐ee8001af’2◎02など).また.貧困考の定義としては,響貧羅者と. は,基本消費バスケット(c鍛濱st3 b諭。認e¢o盤㎜加掘)よ雪叡入の抵い者のことを 言う。当バスケットには基本食糧費と非食糧費赫含まれる.基本消費バスケ狸トの翼ス トにより貧困ライン(狂翁ea虚e pob碧eza)が設定できる.消費バスケッ}鈴旗スト頭食糧. 費のみで成り立っている場合を極貧困ライン(㎞鎗癒欝む蝿a麗樋蹴)舳、う.つま り,食糧費のみの基本バスケットのコストを下回る叡入者を極貧困者という。収入三極 度貧困ラインを下回ると言うことは,これらの過程は基本食糧バスケジ塾の負担ぶ一階 能であり,大人一人あたりに必要な2,200カロ夢一⑳エネルギー源渉摂敢できてい嶽い 状況である墨という.〈JICA同書, pユ2) ㈱困際連合,前掲書,襲003,p.610. 鋤「少死」とは明言できないながらも,「多死」から妙死」に向かう移行期である,と言 えるだろう、198Q年と200露年の調査では,1歳下溝の死亡率は1,006人中そ細ぞ劇49.95. 人,37.06人で,母体の死亡率は10万件のうち,お4人,1麗人である《誕甑前掲書. 付録A,ρp.2−3).また1985−199◎年の死亡率(全般)は?人轄007年の454入《予 溺))である。これは,濤本において,死亡率(全般》,乳児死亡率解それぞ轟,高度経 済成長期をはさんだ,S22年に14、6入,?6.?人, S.三年に6.O人.6.6人であったこ. とを考えれば,現在でも乳幼児の死亡率がかな融高い状態であることによ蓼『少死」の 段階に届いていないことがわかる 〔死亡率の人数は,すべて玉0癖0入中〕 ㈱『新教育学大事典』第一法規,pp.264・%6 f人舞と教育」の項員よ麹.. ㈱B◎be魔》S搬τk “H段¢ia至a co盤st撒㏄i加del s購麺酬a謁∫h蜘融雌y ヨぬ蜘甥戯鵠2◎03,p.28.統計的・文化的な観点・見方における,子どもに対する表. 露2.

(25) 現の典型的な例として挙げている。 ㈱奥山恭子「現代ラテンアメリカの社会と家族」,『ラテンアメリカ 家族と社会醗新評論.. 欝92,pp.284壌93では,「現実には少なくとも駿潜相互扶助門門として予想している 範囲をはるかに超えたファミリアが存在し,機能している」,歴史的に培われてきた国. 民性や,親族の結びつきの強さは,簡単には消え回せるものではないだろ麹としてい る。また,奥出恭子「ラテンアメジカ子ども研究」,冨ラテンアメ夢寿 子どもと栓会醗. 新評論,19袈,μ15では聰家の橿祉機能に代わる私的保障機能を果たしているの藩. ラテンアメリカの『ファミリア』である」ともしている.. ㈱JICAパラグアイ事務所『もしもパラグアイが1◎0人の村だったら醒雛子ども鐙平 均数(pユ0)では,f最も豊かな10家族は平均1、3人,最も貧しい憩家族雌平均4轟入 の子どもを育てている」とあり,平均教育年数(μ茎3)では.撮も豊か癒鴛入三三{濾 年,最も貧しい20人は平均5,5年の教育を受けている墨とある。. ㈱訂CA,前掲書,2004,μ16. ㈱MBC,伽即偲伽二面澱1{海血舳囎ぬ醒■授認y乃鰯惚鞭児・就学前翼内 現状分析』,2002,ρ.13. ㈱:MEC,前掲書,2002の中に,女性家長の割合と家長の学歴についてのデータ淋挙げら れているが,それによると,女性家長は全体の25鵯緒肺部では30%,アスンシオンで は36%)であ箸,家長の学歴に関しては,小学校卒業58脇(地方では76鶉).中等教育. 卒業26%(都市部では36%,アスンシオンとセン塾ラル県では38騙》となっている。 ただし,女性家長の閣下に関しては,経済的面から考えた時と文化的鰹面から捉える時. では意味が違ってくる。前者の面でいえば,単に敏性家長」それ肖体に購題があるの ではなく,女性の労働問題として捉えた場合の幼児載育への影響を考えるべきであろう。 f女性家長が原国で,貧困が存在しているとは言えない.男女雇用劇度⑳不平等こそ麟.. 当国の貧困を生み出していると断言できる.女性家長の雇用ぶできている家駐とそうで ない家庭を比較すると,前者より後者の貧困レベル麟高いことがわかる。麟えに,貧幽 を減少させるには,女学の労働市場進出が大事な下下となっている妻としている(灘(滅 前掲書,2004,P、13)。. ㈱「早期刺激」は,“Estj㎞覧滋。血馳斑Pf鋤ガの三二.乳幼児の子どものケアや翫慮に灘. してよく使用される言葉で,日本的に言うと,f早期《または乳幼児)鼓育・三州.あ るいは「乳(幼)児ケア」に近い考えと思われる.. ㈱戸籍登録はパラグアイでは大きな問題で,例えば,⑳00年の調査によれば,聡人9の 10%の人力拙生証も身分証もなく,子どもに関して言えば,未登録瀞盟鶉であった認993. 年には10人中7人の子どもにまでに達した」としている。伽EC,前掲書.灘.蟄 このため政府は,意識化に向けてのキャンペーンを実総している(本文中の写真参照》。. 繍「児童労働の問題はそれほど単純ではない。なぜなら,まずその定義淋暖瞭である上, その正確な数字(人数)は公式にも,非公式にも把握するのはほぼ不可能と言えよう。. 23.

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