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フィールド・ワークからの考察と分析

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第3節  フィールド・ワークからの考察と分析

 前節までで,パラグアイ教育省が昌即す改革に対して,保育実践現場での実態を見,直 接子どもに関わる教員や,現場での指導・援助に当たっているテクニニたちの生の声を聞 いてきた。それらを通して,教員たち淋大きな希望やや勢がい,誇りを感にていること瀞 読み取れると共に,それに伴う彼らの苦悩や葛藤も見えてきた.

 改善プログラムは教育省主導の下,2004年から段階的に導入されてきた.「第三の視点」

紛から見てみると,教員たちは非常に∫素直」に「真面跳に,改革のねらいや方法論を 取り入れ,それを実践現場に移して行こうと努力している.それはテクニ翼だちも嗣様で,

実に「忠実」に,「着実」に教育省側からの研修の内容や意霞を現場に下ろそうとしている 臨それらは,前1,盆節を通して読み取れることでもある、改革に対してほば晴定」的 で,「子ども申心」の保育を実践しようとしている.幼児教育にある程度の統一性があり,

保育の内容,一臼の流れ,室内の装飾などが共通性を持っている.それは,全就学前教育 施設で,国家として同じプログラムによる同レベルの教育をし,国民の底上げをするとい

う意味で,この4年間の教育省の努力と研修の成果である,とも言える.

 しかしながら,理想と現実の問の葛藤が存在している。それは,単に教員へのアンケー トやインタビューの中で否定面にしばしぼ表れている徽材やインフラの不足」を意味す るものではない。教員たちは「真面則で『一生懸命」ではあるが,アンケート等で『子 どもの引例や「子どもが主体」と語りながらも,実態は必ずしもそうではないことに気 付いていない。これに気付いている教員は意外に少ない(インタビューから感じられたの は,教員iぐらいであった。テクニコは気付いてはいるぶ,それがきちんと伝えられていな いようである)。そういう意味においては,研修の成果も疑問視するべきなのかもしれない。

アンケート等でこれほど見事に(「新教育」的な思想を織り込んだ)「改革のキーワード」

とも言えるべき言葉たちを一往に口にすることは,危険でさえあると言える。なぜなら,

深く考えないままにそれを受け入れて,ただ繰り返しているとも考えられるからである。

教員の姿勢は,子どもに伝わる。それ淋「女化」というものであろう.

 教師自身が意識していないことから派生する問題はいくつかある.まずは,遊びと学び の関係である。誤解を恐れずに言えば,パラグアイの幼児教育は多くの国で見られるよう に,「知識教育」申心に展開されている㈲.知識(学び)と「遊び」の活動に一線が爾され ていても不思議ではないだろう、子どもの特性を考えた時,子どもの興昧欄心こそ誰騨学 び」に結びつく。子どもは「遊び」によって最も「効果的」に学ぶことは幼児教育におい て重要な知見である.パラグアイにおいては.磁び」を教育的に意味ある営みとして理解 しようとする知的風土が乏しい。それは,アンケートの回答からも窺える。筆者はここに,

大きく分けると2つの原因があるように思われる.1つ員はおそらく,f遊び」についての 考えや意識が,幼児教育関係者の問でさえも明確でなく,統一されていないため.教育省 職員による研修でも,きちんとした方法論が示されていない㈱。教員側から言うと,理論

は学べるし,頭で理解はできるが,(伝統的方法しか知らないため)実践には緒びにくいと いうことが出てくる。2つ臼は,「遊び」渉「発達1や『学び」抜きで考えにくい,という ことである。また,「キリスト教的」な価値観の強いパラグアイでは,閉門は「労働戸作 業」唯:事」の対極にあると捉えられる部分がある。ホイジンガは下問の文化と遊びの密接 な関係を述べたが,「より本質的なもののように見える奮真面目なこと毒に対して,遊びの 劣等意識がある」,「遊びが非理性的なもの」である,と指摘している輪『特牛教育」中心 といわれる日本の幼児教育でも,「遊び」に関しては.まだ「発達」や「学び」ぬきで語る ことは難しい㈱。『幼稚園教育要領解説』においても,礎ぴは遊ぶこと興野ぶ目的であっ て,人の役に立つ何らかの成果を生み出すことが肖的ではない。しかし.幼箆の遊びには 幼児の成長や発達にとって重要な体験力移く含まれている」㈱と述べられている、∫知識教 育」中心の幼児教育では,「発達」や「学び」抜きに繊ぴ」を語ることは.より園難であ ることは想像に難くない.就学前教育では「知識教門を求められているパラグアイでは,

f遊びによる溶解体験」㈱は学校「外」(家庭,地域)で求められているのかもしれない。

しかし教師として,その遊びの意味を考えていくことは決して無駄ではないと思える。な ぜなら教育は人聞形成であり,「教育にはさまざまな経験をして,認識能力や道徳性や社会 性を高め一人前の人聞になることと,遊びに代表されるように,有用なあ蓼方を破壊する ことで生命に触れることとの両方が必要」鱒だからである。そしてまた,『子ども主体」を 理解しながら,墜びから学ぶ」ことの意味を再確認する必要があるのではないだろう鵜  このような観点から見ると,観察の申で理解しにくかった方法論についても見えてくる

ことがある。教員は「子ども主体」呼ども中心」を論じながら,「伝統的」指導方法から まだ抜け切れていないことが多い。例えば,活動のねらいは妥当で,子どもも興味を持っ ていても,ひとつの活動を椅子に座ったまま長く続けると,子どもは当然飽きてくる。集 中力は持たない。それは逆に,教員護やg(G校の琵人纏任のクラス)などの「遊び」を重 視した方法(本人たちは気づいていないかもしれない力霊)を見るとわかるのだ淋,子ども たちの集中力,関心・興味が教師のねらいから外れることが非常に少ないのである.いや もっと正確に言うなら,教師が子どもの関心を上手に拾っていくからである。伝統的な指 導法に「近い」(これもまた,本人自身は意識していないと思われるが)方法だと,ねらい は明確で活動・指導もダイナミックでも,子どもの集中力が続かない。後響には,半分以 上の子どもが,他の事をするく例えば机の下で,家から持ってきた人形遊びをする.男児 同士でお喋りをする)という状態になる.つまり,教師ぶ磁びによる学び」の本当の意 味を理解し切れていないと思われる。

 f遊び」という側面からずらして考えてみても,坊法」としての柔軟性に欠けているよ うに思われる。実際に,保育者が臨機応変に,例えば,テーマからは外れないで活動内容 を少し変えるだけでも,子どもの座る場藤,位置,姿勢を変えさせることだけでも,子ど もの興味・関心という点からいけば,集中度は異なる。同じ姿勢で座らせ,何度も単語の 発音を繰り返させるだけでは,子どもは集中しない。そこで机の上に鍬せってしまうこと

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もある。集中せずに騒がしくなるのを解消しようと,静かにさせるための聾ズム㈱を繰瞬 返す羽目に陥ることもある。

 一方,指導の方法論として今後考えていくべきことは,教育省による研修の方法にもあ るように思われる。教育省の研修の中で示されている倒は,当然現場の状況に合ったや瞬 方を試行錯誤されるべきである。しかし,研:修の中で職本を読んだ後,子どもにこのよ うな質問をしなさい」というよ:うなマニュアル的なものが与えられたら,教員はどうする だろうか。上記で述べたように,そこがパラグアイ人の「素直」で三面勘なところで ある。教育省の指導どおりに実施するのである、その時,教師の思い淋先走り,まず絵本 の感想を言わせることが重要となってくる。その時,一体子どもの「興味」はどこに消え るのであろうか。

 このあたりが,上記に掲げた「(深く)考えない戸そのまま受け入れる墨伽ということ にも関わってくる。例えば,前節のアンケートやインタビューの中でも,教員の臼から『イ ンフラ,教材・教具の不足」が挙がられているが,これは筆者が現地に濡在した3〜4年前 にもアンケートの回答で挙がった視点である。教員は彼らの仕事の困難さに対して,その 原因を,経済的なもの,物質,モノに求める傾向があるように思われる.当然物質的なも のは必要である。しかし,それ以外の観点を失ってしまうと,子どもの興瞭は見えてこな いのではないだろうか。また,パラグアイの幼児教育の青年海外協力隊員の報告書醐を読 むと,ほぼ全員に一致した見方がある。パラグアイ幼児教育・保育の(教員たちの)主な 特徴,はっきり言えば吹点」は,「想徴力,創造性に欠けること、(研修等においても)

深く考えないでコピーする」という点である。

 もう一点,筆者の体験を挙げれば,パラグアイ滞在中(2003−2005),地方テクニコと共に 無資格保母向けのクルソ(研修,講座)を企画する時,驚かされたことぶある.例えば,

筆者が見本で作った製作物をテクニほ自身が書き写し,それをまた保母たちにコピーさせ ようという考えが抜けきらないのである。当然これは彼女らのせいではない。教育による 積み重ねである。子どもたちへの保育・教育の中で無意識に伝達されていることなのであ

る。これらに対して,パラグアイ人の口からは,「それは独裁政治の名残である。私たちは,

上から言われることに対して何も言えないで,そのまま受け取るというや三方で過ごして きたのだ」という言葉が闘かれる。34年間の積み重ねは決して小さくない。

 現在の改革や新カリキュラムの中では,「子どもに黒板を写させない.畠ら間違いに気付 かせる」という方法をとっている。しかし,上記で見たように全ては連鎖しているという 前提の上で,教員一子どもの関係だけではなく,教育省一テクニコ,テクニコー教員,大 人一子どもとの関係も視野に入れて,改革を進めていく必要があるのではないだろうか。

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