博 士 ( 工 学 ) 佐 倉 緑
学 位 論 文 題 名
A Study of Odor Perception in an Insect ( 昆 虫 の 匂 い 認 知 に 関 す る 研 究 )
学 位 論 文 内 容 の 要 旨
昆虫は地球上の全動物種のうち70%(約70万種)を占め、進化的に成功を収めた動物 であり、その脳を構成する神経細胞の数がヒトに比べるとわずか10万分の1であるにもか かわらず、複雑で精巧な行動を示す。昆虫の脳のメカニズムを解明することは、ヒトなど の脳の高次機能の基礎的知見を与え、また、ロボットなどに用いることが可能な新しい情 報処理装置の開発につながると期待できる。ワモンゴキブりは嗅覚情報処理のメカニズム を調ぺるためのモデル動物として、これまで多くの組織学的、電気生理学的研究に用いら れ、ことに嗅覚感覚細胞の応答特性については詳細な研究がある。しかし、従来の行動学 的研究は性フェロモンによってひき起こされる行動に限られ、一般の匂いの識別や匂い学 習能カを調ぺる研究は行われていない。本研究ではワモンゴキブりの一般の匂いについて の学習能カと識別能カを明らかにするを目的とした。
2種類 の匂いA‑Bを用い、匂いAを砂糖水と、匂いBを塩水とそれぞれ連合させるオ ペラント条件付け学習パラダイムによりゴキブりの嗅覚学習能カを調べた。1回の条件付 けによって、砂糖水と連合された匂いAに対する暗好性は有意に増加した。増加した嗜好 性は少なくとも1週間は保持されたが、時間経過にともなって記憶の減衰が見られた。3 回の条件付けにより記憶を強化すると、その記憶は減衰することなく4週間保持された。
また―度学習が成立した個体に対して、匂いBを砂糖水と、匂いAを塩水とそれぞれ連合 させる再訓練をほどこすと、匂いBに対する暗好性が有意に増加し記憶の書き換えが達成 された。これらの結果によルゴキブりの嗅覚学習能カが、1)非常に早く成立し、2)長 期間保持され、3)柔軟に書き換わるという特徴を持つことが示された。ゴキブりの優れ た嗅覚学習能カは、昆虫の中でも学習能カが高いと考えられているミツバチに匹敵するも のであ り、 学習 の機 構を研 究す る材 料と しての 利用 価値 が高い こと が示された。
同様のオペラント条件付けパラダイムを用いて、自然界に豊富に存在し構造的によく似 たアルコ―ルの匂いに対する識別能カを調ぺた。炭素数の異なる3種類の直鎖アルコール
(1 ‑ペンタノール、1・ヘキサノール、1.オクタノ―ル)を用い、匂いAと砂糖水、匂 いB.Cと塩水を連合させる訓練を行うと、ゴキブりはほとんど間違えることなく匂いA に高い暗好性を示した。炭素数が同じで構造の異なる3種類のアルコ―ル(1‑ヘキサ
/一ル、2‑ヘキサノ―ル、卜ランス‐2‑ヘキセン・1‐オ―ル)、またこれらのアルコ―
ルのうち2っとその混合物を用いて訓練した場合にも、ゴキブりはそれぞれの匂いを有意 に識別できた。しかし、1 ‑ヘキサノールと卜ランス.2‑ヘキセン‐1‑オールの組み合わ せでは間違える確率が高く、これらの匂いはゴキブりにとってかなり識別しづらいことが 示された。3種類の濃度の1 ‑ヘキサノールを用いて同様の訓練を行った場合、ゴキブり はそれぞれの濃度を有意に識別したが、中間濃度の匂いと砂糖水を連合させる課題は達成 できなかった。これらの結果はゴキブりがヒトにも匹敵するほどの優れた匂い識別能カを 持つことを初めて明らかにしたものである。今回得られた結果を、これまでのゴキブリ嗅 感覚細胞の応答特性に関する電気生理学的知見と照らし合わせると、ゴキブりの嗅覚系に おける大まかな匂いのコ―ディングは感覚細胞レベルで説明できるが、細かい匂い識別に 関 し て は さ ら に 中 枢 で の 処 理 が 関 与 し て い る こ と が 示 唆 さ れ た 。 これらの成果は、ゴキブりの匂い識別および匂い学習能カについての基礎的知見を始め て確立させたものであり、今後の昆虫の嗅覚処理メカニズムのさらなる解明への道を拓く こ と に よ っ て 、 神 経 科 学 お よ び 神 経 情 報 工 学 に 貢 献 す る も の で あ る 。
学位 論文審査の要旨 主査
副査 副査 副査
教 授 教 授 教 授 助教授
下 澤 楯 夫 栗 城 眞 也 河 原 剛 一 水 波 誠
学位論文題名
A Study of Odor Perception in an Insect ( 昆 虫 の 匂 い 認 知 に 関 す る 研 究 )
近 年 、 工 学 設 計 を 生 物 か ら 学 ぶ 気 運 が 高 ま っ て い る ( ` なか で も昆 虫は 地球 上の 全動 物 種 の う ち70% を 占 め 、 進 化 的 に 成 功 を 収 め た 動 物 で あ り 、 そ の 脳 を 構 成 す る 神 経 細 胞 の 数 が ヒ ト に 比 べ る と わ ず か10万 分 の1で あ る に も カ ` か わ ら ず 、 複 雑 で 多 彩 な 行 動 を 示 す 。 昆 虫 の 脳 の メ カ ニ ズ ム を 解 明 す る こ と は 、 ヒ ト な ど の 脳 の 高 次 機 能 の 基 礎 的 知 見 を 与 え る と と も に 、 自 律 ロ ボ ッ ト な ど に 用 い る こ と が 可 能 な 新 し ぃ 情 報 処 理 原 理 の 発 見 に っ な が る と 期 待 で き る 。 ワ モ ン ゴ キ ブ り は 、 嗅 覚 情 報 処 理 の メ カ ニ ズ ム を 調 べ る た め の モ デ ル動 物 とし てこ れま で多 くの 組織 学的 、電 気生 理学 的研 究に 用 いら れて いる 、 しカ ` し 、 匂 い の 識 別 や 匂 い 学 習 能 カ を 調 べ る 行 動 学 的 研 究 は 行 わ れ て い な し ヽ . 本 論 文 は 、 ワ モ ン ゴ キ ブ り の 匂 い 学 習 能 カ と 匂 い 識 別 能 カ を 明 ら か に す る こ と を 目 的 と し た 。 本 論 文 は4章 か ら な る 。
第1章 で は 、 本 研 究 の 背 景 と し て 、 昆 虫 の 嗅 覚 情 報 処 理 系 の 基 本 的 な 特 徴 と そ の 工 学 へ の 応 用 の 可 能 性 に つ い て 論 じ て い る 。
第2章 で は 、2種 類 の 匂 い AとBを 用 い 、 匂 いAを 砂 糖 水 と 、 匂 いBを 塩 水 と そ れ ぞ れ 連 合 さ せ る オ ペ ラ ン ト 条 件 付 け 学 習 バ ラ ダ イ ム を 用 い て 、 ゴ キ ブ り の 嗅 覚 学 習 能 カ を 調 べ て い る 。1回 の 条 件 付 け に よ っ て 、 砂 糖 水 と 連 合 さ れ た 匂 いAに 対 す る 嗜 好 性 は 有 意 に 増 加 す る こ と 、 増 加 し た 嗜 好 性 は 少 な 〈 と も1週 間 は 保 持 さ れ る が 、 時 間 経 過 に と も な っ て 記 憶 の 減 衰 が 見 ら れ る こ と 、3回 の 条 件 付 け に よ り 記 憶 を 強 化 す る と 、 そ の 記 憶 は 減 衰 す る こ と な く 少 な く と も4週 間 は 保 持 さ れ る こ と を 見 い 出 し た ゛ 、 ま た ― 度 学 習 が 成 立 し た 個 体 に 対 し て 、 匂 いBを 砂 糖 水 と 、 匂 いAを 塩 水 と そ れ ぞ れ 連 合 さ せ る 再 訓 練 を ほ ど こ す と 、 容 易 に 記 憶 の 書 き 換 え が 達 成 さ れ る こ と を 示 し た ‥ こ れ ら の 結 果 は 、 ゴ キ ブ り の 嗅 覚 学 習 能 カ が 、 非 常 に 早 〈 成 立 し 、 長 期 間 保 持 さ れ 、 柔 軟 に 書 き 換 わ る と い う 特 徴 を 持 つ こ と を 示 し て い る 。
第3章 では 、同 様な オペ ラン ト条 件付 けパ ラダ イムを用いて、植物の匂いとして自然 界 に豊 富に 存在 し、 構造的 によ く似 たア ルコ ―ル の匂 いに 対す る識 別能 カを 調べてい る 。3種 類 の匂 いA、B、Cとして 炭素 数の 異な る3種類 の直鎖 アル コー ル(1 ‑ペン タ ノ ー ル 、1―ヘ キ サ ノ ― ル 、1‑オ ク タ ノ ― ル ) を 用 い 、匂 いAを 砂糖 水と 、匂 いBとC を塩水と連合させる訓練を行うと・、ゴキブりはほとんど間違えることなく匂いAに高い 嗜 好性 を示 した 。炭 素数が同じで構造の異なる3種類のアルコ―ル(1―ヘキサノ―ル、
2‐ヘキサノ―ル、トランス‐2−ヘキセン‐1‐オール)、またこれらのアルコ―ルのうち 2っ とそ の混 合物 を用 いて 訓練 した 場合 にも 、ゴ キブりはそれぞれの匂いを識別できる ことが明らかになった。しかし、1 ‑ヘキサノールとトランス‐2‐ヘキセン―1−オールの 組 み合 わせ では 間違 える確率が高く、これらの匂いはゴキブりにとってかなり識別しづ ら ぃこ とが 示さ れた 。3種 類の 濃度 の1‐ ヘキ サノ ール を用 いて 同様 の訓 練を 行った場 合 、ゴ キブ りは それ ぞれの濃度を有意に識別したが、中間濃度の匂いと砂糖水を連合さ せ る課 題は 達成 でき なかった。これらの結果はゴキブりがヒトにも匹敵するほどの優れ た 匂い 識別 能カ と連 合学習能カを持つことを示している。今回の結果を、ゴキブリ嗅感 覚 細胞 の応 答特 性に 関するこれまでの報告と照らし合わせた結果、ゴキブりの嗅覚系に お ける 大ま かな 匂い のコーディングは感覚細胞レベルで説明できるが、細かぃ匂い識別 に 関 し て は さ ら に 中 枢 で の 処 理 が 関 与 し て い る こ と が 示 さ れ た , 、 第4章 では 本研 究で 得ら れた 成果 を基 に、 昆虫 の嗅覚学習の神経機構についての今後 の 研 究 を 展 望 す る と と も に 、 そ の 工 学 へ の 応 用 可 能 性 に つ い て 論 じ て し ヽ る ‥ これ を要 する に、 著者は、ワモンゴキブりが極めて優れた匂い識別能カや匂い学習能 カ を持 つこ とを 明ら かにし、昆虫の匂い識別や匂い学習のメカニズムの解明への道を切 り 拓い たも ので あり 、神経 科学 およ び神 経情 報工 学に 貢献 する とこ ろ大 なる ものがあ る 。よ って 著者 は、 北海道 大学 博士 (工 学) の学 位を 授与 され る資 格あ るも のと認め る。
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