~白島村の社会経済的状況
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(2) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 5 3. 三菱鉱業株式会社の瀬戸内地方進出に関する若干の考察(1). ー 53ー. I I 三菱鉱業株式会社の瀬戸内地方進出の時代的背景 明治維新後,わが国の鉱山業は先ず金銭鉱山の稼行を中心に進められた。近 代悶家としての体制確立を進める中で,真先に必要とされたのは貨幣制度の樹 立であり,新しい貨幣鋳造のためには,その材料として金銀の地金一特に銀ー が必要であったからである。しかし,その後は,近代的諮工業の広範な確立を 図るために,先ず,石炭と鉄という基礎的資源の確保に力を注いだので,石炭 鉱山の開発と,製鉄所の設置操業がその中心となっていた。. 0年 ( 1 8 9 7 ) の金本位制実施はわが国の非鉄金属鉱山業の生産 その後,明治 3 体勢を,更に修正させ,従来の銀生産中心から,金・銅の生産中心へと移行し た。金生産の増加は,北海道の砂金,台湾の金山開発などが影響し℃いるが, 銅の生産については,もともと,銅産国としてわが国は銅を比較的多く産出し ていた。周知のように,この時期までの主要銅山としては,古河の足尾銅山, 住友の別子銅山,藤田の小坂銅山などがある。. 0年ごろから鋼の産出高の増加が見られるが,更に,明治;末期には金・ 明治 3 銀の採掘が進んで,地下の i 深 部に採掘が及ぶに従い,硫化物がふえ,衰退した 金・銀山は銅山や鉛山に変化してしまった。 この明治後半期から,大正期を通じての,鉱山業全般に見られる変化は,表. II‑1の鉱区数の推移と面積(坪数)の変化によって,. うかがうことができ. る。すなわち,稼業している鉱区数は,全体を通じて大きな変化はないが,明 治末・大正初期はわずかに,減少している。しかし,面積は大正期半ばまで増 加して,約 2‑3倍になっていることから. 1鉱区当たりの平均坪数の増大し. ていることがわかる。比較上,明治 3 2年 , 4 4年,大正 8年を放さ"出し!て,稼業 鉱区と,休業鉱区も加えた合計鉱区で比較してみると,次の表 II‑2のように なる。つまり,鉱区当たり平均坪数は,. . 6倍 , 全鉱区で約 2. 稼業鉱区だけで見. . 8 倍にもなっている。 ると,約 3 更に,. 4 年で上位 10%の主要鉱山の平均坪数は, 明治4. 6 4 6千却に達している. ことから,明治末期から大正初期にかけて,鋭、!zの合併が進んでいたことがわ.
(3) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ. 一 円UoonopocO の 4ηLqo ヴa 内 oeoqLoon汐eowboos佳 作 ︒ 噌4nonOAUooaU 噌ム 土bnwuwbQUワムMauauGURU ヴdQυavaunv 唱AquqdnwuRυ ヮ quau 一 の 命 ︒ ゐo o‑‑. 坪 数一千 ι!. 巧. 勾. 坪一 A FAnw 戸川A A A J A A 戸川JAo凶A 作 33JAJnAAAAA 戸 市 一 GUmb の φoonU 4mbnunvnJUOO wu ︒&内ベundoo ︒︒︒︐ ︒GFbqoa宮内M Aqo 噌 一8 0 9 5 7 6 3 5 8 5 9 5lA 5 6 5 6 5 3 2 4 3 9 8 5U7 4 業一 2 3 3 4 4 4 4 4 4 5 5 6 6 6 6 6 6 6 6 6 7 8 9 8 9 9 f ・町︑一. 休一. 一. oqoa告 のO の a a z d ι z. inuooAUAunvnv A 凋宮 内 汐 噌 & 内 4ndnυnunOAwuqo ︒︒ AUoontd告 のG a A τ AOO. 常凶. 唱. 唱. 戸. 戸. 唱. 内. の白︒. 白. 巧. 鉱区数. 5, 280. 4 7 9 5,. 5, 6 7 4. 4 8 8, 3 7 0 千坪. 8 3 1, 567 千坪 735, 333ρ. 1, 5 6 6, 9 0 0グ. 1, 147, 826 11. 汀川寸 I l ‑ ‑ l i l i ‑ ‑ 1 i l l i l i ‑ ‑ I l l i ‑ ‑ ‑ ‑ ‑. 幽一. AVE‑‑qG 司 LqoqoqoqoqoqoqoqoqoqoqoqoηoqoqO 内︒︒︒のO. f¥. i. 合計. 559, 391 1/. )ι 区 一 5 7 1 8 9 5 4 1 3 2 3 5 5 4 4 9 3 2 0 2 4 1 1 7 1 2 mお日 地一一鉱一一朗釘幻口鉱山山 日 針路万 即 M 日おお却応 m. UU uw ω ::::::' 1:;:::ω :n: :. 圃一噌. i. の戸││﹁11111111lili‑‑1111111111‑‑Illi‑‑. 移一業一 推一外一. 積一一坪. F. 1 2 0 2, 3, 554. 2 6 8, 9 7 1千坪. 面一数一千. 嗣. ‑/ι ︑一. 噌 r n 乙 四 一 7534400096727065344561833 3 J 及 一 均 一 J3JJJAJAO沖FAJバJ S A A A4MANAFJSAJぷn ' ZE{! 一9 4 2 1 8 6 6 6 2 8 4 0 8 5 0 7 6 2 0 3 1 0 2 9 2 0 米弘 E 1ノ一 e s E 3 6 @ ︼ ② &6828E68Lt633Edeem‑8 区 一 業 一 2 2 3 $ 3 3 4 4 4 4 4 4 4 5 e S 6 6小s g 恥@ 5 6 @ 鉱一稼一. i 喝. 一﹄一区一52309559420246445957003356. nu‑‑Qd AnuqυQU AQunU9 nUQU bnuauqd b AnυFbqU9 ndou dqυqu Fbd bηd目白同bqdqdqυnuooau氏UFbauaundAU 14ntqdnvqυqυ r 目. ︑3ノ一. 1, 6 0 4 3, 8 7 5. 659, 456 11. 坪数. ム ー. 官. 1111111ill‑‑‑Ilili‑‑ ヴ. 2, 595 2, 685. 数. ; i一: 2 2: 2 2: 2 2: 2 2: 2 2: 1 1: 1 1: 1 1: 1 2: 2 2: 2 1: 111 ; Ja 業一 家一. パ ﹁ 告. 1 0 4千坪. 3 0 4 千坪. 392 千坪. 休業鉱区. 107 1/. 170 11. 207 グ. 105 1/. 209 11. 276 11. り. 稼業鉱区. 軒 当 た 数 坪. ︒ oonvnu 噌・品︒Lqod宮守よ 06 の OSU FbaundoonVAU 唱ょっ白︒︒ 3 3 3 3s3 33444441 111 一一3. 鉱鉱区区数. 286, 420 1/. 合計. 一年 R y h v hqud pbau. 長一明大. F 一治正. ( ( 稼 休 業 業 〉 〉. ( ( 稼 休 業 業 ) ) 坪. 8 年 3 2 年 │ 明 治 44 年 │ 大 正 │明治. (東洋経済新報社刊〉. *r 明治大正国勢総覧]. 54 第5 6 巻 第 1号. ‑54ー. 表II‑2 鉱区数・面積・鉱区当たり平均坪数の変化. *r 明治大王国勢総覧 J (東洋経済新報社刊).
(4) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 55. 三菱鉱業株式会社の瀬戸内地方進出に関する若干の考察 (1). ‑ 55ー. かる。これは,明治 23年以来の鉱業条例が廃止され,代って,明治 38年 7月に 鉱業法が制定されたことに密接に関連しているといえる。鉱業条例の第 41条 は , i 鉱区トハ鉱物ノ採掘ヲ為ス土地ノ区域ヲ謂ブ。鉱区ノ境界ノ、直線ヲ以テ定 メ地表境界線ノ直下ヲ限トス。ソノー鉱区ノ面積ノ、石炭ノ、一万坪以上其ノ他ノ 鉱物ハ三千坪以上ト乙/共ニ六十万坪ヲ超ユノレコトヲ得ス」となっていたが,新 制定の鉱業法の第 9条は,出願鉱区の最小限を石炭の場合は 5万坪以上,その 他の鉱物については 5千坪以上として,. その最大限も 100万坪に引さ上げてい. る。つまり,政府としては大規模鉱区を認め,むしろ,大企業による中小企業 鉱山の会併又は吸収を行いやすくしたといえよろ。 更にもう一つの重要な問題は,禁止されていた買鉱製燥の解除である。明治. 6年 7月布告の日本坑法では,. i 第九 開坑スノレ者ノ、先ツ坑区ヲ得へ ν坑区ノ. 広狭ノ、共適実ナノレ起業ノ目途ニ応乙/‑テ之ヲ得セ νム可乙/。有鉱質坑ヲ開ク者ノ¥ 必ス製鉱ノ業ヲ兼ヌ可 ν」としてJ 鉱物の採掘を行ラ者に自ら製煉することを 義務づけ,採鉱部門と製煉部門の分離を禁止していたの十で,中小金属鉱山は, 止むを得ず,小規模で、不完全な製煉設備で自ら行わざるを得なかった。しかし, 鉱物の産出置の少い中小鉱山の経営者にとっては,設備と人員及び技術を要す る製煉を,独自に行うことは,鉱山経営をして不利な条件であった。ところが, 前記の明治 23年公布の鉱業条例では,第九の関係条文「・り!…有鉱質坑ヲ開ク者 ノ、必ス製鉱ノ業ヲ兼ヌ可 ν」が削除されており,更に,明治 38年の鉱業法にも そのまま継続している。 すなわち,政府としても,採鉱・製燥の分離,買鉱製煉を認めたわけで,中 小金属鉱山は, 自家製煉を止め,大企業の経営する製煉所に売鉱することが可 能となったのである。これは,大企業にとっても,中小鉱山にとっても有利な 展開であった。更に,銅製煉技術の改良進歩が,金銀鉱の合併製煉を可能にし. (2) 明治 23 年 9月25日公布の法律第 8 7 号「鉱業条例」は 9主9 2 条からできており,こ の条令公布と同時に,日本坑法(明治 6年制定〉は廃止された。 (3) r 東京経済雑誌 J5 4 1 号(明治 23年1 0 月 4日) 04 7 3、 ページ。 (4) f 東京経済雑誌 j 5 3 3 号(明治 23年 8月 9日 干1 ] )1 9 8ページ。傍点筆者。.
(5) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑56ー. 第5 6 巻 第 1号. 5 6. たことも,大規模製煉所への集中を促進した。 とうして,明治末期から大正前半期にかけて,三井・三菱・住友;・古河・藤 田 ・ 久 原 の 6社は,群小鉱山の買収と,自社の製煉設備の近代化により,一層, 買鋭、製煉を拡大している。 このような状況は,表1I‑ 3に 見 る 通 り , 明 治 40年 (1907) か ら 大 正 7年. ( 1916) の 10年 聞 に 銅 の 産 出 量 は 約 3倍近い伸びを示している。 古岡鉱山を主力とする三菱の金属鉱山業は産出量としては,古河・住友・三 表II‑3 銅産出量と価額の推移(内地〕. 額一刊. }l. 白. 画. 訪日出川崎絡. ︐A ︒ 令. ↑ゆ6362934896932272320177792 E一 一 6 03 77 623 15 38 51 126 96 93 85 754 4 07 96 60 23 44 03 01 78 02 42 65 占μ. t E a t ‑. 抽. umm 詑n Mお幻ω 招 羽 田ω お叩mwU. a A官 噌 よ 司 よ 噌 ﹂ 噌. hqdA 噌4 0 h η 0 8 Ewb 氏U 巧d o OハvnutムqU. *r 明治大正国勢総覧,]. 会法一. ょっ. 内 044τaaτ44τa告. 岬吋 oonvnUT. 4 0, 4 6 0千斤 4 2, 1 8 2 6 5 3 4 5, 3 9 1 4 8, 5 5, 3 1 2 538 5 3, 1 5 8 5 9, 6 2, 3 8 6 5 2 3 64, 6 7, 7 5 5 7 6, 4 0 2 206 8 2, 0 0 3 8 9, 0 3 7 1 0 4, 835 1 1 0, 4 3 9 1 1 7, 1 2 5, 6 9 3 1 6 7, 7 2 6 064 1 8 0, 5 6 9 1 5 0, 1 3 0, 7 3 9 9 8 7 1 1 2, , 15 9 6 9 210 9 0, 9 8, 9 1 0 1 0 5 . 0 9 3. 同一日四時日ロ. i i E出量. 産一. 次一年. 後伊. 一治正. 一 ︒ ︐ ︒ ︒ A D 氏U ‑ndηO. 年一明大. 銅. (東洋経済新報社刊). (5) ~三菱鉱業社史』 (6) 三井は三井鉱山合名会社を設立して炭鉱と鉱山を統合。神岡鉱山の銀・鉛製燃を改 良強化。三菱は,吉岡・尾去沢銅山に佐渡・生野を加え,大阪製;煉所を整備し,頁鉱 製~J1(を推進。古河は足尾,阿仁,院内の各銅山経営に加え,明治 37年, B光精銅所を 1年には別子銅山に製紙f 所を新設したが, 3 4年,日本鋳銅所を買 設立。住友も,明治 2 収して住友鋳鋼場を設立, 3 7年には四阪島に製焼、所を移し,体勢を整えている。.
(6) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ 三菱鉱業株式会社の瀬戸内地方進出に関する若干の考察(1)‑57ー. 5 7. 井に遅れ℃いるが,大阪製煉所を軸に,買鉱製燥を強力に押し進めること,吉 岡鉱山の製煉能力の限界を感じつつ,新しい中央製煉所設置を企図していたの であろう。. I I I 三菱鉱業株式会社の中央製煉所設置言j l 聞の推進 明治末期から大正前半期にかけて,わが国の鉱山業が,石炭,鉄鋼,非鉄金 属ともそれぞれ産出額の増大傾向を示したことはいろまでもないが,特に,第. 1次世界大戦による日本経済の景気上昇によって,産銅額の急増したととは, すでに述べた通りである。三菱祉内においても, ンから,. 産銅額は明治44 年の 7, 448ト. 大正 6年には9 , 0 7 4トンに増加している。モうして, 銅製煉につい℃. は,主要鉱山にそれぞれ設備された製煉所によっ℃実施されていたが,積極的 に社外貨鉱を進め,更に中小鉱山の買収によってふえた採掘銅は,必ずしも山 元による製煉作業では,まかない切れない状況になっていた。 三菱の金属鉱山は,明治 6年(18 7 3 ) に買収した吉岡鉱山が最初であり,そ の後,鉱区拡張,中小鉱山の買収後, 20 年代末には一部鉱山の売却整理をする が,その構成は吉岡鉱山とその周辺備中の諸鉱山,尾去沢・荒川と奥羽地方の 諸鉱山,北陸・九州の鉱山と, 29年に払い下げを受けた官行鉱山の佐渡と生野 の両鉱山である。これら諸鉱山の製煉所として中央製煉所の設置が必要と考え られた。当時,三菱の諸鉱山の産出鉱の多くは銅を主とする硫化鋭、で,その処 理鉱石の形状としては,粉鉱が多く,その処理技術にはいるいろ予備的工程も 必要であり,尾去沢鉱山や生野鉱山で浮遊選鉱法を採用したが,その能力から 考えても,新しい中央製煉所は,新しい技術を導入して,粉鉱処理の増大を図 るものでなければならないと考え,吉岡鉱山から製;城主任をアメリカに派遣し て研修させている。そうして,この新製煉所の立地は,瀬戸内地方が最も適地 であるという見解に立って,候補地の選定に入った。 『三菱合資会社社誌』によると,第 2 3巻大正 5年の分に,. (7) 東京大学出版会刊『三菱社誌 J2 5巻 2 9 2 1ページ。(復刻版). r 3月 5日. 宇野港.
(7) OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ ‑58ー. 5 8. 第5 6 巻 第 1号. r. 外中央製煉所設置調査」という項があり, 瀬戸内海宇野港外ニ中央製煉場設置 ニ付位置選定蛇四阪島神ノ島等ノ煙害実況調査ノ為吉岡鉱山長若林弥一郎三月 十二、三日頃ヨリ十日間位ノ予定ニテ右地方ニ出張ノコトトス Jと記るされて いる。しかし,実際は,もう少し前から動いていたと考えられ,昭和 9年印刷 された社内誌と思われる『直島製煉所史』には,. r 肇業ノ顕末」の項に, r …. 本社技術部ニ於テ先ヅ 之ガ候補地ヲ物色スノレコト、ナリ吉岡鉱山長若林弥一郎 氏ハ全山出入 J 岡山県人藤江久四郎氏ヲ介乙/宇野方面取調ノ結果大正五年二月 二十七日直島及葛島ヲ候補地ト乙/推薦セリ。依ツテ本社技術部ヨリ調査員派遣 アリ検分ノ結果・・ゎ・ゎ川川」と述べられており,同じく製煉所内部資料として作ら れた詳細な年表にも. 2月2 7日を記載している。(未完〉. (8) 約 1 0 0ぺージの B5版の印刷物で, r 直島製煉所史』のタイトノレがある。記事内容は 2 月現在である。 昭和 9年1 (9) B4版横罫紙に手書きで 1 0 枚の年表。.
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