パウル・ツェラン︵四︶ Pa ul Cel an (4)
北 彰
要 旨一九四五年︑ツェランは生まれ故郷の街チェルノヴィッツを後にして︑ルーマニアの首都ブカレストへ向かった︒ディアスポラの始まりである︒それはまた同時に自由と可能性を求めての広大な世界への脱出でもあった︒この論考は︑一九四七年一二月までの約二年半に渡るツェランのブカレスト時代に焦点を当てたものである︒当時のツェランと交友関係にあった文学上の友人たちの証言や︑ハルフェンの伝記の記述を基にして︑伝記的事実を掘り起こしている︒ブカレスト時代はツェランの人生のうえで︑明るい光が差し込んだ稀な時代である︒
キーワードツェランのブカレスト時代︑ディアスポラ︑ブカレスト・シュールレアリスム︑ペートレ・ソロモーン︑ツェランのエロスの解放
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Ⅵ ディアスポラへ
―
一九四五年春友人の中には︑エーリヒ・アインホルンやグスタフ・ホーメトのように︑赤軍に入りソ連市民となった者もいた
が︑ツェランはチェルノヴィッツに残ってソ連市民となる道を選ぶことはなかった︒ツェランは︑それまでグスタ
フ・ランダウアーやクロポトキン等に惹かれ︑大戦前の学校時代には非合法の左翼文献の読書会を仲間と共に秘か
に定期的に開いていた︒また一九四〇年にソ連軍がチェルノヴィッツに進駐してきた折には感激して﹁今や僕はト
ロッキストだ!﹂と叫んだと伝えられている︒本来政治的には左翼的立場のはずだが︑しかし社会主義ソビエトを
自分が住むべき国としては択ばなかったのである︒
ハルフェンの伝記に従うなら︑﹁とにかく何よりも自由が大切なのだ﹂という判断を下したということになる︒
現実の社会主義国ソ連がチェルノヴィッツでなしたこと︑例えばユダヤ人市民のシベリア送りや文化政策などを目
の当たりに体験し︑﹁現実に存在する社会主義﹂に対して幻想を抱かなかったことも理由として挙げることができ
るかもしれない︒
いずれにせよとにかくツェランは︑一九四五年四月末ないし五月初めにチェルノヴィッツを脱出し︑ルーマニア
の首都ブカレストに向かうことになる︒ディアスポラの始まりである︒それは同時に︑自由と可能性を求めての︑
広大な世界への脱出の始まりでもあった︒ブカレストには一足先にルートが行っていた︒
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一 ブカレスト
―
うるわしき言葉遊びの時代 わが青春は陰惨な嵐であったがここかしこ 稀には太陽の光も洩れた ボードレール﹁悪の華﹂
︻アルフレート・マルグル=シュペルバー︼
ルートはツェランが﹁詩集﹂の形にまとめた詩の草稿を持参していた︒この草稿を︑当時チェルノヴィッツで有
名だった詩人であり︑同時にジャーナリズムで広く活動していたシュペルバー︵一八九八―一九六七︶に読んでもら
うためである︒彼の助力を得て詩集を出版し詩人として世に認められたいとツェランは望んでいた︒
このシュペルバー︑なかなかに興味深い人物である︒一九四五年四月にツェランがブカレストに向けて旅立った
時︑ツェランは二四歳︑シュペルバーは二二歳上の四六歳だった︒
シュペルバーは︑チェルノヴィッツから二〇キロメートルほど離れた人口六千人ほどの小さな町のユダヤ人家庭
の長男として生まれた︒下に妹が一人いる︒二百年来この地に生きてきた同化ユダヤ人の家系であり︑父は農園主
の簿記係を︑母は芸術的才能の持ち主でピアノ教師をしていた︒幸福な幼年時代を送っている︒
チェルノヴィッツでギムナジウムに通い︑第一次世界大戦勃発と同時にウィーンに逃れ︑一九一六年にアビトゥ
アを取っている︒この間ロシア軍は三回ほどチェルノヴィッツを占領していた︒シュペルバーは︑一九一六年秋召 パウル・ツェラン(四)
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集され︑ガリチアなどの東部戦線で戦っている︒この頃すでに詩を書き始めているが︑その中に﹁羊飼いの笛
︶1
︵﹂と
題する作品がある︒シュペルバーは塹壕の中にいたのだが︑その時味方の中の一人が笛を取出し吹き始めたのであ
る︒すると間もなくそれに呼応するようにロシア軍からも同じように笛の音が聞こえてきた︒しかも何と同じ曲
の! 戦争もまだこういった﹁牧歌的な﹂ものであった︒
戦後一九一九年にチェルノヴィッツに帰還︑そこでほぼ一年に渡り刊行された表現主義風の傾向を持った雑誌に
作品を発表したりしていた︒二〇年には﹁どこにもない都会への限りない憧憬
︶2
︵﹂からより広い世界をめざしてパリ
に赴き︑そこでイヴァン・ゴルの友となり︑フランス詩を知ることになる︒しかし翌二一年にはもうアメリカの
ニューヨークに渡り︑二四年まで様々な仕事を転々としながら生活した︒この間アメリカ共産党が刊行していたド
イツ語の新聞に詩や散文を寄稿していた︒また結婚し二三年には長男が生まれ︑二五年には次男が生まれているが︑
離婚している︒
肺を病み︑また大都会生活に幻滅して二五年に故郷の両親の家に戻っている︒﹁私の青春は逃走だった︒どこか
らの? 私の荒野からの
︶3
︵﹂と詩に記している︒
彼の詩を貫く大きな主題は自然の風景である︒しかしその自然の風景の奥には︑異次元の夢想が存在している︒
一見ヨーロッパの辺境の平原と森を描写したものと見えるが︑その背後に彼の青春時代の世界を股にかけた放浪が
あることに注意を向ける必要があろう︒三〇年代に刊行された二冊の詩集には︑﹃比喩としての風景﹄また﹃秘密
と諦念﹄という題名が与えられている︒ 一九二七年︑すなわちシュペルバーが二七歳の時に母が亡くなり︑それから母の名前にちなみマルグルをアルフ
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レートの後ろにつけるようになった︒母から愛されたことがわかる︒またシュペルバーも母を深く愛していたので
あろう︒ツェランとの共通点である︒
二八年に再婚し︑その後チェルノヴィッツの日刊紙で仕事に就いたりしている︒この間︑新聞紙面の一部を割い
て︑作品発表の場に恵まれなかった若者たちのために︑詩などの作品掲載ができるようにした︒この若者の中には︑
ローゼ・アウスレンダーやキットナーもいたのである︒
︻シュペルバーと世界︼
シュペルバーが生まれ育ったのは︑ツェランと同じく西欧から見るならヨーロッパ辺境の地︑東欧の片隅とも言
えるブコヴィーナ地方である︒しかしシュペルバーにとっての世界は︑青年時代の遍歴からもすぐ理解できるよう
に︑狭い地域に限られたものではなかった︒文学的関心もドイツ文学を越え︑先に記したようにフランス文学︑ま
たアメリカ滞在中には英米文学にも関心を示している︒広い世界であったことがわかる︒
中でも特筆されるのは︑時の﹁現代文学﹂の先端であった
T.S.エリオットの﹁荒地﹂にいち早く着目し︑ドイ
ツ語圏において最初にドイツ語訳をしていることである︒エリオットが﹁荒地﹂を発表したのが一九二二年である
から︑ほぼ発表と同時であると言えよう︒ドイツ語を解するエリオットは︑シュペルバー訳を﹁見事な︵admirable︶﹂
訳と評したと伝えられている︒
シュペルバーは︑一九三四年に刊行した詩集﹃比喩としての風景﹄のまえがきの中で︑﹁自分は意識的な伝統主
義者であり︑現代詩人の中に数え入れられることをあらかじめ拒絶するものである
︶4
︵﹂と述べている︒しかしそれは︑
パウル・ツェラン(四)
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彼が﹁現代文学﹂を理解していなかったことを表すものではない︒エリオット理解にそれは示されている︒また後
にツェランをウィーンのバージルに紹介する際︑ツェランの詩作品を﹁カフカの散文作品に対するただ一つの抒情
的対応物である
︶5
︵﹂と述べていることからも明らかであろう︒
ツェランもブカレストを離れて後︑一九四八年二月一一日付のシュペルバー宛ての手紙で詩集﹃骨壺からの砂﹄
の詩の配列や詩の選択について力を貸してほしいと依頼し︑また同年四月二一日付の手紙では﹁あなたを置いて詩
の良し悪しを私に教えてくれることができる人はいません
︶6
︵﹂と記している︒
インゼル書店のカタリーナ・キッペンベルクから︑シュペルバーの作品刊行の希望が伝えられたこともあった
が︑ナチ政権が成立したため実現には至らなかった︒もし実現していたらドイツにおいて広くシュペルバーの存在
が認められ︑ドイツ文学史に登録されていたかどうか︑興味ある問題である︒
それはともかく︑シュペルバーが広い世界を知っていたこと︑またルーマニアを越えた広い文学世界において︑
例えばトーマス・マンやシュテファン・ツヴァイク︑クヌート・ハムスンやジョルジュ・デュアメルなど多くの文
学者と関係を持っていたことは特記すべき事実である︒
︻シュペルバーとツェラン︼
四〇年︑ルーマニアにファシスト政権が成立すると︑シュペルバーはそれまで勤めていた職場を解雇され︑ブカ
レストに赴いた︒そこで彼は英語やドイツ語を教えることで生計を立てたのである︒四一年には妻の父が殺され︑
四二年には義理の兄弟夫妻も殺害された︒シュペルバーも警察の留置場に入れられたり︑またトランスニストリア
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に強制移送される危険に遭ったが︑ブカレスト在住の文学上の友人たちの助けによりその危険から免れることがで
きた︒しかしこの間の心労から以後長く心臓疾患に苦しめられることになる︒
四四年︑ルーマニア政府が一転して連合国側につき︑ドイツに宣戦布告をすると︑ユダヤ人であるシュペルバー
も危険から解放され︑自由の身になった︒四五年にはブカレスト大学に入学手続きをすると同時に英字新聞の翻訳
者としての仕事を得た︒四七年にはルーマニア放送の外国向け英語放送部門に職を得た︒
ツェランが四五年にシュペルバーの許を尋ねた時︑シュペルバーを巡る状況は以上のようなものであった︒
シュペルバーはツェランの詩を高く評価した︒また彼の周りには多くの文学者が集まっていた︒日曜日の午前に
は決まって人々が彼の自宅を訪れていたのである︒周囲の人間が後に著したシュペルバーを追想する文章を読む
と︑シュペルバー夫妻が自宅を訪れる人々に温かく接していたことが記されている︒一メートル九一センチの巨魁
で︑常に人から頭一つ抜け出ていた︒魅力的な人柄でユーモアのセンスもあった︒当然のことながら人望は厚く︑
ツェランもまた彼を慕っていた︒ブカレストを離れてから︑ツェランがシュペルバー宛に何通も心を許す手紙を書
いていたことからも︑それは明らかである︒ ブカレスト時代のツェランの職場︑﹁ロシア書籍﹂の同僚でありまた文学仲間であったペートレ・ソロモンによ
れば︑ツェランはブカレストに来て︑最初の一週間はシュペルバーのところに泊まったのだという︒ハルフェンは︑
最初の一週間かどうかは不明だが︑チェルノヴィッツ時代の友人のレオニート・ミラーの下宿に転げ込んだと記し
ている︒それまでのアンチェルというルーマニア語の本名からのアナグラム︑ツェランをペンネームとしたのも︑シュペ
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ルバー夫人イェシカの勧めだったと言われている︒
︻カルテーア・ルーサ︑﹁ロシア書籍﹂︼
ツェランは間もなく︑ルーマニア・ソ連友好協会が新たに設立したロシア語書籍の出版社︑ロシア文学をルーマ
ニアに普及させる役割を持った﹁ロシア書籍﹂に職を得ることができた︒ツェランのロシア語力がものをいったの
である︒いや︑正確に言うなら︑ロシア語力とルーマニア語力の二つの力がものをいったのである︒この二つとも
ツェランの母語ではなかった︒ツェランからするなら︑母語ではない言葉を母語ではないもう一つの言葉に翻訳す
るのである︒要求される語学力が並大抵のものではないことが理解できよう︒
﹁ロシア書籍﹂の編集部にツェランを紹介し推薦したのは︑ツェランより一足先︑数ヵ月前にチェルノヴィッツ
からブカレストに出てきていたホリア・デレアヌだった︒デレアヌは︑チェルノヴィッツ大学でツェランと共にフ
ランス文学を学び︑またツェランと文学論を戦わせ︑政治情勢について論じた仲だった︒また一九四四年以後︑チェ
ルノヴィッツがソビエト領になってからは︑チェルノヴィッツの地方紙で一緒に仕事をしたこともあった︒
デレアヌのツェラン回想を読むと︑ツェランは感じやすい人間で︑よく目に涙を浮かべることがあったのだとい
う︒妥協しない生き方︑そしてまたぞっとするような現実の中でも詩を変わらず書き続けていたことが強く印象に
残ったようだ︒記憶力は抜群で︑紛失したデレアヌの長い詩を記憶から甦らせてしまうほどであった︒夜型人間で
あったツェランと夜を徹して話し込んだこともよくあったという︒互いに訪問し合いデレアヌが不在の時は︑ツェ
ランはドアの下に置手紙をしていった︒デレアヌはその手紙を今も持っている︒
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またブカレストの交友関係を通して知り合ったマルチェル・アデルカもまた﹁ロシア書籍﹂へのツェランの就職
に尽力したらしい︒アデルカはすでに﹁ロシア書籍﹂に勤務していた︒
アデルカがツェランと知り合ったのは︑仲間同士のパーティーの席上だった︒そこでは皆がダンスをしたり︑音
楽を楽しんだり︑議論に花を咲かせていた︒当時そういったパーティーに集まっていた青年の殆どは︑意欲と熱意
に満ちて︑未来を信じていたが︑それとは対照的にツェランは懐疑的で慎重に構え︑控えめな態度を持していたと
いう︒周囲の青年たちのオプテイミズムや︑愉快な気分にツェランは寛大な微笑で対していた︒ツェランの才気溢
れる機知や知力は皆が認めるところだった︒
﹁ロシア書籍﹂の編集部の雰囲気は自由でのびのびとしていたようである︒出版社の文芸顧問のアレクサンドル・
フィリッピーデは︑かつてベルリンで大学生として生活を送り︑ドイツ文学のとりわけロマン派に造詣が深かった︒
ツェランはこの文芸顧問を尊敬していた︒
﹁ロシア書籍﹂関係でとりわけ重要なのは︑ユダヤ詩人でもあったペートレ・ソロモーン︵一九二三―一九九一︶
との交友であった︒ソロモーンが三歳年上のツェランと初めて会ったのは︑一九四六年の秋︑ヴィクトリア通り一
二〇番地の建物二階にあったロシア書籍の編集部だった︒
ツェランの豊かなエスプリと︑上品で優雅な物腰が印象的であったという︒父母のことについて語ることはな
かったが︑精神的な外傷をうかがわせるものはあったらしい︒ソロモーンはツェランと文学論を戦わすことはあま
りなく︑むしろ仕事が終わってから友人や知人の許に連れだって出かけ︑楽しいひと時を過ごす仲間だった︒編集
部の中でも︑例えばツェランと二人で新しいソビエト文学をルーマニア語訳している時など︑文学的にあまりにも パウル・ツェラン(四)
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拙劣な表現に出会うと︑大きな声を出して読みあっては笑い転げていたという︒よき仕事仲間だったのである︒
後にツェランの思い出を次のように記している︒
私の記憶の中にあるツェランは︑若く強靭で︑苦悩の重荷を背負いながらも昂然と頭を上げ︑生命の喜びに
満ち溢れていました︒いくらか作為的なものを感じさせた生命の喜びの表現には︑ルーマニアの諺に言う﹁不
幸から楽しみをたたき出す﹂ようなところがありました︒言葉遊びが大好きで︑倦むことなく周囲に機知の閃
きを撒き散らしていました︒あまりにもその数が多いので︑﹁パウル・ツェランの夕べの語録﹂とでもいった
ものを作り︑そこに記入しなければならないと思わされたほどです︒︵中略︶ブカレストで過ごした二年間は︑
嵐に翻弄されたような彼の人生におけるもっとも幸せな時期だったろうと思います︒この幸せの秘密がどこに
あったのかと言えば︑それは波乱に富み︑またひどく困難なこの時代にあって︑ブカレストで彼が持つことが
できた交友関係にあったと言えるでしょう
︶7
︵︒
ツェランは周囲の人々とよき交友関係を保ち︑好感をもたれていたという︒ウィットとユーモアに富んだ彼の持
つ明るさは人に伝染していった︒作品から受けるイメージとは対照的に︑ブカレスト時代のツェランは親しみやす
く開放的だったのである︒
ツェランはこの出版社で︑ロシア語の文学作品をルーマニア語に翻訳することになる︒翻訳目録の中には︑
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チェーホフの短編﹃農民たち﹄︑コンスタンチン・シーモノフの戯曲﹃ロシア問題﹄︑そしてミハイル・レールモン
トフの﹃われらの時代の英雄﹄などがあった︒
︻文学仲間たち︼
ソロモーンの回想記を読むと︑ツェランがとりわけ親しく交わっていた文学仲間としては︑大きく二つのグルー
プが考えられるようである︒
一つはニーナ・カシアーンのグループ︑もう一つはブカレストのシュールレアリストのグループである︒ソロ
モーンは︑大戦中にすでにシュペルバーを知り︑カシアーンなどと共にシュペルバーの家を訪れていた︒
ニーナ・カシアーン︵一九二四―︶は︑ツェランが知り合った当時すでに結婚しており︑夫と共に暮らしていたが︑
彼女の家は芸術家がよく集う場所だった︒玄関のドアは来客のためにいつも開かれており︑ツェランはソロモーン
と二人してよく訪ねていた︒彼女は詩や美術に才能があり︑またピアノもよく弾いた︒
ツェランとは精神的に親近感を持ち︑お互いの文学的才能に敬意を払っていた︒ドイツ文学の造詣も深く︑また
リルケ︑アポリネール︑エリュアール︑デスノス︑エセーニンなど好みの詩人や作家も共通していたので︑ツェラ
ンはカシアーンに会うと︑水を得た魚のようになり︑おしゃべりに熱中したのだという︒ツェランがブカレストを
去ってからも︑ツェランの死の年まで文通を続けている︒この事実から見てもお互いに強く惹かれあっていたので
はないかと推測される︒カシアーンの作品は英訳もされている︒
カシアーンの家での集まりは︑時に音楽の夕べになった︒カシアーンがピアノを弾き︑それに合わせて合唱した
パウル・ツェラン(四)
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り︑独唱したりするのである︒ツェランも歌を歌った︒レパートリーは豊かで︑中世のドイツ民謡や︑あるいはス
ペイン市民戦争における人民戦線派の歌などを歌っていた︒得意の出し物は﹁フランドル地方を死神が馬に乗って
行く﹂というドイツの昔の傭兵歌で︑中世ヨーロッパに蔓延し猛威を振るったペストという﹁馬に乗った死神が︑
少女を踊りに誘う﹂といった内容を持つものだった︒この歌はまたヒトラー・ユーゲントの持ち歌の一つでもあっ
た︒当時大学を出たての若いエンジニアで︑ツェランと文学論を戦わせていたクロフマルニチャヌによれば︑ツェラ
ンがこの歌を歌う時は︑床に座り込むようにして︑芝居がかった表情や仕草で歌い︑親指で一小節ごとに床を打ち
鳴らしては︑声を一層低めて﹁死んだのだ︵Ge-stor-ben︶﹂とリフレインを繰り返したのだという︒
戦後すぐの激しいインフレと厳しい生活にもかかわらず︑ツェランが友人たちと楽しいひと時を過ごすのは︑カ
シアーンの家に限らなかった︒例えば若い女流画家の半地下の住まいに集って︑一晩中ワインを飲みながら議論し
たり︑歌を歌ったり︑ゲームをしたりしたのである︒
カシアーンの家でもそうだったが︑こういった時︑集まった者同士で︑シュールレアリストがやっていたゲーム
に打ち興じたりした︒例えば﹁問いと答え﹂といったようなもので︑出された問いに対して︑深く考えることをせ
ず即座に連想した答えを出す︑といったようなものである︒
ソロモーンが書きつけ手許に残していたこの時の記録のコピーを︑後にパリでツェランに再会した時手渡すと︑
ツェランは大変面白がると同時に︑こういった遊びから遠く離れて久しくなってしまったことを悲しがっていたと
いう︒
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残されていた﹁問いと答え﹂は例えば次のようなものだった︒
﹁詩人の孤独とは何か?﹂⁝⁝﹁プログラムになかったサーカスの出し物﹂
﹁涙とは何か?﹂⁝⁝﹁錘が乗せられようとしている秤﹂
﹁酔いとは何か?﹂⁝⁝﹁色紙の間に挟まれた白い紙﹂
ツェランはまたダンスがうまかった︒ある時などは︑エキゾチックなダンスをしながら︑なんとストリップのよ
うに一枚一枚衣服を脱いでいくという悪ふざけまでしたのだという︒
カシアーン自身の語るところによれば︑ツェランのまなざしや微笑には︑僅かに影が差すこともあった︒しかし
いつも上機嫌で︑その機嫌の良さや人格には︑人を引き付ける力があったのである︒
ツェランはまた時に︑異常なバイタリティを示すことがあったようである︒散歩の間にブカレスト中を歩いてし
まったり︑大みそかを皆で一緒に過ごした際に︑果てしない議論を続けてやまなかったりというように︒
︻ブカレストのシュールレアリスムとツェラン︼
ルーマニアのシュールレアリスム運動は︑第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期に始まっていた︒画家ヴィ
クトル・ブラウナーが︑一九三五年パリから戻りフランスにおけるシュールレアリスム運動を紹介したことがその
始まりである︒一九三八年以後ゲラシム・ルカ︑ジェール・ナウムなどがパリから帰国した後にパリとブカレスト パウル・ツェラン(四)
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のシュールレアリスム運動のつながりが実質的に生まれた︒
ブカレストのシュールレアリスム運動の中心人物は五人︒ゲラシム・ルカ︑ジェール・ナウム︑パウル・パウン︑
ヴィルジル・テオドレスク︑ドルフィ・トローストであった︒このうち︑ルカ︑パウン︑トローストの三人が揃っ
てユダヤ人であることは︑目を引く事実である︒
ルーマニアがアントネスクのファシズム独裁政権から解放され︑自由になったとはいえ︑このシュールレアリス
ム運動は周囲からは︑ラディカルな左翼グループと見なされていて︑激しい批判や攻撃に曝されていた︒模範とし
ていたフランスの運動とは異なり︑ルーマニアのシュールレアリスム運動内部では︑対立が激しかったようである︒
ソロモーンによれば︑左翼的とはいえ︑その実情は︑教条的左翼から︑トロッキストやアナキストに到るまで様々
で︑その政治的立場の違いが対立を生む原因になっていたという︒
戦後一九四五年には早くも第一回シュールレアリスム展が開かれている︒この時ツェランはまだブカレストには
いなかった︒
フランスのシュールレアリスム運動の中心人物だったアンドレ・ブルトンは︑戦争直後はまだアメリカ合衆国に
いた︒そのため一九四六年に彼が帰国するまでは︑フランスのシュールレアリスム運動は中心を欠き精彩がなかっ
たのである︒そういった中ブカレストのシュールレアリスム運動はとりわけ活発でダイナミックな展開を見せてお
り︑異彩を放っていた︒
第二回シュールレアリスム展は一九四六年九月二九日から一〇月一八日まで︑ブカレストの中心部で開かれてい
る︒この時︑ツェランはルートと共にこの展覧会を訪れている︒
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ツェランが︑シュールレアリスム運動の中心的人物︑ゲラシム・ルカやパウル・パウン︑またヴィルジル・テオ
ドレスクなどと知り合ったのは︑ツェランのチェルノヴィッツ時代からの友人︑レオニート・ミラーの女兄弟が開
いていたパーティーの席上らしい︒ミラーとツェランとは︑一九三五年の夏︑チェチーナの森で開かれていた﹁反
ファシズム青年団﹂の集会で知り合っていた︒また一九三八年にトゥールの医学準備学校に行く途上︑ツェランは
パリで医学の勉強をしていたミラーと会っている︒
ブカレストのシュールレアリスム運動の中心人物の一人ジェール・ナウムは︑ソロモーンに対して︑ツェランと
会ったことはないと断言している︒これら中心的五人の中でツェランが一番親しく付き合ったのは明らかにパウ
ル・パウンであるとソロモーンは判断している︒パウンが一九四五年に刊行した詩集﹃青白い海﹄をツェランは高
く評価していた︒ツェランがルーマニアを去る時にパウンと一緒に出国する可能性も考えられる程に親しかったと
ソロモーンは言っている︒
なお︑ツェランが独訳しているルーマニア詩人は三人︒その中にヴィルジル・テオドレスクが入っているので︑
テオドレスクともツェランは交友があり︑詩を評価していたのではないかとソロモーンは推測している︒
ツェランは︑一九三八年から三九年にかけて︑フランスのトゥールにある医学準備学校で学んだ︒その時にアン
ドレ・ブルトンなどを読み︑シュールレアリスムを知った︒しかしシュールレアリスムに実際に触れたと言えるの
は︑ブカレストが初めてであろう︒ウィーンでのエドガー・ジュネらのシュールレアリストグループとの接触に先
立ち︑すでにブカレストで︑シュールレアリスム運動の実際やシュールレアリスムの詩的表現方法などを知ったこ パウル・ツェラン(四)
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との意味は大きいであろう︒またブカレストの運動が︑﹁人間の完全な解放﹂や﹁あらゆる形での人間的表現の解
放をめぐる絶えざる努力﹂などを主張していたことも︑ツェランの共感を呼んだであろうことは想像に難くない︒
︻イマヌエル・ヴァイスグラース︼
ブカレストにはチェルノヴィッツから逃れてきた文学者たちが数多くいた︒その中でとりわけ注目に値するの
は︑イマヌエル・ヴァイスグラースとアルフレート・キットナーであろう︒ローゼ・アウスレンダーは︑一九四六
年になってようやくブカレストに出ることができ︑しかしすぐアメリカに移住していった︒
ヴァイスグラース︵一九二〇―一九七九︶は︑ツェランと同じ歳であり︑同化したドイツ系ユダヤ人の典型的な市
民階級の出身だった︒学校時代から詩を書き始めている︒ツェランが反ファシズムの青年グループの会合などにも
顔をだし︑政治的関心を持っていたのに対して︑ヴァイスグラースはもっぱら文学と音楽に没頭し︑ギムナジウム
もアビトゥアを取らぬままに退学している︒ピアノやオルガンの奏者でもあった︒
学校時代︑リルケのルーマニア語への翻訳が︑二〇世紀のルーマニアを代表する著名な詩人︑トゥドール・アル
ゲージ︵一八八〇―一九六七︶に認められ︑彼と会い︑雑誌にその翻訳を発表することができた︒これをツェランは
妬んだらしい︒これがために二人の交友は一時的に破れたとすらキットナーは言っている︒
ヴァイスグラース︑ツェランともに文学青年で︑二人は親しく交際している︒彼ら二人ともに﹁言葉に憑かれた
者同士﹂︑詩作を巡り議論を交わし︑それがやがて各々の詩作品となって結実していった︒キットナーは︑ツェラ
ンの成長にとってヴァイスグラースとの交友は決定的なものだったと考えている︒
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二人を分ったのは︑チェルノヴィッツがナチに占領された一九四一年から四四年までの体験である︒ヴァイスグ
ラースは︑両親ともどもトランスニストリアの強制労働収容所に送られた︒ツェランの両親が命を落とした地であ
る︒幸いヴァイスグラースは︑両親ともども生きのびることができた︒しかしこの折の体験はその後の彼の人生に
本質的なところで影響を与えずにはおかなかったろうと推測される︒一九四七年︑彼はこの時期に書かれた詩をま
とめて詩集﹃ブーク河畔カリエラ﹄として︑ブカレストで刊行している︒
一時ツェランの﹁死のフーガ﹂と︑ヴァイスグラースの﹁彼﹂とが多くの類似点を持つことから︑二人のうちど
ちらかが模倣をしたのではないかと議論されたことがあった︒しかし二人の親しかった関係を考えると︑いずれか
が他方を模倣したと断定することは困難であり︑互いに作品を批評しあう中から類似点を持った作品が出てきたと
考える方が自然なのではあるまいか︒
一九四四年から始まったソビエトによるチェルノヴィッツ再占領時代に︑ソビエトによる新兵の召集が始まっ
た︒ツェランは︑フランスの医学準備学校に通ったことのある経歴を生かし︑この兵役を逃れるために医療助手と
して当時野戦病院となっていた州立精神病院に勤めることができた︒友人たちの助力を得て可能になったことであ
る︒この時ヴァイスグラースもまた院長の取り計らいで同じく傷病兵看護の任務に就くことができた︒ツェランと
ヴァイスグラースは︑ここでもまた文学論を交わすことができたのである︒シェイクスピアのソネットや︑中世ド
イツ詩人や神秘思想家︑またトラークルやアポリネールを巡って論じあったのだという︒
ヴァイスグラースがブカレストに出てきたのは一九四五年四月だった︒当初はしばらく劇場のピアノ弾きで生計
を立てていた︒後に出版社に校正係として勤め︑次いで一九四七年からは新聞社の編集員となった︒ツェランとは パウル・ツェラン(四)
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相互に職場を訪問し合っていたという︒
ツェランがルーマニアを去る時︑キットナーの証言によれば︑ヴァイスグラースに別れを告げている︒
エーデット・ジルバーマンの証言はそれとは異なっている︒彼女の証言によれば︑ブゴヴィーナからブカレス
トにやって来た者はみな最初から遅かれ早かれルーマニアを出て西ヨーロッパに行きたいと思っていた︒だから
ツェランが何を考えていたかわかっていたし︑またルーマニアを出国する時は皆で一緒に行動したいと望んでい
た︒ツェランも当然行動を共にするだろうと考えていたのだという︒ヴァイスグラースはリュックに荷物を詰め込
み︑ツェランがいつ迎えに来てもいいように準備していた︒ところがツェランは一人で行ける機会を見出すや一人
で行ってしまったのである︒
ところでヴァイスグラースは地味で遠慮がち︑また謙虚な人柄であったらしい︒詩作は続けたが︑作品は引き出
しの奥深くにしまわれたままで︑二冊目の詩集が刊行されたのは処女詩集刊行から二五年後のことだった︒ペン
ネームで︑ゲーテのファウストや︑シュティフター︑グリルパルツァー︑リーオン・フォイヒトヴァンガーなどの
翻訳も出している︒
﹁修道士の狭い仕事場の中の孤独﹂を感じたと︑後にキットナーはヴァイスグラース追悼の文章の中で語ってい
る︒脳腫瘍で長く患い五九歳で亡くなった︒葬式をせず遺骸は火葬に付し肉体の痕跡が残ることがないようにとの
遺言があり︑遺灰は黒海に撒き散らされた︒
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