『ヨハン・ヤコブ・バッハオーフェン』
ヴァルター・ベンヤミン
園田尚弘訳
I
学問上の予言というものがある。これは、たとえば自然的、あるいは経済的秩序 のなかでの正確な予想を含んでいる学問的予想とは簡単に区別される。学問的予言 がその名にあたいするのは、きたるべきものへの多少ともはっきりした見解が、そ れみずからはけっして学問の一般的枠を踏み越えることのない研究に活気を与える 時である。予言もまた、多数の公衆には道が閉ざされたまま、専門の研究のなかに 眠っている。そしてその執筆者達の多くは自らにとっても、後世にとっても先駆者 とは見えない。こうした人達が有名になることはめったにないし、有名になって も、遅ればせにである。最近、バッハオーフェンに起こったことはこうした例であ った。
しかしながらかれらは、学問的親近性より文学的、芸術的親近性をはっきり示し ている最近の先駆者をも含めて、精神的運動に不足することはなかった。表現主義 の到来を思い起こしてみよう。すでに早く表現主義は、ダリュ‑ネヴァルト1)とグ レコ2)という芸術的証人とマ一口‑3)とレンツ4)という文学的立合い人をあつめてい た。しかし世紀の転換期に二人の学者がヴィ〜ンで、学問の枠を逸脱できない組織 的研究によって、約十年後に真正の表現主義のなかのもっとも大胆な者達に霊感を 与えることができた造形価値の理論に到達しようとしていたことを誰が想起するだ ろうか.これらの学者の一人がアロイス・リーグル5)であり、彼は‑ 『ローマ晩期 の芸術産業』についての著書によって‑コンスタンティン大帝時代の芸術を野蛮と する通説を拒ぞけたのだった。他の一人はフランツ・ヴィクホフ6)であり、彼は‑
『ヴィ‑ン・ゲネシス』の出版によって一表現主義を通じて大流行した中世初期の ミニアチュール画家に対する注意を喚起したのだった。
バッハオーフェンヘの最近の回帰を理解するためにおもいおこさなければならな いのはこのような例である。古代的シンボル、儀礼、死者の魔法、豊穣儀礼が、未 開人の思考を研究する者ばかりでなく、フロイト派の心理学者や一般の知識人の注 目を浴びるずっと前に、一人のスイスの学者が、 19世紀が社会と宗教の起源につい て抱いていた共通の観念を全て片づける前史の描写をなしとげていた。この先史像
は形而上的、法政治的意味で非合理的力を強調しているので、ファシズムの理論家 に格別の関心を引き起こすことになった。しかしこの像は歴史の繋明期における共 産主義社会を呼び起こすことによってマルクス主義思想家をも動かしたのである。
かくしてその全生涯のあいだ、それより以上にわたって、多少とも確かな地位をし める学者として通らなかったバッハオーフェンは、ここ十年のあいだに彼の作品の 予言的側面が明らかになるのを見たのであった。その力強い火山錐が地下の力によ
ってもちあげられ、そのときから眠ることになった火山と同様に、彼の作品は五十 年のあいだ堂々とした、しかし暗哲な塊として現れていた。そしてついにこの作品 を産み出していた力が新たに出現したことによって、光景は変化し、この塊に好奇 心に富んだ人達の視線が注がれることになった。
Ⅱ
1859年にバーゼルで『古代人の墓の象徴表現についての考察』が世に出たとき、
バッハオーフェンは学者としてのデビェ‑の段階にいたわけではない。しかしこの 仕事に先立つほぼ十の作品のなかで、これ以来一貫して明らかになる関心を証明す るページはせいぜい三十ページにすぎなかったOこの考古学的エッセーの著書は ローマの法と歴史の問題ついて発言していたにすぎなかった。彼はもともと考古学 者ではなかった。彼の研究や交友ではなく、孤独な旅人としての人生の転機が、彼 がもはや離れることのなかった道に彼を導いたのだった。この本の最初の数行がす でにしてこの転機を暗示している。 1838年における古代の基陵の発見について回想
しつつ、彼は四年後に彼自身が行った訪問について報告している。 「この永遠の休 息の場所の光景が私のうえに及ぼした印象は・‑‑この近くの、二つ以外にはまった
く似たようなものを知らなかったので、それだけますます深かった。私が古代の基 の世界の研究に向かう最初の刺激を受けたのはこの訪問においてであった。この基 がなお二回ほど私をイタリアに連れだし、ギリシャで新しい主題を発見させたのだ った。基や基にまつわる信仰に対して世紀の経過と、それがもたらした新しさはほ とんど影響をおよぼさなかった。古い基の世界が不易の安定性という特徴によって 獲得する大きな意味は、その世界が古代精神の最も美しい面を明らかにしてくれる ことによってさらに増大する。古代文明の他の部分がわれわれの思考を引きつける ことができるのなら、地下基地の研究はわれわれの心の奥深くにはいりこみ、われ われの知識を豊かにするだけでなく、より深い願望に訴えることだろう。機会があ
るかぎり、私はこの側面を手放さず、基地における充溢と高貴は、言葉によらずた だシンボルによって近づきうるのだという思想をあさらかにしようとした。 」
それゆえに研究の方法は一気に確立されている。それはシンボルを古代の思考と 生活の基礎とすることにある。ずっと後にバッハオーフェンはかれのエッセー『古 代宗教における熊』のなかで次のように書いている。 「重要なことはおのおののシ
ンボルを別個に考察することである。それらのシンボルは後には付属物におちぶれ てしまうかもしれないが、もともとは自立しており、正確な意味を持っているので ある。だから次のように認識すべきだろう。シンボルの礼拝への侵入とさまざまな 神への帰属は二義的にしか考えられないということである。 」
これは宗教についていわれている。もっと正当なのは、バッハオーフェンが古代 芸術の研究に寄与したすべてのものは、彼のシンボル概念に基づいているというこ
とである。彼はゲインケルマン7)に近づけられ、次のように言われた。 『彼にイ メージの静かな力を教えたのはヴィンケルマンである。 』しかしヴィンケルマンは シンボルの世界にどんなに無縁のままであったことか。ヴィンケルマンはかって書 いたことがあった。 『ドイツ人が私が歩いた道を辿り、わたしが感じたことを感じ るまでに一世紀必要だろう。 』もしバッハオーフェンがこの予言を実現したとすれ ば、まったく思いがけないやりかたでなし遂げたのである。
Ⅲ
ベルヌリ8)はバッハオーフェンの研究を支配している薄暗がりについてたいへん うまいいいまわしを使った。ひとはこれをロマン主義の没落で説明したくなるだろ う。ロマン主義の最後の輝きは実証主義の最初の輝きと戦っているが、この状況に ついては、ロッツェ9)の哲学が印象深いシーンをうつしだしている。しかしこの言 葉は我々を他の解釈に誘っているように思われる。なぜならバッハオーフェンの説 明がどんなに広大で、詳細であるにしても、そこには実証主義の手続きを思い起こ
させるものはなにもないからである。ここで読者を迎える明暗は、むしろ、イデー の輪郭が写るプラトンの洞穴のなかに広がっている明暗であり、またプルトーの死 者の王国に漂っている淡い光りである。実際に、そこには二つのものが存在してい るoなぜならバッハオーフェンが好んだ対象に、精神的な意味をあたえている死者 崇拝は、全古代のイメージを支配したからである。そして神話的イデーはかれの著 作のなかで影のように、気高く、無色で展開されている。
ところで、これらのイデーの場合も、バッハオーフェンがメダルのように「そこ に足を踏み入れる者は、その秘密が露わになっていると思う。 」とその上に書きつ けたローマの地下基地の場合と同じである。またdie unbeweinteSchopfung‑それが消 失しても誰も嘆かない創造‑という翻訳しにくい言葉も同様である。なぜならこの
創造はただ素材のみに依存しているからである。しかし素材という言葉は密生し た、密度の高い、密集した素材のことを言っている。この素材は最も初期の人類の 娼婦的状態のなかに刻みこまれている、かの一般的乱婚の動因なのである。そして 生も死もそれ自身この乱婚を免れてはいない。生と死は、創造全体を優しく揺り動 かすリズムのままに、束の間の配置のなかで混じりあっている。だからこの秩序の なかでは、死はけっして荒々しい破壊を想起させない。古代はいっも死を多かれ少 なかれ、生と向かい合った関係のなかで見るのである。こうした見方のもつ弁証法 的精神は、極めて高い程度においてバッハオーフェンのそれであった.死は、弁証 法的運動のなかで対立する原理を和解させるので、彼にとってすべての認識の鍵で あるとさえ言うことができる。こうして死は、ついには、自然と歴史の賢明な調停 者でもある。つまり歴史的であったものは、死によって自然の領域へと逆戻りす る。自然的であったものは、死によってついには歴史の領域へと逆戻りする。だか らバッハオーフェンが、ゲーテの信条を述べてこの両者を呼び起こしているのを見 るのは、ちっとも不思議ではない。その信条というのは、 「成立したものについて の自然科学は大きな原理であって、この原理のうえにすべての真の認識と全ての進 歩が存している。 」というのである。
Ⅳ
バッハオーフェンは全生涯にわたってバーゼルの古い家系の貴族であることを意 識していた。学識ある偏愛と混じり合った故郷への愛がリキアの民についての美し い研究につながった。この仕事はスイス連邦への密かな、内気なオマ‑ジュであっ た。この二つの小国がその歴史をつうじて注意深く護ってきた独立は、彼の目にと っては最も慰めに満ちたアナロジーであった。彼が両国に共通と見たのは敬度さで あり、郷土愛であった。この郷土愛は「狭い谷や小さい地域のなかで、心を、ある 力で満たすのである。この力を、広大な平野の住民は知らない。 」この愛国の意識 は、他方で、もしそれが地下的な感情に深く浸透されていなかったら、彼のなかで かほどの力を得ることはできなかっただろう。メガラの市民に与えられた奇跡につ いて語っているかたりかたはど特徴的なものはない。 「彼らが王政を廃止し、それ によって国家が不穏の時期に陥った時に、国の幸福のためになにをなすべきかを知 るために、かれらはデルフォイに問いを発した。多数者に相談すべLという答えが 与えられた。そこでこの指示の正確な解釈にしたがって、議会のなかに死者のため の記念碑が建てられた。今日の民主主義には不興をこうむるであろうが、これが多 数決なのだと、バッハオーフェンは結論づけている。
実際、同じ意味でバッ‑オーフェンは、市民の秩序と死の結びつきの剃りがたい 証拠である不動産の起源を強調している。墓によって聖なるもの、動かないもの、
動かせないものの概念が成立した。こうしてできあがると、この概念はそれ以来境 界柱や壁にも適用され、それゆえこれらのものは墓石とともに聖なるものの集まり
をつくっているのである。バッ‑オーフェンはこの文章を彼の自伝のなかに記したO 随分後になって、人生の絶頂期に彼はバーゼルに塔を思わせる大きな家を建てた が、そこにはMoriturosatlO)という銘がうたれていた。彼はすぐ後で結婚したために、
この家には一度も住まなかった。しかしまさにこのことのなかに、ひとは、彼の思 想を導き、彼の人生を支配した生と死の二極性のイメージを発見しようとした。
Ⅴ
バッ‑オーフェンは王侯然として学問をおこなった。ライプニッツによって輝か しく始まった王侯学者のタイプは今日まであとづけられる。今日でもこのタイプは アヴィ・ヴァ‑ルブルク11)のような高貴で注目すべき精神をうみだしている。彼は 自分の名を冠した文庫の創設者であり、この文庫はちょうどドイツからイギリスに 移されたところである。ヴォルテールを噂矢とする文学の王侯ほど注目されなかっ
たが、この学者の系列もかなりの影響を及ぼした。ゲーテもまたヴォルテールの伝 統よりは王侯学者の伝統につながっている。ゲーテの模範的で外交的な態度は詩人
であることよりむしろ科学的熱意をあらわしている。いっもなんらかの好事家的お もむきを呈しているこの種の学者の活動は、いくつかの学問の隣接する領域を動く ことを好んでいる。彼らの活動は大抵職業上の義務の余暇におこなわれた。周知の ように、学説面に関しては、ゲーテは彼の時代の物理学者達に対して非常に困難な 立場に立たされていた。これらすべての点において、バッハオーフェンはゲーテと 驚くほど似ていた。同じように誇り高く高慢な態度、学問間の既成の区分に対する おなじような軽蔑、専門学者の側からのおなじような抵抗。この相似点は副次的事 情を調べた場合でも無くならない。なぜなら二人とも立派な学問上の備品を所有し ていたからである。ゲーテが彼の包括的蒐集のために、いたるところから寄贈を受 けていたのに対して、バッハオーフェンは書類収集だけでなく、個人博物館にも彼 の富を役立てたのだった。この博物館のおかげで彼はあまり他人の援助に頼らずに 済んだのだった。
バッハオーフェンの場合も、そのような特権的状況が裏面を有していることは明 らかである。ニュートンを攻撃したゲーテと同様にモムゼン12)を攻撃したバッ‑
オーフェンも苦杯をなめた。彼は晩年の作、 『タナキル伝説』 (1870)でモムゼン
の実証主義的精神に反対しただけでなく一彼は勝利を計算にいれてもよかったのだ が‑モムゼンが大家とみなされていた原典批判にも反対した。ひとはこの論争のな かに、数年後に実証的学問がヴィラモヴィッツーメーレンドルフ13)の姿をとって
『悲劇の誕生』の著者に向けることになる激しい攻撃を見たい気持ちになる。結局 両方の場合とも攻撃した者が敗北した。しかしバッハオーフェンはいはばニーチェ の姿をとって実証主義に復讐したのだった。 (両者の間には直接的つながりはまっ たくないように見える。この主題に厳密に結びつけられるものはシャルル,アンド
レール14)によって的確に指摘された。 )王侯のごとく独立した立場はバッハオーフ ェンの孤立を償ってくれなかった。モムゼンに対する論争のなかに潜んでいる恨み の念はある日、次のような言葉のなかに現れる。 「法を生の他の形式と結びつける 人間ほど、つまりひとがものや人々をその上に置くことを好む孤立した踏み台を遠 ざける人間ほど中傷されるものはいない。限定することによって、研究を深めよう としているのだが。この方法は皮相で精神の欠けた考え方とは反対のものである。
この皮相な考え方は、手稿の写真をとることで勝利を祝うまったく表面的な活動に 対する熱狂を引き起こした。 」
Ⅵ
バッ‑オーフェンはロマン派に源泉を求めた。しかしその泉は歴史学が作ってい る偉大なフィルターを通過せずに彼のもとに達することはなかった。ゲッチィンゲ ンの法律学者で彼の師であったカール・フォン・サヴィニー15)は、この輝かしい学 問上のサークルに属していて、このサークルは純粋なロマン派的思弁と自己満足し た実証主義のあいだに場所を占めていた。バッ‑オーフェンが1854年に彼の師のた めにまとめた『自伝的回顧』には、さまざまのロマン派的特色が、とりわけ根源に 対する畏敬の念がみうけられる。この畏敬の念から彼は次のように言っている。
「かってはローマの建設者がイタリアの真のアダムとして表されていなかったとし ても、今の私は(ローマ滞在のあとでは)彼のなかにきわめて現代的な姿を、そし てローマのなかに千年王国の終末と滅亡を見ます。 」諸制度の起源にたいして表明
された尊敬の念は「歴史法学派」の最も注目すべき特色のひとつであった。サグィ ニーがこの学派を活気づける中心であった。彼はへ‑ゲル学派とは無縁のままだっ たが、それでもヘーゲルの世界史の哲学序説の有名な一節を自らの学説の基礎に据 えた。民族精神の有名な定義がそれである。ヘーゲルによれば、民族精神はある民 族の芸術、習俗、宗教、学問、法システムに統一的な特徴を付与するというのであ った。学問的重要性ということからはひじょうに疑問のあるこの見解は、バッハ
オーフェンによって独特に変形された。彼の法学研究と考古学研究が古代人の法律 を究極の、還元不能の統一と見なすことを妨げたので、彼は民族精神というかの唆 味な基礎とは別のものをその基礎にしようとした。それ以来、死者の国からのメッ
セージとしてのイメージの解明と、地上の建築物としての法の解明がバッハオーフ ェンにとっては並立している。この建築物の地下の未知の基礎は、古代世界の宗教 的慣例と風習によってつくられており、この建築物の構造と、さらに様式もよく知
られていた。しかしその下部構造を研究することは誰も思いつかなかったようだ。
バッ‑オーフェンが母権に関する彼の大きな作品で企てたのはまさにこれである。
Ⅶ
最も大きな影響を及ぼした本がもよく読まれた本であるというのは稀であること はすでによく知られている。五十年あるいは六十年前にダーウィニズムに感激した ひとのうちのほんの僅かのひとが、 『種の起源』を読んだということは周知の事実 である。あるいはまた『資本論』がすべてのマルクス主義者の手になかなか行き渡 らなかったことも周知のことである。同じことがバッハオーフェンの主著、 『母権 論』についても言えるのである。それも不思議ではない。というのもこの分厚い本 への通路を見つけるのは難しいからである。この本はギリシャ、ラテン語の引用を 満載し、そのうえ教養のある読者にすら未知の著者に言及している。彼の主要な思 想はテクストと独立に広まったと言えようOこれは、バッ‑オーフェンが母権時代 について描いているロマンティックであると同時に正確でもあるイメージによって 容易になったのである。バッハオーフェンによれば、古代から現代まで通用してい て、家族の夫長の支配によって特徴づけられる家族秩序は、家族の権力の全てを母 にさずけていた他の家族秩序の後に来たのであった。この秩序は法的に見ても、性 的に見ても父権的秩序とは徹底的に異なっていた。全ての親族と全ての相続は母親
に基づいていた。その母親は夫を客のように、あるいはこの時期の初めには、数人 の夫すらも自分の所に受け入れたのだった。 『母権論』がテーゼのために提出して いる証拠は、とくに歴史家や文献学者にむけられているが、問題を真剣に取り上げ たのは、まず、民俗学者であった.ついでに言えば、この問題は、最初、ヴィー コ16)がほとんど予言者的勘をもって提出していた問題であった。民俗学者のあいだ で個々の母権制社会の存在を否定したひとはひとりもいないが、彼らの多くは、特 別の性格としっかりと確立した社会構造としての母権制時代の観念に対して極めて しばしば留保してきた。しかレヾッハオーフェンはこの理論を主張し、男性の価値 下落と屈従の時期を想定することによって、この理論を強調した。まさにそのよう
な男性の力の衰退という点から、バッハオーフェンにとって歴史的現実であったア マゾネスの国家が、くっきりと浮かびあがったのだった。いづれにしろ、現在この 論争はまだ終わっていない。その哲学的背景については後述するが、これとは別 に、それの歴史的データ自体がごく最近新しい意味合いで取り上げられた。メキシ コ学者、ヴァルター・レ‑マン17)を含む幾人かの学者が母権制の終末を記している かもしれない強力な文化的、社会的革命の跡を探究することによって、バッハオー フェンの構成を支えようとした。彼らは、ピタゴラス派の伝統となっている有名な 対立の表のなかにその証拠を認め得ると信じた。ちなみにこの裏の根本的対立は左 右の対立である。かくして彼らは、右に回っている鍵十字(スワステイカ) ‑アリ アの火の車‑の意味のなかに、父権による刷新を見る傾向がある。母権制の時代に は車は左回りであったというのである。バッハオーフェン自身が有名な一章でこの 二つの世界の衝突について説明をした。ここで、フリードリッヒ・エンゲルスが彼 の論文『家族の起源について』において行っている指摘を述べても不適当ではない だろう。この指摘はバッハオーフェンについて真剣で、重要な判断を示していると 同時に、のちに、ポール・ラファルグ18)のようなマルクス主義者達に指針を示すこ とにもなったのだから。エンゲルスは述べている。 「バッハオーフェンによれば男 と女の相互の社会的関係の面で歴史的変化をもたらしたのは、事実上の生活条件の 進化ではなく、同一の人間の頭のなかでのそれの宗教的反映である。この理論にし たがって、バッハオーフェンはアイスキュロスの『オレステイア』を、没落する母 権制と、上昇し、ついに勝ちをおさめる父権制との闘いの劇的叙述とみる。この新
しい、しかし決定的に正しい解釈は、本全体のなかで最も美しい、最良の個所であ る。同時にそれは、バッハオーフェンが当時のアイスキュロス同様に、アポロやア テナやエリーニュスを信じていることを証している。つまり、彼らがギリシアの英 雄時代に、母権制を父権制によって置き換えるという奇跡をなし遂げたのだと、彼 は信じているのである。宗教が世界史の決定的挺子と考えるそのような理論が、結 局は、純粋な神秘主義に帰着するであろうことは明白である。 」
Ⅷ:
エンゲルスがつとに強調していたバッハオーフェンの神秘的結論は、彼の「再発 見」過程で頂点に達した。この『再発見』の歴史はドイツのファシズムに重要な貢 献をしている最近の秘教の中心的部分を含んでいる。この「再発見」の始まりに は、アルフレッド・シューラ19)という非常に奇妙な人物がいる。この名前は大胆 な『ポルタニグラ』という詩が捧げられた人として、シュテファン・ゲオルゲの
賛美者を驚かすかもしれない。シューラーは小柄な好人物で、バッハオーフェンと おなじようにスイス人であり、その人生の大部分をミュンヒェンで過ごした。たっ た‑度しかローマにはいかなかったが、その古代ローマについての知識と古代の ローマの生活への親灸は並外れたものであったこの人物が、地下の世界に対して比 類のない理解力を有していたことは既定の事実であるようだ。この生得の能力はバ イエルンというこの地域の持つ同種の力によって養われたといってよいだろう。い ずれにしろ、ほとんど何も書かなかったシューラーはゲオルゲのサークルで未来を 知る権威であると考えられた。このサークルと親しかったルートヴィヒ・クラーゲ ス20)にバッハオーフェンの教義を教えたのは彼であった。クラーゲスとともに、こ の教義は秘教の衣を脱ぎ捨て、哲学に対して自らの権利を主張することになる。バ ッ‑オーフェン自身はそんなことは夢にも思わなかっただろう。クラーゲスは『宇 宙生成的エロス』のなかで、地下崇拝の自然的、人類学的体系をくわだてる。彼は 生の神話的実質を取り入れ、それが陥っていた忘却の状態から呼び戻すことによっ て、哲学者は「源初的イメージ」 (原像)に思いいたる。原像は外的世界と関係し ているにもかかわらず、表象とは極めて異なっている。なぜなら、表象にあっては 精神が表象の功利的意図とよこしまな厚かましさと混じり合うが、イメージは専ら 魂のほうに向かうからである。魂はまったく受動的にイメージを受け入れることに よって、その象徴的な内容で満たされるのである。クラーゲスの哲学は‑まったく 持続の哲学であるが‑いかなる創造的進化をも知らない。それはひたすら夢のゆり かごをゆすってやる。そしてこの夢のそれぞれの局画は過ぎ去った魂と形式の郷愁 に満ちた反映にはかならない。それゆえその定義は次のようになるだろう。 「源初 的イメージは過去の魂の現れである。 」クラーゲスが地下崇拝について行った説明 は、その体系的性格によ.1てバッハオーフェンとははっきり異なっている。その傾 向はクラーゲスの主著である『魂の離対者としての精神』から明らかである。ちな みにこれは、精神の誘いによって惑わされる人類への威嚇的予言に迷いこんでゆく 出口のない体系である。ひとを驚かす禍々しい面にも関わらず、この哲学がその分 析の繊細さと洞察の深さと議論の高い水準によって、ドイツのファシズムの公的宣 伝家達が試みたバッハオーフェン理解にはるかに勝っていることは否定できない。
たとえば、ポイムラーは次のように公言している。バッハオーフェンの形而上学だ けが究明に値する。彼の先史時代の研究は、 「人類の起源にかんする学問的に厳密 な本」ですら「われわれに語るべきものを多くもたない」のだから、これはますま すもって意味がないのである、と。
Ⅸ
新しい形而上学がバッハオーフェンの発見をことはいでいたとき、彼の作品が社 会学者によって絶えず研究されていたことは簡単に忘れさられていた。エリゼ・レ クリュ21)という人物を通じて、バッハオーフェン発見は社会学者達と直接に結びつ いている。彼のかんだかい声はこのスイスの学者にとってきわめて不快であったに ちがいないが、彼の賛同はバッハオーフェンによって拒否されることはなかった。
多分、バッハオーフェンはあまりに孤立していたために、それがどこからきたにせ よ、賛同の声を拒ぞけるわけにはいかなかったのだろう。しかしもっと深い理由が ある。バッハオーフェンは、レクリュが持ち出した幾世紀を通じて自由主義的理想 を栄養分としていた源泉に赴き、未知の深みにまで探究していた。ここでわれわれ は『母権論』のなかで話題になっている昔の時代の雑婚に遡らなければならない。
この状態に相応しているのはある種の法の理想である。なんらかの母権社会は非常 に高い程度まで民主主義的制度と市民の平等というイデーを発展させたという議論 の余地のない事実がバッ‑オーフェンの注意を引きつけていた。まさしく共産主義 もまた彼には婦人主権政体と不可分だと思われた。奇妙なことであるが、バーゼル 市民として、貴族としてデモクラシーに対して下した容赦のない判決は、彼が素晴 らしい論述のなかで、女性的原理と解されたデュオニソスの祝福について、次のよ うに書くのを妨げなかった。 『デュオニソスの宗教は民主主義の信仰である。とい うのもそれが向けられている感覚的本性は万人のものだからである。 」そして「そ れは市民的秩序や精神的卓越をつくりだす差異をまったく含んでいない。 」
このような論述が社会主義の理論家達の注目をあびた。そのうえ母権制のイデー は、それと結びついている原始共産主義の観念によってだけではなく、母権制にと もなう権威概念の動揺によっても彼らを引きつけたのであった。それゆえカール・
マルクスの女婿で彼の方法の数少ない巧みな実践者であるポール・ラファルグは一 擬娩について暗に述べながら一母権制についての試論を次のような考察で締め括っ ている。 「われわれは、父権制が比較的新しい制度であると思う。それの出現は不 和、犯罪、愚行によって特徴づけられる。 」たしかに興味深い研究をあらわしてい る際立った特徴が、個人の深層がこれらの疑問によってどんなに動かされているか を示している。これらの疑問がバッハオーフェンをめぐって闘わされ、学問そのも のの判決につきまとう討論に情熱的色彩を与えたのだった。これらの理論は至ると ころで諸々の反応を引き起こした。その反応のなかでは、感情の内密の生と政治的 確信が分かちがたく結びついている。 『母権理論の社会心理学的意義』に関する注 目すべき研究のなかで、エーリッヒ・フロムは最近、問題のこの側面について論じ
た。バッ‑オーフェンの再興とファシズムを結びつけるさまざまの糸を指摘するこ とによって、彼は、現代社会において子供と母親の関係を脅かす深刻な障害を批判 している。フロムは言っている。 「母親の愛をもとめる願望のかわりに、母親の保 護者であろうとする願望が崇拝され、至上のものとされている。保護の義務がある
のはもはや母親ではなく、後見の必要があり、その純粋さの保護が必要なのは母の ほうである。母への自然な態度を破壊した障害に対するこの反応の仕方は、国や民 族、大地といった母を表すシンボルまでも変えてしまった。 」
Ⅹ
バッハオーフェンは一度も肖像画を描かせなかった。われわれが持っている唯一 の肖像画は死後のものであり、写真に拠って完成されたものである。にもかかわら ずそれは驚くべき表現上の深さを持っている。頑強な上体が、高くせりあがった額 をもった頚を支えている。縮れた頬髭に続いている疎らな髪が頚部の側面を覆い、
頚の上部は禿げている。偉大な落ち着きが目から流れ出ていて、顔に広がってい る。顔のなかでもっともいきいきとした部分は口であると思われる。唇は閉じられ ている。口の隅は厳しさを強調している。しかし過酷という特徴は示していない。
顔から語りかけてくるはとんど母のような鷹揚さが、この顔に、完全な調和の表情 をあたえている。彼の全作品がこれを証拠立てている。一方では賢明で憂いのない 生活が作品の基礎になっているという意味で。次に作品自身が比類のない均衡を条 件としているという意味で。
この均衡は三つの観点から確かめられる。母権的精神への畏敬と父権的秩序への 尊敬とのあいだの均衡。古代の民主主義への共感とパーゼルの貴族の心情とのあい だの均衡。古代の象徴主義の理解とキリスト教信仰の堅持とのあいだの均衡という 観点から。われわれは最後のものを記憶にとどめておこう。なぜならクラーゲスの
ような理論と比べてバッハオーフェンの場合は、なんらかの新しい異教といったも のがまったく欠けていることが強調されねばならぬからである。彼のバイブル読書 にしっかりと根づいていたプロテスタンティズムは彼の晩年の成果というわけでは なかった。バッハオーフェンは、彼の象徴的思索が最高潮のときですら、プロテス タンティズムから離れたことはなかった。これに関しては、有名な同時代の市民で ニーチェの友、神学教授、フランツ・オーヴァペック22)に対して彼が距離をおいて いたということが事態をあさらかにしてくれる。オーヴァペックは完全な懐疑主義 を中世の独断主義の完壁な知識に結びつけた人であった。
バッハオーフェンの心情が母権制に傾いていたとしても、歴史家としての彼の関
心は父権制の出現にあった。彼にとってはキリスト教の精神性が父権制の最高の形 式を表していた。彼は次のことを深く確信していた。 「その信仰が物質に基づいて いる民族は、どれも純粋に精神的な父権の勝利を収めることはできなかった‑‑。
父権的、唯一神の精神性は破壊に基づいており、物質主義の発展やそれの洗練に基 づくのではない。 」これによってローマによるカルタゴの破壊は世界史のなかでと りわけ祝福と救いをもたらす出来事と彼には思われたのだった。彼は、スキビオと カトーが始めたものをアウグストゥスが完成するのを見た。この見事な展開のうち に、 ( 『古代的なるものについての書簡』 1880のなかで)彼の研究の環は閉じられ る。というのも西洋はアウグストゥスのもとで父権の勝利を確実にしたと述べるこ とによって、バッハオーフェンが彼の研究の出発点に帰ってきたということを忘れ てはならないからである。ちなみに彼の出発点はローマ法であった。さらに忘れて ならないのは、彼の啓示の国がローマであったということである。彼の最後の構想 のなかで彼はローマを再び見出している.そこに一彼の自伝の言葉にしたがえば‑
「生の車輪はより深い轍をきざんだのだった。 」ローマの地は調和の保証として彼 に贈られていたのだった.その調和は、彼の幸福な心情のおかげで、ついには彼の 思考のなかで生命を得ることになったし、歴史はなおいくたびも新しくその調和を 作り出さなければならないだろう。
訳注
1)グリュ‑ネヴァルトGriinewald、 Matthias (1470‑75頃‑1528)ドイツ・ルネサンス期の画家、 「イー ゼンハイムの祭壇画」で知られる。
2)グレコEIGreco (1541‑1614)ギリシャ生まれでスペインのトレドで活躍した画家。
3)マーローMarlowe、 Christopher (1564‑1593)イギリスの劇作家o rフォースタス博士の悲劇」で知 られている。
4)レンツLenz、 JakobMichaelReinhold (1751‑1792)ドイツの作家。作品にr家庭教師』などがある。
5)リーグルRiegl、 Alois (1858‑1905)オーストリアの美術史家o芸術意欲の説を唱えたことで知られ ている.代表作は『様式問題』やベンヤミンがここで言及しているrロ‑マ晩期の芸術産業」 0 6)ヴィクホフWickhoff、 Franz (1853‑1909)オーストリアの美術史家O主としてキリスト教的古代末期
の研究に従事。
7)ヴィンケルマンWinckelmann、 JohannJoachim (1717‑1768)ドイツの古代美術研究家0 8)ベルヌリBernoulli、 CarlAlbrecht (1868‑1937)スイスの神学者、著作家。
9)ロツツェLotze、 Hermann (1817‑1881)ドイツの哲学者、ベンヤミンはr歴史の概念についてJ)でロ ッツェに多く言及している。
10) Moriturosatラテン語まもなく死んでしまう者にとって十分である、の意 ll)ヴァ‑ルブルクWarburg、 Abyドイツの美術史家、文化史家。
12)モムゼンMommsen、 Theodorドイツの歴史家。 rローマ史』によって1902年にノーベル賞を援与され た。
13)ヴィラモヴィッツーメーレンドルフWilamowitz‑Mollendorf (1848‑1931)ドイツの古典文献学者。歴 史的史料批判によって教育的目的にむけられた古典学を克服した。
14)アンドレール、シャルルAndlerCharles (1866‑1933)フランスの文学史家。広範な6巻のニーチェの 伝言己を書いた。
15)サヴィニーSavigny、 FriedrichKarlvon (1779‑1861)ドイツの法律学者 16)ヴィーコVicoGiambattista (1668‑1744)イタリアの哲学者。主著『新科学原理J
17)レ‑マン、ヴァルターLehmann、 Walter (1878‑1939)ドイツのアメリカ学者、主著『中央アメリカ の言語』二巻1920c
18)ラファルグ、ポールLafargue、 Paul (1842‑1911)フランスの社会主議者。 K.マルクスの次女、ロ‑
ラの夫。
19)シューラ‑Schuler、 Alfred (1865‑1923)ドイツの文化学者。
20)クラーゲスKlages、 Ludwig (1872‑1956)ドイツの哲学者、心理学者。
21)レクリュ、エリゼReclus、 Elisee (1830‑1905)フランスの地理学者。
22)オーヴァペック、フランツOverbeck、 FranzCamille (1837‑1905)ドイツの新教神学者
付記
エッセイ、 rヨ‑ン・ヤコブ・バッハオーフェンjをベンヤミンはフランス語で書いているOドイツ語 によるこれの原稿は無い.このエッセイは、当時ヌヴェル・レヴュー・フランセーズ(NouvelleRevue Francaise)の編集長であったジャン・ポーランの勧めによって、 1934年から1935年にかけて書かれたもの
と推定されている。原稿はNRFによって拒否され、 NRFから同原稿を送付されたメルキュール・ド・フラ ンスもこれを掲載しなかった1954年にモーリス・セイエによって改訂された稿がはじめてレ・レットル・
ヌヴェルに掲載された。
ベンヤミンのエッセイに興味を抱いたM.ホルクハイマ一にあてて、ベンヤミンは、バッハオーフェンの 存在をフランスに紹介する意図でこれを書いたことを伝えている。 「この仕事は、フランスでは全く無名 で、翻訳もまったくないバッハオーフエンをフランス人に紹介するためのものですO私はこの目的のため に、彼の理論を叙述することより、バッハオーフェン自身の人物を描こうと努めました。 」 (書簡652)
フランクフルト学派がバンパオーフェンに注目していたことは、 E.フロムの仕事やホルクハイマ‑の
「権威と家族」研究からも窺えるoベンヤミン自身もかなり早くからバッハオーフェンに関心を寄せてい たことが知られている。ショレムによれば、すでに1916年にはベンヤミンはバッ‑オーフェンの著書に親 しんでいたということである1926年にはベルヌリの「ヨ‑ン・ヤコブ・バッハオーフェンと自然象徴』
°
(1924)の書評をかいている。ベンヤミンのバッハオーフェン論に関連して想起される文章は、 rドイツ の自由な研究所J (1938)と有名なrフランツ・カフカ』 (1934)の二つであるO前者でベンヤミンは、
社会研究所の思想的枠組みとしてフロムの理論を挙げ、そこにしめるバッハオーフェンの母権に関する思 想の重要性を指摘している.ベンヤミンがそのrカフカJ論でカフカの世界をバッハオーフェンの神話的 世界に結びつけていることは周知の事実であろう。なお翻訳にあたって「TextundKritikJ Heft31/32、
WalterBenjamin中のドイツ語訳を参照した。
(1991年10月31日受理)