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園田尚弘

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ホーフマンスタールの未完の小説『アンドレアス あるいは一体となったひとたち』について

園田尚弘

Uber den unvollendeten Roman, "Andreas oder die Vereinigten" von Hugo v. Hofmannsthal

Naohiro SONOdA

はじめに

ホーマンスタールが計画した長編小説『アンドレアスあるいは一体となったひ とたち』はついに完成されなかった。しかもまとまったかたちで書き下された部

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分は構想された小説の冒頭の部分だけで、全体の約四分の‑ということである。

しかしこの長編小説に関する計画は遺稿として大量に残されている。この長編小

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説に関するノ‑トや断片等を利用することによって、ホーフマンスタールの企図 は大体推量することができる。しかし実際の創作においては、執筆の途中でプラ ンが変ってしまう例をわれわれは数多く知っている。その意味では『アンドレア ス』を完成した小説と同列に論じ得ないのは自明のことである。それゆえ小論に おいては、われわれは全体的プランによってホーフマンスタールの意図を推察す るとき以外は、すでに書き下された冒頭の部分について論じることにしたい。

ところで『アンドレアス』は幾度読み返してもそのたびに新たな感動を喚びお こす作品である。この断片に触れるたびに、これが完成していたら、ドイツ語に よる小説というジャンルは、どれほど豊かなものになっただろうかという感慨を 禁じえない。 『アンドレアス』はしばしばシューベルトの『未完成交響曲」にた とえられる。そのたとえは決して不当ではないように思われる。小論では、断片 とは言え、読者を深い感動のうちに誘いこむ『アンドレアス』の魅力を分析し、

それに加えて、これと他のいくつかの小説作品とを比較して、 『アンドレアス』

の歴史的な位置を設定することを試みてみたい。

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1. 『アンドレアス』のおもしろさ a)内面と外界の相互浸透

『アンドレアス』を読みはじめると、船で川を下るように淀みなく読み進める ことができる。たとえ不吉な前兆、恐ろしい事件、晴やかな風景等々の描写が次々 に交代するときでも、それらがとてもスム‑ズに進行してゆく感じがするOその 感じは恐らく、外界と内界、アンドレアスの内面と外的できごとのあいだに深い亀 裂がないというところから来るのだろう。むろん主人公アンドレアスの内面と行 動には分裂が見られる。しかしすべての人物、できごとがまるでアンドレアスの深 い内的なものと結びあわされているようなのだ。いくつかの例をあげてみよう。

1)フイナッツア一家で従者ゴットヒルフが兇行に及んだとき、アンドレアス はまるで自分がゴットヒルフの兇悪な犯罪を喚びおこしたかのように考える。

(S.149)

2)アンドレアスが彼の精神的師になるはずのサクラモッツオに出会ったとき、

彼はサクラモッツオが落した紙片を彼に届けてやる。アンドレアスはツオルツィ から紙片をもぎとってサクラモッツオの後を追いかけてゆく。そのときの行為は 無意識のうちに行なわれたかのようである。そしてその際、サクラモッツオの印 象には既視感が伴なっている(S. 173f)

3)アンドレアスがニーナの家を訪ずれたときに出合った女は、まるでアンド レアスの分裂した心に相応しているように思われる(S. 177ff)

これらの例に見られるように、まるでアンドレアスの内面が外界の事件をひき おこし、彼のまわりに集まってくる人間は何らかの秘密の糸でアンドレアスとし っかりと結びつけられているかのようである。

心の内部と外部の相互浸透‑まさにこのことが『アンドレアス』という未 完の小説がおもしろいというときのひとつの理由になるだろう。しかしこのこと は観点を変えれば、アンドレアスの心の動きが、外側の仕界のできどとによって 操作されているということでもある。その点がおもしろいとも言えるわけである。

アンドレアスという青年は絶えず夢想に囚われている。そして現実はその夢想 を裏切ってしまうことが多い。ヴェニスに到着早々、アンドレアスが仮面をつけ た男に連れられて宿捜しをする際にも、彼の意志は表面に出ることはなく、彼自 身何らの疑問も口にすることもできないうちに、アンドレアスの下宿は他人の意 志によって決定されてしまうのである。アンドレアスの内面は、いはば「他者の 運命の幾何学的軌跡」であるから、他者の意志をアンテナのどとく捕え、それに

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反応する。しかし自らの意志をもって、外界、他者と衝突することがない。この

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パターンがさまざまの大きさの振幅をもってくり返されるのが『アンドレアス』

の特色である。

b)時間の交錯

以上、述べてきたように、アンドレアスの内面の描写が外界と釣り合ったかた ちで進行してゆくところに『アンドレアス』のおもしろさがある。だがその場合、

意識の時間の問題にも注目する必要がある。つまり『アンドレアス』では現在、

未来、過去が自由自在に現われてくるということである。事件や連想をきっかけ に、過去と現在、未来の時間が交錯するのである。いくつかの例をあげてみよう。

1)たとえば『アンドレアス』の主要部を占めるケルンテンでのできこと自体 が、ヴェニスの宿での回想である(S. 122ff)

2)あるいはニーナ訪問の際に彼がまざまざと思い浮かべるニーナとの愛の生 活は、未来へ向けられた甘い空想である(S. 185ff)

3)あるいは、ヴェニス到着を知らせる両親あての手紙を頭に思い描いている とき連想されるのは、胸がはりさけるような不安とあこがれに満ちた幼年時代の 劇場の思い出である。 (S. 145)

C)空間のシンボル化

時間の問題と並んで、次に『アンドレアス』における空間のシンボル化がこの 断片の魅力のひとつとなっている。 H.プロッホがつとに指摘したように、ケル ンテンからヴェニス‑の旅行は二重の意味を持っている。それは一方ではオース

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トリアの山岳地帯からアドリア海に面したイタリアの文化都市への旅である。そ してまたそれは山岳の清らかさから、美と野卑が背中合わせになったカオス‑の 旅でもある。意識の分裂に悩むアンドレアスにとって、優雅と事故の二重性をも

った街としてのヴェニスは、彼が待往する舞台として格好の土地である。

しかもこの二つの土地には象徴空間を代表するような女性が登場する去それは ケルンテンにおけるロマ‑ナ、ヴェニスにおけるマリア・マリキ‑タである。ロ マーナは、たとえばシュライフターの『ブリギッタ』が‑ンガリ‑のブスタの風 景を象徴する女性であるように、ケルンテンを象徴する。そしてマリア・マリキ ータはさまざまのアンチテーゼを含んだ街、ヴェニスに見合う女性なのである。

*

以上述べきたったように内面と外界の相互浸透、時間の交錯、空間のシンボル 化にこの断片の魅力の原因があると思われる。もちろんこれらの要素が一体とな

って小説断片の魅力を高め、おもしろさをうみだしているのではあるが。

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それでは次に、これらの要素がどのようなかたちで具体化されているかを、ア ンドレアスのケルンテン滞在中の場面を例としてとりあげて、考察してみること としたい。

2.ケルンテン滞在の章

前述したように、ケルンテン滞在の部分はアンドレアスのヴェニスでの<回 想>として描かれるォ>は、過去の時間‑の遡行、 < >は筆者による) この部分でアンドレスアの性格や旅行の目的が伝えられる。

ウィーンの小鼻族の息子がケルンテンに滞在するのは、ヴェニスに旅行する途 中で雇ったゴットヒルフの唆かしのせいであった。アンドレアスは両親のすすめ で人生修業の旅に出ている。彼は広い世間でさまざまの人間を知り、さまざまの 習俗や異邦の街を知るためイタリアへの旅を企てるのである。彼は自らの虚栄心 のために悪漢のゴットヒルフを雇うはめになった。ゴットヒルフは野卑な言葉で、

若いアンドレアスの暗い衝動に語りかけてくる。浮薄な伯爵夫人のエピソ‑ドは、

アンドレアスの秘かな欲望に働きかけてくる。アンドレアスは馬に揺られながら

<伯爵夫人との密会を空想する>ォ>は未来への空想)彼はゴットヒルフ の野卑な言動、狩れ狩れしさに歯がみをしながらも、自分の従者を思い切って叱 責できない自らの無力さに絶望している。アンドレアスは、 <この旅をしている ゐが自分の子供であればよい、そして子供には晴れやかな、のどかな旅をしてほ しいと空想に耽るのである>ォ>は未来へ向けての空想)

フイナッツア〜家でのロマーナとの出合いは、アンドレアスにとって、このう えもない撃きと喜こびである。彼女は無邪気で敬虞な少女であるが、アンドレア スを無意識的にエロチックな冒険‑と誘惑する存在でもある。彼女にとって動物 は友人であり、死者たちは生者と同じように親しい存在である。フイナッツアー 一家はお互いがとても親密だが、一方で祖父の強いエロその伝統や、早世したた くさんの子供たちの思い出を秘めていて、あたかも族長時代のような趣きを呈し ている。

またしてもゴットヒルフの野卑な暗示によって、フイナッツア‑家に着いた夜、

アンドレアスはロマーナを闇にまざれて抱擁する空想にとらえられる。そして夜 更け彼は秘かにロマーナの部屋を訪ずれるのである。不成功に終った行為のあと でも彼の空想はやむときがない。 <書かれるはずの両親の手紙のなかでは、すで にロマーナは彼の未来の妻として紹介されている。 >ォ>は未来の空想)

アンドレアスの内面は夜の夢のなかで如実に震われる。 <アンドレアスがロマ

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ーナと会った夜みた夢は、その夜ゴットヒルフによって行なわれた兇行と相呼応 して不安に満ち満ちている。逃げるロマーナを追っているアンドレアスの前に、

過去の不安や恐怖の的であった人物たちの頭が現われ、幼年時代に背骨を棒で叩 き折った猪の死んだような目が近づいてくる。姿を消したロマ‑ナの悲鳴が聞え たように思うのだが、洋服ダンスがじゃまになって助けられない。この悲鳴はア ンドレアスの従者ゴットヒルフによってベッドに縛りつけられたフイナッツァ一 家の女中のひとりがあげた悲鳴であった。しかしアンドレアスにとってはまるで 夢のなかで知っていたことが事実として現われてきたようだった>ォ>は 夢、そして夢と現実の交錯、幼年時代への回帰)

ゴットヒルフの兇行の後、フイナッツァ一家でヴェニスに行くための馬車を待 つ日中の時間は重く暗い色調で描かれる。 <アンドレアスの罪責感に呼応するよ うに、空もどんよりと雲がかかり、風がない>ォ>は内面の反映としての 風景)犯行のさい、ゴットヒルフによって毒殺された犬の挿話は、やはりアンド

レアスの幼時期の思い出と結びついている。 <幼時期に踏み殺した小犬への罪障 の意識が、ゴットヒルフによって毒殺された犬の墓へアンドレアスを導びいてゆ

く。苦しく悲しい惨めな現実から逃亡するために他者になってしまいたいという 願望、無意識的な過去への遡行等にアンドレアスの意識の分裂が如実に現われて

くる>ォ>は心の内部と外的事件の呼応、時間の交錯)

フイナッツア一家を去る前夜アンドレアスは夢をみる。 <夢のなかでは、光る 水にかこまれた島のような草地にロマーナが眠っている。ロマーナに近づくと、

ロマ‑ナは怯える。アンドレアスは自らがゴットヒルフのように思われる。哀訴 するロマ〜ナの姿が消える。再び木々のあいだに姿を現わしたロマ‑ナの表情は 明かるい。赤い唇をさしだしたロマ〜ナを抱き寄せようとすると、ロマ‑ナは熊 手でアンドレアスの額を打つ。目を覚まして窓に近づくと、小鳥が窓ガラスに衝 突して死んでいる。 > (この場面でも<>は夢、そして夢が現実に呼応)

この夢によってアンドレアスはロマーナが自分のために生きていることを確信 する。 「夢のなかの真実が彼の血管のすみずみまで幸福で満たした。 」アンドレ

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アスにとって、夢は現実であり、現実は夢ではないかと思われる。夢が現実と等 質であり、現実は深々とした夢の雰囲気にひたされている。それゆえにアンドレ アスがフイナッツァ‑家を去る日、ロマーナと厩で会ったことも、まるで夢では ないかと思われるのである。

ロマーナの愛を確信したことでもたらされたアンドレアスの至福感は、馬車で 峠を走る瞬間に最高頂に達する。夕暮れの澄み切った空の下にひろがる山岳地帯

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の清澄な風景、空を舞う‑羽の鷲、ロマーナを囲むこの幸福の楽園についての描 写においても、アンドレアスの内面と外部の限界はさだかではない。 「アンドレ アスは今はじめて自然のなかにいるように感じた。彼自身の内部から、すべてが 不意に生みだされたような気がした。 」

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*

以上、われわれはケルンテン断章に焦点を当てて、アンドレアスの内面と外界 の相互浸透、時間の交錯、風景のもつ意味を指摘した。 『アンドレアス』の魅力 をつくりだしているこれらの特徴はこの断章にとどまらず、 『アンドレアス』全 体に及んでいるのである。

3. 『アンドレアス』と他の大小税との関係

この小説の魅力を高め、読者の心を魅きつける原因ともなっているアンドレア スの内面と外界の相互浸透という特長は、観方を変えれば、主人公に自我感情が 不足している、あるいは自我感情が分裂しているということである。主人公の意 識の分裂はこの小説でたびたび指摘されるところである。精神分析的に言えば、

彼の意識は超自我とエスに帝やかされている不安定な自我という図式で現わせる だろう。この分裂した意識を自己同定することによって安定した人格に達するこ とがこの小説のひとつのテーマである。そうした意味でこれはいわゆるビルドゥ

ングスロマン(教養小説)の系譜に連なる小説である。 J.ヴアッサ‑マンは、

この小説が完成すればオーストリアの『ヴィルヘルム・マイスター』になるはず だったと述懐している。事実、ホ‑フマンスタ‑ルの創作ノートには、 『アンド

IT)

レアスの教育期間。より高いものの存在を認識し、生の内容を認識する。 」とい

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う教育小説を思わせる文章も見受けられる。そして実際、アンドレアスの周囲に 登場する女性たちのことを考え合わせると、これは愛を通しての人生修業がめざ されている作品であろうと推測される。教養小説にはつきものの、人生の教師と してのサクラモッツオの姿もすでに断片のなかに見うけられる。

『ヴィルヘルム・マイスター』との関連という点では、さらにアンドレアスの 舞台へのあこがれが、ヴェニスにおける劇場とのつながりが指摘されるだろう。

その意味で、ホープマンスクールの計画では、 『ヴィルヘルム・マイスター』が この小説の手本のひとつであったことはほぼ確実であろう。しかしながらヴィル ヘルム・マイスターとアンドレアスの性格があまりにもちがっていることにも注 意が払われるべきだろう。ヴィルヘルムは、読者の前に現われるや否や、すでに

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‑ルミ‑ネという女性と甘美な恋愛を楽しむ青年であり、いっぱしの演劇理論家 である。そして話し上手で、彼の演劇好きをとがめる両親に対しても、積極的に 演劇を擁護することを辞きぬ若者である。これに対してアンドレアスは何と寡黙 なことか.!ヴェニスで合った最初の男の前では、彼の言葉はしどろもどろにな り、頭は混乱するし、また女性たちの前では彼はおずおずとして臆病であり、と きには好意をもった女性に対して、かえって心を傷つけるような言葉を発してし まう。この青年はあまりに消極的、受動的、あえて言えば病的なまでに感情の統 制がきかない男である。問題的な個人がさまざまの体験をへて、社会共同体と調 和した関係に入るという教養小説的発展は、アンドレアスの場合不可能なように 思われる。しかもアンドレアスの教育に課せられた目的は社会との調和だけでは

なく、存在全体との合一にまで達することであるOこれはあまりに遠大な目標で あるように思える。そして実醸、アンドレアスの教育は途中で中断された。ホー フマンスタールは『アンドレアス』の完成をめざして幾度も筆を取りあげたが、

小説は中途にして挫折せざるを得なかった。

J.ヴアッサ‑マンは、ホーフマンスタ‑ルの祖国、オ‑スト1)ア、 ‑ンガリ ー二重帝国の崩壊にこの小説が未完に終った理由があったと述べている。しかし

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‑ブスブルク帝国の具現していた理念がどのようなものであったにしろ、教養小 説を完成させる理念の欠如がそのまま小説の挫折に直結するとは必らずLも言え ないだろう。たとえばアンドレアスをヴェニスの街に待復させつづけたらどうで あろうか?教養小説の枠から少しはずれるとしても、決断力に乏しく、行動力に 乏しい、その意味で人間的魅力に乏しい青年の物語は可能であろう。事実、フロ ベールの『感情教育』はそのような受動的性格、しかも凡庸で俗物的野心をもっ た感受性豊かな青年の物語りである。この青年、フレデリック・モロ‑は夢想す

ることで自己の青春をすり減らしてしまうのである。アンドレアスは実際、この

『感情教育』の主人公に似ている。ホーフマンスクールはアンドレアスを執筆す る際、 『感情教育』を手本のひとつとしていたであろう。アンドレアスが借りる はずの部屋で画家のツオルツイが胃けいれんを起している場面や、アンドレアス をめぐる女性たちがすべてアンドレアスに好意を寄せるというモチーフ等、 『感 情教育』から引き出したと思われる部分も指摘できる。

『感情教育』はホーフマンスタールにとって、人生の伴侶となる小説であった。

彼はr感情教育』のドイツ語訳者に向けて、 『アンドレアス』の舞台、ヴェニス でフロベールのこの書を再び読んだ感銘を報告している。 「私にとって『感情教 育Jは私たちの人生を通じて伴侶となる書物です。 ‑そのような書物は何と少な

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um

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いことでしょう。それは人生の全体と関わり合うあれらの稀なる書物のひとつで あるように思えます‑‑0 」

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アンドレアスと同じように受身的な性格の夢想家を主人公にしたこの小説の成 功を支えているのは、小説のなかを流れる時間である。七月王制後半から四十八 年革命をめぐるモロ‑と同性代の若者の群像、ブルジョアと農民が、この小説で はドキュメントのどとく忠実に描かれるのである。 『感情教育』と比較してみる とき、 『アンドレアス』に欠如しているのはそうした歴史的時間の流れである。

創作ノートによれば、ホーフマンスタールは後になって『アンドレアス』の時代 的背景を18位紀後半から19位紀前半に移し換えているという。それは『アンドレ

(u

アス』が時代と緊密に結びついていないということの現われであるように思われ る。

『アンドレアス』の放棄という事態を考えるとき、この小説における象徴化の プラスとマイナスも考えざるを得ない。ある意味でケルンテンとヴェニスという 場所を象徴空間とすることによって人間はそれらの空間に入りこんでしまい、時 代と結びついた人間像は描きにくいだろう。しかしその一方でシンボル化がなけ

れば、あの天駆けるような霊感に満ちあふれた峠の場面の、時間を止揚した描写 もまた可能であっただろうかという疑問もでてくる。そしてまた仮象と本質の二 重性を象徴するひととものと出来事が入り混じったヴェニスの描写もはたして可 能であっただろうかという疑問もある。いづれにしろホ‑フマンスタ‑ルがめざ した神秘的合一は峠の場面で一挙に実現してしまっている。それは期せずしてホ

〜フマンスタールの早熟を可能ならしめた「前存在」 (pr邑existenz)の再現では なかっただろうか。しかしそれは人間の全体性をめざす近代小説の道とは少しば かりずれたところで成立する詩人としての全‑感ではないだろうか。 H.プロツ ホも指摘したように、ホーフマンスタ‑ルは資質的にドン・キホrテやボヴァリ ー夫人のような典型的人物を創造することに不向きな詩人であった。

m

むすび

ヨーロッパ文化の大きな遺産と関わりの深かったホーフマンスタールは、小説 執筆の際も、過去の小説を充分に研究している。そして『アンドレアス』執筆の 際は、 『ウィルへルム・マイスタ‑』等の一連の教養小説とフロベ‑ルの『感情 教育』が彼の小説の模範となった。実際に残された断片は人間の内面と外界がさ まざまの秘密の糸によって結ばれた小説憧界の提示によって、ドイツの小説伝統 には欠如しているものを予感させる。しかし新しい教養小説の試みは中途で挫折

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してしまった。そのことは教養小説の理念を発見することの困難さ、ホーフマン スクールの小説家としての資質の問題性を明らかにしている。資質の点でも異な っているし、また描かれた主人公の性格も異なるとはいえ、 ∫.ジョイスは『若 い芸術家の肖像』において、ホーフマンスタールと近似したモチーフを完成させ た。そうした意味で19世紀小説の傑作『感情教育』に連なる栄光はホーフマンス クールではなく、 J.ジョイスにもたらされたということができるであろう。

(1) Hofmannsthal: Die Erz邑hlungen S. 376. Anmerkungenを参用

(2) Erz且hlungenを集めたS. Fischer版には、アンドレアスあるいは一体となったひ とたち、 (奇妙な女友達一小犬を連れた夫人という副題をもつ)以外に、 N氏のヴ ェニス旅行日記、 N氏のヴェニス体験、アンドレアスあるいは一体となったひとた ち(小犬を連れた夫人の副題をもつ)の三編が収められている。本稿で「アンドレ アス』と表記するときは、特に断わりがないかぎり奇妙な女友達、小犬を違和た夫 人の副題をもった『アンドレアスあるいは一体となったひとたち』を指している。

(3) Hofmannsthal: Erz邑hlungen, S. 243

(4) Broch. H: Die prosaschnften S. 104 (Hofmannsthal hg. von Bauer. S.) Brochはここでアンドレアスの旅が二重の下降であると解釈している。

(5) Hofmannsthal: Erz邑hlungen, S. 158 (6) ebenda S. 161

(7) J. Wassermann, Nachwort in: Andreas oder Die Veremigten Berlin, 1932 S.135

(8) Hofmannsthal: Erz邑hlungen, S. 222

(9) J. Wassermann; Nachwort in: Andreas oder Die Vereinigten, Berlin 1932.

S.177

Hofmansthal: L Education sentimentale, prosa H, S. 101 (ll) Hofmansthal: Erz邑hlungen, Anmerkungen S. 377.

89 BrochはそのHofmannsthal und seine Zeitにおいて、ホ‑フンスタ‑ルの視 覚的記憶の豊廉さに驚く一方、それを完全に聴覚的なものに置き換えるのが国難で ある事情がアンドレアス小説の未完成という事態に関わりがあると説明している。

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書誌

(l)テキスト及びHofmannsthalの著作

Hofmannsthal, H. v. : Die Erz云hlungen (gesammelte Werke in Einzel・

ausgaben, S. Fischer Vlg. ) 1968 Hofmannstllal : prosa H (gesammelte werke in Einzelausgabe)

Frankfurt a. M. 1959

(2)参考文献

Bauer, S. (hg) : Hugo von Hofmannsthal, Darmstadt 1968

Broch, H. : Hofmannsthal und seine Zeit in: Dichten und Erkennen, zurich 1955

Flaubert, G: L'^ducation sentimentale, Garnier‑Flamarion Paris goethe, J.W.: Wilhelm Meisters Lehrjahre Arthemis Vlg ziirich 1962 Volke, W.: Hofmannsthal rororo Bildmonographie Hamburg 1967 ホーフマンスタール,H.v∴アンドレアス(大山定一訳)筑摩書房

川村二郎:チャンドスの城講談社

(昭和57年4月30日受理)

参照

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