唐 代 作 家 新 疑 年 録
㈱‑寺応物・王冷然・賀知章・瞭然・桂融・司空図・謝観・
戴叔倫・杜審言・独孤及・孟郊・李紳・李畠・柳宗元‑
山寺応物
木 久
一丁′イ」○玄宗開元二十五年丁丑(七三七)坐?‑徳宗貞元七年辛末(七九一)か、翌貞元八年壬申(七九二)没?享年
五十五、六歳?︹生年の論拠︺‖H幸応物の「京師叛乱、寄諸弟」詩に、「弱冠遁世難、二紀猶末平」(四部叢刊富江州集︹章刺史詩集︺﹄巻三、以下同じ)
とある。宋の挑寛は﹃西渓叢語﹄巻下のなかで、この詩を論拠として、「天宝十五載六月に当たりて、明皇︹玄宗︺は2安禄山の難を避‑。是の年、応物は年二十」と述べ60つまり、詩中の「世難」とは、天宝十四載(七五五)十一月に
あみやこ勃発した安禄山の乱を指すが、「弱冠にして世難に遭ふ」の句は、より正確には、翌天宝十五載六月に、京師長安が陥3落して玄宗が苛へ逃げたことを指す、とする。このとき、章応物自身も突如、皇帝側近の警備にあたる衛宵‑おそら
‑は、家柄を背景とした官僚貴族の子弟から選抜された皇帝親衛隊「三衛」(左右衛と左右衛率府の親衛・勲衛・潮衛と、
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左右崇衛以下'十衛の瑚衛の総称)Iとしての栄光ある任務をうち‑だかれてしまい'拠るべき権威を喪失する。まさ
に、この大唐帝国の都長安の陥落による玄宗の都落ちと華やかな栄光の失墜こそ、章応物の生涯のなかで「関鍵性的ii̲変化」(孫望「幸応物事逃考述」の注)と評しうる1大転機である。桃寛の説は'充分説得力をもつ。天宝十五載当時'弱
冠(二十歳)であったとすれば'章応物の生年は逆算して'開元二十五年(七三七)となる。
ただし、詩文中の「弱冠」の語は'二十歳前後の年齢を広‑意味する場合も多い。したがって'より正確には'開5元二十五年ごろの生まれ'として疑問符をつけるべきであろ,㍗
︹備考︺
聞一多「唐詩大系」や'小川環樹編﹃唐代の詩人‑その伝記﹄寺応物伝の条(都留春雄執筆)'赤井益久「寺応物伝
記伝本致」(﹃国学院雑誌﹄第七九巻十号'一九七八年)は'いずれも生年を'一年前の開元二十四年丙子(七三六)生まれ
とする。その論拠については'赤井論文にのみ'
︹前掲の︺「世難」が天宝十四載(七五五)十一月の安禄山による蒋陽挙兵であることは明らかであるので、これよ
り逆算すれば'玄宗治下開元二十三︹四の誤植︺年(七三六)が喜応物の生年と推定できる。
と述べる。しかし、これは明らかに'安禄山の乱と詩中の「世難」の語とを短絡的に結びつけたものであり'にわか6に従いがたい。羅聯添「寺応物年憩」のなかにも'再度「﹃世難﹄為指玄宗天宝十五載六月安禄山之乱」と指摘される
ごと‑'天宝十五載六月の都長安の陥落こそう寺応物の境涯を大き‑ゆるがせた「世難」であ畑'「六月」のもつ重要
な意味を見すごしている。この意味で'聞一多の説にも従いがたい。
︹補遺︺
桃寛﹃西渓叢語﹄巻下の記載は、寺応物に関する初歩的な'現存最古の年譜式小伝である。ちなみに'葎園の「稲
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花香館雑記‑寺蘇州年譜稿」(rBEI学叢刊﹄十二期、1九四三年)の「譜略」は'この挑寛説に拠りながら'開元二十四年
(七三六)生まれを主張し'
按﹃西渓叢語﹄云、「当天宝十五載六月、明皇避安禄山之難。是年へ応物年二十。至宝応元年︹七六二︺建巳月︹四ママ月︺'上皇︹玄宗︺崩'則﹃武皇︹玄宗を指す︺升仙﹄︹音詩「蓮楊開府」、巻五︺之時'応物年二十七」。以此推之'当生
於開元二十四年。ヽという。この生年説は'宝応元年(七六二)当時'二十七歳として逆算したものであろう。しかし'その「二十七」1TT17は'じつは「二十六」の誤りである。このことは'同じ﹃西渓叢語﹄中の「﹃善福精舎書︹詩の誤り︺﹄注'﹃建中二年
︹七八一︺'除比部︹員外郎︺﹄'則応物年四十五」などの語によって明白である。葎園がなぜ「天宝十五載'年二十」に
拠って逆算しなかったのか'疑問である。あるいは「年二十」は十九歳の成数と見なしたものか。いずれにしても'
不注意による軽率な誤りtと評せよう。
︹没年の論拠考︺
北末の嘉祐元年(一〇五六)に成る王欽臣(王珠の子)の「宋嘉祐校定寺蘇州集序」(四部叢刊本の巻末に所収)には'「貞
元初、又歴蘇州。罷守'寓居永定精舎。其後事逃'究尋無所見。‑‑以集中事及時人所称'考其仕官本末'得非止
於蘇邪」という。続いて挑寛も﹃西渓叢語﹄巻下のなかで、その説を受けて'「至為蘇州刺史。計其年'五十余臭。以
集中事及時人所称'考其仕官、如此。得非遂止於蘇耶」と述べ'その死が最終官の蘇州刺史退任後、まもないころで⁚トあろうことを示唆しわ.
しんさ‑てつ9ところが'南宋初めの紹輿年間'沈作群はその「補寺刺史伝」(四部叢刊本の巻末に所収)のなかで、大和六年(八三二)
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十二月九日の題下注をもつ「蘇州挙章中丞︹応物︺日代状」(蘇州刺史劉寓錫が自らの後任に御史中丞寺応物を推挙した文、四
部叢刊﹃劉夢得文集﹄巷二十二所収)を論拠として、葦応物は文宗の大和年間(八二七‑八三五)、九十余歳でまだ生存して
いたのではないか、と推測する″新説″を出した。この説は、﹃唐才子伝﹄巻四、幸応物の条や、﹃四庫提要﹄巻一四
九、幸蘇州集十巻の条、および、清の呉修﹃続疑年録﹄巻一㌧蒐亮天﹃歴代名人年里碑伝総表﹄などに大きな影響を
与えた。しかし劉兎錫の文中に見える章応物に対しては、すでに南末の察啓撰﹃察寛夫詩話﹄(﹃苔渓漁隠叢話﹄前集・巻㈹十五、章蘇州の条所引、葉夢得︹石林︺﹃南宮詩話﹄の誤伝ともいう)が、幸応物の「温泉行」詩(巻九)を引いて、天宝年間
(七四二‑七五六)、幸応物はすでに玄宗に仕えているのに'︹七十五年以上後の︺大和年間まで生存するはずはない、「恐
ら‑は別に是れ一人ならん、或いは﹃集﹄の誤りならん」と述べた。これを受けて、﹃苔渓漁隠叢話﹄の編者胡仔は、
幸応物の「李録事に燕︹‑宴︺す」詩(巻一)の「君と十五のときに皇聞︹宮廷︺に侍す」などの語に着目し、天宝元年
から大和六年までは九十一年間もあり、しかも章応物は天宝年間すでに十五歳に達している。︹最も遅い天宝年間最後の
天宝十五載(七五六)当時、仮りに十五歳とすれば、大和六年(八三二)当時、すでに九十一歳である︺。したがって大和年間ま
で生存できるはずはない、として、察寛夫の「別人説」を支持した(前集・巻十五).その後、明の胡震亨は﹃唐音発毛﹄
巻二九のなかで、大和六年(八三二)以前の元和年間︹より詳し‑は元和十年(八一五)︺に成る白居易の「与元九書」(栄Ⅳ仙一‖U金城﹃白居易集等校﹄巻四五)のなかの「当蘇州在時、人亦未甚愛重。必待身後、然人貴之」とある語が、章応物の死をハu意識した表現であることに着目し、当時、詩人の葦応物はすでに死没して久しい。したがって劉南錫のいう幸応物は
姓名を同じ‑する別人であると主張し、沈作絹の説の誤りがほぼ確定した。なお、花房英樹「白氏文集校訂余録」(京
都府立大学学術報告﹃人文﹄十八号、7九六六年)同「幾組脱金沢文庫本白氏文集」(﹃かがみ﹄一〇号、1九六五年)や羅聯添「寺応物年譜」(前掲)は、さらに「与元九書」より少し早い元和七年(八二一)に成る白居易の「自吟拙什、国有所懐」
請(﹃白居易集等校﹄巻六)の、「蘇州︹幸応物︺及彰沢︹陶淵明︺、与我不同時」という句が、自居易にとって、詩人の寺
応物はかの陶淵明とともに、すでに遠い過去の存在になっていたことを表し、したがってその死は元和七年をはるか
に漸ることが指摘された。か‑て、劉南錫のいう章応物は全‑同姓同名の別人であることが確定したのである。ちな
みに、この別人説は、銭大折﹃十駕斎養新録﹄巻十二、幸応物の条、陳抗﹃詩比興等﹄巻三、寺応物詩等の条、卑仲‖u勉「唐集質疑」幸応物の条などにも、‑り返して論じられている。
この意味で、茅盾が「自居易及其同時代的詩人」(もと「光明日報」一九五三年九月二八日に発表、のち﹃茅盾古典文学論文
集﹄︹上海古井出版社、1九八六年︺に再録)のなかで、二人の「寺応物」を混同する沈作出m以来の謬説を再びむし返し、
元和十年当時、詩人寺応物はすでに没していたことを示す自居易の「与元九書」の記事は、「たぶん、寺応物はすでに
死んだものと思いこんで誤記したものか、それとも後人の故老か、これは一つの疑案である」と結論したのは、軽率
な発言である.この茅盾説の誤りは、周夷の「唐代詩人幸応物的卒年間題‑与茅盾同志商権」(﹃学術月刊﹄T九七九年
十一期)の反論を待つまでもな‑、明清期における研究成果を全‑調査せず、﹃四庫提要﹄の謬説にひきずられた結果
である。これと同じ誤りはまた、啓功「碑帖中的文学史資料」(﹃文物﹄一九六一年八期)のなかでも‑り返される。啓功爪uY‖、lは、自居易が大和六年の冬、劉兎錫に与えた手紙(﹃淳黙秘閣続帖﹄所収)のなかにみえる「寺楊(‑揚)子」を、誤った
旧説に拠って詩人の寺応物であると見なした。しかし、自居易の手紙のなかに見える「章楊子」なる人物こそ、孫望「寺応物事迩考述」の「四、関於幸応物事速的一些資料」のなかで指摘されるごと‑、詩人幸応物ではな‑、劉南錫「蘇州挙書中丞日代状」(宋萄刻本﹃劉賓客文集﹄巻十七の目録には「蘇州挙揚子書中丞日代状」に作る。ただし、本文では四部
叢刊本と同じ)中にみえる〝書中丞応物″、その人であり、自居易や劉南錫と同一時期に同姓同名の別の「寺応物」が確
かに生存していたことを物語る有力な資料であると道破した。自居易の手紙の作成年代と全‑同じ大和六年に成る劉
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由錫の「蘇州挙書中丞日代状」中の「諸道塩鉄転運・江准留後、‑‑毒応物」という官衝の「江准留後」は、まさにハu「揚子︹留後︺」の別称である。このことは、朱金城﹃白居易集等校﹄巻六八、「呉郡詩右記」の条にもほぼ同じ‑指摘F山血される。その説は充分説得力をもrv.
清の陳抗﹃詩比輿等﹄巻三、葦応物詩等の条には、王欽臣や挑寛らの先行説を受けて、
貴公詩集終於蘇州。自罷守以後、更無一字。蓋不久旋卒。
と述べ、さらに余嘉錫﹃四庫提要弁証﹄巻二十、寺蘇州集十巻の条には、より正確に、
応物罷郡後、有「寓居永定精舎」蔑下原注云、蘇州「永定寺喜︹趣︺鮮強夜至」「野居」数篇均見本集巷八。此後躍跡不復見於
詩、疑其不久即卒。
という。寺応物が最終官の蘇州刺史をやめた後、ほどな‑没したのであろう、とする考えは、寺応物の伝記研究が急
速に進展した現在においても、基本的には変わらない。とすれば、寺応物の蘇州刺史在任期間を正し‑把握すること
が、その没年を正し‑捉えるうえできわめて重要である。ヽヽヽ北末の王欽臣は、「宋嘉祐校定寺蘇州集序」のなかで、「貞元初、又歴蘇州」と述べねが、南宋初めの沈作比Mは、そヽヽヽヽの「補章刺史伝」(前掲)のなかで、より具体的に「貞元二年、由左司郎中補外、得蘇州刺史」と述べね。その論拠
は、宝暦元年(八二五)の目付をもつ白居易の「呉郡詩右記」(前掲)に、「貞元初、寺応物為蘇州牧。‑‑時予始年ハu十四五、旅二郡︹蘇州・杭州︺」とある語らしい。当時、白居易は十五歳であるとして計算すれば、寺応物の蘇州刺史就
任は貞元二年のことになる。余嘉錫﹃四庫提要弁証﹄巻二十は、この沈説をほぼ妥当であると評したが、じつは貞元・、伽四年の誤りである。