――目次――
1,
「おさしづ」(天理教原典Ⅲ)における矛盾について, 深谷忠政, Controrercy in the original text of
Tenri-sect, Tadamasa Fukaya, pp.1-3.
2,
宗教教育の実施と価値思索, 藤本一雄, The method and valuation of religious education, Kazuo
Fuzimoto, pp.3-5.
3,
宗教哲学の領域, 藤田富雄, The sphere of the philosophy of religion, Tomio Fujita, pp.5-8.
4,
仏教における輪廻の主体の問題, 春日井真也, The prolem of the subject of samsara in Budahism,
Shinya Kasugai, pp.8-10.
5,
宗教と神秘思想, 神林隆浄, Religion and mysticism, Ryūjō Kambayashi, pp.10-13.
6,
キリスト教における死の理解, 菅円吉, Understanding of death in Christianity, Enkichi Kan, pp.13-15.
7,
禅における仏土の問題, 光地英学, The problem of Buddga land in zen, Eigaku Kōchi, pp.15-17.
8,
宗教における超越と内在, 諸井慶徳, Transcendence and immanence in Religion, Yoshinori Moroi,
pp.17-20.
9,
宗教哲学の方法論, 仁戸田六三郎, Methodology in the philosophy of religion, Rokusaburo Niheda,
pp.20-22.
10,
神道における罪と責任, 小野祖教, Sin and responsibility in Shinto-Religion, Sokyō Ono, pp.23-26.
11,
カーディナーにおける宗教の問題, 岡田重精, The problem of religion in Kardiner, Jūsei Okada,
pp.26-29.
12,
現法涅槃について, 佐藤密雄, On the Diṭṭa-dhamma-nibbana, Mitsuyū Sato, pp.29-31.
13,
神道の国内性と世界性:天皇制の過去と将来, 津田敬武, Nationality and universality of Shintoism,
Keibu Tsuda, pp.31-34.
14,
仏教における否定と肯定の観念, 田村芳朗, Negation and affirmation in Buddhism, Yoshiro Tamura,
pp.34-37.
15,
宗教教育の基礎的考察, 雲藤義道, A fundamental examination of the religious education, Gidō Undō,
pp.37-39.
16,
機法一体の一考察, 結城祐昭, A Consideration of “Kiho-Ittai”, Yūshō Yūki, pp.39-42.
17,
信仰と倫理の問題, 幸日出男, Belief and ethics, Hideo Yuki, pp.42-44.
18,
キィルケゴールにおける罪の問題, 米沢紀, Sin in Kierkegard, Nori Yonezawa, pp.45-47.
19,
古典における神学, 西角井正慶, Theology in Japanese Classics, Masayoshi Nishitsunoi, pp.47-49.
20,
二分依他性:摂大乗侖における, 田中順照, The two sections of Paratantra, Junshō Tanaka, pp.49-51.
21,
近世的神格とその社会的基盤:上州碓氷八幡の宮座, 相葉伸, Modern divinity and its social basis,
Shin Aiba, pp.52-55.
22,
イエス伝研究の諸問題, 赤司道雄, Problems in the recent studies of the Life of Jesus, Michio Akashi,
pp.55-57.
23,
炭鉱従業員の宗教的態度, 古野清人, Religious behavior of mine laborers, Kiyoto Foruno, pp.58-63.
24,
上代支那の請雨儀礼について, 池田末利, About the rituals in the prayer for rain in ancient china,
Suetoshi Ikeda, pp.63-66.
25,
成立道教と民衆道教, 窪徳忠, Positive Taosim and folkloric Taoism, Noritada Kubo, pp.66-69.
26,
正確なる仏誕二千五百年祭, 加藤精神, Exact date of the 2,500 anniversary of Buddha’s birth, Seishin
Kat
ō, pp.69-70.
28,
教行信証阪東本について, 森西洲, On the Bando edition of “Kyōgyōshinsyō”, Saishū Mori, pp.73-75.
29,
高木神考, 森田康之助, Takagi God, Yasunosuke Morita, pp.75-78.
30,
日本宗教者の自由の用語例, 宮本正尊, Terminology of Freedom among Japanese religious people,
Shōson Miyamoto, pp.78-80.
31,
神社における宗教儀礼:八幡宇佐宮行幸会の構造, 中野幡能, Rituals in Shinto shrine, Hatayoshi
Nakano, pp.81-86.
32,
律令時代における禰宜祝の地位, 西山徳, The status of the priest, Isao Nishiyama, pp.86-88.
33,
中世末期における陰陽道, 野田幸三郎, On the Ommyodo (way of divination), Kōzaburō Noda,
pp.88-90.
34,
第二イザヤにおける義の意義について, 中沢洽樹, The meaning of Righteousness in Second Jesaia,
Kōki Nakazawa, pp.91-93.
35,
ユダヤ戦争前後におけるタンナイムのメシア思想について, 大畠清, On the idea of Messiah in
Tannaims around Jewish War, Kiyoshi Ōhata, pp.93-95.
36,
出雲地方における墓制の変遷:八束郡を中心としての一試論, 土谷博通, The change of the tomb
system in Izumo area, Hiromichi Tsuchiya, pp.95-99.
37,
所問経(Paripṛcchā)の性格について, 高崎直道, The character of Paripṛcchā, Jikidō Takasaki,
pp.99-101.
38,
最澄の宗教の成立, 鶴岡静夫, The establishment of Saicho’s religion, Shizuo Tsuruoka, pp.101-104.
39,
羽黒修験の入峰修行における鎮魂思想について, 戸川安章, The way to settle the soul in the training to
enter into the mountain among Haguro Shugen, Anshō Togawa, pp.104-107.
40,
奈留島のキリシタン, 田北耕也, Kirishitan at Naru Island, Kōya Takita, pp.107-109.
41,
ユニテリアンの開祖チャンニングについて, 丹沢洋子, On Channing, the founder of the Unitarian
Church, Yōko Tanzawa, pp.109-112.
42,
イスラエル宗教史における「聖輿」について, 民秋重太郎, God’s ark in the history of the religion in
Israel, Jūtarō Tamiaki, pp.112-114.
43,
古代ギリシアにおける神と人間, 柳沼重剛, God and man in ancient Greece, Jūgō Yaginuma,
pp.114-116.
44,
祭司と予言者との関係:イスラエル宗教史における, 山崎亨, Relation between the prophet and priest
in the history of religion in Israel, Tōru Yamazaki, pp.117-119.
45,
神道祭祀の諸形態, 岩本徳一, Various forms of Shinto rituals, Tokuichi Iwamoto, pp.119-121.
46,
新約聖書における人間, 柳田友信, Man in the New Testament, Tomonobu Yanagida, pp.121-124.
47,
神学における宗教類型, 谷口美智雄, Religious types in theology, Michio Taniguchi, pp.124-126.
48,
未開人の不滅観, 阿部重夫, Immotality among primitive people, Shigeo Abe, pp.126-129.
49,
デカルトの神について, 有田潤, God in Descartes, Jun Arita, pp.129-133.
50,
クランマーの聖餐論に関する一考察, 後藤真, The theory on sacrament in Granmer, Makoto Goto,
pp.133-136.
51,
日本農村における宗教の伝播と社会の関係, 原田敏明, Circulation of religion and society, Toshiaki
Harada, pp.136-138.
52,
ルターにおける「愛」, 今井晋, The idea of love in Luther, Shin Imai, pp.138-141.
53,
社会階層と宗派機能:明治基督教伝道の一端より, 井門富二夫, Social classes and function of
religious sects, Fujio Ikado, pp.141-144.
54,
親鸞の教義構成上の態度について:宗教の真理性の問題に関連して, 石田充之, Subjectivity in
55,
宗教の内部的批判と外部的批判, 飯野紀元, On the theory of religion by Brightman, Kigen Iino,
pp.146-149.
56,
菩薩戒について:その受戒と捨戒とを通して, 石田瑞麿, On the Bodhisattva precepts, Mizumaro
Ishida, pp.149-151.
57,
非吠陀アーリャン思想系統における数論的特殊性, 木村日紀, The doctorinal special nature of
non-Vedic Aryan thought, Nikki Klmura, pp.151-154.
58,
仏陀の認識論とカントの認識論, 河合陟明, Epistemology in Buddha and Kant, Shōmei Kawai,
pp.154-157.
59,
真諦所伝の唯識説, 勝呂昌一, the Vij【nの上に ̄】apti-mātratā-vāda transmitted by Paramārtha,
Shōichi Suguro, pp.157-160.
60,
創造の啓示による神認識について:ブルンナーのバルト批判を中心として, 近藤定次, On the
recognition of natural revelation, Sadatsugu Kondō, pp.160-162.
61,
証悟測定の方法と其の儀式:禅宗清規の研究の一部として, 来馬琢道, The method and ritual of
determining attainment, Takudō Kuruma, pp.162-164.
62,
現成公案(道元)における宗教の問題, 増永霊鳳, The problem of religion in Dogen’s “Genjō-Kōan”,
Reihō Masunaga, pp.164-167.
63,
マルクスにおける内面性の問題について, 村田義人, The growth of atheism in Marx, Yoshito Murata,
pp.167-170.
64,
ハリバドラの境論について, 真野龍海, On Haribhadra’s Theory of Visaya, Ryūkai Mano, pp.170-173.
65,
バヴィヤとバィシェーシカ学説, 宮坂宥勝, Bhavya’s and Vaisésika philosophy, Yūshō Miyasaka,
pp.173-177.
66,
日蓮教学における佐前佐後の新研究, 中濃教篤, A new study on “Sazen, Sago” in Nichiren’s
Teaching, Kyōtoku Nakano, pp.177-180.
67,
仏教に説く補特伽羅の意義について, 宅見春雄, On the significance of Pudgala as taught in Buddhim,
Haruo Takumi, pp.180-181.
68,
宗教的人格の研究, 野村暢清, A study on the religious personality, Nobukiyo Nomara, pp.181-185.
69,
所謂合致集団の宗教的ニ重性, 棚瀬襄爾, The double character of the religion in the united group, Jōji
Tanase, pp.185-186.pp.187-190.
70,
儀礼変容の一考察, 竹中信常, A study on the changing of rites, Shinjō Takenaka, pp.187-190.
71,
ヂャイナ教・仏教接触の一場面, 山田龍城, One aspect of Jainism’s contact with Buddhism, Ryujō
Yamada, pp.190-192.
72,
宗教新興の因由, 鶴藤幾太, Causes of new rising of religions, Ikuta Tsurufuji, pp.192-195.
73,
不安の機制, 石津照璽, Mechamism of anxiety, Teruji Ishizu, pp.195-198.
74,
天孫降臨の神勅について, 福井康順, On the oracle of the advent of the Sun Goddess grandson, Kōjun
Fukui, pp.198-199.
75,
住信の浄土思想, 松野純孝, Jushin’s Pureland thought, Junkō Matsuno, pp.199-202.
76,
青森県における「ミコ」の業態, 小田原尚興/山村俊明, Miko’ in Aomori-ken, Hisaoki Odawara and
Toshiaki Yamamura, pp.202-204.
77,
シャマニズム文化圏の問題, 小口偉一, The problem on the cultural range of shamanism, Iichi Oguchi,
p.205.
78,
真言行と呪術, 加藤章一, “Shingon-gyō” and magic, Shoichi KATŌ, pp.205-207.
79,
マックス・ミュラーの宗教学的方法について, 戸田義雄, Chracter of the science of religion in Max
一,あ き
しづ
。一八天理教原典Ⅰ︶に
於
ける矛盾について
深谷忠致
う た﹂︵ 御 神楽歌︶﹁おさしづ﹂︵ 御 指図︶の三 つ がある。
祖及 その 高
現存公刊され
よいと 思 -/
ることがこれ
、これが﹁お
る 。
ぅ 理由は 、
う た﹂はか一て
るとも考え ろ
ことはない。
ぎ ﹂﹁みか
因 があると 思
の 立場を一
たものである
研究報告
の 信仰者の日 常 的実践についての具体的指図である。
れた神意を
とをその人の
於ける矛盾
ていうことが 出来る。
よ る神によ
係 に根 接 する ものであるということが出来るであろう。
を 無限に自
に 自覚した時
る 時は却って 死 となり死を決意した時は生となるのである。
の頗倒 とい ぅ 信仰の厳さと共に喜びがあると思 う 。 ﹁おさしづ﹂に表われた矛盾によって 、
れば自由自 在
が 考え得ら れる。
なる神の真 実の思惑︶への覚醒 285
隈慨 し、 間 の自由が成立 す る ⑤ 将 粟の発展 筆が示 ・される。
者 守護者と しての 親 なる神の楽みがあるのであって 、
1 の神人称
千 - ヰめ - り - フ ≦
しく信仰的
のである。
天理教の神の 特色を見ることが出来るのである・ , -
であるが、
﹁みか ぐ 55
所以があると 田め l う 。 用例 ①神の絶対性
3. 托
% ,8 . お " 十も一つ百も一つの理をみよ。 " 一年一日一年百年もおなじ理さとそ。
ど どんな 事 あってもいのかんは神の萱 , / Ⅰ " ②人間の逆対応性
の 覚醒
力
しと
廿 + めとこうつ 24 と 相違する "
の こらせ
のつよ
紐 ・ 6 . ぬ ④決意と実・ 践んな談じ 20 もないとも云はす、すなとも云はん "
がらえて 理
の 理がわ かり、みなわかりない。 の 将来の発展
ぎぃ処よ 一 一
宗教本育の実施と価値思索
藤本一雄
︶
0つ日
。 コ
白ヰ
の
宗教々育
浅い者にこ
国 ゆえ、この
の
教育﹂を 学し
日本として案を立てなけ
ればならない。
ならぬと
見
の外の国々
には、二国以
社会現状の困
右様で、新聞
若
い
犯罪者
いしと異ロ
研究報
甘
ュさ い 処へ も よってしてはならん。
国内は求刑 的
沼に憩いてい
地
と見られ
る 。みの極に 立
せよ﹂と
般 人には 不
の
我が国に
ばならないと
独立国は名の
も 見られる 占 が 中々に多い。
境 に育った
ち 就学 迄 の 朕
,トソゾ の 学
せられている
た 教育が到る
限り、形だ け
と 見なけれ は ならない。
、 何とかし
して能く教え
果 が期待され 一 一 288
結構しか考え
、それの最上
つて来る。
がしっかり
勝たれなり﹂
れてその云 う
我儀 にして 仕
る 。子に嘘を
無 信仰生活
活 者である。
な っく。 子
これが童心に
たって構はな
切な ﹁人の
なければ、 立
立たしめるこ
ばならぬ。
に心なき せ
た 宗教家であ
成るは当然で
の際にどんな
う ぬが、ど う 四
基礎を設けた げればならない,
授ける方法
ね 。欧米各国
国民養成に心
二回平均、 宗
- は行はず、
か、 執れにし
る 。学校や社
としては日本
現在社会科に
らず、しかも
状 におる。 ス
民の実状であ
下は、 余りに も慨 かしい次第でおる。
夫 れムⅠ 自
ても、事実法
、無価値の賭
みぬき 、 却友
込は立だな い
住む部屋 タ ・ c, 。 ん
何としても 為
政若 えの好感は持ち得ないでおろ
う
,宗教々育と 時に論じても仕方はないが、民心に安慰おらしめ 教 、教育皆な同一である。 昔の四国や最近迄の伊豆初島に盗難が無かったば
今日なお 鍵 錠を用いぬ
処もおる日本特有的美白
性を善 と見なければならぬ教育上の立場からも、 性 ﹂の華厳思想の﹁ 仏 ﹂の字を﹁ 神 ﹂に変えて見
でない善良な大和民族の一員 吾 等である。指導の もなる人心の特性を利用し、己が責任の価を死と
感謝の念に日暮しする人たるを理想として立つこ 数 々育の目標でおり価値である。 この作業に当っては、関係する人,悉くが、 随 おるが、未完成な人間ながら、共に学び共に向上 のでなければ、即ち学校まかせの態度であっては も期待出来ないに近い
難事と考えなければならな も 、使用者の心一つに、価値目的が定まると認識 垂問題の難点一切はその教える人を得るか否かに ﹁憎悪怨恨の階級 斗 争を基盤とした日新宗教 L れが普及に厳重酷烈な科学的方法を使用して学生る
﹂ソ連の教育法は、﹁宗教的信仰と科学的方法 以て、﹁教育の根木﹂としている。﹁ソ連教育の実 五日。くは、これを、﹁初期のキ
Ⅱスト教師特有の 惑 、そんな物を備えたロボットを造り出す計画工研究報告
分 無理な註文では する心で指導ずる 、前述の効果さえ い。千百の好教材 ずる必要がある。 潜むは づ でおる。 を科学と称し、こ に説法式説明をす を結合する﹂事を 状﹂の ま者 0, ト %強制信仰的使命
にあるこの制度
事実、地方に る目的は、政治景 これらの問題と同 よ れ に鑑みても、人の ﹁一切衆生養石仏 ても、決して無理 仕方一つで何れに 観念し 、 常に報恩 とが、宗教々 授宗 五の あ 理
キ方立づま
板井 ろ性
り注し
宗る厳
課補
っ教
つと般彼意
領掌
ての て試のの
味なのか運命
数な定て
宗でで
哲
啓宗
づ
性に点 性論る
示教
けて
しにをに
宗学
の領
域
近
地史部
代ュ
藤題
と代の学にのう
ける@-
の 歴 Ⅰ 底くキ宗イ の -"る そ て を る
的確元始
公平に批判す
する 所に よ れ
域 である文化
神学の一部門
発達と共に 、
が謂 狭義の宗
教学が宗教 規
るのに対し、
範 概念を究
にしょう,こす
験 科学とし ノ, -
教学への要望
せんとする 試
宗教哲学のな すべ き 課題ではあるまいか
らゆる宗教
する体系化の
が 、具体的 個
す る過程とし
は 、あらゆる
を 把握しなげ
して古木 教 現象
階 づけの問題 由
? ソか,
敦史・宗教
宗教哲学と相
れらを ずズ、て
究 が進むに っ
遂げるべ き も
を 考えた場合
て、 果して 如 何なるものがあり得るであろうか。
講学のよ う
極 的な実在者
善 によって 信
りする所には
に 白下教の存在
して研究の対
主張するとこ
出発点は究極
的な体験にあ
は 原理的に七丁
、哲学に 放 い
の 真理を承認
人 には、その
いうことを 意
抹
するから、自己の体験的確信を強調した時
観
が強くなることは否めない,この意味に
於
的な実在者に対する信仰の側からする宗教規
対し、宗教哲学は哲学者個人の体験に於ける
体系化てあるということになり、立場を異に
己の確信の体系的告白である点に放いて客観
哲学との区別は殆んどない。更に近代の宗教
教の信者であった為に、自己の宗教的体験を
ると解釈するから、
イソヒ
・ロマ
ソ
的な宗教
仰
告白的色彩を帯びてくる。宗教哲学の発生
場からの要請に
甚
くものであったと共に、白木
のが護教性を帯びざるを得ないのである。
従
教
的であり、その哲学が未だ十分神学から
解
に
哲学者の神学論に過ぎぬと非難されるのも
い
。故に従来の哲学者の陥り勝ちであった
宗
ねばならない。
宗教が八間の生活現象の一
つ
であるとすれ
象
と異,
0所以を明かにしなければならぬが、
の
問題として論じられてぎた。宗教の本質は
明かにされぬばならない。この限りに於ては
対象及び出発点を同じくするが、更に宗教学
の
特質と類型と、宗教の木質の具体的な反映
を
超えてこれらを成立させている宗教一般の
研究報告
ば
、それが他の生活現 これは従来宗教の木質 宗教現象そのものから 、宗教哲学は宗教学と の明かにした宗教現象 と考えるから、これら 本質を
、究極の全体的 には、宗教哲学者の も て 、神学が超越的究極 象の体系化 プ ・ - あるのに 自己確信の側からする するにせよ、等しく 自 性 を欠 き 、神学と宗教 哲学者が多くキリスト キリスト教的体験であ 哲学がキリスト教の信 そのものが、護教的立 教 哲学者の態度そのも つて、宗教哲学者が 謹 放せられていない、 正 理由のないことではな 教的 体験の偏重を避 げ 292展る概白り
実と教
そ富れ 宗
在中つ花瞼合オてにまけ
はろ
提実は系
れ 現 教存指的
末 ュ構て 面の
こ経でら
春日井真也
はしが
ぎ・ ト ﹂の明か
動かし難い事
的と考えてい
ある。この事
予想せしめ
原始教団の事 実 、として疑 う 事は出来ない。
して新生を
く 東洋精神史
% の 葉 思想と
一切の生物は
愛の精神を確
マナ﹂時代
しかし﹁ ウパ
た学説として
仏教教 説
ぃ 縁起 説 を取
の 構造の理解 を 深める事が出来ると考える事が出来る。 一 、資料の整備に於ける諸問題
は 存在せな
に 於ては﹁ 輪
とい 円 ,字の
の ︶の幸福﹂
める輪廻の比
十二見に 於 /. 、
解は四十四種
仏教に於ける輪廻の主体の問題
る 事になるの である。
は 印度という風土 的 環境と政治
の 迷夢に沈 倫 考察を要する問題 プ :はおるまいか
動は 車に精神の世界に 於プ - 絶
る 一点に集注されて、人間社会
て - 印度の仏教 ニ言 h. ねヲ, 0 プ - あ,つ
学派の影響の へ /
乗る。 二 、印度精神史に於ける輪廻説の位置 古 ﹁ ウパ ニシャド﹂に現はれる輪廻 説 はすべてが 同
説 が極めて普及している事が知り得る。 三 、輪廻 説 形成の社会的背景 印度精神史に於て重要な比重を占める輪廻 説 を教
研究報告
捜 したものは ﹂では﹁フラ の関係から五 来る,王族の 時代の一般社 い事など、ても作用論
す 考えている 世間右辺無辺 する二種など 教教理を明確 と見る事が出 一系統のもの する知識を王 に於ても死後 語る輪廻 説は パニジャド﹂ 。また 新 ﹁ ウ 木に於て輪廻制が
0 千 -
内面
貴め
訴え ぅ かを考究すべぎである。 四 、仏教の思想体系形成の諸要素の決定
事が
﹁ ウ
と共
起し
対す
世界
とヂ
於て
でヰめ
限
とし
00 ノ
五皿
窓で
へ ビ正の
名詞 九 仏教成 多い。 仏 。八二シャ た 享は意 る反 批判 観の弱点 ヤイナ を は正実︵ る 。霊魂 常住無作 て有 つの 講親 は眼 は色白香 あると見 る,これ 会 に発達 外形的に あるか、 的には 印 中に王族 たてあろ 294
語根に義務 分
講読 に 於ける
る 一種の外的
料 として﹁ ヂ
よ、 ヰ ん ・ レ 0
説 0 ム 口複
えの計算の
学の影響の下
発表に譲る︶
達
して成立し
教義の普遍性
ァ 諸民族移動
% 成を行って
れて阿育王 時
に 仏教の盛衰
見られる如き
教 拡大の場合
論 として考え
用 せられるか を 理解する事は興味深い。
度 こ そ 呼
結は
言常ザ還ツ ら る 4 ム万全 世刀
"告示
表は
5
しし、
致 古本 一明君 得る し千 ・教
現 の とを霊雨
教 はでは神力
も と と ギぁ表
秘さ確哲
そ中秘
, 思 、 より
現の
里も
・、
ヒる
。
巻 ㌍ オ目 ,ロ、る薫 る
程る、
有ばと行場
相の合
はア滅
ト れ仏教
て実記
を 裏 輪 事
てで 神あ
し 系要が 廻が
仏な史 っての
伽ッ
転は考での代の
羅 ト と サえあ
がに
三、ものの裏
ずる共通性
か 、秘密 と
、 正に今の
二種ありと
場ムロ が あ
説法して 居
0 度合が同
遮 ぎる障壁
ほし謙 るこ を 秘密と称して居る。
人て 師の側
居るが、 弟
略 々 、乏 れに
論異るけ れ も 、
膨
酊の語義能に使用の目的は同じである。が 区別し 鄭
。サンク ヤ
娑 羅門哲学
れる。仏教
翼の如く 、
学 に類似 L
研究報告
相中の(
い
ど仏子に
と が 一 らるな神か
を百味
まれて居る。
も神秘思想
態度を示して
秘
視せられる
にもイヱス
・
なるものであ
ソス
を神と見
る
。
カソト
は
此の二大哲人
神の啓示、洗
て
居る部分は
在す我が父
る
態度に出た
つ
たのも止む
院
の問題とな
至った。スピ
して身を隠
す
祈を
為
す時、
感激して、
神
一一
イ %9 。ィ伸 るる 神 くあ ぬ
方は
私有
こ一一一
キリスト教で
に 背いた アグ
は 見捨てられ
れることも、
た 関係上、長
ヱス を人間界
者は唱 ぅ るこ
椅 有す。こと 神学者は喜ばないのである、
悩 妄想の眠 プツグ /l
自覚せよと 説
如来で有る 筈
覚し得ない 憐
に 導かんとす
覚位に界る最 も 必要にして、欠く可からざる要件と成って居る。
ではなく、
性の発達生長
にしても、
ろ うか、 若し
者の理念とは
有るまいが -
トり
、キリマ
明かで ムめ
的 意味に
研究報告
菅月
亡ヒ 口キソ
スト教に於ける死の理解
ポ テ ィ シ ャルことは、 菩
部 では法身 と Ⅰ ルグ @ ヰ 7 / タ @ タ
るが、淫薬と
法 実相とは 軸
実 境を指すの
するものでは
ム める。 血明煩
ある。法身 と
見の眼を開く
法身体 は、外
人類と密接 不
見上は神秘的
其のものに 外
ことと想われ
其
づ -
起
上人
に
i J , ,
因
T
一一一一
所に従え
の際、死は る人間の丈 る 。第一、 外の悪を封・ すぎないの つて起る自 に販するの 田 Ⅱ ぺ Ⅰ止め マ の。 であるか。 於ける死なのか、其の点に関してキリスト 明白が漂っている様である。例えば今、新約 の 十四 げ 丁には日われ 竺 兄弟を愛 す ・ るにょ け を 知る , 愛せぬ老は死のうちに居る。おお ょ 八な 殺 ず者なり。凡キ - 人を殺す老の 、キ - の由反知,
0 目とおる:此処では確かに肉体の死 捨てたま んり、 支によりて 愛 ということを 知 は 死は肉体の死を意味していると云 うか、或 めている。然らばキリスト教に於ては肉体的 宗教的 死 とは如何なる関係を持つのであろう ると云われる時の死は生物学的なものと意味・ 教 的なものを意味するのか。 教の教理に於て常に 聖書のヨハネ第一書 プ :兄ょ り 生命に移り - て兄弟を楢 む 者は即 に永遠の生命なぎを ポ - はない。然し直ち 主は我らの為に生命 りたり・・・⋮ ニ 。此処 は少くとも、それを 花 又は生物学的 死 と か 。死は罪の結果 d. ﹂ するのが、それとも完あ
" 目 てて @ " 亡イ 一 '- '- 政 ちし三下
げる如く 、人 間の死も動物の死も同じ ぺ ・・、あるのか。
0 人アダム
伝説なるもの
に 自然法的に
現象として 取
して取扱われ
甲 に法則的 必
歴史的存在と
てしまう事は 出来ない。
︵ C コ コい 由宙こ
それは人間
の 創造した 天
間の限界を /
、人間の中に
神 自身が死の
い 。何となれ
き るべく造ら
って生きる カ
否 、 神 白身が
所にのみ
あ交りの中で、 一四
持たぬ人は 、
ている人で ムめ
持つていよう とも既に死んでいる人である。
スト 教 的見
が 死は人生に
学的に見ない
死 をば 、 神と
物 として対象
との交りの 観
分は因果の流
一つの行為で
え見掛上、宗
ない。そして
か 第一原因な
ると云った
然 現象として
然 現象として
る 。
恐怖は 、一
を 知る事から
らである。 而
旗人、依り 所
糞 で代表され
の 価値とした
ものが死と共
者、キリスト
ある。而も神
ら ・それは 実
に 於ても 亦、 人間の死は神の死である。
者、即ち神を
の老の 力 の 眼
く 所の神を指
て 神でない者
を 軸に販せし
事 が起る。 そ
な 死は、量的
に 、人間が限
たらんとする
もある故に 、
が 人間性の特
ない。 人 問の
又 生物学的側
ける死は 、生
研究報告
30 , )る る と
にれ事
ぅ は保存ばあ
反死
るの
様 すい出に准哉
莱際
だ々去来同
て世知
で 表 神のの、
で人神
はし
二はえなに
現
限無
同種
じに
び 付 困 は るか 所 の吻験 で関く
も叡果
。 人 きたの 間 ぎの 自由
の法
二郎
介は努 しは有閑のつち
に 間 と神力何な後
保せをノ、起の
とて教
、 檸の仏
客に仏土
- Ⅲ 叩 ⅠⅠ 哩Ⅰ
上 れ 客 と 於 、とのⅠ
約ニ
@
、
@TD
観 っ ・ -け
二の実
思 る様に在
想44
土
仏
ょ、
地なの の浄 1 の 巳現題
、 る土
。
教忠士
起 地根数原
三 - 土 い
浄や浄
土が土
のみ,、分り 卍、
る ,何 % 一 ・ 華
の偶ヤ 、随感
にしている。
をなす,ものと
は ﹁凡愚 は白
を願 う ち、悟
恒に 安楽なり
去ること 遥 Ⅰ
浄土の存在を
浄土を見 ん ・ こ
ば 他ならぬ 蝉 の 唯心浄土観の主張である。
内面に絶対
内面の絶対性
成仏である。
はその、心性に
王瞑 する。 元
大乗仏教に至
般若を受け、
度 に発展せし
なす仏土の本 一六
的な形而上生
境地毛:あろ
仏土は無相を
教 にて説く 浄
色 を有する。
上ろもので
ての 説 / 、、 台
定則肯定の絶
6 千、ある。 元
ているのが 大
法 と一体をな
お る,万法 一
大千世界が ,て
り 、真実人体
莱の浄土であ
は 汎神論的 考
ある。これは
仏、り 巻に﹁ い
ちいさ @@m@ わは ・ n,. ﹂
あるとなし 綿
を 、 もれ
いる世
上そ思当
十を山にこ山駅舎
想蕊 しこ
想一 ﹂ @ 汗
釈尊 浄
華経優
鷲山 説
とって
界 を指
ずは ね
ずしも
はこの
す 思想
。而も
の 十方
云い 得
陀 の 極
を 超越
土 を否
してい ぅ ところにある。
へ 五寸札 比
浄土忌
多少の
て (, よな
研究報告
一七教 的対象に
諸井
慶徳
間 的に は現
在 この瞬間を
寿を体現ぜん
フ
この世界
萎 草中にも 無
とするのであ
て 禅の精神を
つて、仏土を
て 動的内容を 帯びる。
の 浄土と、
る 。 一は 自己
の
浄土でお
。この右と 豆
今の自己でお
立場があると 云わねばならない
宗教に於ける超越と内在
二 つは 、内在
一概に 言
して人間以上
曲作用が営ま
内面に、通常
サて れの開展に 於て宗教的作用を行うことか 垂 Ⅰ う 。
就 ては、 従
遷を見る立場
又 他面、超越
しも十分の注
意が 払われていない。 にしか過ぎた
のが ㌧リコ・
ンヂス的 絶対
い 。即ちこれ も赤、一つの哲学乃至思想に過ぎない。
われる如く
ぃ 。即ちその
て 直ちに現れ
通じてなされ る 。
出て来る。 一八
ほ ない。即ち
見られるので ある。
ム来三宝
夫々に 就て、
多の事柄の興 味 深 き 示唆を受けるであろう。
的 信仰対象 は 殆ど見受げられるべくもないと思われる。
0% 簸 ﹂Ⅰ 目 ロゴ
伺わしめる。
Ⅰ ゴコ の でゴ のの オ
は 心、気息を
申コ
の でゴ ののすのみ神と結び つ げられて用いられている。
,ズム の 昇
筒 アニミズム
の 轟が人間に
はない。 例え
ものも、かか
それならば 果
を 示すものを
に 当つての 前
吊に
於てはヒ から 宝へ
箸 である。 即
中に反面内在 的 性格が出て来ることとなつだのである。
げて現れ プし
" は 人間の霊
かかる用法は
た 立場とも 思
の 超越化、即
活の信仰に 立
わば最も ィェ
し たパ ロウ に
語られるに 当
のことは次の
、田ヒ mO Ⅰ音は
乃至キリスト
超自然的 襄の
福音書にも 現
ある。然るに
研究報告
之が 最も特徴本来的には、
を ﹁生命ハミ や
ヱス ,キリス
である。かく
@ 目 て eG セ窯︵ 0 り
とヨョ Ⅰ
ての目方 リ セ父
がなされた さ
り 得るであろ イスラム
よって 、如
中にあって 我
場合を説明し
日トコ げく目ご コり
下った﹂ 日ゃ
エ スの啓示 接
﹂
ドは ︵心魂
はコ ㏄︵の珪で
ココ の︵ 口 なる 語
ア ッヲ ︶の 竪
﹂とを意味す 一九 304
の 主張を明白
スト 教 よりも
のものに 就プ ・ -
。寧ろキ便
ゆ があろの プ
る内在化の
度の内在性 ぺ -
越 になる場合
多い , 然るに
く 、内在的要
在 化は神秘主
と 内在性とは
ヰ 超越の関 仔
てある,この
はない。然も
る :之に対し
われる,但し
- ての内在 % 超 越 には直ちにならない事が多い。
大的Ⅰ体性
中のて リ ことその
ものてある
万
。哲学
於ォ,
-
行う 念の 有名 は 出 して 人格n,,-
具体 と こ 申 詞某某桂
そ的の
教
れをが先攻。
とにを
ぬ の木具
ばしな
千古注
、
ホ 万 ; 」 一哲
行田全て即
質伸
此 教 諭
ri=2.に咲
事 来るう オ ー こ ロ 呼ば ち既 が規 R。 ,
りょの問 自体はで擁れ成定宗
題 と し クつ 致 あ さ る 宗さ 教を宗
て方
甲去 一
ノ、な
なこ : こと 常 で 歴 什 神学 @ 万ニ,
.、 、
ァ し ・ - 学とと具はあ
る或て
人の
る 再会仁
戸
即教
,は子羊 祖 しけ る 田祖の学にのれ
体じ題お
刀圭の
於存 を的
たに
る 良 BⅠ
ょ
否定 尤ツ Ⅰ・ こ 触れ 言 なは股一す
構 思た此
にと
相の的ける
幸 於 じ有ナ
- ゼ
自己の
ているからで
口
福音書の三寸口
目垢
0 三三ヨ
も
念
に包摂され
てゐる占に
特
色
があると考えるのである。
れるもので
ぅ
ものは示さ
教は啓示宗教
あると言
う場
ノ Ⅰけは
木 Ⅰ
人 Ⅲ
る亡示
教は成立しないものと考えられる,
帥に
於て
千オ 啓示
諭 し
留
し続けるこ
哲学的形而上
せば此の種の
の 仁田Ⅰロロ
0 。
ら ・
研究報告
306 す二苦渋かな
苗干劣
・ わ 勾の名玉るく
一 ヰ Ⅰ。
Ⅰ 埼 る と よ で 一 こ逆の
力、
自然的理性
工学の規定
、この規定
教 哲学的な
当のように 思われるのである。 一 一
理性に立脚
である神学か
テレスの 、 @,p
なるに及んで
考えられる。
墓戸 て 神に
理論体系は要
は神と精神を
はなく哲学で ある事を断言している。即ち
㏄く戸ヨ日 格こ
由 ︵ - 口目 ビプ e.
由っ ㌃ no ︶ a, ち ・ 円 ・せこ , ︶ ム ︶
ようとするの
を 啓示に依る 一一一一
であり、自然 的な理性に依るものであった ,
づ 0 の㏄ 缶コ n,
内臣 0 の 0 の井口ⅠⅠ
・口口 の ︵ 0 団 ・ レ ・ 円 ・ せコ ・ N. ︶
であるかを 物
分離せしめる
づゴ圧 2 曲目 中
づ ・ 口 ∼・︶
結果になる
る 所説から 知 り 得るであろう。即ち
由 の 目 0 Ⅰ コ 眉目 り,
0 目 さ ゴロ コり -
目の で Ⅱ 0 Ⅰの C 庁 O
口口の カゴノ 曲の
肚 0. ︶
。換言すれば
。スピ ノ が
ぶ
て 彼に於ては
研究報
苦る 場合は 、上
に 還元出来な
思われる。 四
ればならな
ない。 カソト
巴ヴ 卸の r0r の・
なものである
て 、マスク・
のである。
0 口目Ⅰ。才色の
Oese 鯨お ・
目安
いコ の コ曲 りぃ目 m ︶ eiC ゴ
︵再のⅠ mmwo コ
ⅡⅡの由の
開存在は語ら
があると次の 如く述べているが、
Ⅰの︶の ゴぃ仁 円目
トい ヌト Ⅱ ロの ゴ の 円ソ
Ⅰ あ 。曲の ヨ 0 コ ・
くのである, 308
古神
来道
神サこ
道於
神
道
ほ げ 放 る 一 ナし Ⅰ セい最
用ぎ て も廿
@ サノ Ⅰ甲の
祓的
な
( こ罪
よ 簾 と つ ろし責
て の任
罪一
や っ礒は
が祓
ⅠⅠ へ除で
かあ
野
牙L
る禍
祖
を避
け教
の ・昔、 ィザナ
/ 、 為に ヅクジ
事 に由来する
、 祓の一種で キめプ の ,
継承され 下 -
と思 - ブリ 然し
題を含んで 居
柄 である。
と 信ぜられ
て 意味を有・ 丁
悪 二元の対立
それは 又
の間 題 であ っ
ろから、責任
るか、そ うい
とキ - の 立場を 検討しょうとするものである。 一
、木性が神 々、から流れ出ている人間でおる ,
々の意志を
よ う に行動し
ちょうな左ふ 江 ナ ・ - なければならない
- Ⅰ
らな Ⅱ
ヒ ・Ⅰ キりつノ
にし 千 - いる。 こ うい 5 人間の行為 こ - てが マコトである
間性の善 な
らない。
除する。
や人間が悪
つノ, - 許される
ころである
ものと せ り ム ﹂
間の世界であ
、禍事はもう
撰 康国又は根
。もち 来 ずもの
霊 であ , 0 。
の 禍事を黄
正善なる 世兎 として 保 拷しょうとするものである
明 でお っ 二四
我
にながら
志姜つめ人
々 反 く あ でにない見聞
あ そ 一 ま 信 白 に 二 るれ然流ら
仰 な つ と 無 て、惇
も
莱
研院
にも整備したものである。
中引 はけ
明
白勺
寸も として了解は難・しくないであろう。
一 " 一
ら
尋思
仲
ば 真実にその
ない。主体は
かしめた当の ものこそ責任を追求されなければならない。
、救済され
られるべ き理 由 はない事になる。
お悪人とは
よ、 ナし L 。
ると思 う
免れる立場 にある。
の本は果し
のであるが、
ないか、この
みづからが 悪
ざるを得ない
倫理にもとる
ら な い 。 四
ものがある よ う に考えられる。
鈍磨させる 二五 310
フ に恩 @r,
ない限り、
悪 である 限
ればならない であろう。
らば、善を
らない。両者 は 人間の中で対等に戦 う 以外に出でない。
あって 、変
るであろう。
か 。 又 、悪
ことによって
性 の 悪と 烙印 すべぎであるだろう。
られるべき
みに求められ る 事柄ではないかと考えるものである。
イド主義 に
0 分野の開拓 に 特異な位置を占めている。
夏作用を検
ハ ーソナリテ
Ⅰ臣の由山井目打 円 。 臣 ︶
㏄ 宙 Ⅰ 目 0 け 甘 ㍉ 0 ︶
一般的名称﹂
固定した
様 態 ﹂を指す。一次的と二
︶とは家族 構
子供に対する
生計技術等を
数 、民話、思
ある。一次的
要 なのは親と
一一Ⅰ
、ノ
ガーディナーに於ける宗教の問題
岡田重
精
強制しその 結
度 はやがて 基
くる。換言
験を子供に与
ステレ 一 ジョ
投射︵ 田 qo.
ぜの n0 日︶を つ
次 的制度﹂と ょ ばれるのである。
,ゾの統
ヨ ︵ 日 P ︵ ュ Ⅹ︶
反応のタイフ
ソの 体験の虹 意識的表現から引出されるとも言 う 事が出来る。
即ちⅢ幼時
コ ソをつくる
に 永続的な影
レ l ジョ ソ に
l ゾ ナリテ イ
度の相違によ
バ一ソ チ Ⅱ テ ィ 構造が見出されるとする事である。
判 修正しう
研究報告
史 ︵ FP ︵の ゴず ・
果は殆ど一致 すると言 う のである。
った 彼の二
に 多少の異動 と 混乱を示しているという事である。
か り 荷妓で 参照したものは、
の p のら 0 の
の 下中 一 "
0 間 題性は
ち 基礎的コソ
ため起され
せ ㏄ ャ降 0 日︶ がある。
する子供の
達された プ - フ
ソに基 いて、 二七 312
作用により 樹
の間を観念 構
体 に帰せしめ
一つである ど
的に ア ニミ 、ズ
中核的経験︵ 例 、怠惰に対する 罰 ︶
︶Ⅰ・ 。・ , @
超越者
す -0 筆 。︶
ている。 即
体系︵㌧ 缶 三ャ
従と罰 、服従
られ、それが
之はタ ナヱ 抹
教は親ヱ,の関 係の投射されたものとして在る。
題 となる。
もとでは 親へ
の 艶を伴 う庄ホ 二八
に 近いー ,垂
感情からは 異
憎悪や敵意
意識的抑圧, ビ
である。 或
とっ /. リヨ 舟ヰ は
のあり方は
げを 乞 5 条件
時の無能の伏
に 処の既製の
に 遭遇した 場 合 自働的に用いられる,
律 でな い
フラストレー
れるとするの
大に於ける フ
ヨ ︶に る 其に なる。
凝 義も挿ま
ての通常範囲、
しても、例、。 ん
るがギ
はるもの、文体
段 と目的を誤 るもの て ・も・ある。
おるが、 現
づ Ⅱ卸 せヂ螢 ・ 隼 ゴロ・
於ける淫薬 が
陀の成道は正
0% 意 を現 法
已弁 ﹂しだ 仏
子達の教団は
考えられる。
来ることは 極
を 根絶して 現
第五の四 セ経
更に同十集 第
するとなすの
るものかおる
る 無上梵行の
,くものは経典
心 解脱慧解脱
は増 支部中に
法 淫薬の文字
居ることにな 二九
親接淫薬
はついて
佐藤留雄
し
中部第
口四 見 中の第
言 はれるもの
ば浬薬 なりと
するもの、 第
王摂 するもの
欲 菜乃至 禅楽
が、 此の点を
楽 主義者であ
研究報告
あり、その他
ず
次の観点は
重要な意義をもち、示唆を含んで
い
ると思はれる。
放
る発生的
個人の両面か
化
乃至行動の
的
断面に於て
のみ取扱はれることの盲点を衝くものであろう。
314る 。 一
㌔の - る 。 - 千 -. し
テ
よ
@ Ⅰ 、 @死苦愛憎 お
ほ 愛を断じ ダ ・ -
になる。従 っ
なり、生死等
らないし、 仏
愛 足と 二 ・ - 解脱
ら 、客観的に
るにもか ュ は
年間を老病死
がおり宗族の
不幸造あっ
されて 必す し
成道後の仏陀
汚 して紐帯 の
の 自覚は王 観
淫楽とは無常
苦 でなくなろ 三観々念の転化に外ならないとせねばならない。
おるならば 三 O
るべし、 かィ
がないから 皿
抹 して五 % 袖
我として否定
な ば自己の怒
体でわること
せしめた過程
間 感情の実体
でも楽でもな
とするのは 人
するからであ
しめんと欲す
はざるを得 さ
念を実体視 ナ
で おるが、 五
てして、此の
位を認め、感
解脱は苦を感
た の随順でお - Ⅰ ツ - Ⅰ し ﹂ 一 ﹂ ュはィ ハ イ 。 一 一
て 此に随順
易 なものとも
の 仏教主 て
ある。然し
そのこと
存在化す
事実と l ︶ て 現じ難いことである。
はウパ
る ﹂ことに
界を ル一ス
は 直ちに 存
否定される
ぬ とする 者
の転廻 でな
消 と考え ろ
知ること
、 此の修道
曲 事実化 す
呪法楽 住
事実化して
法浬喋 とな
薬が 完全に 実化した時に現法理 薬が 成立するものⅩ 様 てある。
研究報告
事 Ⅰ居がる
ので
れ ぐえ我
在 な究二
もるに 乍第
316神道の国内性と世界性
i天皇制の
過去と将来
津田敬
武た 奈良朝侍
は 遠く康史 時
第一世紀前後
ある。記紀の
るのである。
の時代は古墳
る 。 - ての墳墓
面 には、埴輪
代の人々は 、
拝んでいたの
神社の起原に 重要な役割を演じていると思 う 。
廟 とな呼ば
れる東照宮の
発達にも廟の 一一一一
% で、 - ての
﹂に改変する ことの具体的理解さの困難にある様である。
附加されだ場
の 要素として
然の帰結であ
にも認められ
を 記念するた
過ぎない。 キ
神社神道は 、
重大な問題を
教性 と世界性 が 認められる。
我が国体を
神を奉祀せる
られるのは、
木 国の象徴で
の 存する日大
として発達せ る 愛国心に基くものと解すべぎであろう。
となって 天
すると政治 組
は
人間であ
及び国民情 神
えて言えば 政
つィ 、天皇制 と 一一一二
が がりと相互
変化発達する 。ものであ -. 。
制度時代の
復古時代の天 史 が明かに 示 は 、過去の天 の 天皇制とな の 天皇制と切 しているのである。
られた経典
には、仏教を
加えたのであ
たのではな
,今後はキリ スト教によって培はれることも多いであろう。
は 完遂 す, 。
と 幸福に必要
0 。この事実
今後はこの 理
末 独自の民主
れを押し進め
本来の宗教的 317
力にょ らなければならない。
げればなら
後の国家的理
ばならないと 思う。
。この与え
れたのであ
の国家的祭祀
従って天皇の
それと同時に
国民は、 各 そ 。
本来神宮を遠
よって国民 会
て一 ヨロ,せんば 、伊
盤 である。 即
艮一体の関係
スム の神々を
に 神人一体の
へ ラクリタス
6 ヒといつた 思想と一脈相通ずるものがある。
某 天上の彼
て 努力を重ね
研究報告
従ってそれは
る
。かくて、
的
理想を求む
家
的理想の背
い
。それのみ
活
のうちに、
生かして行かなげればならない。
そのま二億
と
信じ・国民
らない。この
て
培はれて
莱
礎
もこ
よ
に
あ
ると
思、
︶。
された神社
設の上に
、更
進められて
行
出来る。即ち
につとめ、
二
Ⅱ リ
のである
0
である。
治的
民主主
二は社会的
民
すると共にす
一一一一一一
318ぅ ことが 出
らも、常に 枇
仏教に於ける否定と肯定の観念
田村芳朗
力ょ:ること べ :
-. この三つの
つ力 とな ,化ト
ある。神垣の
に 対してと っ
教 の泥土正義
安全を期する
様である, 台
めである。 従
、最近 やうぬ
某国家的立場
理想の特殊性
つて天皇制に
独自の民主 工
誠ヰ - あるべ ,ざ 必要が十分理解されるであろう。
空
に執われる
者
とを挙げている。
するにあっ
者の中に
虚蛆
され。道徳を
ラ
ン ト
批判してい
罪 、離
段等
定の虚無Ⅰ 王 三四
て れは過去に
ら 批判が向 け
陥り易いもの
に 存する。 事
及び 終部 系統
られるのであ
に 出て来
として、分析
於ける 但 空虚
﹁仏の国土を
の 法は空寂に
解品
︶とて示されて ぃ
リコ づき 5 目︶
対してもその
のような空見
が 、いわぬ る
して立て
ろの 意味に於て -
て ものであり
︵それが有で
生成躍動が
の 原理なるこ
て 有無両者の
︵ 日斡伍ゴせ俺ヨ川
しめるもので
に 進んで、 空
ての諸法実相
確立した︵ 観
とした諸法案 相の体系の中に包まれ生かされてくるのである。
げに止り 、
なお 空的 否定
観による諸法
かはての後に
未だ空見的で
か奴 ︵ づ Ⅰ い目 コ口 づ由ご
研究報告
三五相の現実への
わゆる実相と
は 空観のこ
を 知るのであ
否走論 に対し
桂の生じた -
展開は説かれ
ほ ついて見て
して転調律 管
かるに後期に
︶色彩が濃く
出来るのであ
の 旗薄あるこ
恵一乗 宝性論
展開をなすも
して、これは
諭 されている
わゆる法身 常
丸一如の現実
ては、現実に
が、こ 忘では
すべて空観の
え とっ ぎ 進む
が 見られると
つ ま づ ぎが 生 じても来るのてある。
:有の軸 見
実存在に対し
も 一の 有 約款
常住、有なる
て 破せられ、
るめ てある
故に 、 反って
二元対立を否
つ たことは,
あるとはして
に 即自的な同
てこの絶対的
依然として 相
みとなって 右
したがつ てま
、相対的な現
ゆる煩悩 即菩
結果すること
現実を現実 そ
てそこより 離 3
を
通って反っ
罪悪性と
L.
ぅ
落す
のとい、 ,
フ
採り上げら
面 が忘失され
して寂静的な
おこすものと
力因 として
蛆
しても完結せ
史的生成発展
% 鸞
、道元、
きながら、
そ
凡夫と久遠の
よ
る動力的な、
証の修なれ根生成を説
が
邪正一如、
待妙は
善として、善なる
破邪顕正を行
を
説き、彼自ま う