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カール5世、フランソワ1世、オスマン帝国、プロテスタント教徒―16世紀前半のヨーロッパにおける宗教と国際政治―

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カール 5 世、フランソワ 1 世、

オスマン帝国、プロテスタント教徒

―16世紀前半のヨーロッパにおける宗教と国際政治―

山 田 慎 人

はじめに

国際関係論の分野で、16世紀前半から17世紀半ばにかけてのハプスブルク優 越期のヨーロッパの国際関係について、以下のような二つの見方があることは、 すでに見た。第一に、この時期の国際関係は、皇帝権による西ヨーロッパの宗 教的統一を維持せんとする試みとそれへの反対が最大のテーマとなった、前近 代的な性格の強いものであり、そこからわれわれが学ぶことはないという見方 である。第二に、いわゆるハプスブルク帝国を、近代から現代の国際関係史に 繰り返し出現してきた、他の諸国に明らかに優越した力を持ち、覇権を追求し た勢力の初期の例とみなし、この時代の国際関係の歴史から学ぶべきことは多 いと考える見方がある。 この第二の見方については、すでに、1521~30年のイタリア戦争を中心とす る1510年代後半から1530年頃までのヨーロッパの国際関係を分析することに よって、少なくとも16世紀前半に関しては、それが誤りであることを明らかに した。ハプスブルク帝国は、その出現からしてヨーロッパ各地の王家の間の複 雑な婚姻関係の意図しない結果にすぎなかったし、その支配者となったハプス ブルク家のカールが意識的にヨーロッパの支配や覇権の確立を追求したことは なく、また、その存在は他の諸勢力によってヨーロッパの全般的均衡への脅威 とみなされることもなかった。イタリア半島を主な舞台とする1520年代の西 ヨーロッパの戦争は、ヨーロッパの覇権をめぐる戦いではなく、各地を支配す

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る王家の権利や名誉をめぐる争いであった1 しかし、それでは、この時期のヨーロッパ国際関係の前近代性を強調する第 一の見方については、どうであろうか。国際関係論の研究者が、当時の西ヨー ロッパ国際関係を前近代的なものとして軽視する最大の理由は、それが国家理 性ではなく宗教的熱情に支配されていたという彼らの見方にある。彼らの多く は、1517年に始まる宗教改革の運動が各地に広まった16世紀前半から1648年に 三十年戦争が終結するまでのヨーロッパでは、宗教的動機が政治的考慮よりは るかに重要であり、各国の対外政策は主に宗教によって決定されたと考える2 はたしてこのような見方は正しいのであろうか。 すでに見たイタリア戦争を中心とする1520年代の西ヨーロッパの国際関係に おいて、諸国の政策に最も強く影響した単一の要因を挙げるとすれば、それは 王朝の権利と栄光の追求であり、そこに宗教的熱情を見出すことは難しい。し かし、同じ時期にハプスブルク家のカールはバルカン半島及び地中海でイスラ ム勢力と戦い、西ヨーロッパでもプロテスタント教の普及という宗教的脅威に 直面した。イタリア戦争の分析から得られる、ヨーロッパ各地の王家が領土の 継承権や君主の個人的な名誉をめぐって争っていたにすぎないという当時の国 際関係についての印象は、イスラムの脅威やヨーロッパにおける宗教改革と いった、宗教と密接にかかわる問題へと分析を広げた際に、はたして大きく変 わるのだろうか。このような大きな問題関心を持ちながら、ハプスブルク家の カールが中心的な役割を果たした1520年頃から16世紀半ばまでのヨーロッパ国 際関係について概観する。

第 1 章 イスラム勢力との戦い、1520年代~1530年代前半

第 1 節 バルカン半島におけるオスマン=トルコ帝国の拡張 ハプスブルク家のカールにとって、ヴァロワ朝フランスと並ぶ最大のライバ ルは、言うまでもなく、15世紀半ば以降西方へ急速に勢力を拡大したオスマン =トルコ帝国であった。イスラム勢力は、バルカン半島と地中海という二方面 からハプスブルク帝国を脅かしたが、ここではまず前者から検討しよう。1453 年にコンスタンチノープルを陥落させたオスマン=トルコ帝国のスルタン、メ

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フメト 2 世は、その後も西方への拡大を続け、バルカン半島における征服を続 けると同時に東地中海における海上支配権をヴェネツィア共和国から奪った。 15世紀末から16世紀初頭に小休止したオスマン帝国の拡大は、1512年のセリム 1 世の即位と共に再開された。セリムは1517年にマムルーク朝を滅ぼしてシリ ア、パレスチナ、エジプトへと領土を拡大し、後にヨーロッパ諸国にとって海 上の脅威となる北アフリカ沿岸地域での勢力拡張への足がかりを得た。さらに、 1520年にセリムの後を継いだスレイマン 1 世は、翌年にはハンガリー王国に侵 攻し、ベオグラードを占領する。 オスマン帝国の西方への拡張は、当然のことながら、ハプスブルク家にも大 きな影響を与えた。カールの祖父マクシミリアンは、オーストリアに隣接し、 ヤゲロ家のウラースロー(ウラジスラフ)によって支配されたハンガリー王国 とボヘミア王国への野心を持ち、1515年には、ウラースローとの間で、両家の 間で二重の婚姻関係を結ぶという協定を結んだ。結婚が予定されたのは、ウ ラースローの息子で後継者ラヨシュとマクシミリアンの孫娘マリア(カールの 妹)、ラヨシュの姉アンナとマリアの兄フェルディナントであった。ハプスブ ルク家による介入を嫌ったハンガリーの貴族がこの協定を認めたのは、先に見 たようなオスマン帝国の脅威に対して、ハプスブルク家の支援が必要であると いう認識からであった。カールが1521年に弟フェルディナントにハプスブルク 家のドイツの世襲領の支配を譲ったのも、フェルディナントがハンガリーの防 衛に十分な貢献ができることをハンガリー側に示すという意図からである。 フェルディナントとアンナは1521年 5 月に結婚し、すでに1516年にハンガリー 及びボヘミア国王となっていたラヨシュとマリアの結婚は、トルコの攻撃とベ オグラード占領によって遅れたが、翌年 1 月に実現した。両家の間では、ラヨ シュが後継者を遺さず死去した場合、姉アンナとその夫フェルディナントが彼 の権利を継承するという取り決めがなされた。 実際には、カール及びフェルディナントは、オスマン帝国からの防衛という ハンガリーの期待に殆ど応えることができなかった。1526年には、オスマン帝 国軍がハンガリーに侵入し、モハーチの戦いでハンガリー軍に壊滅的な打撃を 与え、国王ラヨシュ 2 世も戦死した。オスマン帝国軍がハンガリーの大部分を 占領する中、フェルディナントは、結婚前の取り決めに従って、即座にハンガ リー及びボヘミアの王位を要求したが、実際には両国は選挙王制を採っており、

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彼の要求は両国の国会によって拒否される。その後ボヘミアは選挙によって フェルディナントを国王に選出したが、ハンガリーでは貴族の多数に支持され たトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュがヤーノシュ 1 世を名乗った。 フェルディナントは、1527年にクロアチア、スロヴェニアとハンガリー西部を 占領したが、トランシルヴァニアを支配するヤーノシュは、ハンガリーの大部 分を支配したオスマン帝国の保護を得てこれに対抗した。 フェルディナントは、この状況に対処するに十分な力を持たなかった。ハプ スブルク帝国全体ならまだしも、彼が統治するオーストリアのみから得られる 税収では、オスマン帝国軍からハンガリーを奪回するための兵力を準備するこ とは到底できなかった。また、フェルディナントは、キリスト教世界をオスマ ン帝国の脅威から保護するという名目で、神聖ローマ帝国内の諸侯の援助を期 待したが、後に見るようなドイツ内の宗教対立の激化によって、1520年代末に は、すでにそのような援助を得ることは容易ではなくなっていた。さらに、兄 のカールも、イタリアでの戦争に資源と注意を奪われ、フェルディナントを支 援する余裕は持たなかった。1529年 9 月末にスレイマン 1 世率いる10万の大軍 がウィーンを包囲した際にも、カールは兵力や資金を与えることもせず、唯一 の支援は、ドイツ諸侯に圧力をかけて、フェルディナントに資金援助をさせた ことであった。 幸運にも、1529年のウィーン包囲は、寒さの訪れとまぐさ不足によりオスマ ン帝国軍がひと月足らずで撤退することで、終了した。しかし、 3 年後の1532 年に、スレイマンは再び大軍を率いてウィーンに向かった。この時には、すで にイタリアでの戦争から解放されていたカールは、レーゲンスブルクの帝国議 会において、ドイツ諸侯から 3 万 8 千の歩兵、各 6 千の重騎兵と軽騎兵を提供 するという同意を得て、カール自身も 1 万 2 千のランツクネヒト、各 1 万のス ペイン及びイタリア歩兵、 4 千の重騎兵、 2 千の軽騎兵などを率い、オースト リアやボヘミアからの 5 万の兵力からなるフェルディナントの軍隊と合流し、 9 月初旬にレーゲンスブルクからドナウ川を航行してウィーンへと向かった。 しかし、10万を超えるスレイマンの軍隊は、千名に満たない守備隊によって守 られた西ハンガリーの 1 要塞の攻略に 3 週間を要し、すでに 8 月末にはイスタ ンブールへ向けて撤退を開始していた。カールはハンガリー中央部への侵攻を 考慮したが、神聖ローマ帝国諸侯が提供した軍隊が、帝国の領域外、つまりハ

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ンガリーでの戦争への参加を拒否したこともあって、断念した。その後、1540 年にはヤーノシュが死去するが、西ハンガリーをハプスブルク家が、ハンガ リー中央部をオスマン帝国が支配し、トランシルヴァニアはトルコ支配下で自 治を享受するという領土の 3 分割は、この後ハンガリーがオスマン帝国の支配 から解放される1683年まで続くことになる3 第 2 節 地中海におけるイスラム勢力の脅威 カールの生きた時代は、中世と近代の長い変わり目の一部であり、宗教的義 務と政治的便宜の乖離に直面してどのような態度を取るのかは、人によって大 きく異なった。例えば、カールやフェルディナントの祖父母であるカトリック 両王による1492年のグラナダ攻略は、異教徒との戦いを北アフリカまで拡大す る可能性を開いたが、この問題に関する二人の態度は全く異なるものであった。 信仰深いカスティーリャ女王イサベラと、女王の深い信頼を受けた、厳格な修 道院の改革者であり、カスティーリャにおけるイスラム教徒やユダヤ教徒の強 制的な改宗政策の推進者でもあった、トレド大司教シスネロスは、北アフリカ におけるキリスト教帝国の建設を夢見て、十字軍派遣を強く主張した。しかし、 より現実的な考慮を優先させた夫のフェルナンドは、ヨーロッパ、特にイタリ ア半島におけるアラゴン家の権利を確保することに力を割き、イスラム教徒に よるスペインへの攻撃を抑えるために、北アフリカ沿岸にいくつかの拠点を確 保するという限定的な目的を追求した。シスネロスは1509年に73歳の老齢にし て兵を率いて地中海を渡りオランを占領するなど精力的に活動したが、スペイ ンの北アフリカ政策を主導したのは、フェルナンドであり、1505年から1510年 にかけての数次の北アフリカ遠征の結果は、オランやトリポリなどいくつかの 拠点を占領し、守備隊を維持することに限られた4 スペインが北アフリカにおいて広大な土地を支配することの困難を考慮する なら、フェルナンドの政策は現実的なものであったが、沿岸部の拠点の保持と いう彼の政策は、スペインや彼のイタリア半島における領土をイスラム教徒の 攻撃から保護するのに不十分なことがすぐに明らかになる。1516年には、すで に地中海において船舶の掠奪や沿岸の町の襲撃によってキリスト教諸国に被害 を与えていた、ヨーロッパではバルバロッサの名で知られた船乗りに率いられ た東地中海出身の私掠船団がアルジェを占領した。バルバロッサは、アルジェ

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をスレイマン 1 世に差し出し、その州知事に任命されると同時に、数千のオス マン軍兵士の提供を受けた。バルバロッサは1518年に戦死したが、ヨーロッパ では同じ名で呼ばれた彼の弟が、スレイマン 1 世からアルジェの知事の地位と ハイレディン(信仰の擁護者)という名を与えられ、彼の後を継いだ。1519年 にカールは、シチリア総督に、ナポリの艦隊を率いて、サルデーニャ沖で活動 するハイレディン・バルバロッサの船団を攻撃することを命じるが、この作戦 は嵐による難破によって失敗に終わった。1523年には、カールは艦隊とスペイ ン兵をハイレディンの本拠地アルジェに送るが、これも嵐による艦隊の破壊に よって失敗に終わり、ハイレディンの船団は、スペインやイタリアの沿岸部で 略奪を繰り返した。1529年には、カスティーリャの艦隊が、バレアレス諸島最 南端のフォルメンテラ島沖でハイレディンの部下によってほぼ全隻捕獲され、 事態はさらに悪化する。 ハイレディンの船団による攻撃によって威信を傷つけられ、また地中海貿易 を失うことを恐れたカールは、その本拠地アルジェを叩くしか他に問題の根本 的な解決策はないと考えるようになる。1528年のアンドレア・ドリアとの提携 と、翌年 8 月のフランスとの和平により、いまやそのような作戦は可能である かに思えた。もっとも、カールの地中海における最初の大規模な作戦は、東地 中海へと向けられた。1532年春から夏にかけて、トルコのウィーンへの進撃に 対処するための準備に追われていたカールは、オスマン軍の力をそらすために、 ドリアにオスマン帝国支配下のギリシアへの海上からの攻撃を命じた。ドリア 率いる、彼自身の船にローマ教皇やマルタ騎士団の海軍も加えた40隻近くのガ レー船団は、 8 月にメッシナから出港し、 9 月にはペロポネソス半島東岸のコ ロンを占領し、守備隊を置いて引きあげた。しかし、ドリアがコロン救援のた めの十分な資金を調達できなかったことから、1534年春に守備隊はオスマン軍 に降伏した。また、同時期に、スレイマン 1 世は、彼のガレー船団を大幅に増 強し、オスマン海軍の総司令官にハイレディンを任命した。1534年 5 月、イス タンブールを出航したハイレディン率いる52隻のガレー船からなるオスマン帝 国艦隊は、ガリポリでさらに20隻ほど加えて約70隻の大船団を組み、南イタリ ア沿岸を攻撃した後南下し、カールの同盟者であるマレー・ハッサンが支配す るチュニスを占領した。 1535年 6 月、カールはついに 3 万の軍を乗せた74隻のガレー船と30隻の小型

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ガレー船、300隻の帆船からなる大艦隊を率いて、チュニスに向かった。ポル トガル、ローマ教皇、マルタ騎士団、ジェノヴァもガレー船を提供した。カー ルは、まずチュニスの手前にあるゴレッタ半島の要塞を攻略し、その後チュニ スに向かったが、ハイレディンは要塞陥落の報を受けてすでにチュニスを去っ ていた。カールは、チュニスの略奪を許し、マレー・ハッサンの地位を回復し、 ゴレッタ防衛のための艦隊とスペイン兵を残して、撤退した5。もっとも、作 戦の成功はカールの威信を一時的に高めたとはいえ、沿岸部の一拠点の奪回に よって問題が解決するはずもなく、地中海におけるイスラム勢力との戦いは 1535年以降も続いていく。 第 3 節 神聖ローマ皇帝と異教徒 ハプスブル家のカールは、1520年代を通じて、バルカン半島及び地中海にお けるイスラム勢力との戦いよりも、イタリア半島におけるフランスとの争いに、 はるかに多くの力を割いた。カールは、1529年の第一次ウィーン包囲にはフェ ルディナントの救援に赴かず、イタリア戦争が終わって初めて、1532年の二度 目の包囲に際して自ら軍を率いてウィーンの救援に向かった。また、地中海に おけるイスラム海軍の脅威に本格的な対処を試みるようになったのも、イタリ ア戦争が終わってからのことであった。 しかし、このことから、カールが、神聖ローマ皇帝としてのキリスト教世界 保護の義務を重視せず、ハプスブルク家の利益のみを追求したと結論付けるこ とは、間違っているであろう。後にも見るように、カールは、彼が重視した異 教徒や異端との戦いから資源と注意を奪うものとしてフランスとの戦争を望ま ず、それを自らの権利と名誉を守るための押し付けられた戦争とみなした6 もっとも、カールがイスラム勢力との戦いよりもフランスとの戦いに力を注 いだ理由については、この時代を研究する歴史家によって、むしろ自明のこと とされ、明確な説明はされてこなかったように思われる。この一つの理由は、 おそらく、フランスがヨーロッパ各地に散らばるハプスブルク領の中央に位置 し、スペインやネーデルラント、フランシュ=コンテとは直接国境を接してい たという、地理的条件にある。当時のヨーロッパの地図を見れば、フランスが ハプスブルク家にとって最大の危険であったことは、自明のことに思える。イ タリア半島においては、ハプスブルク家の所領はフランスと接していなかった

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が、カールが祖父アラゴン家のフェルナンドから受け継いだナポリ王国は、フ ランス王家の野心の対象であり、同じくフランス王家が狙ったミラノに関して は、カールはその領土は継承しなかったが、神聖ローマ皇帝の封土であり、そ の支配はナポリ防衛のために重要であった7 また、カールがイスラム勢力との対決に大きな力を割かなかった理由として は、イスラム勢力の脅威に限界があったことも、指摘しておくべきであろう。 二度のウィーン包囲に関して言えば、ウィーンはオスマン帝国軍の兵站能力の 限界を明らかに超える場所に位置し、その脅威は実際には見た目ほど大きくな かった8。また、地中海におけるイスラム勢力の脅威も、イスラム勢力が北ア フリカ沿岸に効果的な兵站システムと冬季の本格的な停泊地を確立しなかった こと、そして何よりもガレー船の航続距離が短かったことから、限られたもの であった9。カールとイスラム海軍の戦いは、「相互的な略奪の戦役」とでも 呼ぶべきものであり10、カールがイスラム勢力に決定的な打撃を与えられない のと同様、イスラム勢力がキリスト教諸国の安全に与えた脅威も限られたもの であった。 もっとも、王家の継承権や名誉に重きを置いた当時の支配者達の戦略的思考 には限界があり、戦略的要因からのみカールの選択を説明することはできない。 カールが特に1520年代にイタリア半島を重視した一つの大きな理由は、まさに キリスト教世界の保護者としての自らの地位を確保するために、イタリアにお いてローマ教皇による戴冠を受ける必要があると考えたことにある11。つまり、 カールにとってイタリア半島の支配は十字軍の前提であって、彼が1520年代に イタリア半島に資源を集中したことは、決して皇帝としての宗教的義務の軽視 を意味しない。 最後に、特にハンガリーにおけるオスマン軍との戦いには、帝国の他の部分 からの支援が期待できなかったことも指摘しておく必要がある。つまり、オー ストリアから得られる税収のみでは、バルカン半島におけるオスマン軍との対 決には不十分であり、ハプスブルク家は他の地域からの援助を必要としたが、 神聖ローマ帝国の諸侯は、帝国の防衛を超える目的を持つバルカン半島での軍 事作戦に協力する意図はなかった12 また、カールが1520年代の殆どを過ごしたスペインでも、バルカン半島での 戦争への協力を得ることは難しかった。カールは、1516年にアラゴン国王フェ

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ルナンド 2 世が死去した後、翌1517年にブリュッセルからスペインに渡り、カ スティーリャ王国及びアラゴン王国の支配者となった。しかし、カールは、 1519年初頭にもう一人の祖父の神聖ローマ皇帝マクシミリアン 1 世が死去した 後、 6 月には神聖ローマ皇帝に選出され、翌年 5 月にはスペインを離れ、ドイ ツに向かった。カールのスペインを軽視した態度は、特にカスティーリャにお いて強い反発を生み、1520年の大規模なコムネロスの反乱につながった。新国 王のスペインからの不在や、カールがネーデルラントから連れてきた取り巻き による要職の独占に対する不満を一番の原因としたこの反乱は、それが急進化 し社会革命に進む兆候に怯えた貴族達が国王側についたことで、1521年春には 鎮圧されたが、その後もスペイン、特にカスティーリャにおいて、カールのス ペイン外でのコミットメントへの反発は根強く残った。カスティーリャの人々 は、元々ナポリやシチリアなどイタリア半島のハプスブルク領がアラゴン家の 領土であったことから、イタリア半島におけるフランスとの争いすら、フェル ナンド 2 世によるアラゴン家の利益を重視した政策の継続であるとみなし、そ れへの軍事的財政的負担を強いられることを嫌った。彼らが、ドイツのプロテ スタント教徒との争いや、バルカン半島におけるオスマン帝国との争いに、巻 き込まれたくないと考えたことは言うまでもない。 スペインの人々のこのような態度は、カールがバルカン半島におけるオスマ ン軍との対決に消極的であった一方で、特に1530年代以降、地中海におけるイ スラム海軍との戦いにより大きな関心と資源を向けたことも説明する。地中海 のイスラム私掠船団は、スペインの地中海沿岸部の町に大きな脅威を与え、重 要なシチリア島からの穀物の輸入を危うくした。また、スペインには多数のモ リスコ、つまりイスラムからカトリックへの改宗者が存在し、彼らが北アフリ カのイスラム教徒と連携あるいは呼応して行動を起こす可能性もあると危惧さ れた。ハンガリーにおけるオスマン帝国軍との戦いが、オーストリアのハプス ブルク家の利益にのみかかわる問題であるとみなされたのに対して、地中海に おけるイスラム海軍との戦いは、スペインからイタリア南部まで帝国の広い地 域で支持され、その分財政的な協力を引き出すことが容易であった13 このように、カールが1520年代にバルカン半島及び地中海におけるイスラム の脅威に本格的に対処しなかったことをもって、彼が神聖ローマ皇帝としての 宗教的義務を軽視したと結論付けることは間違っている。彼が積極的な行動を

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とらなかったことには、イスラム勢力の脅威が実際にはそれほど大きくなかっ たこと、イタリア半島での勝利がそれ自体皇帝としての権威の確立にとって重 要であると考えられたこと、彼の支配地の大部分においてバルカン半島での作 戦には支持が得られなかったことなど、多くの理由があった。カールは、キリ スト教世界の保護者としての自らの義務を重視したが、イスラム勢力の脅威に 関して言えば、それに対処するための十分な資源を持たず、また、そうするこ との現実的な必要性もそれほど高くなかったと言っていいであろう。そして、 彼は、イタリア戦争に一段落ついた1530年代初頭以降、地中海での作戦により 大きな力を割くことになる。

第 2 章 ドイツにおけるプロテスタント教の普及、1520年代~1530年代前半

カールが1520年代から1530年代前半にかけてフランス及びイスラム勢力との 戦いに力を奪われたことは、ドイツにおけるプロテスタント教の広がりを助け た。長年の苦悩と研究の結果として、人間は行為ではなく信仰によってのみ義 とされるという教理に達したヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン・ル ターは、1517年に、彼にとっては、まさに行為による義認の考えに依拠すると 思われた、カトリック教会による贖宥状の販売に異議を唱えた。信仰による義 認は、アウグスティヌスの著作などにも顕著に見られ、カトリック教の伝統に 根付いた教えであったが、ルターはそれを極端にまで押し進め、堕落した人間 に真の善行はそもそも不可能であり、逆に言えば、いかに罪深い人間でも信仰 の強さによって救済されると説いた。ルターは、当時の多くの人々と同じく、 自らが救済を得られないのではないかという恐怖に慄く、ルネサンスや人文主 義の影響を受けていない、典型的な中世後期の人間であり、彼の教えにも新し さはなかったが、過激な言葉遣いと教皇に対する挑戦的な態度によって、聖職 者の特権への不満が鬱積していたドイツにおいて、その後数年の間に爆発的に 彼の教えを広めることに成功した。事実、彼はカトリック教会に対して、徹底 的に非妥協的な態度を貫き、1518年には教皇使節の審問を受けて自らの教説の 撤回を求められたが、これを拒否し、その後もカトリック教会を批判する文書 を発表し続けて、1520年には教皇レオ10世から破門された。

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1520年秋、教皇はカールに使節を送り、ルターを神聖ローマ帝国の法律の保 護の外に置くことを要請したが、ルターの君主であるザクセン選帝侯フリード リヒ 3 世は、帝国のいかなる臣民も審問なしに追放されないという、カールと 選帝侯の選挙協約を根拠に、これに反対した。フリードリヒは、皇帝選挙の際 に、ネーデルラント育ちでスペインを支配する半ば外国人とみなされたカール に対抗する、ドイツ人の候補者として、選帝侯の間でかなりの支持を集めたと 言われる。カールにとってフリードリヒの反対を無視することは難しく、1521 年のヴォルムスの帝国議会にルターを召喚した。ルターに自らの考えを述べる 機会を与えることが、彼の教えのさらなる広がりにつながると恐れた教皇使節 は、宗教的な罪への教会の罰に対して世俗の君主に審問の権利はないと主張し、 カールはルターの召喚を撤回した。しかし、1521年 2 月にカールがルターの帝 国追放決議案を帝国議会に提出したところ、議会は審問なしでの追放に強く反 発し、結局、ルターが自説を撤回することを拒否すれば、帝国議会はルターの 帝国追放を受け入れるという条件で、ルターは召喚された。ルターは 4 月18日 の帝国議会において自説の撤回を拒否し、カールは翌日ルターを帝国から追放 する勅令を発布した。 カールは、 4 月19日の帝国議会において、異端撲滅のために自らの所領と所 有物、身体と魂を賭けると自ら宣言したが、事実、多くの歴史家は、皇帝のカ トリック信仰が非常に深いものであり、彼がキリスト教世界の宗教的一体性の 維持のための自らの責務を強く感じていたことについて、一致している14。実 際に、カールは、自らの権威が及ぶ範囲においては、極めて厳しく異端の迫害 を行った。すでにスペインでは、偽装改宗ユダヤ人の取り調べを主な目的とし て、1478年に教皇から異端審問設立の勅書を得て、1480年代にはその活動が本 格化していたが、カールは異端審問の制度と組織を利用して、効果的にルター の教えがスペインに広まるのを阻止することができた。1550年代末には、セ ビーリャやバリャドリードでプロテスタント教徒の集団が摘発されたが、その 迫害と共に、スペインにおけるプロテスタント教は消滅した15。ネーデルラン トにおいては、ルターの教えは1520年代初頭までに爆発的に広まったが、カー ルは1521年にフランドルにおいてルターの教えを禁じて彼の著作の焼却を命じ、 同様の措置はその後ネーデルラントの他の多くの地域で取られた。さらに、翌 1522年にはネーデルラントにおいても異端審問を設立する。迫害によってル

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ターの教えそのものの普及を阻止することは不可能であり、これは16世紀半ば 以降大きな問題となっていくが、短期的には、異端審問は一定の効果を示した。 自分達の力の限界を認識していた審問官は、聖職者や書籍の販売者、学校教師 や行政官など、最も失うものが大きい知的エリートにターゲットを絞ることで、 プロテスタント信仰を個人の内面に押しやることに成功し、プロテスタントの 宗教組織の設立を防ぐことに成功した16 しかし、このような徹底的な対応は、帝国憲法の下で領邦諸侯や自由都市が 実質上の政治的独立を維持したドイツでは、不可能であった。事実、ルターを 帝国から追放したヴォルムス勅令に効果はなく、ルターはザクセン選帝侯に よってヴァルトブルク城にしばらく匿われた後、ヴィッテンベルクに戻り、そ の後自由に活動した。ルターの著作も、勅令に反し、ドイツの各地で印刷され 堂々と販売され続けた。このような状況で、1520年代半ばまでに、いくつかの 自由都市、さらには、ルターを匿ったザクセン選帝侯フリードリヒ 3 世、ヘッ セン方伯フィリップ 1 世、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク、 彼の弟で、1525年にプロイセンのドイツ騎士団領を解散して初代プロイセン公 となったアルブレヒト 1 世など有力諸侯までがルター派に改宗していく。 これら都市や諸侯のルター派への改宗の経緯は複雑であった。聖職者の特権 への反発は、ルター派の運動の広がりの大きな原因となったが、いくつかの都 市では、一部のグループが、ギルド指導層による寡頭制支配を打倒するという 政治目的のために、ルターの教えが大衆に広まりつつある状況を利用した。諸 侯のなかには、ザクセン選帝侯やブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯のよ うに、宗教改革への真摯な欲求に動機づけられて改宗した者もいたが、他の多 くの諸侯や都市政府は、ルター派の運動が急進化する危険を感じて、それを上 からコントロールするために改宗した。ルター自身、自らの教えが大きな原因 となって発生した1524~25年のドイツ農民戦争に社会革命の危険を見ると、領 邦教会の必要性を認めて、ザクセン選帝侯が領内の教会の首長となり、その運 営をかなりの程度管理することを承認した。領邦教会の成立は、新教へと改宗 した諸侯に、教会財産を独占し、教皇及び皇帝からの独立を強める機会を与え た。諸侯が単に自らの権力の強化のためだけに改宗したという見方はあまりに 単純にすぎるが、多くの諸侯が、宗教的動機の強弱にかかわらず、改宗によっ て得られる経済的政治的利益を考慮して行動したことに疑いはない。

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このように、1520年代のドイツでルター派は急速に普及したが、この間、神 聖ローマ皇帝選出直後の1520年から1521年の間を除いて、カールはドイツから 不在であった。帝国全体ではいまだにカトリックの諸侯や都市が多数派であっ たが、皇帝のリーダーシップが存在しない中、ルター派の弾圧が暴力的な反発 を生むことを恐れた帝国議会は、将来の宗教会議においてドイツの宗教問題に 包括的な解決が得られるまで問題を先延ばしするという態度をとったため、ル ター派への対処は諸侯や都市に委ねられ、ドイツにおける宗教的分裂は着実に 深刻化していった。1526年のシュパイアーの帝国議会では、実質的に、ドイツ 諸侯が、将来における宗教会議の開催まで、領邦内の宗教問題を決定する暫定 的権限を得た。1529年の二度目のシュパイアーの帝国議会では、皇帝の摂政 フェルディナントが諸邦が宗教決定権を持つことを否定し、多数はこれを支持 したが、ザクセン選帝侯ヨハン、ヘッセン方伯フィリップを始めとする諸侯や 16の帝国都市代表がこれに抗議した。 イタリア戦争に勝利し、ボローニャで神聖ローマ皇帝として戴冠されたカー ルは、1530年に、アウグスブルクで帝国議会を開くためにドイツに帰還した。 カールは、プロテスタント派の間で教義の細部をめぐる対立が顕在化してきた こともあって、当初、状況を過度に楽観視していた。彼は、プロテスタント教 徒の宗教的確信を過小評価し、宗教対立を、プロテスタントを含む宗教会議に よって解決できる、教義のささいな違いをめぐる争いに過ぎないと考えた。し かし、カールの幻想はすぐに打ち砕かれる。カールは、教皇に公会議開催の必 要性を説いたが、公会議が教会改革と教皇の権威の弱体化につながることを恐 れるクレメンス 7 世は、これを拒否した。また、公会議が開催されたとしても、 プロテスタント派がこれに出席したかは疑わしい。彼らが要求したのは、教皇 を除外したドイツのみの宗教会議であった。アウグスブルクでは、両宗派の間 で教義をめぐる論争が行われ、その過程でルター派を代表するフィリップ・メ ランヒトンが「アウグスブルクの信仰告白」を発表するが、この論争は両派の 教義上の妥協が困難なことを示した。帝国議会は、最も極端なカトリックの立 場を具現化した暫定的な文書をもって休会したが、これは武力をもってのみ押 し付けることが可能なものであり、カールはそのような力を持たなかった。フ ランスやオスマン帝国といった他のライバルの存在もあって、ドイツ諸侯の支 援なしにカールはドイツで軍事行動を起こせそうになかったが、プロテスタン

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ト派の増大を懸念するドイツのカトリック諸侯も、彼らに対する軍事行動がハ プスブルク家の力を強めることを恐れ、カールに協力する意図は持たなかった。 カールは、1531年 1 月に、カトリック派の選帝侯の支持を得て弟フェルディ ナントをローマ王、つまり神聖ローマ皇帝の後継者に選出させることに成功す るが、ザクセン選帝侯は選挙への出席を拒否し、カトリック諸侯のうちおそら く最も強力であったバイエルン公国を共同統治したヴィルヘルム 4 世とルート ヴィヒ10世の兄弟も選挙は無効だと主張した。カトリック陣営の分裂に勇気づ けられ、また、フェルディナントのローマ王選出に危機を覚えた、ザクセン選 帝侯とヘッセン方伯を中心とするプロテスタント諸侯や都市は、1531年 2 月に プロテスタント信仰と諸侯の権利を防衛する目的で、シュマルカルデン同盟を 形成した。それまでの帝国諸侯の同盟が皇帝の名の下で行動したのに対して、 シュマルカルデン同盟は、皇帝に堂々と反対し、諸邦の主権への要求を含む点 で、画期的なものであった。 1532年のオスマン軍のウィーンに向けての進軍により、カールはプロテスタ ント諸侯との妥協を余儀なくされ、プロテスタント教の存在を暫定的に承認し た。カールはオスマン軍の脅威が去った1532年以降再び長期にわたってドイツ を離れるが、1534年には、ヘッセン方伯フィリップが、1519年にカトリック諸 侯の同盟軍によって占領されていたヴュルテンベルクに侵攻し、ルター派の ヴュルテンベルク公ウルリヒを公位に復帰させた。フェルディナントはこれに 対して有効な手を打てず、翌年自らのローマ王選出へのプロテスタント諸侯の 同意と引き換えに、ヴュルテンベルクの喪失を認めた17

第 3 章 フランソワ 1 世の異教徒と異端との協力、1530年代前半

ドイツにおける宗教改革の進展をめぐる前章における分析から、当時の国際 関係が宗教的熱情に支配されていたという見方があまりに単純にすぎることは、 すでに明らかである。ルターの教えを受け入れたドイツの諸侯は、少なくとも 部分的には、教会財産の没収と皇帝からの独立という経済的、政治的動機に動 かされたのであり、さらに、カトリック教徒のバイエルン公は、後により詳し く見るように、ハプスブルク家との対抗関係から、カール及びフェルディナン

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トに対して、新教諸侯と提携した。 この点でさらに興味深いのが、フランス国王フランソワ 1 世の政策である。 フランソワ 1 世が1525年のパヴィアの戦いで降伏し捕虜となった直後、国王の 母サヴォワ家のルイーズは、スレイマン 1 世に使節を送り、スルタンの軍事援 助がなければ、カール 5 世は「世界の支配者」になると警告した18。ミラノの 奪回を決意するフランソワ 1 世も、1528年に同盟を締結したサポヤイ・ヤーノ シュを通じてスレイマンとの接触を保ち、1530年にも、おそらくオスマン帝国 軍のイタリア半島攻撃を実現するために、イスタンブールに使節を派遣した。 1532年 3 月には、フランソワは、ヨーロッパへの遠征を準備するスレイマンに、 ハンガリーではなくイタリアに軍を向けるよう説得するため、使節を派遣した。 オスマン帝国軍のバルカン半島への侵攻は、ハプスブルク家と他のドイツ諸侯 がトルコの脅威に対して団結を強めることにつながり、神聖ローマ帝国内の反 ハプスブルク勢力との提携を模索したフランソワの外交の障害になると考えた からである19 事実、ハプスブルク家のフェルディナントがローマ王に選出された直後の 1531年 2 月、ドイツのプロテスタント諸侯はフランスの援助を求めたが、これ に対してフランソワは 5 月にドイツへ使節を派遣し、シュマルカルデン同盟を 形成した新教諸侯と、二人のバイエルン公の間をとりなして、10月にはシュマ ルカルデン同盟とバイエルンに反ハプスブルク同盟を形成させることに成功し た。フランソワは、ハプスブルク家からの防衛のために資金援助を約束する以 上の関与は拒否したが、時を置かずしてヴュルテンベルクの軍事的征服への協 力を申し出た。1532年 5 月には、フランス、ザクセン、ヘッセン、バイエルン が反ハプスブルク同盟を形成し、フランソワは来るべき戦争における資金援助 を約束した20 ヴュルテンベルクに対する攻撃は、オスマン軍がウィーンに向けて進軍し、 フランソワが懸念した通り、ドイツ諸侯が皇帝と協力してこれに対処する必要 が生じたことから延期されたが、1534年初頭には、フランソワの資金援助を得 て、先に見たように、ヘッセン方伯がヴュルテンベルクを占領し、ルター派の ヴュルテンベルク公ウルリヒを公位に復帰させた。フランソワは、その後も、 ドイツの新旧両派を反ハプスブルクの同盟に糾合するために、1534年のバーデ ンの帝国議会に使節を派遣し、メランヒトンをはじめとする著名な新教徒を招

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いてローマ教会との和解を演出しようと図った21 また、この間、1533年の 7 月には、ハイレディン・バルバロッサの使節がフ ランソワと会見し、直後には、スレイマン自身の大使がフランソワと会見し、 ハプスブルク家との戦いにおいて軍事援助を申し出た。スレイマンはペルシア との戦いに力を奪われ1534年中にヨーロッパに侵攻することはできなかったが、 先に見たように、ハイレディンに命じてチュニスを占領させた。ハイレディン はチュニス占領後の11月にも、フランソワに使節を送っている22。1533年10月 の教皇クレメンス 7 世との会見において、フランソワは、「私はキリスト教世 界のスルタンによる侵略に反対しないのみならず、明らかに私と私の子供達に 所属するにもかかわらず、皇帝によって不法に強奪されたもの[ミラノ公国] をより容易に取り返すために、出来る限り彼を支持する」と述べたと言われ る23

第 4 章 相次ぐ戦争、1530年代半ば~1550年代半ば

フランソワ 1 世のオスマン帝国との協力に典型的に見られるように、当時の 支配者が自分や自分の家の利益や栄光を宗教的義務に優先させた例は枚挙にい とまがない。しかしながら、ハプスブルク家のカールの例に明らかなように、 彼らが宗教的考慮を完全に無視したという見方も、同じく誤りである。当時の ヨーロッパ国際関係における宗教の位置づけについてよりバランスのとれた理 解を得るために、1530年代半ば以降の、カールとフランソワのミラノをめぐる 争い、カールとオスマン帝国、ドイツのプロテスタント教徒の戦いを、引き続 き概観していこう。 第 1 節  ミラノをめぐる戦い、束の間のハプスブルク=ヴァロワ協調、ドイツ における宗教的和解の試み、アルジェ遠征、1536~1541年 フランソワ 1 世が、1530年代前半に、オスマン帝国やドイツのプロテスタン ト諸侯との協力を模索したのは、ミラノ奪回を狙っていたからに他ならない。 1535年11月にミラノ公フランチェスコ・スフォルツァが後継者を残さず死去す ると、フランソワとカールの激突は不可避になる。カールは神聖ローマ皇帝の

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封土であるミラノ公国への権利を保持しており、フランソワも1520年代のイタ リア戦争の和平条約である1529年のカンブレー条約でミラノへの権利を放棄し ていたが、自らの次男オルレアン公アンリがミラノ公位を継ぐことを提案した。 しかし、カールは、アンリがフランス王位に近すぎること、すでに妻のメディ チ家のカトリーヌを通じてウルビーノ公位の継承権を主張でき、ミラノ公位も 得るとヴァロワ家のイタリア半島での力が強まりすぎることなどを理由に反対 した。フランソワの次男アンリが王位に近すぎるという反対の理由を、単なる 口実とみなすことはおそらく間違っている。当時若年での死亡率は非常に高く、 実際に、翌1536年 8 月に、王太子フランソワは18歳の若さで死去し、アンリが 王太子となる。 フランソワ 1 世は、1536年 2 月、サヴォイア公国を突如攻撃し、 3 月にはサ ヴォイアを占領してピエモンテに侵攻し、トリノも占領下においた。フランス 軍はミラノ領には侵入せず、フランソワはカールの権利を侵していないと主張 したが、カールの義弟かつ同盟者であったサヴォイア公カルロ 3 世への攻撃は カールへの明らかな挑発であり、サヴォイアの占領を、ミラノをめぐる交渉の 取引材料、あるいは、交渉が失敗に終わった際のミラノ攻撃の拠点としようと 考えたことは明白であった。 カールは、フランソワに対して、三男アングレーム公シャルルがミラノを得 るか、あるいは、カールが勝てばブルゴーニュを得て、フランソワが勝てばミ ラノを獲得するという条件で、カールと決闘するかの選択肢を提示した。この 決闘の申し入れは、カールが中世的な騎士道精神に強く影響されていたこと、 彼がフランソワの行動を自らの名誉を汚すものと捉えたことを示す興味深い事 例だが、ローマ教皇パウルス 3 世は、両者の決闘を禁じ、調停を試みた。この 調停は不調に終わり、カールは自ら軍を率いて 7 月にプロバンスに侵攻し、低 地帯からもフランス領を攻撃した。 しかし、カールの帝国軍は、その進路にあるすべての村の農民に精穀機を解 体して農具を持って移住させ、マルセイユやアルル、ローヌ川沿いの要塞を補 強して守備隊を置き、自らもアビニョンに築いた砲兵隊によって保護された堅 固な野営地に籠るという、フランス軍総司令官アンヌ・ド・モンモランシーの 優れた防衛戦術の前に、何も成し遂げることなく、秋の訪れと共にプロバンス から撤退した。カールとフランソワのイタリア半島北西部及び低地帯での戦い

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は翌1537年春にも再開されたが、双方とも財政的に疲弊し、低地帯では 6 月に、 イタリア戦線では11月に休戦が締結された24 この間、1537年の夏には、イタリア半島で反ハプスブルク共同作戦を行うと いうフランソワとスレイマンの了解に従って、ハイレディン率いるオスマン海 軍が、航続距離の短いガレー船によるイタリア攻撃の拠点を得るために、ヴェ ネツィア支配下のコルフ島を攻撃した。バルバロッサのコルフ島への攻撃は、 失敗に終わったものの、西ヨーロッパの国際関係にも大きな影響を与えた。そ れは、ヴェネツィア共和国に、レヴァント貿易のために長く維持してきたオス マン帝国との協調関係を断つことを決意させ、西ヨーロッパで十字軍への機運 を高めた。1538年 2 月には、ローマ教皇、ヴェネツィア、カール及びフェル ディナントが、オスマン帝国を敵とする神聖同盟を締結し、フランソワに対オ スマン帝国十字軍に協力するよう圧力をかけた。カールとフランソワは、1538 年 6 月、ミラノやその他の問題に関する相違を棚上げしたまま、10年間の休戦 に調印した。 7 月には、フランソワの招待でカールがフランスを訪問し、ロー ヌ川河口のエーグ=モルトで会談した。12月に、両者は、王太子フランソワの 死後オルレアン公そして王位継承順位第二位となったシャルルがカールの娘か 姪と結婚し、カールの息子フェリペがフランソワ 1 世の娘マルグリットと結婚 し、フランソワは対オスマン帝国十字軍に参加するという協定を締結した。 このようにフランスがカールとの協調路線に転じたのは、1536年の帝国軍の プロバンス侵攻への巧妙な対処によって宮廷での影響力を強め、フランス外交 を指揮するようになったアンヌ・ド・モンモランシーの影響によるものであっ た。彼は、ミラノ問題の交渉による解決を望み、カールとの協調関係を構築す ることで、平和的にオルレアン公シャルルへのミラノの譲渡を得ることが可能 だと考えた。つまり、フランソワにとって、十字軍に参加するという約束は、 ミラノの獲得という王朝の利益を実現するためのリップ・サービスにすぎな かった。フランソワが、重要な外交及び戦略的カードであるスルタンとの友好 関係を維持するために、カールとスレイマンの仲介を図り、十字軍の実現を阻 止しようと努力したことは言うまでもない。 これに対して、フランソワとの和解におけるカールの目的は、ミラノをめぐ る争いから自らを解放し、異教徒と異端への対処に全力を傾けることであった。 実際に、カールは、1538年 9 月、ジェノヴァ、スペイン、ヴェネツィア、教皇

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領の海軍からなるドリア指揮下の大規模な艦隊をコルフ島に派遣した。この艦 隊は有名なプレヴェザの海戦でハイレディンの艦隊に敗北を喫するが、カール はさらなる戦役を意図し、コンスタンチノープルへの遠征すら計画した。 全く異なる目的を持ったカールとフランソワの協調関係は、1539~40年の冬 に、カールがフランソワの招待で、フランス領内を通って、課税への反対から 深刻な反乱が発生したネーデルラントに赴いたことで、頂点に達した。しかし、 両者の関係は、ミラノの将来について合意できなかったことで、再び崩壊する。 カールは、娘のマリアとオルレアン公シャルルが結婚し、この二人にネーデル ラントを与えることを提案したが、ミラノにこだわるフランソワはこれを拒否 し、1540年初夏には両者の交渉は決裂した。カールとの協調政策を推進したモ ンモランシーは失脚し、10月にカールは長男フェリペにミラノ公位を授与し た25 しかし、フランソワに財政の立て直しと同盟者の獲得なしに再び戦争に訴え る力はなく、カールとフランソワの協調関係の終焉は、すぐさま両者の戦争に 至ったわけではない。カールは西ヨーロッパにおける平和を利用して、ドイツ における宗教問題とイスラム勢力の脅威に精力的に取り組んだ。1538年にフェ ルディナントはシュマルカルデン同盟の有力諸侯との交渉にこぎ着け、1539年 春には、 5 月にトルコの脅威への対処を協議するための帝国議会をヴォルムス で開催すること、そして 8 月には神学上の妥協に達するための帝国議会をニュ ルンベルクで開催することについて同意した。これらの帝国議会は大きな成果 を挙げなかったが、その後はカールも積極的に関与する形で、非公開の会合で 両派の教義上の妥協が図られた。しかし、1541年のレーゲンスブルク帝国議会 は、教皇代表が教義上の妥協を拒否したこともあり、失敗に終わった26 レーゲンスブルクの帝国議会は、カールの宗教政策の転換点になったと言わ れる。つまり、カールは、もはやドイツにおける宗教問題の解決は武力による しかないと決意した27。しかし、当面の間、西ヨーロッパでの平和は続き、 カールはイスラム勢力との対決に関心を集中させていった。とはいえ、先に見 たように、カールはバルカン半島でのオスマン帝国との対決には一貫して消極 的であった。弟フェルディナントは自らの決断で1540年秋にドナウ川の向こう 岸に軍を送り、商業都市ペストを占領することに成功するが、ブダの攻略には 失敗し、1541年にはスレイマン率いるオスマン軍によってブダとペストを共に

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奪われた。この時にも、カールは、オスマン軍と対決するための軍を組織する 財政資源がないという理由で、ハンガリーへ救援に赴くべきだとする教皇とド リアの要請を拒否した。カールの意図は、より現実的な地中海での作戦にあっ た。 1541年の秋、カールは、 1 万 2 千の船員及び漕ぎ手が乗船する65隻のガレー 船と450隻のそれ以外の船に、 2 万 4 千のスペイン、イタリア、ドイツからの 兵を乗せて、北アフリカにおけるイスラム教徒の私掠船の本拠地であるアル ジェに遠征に向かった。カールは、比較的小規模な兵力で遠征して財政負担を 減らす目的で、オスマン帝国海軍に反撃の時間的余裕を与えないよう、地中海 における戦闘シーズンの終わりにあたる秋にアルジェ遠征を行った。しかし、 ドリアがこの決定に反対したように、この時期の遠征には気候上の危険を伴い、 事実、カールの海軍は、10月下旬にアルジェ沖で嵐により多くの艦船及び兵力 を失った。カールのアルジェ遠征は、約 1 万 2 千の兵員の損失を出して失敗に 終わり、地中海におけるイスラム勢力の脅威への根本的な対処が不可能である ことが、またもや明白になる28 第 2 節  さらなるハプスブルク=ヴァロワ闘争、オスマン海軍のツーロン滞在、 ハプスブルク=イングランド同盟、和平、1542~1544年 カールとの協調によるミラノ獲得の望みがないことに気付いたフランソワは、 表向きはカールとの友好を維持しながら、戦争の準備を始める。対外的には、 フランソワは、ドイツの新教徒とオスマン帝国との提携という、従来ながらの 政策を追求した。しかし、ドイツの新教徒との提携は、1535年にフランスにお いてもプロテスタント教の脅威が顕在化し、フランソワがプロテスタント教徒 への弾圧を強めたこともあり、失敗に終わった。先に見たように、フランソワ はドイツの新教、旧教諸侯を、反ハプスブルク同盟にまとめ上げるため、ドイ ツでの宗教的和解を演出しようと試みたが、ドイツの新教徒はもはやフランソ ワを信用せず、さらに彼の政策は国内のカトリック強硬派の反対を受けた。 1540年 5 月に、フランソワはシュマルカルデン同盟との接近を試みるが、フラ ンス国内における異端弾圧、そして、過去 2 年間のフランソワとカールの接近 に不信感を覚えたドイツの新教諸侯はこれを拒否した29。このドイツの新教派 の態度は、彼らのフランスとの提携関係が、フランソワは自らカトリック教徒

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であっても彼らの信仰に理解を示していると言う幻想に依存していたこと、つ まり、彼らのフランスとの提携は宗教的考慮を度外視したものではなかったこ とを如実に示している。 フランソワのドイツ新教諸侯への接近が失敗に終わったのに対して、トルコ との提携に関しては、1540~42年に繰り返しスルタンに外交使節を送って交渉 を重ね、陸海での共同作戦の約束を得た。フランソワは、カールに対して、ア ルジェ遠征中には戦争に訴えないことを約束したが、それが失敗した後、1542 年 7 月にカールに対して宣戦を布告し、カールもこれに応え、ピレネー山脈沿 い、ネーデルラントの二方面で再び戦争が始まった。フランス軍のスペインへ の侵入はペルピニャンの要塞によってくい止められ、 8 月にフランス軍は撤退 する。低地帯においては、当初フランス軍が優勢であったが、1543年にはカー ル自ら戦地に赴き、帝国軍が反攻に転じた。地中海では、1543年夏にハイレ ディンのオスマン海軍がフランス海軍とマルセイユ沖で結合し、ドリアによっ て奪われたニースを奪い返した。フランソワは、オスマン海軍の冬の間の停泊 地としてハイレディンにツーロンの港を明け渡した。 8 か月にわたってツーロ ンはイスラム教徒の町となり、キリスト教世界に大きな衝撃を与えることにな る。 フランソワがオスマン海軍の支援を得たのに対し、カールの側ではイングラ ンドと手を組んだ。カールは、自分の叔母との結婚を無効と宣言し、ローマ教 会から離脱したヘンリー 8 世との同盟に躊躇と良心の呵責を感じ、両者の同盟 交渉は、条約においてヘンリーが英国国教会の首長であることを示す称号を名 乗ることを認めるのか等の細部をめぐって難航した。しかし、後に見るように、 カールの最大の関心は、フランスとの戦争をいち早く終えてドイツの宗教問題 に対処することにあり、そのためにはキリスト教世界の統一を乱したイングラ ンド国王との同盟もやむなしと考えたと思われる。1543年 2 月にカールとヘン リーは 2 年以内に共同でフランスに侵攻することを約した同盟を締結し、ヘン リーは 6 月にフランスに戦争を宣言した。さらに、12月、カールとヘンリーは、 翌年 6 月20日までにフランスに侵攻するという条約に調印した。また、フラン ソワのオスマン帝国との協力はドイツの新教徒の強い反発を招き、1544年春の シュパイアーの帝国議会で、カールは、帝国のいかなる臣民も宗教を理由に攻 撃を受けないという皇帝の個人的保証と引き換えに、フランスとオスマン帝国

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に対する軍事作戦のために 2 万 4 千の歩兵と 4 千の騎兵を 6 カ月維持するため の金銭を供出するという同意を得た。 1544年初夏には、帝国軍がネーデルラントからフランス領に侵入し、イング ランド軍も英仏海峡を渡ってカレーに入り、その後フランス領に侵攻した。 もっとも両者の狙いには、大きな違いがあった。カールは 8 月半ばにサン= ディジエの要塞を降伏させた後、撤退を進言する側近の反対にもかかわらず、 マルヌ川沿いのフランス側の要塞を攻略せずに放置して、直接パリに進撃する という危険な作戦に固執した。カールはフランスとの戦争を出来るだけ早く終 わらせてドイツでの宗教問題に対処することを強く望み、パリを脅かすことで、 早期にフランソワとの和平を得ることを期待した。カールは、当然のことなが ら、イングランド軍のパリ進軍を望んだが、ヘンリー 8 世の目的は、カレー近 郊の町ブローニュを奪うことであり、イングランド軍はブローニュを包囲して そこから動かず、 9 月14日にブローニュを攻略すると、戦闘を停止した。 カールのパリに向けての進撃は、イングランドの協力は得られなかったもの の、狙い通りの効果を持ち、 9 月18日にカールとフランソワはクレピ―和平条 約に調印した。条約は、両者が1538年の休戦以降征服した土地をすべて相手に 返還すること、そして、オルレアン公シャルルがカールの娘マリアあるいは フェルディナントの娘アンナと結婚することを定めた。カールは、オルレアン 公がマリアと結婚する場合にはネーデルラントとフランシュ=コンテを、アン ナと結婚する場合にはミラノを、婚資として与えることを約束した。どちらを 選ぶかは後にカールが決定すると定められた。条約の内容が明らかになった時、 パリの近郊にまで進軍したカールがなぜこれほどまで大きな譲歩をする必要が あるのか、人々は目を疑った。その理由は、同時に結ばれた秘密条約にあった。 秘密条約において、フランソワは、カトリック教会の公会議への反対を撤回し、 そこにフランスの司教を派遣すること、そして、ドイツのプロテスタント諸侯 がカトリックへの復帰に同意しなければカールに軍事援助を与えることを約束 したのである。カールは、条約締結の数ヵ月後に、条約において示された二つ の選択肢のうち、オルレアン公とアンナの結婚を選ぶことを決めたが、そのた めに長年にわたって膨大な資金と兵力を投入してきたミラノを手放していいと 考えるほど、宗教問題においてフランソワの協力を得たいという彼の願望は強 いものであった30

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第 3 節  第一次シュマルカルデン戦争、第二次シュマルカルデン戦争、アウグ スブルクの和議、1545~1555年 カールが、ドイツでの宗教問題への対処を急いだことは、1540年代初頭のプ ロテスタント勢力の急速な拡大を考慮すれば、驚くに当たらない。1542年、北 西ドイツにおけるカールの同盟者であるカトリック教徒のブラウンシュヴァイ ク公ハインリヒ 2 世が新教派の帝国自由都市ゴスラーを攻撃したが、シュマル カルデン同盟軍が介入して、ヘッセン方伯とザクセン選帝侯ヨハン・フリード リヒがハインリヒの領土を占領し、領民の改宗を行った。同盟の勝利は、改革 派を勢いづけ、1543年には選帝侯でもあるケルン大司教が宗教改革を受け入れ、 1546年にはファルツ選帝侯もこれに続く。すでに新教に改宗していたザクセン 選帝侯及びブランデンブルク選帝侯にケルン選帝侯及びファルツ選帝侯が加 わったことは、彼らがいまや 4 対 3 の数的優位に立ち、カールとフェルディナ ントの死後にはルター派の皇帝が選出されるであろうことを意味した31 このように、ドイツにおける宗教改革が新たな勢いを得るなか、カールは新 教派の諸侯を武力で打ち破って彼らの抵抗を弱め、同時に公会議において教義 上の妥協を得るという戦略を追求した。1545年 9 月には、フランスでオルレア ン公シャルルが急死し、彼がミラノを継承するというフランソワとカールの約 束は反故になったが、フランスはイングランドとの戦争が続いたことや財政難 により、ドイツへの介入の危険は低いと思われた。翌年には、カールの最大の ライバル、フランソワ 1 世が死去する。戦争が続いていたオスマン帝国とも、 すでにフランソワの仲介で和平交渉が始まっており、1547年 6 月には、実際に 5 年間の休戦が結ばれる。こうして、カールがドイツに集中できる環境は揃っ ていた32 もっとも、カールは、反ハプスブルク諸侯との正面対決が得策でないと考え、 彼らの間の分裂を利用して、シュマルカルデン同盟のリーダーであるザクセン 選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを孤立させようと努力 した。カールは、1546年の初夏に、ドイツにおけるハプスブルク家の強力なラ イバルであったカトリック派のバイエルン公ヴィルヘルム 4 世の子アルブレヒ トと弟フェルディナントの娘アンナの結婚により、バイエルンと同盟を締結し、 戦争中のバイエルン領の使用と物質的支援の約束を得た。新教諸侯では、なか でも特にシニカルで領土的野心が強いと言われたブランデンブルク=クルム

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バッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとザクセン公モーリッツに働きか け、支持を確保した。モーリッツに対して、カールは、又従兄のザクセン選帝 侯ヨハン・フリードリヒの領地と選帝侯位を与えることを約束した。カールは、 教皇パウルス 3 世からも、財政支援と兵力の援助を得た。カールは、 7 月20日 に、ザクセン選帝侯とヘッセン方伯に対して、ブラウンシュヴァイクの占領を 理由に、帝国法の保護の外に置くこと宣言し、宣戦布告した。 イタリア半島やスペイン、低地帯からの兵は 8 ~ 9 月まで到着せず、すでに 夏の間に軍を組織した新教徒側は、当初ドイツ南部を舞台とした争いで有利な 立場にあった。しかし、彼らは指揮の分裂と資金難から効率的な作戦行動がと れず、徐々に情勢はカールに有利になった。資金難からヘッセン方伯は撤退し、 ファルツ選帝侯やヴュルテンベルク公、自由都市アウグスブルク、ウルム、フ ランクフルト、ストラスブール等は和議を申し出た。自らの領土へのザクセン 公モーリッツの侵入を受けたヨハン・フリードリヒは、1546年末にザクセンに 戻りモーリッツ側の主要都市ライプチヒとドレスデンを包囲する。カールはザ クセンへと兵を進め、1547年 4 月、ミュールベルクの戦いでザクセン選帝侯の 軍を破り、彼を捕虜とした。ヘッセン方伯フィリップも娘アグネスの夫ザクセ ン公モーリッツの仲介でカールに降伏したが、ザクセン選帝侯の地位をモー リッツに奪われたヨハン・フリードリヒと共に幽閉された。 カールがシュマルカルデン同盟軍と戦っている間、イタリア半島北部の帝国 都市トレントでは、カールがその招集を長く望み続けてきた公会議が開かれて いた。しかし、この公会議はすでに大幅に時機を逸したものであった。1545年 12月に始まった公会議では、教皇のみならずイタリア、スペインの司教もカト リックの教義の再確認を要求し、1547年初頭には、ルター派の教義を拒絶した。 時を同じくして、ドイツの戦争がカール有利に進んでいることを見たパウルス 3 世は、皇帝の力が強くなりすぎるのを恐れて、ドイツから兵力を引き揚げた。 パウルスは公会議の開催地を神聖ローマ帝国の一部であるトレントから教皇領 のボローニャに移し、プロテスタント教徒は会議から引き揚げた。 このような状況で、カールは公会議による妥協を諦め、ドイツ内部で問題の 解決を図ったが、1547年 9 月に始まるアウグスブルク帝国議会は、カールの戦 争における圧勝にもかかわらず、大きな成果なく終わる。アウグスブルクにお いて、カールは、大胆にも、帝国の諸機構を廃止し、皇帝直轄の常設的な税や

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行政組織や裁判所、そして常備軍を持つ帝国諸邦の連邦を創設することを提案 した。しかし、この提案は、それを、彼らの力を弱め皇帝権を強化する試みで あるとみなして強く反対した、バイエルン公ら諸侯の反対によって、失敗に終 わった。確かに、諸侯の分裂を利用して自らの力を強めようとしたシュマルカ ルデン戦争前後のカールの戦略は、帝国の秩序と法を守らんとする皇帝の行動 というよりは、帝国内でのパワー・ポリティクスを操作する一領邦国家の支配 者のそれに近く、ドイツ諸侯の不安を高めるものであったに違いない。 宗教問題に関しては、カールは「アウグスブルクの仮信条協定」という名で 知られるようになる提案を行い、1548年に賛成多数で認められた。それは聖職 者の妻帯や二種の聖餐の許可などプロテスタント教に一定の譲歩を行ったが、 大筋においてカトリック教の信条を再確認し、公会議において宗教問題の最終 的解決が得られるまで、プロテスタント地域でカトリック教徒とカトリック信 仰を保護することを定めた。カールは協定に大きな期待を持ったが、協定は カールの軍隊が占領した地域かその近隣でしか守られなかった。プロテスタン ト諸侯はカールから他の分野で譲歩を引き出すためだけに協定に賛成し、実際 にそれを実行しようとしなかった33 実際に、1548年の協定は、ドイツに平和をもたらさなかった。1546~47年の 第一次シュマルカルデン戦争の最大の受益者は、いまやザクセン公領のみなら ずザクセン選帝侯領も支配し、選帝侯の地位を得たモーリッツであった。モー リッツは、1550年のアウグスブルク帝国議会の委任を受けて、皇帝の代理とし てマグデブルク等アウグスブルクの仮信条協定を拒否したプロテスタント派の 都市を包囲攻撃したが、メクレンブルク公ヨハン・アルブレヒト、プロイセン 公アルブレヒト、ブランデンブルク=キュストリン辺境伯ヨハンを中心とする 北ドイツのプロテスタント諸侯は、これに対抗してケーニヒスベルク同盟を組 織した。プロテスタント諸侯の敵意とカトリック諸侯の不信により自らの立場 が非常に危ういものであることを認識し、また、カールが自らの仲介で義父 ヘッセン方伯アルブレヒトの降伏を得ながら彼を投獄したことに怒るモーリッ ツは、ケーニヒスベルク同盟と接近した。これに気付いたカールは、ヘッセン 方伯を解放してモーリッツを懐柔するどころか、彼がその領土と地位を奪った 元ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒを解放すると脅した。この脅しは逆効 果を生み、1551年初頭、モーリッツはケーニヒスベルク同盟に加入し、これは

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