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鎌倉時代の佐竹氏

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鎌倉時代の佐竹氏

高橋  裕文

(要約) 佐竹氏は平安末期に常陸国奥七郡を支配していたが︑源頼朝の反

平氏挙兵後も参陣しなかったため︑頼朝により討伐されその所領奥

七郡は没収された︒しかし︑実際にはどうであったのであろうか︒

その後︑佐竹氏は頼朝の奥州征討に参陣し御家人となることができ

たが︑はたして奥七郡は回復できたのであろうか︒また︑その奥七

郡の支配構造はどのようになっていたのであろうか︒これらの問題

を﹁吾妻鏡﹂やその他の史料を使って検討した結果︑佐竹氏討伐の

狙いは平家知行国である常陸国を支えた佐竹氏・常陸大掾氏の制圧

であったがいずれも不徹底に終わった︒佐竹氏は御家人となっても

旧領は回復されず自力で確保していた常陸・南奥の国境周辺の地域

だけが当知行分として安堵された︒そして︑奥七郡は幕府政所の管

理下で御家人が地頭として支配したが︑これはその内の佐都東郡

大窪郷・塩浜が関東御領といわれたように関東御領としての性格を

持っていたと考えられる︒ はじめに 佐竹氏は佐竹昌義以来常陸国佐竹郷︑後に太田郷を本拠として隆

義・秀義の代には奥七郡を支配していたが︑源頼朝が反平氏挙兵後

南関東を制圧したのに対し平家方に与し参陣しなかった︒そのため︑

頼朝による佐竹氏討伐が行われ︑その結果所領奥七郡は没収され勲

功ある御家人に配分された︒しかし︑その後佐竹氏は頼朝の奥州征

討に参陣し御家人となることができたが︑はたして奥七郡の所領は

回復できたのであろうか︒また︑その奥七郡の支配構造はどうなっ

ていたのであろうか︒

それでは︑それらの問題点をこれまでの研究史を振り返って探っ

てみたい︒鎌倉時代の常陸国奥七郡について︑はやくは網野善彦氏

が御家人による地頭支配を明らかにしたが︑その中で佐竹氏は本領

である太田郷・増井村を支配していたのではないかと推定してい

︒また︑石井進氏は鎌倉後期の奥七郡の北条氏領を明らかにし ︒さらに近年では小森正明氏が鎌倉末〜南北朝期の久慈西郡の金

沢称名寺の支配を明らかにしたが︑その中で鎌倉時代の佐竹氏は御

家人として所領の回復を果たしたという ︒また︑政治史では金沢正

(2)

夫氏が源平合戦における佐竹氏の動向について詳述したが︑奥七郡

は佐竹氏に返還されたという ︒樋川智美氏は佐竹系図などを使って

奥七郡をめぐる人脈をたどり︑新領主の下で佐竹氏は在地支配を続

けたという ︒一方︑金砂合戦について岡田清一氏・関幸彦氏の研究

があるが︑宮内教男氏は頼朝の金砂攻撃の動機として奥州藤原氏を

意識したものであったとした ︒また︑高橋修氏もこの合戦における 内海と奥州につながる海道との関係を指摘している ︒最近︑冨山章

一氏は中世佐竹氏の足跡を訪ねて纏めたが︑新しい研究状況も紹介

している 以上︑頼朝の佐竹攻めについてはその動機として奥州藤原氏や千

葉氏との関係が指摘されているが︑はたして実際の狙いは何であっ

たのであろうか︒また︑鎌倉時代の佐竹氏の所領については奥七郡

すべてが回復された︑太田周辺だけが認められた︑佐竹氏は鎌倉御

家人の配下に入ったなど多岐にわたるがやはり推測の域を出ていな

い︒それでは︑佐竹氏はどこに在地基盤を持っていたのであろうか︒

さらにまた︑奥七郡全体はどのような支配構造であったかについて

はほとんど追究がなされていない︒よって︑本稿では①頼朝の佐竹

攻めの真の理由︑②鎌倉時代の佐竹氏の所領︑在地基盤︑③奥七郡

全体の支配構造について考察したいと考える︒

史料については﹁吾妻鏡﹂が基本となるが︑そのほか﹁玉葉﹂や

鹿島神宮文書・飯野文書・長福寺文書︑さらには﹁平家物語﹂・﹁源

平闘諍録﹂・﹁曽我物語﹂・﹁太平記﹂を使用するが︑古本佐竹氏系図・

北酒出本源氏系図も参考としたい︒ 一、源平合戦から奥州合戦までの佐竹氏  (

1)源平合戦の中での佐竹氏の立場

佐竹氏は清和源氏の義光の孫昌義が常陸久慈郡佐竹郷に入部して

在地勢力を糾合し隆義・秀義の代までに奥七郡に勢力を拡大した︒

平治の乱で勝利した平清盛が武家として初めて政権を握ると︑隆義

は在京し大番役を勤めた︒しかし︑平氏政権が専制支配を強めると︑

治承四年︵一一八〇︶これに不満を持つ源頼政らが後白河法皇の皇

子以仁王に挙兵の令旨を発するよう説得し︑呼びかけるべき諸国の

源氏の名を挙げたが︑その中では常陸の﹁信太先生三郎義教・佐竹

冠者正 義・その子忠義・三郎義宗・四郎高 義・五郎義季 ﹂の名が出

されている︒

こうして︑以仁王は新宮の源十郎義盛︵蔵人行家︶を使いとして

東国に下すこととしたが︑行家は四月二十八日に都を立って近江国

から美濃・尾張の源氏に触れ︑五月十日には伊豆蛭が小島の源頼朝

に令旨を見せ︑その叔父である常陸浮島の信太義教︵義広︶の所

へ行き︑さらにその甥である木曽義仲の所へ向かった

︒しかし︑肝 10

腎の佐竹氏の所へは行かなかった︒八月︑伊豆では頼朝がこれを受

けて挙兵し石橋山の戦いで大敗したが︑房総に逃れると上総広常ら

が軍勢を引き連れて駆け付けたため態勢を立て直し︑十月本拠地で

あった鎌倉に入った︒これに対して平家は平維盛を大将軍として派

遣し富士川に布陣した︒頼朝は平家軍の関東進入を阻止するため黄

瀬川宿で対陣したが︑この両軍の間を佐竹隆義︵秀義カ︶の雑色が

(3)

上洛する途中通過していた︒

︿史料一﹀﹃平家物語﹄上卷︵角川文庫︑一八八頁︶︒*覚一本    常陸源氏佐竹四郎が雑色の︑文持ちて京へ上りけるを︑平家の

侍大将上総守忠清︑この文を奪ひ取つて見るに︑女房の許への

文なり︑﹁苦しかるまじ﹂とて取らせてげり︒﹁さて︑源氏が勢

いはいかほどあるぞ﹂と︑問い引ければ︑﹁下臈は四五百千ま

でこそ︑物の数をば知りつて候へ︑それより上をば知り参らせ

ぬ候︒多いやらう︑少ないやらう︑凡そ七日八日が間は︑はた

と続いて︑野も山も海の河も︑皆武者で候︒昨日黄瀬川にて︑

人の申し候ひつるは︑源氏の御勢二十万騎とこそ申し候ひつ

れ﹂と申しけれ︵略︶

これによれば︑佐竹隆義︵秀義カ︶はこの時常陸にいて京の女房

へ文を送ったのであるが︑平家の侍大将上総守忠清がこの文を見

て通過を許したことから佐竹氏を敵としては扱っていなかった︒一

方︑これ以前にこの雑色は源氏軍の中を無事通過していることから

源氏陣中でも佐竹氏を敵としては認識してはいなかったと言えよ

う︒

この態度が一変するのが富士川合戦以降である︒この合戦で決定

的な役割を果たしたのは甲斐源氏︵武田信義・安田義定ら︶であり︑

後方から敵陣を攻撃したため平家軍は背後を断たれる事を怖れ潰走

していった︒これにより名声が高まった甲斐源氏武田氏は頼朝に対

して自立的立場を維持しつつ同盟軍となり︑直ちに駿河・遠江に進

出し軍事的支配権を確立した︒頼朝はそれを追認し関東へ引き揚げ ていったが︑もし頼朝が上洛を強行したとすれば︑同盟関係が破綻

し彼等を統率することは不可能となったであろう

11

当初︑頼朝はこの勝利の後直ちに上洛しようとしたが︑これに対

して佐竹氏の脅威を申し立てて引き留めたのが千葉常胤・三浦義

澄・上総広常らの東国武士であった︒

︵史料二︶﹁吾妻鏡﹂治承四年十月二十一日条    -攻小松 ︑被上洛之由於士卒等︑而常

︑義 ︑広 常等諫申云︑常陸国佐竹義政并同冠者秀義等︑ -率数百軍兵︑未帰伏︑就中︑秀義父四郎隆義︑当 時従平家在京︑其外驕者猶多境内︑然者先平東夷之後︑ 関西云々︑ これは︑千葉常胤がかつて下総国相馬御厨を佐竹隆義の弟義宗と

争って敗訴し相馬御厨を佐竹氏に奪われたことによるものとされ

ている

︒しかし︑西岡虎之助氏以来のこの説について近年佐々木紀 12

一氏が︑佐竹義宗︵雅楽助大夫︶と︑千葉常胤と相馬御厨を争った

源義宗︵正六位前左兵衛少尉︑﹃尊卑分脈﹄清和源氏頼清流家宗子

孫の右兵衛尉義宗が該当︶は別人であるとし︑佐竹氏が下総北部に

進出したため上総広常や千葉常胤が頼朝に佐竹氏攻撃を進言したと

いうことにはならないとした

︒上総広常は佐竹氏の縁者であり両者 13

の間には緊張関係はなく︑広常の弟九郎常清は相馬氏を名乗ってい

︒後述のように頼朝より没収された佐竹氏領は奥七郡のみであっ 14

て相馬御厨は含まれていなかった︒また︑ここで東夷という東北の

蝦夷を指す言葉が使われているが︑文脈上は佐竹氏を指しており︑

(4)

この時点で奥州藤原氏まで含めると解釈することはできない

15

  (2)佐竹氏攻め

頼朝は十月二十七日に佐竹攻めの日を御衰日なので延期するよう

諫言した人々に対し︑四月二十七日に以仁王の令旨を受け取った

二十七日を東国を領掌する命を受けた日であるので問題はないと押

し切ったが

︑はたして令旨にそのような意味はあったのであろう 16

か︒令旨は清盛政権を倒すことを呼びかけるもので東国割拠という

文言はなかった︒頼朝は亡くなった以仁王の令旨を東国制覇の根拠

として解釈し大義名分としていたのであるが︑立場としては依然と

して反乱軍であった︒十月四日頼朝軍は常陸国府に入ったのである

が︑この時大掾職を担っていた常陸平氏は抵抗を示していないが︑

逆に歓迎もしていない︒これは宗家の平義幹︵佐谷次郎義幹︶が先

の頼朝追討のための平家軍先陣の押領使として参陣しており

︑かつ 17

常陸平氏は長らく平家知行国であった常陸国の国府を支える役割を

担っていたためであった︒頼朝の常陸遠征の目的は奥七郡の佐竹氏

を討伐するだけでなく︑こうした平家知行国の中核となっていた常

陸平氏一族を制圧することにあった︒

〈佐竹義政の謀殺〉

対する佐竹氏について︑次のように﹁権威境外に及び︑郎従国中

に満つ﹂とされているが︑境外とは何であろうか︒佐竹氏の所領は

頼朝の討伐後没収された奥七郡であったが︑その南は常陸平氏一族

が蟠踞する広大な地域であり︑これを越えて国外にまで勢力を広げ

ていたということではない︒ ︵史料三︶﹁吾妻鏡﹂治承四年十一月四日条

   武衛著常陸国府給︑佐竹者︑権威及境外︑郎従満国中 然者︑莫楚忽之儀︑熟有計策︑可誅罰之由︑常胤︑ 広常︑義澄︑実平已下宿老之類︑凝群議︑先為彼輩之 存案︑以縁者︑遣上総権介広常︑被案内之処︑太郎 義政者︑申即可参之由︑冠者秀義者︑其従兵軼義政︑亦 父四郎隆義︑在平家方︑旁有思慮︑無左右参上︑引-込于当国金砂城︑然而義政者︑依広常誘引

于大矢橋辺之間︑武衛退件家人等於外︑招其主人於 橋中央︑令広常誅上之︑太速也︑従軍或傾首帰伏︑或戦足逃走︑

国府に入った頼朝は千葉常胤︑上総広常︑三浦義澄・土肥実平な

ど宿老を集め軍議を開いた結果︑直ちに攻撃に移るのではなく計略

をもって討伐することとし︑佐竹氏の縁者であった広常が佐竹氏に

存意を聞きたいということで案内したところ︑太郎義政︵忠義カ︶

はこの誘いに応じた︒しかし︑忠義が国府近くの大矢橋まで来たと

ころ頼朝により家人を遠ざけられ広常の手で討ち取られた︒この誘

いとして使ったのが与力という言葉である︒﹃源平闘諍録﹄では︑

梶原景時︵上総広常カ︶が﹁佐竹の館﹂へ行き忠義に﹁今兵衛佐殿︑

院宣を蒙り︑源家与力の間︑十余ヶ国を打ち随えへたり︒然るに忠

義は︑清和天︿皇﹀の御苗裔なり︒何ぞ一族を背いて︑与力せざら

んや﹂﹁別の事有らず候ふ︒急ぎ参陣有るべきなり﹂と誘ったとい

われる

︒忠義もこの誘いに乗ったのであるから同じ源氏として遅参 18

(5)

を侘び表面的な帰服で済まそうと考えていたのであろう︒しかし︑

頼朝はむしろ源氏一族だからこそ許せないという立場であった︒

〈金砂合戦〉

佐竹太郎がやすやすと討ち取られたのは上総広常に対する警戒心

がなかったからであり︑頼朝側はそれを逆手に取ったのであった︒

これに対し︑隆義の子秀義は父が在京し指示がなければ動けないと

言って金砂山に立て籠もった︒

︵史料四︶﹁吾妻鏡﹂治承四年十一月四日条    其後為-撃秀義︑被軍兵︑所謂下河辺庄司行平︑

同四郎政義︑土肥次郎実平︑和田太郎義盛︑土屋三郎宗遠︑佐々

木太郎定綱︑同三郎盛綱︑熊谷次郎直実︑平山武者所季重以下

輩也︑相-率数千強兵競至︑佐竹冠者於金砂︑築城壁 要害︑兼以備-防戦之儀︑敢不心︑動干戈︑発矢石︑彼城郭者︑構高山頂也︑御方軍兵者︑進於麓渓谷

故両方在所︑已如天地 金砂山は現在の西金砂山であるが︑急峻な山岳で簡単に落とすこ

とはできなかった︒そこでまたもや策を弄し︑﹁忠賞を行はる可き

の旨恩約有らば︑定めて秀義滅亡の計を加へんか

﹂として叔父の佐 19

竹蔵人︵義季︶に恩賞を与える約束をし城の後方に案内させてこれ

を落とした︒しかし︑佐竹秀義は常陸の奥地である多珂郡花園山ま

で逃げ立て籠もったが︑頼朝軍にはそこまで兵を送る余裕はなかっ

た︒この後︑府中の頼朝の元に佐竹蔵人が参上し﹁門下に候す﹂こ

とを認められた︒しかし︑これは御家人として認められたというこ となのであろうか︒後述するように﹁門客﹂とされており正式な御

家人ではないようである︒また︑信太荘浮島にいた信太義広と先に

以仁王の令旨を伝えた源行家が参上し頼朝に対面したのであるが︑

これについても歓迎した様子はない︒

︵史料五︶﹁吾妻鏡﹂治承四年十一月七日条     佐竹蔵人参上︑可門下之由望申︑即令許容給︑有 之故也︑今日志太三郎  先生義広︑十郎蔵人行家等︑参国府謁申云々 一方︑常陸平氏一族の姿はなく小栗氏以外は帰服したとは言えな

かった︒これから言えば︑頼朝の常陸国制圧は佐竹氏を本拠地から

追い出し奥七郡を没収し勲功の将士に配分しただけで完了していな

かった︒それどころか対平家との関係で言えば︑ここで長陣してい

るわけにもいかなかったが︑陣を引けば信太義広・源行家が入れ替

わって常陸平氏と結び付くことは目に見えていた︒結局︑小栗十郎

重成の小栗御厨八田館に立ち寄り後事を託した形で鎌倉に帰還せざ

るをえなかった︒

  (3)佐竹氏の抵抗

佐竹秀義は﹁吾妻鏡﹂には﹁奥州花園城﹂に逃げたとされたが︑

まさにここは奥州との境であり頼朝としても無理押しすれば奥州藤

原氏の勢力圏に手を出すことになりかねなかった︒熊谷直実が後に

花園城合戦で軍功を挙げたと主張したとされるのは

金砂合戦で恩賞 20

がなかったため別な合戦を創作し軍功を申し立てたものではなかろ

うか︒後述するように秀義は同じく奥州藤原氏と姻戚関係にあった

(6)

岩城氏の領内にも拠点を築き常奥国境沿いに支配地域を確保してい

た︒このことについて﹁玉葉﹂は次のように述べている︒

︵史料六︶﹁玉葉﹂治承五年︵一一八一︶四月二十一日条︵同書︑

国書刊行会︶

   凡関東諸国︑一人而無頼朝旨︑佐竹之一党三千余騎︑ -籠常陸国︑依其名︑一矢可射之由令存云々︑其外︑ 一切無異途云々 このように京都においても佐竹氏の抵抗は注目されていた︒治承

五年︵一一八一︶四月︑平氏政権は頼朝の勢力拡大に対抗するた

め︑藤原秀衡を陸奥守に︑城助職を越後守に任ずると共に佐竹隆義

を常陸介とした︒

︵史料七︶﹃﹁延慶本平家物語﹄治承五年四月二十五日条︵同書︑

本文篇上︑勉誠社︶

   四月廿五日︑兵衛佐頼朝ヲ可奉誅之由︑常陸国住人佐竹太郎隆

義ガ許へ︑院庁御下文ヲゾ申下タル︑其故ハ隆義ガ父︑佐竹三

郎昌義︑去年ノ冬︑頼朝ガ為ニ誅戮之間︑定テ宿意深カルラム

由来ヲ尋テ︑平家彼ノ国ノ守ニ隆義ヲ以申任ズ︒依之︑隆義︑

頼朝  ト合戦ヲ致シケレドモ︑物ノマネト散々ト被打落テ︑隆

義奥州へ逃籠ニケリ︒

ここでは隆義と秀義の戦いが混同されているが︑実力を温存させ

ていたことには変わりはない︒しかし︑寿永二年︵一一八三︶二月

信太義広の乱が起こると頼朝の支配に不満を持っていた常陸平氏の

多くが参加し大打撃を受けたため常陸国内の制覇はほぼ完了した︒ 一方︑同年五月木曽義仲が越中砺波山で平家軍を破ると︑七月平家

は都落ちしそれにかわって義仲が入京した︒これにより八月六日︑

先の除目は撤回され平家一門五〇名と共に佐竹隆義も常陸介を解官

されたのであった

︒十月︑頼朝は東海・東山両道の国領・荘園の本 21

所領還付の権限を任せるという宣旨を下され東国支配を公認され

た︒同時に朝廷は義仲に対抗させるため頼朝の上洛を求めたが︑こ

れに対し頼朝は直ちにはできない理由として﹁一ハ秀平隆義等︑可-替上洛之跡︑二ハ率数万之勢入洛者︑京中不堪︑依此二故上洛延引云々﹂と述べたという

︒佐竹隆義はすでにこの年 22

五月には亡くなっていたが︑頼朝にとって奥州藤原氏とともに抵抗

を続ける佐竹氏はいまだ無視できない脅威であった︒

(4)奥州征討     

しかし︑寿永三年︵一一八四︶一月頼朝の代官源義経が京都を占

領していた木曽義仲を討ち︑文治元年︵一一八五︶三月平家を壇の

浦で破ると︑頼朝は一転して義経を遠ざけ謀反人として追討の宣旨

を申し承けた︒こうして︑頼朝は文治四年︵一一八八︶二月義経を

匿った藤原秀衡の子泰衡にその討伐を求め︑同五年閏四月泰衡が義

経を討つと直ちに全国の武士に奥州攻めの参陣を求め︑七月北陸

道︑東山道︑東海道の三方から進撃を開始した︒この軍事動員はた

とえ囚人であっても参陣することを認めるという頼朝を中心とした

武士の再編成を狙いとしており︑かつて頼朝と敵対した城助職や佐

竹秀義も堂々と参陣できたのであった

︒文治五年七月二十六日頼朝 23

が宇都宮を出立したところ︑佐竹秀義は常陸国より駆け付け︑頼朝

(7)

からは咎められることなく白旗が源氏で同じなので扇を付けるよう

言われ参陣が認められた

︒しかし︑進撃した奥州には佐竹太郎︵忠 24

義︶の子が藤原泰衡の元に加わっていたため頼朝はこれを捕縛する

よう命じている︒秀義にとっても敗北後同じ道を歩みかねなかった

のであり︑頼朝はこうしたことを見透かしてそのことからの決別の

確認を求めているのであった︒

︵史料八︶﹁吾妻鏡﹂文治五年十一月八日条    次称故佐竹太郎子息等︑有泰衡同意之者︑合戦敗北之時︑ 逐電訖︑守路次宿々︑可搦進 この佐竹忠義の子に関して﹁北酒出本源氏系図

﹂に佐竹忠義の次 25

男で義衡がいたが︑この衡が泰衡の衡と同じであるので泰衡より与

えられたものであろう︒

以上︑平氏政権の下で常陸北部に勢力を張っていた佐竹氏は頼朝

の反平氏の合戦に参陣することはなかったが︑頼朝の討伐は単にそ

れだけを理由とするものではなく︑実は平家知行国を支えてきた佐

竹氏と常陸平氏を制圧することをも狙いとするものであった︒しか

し︑この時点では奥州藤原氏討伐を意識したものではなかったた

め︑佐竹氏を陸奥国境にまで深追いすることはしなかった︒佐竹氏

はその後頼朝の奥州合戦に参陣し御家人に取り立てられたが︑これ

によっても旧領奥七郡は後述するようにすでに御家人に配分されて

おり回復されたとすることはできない︒これを回復したとする見方

は後世の﹃佐竹家譜﹄や系図によっており史料的根拠はほとんどな

い︒結果的に︑佐竹氏は鎌倉時代を通じて雌伏していたことは誰し も認めるところであるが︑その実体はどのようになっていたのであ

ろうか︒

二、鎌倉時代の佐竹氏の行動

それでは︑佐竹氏が御家人になってからの行動を﹁吾妻鏡﹂など

により見てみたい︒佐竹略系図は次の通りである︒

  ︿図一﹀佐竹略系図︵﹁北酒出本源氏系図﹂秋田県立公文書館所蔵︶   (1)佐竹蔵人(義季)

佐竹蔵人義季は昌義の子で隆義の弟にあたる︒官名は﹁古本佐竹

系図﹂では八条蔵人となっている︒金砂合戦では上総広常の甘言に

乗り甥の秀義を裏切り佐竹氏敗北の要因となったが︑その後鎌倉で

頼朝の﹁門客﹂となり御家人扱いはされなかったので佐竹旧領奥七

郡は引き継げなかったと考えられる︒奥州攻めが近づくと文治三年

︵一一八七︶三月二十一日頼朝は心神不調を理由に義季を追放し駿

河の岡辺安綱に預けた︒常陸で抵抗を続ける佐竹氏を放置しておく

わけにはいかず陣営に加えるためには排除すべき存在であった︒

︵史料九︶﹁吾妻鏡﹂文治三年三月二十一日

   佐竹蔵人︑雖年来二品門客︑心操聊不調︑度々現奇怪

(8)

之間︑今朝蒙御気色︑為比企藤内朝宗沙汰︑被駿河 ︑所-預岡辺権守安綱也︑︒

その後︑義季は京都の内大臣近衛基通を頼り︑その所領である山

城国葛野郡革島荘︵南荘︶に蟄居し建暦二年︵一二一二年︶に亡く

なった︒その子次郎三郎義安は革島荘の下司職となり︑以後革島氏

を称することになった

26

  (2)佐竹別当(秀義)

佐竹別当は隆義の長男秀義のことで︑嘉禄元年︵一二二五︶十二

月十八日鎌倉において死去した︒享年七五歳︒遺骨は同二十二

日常陸に下向の上︑二十四日に葬送された

︒逆算すると久安六年 27

︵一一五〇︑数え年︶生まれとなる︒建 久元 年︵一一九〇︶十一月

七日︑将軍源頼朝が挙兵後初めて入京した際の行列の廿八番に佐竹

別当が参加していた

︒同二年四月九日には佐竹別当が常陸国より鎌 28

倉に参上し︑営中で頼朝に盃酒を献じたが︑﹁幕下御入興の気有り

と雖も︑山門騒動の事︑思食し悩むに依りて︑数献の儀に及ばずと

云々﹂であったという

︒秀義は常陸国から鎌倉に参上したとあるが︑ 29

一体常陸のどこを拠点としていたのかはここでは明らかになってい

ない︒また︑参上した理由としては︑前年には入洛の行列に参加し

ているので出仕はすでに済んでいるはずである︒とすれば︑この献

酒は佐竹秀義が鎌倉に屋敷を構え居住するための挨拶であろう︒同

四年五月には富士野の巻狩りが行われ常陸国からは﹁佐竹・山内・

志太・同地・鹿島・行方・こくは・宍戸・森山・ちゝわの殿原﹂が

参加したが

︑在地の武士の中で佐竹氏が筆頭に挙げられている︒し 30 かし︑後述のように曾我兄弟の仇討ちの際佐竹氏の配下と思われる

久慈郡の輩が逐電し処分されており︑佐竹氏も謀叛の疑いが掛けら

れかねない状況であった︒同六年三月十日に頼朝は再び上洛し東大

寺供養に参列したが︑供奉した随兵に佐竹別当が参加していた︒承

久三年︵一二二一︶六月には後鳥羽上皇が討幕挙兵をし承久の乱が

勃発したが︑幕府軍が上洛し上皇軍を各地で破り京都を占拠した︒

佐竹氏もこの戦いに参加し︑六月十八日の宇治合戦では佐竹別当の

配下の者が二人を討ち取り︑佐竹六郎が一人を討ち取り︑一人を生

け捕った

︒この戦功に対し美濃国山口郷地頭職が給付された 31

32

  (3)佐竹六郎(義茂)

佐竹六郎は秀義の二男義茂のことである

︒先述のように承久の乱 33

で戦功を上げたが︑康元元年︵一二五六︶六月二十九日には将軍行

列に供奉した︒また︑建長八年︵一二五五︶六月六日︑将軍宗尊親

王に方違いがあったので供奉の人々が参進したが︑その中に佐竹六

郎の名があった

34

  (4)佐竹六郎次郎(義行)

佐竹六郎次郎は義茂の長男義行のことである

︒暦仁元年︵一二三八︶ 35

二月十七日︑将軍頼経入洛の随兵の三五番として佐竹八郎︑佐竹六

郎次郎が参加した

︒寛元二年︵一二四四︶八月十五日︑鶴岡八幡宮 36

放生会に頼経が参詣しその随兵に佐竹六郎次郎が参加した

37

  (5)佐竹八郎(助義、季義)

佐竹八郎は助義とされているが︑﹁北酒出本源氏系図﹂によれば

秀義の三男季義のことである︒文永元年︵一二六四︶十二月十一

(9)

日死去で︑享年六三才であった︒逆算すれば生まれは建仁二年

︵一二〇二︶となる︒承久の乱の戦功により与えられた美濃国山口

郷地頭職のため美濃国へ移住した︒美濃佐竹氏はその後在京人とし

て六波羅探題の使節遵行を務めている

︒嘉禎元年︵一二三五︶六月 38

二十九日︑将軍頼経の明王院供養に後陣随兵として佐竹八郎助義が

参加した

︒同三年六月二十三日︑大慈寺郭内新造供養に先陣随兵と 39

して佐竹八郎助義が参加した

︒暦仁元年︵一二三八︶二月十七日に 40

は将軍の入洛行列に随兵三五番として佐竹八郎︑佐竹六郎次郎が参

加した

︒暦仁元年六年五日︑将軍家の春日神社参詣の随兵三番とし 41

て佐竹八郎助義が参加した

︒寛元元年︵一二四三︶七月十七日︑幕 42

府は臨時出向供奉人の結番を定めたが︑中旬に佐竹八郎の名が見え

︒寛元二年八月十五日︑鶴岡八幡宮放生会に頼経参詣の随兵とし 43

て佐竹八郎助義が参加した

44

  (    6)佐竹入道(義重)跡 佐竹入道は秀義の長男義重のことで︑建長四年︵一二五二︶二月

二十五日に死去し︑享年六七才であったという︒逆算すると︑文治

元年︵一一八五︶生まれとなる︒建長二年︵一二五〇︶三月一日︑

幕府による閑院内裏宮造営の雑掌分担として築地三本・同 東を佐

竹入道跡が担うことになった

︒このときには義重はすでに亡くなっ 45

ているので︑先出の義重の没年の建長四年は遅すぎるので少なくと

も建長二年と改めるべきであろう︒

  (7)佐竹常陸次郎(長義)

佐竹次郎長義は義重の長男で文永九年︵一二七二︶七月二十七 日卒︑享年六六歳ということなので建永元年︵一二〇六︶生まれ

ということになる︒国司名は常陸となっているが︑これは権限を持

たない名国司であり関東御家人でも国守となる者が増えていた

︒佐 46

竹氏の場合は在亰していた美濃佐竹氏の尽力があったものと考えら

れる︒建長四年︵一二五二︶八月一日︑将軍宗尊親王の鶴岡八幡

宮拝賀が中止となったが︑供奉人散状に随兵佐竹常陸次郎長義の名

があった

︒この年には佐竹当主は故義重の長男長義が跡を継いでい 47

た︒弘長元年︵一二六一︶七月二十九日に放生会の廻廊に参候する

ようにと触れたところ︑随兵のうち在国の輩四人が辞退の請文を提

出した︒そのうち佐竹常陸次郎は所労のため︑灸をすえたがまだ回

復しないと申し立て︑七月十二日の請文が承認された

︒佐竹氏は御 48

家人となった秀義以来当主が鎌倉に屋敷を持ち居住していたが︑長

義は在国輩で鎌倉には居住していなかった︒佐竹氏が将軍の放生会

に参候するためには鎌倉に参上しなくてはならず︑所労を名目とし

ているが経済的に困窮していたのではないかと考えられる︒これは

所領がそれほど大きなものではなかったからではなかろうか︒

  (8)佐竹上総入道(貞義)

佐竹貞義は長義の孫行義の長男で文和元年︵一三五二︶九月十日

死去し享年六六歳︒逆算すると弘安九年︵一二八六︶生まれとなる︒

元弘元年︵一三三一︶九月後醍醐天皇の笠置山入りに応じて楠木正

成が赤坂で挙兵したため︑幕府は大軍を上洛させたが︑その中に佐

竹上総入道も加わっていた

49

以上︑佐竹秀義は鎌倉に在住し幕府の公式行事に参列していた

(10)

が︑曾我兄弟の仇討ちの際の久慈郡の輩の逐電では危うく責任を免

れることができた︒合戦に参加したのは奥州合戦と承久の乱だけで

それ以外の鎌倉幕府内部の抗争には全くその名を表していない︒佐

竹長義は在国しており鎌倉鶴岡八幡宮での放生会の参候を辞退した

が常陸の名国司を得るなど体面も重視していた︒しかし︑鎌倉時代

を通じて佐竹氏発給の文書がないのは紛争に巻き込まれるのを恐れ

て自重していたからと考えられるが︑﹁吾妻鏡﹂以外にはほとんど

その姿を見ることはできない︒鎌倉末期に貞義が楠木討伐に参陣し

たのを締めくくりとする︒

三、奥七郡及び各郡の支配

源頼朝は金砂合戦で佐竹秀義を破ると︑その支配していた奥七郡

を没収し勲功のあった将士に充て行ったとされる︒

︹史料一〇︺﹁吾妻鏡﹂治承四年十一月八日条    公秀義領所常陸国奥七郡並太田︑糟田︑酒出等所々 -行軍士勲功之賞云々 これは頼朝が挙兵後の東国で行った敵方没収と新恩給与の一環で

あったが

︑この時点で誰がどこを与えられたという記録はない︒し 50

かし︑史料的に見て最初に行われたのは鹿島社への世谷・大窪郷・

塩浜の寄進であった︒

(1)佐都東郡世谷・大窪郷・塩浜(鹿島社領) 

治承五年︵養和元年︑一一八一︶源頼朝は平家との対決を前にし

て諸国静謐の立願をし鹿島社に常陸国塩浜︑大窪︑世谷等を寄進し た︒これは奥郡支配にあたって鹿島社の権威を打ち立てておこうと

いう狙いがあったと考えられる︒

︹史料一一︺﹁吾妻鏡﹂養和元年三月十二日条     諸国未静謐︑武衛非御畏怖︑仍諸社有御立願︑今 日先以常陸国塩浜︑大窪︑ 世谷等所々︑奉鹿島社 ︹史料一二︺治承五年三月源頼朝寄進状案︵﹃茨城県史料﹄中世

編Ⅰ︑塙不二丸氏所蔵︑二九三頁︶

     寄  鹿島社御領       常陸国世谷︑大窪︑塩浜

     右為心願成就︑所寄如       治承五年三月  日    源頼朝敬□

しかし︑これは逆に奥郡内での﹁叛逆の輩有りて妨を致す﹂によ

り社役がなされないという事態を招き︑元暦元年︵一一八四︶八月

十三日にふたたび社領として確認するため袖判の下文を発給すると

いうことになった︒これははじめの寄進状が無効になったといえよう︒

︹史料一三︺﹁吾妻鏡﹂元暦元年八月十三日     --進于鹿島社之地等事︑常陸国奥郡内︑有叛逆之輩 妨︑社役不全云々︑仍如元可社領之由︑今日 重被仰下云々︒ ︹史料一四︺元暦元年八月十三日源頼朝下文案︵﹃茨城県史料﹄

中世編Ⅰ︑塙不二丸氏所蔵︑二九三頁︶

           下  常陸国奥郡内世谷・大窪︑塩浜

(11)

   早如元鹿島御神領致沙汰    右件神領︑奥郡輩依謀叛沙汰云々︑者任先例 神領沙汰之状如件︑以下          元暦元年八月十三日   この間三年もたっており下文案では﹁奥郡輩依叛逆不沙汰﹂

とされているような不知行状態となっていたと考えられるが︑奥

郡内叛逆の輩とははたして誰なのであろうか︒これは治承四年

︵一一八〇︶十一月に金砂山で討伐された佐竹氏一党がいまだ花園

山に籠り抵抗を示していたことを背景としているが︑問題はこの抵

抗がすでに占領され御家人を地頭として配置したはずの奥郡内の鹿

島社領大窪郷でなされ不知行状態となっていたことである︒という

ことはこれは奥郡全体でも言えることであり︑奥郡内に留まってい

た武士や名主等が不沙汰という形で抵抗していたのであろう︒しか

し︑先述のように寿永二年︵一一八三︶信太義広の乱が失敗し常陸

国内の反頼朝勢が一掃されると情勢が一変する︒こうして︑改めて

社領として頼朝袖判下文を発給することになった︒後出の嘉禄二年

の関東下知状でも﹁元暦元年之比︑両度給右大将家御判御下文﹂と

二度の下文で社領が確認されたとある︒

〈大窪・塩浜の知行〉

では︑この大窪・塩浜の知行はどのように行われたのであろう

か︒次の嘉禄二年︵一二二七︶関東下知状に見える前地頭宇佐美平

太入道は建保元年︵一二一三︶五月三日に和田義盛の乱で敗死した

宇佐美平太郎左衛門のことと思われる︒この乱に加担した謀叛の輩 の所領は収公され︑五月七日には勲功の者に与えられたが︑その中

で常陸国佐都郡は伊賀前司︵朝光︶に与えられた

︒であるから︑佐 51

都郡は建保元年以前は宇佐美平太入道が知行していたということが

できる︒この伊賀朝光の子光季の子が季村で次に見える地頭伊賀判

官四郎であった︒

︹史料一五︺嘉禄二年六月六日関東下知状案︵﹃茨城県史料﹄中

世編Ⅰ︑塙不二丸氏所蔵︑二九四頁︶

   下  鹿島神領常陸国佐都東郡内大窪郷住人等     早停-止地頭伊賀判官四郎代官光依新儀妨︑且就手継譲状等︑且任代々下文旨︑可神用物沙汰︑当郷・

同塩浜事

   右︑如給主大祢宜則長申状者︑亡祖則親︑且致神用︑且 子孫︑所-立当社領也︑誠雖狭少之地︑以 浜役毎月供祭︑以田畠所当-用大般若経供料 就中右大将殿最前御寄進之所也︑然間則親譲親盛︑ 盛譲嫡男則長︑々々之父親盛之時︑元暦元年之比︑両度給右大将家御判御下文之間︑無違乱之処︑光依巧新儀役民︑抑-留神用物之間︑則長所貞応元年七月五日御

下知云︑任前地頭宇佐美平太入道之例︑無懈怠其沙汰云々︑者任彼状等︑早停-止新儀之妨︑任先例沙汰之状︑以鎌倉殿仰︑下知如         禄三 年六月六日     武蔵守平                     相模守平

(12)

この大窪郷の役としては︑塩浜役をもって鹿島社に毎月供祭に備

え︑田畠所当をもって大般若経供料に充てられていた︒しかし︑地

頭伊賀季村の代になり代官の光依が新儀の妨げをなし︑役民を煩わ

し神用物を抑留したと鹿島社の給主である大祢宜中臣則長が訴え

た︒則長は以前にも貞応元年︵一二二二︶七月五日に下知を受け

取っており︑その中では前地頭宇佐美平太入道の時には懈怠がな

かったという先例を持ち出している︒これによれば︑この大窪郷・

塩浜の支配構造は次のようになろう︒

   給主︵中臣則長︶︱地頭︵伊賀季村︶︱地頭代︵光依︶︱郷住

人︱役民︵郷民︶

ここで実際に年貢を抑留しているのは地頭代の光依であるが︑季

村の親の光季と同じ光の字を使っていることと役民を煩わしている

ということから見ればこれは伊賀光季の被官であろう︒よって︑こ

の段階では佐竹氏の影響力は全く見ることはできない︒

〈大窪郷=関東御領〉

一方︑佐都東郡大窪郷については﹁関東御領﹂と認識されていた

という清水亮氏の指摘がある

︒これは次のように香取社と鹿島社と 52

の問答により出された認識であった︒

︵史料一六︶大中臣実胤陳状案︵香取旧大祢宜家文書︑﹃鎌倉遺

文﹄二七巻︑二〇六九八号︶

   問状云︑鹿島大祢宜所領羽生・大窪関東御領也︑同社惣追捕使

知行田畠同前︑鹿島荒次郎并千葉介等社司職兼帯云々︑取意︑

    此条︑鹿島大祢宜関東御領知行之由事︑雖実否 付道寂自称謂之︑雖関東御領︑社家進止之間︑大祢

宜相伝知行歟︑以之不道寂之潤色 つまり︑鹿島社領の羽生と大窪は関東御領であるので惣追捕使知

行の田畠と同じく鹿島荒次郎と千葉介が社司職を兼帯するべきで

あるというのに対し︑鹿島大祢宜が関東御領を知行することの実否

は分からないが︑関東御領であっても社家進止であるので大祢宜が

相伝するべきであると述べている︒この問答の中では︑羽生と大窪

は関東御領であるということを前提として︑一方は惣追捕使︵御家

人︶知行と同じであるので鹿島荒次郎と千葉介が社司職を兼帯する

のは当然だという主張で︑もう一つは関東御領であっても社家進止

であるので大祢宜が相伝するという社家と御家人の解釈の対立で

あった︒しかし︑このことにより︑関東御領は御家人の知行地であ

り︑鹿島社に寄進されて社家に進止権があってもそれは変わらない

というものであった︒これによれば︑大窪郷は鹿島社に寄進されて

も御家人の地頭知行であるので関東御領とされていた︒この論理で

言えば︑次の奥七郡も御家人を地頭職に任命し知行させているので

関東御領に当たるのではなかろうか︒

  (2)奥七郡の支配(関東御領)

後述するように︑幕府は奥七郡に対しては︑個々の郷の所領を御

家人に充て行ったのではなく︑奥七郡の郡ごとに地頭を配置したの

であり︑その前提として奥七郡全体が関東御領となっていたと言う

べきであろう

︒関東御領の規定については︑幕府政所が統括して︑ 53

年貢・公事を徴収し︑御家人を預所に任命していたが︑原則として

(13)

守護の関与は禁じられていたといわれる

︒では︑政所の支配につい 54

てはどのようになっているのであろうか︒次の史料を見てみたい︒

︹史料一七︺﹁吾妻鏡﹂文治三年十月二十九日条    常陸国鹿島社者︑御帰敬異他社︑而毎月御膳料事︑被于当国奥郡︑今日令下知給云々︑

        政所下  常陸国奥郡          令早下-行鹿島毎月御上日料籾佰二拾石           多賀郡   十二石五斗           佐都東   十四石           佐都西   九石八斗           久慈東   三十六石一斗           久慈西   十四石三斗           那珂東   十三石九斗           那珂西   十九石四斗         右件籾︑毎年無懈怠下行之状︑如           文治三年十月廿九日       中原                          藤原                          大中臣                          主計允                          前因幡守中原

  

これは﹁吾妻鏡﹂文治三年︵一一八七︶十月二十九日条に載せら

れている政所下文の写で︑鎌倉幕府の政所が奥七郡に鹿島社祭事料 下行分を賦課したものである︒これについて新田英治氏はこの文書

は始めに政所下文と書かれているが︑この時点ではまだ政所は成立

していないので偽文書の疑いがあるとされた

︒しかし︑新田氏は元 55

暦元年︵寿永三年︑一一八四︶八月二十四日に鎌倉に公文所が設置

されたこと

については触れていないのであるが︑その後文治元年 56

︵一一八五︶四月頼朝は越階し従二位に叙せられたので三位以上の

有資格者として公文所も政所と称するようになったと考えられる

57

さらに右大将に任ぜられてから最初の建久二年︵一一九〇︶正月

十五日に政所吉書始めを行ったという経過から︑全くの偽文書とい

うわけではないと考える︒この奥七郡への鹿島社祭事料としての賦

課については︑前出の嘉禄三年︵一二二七︶関東下知状中の大窪郷

の負担の内に﹁以塩浜役毎月供祭﹂とあり︑また次の康

永三年︵一三四四︶の常陸国惣社神官清原師氏目安に鹿島社の祭礼

では﹁自往古奥七郡地頭・名主等之役︑令勤仕﹂めたと

あることから︑この奥七郡への賦課は実際に行われていたと考えら

れる

58

︵史料一八︶清原師氏目安︵﹃茨城県史料﹄中世編Ⅰ︑常陸国惣

社文書︶

    次鹿島二月・十一月二箇度御祭之時︑官幣以下祭礼事︑自往古奥七郡地頭・名主等之役︑令勤仕之処︑同佐竹 部大輔乍-行其役所︑近年欠如之間︑師氏依其奉行︑年々経入之条︑難堪次第也︑

とすれば︑関東御領となった奥七郡に対し政所が鹿島社への祭事

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