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鎌倉期高野山無量寿院と加賀国益富保

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(1)

鎌倉期高野山無量寿院と加賀国益富保

著者 鏑木 紀彦

著者別表示 KABURAKI Norihiko

雑誌名 北陸史学

号 68

ページ 1‑24

発行年 2019‑12‑30

URL http://doi.org/10.24517/00062400

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

1

鎌 倉 期 高 野 山 無 量 寿 院 と 加 賀 国 益 富 保

鏑 木 紀 彦

は じ め に

加 賀 国 益 富 保 の 所 在 は

、 近 世 の 増 泉 村 に 比 定 さ れ る

。 大 治 二 年

( 一 一 二 七

) 頃 と 推 定 さ れ る 六 月 二 十 八 日 散 位 藤 原 某 書 状

載 の

「 興 保 事

( 加 賀 国

/ 右

、 国 除 目 之 初

、 御 乳 母 被 給 預 候 也

、勝 載 所 并 益

[

富 ヵ]

保 庁 宣 被 下 遣 之 刻

、( 下 略

)」 は

、益 富 保 を 確 認 し 得 る 最 も 早 い 事 例 で あ る

。 益 富 保 の 得 分 を 得 て い た

「 御 乳 母

」 と は

、 当 時 の 加 賀 国 司 藤 原 家 成 の 妻 の 父 高 階 宗 章

( 家 成 後 任 の 加 賀 国 司

) の 従 姉 妹 で

、 白 川 院 尾 張 と 称 さ れ た 院 の 女 房

( 高 階 為 遠 娘

) と み ら れ る

。 経 緯 は 不 明 だ が

、 鎌 倉 期 に 至 り 益 富 保 は 高 野 山 無 量 寿 院 領 と な る

。『 高 野 春 秋 編 年 輯 録

』( 以 下

、『 高 野 春 秋

』)

治 三 年

( 一 二 四 二

) 三 月 二 十 七 日 条 に よ る と

、 無 量 寿 院 堂 塔 の 落 慶 法 要 に 際 し

、 淡 路 守 護 牧

( 牧 野

) 政 西 が 同 院 に 加 賀 国 益 富 保 を 寄 進 し た

。 こ れ は 鎌 倉 期 の 益 富 保 の み な ら ず 無 量 寿 院 の 経 営 を 考 察 す る 上 で も 極 め て 重 要 な 事 跡 で あ る

に も か か わ ら ず

、 従 来 の 高 野 山 領 荘 園 の 研 究 に お い て ほ と ん ど 紹 介 が な く

、 堂 塔 造 営 お よ び 益 富 保 寄 進 の 経 緯 に 至 っ て は 全 く 検 討 さ れ て い な い

。同 様 に 寄 進 者 の 淡 路 守 護 牧( 牧 野

) 政 西 が 誰 な の か 本 格 的 な 考 察 は な く

、 石 川 県 内 の 自 治 体 史 等 も 詳 細 は 触 れ て い な い

鎌 倉 期 の 淡 路 守 護 は 下 野 国 出 身 の 御 家 人 長 沼 氏 が 補 任 さ れ た が

、 歴 代 の 長 沼 氏 に 法 名 政 西 を 名 乗 る 人 物 は 見 当 た ら な い

。 益 富 保 を 寄 進 さ れ た 無 量 寿 院 は

、 僧 深 覚

( 九 五 五

~ 一

〇 四 三

) を 開 基 僧 と す る 高 野 山 を 代 表 す る 学 侶 方

( 学 派

) 寺 院 で あ る

藤 原 師 輔 の 息 深 覚 は

、山 城 禅 林 寺 や 近 江 石 山 寺 に 居 住 し た こ と か ら 禅 林 寺 大 僧 正

・ 石 山 大 僧 正 と も 称 さ れ

、 東 寺 長 者

・ 勧 修 寺 長 吏

・ 東 大 寺 別 当 等 を 歴 任 し た 平 安 後 期 の 高 僧 で

、 勧 修 寺 長 吏 と し て 初 め て 山 科 安 祥 寺 の 寺 務

( 座 主 職

)を 兼 帯 し た こ と で も 知 ら れ て い る

殊 に 無 量 寿 院 院 主 の 地 位 は

、 同 山 宝 性 院 院 主 と 共 に 門 主 と 称 さ れ

、 山 内 の 学 侶 方 寺 院 を 統 括 す る 立 場 に あ っ た

。 同 院 は 大 正 二

1

(3)

2

年( 一 九 一 三

)に 宝 性 院 と 合 併

、宝 寿 院 と 改 称 し 現 在 に 至 っ て い る

。 そ の た め

『 高 野 山 宝 寿 院 文 書

』 の 中 に

、 無 量 寿 院 に 関 す る 史 料 が 含 ま れ て い る

。 高 野 山 領 荘 園 の 研 究 は

、 戦 前 の 江 頭 恒 治

『 高 野 山 領 荘 園 の 研 究

以 降

、多 く の 成 果 が 存 在 す る が

、高 野 山( 金 剛 峯 寺

) を 構 成 す る 山 内 子 院 領 に つ い て の 専 論 は 極 め て 少 な い

。 こ の よ う な 状 況 に お い て 斎 藤 利 男 の 研 究

、 鎌 倉 期 の 紀 伊 国 一 帯 に 分 布 す る 高 野 山 領 荘 園( 高 野 山 膝 下 荘 園

) に 有 し た 同 山 子 院 領 を 理 解 す る 上 で 重 要 で あ る

。 斎 藤 は

、 代 表 的 な 膝 下 荘 園 で あ る 官 省 符 荘 内 に 所 有 す る 無 量 寿 院 領 の 考 察 を 通 じ て

、 高 野 山 有 力 子 院 領 の 構 造 を 一 般 化 し よ う と し た

。 こ れ に よ る と

、 無 量 寿 院 は 官 省 符 荘 内 の 土 豪

・ 地 主 層 を 寺 僧 化 し

、 彼 ら が 有 す る 所 領

( 地 主 権 保 有 地

) を 院 領 と し て 吸 収 し た

。 斎 藤 は

、 こ の よ う な 同 山 子 院 が 膝 下 荘 園 に 領 有 し た 所 領 を

、 子 院

「 私 領

」 と 名 付 け た

。 無 量 寿 院 は 官 省 符 荘 河 北 一 円 に 所 領

( 私 領

) を 有 し

、 領 内 の 里 坊 を 拠 点 と し

、 上 路 山 里 坊 内 の 末 寺 盛 法 寺

( 入 町 寺

) と 共 に

、 村 落 に 対 し て 支 配 者 的 な 機 能 を 有 し た

。 ま た

、 膝 下 荘 園 の 一 つ 荒 川 荘 に も 田 畠 を 所 有 し て い た

。 し か し

、 斎 藤 の 考 察 対 象 は あ く ま で も 膝 下 荘 園 群 で あ る た め

、 遠 隔 地 荘 園 で あ る 益 富 保 に つ い て は 言 及 が な い

。 ま た

、 益 富 保 の 先 行 研 究

に お い て

、同 荘 を 高 野 山 領 の 視 点 か ら 考 察 し た 専 論 は な く

、 そ の た め

、 無 量 寿 院 の 寺 領 経 営 の 全 容 は 解 明 に 至 っ て い な い

。 そ こ で 本 稿 で は

、 無 量 寿 院 領 と し て の 視 点 か ら 益 富 保 を 考 察 す る と 共 に

、 当 該 期 に お け る 同 院 の 事 跡 に つ い て 検 討 し て い き た い

。 そ の 手 段 と し て

、 無 量 寿 院 堂 塔 建 立

・ 同 院 へ の 益 富 保 寄 進 に つ い て の 考 察 を 軸 と し て

、政 西 と 長 沼 氏

、 お よ び 長 沼 氏 と 無 量 寿 院 と の 関 連 性

、 ま た 同 保 を め ぐ る 無 量 寿 院 と 政 西 一 族 の 訴 訟 等 に つ い て 検 討 し て い く

。 こ れ に よ り 堂 塔 建 立 や 益 富 保 寄 進 の 意 図

、 同 院 に お け る 同 保 の 位 置 づ け を 明 ら か に し て い き た い

。 ま た

、 法 脈

( 血 脈

) 等 を 手 が か り に

、 当 該 鎌 倉 期 の 無 量 寿 院 歴 代 院 主 お よ び

、 堂 塔 建 立 に 関 わ っ た 人 物 等 を 特 定 し て い く こ と が 本 稿 の 目 的 で あ る

一 章 加 賀 国 益 富 保 と 下 野 国 長 沼 氏 第 一 節 淡 路 守 護 牧 ( 牧 野

) 政 西 に よ る 無 量 寿 院 堂 塔 建 立

本 節 で は

、 淡 路 守 護 牧

( 牧 野

) 政 西 に よ る 無 量 寿 院 堂 塔 の 建 立

、 お よ び 加 賀 国 益 富 保 の 寄 進 に つ い て 考 察 し て い き た い

。 ま ず

、 堂 塔 建 立 に 関 わ る 史 料 を 掲 げ る

3

[

史 料 一]

『 高 野 春 秋

※ 史 料中 の 傍線 は 筆 者に よ る

玆 年

( 仁 治 元 年

古 史失 月 日、

無 量 寿 院 塔 行 法

、 始 置 阿 闍 梨 三 口

口 碑

( 1

集云

、道 範闍 梨 為之 願 主

、世 唱 道範 之 廟 基者 非 也

、院 譜

( 2

、院 主 静 能之 時

、北 条 家外 戚 淡 州守 護 牧野 四 郎 左衛 門 入 道 沙 弥政 西 発 願、 申 請関 東

、附 堂 塔之 仏 餉 人供

、 然政 西

( 3

之 二 男 没 収 益 富 保

( 賀 州

)、 仍 九 人供 僧

・ 六 人 承 仕

、 殊 院 主 静 能 愁訴 于 関 東云 云

、 三 月 廿 七 日

( 同 三 年

、 無 量 寿 院 塔 一 基

( 宝 塔

・ 堂 二 殿

( 阿 弥 陀 堂

・ 釈 迦 堂

点 卜 三 个 日

、 次 第 落 慶 之

、 是 依 淡 路 守 護 牧 七 郎 左 衛 門 入 道 政 西

、 永 世 被 寄 附 於 妻 室 大 河 比

[

戸 脱]

丘 尼 相 折 所 加 州 益 富 保

、 是 為 天 下 泰 平

・ 五 穀 成 熟

・ 夫 妻 安 全

・ 二 世 悉 地 也

、 院 記 云

、政 西 即 日以 署 判、 賜 寄附 状

、此 入

( 4

道者

、 北 条家 牧 野 御 方 之 好 拝 領 加 賀 国内 益 富 保

、 而 今 以 之 永寄 仏 餉 人 供 也

[

史 料 二]

『 紀 伊 続 風 土 記

』高 野山 之 部 巻四

、谷 上 院堂 社 院家 上

、 無量 寿 院(

『 続 真言 宗 全 書

』第 三 十七

無 量 寿 院

名 室、 門 主、

( 中 略

宝 塔 一 基

二 間 四 方

弥 陀 堂

一 宇

釈 迦 堂

一 宇 如 上 の 塔 并 に 弥 陀・ 釈 迦 の 二 堂 共 に 牧 四 郎 左 衛 門 入 道 政 西

、 仁 治 元 年 建 立 す

、 仁 治 元 年( 一 二 四

)、 無 量 寿 院 塔 行 法 が 営 ま れ た 後

、堂 塔 建 立 に 取 り 掛 か り

、 同 三 年

( 一 二 四 二

) 三 月 二 十 七 日 よ り 三 日 間 に わ た り

、 宝 塔 一 基

・ 阿 弥 陀 堂

・ 釈 迦 堂 の 落 慶 法 要 が 営 ま れ た

。 淡 路 守 護 牧

( 牧 野

) 政 西 は 竣 工 に 際 し

、 妻 大 河 戸 比 丘 尼 の 相 折 所 で あ っ た 加 賀 国 益 富 保 を 堂 塔 領 と し て 寄 進 し た こ と が 確 認 で き る

。 こ こ で

、法 名 政 西 を 名 乗 る 淡 路 守 護 を 特 定 し て い き た い

。 鎌 倉 期

、 淡 路 守 護 を 務 め た の は

、 下 野 国 長 沼 荘 を 拠 点 と し た 長 沼 氏 で あ る

。 長 沼 氏 は 藤 原 秀 郷 の 末 裔 で あ り

、 下 野 国 小 山 政 光 の 二 男 宗 政 を 祖 と す る

。 宗 政 が 諸 国 に 諸 職

・ 所 領 を 持 っ て い た こ と は

、 寛 喜 二 年

( 一 二 三

) 八 月 十 三 日

、 宗 政 が 嫡 子 四 郎 左 衛 門 尉 時 宗 に 所 領

・ 諸 職 等 を 譲 与 す る 際 に 作 成 し た 譲 状 で 確 認 で き る が

、 そ の 中 に 淡 路 国 守 護 職

・ 同 国 地 頭 職 が 含 ま れ て い る

。後 に 時 宗 は

、建 長 元 年( 一 二 四 九

)四 月 二 十 三 日 の 譲 状 10

、嫡 子 又 四 郎 宗 泰 に 代 々

3 2

(4)

2

年( 一 九 一 三

)に 宝 性 院 と 合 併

、宝 寿 院 と 改 称 し 現 在 に 至 っ て い る

。 そ の た め

『 高 野 山 宝 寿 院 文 書

』 の 中 に

、 無 量 寿 院 に 関 す る 史 料 が 含 ま れ て い る

。 高 野 山 領 荘 園 の 研 究 は

、 戦 前 の 江 頭 恒 治

『 高 野 山 領 荘 園 の 研 究

以 降

、多 く の 成 果 が 存 在 す る が

、高 野 山( 金 剛 峯 寺

) を 構 成 す る 山 内 子 院 領 に つ い て の 専 論 は 極 め て 少 な い

。 こ の よ う な 状 況 に お い て 斎 藤 利 男 の 研 究

、 鎌 倉 期 の 紀 伊 国 一 帯 に 分 布 す る 高 野 山 領 荘 園( 高 野 山 膝 下 荘 園

) に 有 し た 同 山 子 院 領 を 理 解 す る 上 で 重 要 で あ る

。 斎 藤 は

、 代 表 的 な 膝 下 荘 園 で あ る 官 省 符 荘 内 に 所 有 す る 無 量 寿 院 領 の 考 察 を 通 じ て

、 高 野 山 有 力 子 院 領 の 構 造 を 一 般 化 し よ う と し た

。 こ れ に よ る と

、 無 量 寿 院 は 官 省 符 荘 内 の 土 豪

・ 地 主 層 を 寺 僧 化 し

、 彼 ら が 有 す る 所 領

( 地 主 権 保 有 地

) を 院 領 と し て 吸 収 し た

。 斎 藤 は

、 こ の よ う な 同 山 子 院 が 膝 下 荘 園 に 領 有 し た 所 領 を

、 子 院

「 私 領

」 と 名 付 け た

。 無 量 寿 院 は 官 省 符 荘 河 北 一 円 に 所 領

( 私 領

) を 有 し

、 領 内 の 里 坊 を 拠 点 と し

、 上 路 山 里 坊 内 の 末 寺 盛 法 寺

( 入 町 寺

) と 共 に

、 村 落 に 対 し て 支 配 者 的 な 機 能 を 有 し た

。 ま た

、 膝 下 荘 園 の 一 つ 荒 川 荘 に も 田 畠 を 所 有 し て い た

。 し か し

、 斎 藤 の 考 察 対 象 は あ く ま で も 膝 下 荘 園 群 で あ る た め

、 遠 隔 地 荘 園 で あ る 益 富 保 に つ い て は 言 及 が な い

。 ま た

、 益 富 保 の 先 行 研 究

に お い て

、同 荘 を 高 野 山 領 の 視 点 か ら 考 察 し た 専 論 は な く

、 そ の た め

、 無 量 寿 院 の 寺 領 経 営 の 全 容 は 解 明 に 至 っ て い な い

。 そ こ で 本 稿 で は

、 無 量 寿 院 領 と し て の 視 点 か ら 益 富 保 を 考 察 す る と 共 に

、 当 該 期 に お け る 同 院 の 事 跡 に つ い て 検 討 し て い き た い

。 そ の 手 段 と し て

、 無 量 寿 院 堂 塔 建 立

・ 同 院 へ の 益 富 保 寄 進 に つ い て の 考 察 を 軸 と し て

、政 西 と 長 沼 氏

、 お よ び 長 沼 氏 と 無 量 寿 院 と の 関 連 性

、 ま た 同 保 を め ぐ る 無 量 寿 院 と 政 西 一 族 の 訴 訟 等 に つ い て 検 討 し て い く

。 こ れ に よ り 堂 塔 建 立 や 益 富 保 寄 進 の 意 図

、 同 院 に お け る 同 保 の 位 置 づ け を 明 ら か に し て い き た い

。 ま た

、 法 脈

( 血 脈

) 等 を 手 が か り に

、 当 該 鎌 倉 期 の 無 量 寿 院 歴 代 院 主 お よ び

、 堂 塔 建 立 に 関 わ っ た 人 物 等 を 特 定 し て い く こ と が 本 稿 の 目 的 で あ る

一 章 加 賀 国 益 富 保 と 下 野 国 長 沼 氏 第 一 節 淡 路 守 護 牧 ( 牧 野

) 政 西 に よ る 無 量 寿 院 堂 塔 建 立

本 節 で は

、 淡 路 守 護 牧

( 牧 野

) 政 西 に よ る 無 量 寿 院 堂 塔 の 建 立

、 お よ び 加 賀 国 益 富 保 の 寄 進 に つ い て 考 察 し て い き た い

。 ま ず

、 堂 塔 建 立 に 関 わ る 史 料 を 掲 げ る

3

[

史 料 一]

『 高 野 春 秋

※ 史 料中 の 傍線 は 筆 者に よ る

玆 年

( 仁 治 元 年

古 史失 月 日、

無 量 寿 院 塔 行 法

、 始 置 阿 闍 梨 三 口

口 碑

( 1

集云

、道 範闍 梨 為之 願 主

、世 唱 道範 之 廟 基者 非 也

、院 譜

( 2

、院 主 静 能之 時

、北 条 家外 戚 淡 州守 護 牧野 四 郎 左衛 門 入 道 沙 弥政 西 発 願、 申 請関 東

、附 堂 塔之 仏 餉 人供

、 然政 西

( 3

之 二 男 没 収 益 富 保

( 賀 州

)、 仍 九 人供 僧

・ 六 人 承 仕

、 殊 院 主 静 能 愁訴 于 関 東云 云

、 三 月 廿 七 日

( 同 三 年

、 無 量 寿 院 塔 一 基

( 宝 塔

・ 堂 二 殿

( 阿 弥 陀 堂

・ 釈 迦 堂

点 卜 三 个 日

、 次 第 落 慶 之

、 是 依 淡 路 守 護 牧 七 郎 左 衛 門 入 道 政 西

、 永 世 被 寄 附 於 妻 室 大 河 比

[

戸 脱]

丘 尼 相 折 所 加 州 益 富 保

、 是 為 天 下 泰 平

・ 五 穀 成 熟

・ 夫 妻 安 全

・ 二 世 悉 地 也

、 院 記 云

、政 西 即 日以 署 判、 賜 寄附 状

、此 入

( 4

道者

、 北 条家 牧 野 御 方 之 好 拝 領 加 賀 国内 益 富 保

、 而 今 以 之永 寄 仏 餉 人 供 也

[

史 料 二]

『 紀 伊 続 風 土 記

』高 野山 之 部 巻四

、谷 上 院堂 社 院家 上

、 無量 寿 院(

『 続 真言 宗 全 書』 第 三 十七

無 量 寿 院

名 室、 門 主、

( 中 略

宝 塔 一 基

二 間 四 方

弥 陀 堂

一 宇

釈 迦 堂

一 宇 如 上 の 塔 并 に 弥 陀・ 釈 迦 の 二 堂 共 に 牧 四 郎 左 衛 門 入 道 政 西

、 仁 治 元 年 建 立 す

、 仁 治 元 年( 一 二 四

)、 無 量 寿 院 塔 行 法 が 営 ま れ た 後

、堂 塔 建 立 に 取 り 掛 か り

、 同 三 年

( 一 二 四 二

) 三 月 二 十 七 日 よ り 三 日 間 に わ た り

、 宝 塔 一 基

・ 阿 弥 陀 堂

・ 釈 迦 堂 の 落 慶 法 要 が 営 ま れ た

。 淡 路 守 護 牧

( 牧 野

) 政 西 は 竣 工 に 際 し

、 妻 大 河 戸 比 丘 尼 の 相 折 所 で あ っ た 加 賀 国 益 富 保 を 堂 塔 領 と し て 寄 進 し た こ と が 確 認 で き る

。 こ こ で

、法 名 政 西 を 名 乗 る 淡 路 守 護 を 特 定 し て い き た い

。 鎌 倉 期

、 淡 路 守 護 を 務 め た の は

、 下 野 国 長 沼 荘 を 拠 点 と し た 長 沼 氏 で あ る

。 長 沼 氏 は 藤 原 秀 郷 の 末 裔 で あ り

、 下 野 国 小 山 政 光 の 二 男 宗 政 を 祖 と す る

。 宗 政 が 諸 国 に 諸 職

・ 所 領 を 持 っ て い た こ と は

、 寛 喜 二 年

( 一 二 三

) 八 月 十 三 日

、 宗 政 が 嫡 子 四 郎 左 衛 門 尉 時 宗 に 所 領

・ 諸 職 等 を 譲 与 す る 際 に 作 成 し た 譲 状 で 確 認 で き る が

、 そ の 中 に 淡 路 国 守 護 職

・ 同 国 地 頭 職 が 含 ま れ て い る

。後 に 時 宗 は

、建 長 元 年( 一 二 四 九

)四 月 二 十 三 日 の 譲 状 10

、嫡 子 又 四 郎 宗 泰 に 代 々

3 2

(5)

4

相 伝 の 諸 職 で あ る 下 野 国 御 厩 別 当 職 を 譲 っ て い る こ と か ら

、 恐 ら く こ の 前 後 に 宗 泰 に 代 替 わ り し た と 推 察 さ れ る

。 よ っ て こ の 二 本 の 譲 状 か ら 時 宗 の 守 護 在 職 期 間 が ほ ぼ 特 定 で き る た め

、 仁 治 年 間 の 淡 路 守 護 は

、 時 宗 と み て 間 違 い な い

。 し か し

、「 結 城 白 河 系 図

(『 白 河 結 城 家 文 書

』)

・『 尊 卑 分 脈

』・

「 長 沼 系 図

」 等 の 諸 系 図

11

、 時 宗 が 法 名 政 西 を 名 乗 っ た 記 録 は な く

、 そ の た め 政 西 と 時 宗 が 同 一 人 物 で あ る か 検 討 を 要 す る

。こ れ に つ い て は

、『 南 海 流 浪 記

』が 手 掛 か り と な る

。 こ の 紀 行 文 は

、 道 範 が 高 野 山 伝 法 院 と の 抗 争 の 結 果

、 仁 治 四 年 に 讃 岐 国 に 配 流 さ れ た 六 年 余 り の 行 動 に つ い て

、 道 範 自 ら 著 し た も の で あ る

。 道 範 は

、 中 世 高 野 山 を 代 表 す る 学 侶 で

、 同 山 正 智 院

・ 宝 光 院 の 院 主 を 歴 任 す る と 共 に 京 都 に 出 て 禅 林 寺 等 で 研 鑽 を 積 み

、 多 く の 著 作 を 残 し て い る

。こ の『 南 海 流 浪 記

』の 異 本

12

、「 淡 路 ノ 守 護 所 四

[

牧 野 イ]

郎 左 衛 門 ノ 尉

[

殿 イ]

」と の 記 載 が あ り

、淡 路 守 護 時 宗 を 牧 野 四 郎 左 衛 門

( 尉

) と 称 し た こ と が 確 認 で き る

。 淡 路 守 護 政 西 も 牧 野 四 郎 左 衛 門 を 名 乗 っ て い る こ と か ら

、 政 西 を 四 郎 左 衛 門 尉 時 宗 に 比 定 し て も 問 題 が な い で あ ろ う

13

政 西 こ と 長 沼 時 宗 は

、 益 富 保 寄 進 直 後 の 仁 治 三 年 六 月

、 同 保 の 年 貢 細 目 を 定 め た 相 折 帳

( 支 配 状

) を 作 成 し た

[

史 料 三] 加 賀 国 益 富 保 年 貢 無 量 寿 院 一 年 中 仏 事

・ 人 供 用 途 支 配 状 写

『金 剛 峯 寺諸 院 家析 負 輯 一

』 谷 上一

、 無 量 寿院

、『 過 去帳 写 並院 譜

』(

『続 真 言宗 全 書

』第 三 十 四)

※史 料 中 の傍 線 は 筆者 に よる 相折 帳 案 定 置 加 賀 国 益 富 保 年 貢 無 量 寿 院 一 年 中 仏 事 并 人 供 用 途 支 配 事

合 一

、 正 月 修 正 御 壇 供 料 米 貮 石 陸 斗 粉 料 加定

、 一

、 春 彼 岸 僧 膳 料 米 壱 石 壱 斗 肆 舛 酒 料 参斗 加 定、 一

、 八 月 廿 六 日 僧 膳 料 米 壱 斗 又湯

( 1

料 参 斗、 一

、 正 月 十 八 日 僧 膳 料 米 壱 斗 又湯

( 2

料 参 斗、 一

、 七 月 十 五 日 瓫 供 料 参 斗 一

、 秋 彼 岸 僧 膳 料 米 壱 石 壱 斗 肆 舛 酒 料 参斗 加 定、

已 上

、 伍 斛 肆 斗 肆 舛 一

、 供 僧 九 人 供 米 各 参 石

、 合 貮 拾 漆 石

惣 都 合 参 拾 貮 斛 肆 斗 肆 舛

、 高 野 運上 定

仁 治 三 年

壬 寅六 月 日

沙 弥 政 西 在 判 第 一 条 の 正 月 修 正 御 壇 供 料 米 か ら 第 六 条 の 秋 彼 岸 僧 膳 料

5

米 ま で の 小 計

( 下 の 小 さ く 書 か れ た 箇 所 は 除 く

) は 五 石 三 斗 八 升

( 舛

) だ が

、 史 料 で は 五 石 四 斗 四 舛 と 記 載 す る

。 第 三

・四 条 に は

、僧 膳 料 米 一 斗 と は 別 に「 又 湯 料 参 斗

」( 史 料 三

、下 線 1・ 2

)と あ る が

、仮 に こ の 三 斗 が 三 升 の 誤 記( あ る い は 誤 読

) な ら ば

、 そ の 分 を 加 え る と 小 計 が 一 致 す る

。 ま た 堂 塔 建 立 に 際 し 九 名 の 供 僧 が 設 置 さ れ

、 供 僧 一 人 分 の 供 米 と し て 三 石 が 充 て ら れ

、 九 人 分 で 二 十 七 石 と な り

、 先 ほ ど の 小 計 分 と 合 わ せ

、 総 計 三 十 二 石 四 斗 四 升 が 益 富 保 か ら の 寄 進 分 で あ る

。 つ ま り

、 益 富 保 か ら の 年 貢 が 無 量 寿 院 堂 塔 の 仏 餉 人 供 料 と し て

、 仏 事 お よ び 供 僧 の 収 入 を 賄 う 根 本 財 源 に な っ て い た の で あ る

第 二 節 益 富 保 を め ぐ る 訴 訟

( 一

後 に 益 富 保 か ら の 年 貢( 仏 餉 人 供 料

)停 滞 が 原 因 と な り

、 無 量 寿 院 供 僧 た ち は

、 同 保 雑 掌 職 を 務 め る 政 西

( 時 宗

) 子 息 三 郎 左 衛 門 入 道 の 改 補 を 求 め

、 幕 府 に 愁 訴 し た

。 本 節 で は

、 こ の 訴 訟 を 中 心 に 検 討 し て い き た い

。 ま ず

、 弘 長 元 年

( 一 二 六 一

) 七 月 二 十 二 日

、 院 主 静 能 を 含 む 九 人 の 供 僧 が 幕 府 に 提 出 し た 解 状 を 見 て い こ う

[

史 料 四] 無 量 寿 院 供 僧

・ 院 主 静 能 連 署 解 文 写

『 金 剛 峯寺 諸 院

家析 負 輯 一

』谷 上一

、無 量寿 院

、『 過 去 帳 写並 院 譜

』(

『 続 真言 宗 全 書』 第 三 十四

※ 史 料中 の 傍 線は 筆 者 によ る 高 野 山 無 量 寿 院 供 僧

・ 院 主 謹 解

欲 被 致 殊 蒙 御 裁 許 被 成 定 無 量 寿 院 堂 塔 領 加 賀 国 益 富 保 雑 掌 職

・ 仏 聖 人 供 并 修 理 等 沙 汰 事 右

、 益 富 保

、 元 者 故 大 河 戸 比 丘 尼 相 伝 領 所 也

、 而 与 故 牧 七[] 郎 左 衛 門 入 道 政 西

、 依 為 年 来 之 夫 妻

、 被 寄 進 此 庄 於 無 量 寿 院 堂 塔

、経 数 十 箇 年 之 処

、牧 入 道 政 西 逝 去 之 後

、子 息

( 1

三 郎 左 衛 門 入 道 雖 致 此 庄 之 沙 汰

、 全 非 三 郎 左 衛 門 入 道 私 領

、 無 量 寿 院 堂 塔 領 也

、 然 者 雖 蒙 彼 入 道 御 誡

、 何 可 及 当 庄 御 没 収 乎

、因 茲 仏 聖 人 供 此 此

[

比 ヵ]

五 箇 年 皆 悉 令 闕 如 畢

、是 難 堪 之 愁 也

、 抑 此

( 2

堂 二 宇

・ 塔 一 基 者

、 故 牧 入 道 政 西 為 奉 訪 故 北 条 殿

( 泰 時

御 菩 提

、 一 度 造 畢 之

、 三 日 供 養 之

、 而 自 草 創 以 来 既 年 序 多

、 檐 傾 甍 破

、 雨 侵 露 滴 雨 露 者

、 常 洗 尊 容

、 供 灯 者 鎮 闕 仏 前

、 雖 然 任 願 主 之 素 意

、 修 長 日 之 行 法

、 祈 北 条 殿 菩 提

、 訪 牧 入 道 後 生

、 仍 六 人 承 仕 者

、 只 折 櫁 花 僅 備 仏 前

、九 人 供 僧 者

、空 展 供 養

、久 重 星 霜

、凡 供 灯 闕 如

、 堂 塔 破 壊

、 何 不 嘆 乎

、 又 不 悲 乎

、 所 詮 当 庄 御 没 収 之 上

、 無 善 心 之 雑 掌 故 也

、 伯 耆

( 3

前 司 政 泰 者

、 為 彼 入 道

( 政 西

之 子 息

、 且 為 其 器 量 歟

、 尤 被 仰 付 彼 人

、 仏 聖 人 供

・ 修 理 等 無 闕 如

5 4

(6)

4

相 伝 の 諸 職 で あ る 下 野 国 御 厩 別 当 職 を 譲 っ て い る こ と か ら

、 恐 ら く こ の 前 後 に 宗 泰 に 代 替 わ り し た と 推 察 さ れ る

。 よ っ て こ の 二 本 の 譲 状 か ら 時 宗 の 守 護 在 職 期 間 が ほ ぼ 特 定 で き る た め

、 仁 治 年 間 の 淡 路 守 護 は

、 時 宗 と み て 間 違 い な い

。 し か し

、「 結 城 白 河 系 図

(『 白 河 結 城 家 文 書

』)

・『 尊 卑 分 脈

』・

「 長 沼 系 図

」 等 の 諸 系 図

11

、 時 宗 が 法 名 政 西 を 名 乗 っ た 記 録 は な く

、 そ の た め 政 西 と 時 宗 が 同 一 人 物 で あ る か 検 討 を 要 す る

。こ れ に つ い て は

、『 南 海 流 浪 記

』が 手 掛 か り と な る

。 こ の 紀 行 文 は

、 道 範 が 高 野 山 伝 法 院 と の 抗 争 の 結 果

、 仁 治 四 年 に 讃 岐 国 に 配 流 さ れ た 六 年 余 り の 行 動 に つ い て

、 道 範 自 ら 著 し た も の で あ る

。 道 範 は

、 中 世 高 野 山 を 代 表 す る 学 侶 で

、 同 山 正 智 院

・ 宝 光 院 の 院 主 を 歴 任 す る と 共 に 京 都 に 出 て 禅 林 寺 等 で 研 鑽 を 積 み

、 多 く の 著 作 を 残 し て い る

。こ の『 南 海 流 浪 記

』の 異 本

12

、「 淡 路 ノ 守 護 所 四

[

牧 野 イ]

郎 左 衛 門 ノ 尉

[

殿 イ]

」と の 記 載 が あ り

、淡 路 守 護 時 宗 を 牧 野 四 郎 左 衛 門

( 尉

) と 称 し た こ と が 確 認 で き る

。 淡 路 守 護 政 西 も 牧 野 四 郎 左 衛 門 を 名 乗 っ て い る こ と か ら

、 政 西 を 四 郎 左 衛 門 尉 時 宗 に 比 定 し て も 問 題 が な い で あ ろ う

13

政 西 こ と 長 沼 時 宗 は

、 益 富 保 寄 進 直 後 の 仁 治 三 年 六 月

、 同 保 の 年 貢 細 目 を 定 め た 相 折 帳

( 支 配 状

) を 作 成 し た

[

史 料 三] 加 賀 国 益 富 保 年 貢 無 量 寿 院 一 年 中 仏 事

・ 人 供 用 途 支 配 状 写

『金 剛 峯 寺諸 院 家析 負 輯 一

』 谷 上一

、 無 量 寿院

、『 過 去帳 写 並院 譜

』(

『続 真 言 宗全 書

』第 三 十 四)

※史 料 中 の 傍線 は 筆者 に よる 相折 帳 案 定 置 加 賀 国 益 富 保 年 貢 無 量 寿 院 一 年 中 仏 事 并 人 供 用 途 支 配 事

合 一

、 正 月 修 正 御 壇 供 料 米 貮 石 陸 斗 粉 料 加定

、 一

、 春 彼 岸 僧 膳 料 米 壱 石 壱 斗 肆 舛 酒 料 参斗 加 定、 一

、 八 月 廿 六 日 僧 膳 料 米 壱 斗 又湯

( 1

料 参 斗、 一

、 正 月 十 八 日 僧 膳 料 米 壱 斗 又湯

( 2

料 参 斗、 一

、 七 月 十 五 日 瓫 供 料 参 斗 一

、 秋 彼 岸 僧 膳 料 米 壱 石 壱 斗 肆 舛 酒 料 参斗 加 定、

已 上

、 伍 斛 肆 斗 肆 舛 一

、 供 僧 九 人 供 米 各 参 石

、 合 貮 拾 漆 石

惣 都 合 参 拾 貮 斛 肆 斗 肆 舛

、 高 野 運上 定

仁 治 三 年

壬 寅六 月 日

沙 弥 政 西 在 判 第 一 条 の 正 月 修 正 御 壇 供 料 米 か ら 第 六 条 の 秋 彼 岸 僧 膳 料

5

米 ま で の 小 計

( 下 の 小 さ く 書 か れ た 箇 所 は 除 く

) は 五 石 三 斗 八 升

( 舛

) だ が

、 史 料 で は 五 石 四 斗 四 舛 と 記 載 す る

。 第 三

・四 条 に は

、僧 膳 料 米 一 斗 と は 別 に「 又 湯 料 参 斗

」( 史 料 三

、下 線 1・ 2

)と あ る が

、仮 に こ の 三 斗 が 三 升 の 誤 記( あ る い は 誤 読

) な ら ば

、 そ の 分 を 加 え る と 小 計 が 一 致 す る

。 ま た 堂 塔 建 立 に 際 し 九 名 の 供 僧 が 設 置 さ れ

、 供 僧 一 人 分 の 供 米 と し て 三 石 が 充 て ら れ

、 九 人 分 で 二 十 七 石 と な り

、 先 ほ ど の 小 計 分 と 合 わ せ

、 総 計 三 十 二 石 四 斗 四 升 が 益 富 保 か ら の 寄 進 分 で あ る

。 つ ま り

、 益 富 保 か ら の 年 貢 が 無 量 寿 院 堂 塔 の 仏 餉 人 供 料 と し て

、 仏 事 お よ び 供 僧 の 収 入 を 賄 う 根 本 財 源 に な っ て い た の で あ る

第 二 節 益 富 保 を め ぐ る 訴 訟

( 一

後 に 益 富 保 か ら の 年 貢( 仏 餉 人 供 料

)停 滞 が 原 因 と な り

、 無 量 寿 院 供 僧 た ち は

、 同 保 雑 掌 職 を 務 め る 政 西

( 時 宗

) 子 息 三 郎 左 衛 門 入 道 の 改 補 を 求 め

、 幕 府 に 愁 訴 し た

。 本 節 で は

、 こ の 訴 訟 を 中 心 に 検 討 し て い き た い

。 ま ず

、 弘 長 元 年

( 一 二 六 一

) 七 月 二 十 二 日

、 院 主 静 能 を 含 む 九 人 の 供 僧 が 幕 府 に 提 出 し た 解 状 を 見 て い こ う

[

史 料 四] 無 量 寿 院 供 僧

・ 院 主 静 能 連 署 解 文 写

『 金 剛 峯寺 諸 院

家析 負 輯 一

』谷 上一

、無 量寿 院

、『 過 去 帳 写並 院 譜

』(

『 続 真言 宗 全 書』 第 三十 四

※ 史 料中 の 傍 線は 筆 者 によ る 高 野 山 無 量 寿 院 供 僧

・ 院 主 謹 解

欲 被 致 殊 蒙 御 裁 許 被 成 定 無 量 寿 院 堂 塔 領 加 賀 国 益 富 保 雑 掌 職

・ 仏 聖 人 供 并 修 理 等 沙 汰 事 右

、 益 富 保

、 元 者 故 大 河 戸 比 丘 尼 相 伝 領 所 也

、 而 与 故 牧 七[] 郎 左 衛 門 入 道 政 西

、 依 為 年 来 之 夫 妻

、 被 寄 進 此 庄 於 無 量 寿 院 堂 塔

、経 数 十 箇 年 之 処

、牧 入 道 政 西 逝 去 之 後

、子 息

( 1

三 郎 左 衛 門 入 道 雖 致 此 庄 之 沙 汰

、 全 非 三 郎 左 衛 門 入 道 私 領

、 無 量 寿 院 堂 塔 領 也

、 然 者 雖 蒙 彼 入 道 御 誡

、 何 可 及 当 庄 御 没 収 乎

、因 茲 仏 聖 人 供 此 此

[

比 ヵ]

五 箇 年 皆 悉 令 闕 如 畢

、是 難 堪 之 愁 也

、 抑 此

( 2

堂 二 宇

・ 塔 一 基 者

、 故 牧 入 道 政 西 為 奉 訪 故 北 条 殿

( 泰 時

御 菩 提

、 一 度 造 畢 之

、 三 日 供 養 之

、 而 自 草 創 以 来 既 年 序 多

、 檐 傾 甍 破

、 雨 侵 露 滴 雨 露 者

、 常 洗 尊 容

、 供 灯 者 鎮 闕 仏 前

、 雖 然 任 願 主 之 素 意

、 修 長 日 之 行 法

、 祈 北 条 殿 菩 提

、 訪 牧 入 道 後 生

、 仍 六 人 承 仕 者

、 只 折 櫁 花 僅 備 仏 前

、九 人 供 僧 者

、空 展 供 養

、久 重 星 霜

、凡 供 灯 闕 如

、 堂 塔 破 壊

、 何 不 嘆 乎

、 又 不 悲 乎

、 所 詮 当 庄 御 没 収 之 上

、 無 善 心 之 雑 掌 故 也

、 伯 耆

( 3

前 司 政 泰 者

、 為 彼 入 道

( 政 西

之 子 息

、 且 為 其 器 量 歟

、 尤 被 仰 付 彼 人

、 仏 聖 人 供

・ 修 理 等 無 闕 如

5 4

(7)

6

、 常 住 仏 陀 者

、 再 受 供 灯

、 無 縁 供 僧 者

、 新 属 供 料

、 若 然 者 供 僧 等 各 々 面 々 可 奉 祈 関 東 万 歳 之 御 蓮

[

運 ヵ]

者 也

、仍 供 僧 等 粗 勒 子 細

、 加 署 判

、 謹 以 解

弘 長 元年 七 月廿 二日

供僧 大 法師 仁 円( 花 押影

供 僧 阿闍 梨明 範

( 正 智 院

、 称 浄 房

(花 押 影) 供僧 大 法師 貞禅

( 花押 影

供 僧 阿闍 梨 明篋

(花 押 影) 供僧 入 寺 良 喜( 花 押影

供 僧 阿闍 梨 亮智

(花 押 影) 院 主供 僧 入寺 静 能

( 学 印 房

(花 押 影)

供 僧山 籠 俊 実

( マ マ

供僧 山籠

寛 範

( 花押 影

) こ の 史 料 は

、 静 能 の 院 主 就 任 期 を 確 認 し 得 る 最 も 早 い も の で あ る

。 訴 人 は

、 政 西 が 益 富 保 寄 進 の 際 に 新 た に 設 置 さ れ た 供 僧 九 人 で あ る

。 で は

、 史 料 を 読 み 解 い て い こ う

。 益 富 保 は 元 来

、 政 西 の 妻 室 大 河 戸 比 丘 尼 相 伝 料 所 で あ っ た と い う

。 こ れ は 妻 大 河 戸 比 丘 尼 の 相 折 所 で あ っ た と い う

『 高 野 春 秋

』 の 記 載 と 合 致 す る も の と い え る

。 確 か に

、 寛 喜 二 年 に 長 沼 宗 政 が 息 時 宗 に 譲 与 し た 諸 職

・ 所 領 中 に 同 保 が 見 え な い こ と か ら

、 長 沼 氏 相 伝 の 所 領 で は な い こ と は 確 か で あ る

。 し か し

、 武 蔵 国 大 河 戸 氏 出 身 と 推 察 さ れ る 時 宗 の 妻 が

、 同 保 を 相 伝 し た 経 緯 は 不 明 で あ る

。『 高 野 春 秋

』( 史 料 一

、 下 線 4

) に は

、 政 西( 時 宗) が 北 条 家 牧 野 方 の 好 に よ り 拝 領 し た 説 も 記 載 す る が

、 確 証 は な く

、 牧 姓 と 牧 の 方 と の

関 係 は 不 明 で あ る

。 政 西 死 去 後 は

、 三 郎 左 衛 門 入 道 が 益 富 保 雑 掌 と な り

、 同 保 を 沙 汰 し た

。同 保 は

、無 量 寿 院 堂 塔 領 で あ る に も 拘 ら ず

、 三 郎 左 衛 門 入 道 は 私 領 の ご と く 扱 い

、 つ い に 同 保 を 没 収 し た

。 そ の た め 約 五 年 間

、 仏 餉 人 供 料 が 未 納 と な り

、 愁 訴 に 至 っ た と い う

。 さ て

、 仏 餉 人 供 料 が 途 絶 え て 約 五 年 が 経 過 し た と い う こ と は

、 建 長 八 年

( 康 元 元 年

、 一 二 五 六

) 頃 か ら と い う こ と に な る

。 政 西

( 時 宗

) 没 年 は

、 建 長 元 年

( 一 二 四 九

) 頃 と 推 定 さ れ

14

よ っ て 政 西 死 去 後 の 約 七 年 間 は

、 仏 餉 人 供 料 は 納 入 さ れ て い た こ と に な る

。 堂 二 宇

・ 塔 一 基 は

、 政 西 が 北 条 泰 時 の 菩 提 を 訪 う た め に 一 度 に 建 立 し た が( 史 料 四

、 下 線 2

)、 仏 餉 人 供 料 停 滞 に よ り 泰 時・ 政 西 の 供 養 も 出 来 ず

、 堂 塔 の 檐

( 軒

) は 傾 き 甍 も 破 損 し

、 雨 露 が 入 っ て く る 有 様 と な っ た

。 そ こ で

、 供 僧 た ち は 三 郎 左 衛 門 入 道 に 代 わ り

、 政 西 の 子 息 伯 耆 前 司 政 泰 を 雑 掌 に 就 け る よ う 願 い 出 た の で あ っ た

( 史 料 四

、 下 線 3

)。 こ れ に よ る と

、 堂 塔 建 立 の 目 的 は

、 北 条 泰 時 の 菩 提 を 訪 う た め で あ っ た と い う

。 し か し

、 堂 塔 着 工 は 仁 治 元 年 で あ る の に 対 し て

、 泰 時 が 没 し た の は 同 三 年 六 月 十 五 日 で あ る

15

そ の た め 堂 塔 建 立 の 真 意 は

、 別 に あ っ た と 推 察 さ れ

7

。 こ れ に つ い て は

、 寄 進 者 政 西

( 時 宗

) の 父 宗 政 が

、 仁 治 元 年 十 一 月 十 九 日 に 本 領 下 野 国 長 沼 荘 で 没 し て い る こ と に 注 目 し た い

16

本 来 の 目 的 は

、 政 西 が 父 宗 政 の 菩 提 を 弔 う こ と に あ っ た と 推 察 さ れ る

。長 沼 氏 と 北 条 家 が 昵 懇 で

、 且 つ 落 慶 法 要 の 仁 治 三 年 三 月 二 十 七 日 と 泰 時 の 死 没 が 極 め て 近 い こ と も あ り

、 目 的 を 泰 時 の 法 要 に す る こ と で

、 相 論 の 裁 許 を 有 利 に 運 ぼ う と し た と 考 え ら れ る

。 と こ ろ で

、 政 西 息 の 三 郎 左 衛 門 入 道 が 罷 免 を 求 め ら れ た 雑 掌 職 は

、 本 来

、 荘 園 事 務 等 を 管 掌 す る 領 家 方 の 役 人 で あ る と 解 せ ら れ る

。 つ ま り 益 富 保 で は 政 西 の 一 族 が 領 家 無 量 寿 院 よ り 雑 掌 職 に 任 命 さ れ

、 寄 進 後 も 在 地 に お い て 実 質 的 な 荘 園 支 配 を 行 っ て い た の で あ る

。 し か し

、 三 郎 左 衛 門 は 本 来

、 武 家 方 で あ る た め

、 地 頭 的 性 格 を 有 し て い た

。 そ の た め 三 郎 左 衛 門 は

、 荘 園 領 主 で あ る 無 量 寿 院 の 支 配 に 従 わ な か っ た と 考 え ら れ る

。 原 則

、 荘 官 職 の 進 止 権 は 領 主 無 量 寿 院 に あ る が

、 解 決 に 至 ら ず

、 三 郎 左 衛 門 が 仕 え る 幕 府 に 訴 え た の で あ ろ う

第 三 節 益 富 保 を め ぐ る 訴 訟

( 二

弘 長 元 年 の 訴 訟 で は

、 供 僧 た ち の 要 求 は 遂 げ ら れ ず

、 そ の た め 約 十 二 年 後 の 文 永 十 年

( 一 二 七 三

) 五 月 に 供 僧 達 は

再 度

、 雑 掌 職 の 改 補 を 訴 え た

[

史 料 五] 無 量 寿 院 院 主 静 能 置 文 写『 金 剛峯 寺 諸 院家 析 負 輯 一

』 谷上 一

、無 量寿 院

、『 過 去帳 写 並院 譜

』(

『 続真 言 宗 全書

』 第三 十 四

※ 史 料中 の 傍 線は 筆 者 によ る 加 賀 国 石 川 郡 益 富 保 者

、無 量 寿 院 堂 塔 之 領 所 也

、而 牧 左

( 1

衛 門 六 郎 仏 聖 人 供 一 粒 一 銭

、 十 八 箇 年 之 間

、 不 致 其 沙 汰

、 仍 可 被 改 補 雑 掌 職 之 由

、供 僧 等 申 訴 訟

、若 令 成 就 者

、 四 条 右 衛 門 尉 殿 被 定 彼 庄 之 雑 掌 職 者

、 有 限 御 年 貢 無 一 塵 之 未 進

、 可 被 致 其 沙 汰

、 其 上 願 主 牧 入 道 殿 逝 去 之 後

、 有 新 開 之 田 数 十 町 之 由

、 風 聞 事 実 候 者

、 相 副 供 僧 使 者

、 遂 実 見

、随 所 当 之 員 数

、増 加 仏 聖 人 供

、可 定 雑 掌 職 得 分 之 由

、 評 定 候

、 訴 訟 成 就 之 時 者

、 可 有 御 存 知 候

、 凡 雖 至 于 子 々 孫 々

、 被 致 御 年 貢 之 懈 怠 時 者

、 改 彼 雑 掌 職

、 可 補 他 人 之 由

、 同 評 定 候

、 更 以 不 可 令 違 失

、 此 旨 給 之 状 如 件

文 永 十

酉癸

五 月

院 主 阿 闍 梨 静 能 こ の 置 文 は

、 供 僧 達 が 幕 府 に 提 出 し た 解 状 に 院 主 静 能 が 添 え た も の と 解 せ ら れ る

。 置 文 に よ る と

、 牧 左 衛 門 六 郎 は 十 八 年 間

、 仏 餉 人 供 料 を 全 く 納 入 し な か っ た

。 こ れ は

、 弘

7 6

(8)

6

、 常 住 仏 陀 者

、 再 受 供 灯

、 無 縁 供 僧 者

、 新 属 供 料

、 若 然 者 供 僧 等 各 々 面 々 可 奉 祈 関 東 万 歳 之 御 蓮

[

運 ヵ]

者 也

、仍 供 僧 等 粗 勒 子 細

、 加 署 判

、 謹 以 解

弘 長 元年 七 月廿 二日

供僧 大 法師 仁 円( 花 押影

供 僧 阿闍 梨明 範

( 正 智 院

、 称 浄 房

(花 押 影) 供僧 大 法師 貞禅

( 花押 影

供 僧 阿闍 梨 明篋

(花 押 影) 供僧 入 寺 良 喜( 花 押影

供 僧 阿闍 梨 亮智

(花 押 影) 院 主供 僧 入寺 静 能

( 学 印 房

(花 押 影)

供 僧山 籠 俊 実

( マ マ

供僧 山籠

寛 範

( 花押 影

) こ の 史 料 は

、 静 能 の 院 主 就 任 期 を 確 認 し 得 る 最 も 早 い も の で あ る

。 訴 人 は

、 政 西 が 益 富 保 寄 進 の 際 に 新 た に 設 置 さ れ た 供 僧 九 人 で あ る

。 で は

、 史 料 を 読 み 解 い て い こ う

。 益 富 保 は 元 来

、 政 西 の 妻 室 大 河 戸 比 丘 尼 相 伝 料 所 で あ っ た と い う

。 こ れ は 妻 大 河 戸 比 丘 尼 の 相 折 所 で あ っ た と い う

『 高 野 春 秋

』 の 記 載 と 合 致 す る も の と い え る

。 確 か に

、 寛 喜 二 年 に 長 沼 宗 政 が 息 時 宗 に 譲 与 し た 諸 職

・ 所 領 中 に 同 保 が 見 え な い こ と か ら

、 長 沼 氏 相 伝 の 所 領 で は な い こ と は 確 か で あ る

。 し か し

、 武 蔵 国 大 河 戸 氏 出 身 と 推 察 さ れ る 時 宗 の 妻 が

、 同 保 を 相 伝 し た 経 緯 は 不 明 で あ る

。『 高 野 春 秋

』( 史 料 一

、 下 線 4

) に は

、 政 西( 時 宗) が 北 条 家 牧 野 方 の 好 に よ り 拝 領 し た 説 も 記 載 す る が

、 確 証 は な く

、 牧 姓 と 牧 の 方 と の

関 係 は 不 明 で あ る

。 政 西 死 去 後 は

、 三 郎 左 衛 門 入 道 が 益 富 保 雑 掌 と な り

、 同 保 を 沙 汰 し た

。同 保 は

、無 量 寿 院 堂 塔 領 で あ る に も 拘 ら ず

、 三 郎 左 衛 門 入 道 は 私 領 の ご と く 扱 い

、 つ い に 同 保 を 没 収 し た

。 そ の た め 約 五 年 間

、 仏 餉 人 供 料 が 未 納 と な り

、 愁 訴 に 至 っ た と い う

。 さ て

、 仏 餉 人 供 料 が 途 絶 え て 約 五 年 が 経 過 し た と い う こ と は

、 建 長 八 年

( 康 元 元 年

、 一 二 五 六

) 頃 か ら と い う こ と に な る

。 政 西

( 時 宗

) 没 年 は

、 建 長 元 年

( 一 二 四 九

) 頃 と 推 定 さ れ

14

よ っ て 政 西 死 去 後 の 約 七 年 間 は

、 仏 餉 人 供 料 は 納 入 さ れ て い た こ と に な る

。 堂 二 宇

・ 塔 一 基 は

、 政 西 が 北 条 泰 時 の 菩 提 を 訪 う た め に 一 度 に 建 立 し た が( 史 料 四

、 下 線 2

)、 仏 餉 人 供 料 停 滞 に よ り 泰 時・ 政 西 の 供 養 も 出 来 ず

、 堂 塔 の 檐

( 軒

) は 傾 き 甍 も 破 損 し

、 雨 露 が 入 っ て く る 有 様 と な っ た

。 そ こ で

、 供 僧 た ち は 三 郎 左 衛 門 入 道 に 代 わ り

、 政 西 の 子 息 伯 耆 前 司 政 泰 を 雑 掌 に 就 け る よ う 願 い 出 た の で あ っ た

( 史 料 四

、 下 線 3

)。 こ れ に よ る と

、 堂 塔 建 立 の 目 的 は

、 北 条 泰 時 の 菩 提 を 訪 う た め で あ っ た と い う

。 し か し

、 堂 塔 着 工 は 仁 治 元 年 で あ る の に 対 し て

、 泰 時 が 没 し た の は 同 三 年 六 月 十 五 日 で あ る

15

そ の た め 堂 塔 建 立 の 真 意 は

、 別 に あ っ た と 推 察 さ れ

7

。 こ れ に つ い て は

、 寄 進 者 政 西

( 時 宗

) の 父 宗 政 が

、 仁 治 元 年 十 一 月 十 九 日 に 本 領 下 野 国 長 沼 荘 で 没 し て い る こ と に 注 目 し た い

16

本 来 の 目 的 は

、 政 西 が 父 宗 政 の 菩 提 を 弔 う こ と に あ っ た と 推 察 さ れ る

。長 沼 氏 と 北 条 家 が 昵 懇 で

、 且 つ 落 慶 法 要 の 仁 治 三 年 三 月 二 十 七 日 と 泰 時 の 死 没 が 極 め て 近 い こ と も あ り

、 目 的 を 泰 時 の 法 要 に す る こ と で

、 相 論 の 裁 許 を 有 利 に 運 ぼ う と し た と 考 え ら れ る

。 と こ ろ で

、 政 西 息 の 三 郎 左 衛 門 入 道 が 罷 免 を 求 め ら れ た 雑 掌 職 は

、 本 来

、 荘 園 事 務 等 を 管 掌 す る 領 家 方 の 役 人 で あ る と 解 せ ら れ る

。 つ ま り 益 富 保 で は 政 西 の 一 族 が 領 家 無 量 寿 院 よ り 雑 掌 職 に 任 命 さ れ

、 寄 進 後 も 在 地 に お い て 実 質 的 な 荘 園 支 配 を 行 っ て い た の で あ る

。 し か し

、 三 郎 左 衛 門 は 本 来

、 武 家 方 で あ る た め

、 地 頭 的 性 格 を 有 し て い た

。 そ の た め 三 郎 左 衛 門 は

、 荘 園 領 主 で あ る 無 量 寿 院 の 支 配 に 従 わ な か っ た と 考 え ら れ る

。 原 則

、 荘 官 職 の 進 止 権 は 領 主 無 量 寿 院 に あ る が

、 解 決 に 至 ら ず

、 三 郎 左 衛 門 が 仕 え る 幕 府 に 訴 え た の で あ ろ う

第 三 節 益 富 保 を め ぐ る 訴 訟

( 二

弘 長 元 年 の 訴 訟 で は

、 供 僧 た ち の 要 求 は 遂 げ ら れ ず

、 そ の た め 約 十 二 年 後 の 文 永 十 年

( 一 二 七 三

) 五 月 に 供 僧 達 は

再 度

、 雑 掌 職 の 改 補 を 訴 え た

[

史 料 五] 無 量 寿 院 院 主 静 能 置 文 写『 金 剛峯 寺 諸 院家 析 負 輯 一

』 谷上 一

、無 量寿 院

、『 過 去帳 写 並院 譜

』(

『 続真 言 宗 全書

』 第三 十 四

※ 史 料中 の 傍 線は 筆 者 によ る 加 賀 国 石 川 郡 益 富 保 者

、無 量 寿 院 堂 塔 之 領 所 也

、而 牧 左

( 1

衛 門 六 郎 仏 聖 人 供 一 粒 一 銭

、 十 八 箇 年 之 間

、 不 致 其 沙 汰

、 仍 可 被 改 補 雑 掌 職 之 由

、供 僧 等 申 訴 訟

、若 令 成 就 者

、 四 条 右 衛 門 尉 殿 被 定 彼 庄 之 雑 掌 職 者

、 有 限 御 年 貢 無 一 塵 之 未 進

、 可 被 致 其 沙 汰

、 其 上 願 主 牧 入 道 殿 逝 去 之 後

、 有 新 開 之 田 数 十 町 之 由

、 風 聞 事 実 候 者

、 相 副 供 僧 使 者

、 遂 実 見

、随 所 当 之 員 数

、増 加 仏 聖 人 供

、可 定 雑 掌 職 得 分 之 由

、 評 定 候

、 訴 訟 成 就 之 時 者

、 可 有 御 存 知 候

、 凡 雖 至 于 子 々 孫 々

、 被 致 御 年 貢 之 懈 怠 時 者

、 改 彼 雑 掌 職

、 可 補 他 人 之 由

、 同 評 定 候

、 更 以 不 可 令 違 失

、 此 旨 給 之 状 如 件

文 永 十

酉癸

五 月

院 主 阿 闍 梨 静 能 こ の 置 文 は

、 供 僧 達 が 幕 府 に 提 出 し た 解 状 に 院 主 静 能 が 添 え た も の と 解 せ ら れ る

。 置 文 に よ る と

、 牧 左 衛 門 六 郎 は 十 八 年 間

、 仏 餉 人 供 料 を 全 く 納 入 し な か っ た

。 こ れ は

、 弘

7 6

参照

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