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佐 竹 正 一

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(1)

176

︵1︶

マカーリエの本質が磁石であるという説がある︒ゲーテは磁石に

︵2︶

ついて実際原現象であると述べている︒彼女の本質を磁石とするこ

とで︑原現象の立場から論証され︑具体的な実例でマヵーリェの問

題が考察される︒そのように何か具体的な実例でしかも原現象にか

なう立場をえて実証的に論考するのが︑ゲーテ的な問題を考察する

のに適当な方法であるように思われる︒

磁石のような何か外に具体的な実在物を求めてマヵーリェの本質

を論ずることは不可能であるだろうか︒そこでこの小稿では︑シュ

タイガーが︑マカーリエを夢みる主人公ヴィルヘルムの夢について︑

﹁空の星と夢の星はゲーテの色彩論における太陽の光と眼のなかの 光に相応fが﹂と述べている論点を参照しながら︑ヴィルヘルムの

夢のなかで星になるマカーリエのことを考えあわせ︑右の引用文中

の星をマカーリエと読みかえて︑彼女の本質を﹁光﹂であると規定し︑

︵4︶

その光のもつ様々な可能性を色彩論の立場から検討したい︒その論

考を推論するためには︑ゲーテの色彩論における光が︑現象学的に

マカーリエについて︵佐竹正一︶ マカーリエについて

l﹃W・マィスター遍歴時代﹄からI

根拠づけられなければならないだろう︒現象学的な観点で引用文中

の﹁相応﹂という言葉の意味を考えれば︑それは現実に対応する理

念の相応ということであって外界に対する内界の可能性である︒こ

のような観点で︑色彩論は現象学によって根拠づけられうるのであ

る︒したがってマカーリエの本質をなすべく光は︑現象学的に変様

される光の作用に還元され︑彼女のもつ不思議な性格︵能力︶を様々

にそういう意味づけを現象学的に行うのであって︑自然の光のまま

の客観的な光線のことではない︒その光は原現象である︒なぜなら

現象学的還元を受けるのはゲーテの場合原現象に外ならないからで

ある︒原現象は体験された光といえる︒

しかしシュタィガーはヴィルヘルムの夢については上述のように

記しているだけであって︑マカーリエの本質との関連では何も述べ

ていない︒彼女の可能性を原現象の光に還元せず︑﹁同じものを同じ

︵5︶

もので﹂という問題点を解明しているにすぎない︒それとは別にマ

カーリエ関係では光の問題から注目すると︑長篇小説のなかで彼女

の影響が及ぶ範囲をシュタィガーはヨーテルの詩歌﹂と記してい

佐竹正一

五五

(2)

るが︑これは小説のなかにエーテルという言葉でそのまま表現され

︵6︶

ている︒またトゥルンッはこの小説の註解のなかで︑マカーリエ物

︵7︶

語を﹁光の神話﹂と呼んでいる︒しかしいずれにしてもマカーリエ

と光の関係を重視しながらも︑マヵーリエの本質を﹁光﹂とするよ

うな根源的な問い方は示していない︒だがマヵーリエの物語を﹁光 の神話﹂とか﹁エーテルの物語﹂とかいう観点は︑マカーリエの本

質を﹁光﹂とする考え方にとっては力強い論拠を与えてくれるとい

えるだろう︒もっともゲーテ自ら書き加えることを忘れなかったよ

うにマヵーリェは﹁光の神話﹂﹁エーテルの物語﹂と即応︵相応︶し て﹁地上の寓話﹂ということにも注目しなければなら繭け︒それは

マヵーリェにおける﹁世界性﹂として考察されるはずである︒その 前にマヵーリエの固有性として述べられている点を確認しておかな ければならない︒それは彼女の太陽系との固有な関係で血税︒

ゲーテにおいて光は一実に様々な可能性をもっている︒ここでは

細部にわたって詳述することはできないが︑巨視的にみればなんと

いってもマヵーリェの太陽系との固有な関係が︑彼女の本質を規定

しているといえよう︒なぜならゲーテ的にいえば天体の法則は﹁光﹂ の性質によって規定されているといえるからである︒そのような法

則がゲーテの場合には︑マヵーリエの﹁見る﹂という直観によって

示されているといわなければならない︒計算してみれば直観の結果

が数式と一致しているだけのことである︒色彩論の立場ではそのよ

うな直観としての見ることは光の観点から考察されなければならな いので廊奇こうみてくると︑マカーリエの固有性は︑太陽系との彼

女の固有な関係として︑﹁光﹂がその根底をなしているといわなけれ

ばならない・そのような光は色彩論のなかに述べられるのであるが︑ マヵーリェについて︵佐竹正一︶

再度強調すれば︑その光は色彩論には直接表現されていない根源を

つきとめて︑それを現象学的に︑あるいは存在論的な思考において 深化されなければならないだろう︒そこにこそ現代におけるマカー

リエの根源性があるのだと思う︒

かといって現象学的な変様を受けた光は︑ゲーテの場合は客観的

な自然の光線でもあるのであって︑客観が主観によって変様される

光は︑ゲーテ本来の立場で観察された光に外ならないのである︒色

彩論の言葉でいえば︑見る人の内なる光と見られる外の光との出会

い︵体験︶という現象によって説明される外はないのである︒ただ

現象学は色彩論に提示された可能性を根源的に証明するに外ならな

いのである︒前述の根拠づけという言葉の意味はそういう単純なも

のである︒

では次に光がゲーテによってどのように考えられていたのかを︑

特に色彩との関係で︑いくらか明らかにしておきたい︒一七六九年︑

ゲーテが十九才の時光について大変興味深い手紙を書いている︒﹁光

は真理である︒だが光の湧く太陽が真理ではない︒夜は非真理であ

︵Ⅲ︶

る・では美とは何だろう・美は光でも夜でもない・夕暮だ﹂そして夕暮

である﹁美﹂は真理と非真理とから生れる中間物なのである︒この

年代ではまだゲーテは色彩についての具体的な見解をもっていな

︵胆︶

かつた︒しかし手紙のなかで述べられている美が夕暮であって︑光

と闇との中間物なら︑色彩論の立場に通ずる素地は十分あったとい

うことができるだろう︒なぜなら外ならぬこの美の概念が後年色彩

論において色彩と命名されたからである︒﹁色彩の発生には︑光と暗

︵昭︶

黒︑明と暗が︑もっと一般的な言い方をすれば︑光と闇が作用しあう﹂

という仮定から︑色彩論が出発するのである︒作品﹃色彩論﹄は一 五六

(3)
(4)

旨彦のg①によって色彩論の明証性が保証されるといえるだろう︒マ

ヵーリェの場合でも︑ヴィルヘルムの例でも一号路篇によって私 が自己のなかに閉されるのではなく︑見た内容と自分が同じである

ことによって無限に太陽系のなかに解放されてゆくのである︒

しかし色彩論は感覚に対応する理念的な側面のみを強調するので

はない︒リアル即イデァルな面を双方共に重視しているのである︒ま

ずリアルな面を詳細にあるがままに観察している︒﹃色彩論﹄の﹁教 授法の部﹂第一章で︑色彩の主観的な側面が﹁生理学的色彩﹂とし て考察ざ九談︒それは眼に直接感覚として与えられる色彩現象であ

る︒それに対して客観的な色彩の側面は﹁物理的色彩﹂として第二 章で考察ざ松が︒しかしこの部門の色彩は原現象として把握されて

いることからもわかるように︑むしろ主観と客観の統一現象と考え

るべきである︒純枠に客観的な色彩現象は︑第三章で考察される﹁化 学的色彩﹂というべきであぶ︒それは物体に固有︵内在的︶な色彩

を表わしているのであるから︒﹁物理的色彩﹂は原現象のように主観 と客観の統一︑すなわち﹁生理学的色彩﹂と﹁化学的色彩﹂の結合

として考えるべきである︒現象学との関連でいえば︑主観と客観と

いうあい反する性質をもちながらも︑﹁生理学的色彩﹂と﹁化学的色 彩﹂は現象学的還元を受けないいわゆる括弧のなかに入らない現象

にすぎない︒現象学的還元を受けるのはしたがって両者の統一とし

ての﹁物理的色彩﹂に外ならない︒ゲーテはまた主観的な色彩現象 を﹁一時的﹂﹁偶然的﹂と呼んで職破︑化学的な物体に固有の色彩 ムは夢という直観によってマヵーリエの存在を確実なものにする︒ それらは一sの①言ということによって可能になる里9号呉のが現 象学的な明悲伴であるならば︑ゲーテの場合にはもっと具体的に マヵーリェについて︵佐竹正一︶

を存続的としている︒そして両者の性質が止揚された﹁物理的色彩﹂

は﹁持続的﹂といえるのであろう︒その持続性が原現象としての﹁物

理的色彩﹂の現象学的な意味において考察されるのである︒持続性

は現象学的時間性であるが︑それは問題の指摘だけにしておきたい︒

最初にマヵーリェの本質を磁石とすれば︑磁石は原現象的な立場か

ら考察可能であると述べたが︑彼女の本質を﹁光﹂に還元すれば︑ その光も色彩の原現象性から考察することは可能なのである︒マ

ヵーリェの本質をなす﹁光﹂は︑色彩論の立場に立って︑この現象

学的な観点から捉えられなければならない︒しかし前に断ったよう

に色彩論の立場は︑主観も客観もそのままリアルに考察されるので

あって︑その点現象学の方法とも異なる多様さをもっている︒だが

再度強調すれば︑マヵーリエの本質をなすと規定された光は︑現象

学的還元を受けたそれでなければならない︒もしそうでなければ︑

マヵーリェのもう様々な可能性の具体的な考察は不可能になるだろ

シハノ○

なんといってもマヵーリエの固有性は︑彼女と太陽系︵天体︶と

の固有な関係である︒その関係によって彼女には超越性がもたらさ

れるが︑マヵーリエのもつ世界性はこの超越性によって根拠づけら

れなければならない︒と同時にその固有性から彼女の人間性も現象

学的見解を介しながら存在論的に考察されなければならない︒作品

のなかで彼女が具体的に活躍するのは他の悩める人々との社会的な

関連であるのだから︑この問題を無視することはできない︒いやこ

の人間的な問題をいかにして根源から問うことができるのかという

ことを確認するためにこそ︑光のもつ可能性としての︑マヵーリェ

の本質を先に問うたにすぎないのである︒ 五八

(5)
(6)

れらのなかからまず最初にマヵーリエの姿を天空にみるヴィルヘル ムの夢の場合を考察したい︒その夢は光の作用によってひきおこさ

れる彩色のほどこされた天界のようである︒夢の夜空を満している

光は︑速度が時間的な制限を受けるのではなく︑真理として理念と

して︑人間を含めて世界の一切を前以って満している存在の光でな ければならない︒そのような主観的な超越性をもつ光が︑彼の夢を

彩っている︒そのような色彩のゆたかな夢lそれらの色彩は具体的

に色彩論の立場から考察可能なのであるが︑その夢のなかにあらわ

れてくるマヵーリェにヴィルヘルムは︑第一巻第十章で始めて出会

うのである︒この出会いが彼に夢を通して真理を伝えるのである︒

この真理を伝える方法はゲーテの場合夢に固有は性質であって︑色

彩論のなかでも﹁夢のなかで明るい日中と同じように物があらわれ てく厳﹄と述べている︒つまりシュタイガーが述べていたように夢

の内と外では相応関係があって︑おたがいが対応しあっているので ある︒だが︑マヵーリエがあらわれてくる夢を考えると夢は実際の

太陽の光のなかよりもいっそう純化した姿をみせてくれるだろう︒

そのような夢の純化作用は︑色彩論における﹁持続的﹂な現象と同

様現象学的還元の性質をもっているといえるだろう︒しかしまた純 化作用を受けても夢の内と外の相応関係が絶えないというのがゲー

テ的な思想である︒

ヴィルヘルムの夢を色彩論の立場で現象学的に概括するに先だっ てマヵーリェがこの長篇小説で具体的にどのようにあらわれてくる

かを粗描しておきたい︒ヴィルヘルムが最初に出会う第一巻第十章

と第三巻第十五章とが殆んどすべてマヵーリエに捧げられている︒

これらの部分からは︑ヴィルヘルムの夢の場面の解釈を含め︑マカー マヵーリェについて︵佐竹正一︶

リエの本質についての考察がえられる︒そして勿論そこから彼女に

おける世界性の問題もひき出せるのであるが︑彼女が悩める他の登

場人物とのかかわりあいは︑第二巻第五章や第三巻第十四章その他

において具体的に表現されている︒それらからは主として倫理性や

世界性の問題が提起されるのである︒

マヵーリエが姿をあらわしてヴィルヘルムと始めて出会うより先 に︑彼女の館を訪ねた主人公の前へ︑二人の人物があらわ鵡奇ひ

とりはまだ若い女性で身体の不自由なマヵーリエの身辺で世話して

いるアンゲーラであり︑彼女はマヵーリエの世界性︑倫理性の実践

的な役割を果す圏内に入って活躍する︒もうひとりは中年の男性で

あって︑彼は数学者にして哲学者︑さらに天文学者なる医師という

肩書きをもつ人物であるが︑この近代学科の精神をうけつぐ聡明な

男性は最初マカーリエの告げる天体の秘密を欺職としてしりぞけ ︵秘︒だが︑マカーリエの告げる太陽系の秘密が数学的に計算してみ

ると正確であることがわかると︑しだいにマカーリエの直観を認め

るようになるが︑この彼の変化の過程にいわゆるゲーテ的な学問の

在方が示されているように思う︒ゲーテ的マヵーリエの学問性が︑ その正当性をもつことを厳密な学としての普遍的現象学の見地で考

察することが可能になるだろうと思う︒I女主人に先立ってヴィ

ルヘルムの前にあらわれる二人の人物はそれぞれ異なった立場で︑

女主人の可能性の多様さを示しているのである︒

緑のカーテンが開いてマヵーリエが姿をあらわす︒﹁緑﹂の色彩論

上の意味は後述するが︑彼女は︑初老の威厳のある婦人であり︑身体

の不自由な彼女は二人の少女によって安楽椅子にのせられて運ばれ て金ず︒身体が不自由であるということは数学者にして天文学者な 六○

(7)
(8)

は勿論眠りにおちたからである︒緑のカーテンが開くのも事実と同

じである︒いやその反対であり︑事実のなかで真実なもののみが︑

夢のなかに登場するのである︒夢のなかに出現するもののみが︑現 象学的に考察可能なのである︒口夢のなかにあらわれてくる色彩に

注目しなければならない︒当然︑具体的にあらわれてくる色彩はそ のまま色彩論の立場で検討されうるわけである︒それらの色彩は

﹁緑﹂と﹁黄金﹂である︒雲も色彩とは直接関係ないが︑ゲーテの

場合雲は特別な象徴性をもつので︑色彩とは何らかの関連があるは ずで班承︒日彼女は神聖な姿をしている︒別な所で彼女は聖者とも

呼ばれている︒これはマヵーリエにおける倫理性︑世界性が問題に

なるとぎ問わなければならない内容である︒卿彼女が星になって︑

上昇し星空と一つになってすべてを包括するほど広がるようにふえ

る︒頭初にたてた論点は︑マヵーリエの本質が﹁光﹂ではないかと いうことであったが︑それはヴィルヘルムの夢のなかで彼女が星に

なるというアイデアから主として導びかれたものであった︒もっと

もその規定にはこの点ばかりでなく︑第三巻第十五章における太陽 系との固有な関係の説明も大きな役割を果したことはいうまでもな

いことであるが︒

問題のたてかたによっては確かに別な分類もあるであろうが︑こ

れまでの論点から以上のように分析しておきたいと思う︒なかでも 匂の項目はこの章で論ずべき問題でないので︑後述することになる

シhノ○

以上四つの問題点から明らかなように︑夢のなかにはマカーリエ

に関すること以外は全くあらわれてこない︒したがって夢はマカー

リェの本質を捉える一つの方法に外ならない︒しかもヴィルヘルム マヵーリェについて︵佐竹正一︶

が彼女の本質を認識できるたった一つの方法なのである︒夢は彼に

とってマヵーリエが本来そうあるべきものに純化還元する︒この純

化作用が現象学的還元としてこれまで論じてきた立場なのである︒

したがって夢はマヵーリエの本質を他の自我が認識しうる方法に外

ならないのである︒認識を可能にする還元純化作用によって︑夢は

体験のなかでもっとも純粋な体験であり︑無意識的な性格をもちな

がら︑現象学的にいえば意識そのものであって︑この夢・意識には

直接に本質が与えられ︑その本質を夢は独自の方法で認識するので

ある︒そのとぎ夢のなかにもあってしかも実在するもので︑夢の純

化還元作用を如実に表わしているのは雲である︒雲はまだ地上のも

のではあるが︑軽ろやかでいわば翼になってマカーリエを上へ上へ

と連れてゆくのである︒この上へつれてゆくことが笈女を皇と一つ

にするのであるから︑雲の作用は︑夢のなかで具体的にマカーリエ

の存在を本質へと近づける︒つまり雲はマカーリエが本来そうで

あったものに︑還元し彼女の存在を純化するのである︒彼女の本来

の姿は太陽系との固有な関係によって最初に与えられており︑その

固有性に帰ることが︑還元作用であり︑ヴィルヘルムにとっては︑

夢の純化作用に外ならないのである︒星になることは︑彼女の固有

性に帰ることであり︑その過程を翼をえたように上昇する雲が︑実

在物としてしかも夢のなかで︑明確に説明しているのである︒この

意味で雲の存在は見落してはならないものである︒だが雲は軽くと

も地上のものである︒星となったマヵーリエが姿をあらわすために

は︑雲が二つに分れて消えなくてはならない︒

夢は事実のなかから真実なもののみを選択する︒逆にいえば夢の

なかのものは︑マヵーリエに関するかぎり︑事実に相応している︒

一ハーー

(9)
(10)

一一一

マヵーリエの本質は他の自我から理解するためには︑ヴィルヘル

ムの場合には彼女を承る夢の純化作用によって現象学的還元を介し︑ 直観的に認識しなければならないと述べたが︑一方マカーリエ自身

の本質は彼女の個人としての人間性を規定する場合にはどのような 合すると︑色彩図式によれば上方に赤︵紫︶が出現するのである︒ こうして色彩の円環が閉じて︑一つの図式になり︑その象徴的な意 味をマカーリエの場合に求めれば︑下方にできた緑が地上の事象を あらわし︑上方にできる赤︵紫︶が天上の意味を象徴的に表現して いたわけであった︒

夢のなかにでてきた﹁黄金﹂色が︑もし地上のものである緑と天

上のものに属する赤︵紫︶とが一つになって生ずるのであれば︑図

式的に整然と説明されるのであろう︒なぜなら黄金は︑天なる神聖 さが地上の姿をとったものに外ならないからで殉すしかし黄金と

緑との色彩論的図式にしたがってはおこりえない現象である︒でも

とにかく黄金は天上の神聖さが地上の姿をとって︑しかも王者とし

て君臨することをあらわしている︒体の不自由なマヵーリエの坐っ

ていた安楽椅子が︑夢のなかでは︑形は同じであろうが︑黄金の光

を放って王庵となり︑そのままマカーリエのカリスマ的存在を示し

ており︑これは彼女の支配的な性格からみた社会性を象徴している︒

だがこの問題はマカーリエにおける世界性の問題となるであろう︒

しかしこのような社会性をもつ問題が色彩によって捉えられること

は色彩論における倫理性とあいまってゲーテ的な思想の特徴をよく

示しているといえよう︒ マカーリエについて︵佐竹正一︶

説明方法がとられるのだろうか︒それはマカーリエの本質として規

定した﹁光﹂と直接に関連していなければならない︒彼女の本質は

ヴィルヘルムの夢を通し色彩論的に﹁光﹂であると考察されたが︑

一方マヵーリェは︑太陽系との固有な関係をもっており︑これがマ

ヵーリェの国有性と規定されていたのであった︒そして光こそは︑

天体の秘密を解明する太陽系の法則とゑてきたのであった︒要する

に両者は光の現象とそれを観察する側との相応関係において対応し

ているのである︒だから彼女の存在は太陽系との固有な関係によっ

て規定されなければならない︒第三巻第十五章では︑彼女の個人性 と太陽系との関係から︑彼女の存在が円現と呼ばれて噸が︒この円 エンテレヒー

現は再度強するが彼女の太陽系との固有な関係から考察されなけれ

ばならない︒なぜならマヵーリエの本質について︑次のように説明さ

れて・いるからである︒﹁マヵーリエはわれわれの太陽系とはほとんど

言葉であらわせない関係にある︒精神︑魂︑想像力のなかに太陽系

をいだいて︑たんにそれを見るだけでなく︑彼女はいわば太陽系の

︵︶

一部をなしている﹂マヵーリエの固有性は根源的にはこの文章の意

味において考察されなければならない︒ここで特に注意しなければ

ならないことは︑﹁いわば太陽系の一部をなしている﹂ということで

ある︒意味を明確にするために原文の単語を引用すると﹁いわば﹂は

哩凰989であり︑﹁なしている﹂は日四sgである︒マカーリエを

存在論的に考えようとすると問題は極めて微妙である︒すなわちこ

の部分を彼女が太陽系の一部をなしていて︑彼女が直観する太陽系

の秘密は︑実はもともと自分自身の存在だったのであると読んでよ

ろしいかということである︒このような解釈は︑極限の世界︑太陽

系であるだけにEgg困日という単語が実に厄介な問題を含んで 六四

(11)

166

いる︒普遍的人間像をゲーテ的に考える場合には︑マヵーリェがそ

の頂点に立つといえるが︑このように規定する以外に方法がないの かもしれない︒しかしそのような巨大な問題を緩和する一つの方法

として︑太陽系における倫理性と諦観ということが問題にされるの

であろう︒

太陽系との関係によって円現としてのマヵーリエの存在が規定さ

れる︒これが彼女の固有性︵円現︶である︒この固有性は彼女に先 天的に与えられたものであり︑彼女の固有性はつねに太陽系との関

係から考えなければならない︒ヴィルヘルムの夢は︑彼女を星にする

ことによって彼女を本来の姿に還元したのである︒マヵーリェのこ

の本来性をとりもどすことが︑夢の純化作用であり︑それを認識す

るのに︑現象学的還元の方法を用いたのであった︒この方法で彼女

の円現︵固有性︶が確認されるのである︒ 先天的に星えられているマヵーリエの固有性について︑前述のア

ンゲーーフは次のように述べている︒﹁マカーリエ様には最初から︑わ

たしたちの太陽系との関係が︑︲全く天性のものです︒始めはその関 係が働きませんでしたが︑しだいに展開してゆき︑ますますはつき

︵妬︶

りと活動したのでした﹂これと同じことが︑第三巻第十五章の方で

も述べられている︒しかしこちらの方は︑どのように太陽系のなか

で活動したかを説明している︒﹁彼女はあの天界で自分が遠くへひか

れてゆくのをみる.⁝:彼女は子供の時から太陽の周りを回り︑しか

も今わかったのだが︑|フセン状をなして︑中心点からますます離れ︑

︵妬︶

外側の領域へ回りながらでてゆく﹂マカーリエの固有性として彼女に

生来与えられたこのような太陽系との関係は︑彼女の円現に外なら ない︒つまり彼女と太陽系との関係はマヵーリエの立場から円現と

マカーリエについて︵佐竹正一︶ して捉えられている︒この円現の作用によってマヵーリェは太陽系 のなかでいわゆる活動をしているのである︒そのようなマヵーリェ の活動について︑トゥルンヅは︑彼女の﹁向上性﹂という概念で把握 している︒﹁ゲーテが創造できた限りでの向上性の最高の姿はマヵー リエで於討谷﹂確かにこの論点は次のような作品の原文に即した説明 であり︑一般的に異存のないところであろう︒﹁存在が物体的である かぎり︑中心へ向うのであり︑一方精神的であれば︑それが遠方へ 向うと仮定されれば︑われわれの女友達はもっとも精神的なものの 一人でなが﹂この文では物体と精神との対極性における向上性が︑ 遠心力にのるマカーリエの態度を説明しているといえよう︒しかし マカーリエの存在が向上性をもつということは勿論︑その根拠にな ったテキストからの右の引用文まで︑向上性について述べているの ではないといわなければならない︒とにかくマヵーリェは︑最初に 物質と精神の両方があたえられていて︑しだいに後者が前者を純化 止揚してゆくのであれば︑円現としてのマヵーリェの存在は向上性 によって規定されよう︒もしそれがファウストであれば︑そのような 向上性によって規定されているのであり︑彼の劇のなかでの活躍は︑ 弁証法的な側面をもっている︒至高の世界が︑ファゥストの場合は 最後にあらわれてくる︒しかし彼女には先天的にしかも直接的に太 陽系との固有な関係という絶対性が︑まず最初に与えられているの である︒直接的に理念が与えられないファウストのように向上して いって最後に太陽系との関係を自分のものにするのではない︒この ようにマカーリエとファウストは︑普遍的男性と女性の相違をよく 表わしているのであるが︑向上性の概念をめぐっておたがいに反対 の立場に立つ存在なのである︒だからマヵーリエの場合最初に想定ざ

六五

(12)

れていた根源に純化してゆくのであるから︑対極性を克服して前進

してゆく向上性とはちがうのである︒つまり前進し向上するのでは

なくて︑最初に与えられていたものが根源に帰って実現されるので

ある︒彼女の円現は現象学的還元なのであって︑弁証法的ではない︒

それがマカーリエの円現なのである︒

また次の問題点︑存在が物質であるかぎり求心力が働き︑精神的 であるかぎり︑遠心力が作用するという場合の︑精神的な遠心力が

マヵーリェにおいてはどうして向上性でないのかという論点を検討 してみたい︒ゲーテは﹁自然の二つの大きな動輪﹂と呼んで︑対極 性と向上性の概念をあげて噸が︒対極性をなすのは物質と精神では

なくて︑物質であって絶えず反発しあっている︒精神は向上性を有 し絶えず対極性をもつ吻雪を可上さぜるDでらる︒っ主り可と生と

・・Ib字・・〃4■■︒︑凸ロJ〃PG犀ログかlPH−︑〃今■■■■■■ワ|︑l︾・・ロ〃″■一︾︾姑〃″ユ︾︑グ︾﹄0一r■■■■■︒一二且一側一口日︒︒〃q

いうのは対極性が前提にされてこそ想定される概念であって︑マカ

ーリェの場合のように精神化してゆくことを意味しているのではな

いのである︒対極性を前提にした向上性を有するのはファウストで

ある︒メフィストーフェレスをともなう彼こそ︑行動を介し対極性

を克服しながら向上するのであって︑マカーリエの場合はメフィス

トーフェレスの限定を受けないのである︒前述したように対極性を

ともなうファゥスト的な行動の世界では︑マヵーリエ的な普遍的な

世界は捉えられないだろう︒美しい魂の系列はゲーテ以後没落して

ゆくのは︑むしろファウスト的な弁証法の世界が︑マカーリエ的全

人性を追放したといわなければならないだろう︒

求心力の作用をもつ物質を離れて︑遠心力にのってゆくマカーリ

エは︑だからといって無制限に遠方へ去ってゆくのではない︒﹁彼女

は︑地上的なものを脱するが︑存在の最も近くの空間から最も遠い空 マカーリエについて︵佐竹正一︶

︵卵︶

間まで満ちわたるためにのみ生れてきたようだ﹂マカーリエの場合︑

精神性が︑物質を止揚するのではなく︑本来与えられていた精神性

が物質を脱却して︑純化するのであるが︑それは逆に身近な世界を ゆたかに満すことなのである︒この点︑マカーリエは存在的には円

現という概念で説明する以外にないであろう︒そして円現としての

彼女はさまざまな可能性をもつが︑それらのなかで太陽系の秘密を

みぬく﹁見る﹂という能力に現象学的考察をほどこして︑そこから

論旨を展開してゆきたいと思う︒

その問題に移る前に︑マヵーリエの存在である円現についてもう

少し検討したい︒シュ︑︑︑ツッによるとゲーテにおける円現の概念は

︵副︶

二種類あるということである︒それらは︑マカーリエとファウスト

︑耳ざ兄シ這り︑っつ︶て︑︲るりで︑ンユミヅソこ上︲孔くま︑q司兄ワ生岸弐こ

〃しIpp−n︐11少・鷺グ︑〃L1︐口︒?︒﹃必.︒︲I︾01︑︑〃〃し︾︑︒B″曲四日4︾ノハb″ⅡⅡ■rⅡrⅡ8丁↑︲一一/皿Uop小叩︲い︾︻狸仔匡エリ″凹・

おいても両者は異なるのである︒これら両者の相違が︑向上性の概 念をめぐっておたがいに違うと述べた論点と平行しているのも興

味あることだと思われる︒ところで︑ファウストの場合は︑﹁モナド

的円現﹂という概念であらわされ︑これは亨アウスト﹄第二部終 末の︑救済の場面で使用されるはずであったが︑本作品にはあらわ

れず︑補遺のなかに書きのこされている︒円現という言葉にモナド

的という形容詞がついているから︑ゲーテの意図が理解されるだろ

うが︑本来の円現の可能性が︑有限なる人間としてのモナドによっ て大きな制限を受けていぶ︒したがって彼は上からの救いを待たな

ければ自らを律することはできない︒それに対してマカーリエの場

合は︑遠心力にのって離れてゆく精神性は︑無限の空間のなかで木

星を越え︑今や士星へ向って進んでゆくのである︒これがマカーリ

ェの円現であって︑ファウストの場合と比べてふると︑両者の相違 ︷ハーハ

(13)

164

かはっぎりする︒何ら制限を受けない無限の可能性をもっているの

である︒だがこのような円現こそギリシア的な意味でアリストテレ

スの思想であったのである︒ファウスト的なモナド的円現などとい

うことは︑ギリシア人には考えられない貧弱な概念だったのである︒

マカーリエが太陽系を見るだけではなくて︑いわばその一部をなし

ているという普遍的極限の世界における人間像は︑実はギリシア的

な意味における円現という概念によって形成されたものであり︑む

しろその方がアリストテレスの概念だったのである︒その円現は彼

女の現象学的性格を表わし︑彼の円現は弁証法的である︒このこと

は逆に現象学と弁証法の問題意識の相違をも示している︒

極限の世界を円現という概念でマヵーリェが包括することを述べ たあとで︑彼女の具体的な能力である﹁見る﹂という問題を考察し

たい︒すなわちマカーリエは円現という機能で太陽系を自らの世界

に納める反面︑﹁見る﹂ということで別なかかわりあいをしているこ

とがわかるだろう︒ここに彼女の現象学的問題がある︒もっともそ

れだって円現のもつ可能性が関与しているのかもしれないが︒つま

り︑マカーリエの包括するすべての問題は︑彼女の固有性︑太陽系

との固有な関係によって規定されていたのであった︒その固有性は︑

マカーリエが太陽系のなかに位置を占める彼女の円現によって考察 されなければならないからである︒事実シュミッッは︑太陽系の秘

密を直観するのは︑彼女の精神が無限なる空間を広がって︑木星を 越へ土星へ向って進んでいるからであると述べてい承︒しかしその

ような見解に対しては︑もっと具体的にマヵーリエが﹁見る﹂人で

あるという点に着目し︑ここでは特に鋭い直観が︑主観的にどうマ

カーリエを規定しているかを検討したい︒円現とみなされる彼女に

マカーリエについて︵佐竹正一︶ も︑たんに円現の概念を追うだけでなく︑具体的人間の側面をもっ ていることに着目したい︒彼女の人間性を可能にするのは現象学的 な観点である︒

マカーリエは鋭い直観をもっている︒最初は誤解されるのを恐れ

て︑それを隠しているのが苦しかったのであるが︑長い間病気とし

︵認︶

て通したのであった︒やがて︑数学者にして天文学者︑哲学者にし

て医者になる人物が︑彼女の許にあらわれる︒苦しい彼女の直観を

聞いてやると始めて彼女の精神が活発になったのである︒この学者

とマカーリエとの関係に︑ゲーテ的な学問の正当性があるのである が︑ここでは彼女の直観の苦悩について︑次のように考察しておき

たい︒つまり︑超越的な自我︑それは彼女の固有性で︑太陽系との 固有な関係であり︑円現であったが︑その自我が︑苦しい直観を

通してマカーリエ個人に与えられるのである︒個人と自我とは違う

のであり︑自我は直観によって個人に与えられるのである︒このよ

うにマカーリエの自我は超越的性格をもっているのである︒だから

マカーリエの身体が不自由であったのは︑そのような自我の表われ

であって︑このことによって彼女も﹃遍歴時代﹄における諦観者の

真の姿を示しているのである︒諦観とは超越的自我に外ならない︒

超越的な自我と人間存在とのかかわりあいが︑現象学的に考察され︑

マカーリエの病気によって象徴され︑それは神聖さを意味している︒

このようにして自我が確立されれば次には︑この自我を通していろ

いろな問題が考えられる︒しかしマヵーリェはファゥストの存在よ

りも大きく︑普遍的人間像における主体性はまだ傷つくことなく︑

円現としての人間の可能性と相応している存在であることは忘れる

ことができない︒

六七

(14)

ゲーテはニュートンの科学︑特にその光学については極めて強硬 な反対の場合をつらぬいていたことは︑周知のとおりであ纐︒近代

光学への反論から色彩論が成立したのである︒それは学問に対す

る根本的な態度の相違によって必然的に研究されなければならな

かったのである︒学問に対するゲーテの態度は色彩論の立場をつら

ぬく客観と主観の一致という精神的態度にかかわるものであった︒

この立場は近代科学の方法からは除外されなければならなかったの

である︒

シュミッッはゲーテとフッサールの類似点をいくつか指摘し︑特

に原現象の概念で両者は接近した思想をもっていたことを明らかに

︵弱︶

して︑︲る︒灌罪こゲーテD立易と見象拳とでま︑こり肝霜昔弘比削 .︾hl︑︒︾︒︒TβI7〃︐■Iマ〃℃〃L言一Jロム︲11少f二一︲吹一︾色■■IE■で︲JL7β■︐〃ごジニグ︑4〃11可J1こ するように前者はつねに行動も重視するのに対し︑後者が直観を主

題にしながらも概念化してゆく思考態度をとるのとでは︑明らかに

異質なものがあるであろう︒しかし色彩論を中心にして考えると学

問に対するゲーテの考えは︑現象学には密接な関係があるのであっ

て︑この領域ならばもっとも寛大にゲーテの思想が︑現象学的解明

を許すのではないかと思われる︒危機意識をもって後年︑フッサー

ルが求めていった学問の精神は︑近代科学から欠落した直観という

主観性の復権を主張しつづけているといわなければならない︒もっ

とも現象学では︑科学に欠落した主観性の回復をめざしながら︑歴

史的必然性につきあたるとぎ︑危機意識をもって考察しつづけなけ ればならなかったことは︑現象学の運命であったのだろうけれ均す

ゲーテの場合も時代こそ違え︑みえないところでその運命に直結し

ていたのであろうけれ〃〒も︒ マカーリエについて︵佐竹正一︶

現象学が危機意識をもって回復を試みなければならなかったのは

直観という主観性の問題である︒マヵーリエの問題性のなかでは︑

そのような直観が︑数学者にして天文学者の授助を受けて︑天体の

法則を十全に実現する︒ゲーテ本来の︑理想とした学問の形態がみ

てとれる︒マカーリエの直観と天文学者にして数学者の客観性の一

致こそ︑ゲーテの真の学問でなければならなかったのである︒

前章ではマカーリエの直観について︑その主観性によって彼女の

自我の概念が把握されることを述べたが︑次にその直観がどのよう

な可能性をもつか検討して象たい・﹁彼は数学者である︒それゆえ強

情である︒彼は聡明な精神の持主である︒それゆえなかなか信じな

い︒彼は長いこと︵マカーリエの報告に︶さからった︒けれども彼 女D吉ずる勾容乙正灌亡生目し︑何年もD月日を領りに倹討し︑天

体の星々の現在の位置関係に最初の報告が一致しているのには特に

︵調︶

驚いた﹂彼女は鋭い直観をもっていて︑天体の秘密をみぬき︑その

結果を数学者にして天文学者なる友人に報告しても彼はなかなか最

初は信じようとしない・それは﹁錯覚﹂であるといったりもするが︑

長年かかってそれが天文学的に正しい法則であることが証明され

る︒このようなマカーリエと天文学者の組承合わせにゲーテ的な普

遍学の正当性があるのであって︑直観によって与えられた内容が捨

象されずに︑そのまま概念︵数式︶に保存されていなければならな

い︒自我の存在を確立する直観は︑彼女を極限の世界との一致を可

能にし︑この直観の可能性で彼女が天文学者と出会うのだ︒ ところでマカーリエの直観の真実性が証明されるまでの天文学者

にして数学者の︑彼女に対する態度のことを一考しておきたい︒数

学者であることは強情であり︑聡明な精神を持つがゆえ信じがたい

六八

(15)

162

という人物には︑近代科学の精神が投影している︒これは第三巻第

十五章の説明であるが︑同じようなことは︑第一巻第十章でアンゲー

ラによりヴィルヘルムに知らされている︒一般にマヵーリエについ

ての文章では︑第三巻の方では客観的に描写されるが︑第一巻の方

では︑第三者の言葉を通して語られるのである︒ここには︑ゲーテ

の描き方の苦心がみえる︒アンゲーラの伝える言葉は次のとおりで

ある︒﹁数学者︑哲学者として最初は信んぜず︑彼はこの直観が学び

とられたのではないかと疑ったのです︒なぜなら︑マヵーリエ様は︑

幼少にして天文学の授業をうけられ︑それに情熱をかたむけられた

︵弱︶

と告白なさらなければならなかったのですから﹂天文学者にとって

は︑マカーリエの直観がたとえ正しくとも︑それは学習されたもの

であって︑何ら科学一般の精神と変わりないと主張するあたり︑最

初は︑この人物は︑彼女の真の友人ではなかった︒事実彼には実名

がない︒彼はただ数学者︑天文学者︑哲学者︑医者とか︑普通名詞し

かもたないのであって︑自分の固有の名前をもっていない︒これは彼 が概念的な存在であって︑実在する人物としてよりは︑アレゴリー

的な比喰として︑抽象的な役割しか果さない人物であることを意

味している︒このように固有の名を持たない人物は外にも登場する

が︑マカーリエが実名の固有名詞をもちながら︑姪や姪たちに﹁伯

母﹂と呼ばれるが︑一方彼らに﹁伯父﹂と呼ばれる人物も︑マヵー

︵帥︶

リエのような実名を持たない︒それは彼が具体的な人間というより

は︑概念的な意味において︑アレゴリー的にしか存在していないと いうことを示しているので舟却々

実名をもたない天文学者にして数学者なる医者は︑﹁伯父Lなる人

物と同じように概念的にしか存在せず︑アレゴリーとして︑マヵー

マカーリエについて︵佐竹正一︶ リエの直観を確認する人物とみなされている︒彼自身としてはその ような存在としか考えられないが︑マヵーリェとの関係において︑ 彼女の直観の正当性を認めるとぎ︑彼はゲーテ的学問にとって重要 な役割を果す︒ではそのような存在になるまで彼女は彼に対してど のような態度をとったのだろうか︒﹁彼女は彼に信頼をえ︑しだいに 彼に自分の状態を説明し︑現在を過去に結びつけ︑出来ごとに統一 を与えると︑もはや彼は彼女から離れられず︑日一日と深く秘密の

︵舵︶

なかに捉えられるという現象がおこった﹂端的にいって彼女が彼を

信頼するという人間的な態度によって︑彼の精神を変えていったの

である︒信頼という人間的な態度はゲーテの場合には学問の領域に

まで重要な役割を果しているのである︒

すっかりマカーリエの感化を受けた数学者にして天文学者の友人

は︑ヴィルヘルムが最初に彼女の館を訪問したとぎ︑高等な学術や

技術について︑なかでも特に数学について︑誤用という問題がおこっ てくると語るほど精神的な余裕をもっているので恥が︒そしてこれ

はヴィルヘルムの方であるが︑天文学者に導びかれて︑天文台で星

空を観察したあと︑﹁あまり鋭くみた世界は私の内面と調和しませ

︵︶

ん﹂といって︑眼鏡という道具を批難しているのである︒このよう

な場面では︑ゲーテの学問に対する態度がいろいろな形をとってあ

らわれているのである︒

数学の誤用という問題は︑それがいかなる性質をもつ学問である

かということにある︒数学についてゲーテは高く評価していること

も事実であるが︑いわば警句的な響きをもった次のような見解を述

べている︒﹁数学にとっては弁証法と同じく︑形式以外に価値をもつ

︵鯛︶

ものはない︒両者にとって内容ばどうでもよいのである﹂ゲーテに

六九

(16)

よれば︑弁証法も数学と同じように形式学にすぎないようであるが︑

それらは直観の内容を失って︑概念化されると︑マカーリエを無視

した数学者の場合のように︑硬直化してしまうのである︒では数学

者がどのようにしてこの二律背反を克服できるかというと︑その問

題は︑数学者の人間性にかかわっていると述べられている︒﹁数学者

は完全な人間であるかぎり︑真実の美を自らのうちに感じとるかぎ

︵︶

りにおいてのみ︑完全なのである﹂概念化し数式化する科学の普遍

性は︑人間的に克服するしかないというのがゲーテの持論である︒

︵碗︶

マヵーリエが科学者を信頼し︑彼もまた﹁高貴な人間﹂であればこ

そ︑天文学者にして数学者の友人と太陽系の秘密を直観する至高の

マヵーリエとの間に︑ゲーテ的な正当性をもつ学問の精神が︑おた

がいに交流しあうのである︒彼は彼女の精神に感化されて︑生れ変っ

た人物なのである︒

科学が概念化し︑理念と経験とが分離する苦悩をゲーテは絶えず

持ちつづけていた︒次のような思想はこの問題を正面からとりくん

だものの言葉であろう︒﹁経験と完全に一致する理念はないと主張す

哲学者の意見は正しいであろうが︑理念と経験は類似でありうる︑い

︵船︶

やそうでなければならないということを容認するだろう﹂この類似

性という考察にこそ︑二律背反を克服する要因が︑含まれているの

であり︑それを可能にするのは直観という主観性にほかならない︒

この主題は︑理念と現象の類似性という直観の可能性を示し︑具体

的にマヵーリエが太陽系の秘密を見ぬく様式を示してくれるはずで

ある︒それはまた現象学的相応性として考察してきた問題点でもあ

る︒そのような類似的相応性によって︑マカーリエは天体の秘密を

直観するのであるが︑その相応的類似性は︑極めて象徴的に︑彼女 マカーリエについて︵佐竹正一︶

のみる内と外との二つの太陽︑二つの月という構想によって示され

ている︒そのような相応的類似関係によって確かめられる客観と主

観の統一にこそゲーテ本来の学問の立場が存在しているのである︒

しかしそのような直観された内部構造をゑる前に︑﹁見る人﹂として

の彼女の学問的可能性を根拠づける問題が︑どのように描かれてい るかを確かめておきたい︒

太陽系の法則を直観する能力として︑﹁見る﹂ことが次のように説

明されている︒﹁彼女︑その見る人にとって幻視のなかのわたしたち

の太陽が︑日中彼女が見ている実際の太陽よりはるかに小さくみえ︑

十二宮におけるいつもより高いこの太陽の異常な位置が︑様々な推

︵的︶

論をひきおこしたのである﹂マカーリエ︑その見る人には︑ヴィルヘ

ルムの夢のなかの光︵色彩︶と同様に︑内面の光が幻視のなかに小

さな太陽となってあらわれる︒その太陽が十二宮のなかに異常な軌

道を示すのは︑全く彼女の内部の世界であって︑外界とその太陽とは

おたがいに相応しあっているが︑実際の太陽そのものではない︒彼女

には生来太陽系との固有な関係が与えられていたのであったが︑そ

の固有性は︑今彼女の内部の光の現象として描写されるのである︒

幻視の太陽は現象学的に変様された彼女の内部の光に還元され︑そ

の光の作用以外何物でもない︒彼女の本質が光であるという説明は︑

現象学的に変様された光の現象に還元され︑内部︵意識︶は体験され

た光の流れだという意味である︒彼女にとってそのような光る内面

の世界は︑また生得︵超越性︶のものであった︒﹁彼女は子供のころ

から自分の内部が光る存在に満たされていて︑その光は︑もっとも

︵和︶

明るい日光によってさえ何ら損われなかったのを思いだす﹂そのよ

うな光が︑機能を発揮して今や幻想のなかに描かれている十二宮の 七○

(17)

160

なかで︑決定されている通常の黄道を通らずに︑異常な軌道にあら

われて︑太陽系のなかのまだ発見されていない星︵法則︶を直観す

るのである︒ゲーテによると︑見る人︑マヵーリェの能力は︑以上

のような形で説明されるのである︒しかしそのような﹁見る﹂とい

うことの根源的な意味はゲーテの学問的態度を求める場合にどこに

みいだされるのだろうか︒ ゲーテにおける﹁見る﹂ことの根本的な説明は色彩論において確

かめなければならないだろう︒そこでは﹁見る﹂ということが︑外

界の光と内面の光との出会い︵相応︶ということの外︑次のような

見解が述べられている︒﹁眼は光に自らの存在を負っている︒任意の

動物の補助器官から光は光と同等のものになる器官を作りだす︒か

くて眼は光に即し光のために形成され︑それは内なる光が外の光と

︵別︶

出会うためなのである﹂ここで最初に注目したいことは︑光が︑光

と同じ存在になる眼を作りだすということである︒﹁見る﹂ことは人

間の側に立った光の自己限定であって︑それは光そのものの作用で

あるということである︒﹁同じものを同じもので﹂という古代の神秘 主義者の考察が︑その根本思想になったので脚部が︒ゲーテにとって︑

眼と光とは同じものであり︑見ることは光の人間に対する関係で

あって︑光以外の作用ではないのである︒見るというこの色彩論の

立場を︑見るという直観性で︑太陽系と固有な関係をもつマヵーリ

エに移してみると︑天体の秘密をみぬく彼女は︑光が光と同じもの

を求める存在と同一であって︑光が見るというマヵーリェの直観を 通して︑彼女の本質を規定するといっても決して過言ではないので

ある︒見るという主観によって客観の光が彼女の根源になり︑彼女

の様々な可能性は光の原現象に還元される︒だから彼女の本質が

マカーリエについて︵佐竹正一︶ ﹁光﹂であるということは︑彼女の可能性が光の原理に還元される ことを意味する︒つまり太陽系の本質︵法則︶が見るという主観性 によって︑光となり︑その光は客観と主観とが一つに溶けあった現 象学的な可能性をもち︑その光によって︑彼女と太陽系とが一つに 溶けあっている︒そのような光の現象によって︑両者の存在がおた がいに交流しあうのである︒この主観と客観の交流を現象学的根拠 づけというのである︒シュプランガーのいうような﹁共感﹂という 心理学的能力によってだけでなく︑色彩論の立場で考えられた︑し たがってゲーテ的な学問の正当性のある光の作用である見るという 主観の現象学的な可能性と︑存在は光であるという存在論的な立場 で︑天体とマカーリエとが一体となって︑交感・交流しあっている のである︒そのような彼女の姿は色彩論の立場における光と︑その 光が作る眼との相互関係によって︑彼女の固有性の太陽系との関係 を根拠づけているといわなければならない︒おそらくマヵーリェは︑ 光の特別な機能が発見されなかったら︑﹁色彩のゆたかな照り返しに

︵だ︶

われわれは生命をもっている﹂という有名なファゥストの台詞の精

神と同様︑現在のままでは描かれなかったのではないだろうか︒事

実彼女の姿は最初人の良い世話ずきな中年の婦人として登場してい

︵別︶

たのであった︒ファウストの台詞における色彩のゆたかな照り返し

には︑象徴論的にみても︑ゲーテの新しい立場がうちだされている

と考えられる︒そのような立場を可能にするのも色彩をともなった

光の現象の発見に負うのである︒と同様にそのような精神はゲーテ

的な学問の正当性を保証するものである︒

では次にマカーリエの直観がいかなる内的構造をとっているのか

を太陽系との関係において考察し︑この章を終りたい︒そのような

(18)

直観の内的構造にこそゲーテ本来の学問的な立場があるのであっ

て︑マヵーリエはその内的構造を外界の天体との相応性によって確 かめるのである︒その内界︑外界の連関構造については次のように

述べられている︒﹁しばしば彼女は二つの太陽をみた︒つまり一つは

内面の太陽であり︑他のは空のそれであった︒同様に二つの月をふ

た︒外界の月はあらゆる相において︑大意酷においても同じである が︑内面の月はますます小さくなっていった﹂このますます小さく

なってゆく月は︑前述した実際の太陽より小さくみえる幻視のなか

の太陽と同じものであることはいうまでもない︒光と見ることの関

係から︑その太陽は彼女の内部における変様された光の現象に還元

されることに外ならない︒月と太陽という言葉の相違はあっても︑

外界に相応している内界の太陽が︑これも自分の内界にできていて

外界と相応している十二宮のなかの異常な位置によって︑これまで そのような太陽の軌道は観察されたことがなかったので︑新しい天

︵布︶

体の発見が告げられたのであった︒すなわちこれらは︑あくまでも 彼女の内部において直観されているのであって︑その報告には︑彼

女の内部が外界と同様の太陽系で構成されているのであり︑その・構 造から彼女は暗示を得るのである︒つまり直観されたまま︑形式化

される数式によって結果は確認されるが︑それによって左右されな いのである︒彼女の報告は︑直観された内容が︑小さな太陽系の構

造をとっている事象からひきだされたのである︒そうであればこそ

彼女は︑太陽系を直観するだけでなく︑太陽系の一部を自ら形成し

ているのである︒それは︑彼女の主観によって形成された内界の構

造によって確かめられるのである︒

この問題について︑例の天文学者は次のように考えている︒﹁あの マカーリエについて︵佐竹正一︶

方は全体の太陽系を自らのうちにおもちなのではなく︑主要な一部

︵万︶

分として精神的にそのなかで活動なさっています﹂この言葉はアン

ゲーラによって間接的に語られたのであるが︑この思想は︑マヵー

リエの感化によって立場を変更した天文学者の態度であって︑ゲー

テ的な学問の正当性を代表している︒

ところで︑直観された内容が形成する内部構造によって︑内面の

太陽系から報告された新しい太陽系の星は︑発見されなかったので

ある︒そこで彼女は疑われてしまったのであるが︑その天体まで人々

︵犯︶

の眼がとどかなったからである︒彼女は火星の軌道を越して︑木星

に向い︑さらに土星へと遠方へ行くのである︒この問題は先に︑円

現として︑彼女の存在を確かめたとぎ検討したのであった︒今︑彼

女の自我を通し︑直観とその内容の構造という別な面から考察して

いるわけである︒円現の可能性として太陽系の舞台で活動するよう

に︑彼女は主観性の可能性によって︑人々の発見が及ばない天体に

まで向うのである︒すなわち︑われわれの直観が地球に向う面に限

定されているのに対し︑彼女は︑地球を離れた位置から︑木星を側面

から観察することが可能なのである︒つまりマカーリエにとって直

観は︑現象学のいう射影によって限定されず︑全面的に与えられ︑

彼女は︑それを体験という意識︵彼女の内界︶のなかで太陽系を再 構成するのである︒つまり彼女のなかに体験として構成されている

内部構造の様式は︑われわれが十二宮に承る夜空の天体の形をとっ

ているのではなくて︑つまり地球からみた体系ではなくて︑視点を

どの惑星からでも定められる位置に立って︑明るく内部の太陽系を

みているのである︒この直観では彼女が太陽の位置から見ているか

のようであり︑いわば天動説的絶対性が保証されていよう︒そのよ

(19)

158

うな構造をもって観察される太陽系は︑マヵーリェでなければ体験

できないであろうが︑現象学の立場における意識とは︑そのような

状態において︑考察可能なのではあるまいか︒そのような主観性の

内的構造こそ︑視界がさえぎられない立場で直観され︑外界の事象

にそのまま相応するゲーテ的な学問の正当性ではないだろうか︒マ

カーリエはそのような普遍学の可能性を説いている︒

五 マカーリエの物語が完成したころ︑ゲーープの最晩年において︑ ﹃フアウスト﹄の﹁母たちの場﹂が聿冒かれたのであぶ︒マカーリエ

とファウストの対比点はすでに言及しているが︑彼女が天体のなか

へ上昇し純化してゆくのに対し︑彼はこの場面で︑母たちの国︑つ

まり地球の中心に向って下降してゆく︒両者のこのような対比も興

味をひく問題である︒上昇してゆくマヵーリエが天体のなかに倫理

をみいだし下降してゆく彼が冥府の底でヘーレナに出会う︒ヘーレ

ナは過去の存在であり︑また芸術である︒そして︑両者の獲得する

倫理性と芸術性はおたがいに交換不可能なのも興味をひくことであ

って︑倫理性の性質が︑あらわれている︒ヘーレナが冥府の﹁闇﹂

からくるのであれば︑一方倫理性は︑太陽系の明るさから︑星々に

なってあらわれてくる︒つまりそれは光の圏内からくるのである︒

しかし天体が倫理性をもつと考えたのは︑ゲーテに限られたこと

ではなかった︒﹁わが上なる天体とわが内なる道徳律﹂というカント

の有名な言葉は周知の通りである・だが︑ゲーテとカントでは異なっ

た方法でこの問題がとりあつかわれている︒ゲーテにおいては︑マ

カーリエが一人の人間存在として天体の倫理性を自らのうちで現象

マカーリエについて︵佐竹正一︶ 学的に自己と一つに結びつけている︒その点︑カントにおいては︑ 思索されるだけであって︑ゲーテのような一致はみられないで︑ゲー テ的な意味では︑両者が分離したままの状態にあるといわなければ ならないだろう︒

ゲーテにおいては︑天体と地上の法則の倫理性を一つに結ぶため

に︑マカーリエと太陽系との固有な関係という︑人間存在にとって

は︑超越的なこの難問が︑一人の婦人に課せられなければならなかっ たのである︒ではどのようにして彼女が太陽系と倫理性を一つに結

びつけることができたかといえば︑彼女の本質と規定した﹁光﹂の 作用が天体と倫理性の可能性を結んだといわなければならない︒色

彩論においては︑たんに自然現象だけが研究されたのではなく︑色

彩の感覚的倫理的な作用が研究されていることは前述の通りであ

る︒光が個々の具体的な色彩の種類を越えて理念的に倫理性一般を

規定しているからこそ︑そのような色彩論的意味づけが可能なのだ

と思われるのである︒

倫理性の本質が光として天体のなかに起源をもつにしても︑それ

は地上の生活に関連しなければならない︒ゲーテはマヵーリェの問

題があまりにも壮大になりすぎたからか︑この天体の女性の存在を

﹁地上の寓話﹂と呼んで︑﹁エーテルの物語﹂を地上にもどし︑天体

と地上を相応させながら︑マカーリエを中心に一つの圏内をつくっ

ている︒そこにはマカーリエにおける現世信仰の概念があるのであ

︵帥︶ブ︵︾○

そのような地上における一つの圏内を守護するためにマヵーリェ

の存在が︑しかも太陽系という極限の世界との関連で規定されなけ

ればならなかったのである︒ゲーテにおいては︑倫理性がどうして

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