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唐 代 作 家 新 疑 年 録
㈱‑ 寺 楚 老 ・ 権 徳 輿 ・ 蘇 類 ・ 章 叔 向 ・ 章 常 ・ 章 牟 ・
章 群 ・ 章 序 ・ 窒 輩 ・ 楊 巨 源 ・ 令 狐 楚 ‑
‖HⅢ
幸
楚老(名
寿朋)植 木 久 一丁′イ
○ 徳 宗 貞 元 十 九 年 突 未 (八 〇 三 ) 生 ‑ 武 宗 会 昌 元 年 辛 酉 (八 四 一 ) 没 、 享 年 三 十 九 歳 。 ︹生 年 の 論 拠 ︺ とゝつ 北 末 の 王 謹 撰 ﹃唐 語 林 ﹄ 巻 七 、 補 遺 (後 述 の ﹃校 証 ﹄ 本 ' 第 九 四 四 条 ) に 、
寺 楚 老 、 李 宗 閏 之 門 生 。 ‑ ‑ 与 杜 牧 同 年 生 、 情 好 相 得 。
と あ る 。 「杜 牧 と 同 年 に 生 ま れ 」 た と す れ ば 、 寺 楚 老 の 生 年 は 貞 元 十 九 年 (八 〇 三 ) で あ る 。 ち な み に 、 杜 牧 が 貞 元 十 九
年 に 生 ま れ た こ と は 、 そ の 作 品 に も と づ ‑ 三 つ の 論 拠 に よ っ て 確 定 す る こ と が で き る 。 詳 し ‑ は 、 倉 石 武 四 郎 「杜 契 2 3 川 年 憩 」 や 、 拙 稿 「杜 牧 生 卒 年 論 拠 考 」 等 参 照 。
︹備
考 ︺ 4 本 条 の 典 拠 は ' す で に 周 助 初 ﹃唐 語 林 校 証 ﹄ に 指 摘 さ れ て い る ご と 二 五 代 ・ 南 唐 の 劉 崇 遠 撰 ﹃金 華 子 (雑 編 )﹄ 巻
下 で あ る が 、 上 掲 の 引 用 部 分 は 見 え な い 。 し か し ' ﹃金 華 子 ﹄ の 原 書 そ の も の が 明 代 以 後 に 散 供 し 、 今 日 の 通 行 本 は ﹃永 5 楽 大 典 ﹄ か ら 抽 出 し た 再 編 本 で あ か ナ」 と を 考 え れ ば 、 論 拠 資 料 と し て の 信 懲 性 を 、 特 に 疑 問 視 す る 必 要 は な い . む し
ろ 上 掲 の 引 用 部 分 は 、 通 行 本 の 欠 を 補 う 貴 重 な 資 料 と い う べ き で あ ろ う 。 ち な み に 、 聞 一 多 「唐 詩 大 系 」 に 、 寺 楚 老
の 生 卒 年 を 「七 九 五 ︹貞 元 十 一 年 ︺ ‑ ? 」 と す る 。 そ の 生 年 の 論 拠 は 未 詳 な が ら 誤 り で あ ろ う 。 ︹没 年 の 論 拠 ︺
前 掲 の ﹃唐 語 林 ﹄ の 同 じ 条 に は 、 引 き つ づ い て 、
︹寺 楚 老 ︺ 初 以 諌 官 赴 徴 、 値 ︹杜 ︺ 牧 分 司 東 都 、 以 詩 送 。 及 卒 、 又 以 詩 巽 之 。
と い う 。 杜 牧 の 現 存 詩 中 に 、 「洛 中 監 察 病 仮 満 、 送 幸 楚 老 拾 遺 帰 朝 」 請 (陳 允 吉 点 校 ﹃契 川 文 集 ﹄ 巻 三 ) と 、 「重 到 裏 陽 、 6 突 亡 友 葦 寿 肌 」 詩 (巻 四 ) の 二 首 が あ り 、 本 条 の 記 述 を 裏 づ け て い る 。 し た が っ て 、 「卒 す る に 及 ん で 」、 そ の 死 を 笑 泣
し た 「重 ね て 裏 陽 (湖 北 省 裏 契 市 ) に 到 り て 、 亡 友 の 毒 寿 朋 を 果 す 」 詩 の 作 成 年 代 が 推 定 で き れ ば 、 そ の 没 年 も ほ ぼ 確 7 定 す る こ と が で き る 。 こ の 点 に 関 し て 、 ﹃唐 才 子 伝 校 等 ﹄ 巻 六 、 葦 楚 老 の 条 (呉 企 明 執 筆 ) に い ,r( '
詩 題 の 「重 ね て 到 る 」 よ り 推 定 す れ ば 、 こ の 詩 は 必 ず 会 昌 元 年 (八 四 一 ) に 作 ら れ た も の で あ ろ う 。 杜 牧 は 、 開 成
ど
五 年 (八 四 〇 ) の 冬 、 休 暇 を も ら い 、 南 陽 (江 西 省 九 江 市 ) の 地 へ 弟 (杜
弟)の 眼 疾 を 見 舞 う べ ‑ 、 道 を 漢 水 の ほ と り
に 取 り ' 嚢 陽 を 通 っ た 。 翌 年 の 会 昌 元 年 七 月 、 も と の 道 を 通 っ て 都 に 帰 ろ う と し て 、 再 び 裏 陽 を 通 っ た の で 、 「重 ね
て 到 る 」 と い う 。 第 一 回 め に 裏 陽 を 通 っ た と き 、 幸 楚 老 は ま だ 死 ん で は い な か っ た 。 第 二 回 め に 再 び 襲 陽 に 来 た と
き 、 そ の 死 亡 の 知 ら せ を 得 て 、 そ れ で 「詩 を 以 て こ れ を 果 し た 」 の で あ る 。
と (大 意 )。 こ の 新 説 の 当 否 を 検 討 す る 前 に 、 「重 到 蓑 陽 、 笑 亡 友 喜 寿 朋 」 詩 (七 絶 ) を 引 い て お こ う 。
故人 墳樹立秋風
故人の墳樹秋風に立つ97
伯 道 無児跡吏 空
伯熟.4如く跡郡に空し重到 笹歌 分 散 地
重ねて笠歌分散するの地に到れば隔江 吹 笛 月 明 中
江を隔つる吹鮎月明の那
謬鉱 ﹃杜 牧年譜 ﹄ (人 民 文 学 出 版 社 、 1 九 八 〇 年 ) 等 は 、 本詩 を 系 年 し な い が 、 王 西 平 「杜牧詩文 系年考 弁」 (﹃ 西 北 大 学 ㈹ 学 報 ﹄︹ 哲 学 社 会 科 芋 版 ︺ 1 九 八 六 年 一 期 ) の み は 、 呉 企 明 の 説 と 同 じ ‑ 、 会 昌元 年 の 作 と す る 。 い ま 、 王 西 平 の 説 をも 参
照 し な がら 、 そ の 作成年 代 の 当否 を 検討 し て お きた い 。
寺楚老 は 開 成 二 年 (八 三 七 ) 五 月 ご ろ 、左拾 遺 の 職 に 在任 し て お り (﹃ 旧 唐 書 ﹄ 巻 一 七 四 、 李 徳 裕 伝 )、 し か も 前掲 の 「洛 ㈹ 中監 察病 仮満、 送幸楚老拾遺帰朝 」 詩 も 、 1 説 に は 開 成 二 年 の 作 と す る 。 した が っ て 、 そ の 年 以 降 、 杜牧 の 没 # (大 中
六 年 ︹八 五 二 ︺) 以 前 の 間 に 、 裏 陽 (裏 州 ) の あ る 漢 水 ぞ い の 帰 京 の 旅 を 検討 しさえ す れ ば、 「重到 裏陽 、 突 亡 友 寺寿 朋 」
詩 の 会 昌元 年作説 の 当 否 を 知 る こ と が で きよ う 。 こ れ に 該 当 す る 杜 牧 の 帰 京 の 旅 は 、 開 成 四 年 二 月 と 会昌元 年 七 月 の 〃 ヽ ヽ 二 つ で あ 机 、 前 者 は 春 の 二 月、後 者 は 秋 の 七 月 の 旅 で あ 加 。 杜牧 の 実 詩 に 「故人 の 墳 樹 秋 風 に 立 つ 」 と あ る 以 上 、
そ の 旅 は 明ら か に 秋 で あ る 。 と す れ ば 、本 詩 は 、呉 企 明 の 説 の ご と ‑ 、 会 昌元 年 の 、 し か も 秋 七 月 の 作 と 考 え て よ い 。
杜牧 と 寺 楚 老 が 裏 陽 の 地 で 久 し ぶ り に 再 会 した 時期 に つ い て も 検討 し て お きた い 。 寺楚老 は 、 ﹃旧 唐書 ﹄李徳 裕 伝 に す よ っ て 確 認 し う る 開成 二 年 の 夏 五 月 以 降 の あ る 時 期、 左 拾 遺 の 官 を や め tJO 「東帰 し て 、金陵 に 居 」 ん だ (前 掲の 届 語 nW 林 ﹄ の 一 軌 )。 そ の 後、 寺楚老 は さら に 裏 陽 に 移 居 し て い る 。 そ し て そ の 地 で 杜牧 と 再 会 す る 時 期 は 、 早 ‑ と も 開成 三 、
四 年 以 降 の こ と で あ ろ う 。
倉 石 武 四 郎 「杜 契川 年譜 」 や 謬銭 ﹃杜牧年 譜 ﹄ に よれ ば 、 杜牧 は 開 成 二 年 (八 三 七 ) の 春、 弟 の 眼 病 悪 化 を 見 舞う た ハU め 、 ほか なら ぬ 寺楚 老 の 勧 め に よ っ て 休 暇 を 願 い 出 て 眼 科医 を 洛陽 に 迎 え 、 百 日 の 期限 が 来 た に も かか わ ら ず、 そ の
名 医 と と も に 弟 の い る 揚 州 へ と 旅 立 っ た (杜 牧 「上 宰 相 求 湖 州 第 二 啓 」 参 照 )。 た だ こ の と き は 、 出 発 し た 場 所 が 洛 陽 で あ
る こ と を 考 え れ ば 、 い わ ゆ る 大 運 河 ぞ い に 南 下 す る 旅 で あ り 、 裏 陽 の 地 を 通 ら な か っ た と 考 え て よ い 。 し か も 、 寺 楚
老 は 同 年 (開 成 二 年 ) の 夏 五 月 ご ろ は 、 ま だ 都 長 安 で 左 拾 遺 に 在 任 中 で あ っ た 。 杜 牧 は こ れ 以 降 、 江 南 の 地 に 滞 在 し っ
づ け 、 開 成 四 年 二 月 、 左 補 閲 ・ 史 館 修 撰 と し て 帰 京 す る 。 つ ま り 、 杜 牧 が 裏 陽 に 隠 棲 す る 章 楚 老 に 初 め て 再 会 す る の
は 、 結 局 の と こ ろ 南 陽 へ と 旅 立 つ 途 中 の 開 成 五 年 の 冬 し か な い こ と に な る 。 こ の 時 、 杜 牧 は 、 幸 楚 老 と 再 会 し た 嚢 陽
の 地 で 、 「裏 陽 雪 夜 感 懐 」 詩 (巻 四 ) を 作 っ て い る (謬 銭 ﹃杜 牧 年 譜 ﹄) 。 そ し て 翌 年 の 秋 七 月 、 帰 京 す る 途 中 、 再 び 訪 れ た
嚢 陽 の 地 で 、 喜 楚 老 の 計 報 に 突 然 接 し 、 「重 ね て 笠 歌 分 散 す る の 地 に 到 」 っ て 巽 泣 し た こ と に な る 。
要 す る に 、 寺 楚 老 の 死 は 、 開 成 五 年 の 冬 末 か ら 、 翌 会 昌 元 年 の 秋 七 月 に 到 る 間 に し ぼ ら れ る こ と に な ろ う 。 そ し て 「故 人 の 墳 樹 秋 風 に 立 つ 」 云 々 と い う 、 あ る 程 度 の 時 間 の 経 過 を 示 唆 す る 表 現 を も 参 照 す れ ば 、 そ の 死 は ほ ぼ 会 昌
元 年 の 春 夏 の こ ろ と 推 測 さ れ 、 呉 企 明 の 「会 昌 元 年 没 」 説 は 充 分 説 得 力 を も つ と 評 せ よ う 。
︹備 考 ︺
寺 楚 老 の 没 年 は 、 従 来 未 詳 で あ っ た (聞 一 多 「唐 詩 大 系
」等 参 照 )。 周 助 初 主 編 ﹃唐 詩 大 辞 典 ﹄ 葦 楚 老 の 条 (晋 晋 華 執 筆 )
に お い て も 「 八 〇 三 ‑ ? 」 と し 、 「卒 干 宣 宗 大 中 六 年 (八 五 二 ) 前 」 と 説 明 す る に す ぎ な い 。 大 中 六 年 と は 、 寺 楚 老 に 対
す る 巽 詩 を 作 っ た 杜 牧 の 没 年 を い う 。 呉 企 明 の 説 は 、 寺 楚 老 の 没 年 を 初 め て 確 定 し た も の と し て 高 ‑ 評 価 で き よ う 。
︹参 考 ︺ 少じ 葦 楚 老 は 、 「祖 龍 (案 の 始 皇 帝 を 指 す ) 行 」 の 作 で 知 ら れ る 詩 人 。 明 の 胡 応 鱗 が 「雄 遇 奇 警 」 と 評 し な そ の 詩 の 作 者 名
を 、 ﹃全 唐 詩 ﹄ 巻 五 〇 八 に は 「常 ㌔ 楚 老 」 と す る 。 常 は 章 の 誤 り 。
ち な み に 、 ほ ぼ 同 時 期 に 白 居 易 と 交 遊 し 、 東 都 洛 陽 城 の 南 郊 三 十 里 に あ る 平 泉 の 地 (李 徳 裕 の 平 泉 茸 で 名 高 い 地 ) に 住
99
んだ処士'毒楚がおり、古来、二人はしばしば混同されがちであった。詳し‑は、﹃唐才子伝校等﹄章楚宅の条(呉企yJ・u
明執筆)や、同じ呉企明の「章楚老和幸楚」参照。
注
川
清の漏集梧注﹃契川詩集注﹄巻三、「洛中監察病仮満、送章楚老拾遺帰朝」詩の題下注に、「蓋儲其名而暦唐芋也」とある。しばら‑この説に従う。畑
﹃支那学﹄第三巻十1号、一九二五年。刷
﹃集刊東洋学﹄第六十八号、7九九二年。仙
中華書局・唐宋史料筆記叢刊、l九八七年。㈲
呉椀﹃障唐歴史文献集釈﹄(中州書籍出版社、一九八七年)や、神田信夫・山根幸夫編﹃中国史籍解題辞典﹄(煩原書店、一九八九年)等参照。
㈲漏集梧﹃契川詩集注﹄巻四には、「一作﹃重宿裏州、巽葦楚老拾遺﹄」とある。S呉企明「寺楚老和幸楚」にも、ほぼ同じ‑指摘される。
㈲﹃契川詩集注﹄巻四の漏注に'「盲書﹄︹巻九十︺郵便伝、版字値頃時人語日、美道無知、使暦値無児﹄」とある(艮吏伝の一部)0
㈱
注㈲の番注に、∃晋書﹄︹巻四九︺向秀伝、隣人有吹笛者'発声参亮、追想嚢昔遊宴之好、感音而嘆(「思旧賦」の1節)」とある。㈹その論拠は、杜牧が洛陽で寺楚老と別れた後、嚢陽を通った可能性のある四回の旅のうち、第三回の会昌元年のみが秋七月の
旅(詩中の「故人墳樹立秋風」に拠る)であることである。
仙
呉企明は、本詩を大中九年(八三五)の作と考える(﹃唐才子伝校等﹄)が、これは明らかな誤りである。というのは、本詩はヽヽヽヽヽ洛陽における春の作であるが、杜牧が監察御史東都分司になったのは'その「李甘詩」(巻一)によって、大中九年秋七月以後であることがわかり(謬鉱﹃杜牧年譜﹄参照)、その説は成立しえない。杜牧は、開成二年の春夏には洛陽を離れて揚州へと向かう
ので、本詩作成の可能性は、開成元年か、翌二年のどちらかである。ただ開成二年における休暇願いは、弟のために眼科の名医
を迎えるためであり、杜牧自身が病床に臥していたのではない。とすれば、開成元年作の可能性もあるが、ひとまず謬鉱﹃杜牧
年譜﹄の説に従うO
1 3 ) ( 1 2
ug)(18)(1
7 ) ( 1
6)(15 ) ( 1 4
)拙稿「杜牧生卒年論拠考‑許滞らの没年にも触れて
‑ 」 (
前掲)参照。松尾幸忠「杜牧詩の繋年に関する二二二の問題‑特に
黄
州赴任時の経路を中心に‑」(早稲田大学﹃文学研究科紀要別冊第十三集﹄︹文学・芸術編︺)参照。ちなみに、大中五年秋八月、湖州を発って帰京するル
ー
トが大運河ぞいであったことを表す「隔堤柳」(巻三、謬鉱﹃杜牧伝﹄参照)の作成年代について、王西平「杜牧詩文系年考弁」(前掲)は大和九年の作とする新説を出
したoこれに対して、郭文鏑「杜牧若干詩文系年之再考弁」(﹃西北師院学報︹社会科学︺﹄1九八七年二期)は、その説を批判
し、謬鉱﹃杜牧年譜﹄にいう大中五年秋の作でよいとする。筆者も大中五年説に従う。しかも湖州からの帰京は、特別な事情が
ないかぎり、大運河ぞいであると考えてよい(この点は王西平の論文も同じ)0ヽ他方'荒井健﹃杜牧﹄(筑摩書房、1九七四年)は、大中四年(八五
〇 )
に成る杜牧の「上宰相求湖州第二啓」(巻十六)に「故殿中侍御史書楚老」云々とある表現に着目Lt「この﹃啓﹄が書かれるまでに没していたので∃故﹄の字がつ‑」(二
〇
三百)とする。しかし'こうした用例中の「故」字は元来、当該人物の前官を意味し、その生死にかかわりな‑用いられるのが通例であ
る。楊樹達∃詞詮﹄巻三、故の条参照。従って、この文章から直ちに当時、寺楚老はすでに没していた、と断言することはでき
ないようである。
倉石武四郎「杜契川年譜」や鯵鉱﹃杜牧年譜﹄等参照。
厳密にいえば、幸楚老は左拾遺の後、殿中侍御史になっている。呉企明の「寺楚老和幸楚」参照。﹃金華子(雑編)﹄巻下にも見える。﹃唐会要﹄巻八二、休仮の条参照。﹃詩薮﹄内篇巻三、古体下'七言の条。﹃学林浸録﹄十三韓、1九九1年所収.
倒 権 徳 輿 (字 載 之 )
1︹補訂轍︺○
粛宗上元二年辛丑(七六一)生?‑憲宗元和十三年戊成(八一八)八月没へ享年五十八歳?101
︹論 拠 考 ︺
憲 宗 朝 の 宰 相 、 権 徳 輿 の 生 没 年 は 、 従 来 、 粛 宗 の 乾 元 二 年 己 亥 (七 五 九 ) 生 ‑ 憲 宗 の 元 和 十 三 年 戊 成 (八 一 八 )
八 月 没 、 享 年 六 十 歳 、 と 考 え ら れ て き た 。 清 の 呉 修 ﹃続 疑 年 録 ﹄ 巻 一 、 蒐 亮 夫 ﹃歴 代 名 人 年 里 碑 伝 総 表 ﹄、 聞 一 多 「唐
詩 大 系 」 な ど は 、 い ず れ も こ の 立 場 で あ り 、 今 日 の 通 説 で あ る と い っ て よ い 。 こ の 論 拠 は 、 ほ ぼ 以 下 の ご と ‑ で あ る 。
① 韓 愈 の 「唐 故 相 権 公 墓 碑 」 (馬 其 殖 ﹃韓 昌 繋 文 集 校 注 ﹄ 巷 七 、 東 雅 堂 本 巻 三 十 ) に 、 「公 在 相 位 三 年 、 其 後 、 以 吏 部 尚 書 2 3 授 節 鎮 山 南 、 年 六 十 以 莞 」 と あ り 、 ま た 「以 疾 求 還 、 ︹元 和 ︺ 十 三 年 某 月 甲 H= ' 道 亮 子 洋 ︹州 ︺ 之 白 華 」 と あ る 。 4 ② ﹃旧 唐 書 ﹄ 巻 l 五 、 憲 宗 紀 、 元 和 十 三 年 八 月 の 条 に 、 「戊 寅 ︹二 十 七 且 、 前 山 南 西 道 節 度 使 権 徳 輿 卒 」 と あ る 。
③ ﹃旧 唐 書 ﹄ 巻 一 四 八 、 権 徳 輿 伝 に 、 「 ︹元 和 ︺ 十 三 年 八 月 、 有 疾 、 詔 許 帰 閲 、 道 卒 、 年 六 十 」 と あ る 。
④ ﹃新 唐 書 ﹄巻 一 六 五 、 権 徳 輿 伝 に 、 「復 検 校 吏 部 尚 書 、 出 為 山 南 西 道 節 度 使 。 後 二 年 、 以 病 乞 還 、 卒 於 道 、 年 六 十 」
と あ る 。 権 徳 輿 の 山 南 西 道 節 度 使 就 任 の 時 期 は 、 ﹃旧 唐 書 ﹄ 本 伝 に 「 ︹元 和 ︺ 十 一 年 、 復 以 検 校 吏 部 尚 書 出 鎮 輿 元 」 と あ 5 か 。 つ ま り 、 そ の 没 年 は 、 元 和 十 l 年 の 二 年 後 (「 後 二 年
」)の 元 和 十 三 年 で あ る 。
⑤ 末 の 底 意 ﹃嘉 定 鎮 江 志 ﹄ 巻 十 八 、 人 物 、 権 徳 輿 の 条 に 、 「 ︹元 和 ︺ 十 三 年 、 以 病 乞 還 、 道 卒 」 と あ る 。
生 年 は 、 ① の 墓 碑 と ③ ④ の 新 旧 ﹃唐 書 ﹄ 本 伝 に 記 さ れ る 享 年 「六 十 」 に よ っ て 逆 算 。
と こ ろ が 、 近 年 、 そ の 生 年 と 享 年 に 関 し て 、 い‑ 伝 校 等 ﹄ 巻 五 、 権 徳 輿 の 条 (呉 汝 燈 執 筆 ) に は 、
‑ 、 「五 十 八 」 歳 で あ る と す る 。 そ の 論 拠 は 、 6 李 華 の 「著 作 郎 贈 秘 書 少 監 権 君 ︹皐 ︺ 墓 泰 」 き わ め て 注 目 す べ き 新 説 が 提 出 さ れ た (没 年 自 体 は 揺 る が な い )。 ﹃唐 才 子
通 説 よ り も 二 年 遅 い 上 元 二 年 (七 六 1 ) に 生 ま れ 、 享 年 も 六 十 で は な
ほ ぼ 次 の ご と ‑ で あ る 。 ▼)^フ (﹃ 全 唐 文 ﹄ 巻 三 二 一 ) に は 、 権 幕 が 没 し た と き 、 「 一 子 某 有 り 、 生 ま れ て
七 年 な り ︹有 一 子 某 、 生 七 年 莫 ︺」 と あ る 。 「 一 子 某
」と は ' 権 徳 輿 を 指 し て い う 。 梁 粛 の 「著 作 郎 贈 秘 書 少 監 権 公 夫 人 7 李 氏 ︹権 徳 輿 の 母 ︺ 墓 誌 銘
」(﹃全 唐 文
﹄巻 五 三 ) に は 、 こ の こ と を 明 言 し て 、 「子 の 徳 輿 有 り 、 七 歳 に し て 孤 な り ︹有
子 徳 輿 、 七 歳 而 孤 ︺」 と い う 。 韓 愈 の 「唐 故 相 権 公 墓 碑
」に も 「 ︹徳 輿 は ︺ 七 歳 に し て 貞 孝 公 (権 幕 、 貞 孝 は そ の 謡 ) 卒 す 8 し
ん︹七 歳 而 貞 孝 公 卒 ︺」 と い う 。 こ れ ら は み な 、 権 徳 輿 の 「告 先 公 貞 孝 公 丸
」(雇 載 之 文 集 ﹄ 巻 五 〇 ) の 自 述
「靴歳 (七 、 八 ▼Jユよ 歳 の 子 ど も の こ ろ ) を 追 惟 (追 憶 ) す る に 、 奄 か に 厳 訓 を 失 ふ ︹追 惟 配 歳 、 奄 失 厳 訓 ︺」 と 合 致 し て お り 、 当 然 、 信 じ て 従
う べ き で あ る 。 た だ 父 親 権 皐 の 没 年 に は 、 思 う に 三 説 あ る 。
④ ﹃旧 唐 書 ﹄ 権 徳 輿 伝 に は 、 「大 暦 三 年 、 卒 於 家
」と あ る (﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 一 九 四 、 卓 行 伝 の な か の 権 幕 伝 に は 、 没 年 を 記 さ
な い )0 9 ㊥ 李 華 の 「権 君 墓 表
」(前 掲 ) に は 、 「大 暦 元 年 四 月 某 日 ' 不 幸 逝 於 ︹潤 州 ︺ 丹 徒
」と あ か 。 ▲‖Unい ⑮ 権 徳 輿 の 「先 公 先 太 君 霊 表
」(﹃権 載 之 文 集 ﹄ 巻 二 六 ) に は 、 「先 公 ︹権 皐 ︺、 以 大 暦 二 年 、 歳 在 丁 末 ' 夏 四 月 十 四 ︻什皿 日 、 棄 代 於 潤 州
」と あ る (代 は 世 の 意 )。 同 じ く 権 徳 輿 の 「 王 批 夫 人 宏 農 場 氏 墓 誌 銘
」(同 上 書 巻 二 六 ) に も 、 「大 暦 丁
とれうあ
末 、 徳 輿 丁 茶 参
」と あ る (「
茶参に
丁ふ 」 と は 、 こ の 場 合 、 父 親 に 死 な れ る 苦 痛 に 遭 遇 す る こ と を い う )。 大 暦 二 年 は ま さ に 丁 q 末 の 年 で あ り 、 し か も こ の 発 言 は い ず れ も 権 徳 輿 の 自 述 に 出 る 。 そ の 正 確 さ は ' も と よ り 疑 い を 懐 ‑ 余 地 は な い 。
元 年 と 三 年 の 説 は 、 と も に 誤 り で あ る 。
か ‑ て 、 父 親 の 没 し た 大 暦 二 年 丁 末 (七 六 七 ) か ら 七 年 遡 る ( つ ま り 、 父 親 の 没 し た 大 暦 二 年 当 時 へ 権 徳 輿 が 七 歳 で あ っ
た と し て 逆 算 す る ) と 、 粛 宗 の 上 元 二 年 草 丑 (七 六 一 ) と な り 、 こ れ が ほ か な ら ぬ 権 徳 輿 の 生 年 で あ る 。
呉 汝 燈 は 、 さ ら に 二 つ の 論 拠 を あ げ て 、 自 説 を 補 強 す る 。 q
おもあ ④ 権 徳 輿 「祭 故 唐 舎 人 文 」 (﹃ 権 載 之 文 集 ﹄ 巻 四 八 ) に は '
「憶ふ 昔 准 湖 ︹准 水 と 湖 ︺ に て 、 君 と 親 へ り 。 形 を 忘 れ て
103
いたかんこう
志 を 合 し 、 適 に
造り 理 に 通 ず 。 瓜 歩 (江 蘇 省 の 地 名 )
・刊溝(運 河 の 名 )、 呉 山 ・ 楚 水 に て 、 芝 蘭 の 室 (香 草 の あ る 室 。 善 "川uu き 人 と 交 遊 す る 比 喰 )、 三 十 年 な り ︹憶 昔 准 湖 、 与 君 親 止 。 忘 形 合 志 、 造 適 通 理 。 瓜 歩 刊 溝 、 呉 山 楚 水 、 芝 蘭 之 室 、 三 十 年 莫 ︺」
わ
れ と あ り 、 さ ら に 同 じ ‑ 権 徳 輿 の 「送 徐 諮 議 仮 満 東 帰 序
」(同 上 書 巻 三 八 ) に 、 「
邸夫、 嘗 て 三 呉 の 間 に 湛 息 す る こ と 、 nu 殆 ん ど 三 十 年 ︹邸 夫 嘗 蒋 息 三 呉 間 、 殆 三 十 年 ︺」 と あ る 。 と こ ろ で 、 権 徳 輿 の 「送 欽 州 陸 使 君 員 外 赴 任 序
」(同 上 書 巻 三 六 )
われめ
に は 、 「 ︹貞 元 ︺ 七 年 (七 九 一 )、 詔 書 も て 礼 官 博 士 ︹太 常 博 士 ︺ を 以 て 、
邸夫を 呉 よ り
徴す ︹( 貞 元 ) 七 年 、 詔 書 以 礼 官 博 士 ㈹ 徴 静 夫 於 呉 ︺」
(﹃文 苑 英 華 ﹄ 巻 七 二 七 、 ﹃全 唐 文 ﹄ 巻 E I九 T ) と い う 。 貞 元 七 年 か ら 三 十 年 潤 る と 、 ち ょ う ど 上 元 二 年 (七 六
一 ) で あ る 。 も し 呉 修 の ﹃続 疑 年 録 ﹄ の 説 (い わ ゆ る 通 説 ) に 拠 っ て 、 貞 元 七 年 か ら そ の 生 年 で あ る 乾 元 二 年 (七 五 九 )
に 潮 る と 、 三 十 二 年 と な り 、 明 ら か に 権 徳 輿 の 自 述 と 合 わ な い 。 ‖U ⑨ 権 徳 輿 「与 張 秘 監 書
」(同 上 書 巻 四 一 ) に は 、 自 ら 「連 中 の 初 め 、 年 は 弱 冠 に 及 ぶ ︹建 中 初 、 年 及 弱 冠 ︺」 と い う 。
連 中 年 間 は 合 わ せ て 四 年 、 「連 中 の 初 め
」と は 元 年 (七 八 〇 ) の は ず で あ る 。 上 元 二 年 生 年 説 (新 説 ) に 拠 れ ば 、 権 徳
輿 は 連 中 元 年 当 時 、 二 十 歳 の は ず で あ り 、 ま さ に ﹃礼 記 ﹄ 曲 礼 篇 上 の
「二 十 を 弱 冠 と 日 ふ
」と 合 致 し 、 権 徳 輿 の 自
述 と も 符 合 す る (通 説 の 乾 元 二 年 生 年 説 に よ れ ば 、 建 中 元 年 当 時 、 す で に 二 十 二 歳 で あ る )。 こ の 二 つ ④ ⑨ は 、 い ず れ も 上 元 nu 二 年 に 生 ま れ た 確 証 で あ る 。
と 。 従 っ て 、 元 和 十 三 年 (八 1 八 ) に 没 し た と き 、 そ の 享 年 は 「六 十
」で は な ‑ 、 「五 十 八
」歳 で あ る 、 と す る 。
こ の 呉 汝 燈 の 説 は 、 き わ め て 注 目 す べ き 新 説 で あ る 。 従 来 の 通 説 に よ れ ば 、 父 親 の 権 幕 が 没 し た と き の 権 徳 輿 の 年
齢 「七 歳
」は 、 「九 歳
」の 誤 り で な ‑ て は な ら な い 。 南 宋 の 魂 仲 挙 編 ﹃五 百 家 注 昌 翠 文 集 ﹄ 巻 三 十 、 「唐 故 相 権 公 墓 碑
」中 の 「七 歳 而 貞 孝 公 卒
」に 対 す る 、 南 宋 初 め の 契 汝 寮 の 注 は 、 明 ら か に こ の 立 場 で あ り 、
大 暦 二 年 、 貞 孝 公 卒 。 徳 輿 時 九 歳 。
と い う 。 確 か に こ の 形 誰 説 に よ れ ば 、 い ち お う 解 釈 で き る 。 し か し 、 前 掲 の 李 華 「権 君 墓 表
」や 梁 粛 「李 氏 墓 誌 銘
」の 「七 年
」「七 歳
」も み な 「九
」の 託 と 見 な す の は 、 や や 穏 当 で は な い 。 通 説 の 「六 十
」歳 没 説 で あ る 新 旧 ﹃唐 書 ﹄ 権 ヽ ヽ ヽ 徳 輿 伝 に も 「七 歳 居 父 喪
」と あ る 。 権 徳 輿 の 父 親 の 没 年 「 (大 暦 ) 元 年 ・ 二 年 ・ 三 年
」は 、 流 伝 ・ 書 写 の 過 程 で ま ざ れ
や す い が 、 そ の 干 支 「丁 未
」自 体 は 誤 り に ‑ い 。 呉 汝 燈 の 新 説 は 、 充 分 説 得 力 を も つ と 評 し て よ い 。
し か し 、 こ の 新 説 へ の 賛 同 に 若 干 抵 抗 感 を 覚 え る の は 、 権 徳 輿 の 伝 記 に 関 す る 最 も 基 礎 的 な 資 料 で あ る 韓 愈 の 「権
公 墓 碑
」や 新 旧 ﹃唐 書 ﹄ 本 伝 に 見 え る 享 年 「六 十
」を 「五 十 八
」の 誤 り と す る 点 で あ る 。 こ の 意 味 で 改 め て 注 目 さ れ す1つ て ‑ る の は 、 韓 愈 の 「権 公 墓 碑
」の 享 年 に 関 す る 文 字 の 異 同 で あ ろ う 。 南 末 の 方 呆 卿 撰 ﹃韓 集 挙 正 ﹄ 巻 九 に は 、 関 鍵 ヽ と な る 「年 六 十 以 尭
」に 対 し て 、
三 本 同 。 保 大 本 作 「六 十 八 」、 監 本 作 「六 十 六
」。と い う 。 三 本 と は 秘 閣 本 ・ 祥 符 ︹年 間 ︺ 杭 本 ・ 嘉 祐 ︹年 間 ︺ 萄 本 を 指 し 、 保 大 本 は 南 唐 の 保 大 年 間 の 刊 本 、 監 本 は 国 士
監 校 定 の 刊 本 を 、 そ れ ぞ れ い う 。 こ の 校 記 に よ れ ば 、 「以
」の 字 を 「 八 」、 も し ‑ は 「六
」に 作 る テ キ ス ト が あ っ た こ
と が わ か る 。 こ の 異 同 の 当 否 に 関 し て 、 万 屋 卿 自 身 は 「新 旧 の 史 (新 旧 ﹃唐 書
﹄本 伝 ) を 考 ふ れ ば 、 実 は ﹃六 十 ﹄ な り
LT.Ⅵ皿 と 述 べ 、 従 来 、 こ の 説 が 広 ‑ 受 け 入 れ ら れ て き た 。 し か し 、 権 徳 輿 の 享 年 を 「五 十 八
」と す る 新 説 が 提 出 さ れ た 現 在
に お い て は 、 こ の 方 山松 卿 の 穏 当 な る 解 釈 も 再 考 を 求 め ら れ て い る と い え よ う 。
死 者 の 墓 前 に 立 て る 墓 碑 は 、 墓 中 に 埋 め る 墓 誌 銘 と と も に 当 該 人 物 の 生 卒 年 を 探 る 根 本 資 料 の 一 つ で あ る が 、 刻 石
そ の も の が 伝 存 す る こ と は ま れ で あ る 。 そ の 文 章 が 別 集 や 総 集 に 収 め ら れ て 伝 わ る 場 合 に は 、 お の ず と 文 字 の 異 同 が 伽 生 じ 、 テ キ ス ト の 校 勘 が 必 要 と な っ て ‑ る 。 権 徳 輿 の 墓 碑 の 場 合 、 方 累 卿 の い う 南 唐 の 「保 大 本
」(保 大 年 間 は 九 四 三 ‑ ヽ ヽ 九 五 七 ) に 「六 十 八
」に 作 る 点 が 、 お の ず と 注 目 さ れ て こ よ う 。 そ し て 、 そ の 「六 十 八
」は 、 じ つ は 「五 十 八
」の 誤 り
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な の で は な い か ' と 。 こ の 文 字 の 異 同 は ' 新 説 を 傍 証 す る こ と に な ろ う 。
筆 者 は ' 現 在 の と こ ろ 、 呉 汝 燈 の 新 説 に し た が っ て よ い と 考 え る 。 た だ ' 新 旧 ﹃唐 書 ﹄ 本 伝 の 享 年 が ' な ぜ 「六 十
」に 誤 っ た の か ' そ の 資 料 と な っ た 「行 状
」等 に も ' 前 掲 の 墓 碑 と 同 種 の 誤 り が あ っ た の か ' そ の 原 因 が も う 一 つ 理 解
し に く い 。 い ま う こ の 新 説 に 従 い つ つ も 、 ひ と ま ず 疑 問 符 を つ け て お ‑ ゆ え ん で あ る 。
︹補 遺 ︺
楊 於 陵 の 「祭 権 相 公 文
」は ' 元 和 十 四 年 七 月 六 日 に 作 ら れ て い る (﹃ 全 唐 文 ﹄ 巻 五 二 三 )。 ち な み に ' ﹃文 苑 英 華 ﹄ 巻 九
八 四 に は ' 上 掲 の 祭 文 の ほ か に ' さ ら に 李 直 方 ・ 王 仲 野 ・ 粛 籍 の 「祭 権 相 公 文
」を 収 め て い る 。 ︹参 考 ︺
権 徳 輿 は 生 存 当 時 ' す ぐ れ た 文 章 家 と し て 知 ら れ た 。 ﹃旧 唐 書 ﹄ 本 伝 に い う 、 「 そ の 文 は 雅 正 に し て 弘 博 。 王 侯 将 相 '
およ
D
泊
び 当 時 の 名 士 は ' 裏 穀 す れ ば 、 銘 紀 を 以 て 請 を 為 す 者 ' 十 に 八 ㌧ 九 . 時 人 は 以 て 宗 匠 と 為 弟
」と 。 詩 僧 の 瞭 然 は ' つと 助 は
なは 早 に そ の 文 章 を 高 く 評 価 し ' 南 末 の 厳 羽 は ﹃漁 浪 詩 話 ﹄ 詩 評 の な か で ' 「権 徳 輿 の 詩 は ' 却
て絶だ盛 唐 に 似 た る 者 有 り
」の 「或 い は 寺 蘇 州 ︹応 物 ︺ ・ 劉 長 卿 に 似 た る 処 有 り
」な ど と 評 す る 。 な か で も 妻 の 雀 氏 に 対 す る 寄 贈 詩 が す ぐ れ ' 数 も 多
い 。 詳 し ‑ は 、 河 内 昭 円 「権 徳 輿 の 贈 婦 詩 に つ い て
」(﹃大 谷 学 報 ﹄ 六 三 巻 第 二 号 、 一 九 八 三 年 ) 参 照 。 林 家 英 ・李 文 衡 ・孫 耶川] 吉 康 「権 徳 輿
」(膏 粛 古 代 作 泉
﹄所 収 ) や ' 呉 汝 燈 「権 徳 輿 詩 人 名 考 証
」(﹃西 北 師 院 学 報
﹄(蘭州)1 九 八 九 年 五 期 ) も ' そ の
詩 文 を 読 む 際 の 参 考 に な る 。 助
謝ち な み に ' 王 徳 毅 編 ﹃中 国 歴 代 名 人 年 譜 総 目 ﹄ に よ れ ば ' 韓 国 の 金 時 俊 撰 「権 徳 輿 年 譜
」(﹃中 国 学 報
﹄第 六
執、一 九 七 ヽ ヽ 九 年 ) が あ る が ' 筆 者 未 見 。 生 没 年 は 通 説 (七 五 九 ‑ 八 l 八 ) で あ る 。 周 助 初 主 編 ﹃唐 詩 大 辞 典 ﹄ に 「七 五 八
‑八 1 五
」と す る の は 誤 り (毛 水 清 執 筆 )0
日日 2
3 4 5
6
7
8
9㈹nY
日日 2日‖
hln‑11 Ⅳ叶u1 u︺n1
㈹ 注
拙稿「唐代詩人新疑年録
川
」に収める「権徳輿」の条の補訂。この「甲子」は、具体的な干支を入れることを省略したことを表す。清水茂「権徳輿伝」(﹃唐代の詩人‑その伝記﹄所収)の
訳注参照。
洋州の治所は'今の駅西省洋県付近。
この戊寅(二十七日)は、おそら‑権徳輿の計報が朝廷に届いた日であろう。﹃旧唐書﹄憲宗紀、元和十一年の条にも、「冬十月丁巳︹二十五日︺、以刑部尚書権徳輿検校吏部尚書'兼輿元声、充山南西道節
度使」とある。清の呉延埜﹃唐方鎮年表﹄巻四等参照。﹃文苑英華﹄巻九七
〇
、﹃唐文粋﹄巻六九所収。﹃文苑英華﹄巻九六六。﹃全唐文﹄巻五〇
八。﹃嘉定鎮江志﹄巻十八、清の方成珪﹃韓集等正﹄巻四㌧清水茂「権徳奥伝」の訳注も、この立場である。﹃全唐文﹄巻五
〇
六。﹃文苑英華﹄巻九六七、﹃全唐文﹄巻五〇
四。﹃五百家注昌翠文集﹄巻三十、「唐故相権公墓碑」に対する韓醇の注にも、「大暦二年四月十四日、皐卒於潤州」とある。清の方成珪﹃韓集等正﹄巻四には、この韓注の拠りどころを未詳とするが、これは明らかに権徳輿の「先公先太君霊表」(前掲)にもと
づ‑。ちなみに、河内昭円「権徳輿の贈婦詩について」も、権幕の死を大暦二年と見なすが、同論文は通説(七五九年生)に従
うので、「七歳」の字を誤りとするらしい。ただし、同「権徳輿と仏教HL(﹃文芸論叢﹄第二十号、一九八三年)には、「権徳輿
は七歳のときに父の皐を亡‑して孤児となった」と明言する。﹃文苑英華﹄巻九八三、﹃全唐文﹄巻五
〇
九。「止
」は語助。﹃文苑英華﹄巻七二八、﹃全唐文﹄巻四九一には「三十」を「二十」に作るが、誤りらしい。権徳輿が貞元七年、太常博士として朝廷に徴されたことは、権徳輿「与張秘監書」にも「︹貞元︺七年秋、猿辱朝命、以博士徴
至京師」とあり'さらに「貞元七年、豪恩、除太常博士'‑‑」と題する詩(﹃権載之文集﹄巻十)も伝わる。﹃唐才子伝校等﹄
権徳輿の条参照。