ハ ワイ州 にお け る公教 育 制度 成 立過 程
ポ リ ネ シ ア 文 化 と ア メ リ カ文 化 衝 突 ・ 葛 藤 の 時 代(1840-1899)田
中
圭 治 郎
1840年 代 に 入 る と,ハ ワイ文 化 は伝 統 的 な ポ リネ シ ア文 化 か ら大 幅 に 変 容 を 遂 げ て い く。1820年 代 にお け る プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 の支 配 的 な 時 代 とは 異 な り,様 殴 な欧 米 人 た ちの 文 化 が ハ ワイ に持 ち込 まれ て い く。 そ の 中 で もア メ リカ人 の 影 響 が 大 で あ る こ とは,言 うま で もな い。 ア メ リカ人 を 始 め とす る多 ゆ くの 人 た ち が,ハ ワ イY'定 着 し始 め る。 だ が,白 人(ハ オ レ)の 中 で も 大 き な 力 を 持 ち 始 め る の は,プ ロ テ ス タ ン ト宣 教 師 団 の 子 ど も た ち で あ り,彼 ら は, ハ ワ イ に 定 住 し,ハ ワ イ の 王 族 と 癒 着 す る こ と に よ り,ハ ワ イ の 支 配 権 を 握 り,ハ ワ イ 社 会 の ア メ リ カ 化 を 意 図 す る よ う に な る 。 こ れ に 対 し,カ メ ハ メ ハ4世,5世 は,イ ギ リス と の 関 係 を 深 め る 中 で,ハ ワ イ社 会 の ア メ リ カ 化 に 対 抗 す る の で あ る 。 こ の 時 代 の ハ ワ イ人 支 配 層 の 人 た ち は,ポ リ ネ シ ア 文 化 を 単 に 守 る だ け で な く,ア メ リ カ 文 化 の 影 響 を 排 除 す る こ と を 目 的 と し て,イ ギ リス と強 い 関 係 を 持 つ よ うに な る 。 し か し な が ら,時 代 が 下 る に つ れ て,ア メ リ カ と の 経 済 的 な 結 び 付 き が 強 ま り,ア メ リ カ の 政 治 的 ・文 化 的 影 響 は 否 定 し が た く な る 。 特)/r,パ ー ル ハ ー パ ー の 軍 事 使 用 を 許 可 し た た め,ハ ワ イ 王 国 は,事 実 上,ア メ リカ の 従 属 下Yy置 か れ る よ うに な っ て し ま う。 こ れ に 対 し て,カ ラ カ ウ ア 王,リ リ ウ オ カ ラ ニ 女 王 を 始 め とす る ハ ワ イ 王 国 の 支 配 者 た ち は,様kな 抵 抗 を 試 み る が,そ れ らは こ と ご と くア メ リカ 人 た ち に,打 破 さ れ,つ いV`1893年 に は ハ ワ イ 王 国 は 崩 壊 し,翌1894年 ハ ワ イ 共 和 国 が 成 立 す る と共 に ハ ワ イ は 事 実 上 ア メ リカ 人 の 支 配 下 に 置 か れ る の で あ る 。佛歡大學研究紀要通卷75號 この 時期 は,ア メ リカ人 が ハ ワイ人 の勢 力 を 弱 め て い く過 程 で あ る。文 化 的 に は,カ メハ メハ王 朝 時 代 に は徐kに,そ れ 以 後 は 急激 に,ア メ リカ化 が 行 わ れ る。 さ らに19世 紀 中葉 か ら,様kな 民 族 が 移 民 労働 者 と して や っ て来,ポ リ ネ シア 文 化,ア メ リカを 始 め とす る 欧 米 文 化 に 加.'Z..,アジア 文 化 流 入 に よ っ て,ハ ワイ社 会 は新 た な 複合 的文 化 の社 会 へ と変 貌 して い く。 教 育 にお いて は,ア ー ムス トロ ン グを始 め とす る教 育 行 政 家 た ち は,ミ ッシ ョン ス クール(missionaryschoo1)を 否 定 し,近 代 的 公 教 育 制 度 確立 に 向け て 様 々 な努 力を す る。特 に,教 育 委 員会 制度 は,ア メ リカ本 土 の そ れ とは若 干 異 な るが,文 部 大 臣直 接 管理 か ら,教 育委 員 会 とい う1つ の 組 織 体 を通 す こ とに よ り,教 育 行 政 に よ り自立 性 を 求 め た 。 「共 通 」 学 校(commonschoo1)と 選 抜 学 校(selectschoo1)と い う複線 型 学 校 制 度 な が ら,庶 民 の 子 ど もた ち の 学 校 として の 「共通 」 学校 は,ハ ワイ王 国 の教 育 機 関 と して 大 きな 役 割 を果 た す 。 だ が,文 化 的 に ア メ リカの影 響 が 強 ま る と共 に,「 共 通 」 学 校 は政 府 立 英 語 学 校 に取 って 代 わ られ て し ま うの で あ るが,そ れ は,王 国 崩 壊 後 に特 に顕 著 で あ り,ア メ リカ化 が 学 校 現場 に 持 ち込 まれ る こ とを 意 味 して い る 。 1.ポ リ ネ シ ア 文 化 の 比 較 的 強 い 時 期(1840-1872) カ メハ メハ王 朝 期 a.社 会 的 ・経済 的 変 化 ヵ メ ・・メハ3世 は,1854年 死 去 す る。 彼 の30年 以 上 に 亙 る治 世 の 下 で,ハ ワ イ王 国 は基 礎 が 固 め られ,国 家 と して の体 裁 が 整 え られ る。1840年,ハ ワイ 王 国最 初 の憲 法 が 発 布 され,王 族,族 長 の 中 か ら選 ば れ た 上 院,一 般 庶 民 に よる 下 院 に よって 構 成 され る 二 院 制 の 国 会 が 開設 され る。 ま た,最 高 裁 判所 の創 設,並 び に 国に よ る小 学 校(「 共 通 」学 校)の 直 接 経 営 が た い そ う注 目さ れ る。 首 都 が,捕 鯨 の 基地 で あ った ラハ イナ か ら太 平 洋 貿 易 の 中 継 地 ホ ノル ル へ と 移 され て い く(1845年)が,捕 鯨 業 の 中心 地 ラハ イナ の 衰 退 は,ハ ワイ 王 国 の 経 済 が 貿 易 中 継 業 に よ って成 立す る よ うに な った こ とを 示 して い る 。
ハ ワイ州におけ る公教育制度成立過程 1848年,ハ ワ イ王 国 の 国土 を,3分 の1を 国 王 とそ の後 継 者 に,3分 の1が 政 府 に,残 り3分 の1が 庶 民 に分 け られ た 。 これ は,マ ヘ レ と呼 ば れ る土 地 分 割 の法 律 で あ り,こ の 法 律 の2年 後 に は,外 国 人 が 土 地 を所 有 す る こ とが認 め られ た。 白 人 た ち の土 地 へ の執 着Y'つ い て ロー レ ンス ・ヒ ュー クス は,次 の よ うに述 べ て い る。 「マ ヘ レ(土 地 分 割 法)以 来,外 国人 た ちが,熱 心 に 政 府 の 土地 を 手 頃 な値 段 で購 入 し続 け た。 宣 教 師 た ち さ}xも,土 地 投 機 とキ リス トの教 え を 広 め る事 との 間 に 矛 盾 を感 じな か った。 气1852年 ま で に は,組 合 教会 員46人 の うち, 16人 が,1人 に つ き,平 均 約200ヘ クタ ー ル の土 地 財 産 所 有 権 を 持 って い た 。 くわ 中 に は,国 王 や 族 長 か ら贈 り物 として 土 地 を 与 え られ た 者 もい た 。」 マ ヘ レは,国 王 が 独 占 して いた 土地 を,°r庶 民 に分 け,庶 民 が 各 自の財 産 を 所 有 出来 る民 主 的 な 改 革 であ った に もか か わ らず,宣 教 師 な い し彼 らの子 ど もた ちが 土 地 を 所 有 す る 結 果 とな る。 「宣 教 師 の2代 目は,土 地 投 機 に大 層 積 ヨラ 極 的 で あ っ た 」 た め,多 く の 土 地 が 白 人 の 所 有 に 帰 す る こ と に よ り,ハ ワ イ 王 国 が 徐 々 に 白 人 の 経 済 的 支 配 下 に 置 か れ る よ うに な る。1852年 に は,宣 教 師 た ち の 圧 力 で,王 権 を 弱 体 化 す る1852年 憲 法 が 制 定 さ れ る。 カ メ ・・メ ハ3世 の 死 後,彼 の 姉 キ ナ ウ(1839年 ま で3世 と ・・ワ イ を 共 同 統 治 し た)の 子 ど も ア レキ サ ン ダ ー ・ リ ホ リ ホ が 即 位 し て カ メ ハ メ ハ4世 と な っ た 。 カ メ ハ メ ハ4世 は,1855年 に 即 位 し,1863年 に 死 去 す る が,彼 の 治 世 下 で は, 捕 鯨 業 に 代 わ る 新 し い 産 業 が 出 現 し て く る 。..年 カ リ フ ォ ル ニ ア 州 で は,ゴ ー ル ドラ ヅ シ ュが 起 こ り,ま た,1860年 南 北 戦 争 の 勃 発 と共 に,ア メ リ カ西 海 岸 で は,砂 糖 の 供 給 が 逼 迫 し て く る 。 そ の た め,ハ ワ イ で 砂 糖 の 生 産 が 求 め ら れ る 。 特 に,マ ヘ レ以 後,大 土 地 所 有 者 と な っ た 宣 教 師 た ち(2世 代 目 も含 む)は,自 分 た ち の 土 地 の 有 効 利 用 を 考x,そ こ に サ トウ キ ビ を 栽 培 す る こ と を 考 え 出 す 。 カ メ ハ メ ハ4世 は,こ の よ うな ア メ リ カ 人 の 経 済 的 支 配 に 対 抗 す る た め に,イ ギ リ ス との 関 係 を 密 に し て,ア メ リ カ か ら の 影 響 力 を 少 な く し よ
佛 歡大 學 研 究 紀要 逋 卷75號 (4) う と し た 。 カ メ ハ メ ハ4世 が 死 去 す る と,彼 の 兄 ロ ッ ト ・カ メ ハ メ ハ が 即 位 し て カ メ ハ メ ハ5世 と な る 。 彼 は,4世 の 時 代 の 内 閣 の 大 臣 を も 勤 め た 経 歴 を 持 っ て お り,4世 か ら5世 へ の 移 行 に 伴 う混 乱 は あ ま りな か っ た 。 カ メ ハ メ ハ5世 は, 即 位 す る と す ぐに,ハ ワ イ 人 保 護 の 政 策 を 打 ち 出 す 。 カ メ ハ メ ハ5世 の 下 で 成 立 し た1864年 憲 法 は,国 王 の 権 限 を 強 化 す る た め の も の で あ り,上 院,下 院 よ りな る 二 院 制 議 会 を 廃 止 し,上 院 の み の 一 院 制 へ と 変 え て い く。 彼 は,4世 と 同 じ く,反 ア メ リ カ 的 態 度 の 持 ち 主 で あ り,ハ ワ イ 王 国 の 独 立 性 を 保 と う と努 力 し て お り,ハ ワ イ 王 国 の 独 自性 を 保 つ た め,日 本 と の 友 好 条 約 を 結 ぶ 。 カ メ ハ メ ハ5世 は1872年 死 去 す る が,3世,4世 と同 様 に 後 継 者(子 ど も)が お らず,そ の た め,彼 の 死 を も っ て カ メ ハ メ ハ 王 朝 は 終 え ん す る の で あ る 。 1840年 か ら1872年 ま で の 期 間 は,カ メ ・・メ ハ 王 朝 の 全 盛 期 で あ り,社 会 政 治 制 度 が 確 立 さ れ た 時 期 で あ る 。 経 済 面 に お い て は,ア メ リカ 人 を 中 心 とす る 白 人 た ち が,多 く の 土 地 を 所 有 し,そ れ ら の 土 地 を サ トウ キ ビ耕 作 に 使 用 す る こ と に よ り,ハ ワ イ 経 済 が 砂 糖 に よ っ て 潤 っ て く る 。 そ の 結 果,こ れ らの 耕 作 地 (プ ラ ン テ ー シ ョ ン)は ハ ワ イ の 富 を 支 配 す る よ う に な り,ハ ワ イ が 財 政 的 に ア メ リ カ に 引 き 寄 せ られ て い く。 サ トウ キ ビ 栽 培 に は,多 くの 労 働 者 が 必 要 と さ れ る が,ハ ワ イ人 た ち は,こ の よ う な 労 働 者 と し て は 適 任 で は な か っ た 。 彼 らは,自 給 自 足 の 生 活 を 送 っ て い た た め,重 労 働 を 好 ま ず,そ れ に 加 え て,ハ ワ イ 人 自 身 が 人 口 の 減 少 に 悩 ま さ れ て お り,こ れ ら の 耕 作 地 で 働 く),YYI.._はお よ そ 縁 遠 い 存 在 で あ っ た 。 東 か ら は,プ エ ル ト リ コ 人,ポ ル トガ ル 人,ノ ル ウ ェ ー 人 等 が,西 か らは,中 国 人, 日本 人,フ ィ リ ピ ン 人,韓 国 ・朝 鮮 人 等 と,世 界 の 様 々 な 土 地 か ら 労 働 者 が 招 か れ た 。 彼 らは,プ ラ ン テ ー シ ョ ン と い う1つ の 共 通 の 生 活 領 域 の 中 で 生 活 す る こ とに よ り,様kな 文 化 が1ヵ 所 で 交 わ り あ う こ とに な る 。 こ の 時 期 は,ま だ 移 民 の 数 も 少 な く,彼 ら の 交 わ りは,そ の 緒 に着 い た ば か りで あ る が,そ れ
ハワイ州におけ る公教育制度成立過程 以後 の ハ ワ イの 多文 化社 会 の 出発 点 で あ る とい え よ う。 こ の 時 期 の ハ ワ イ の 総 人 口,人 種 別 並 びY'宗 教 別 人 口を 記 述 す る 。 表1は, ハ ワ イ の 人 口推 移 を 示 した も の で あ る 。 こ の 表 か ら,ハ ワ イ の 人 口 が,約40年 の 間 に,半 分 以 下 に 減 少 し た こ と が 分 か る 。 ジ ェ ー ム ズ ・ ク ッ クが 初 め て ハ ワ イ に や っ て 来 た 頃 と比 べ る と,そ の 減 少 の 著 し い こ とが 窺 わ れ る 。 こ の 原 因 は ヨ ー ロ ッパ 人 が 持 ち 込 ん だ 疫 病,性 病 な ら び に,ア ル コ ー ル を 始 め とす る 快 楽 的 な 習 慣 で あ っ た 。 (5) 表1ハ ワ イ 州 の 人 口 年 代 1832年 1840年 1845年 1850年 1855年 人 口 130,300人 103,300 97,100 84,200 72,900 年 代1人 ・ 1860年 1865年 1870年 1875年 70,600人 64,900 59,800 54,600 次 に 当時 の ハ ワイの 人 口構 成 につ い て述 べ てみ る。 (6) 表2人 種 別人 口統 計 1853年 1860年 1866年 1872年 ハ ワ イ 人 混 血 ハ ワイ人 白 人 中 国 人 日 本 人 そ の 他 70,036人 983 1,687 364 67 65,647人 1,337 1,900 8ユ6 100 57,125人 1,640 2,400 1,306 488 49,044人 2,487 2,944 2,038 384 合 計 73,137 ・':11 62,959 56,897 表2か ら分 か る こ とは,当 時 の ハ ワイ で は,ハ ワイ人 が圧 倒 的 に 多 い が,彼 らの人 口が か な りの 速 度 で減 少 して い る のが 分 か る。 同 時Y',混 血 ハ ワイ人, 白 人,中 国 人 が 徐 々に 増 加 して い る。 これ は,耕 作 地 で働 く労働 者 が ハ ワイ に 流 入 して きた こ とを 意 味 す る。 後 に,ハ ワイ の人 口の か な りの割 合 を 占 め る 日
佛教大學研究紀要逋卷75號 本 人 は,1872年 時 点 で,ま だ 統 計 に は現 れ て こな い の は,彼 らが本 格 的 に移 民 す るの が,1990年 以降 で あ るた め で あ る。 この 時 期 は,ア メ リカ文 化 が ハ ワイ 人 の生 き方 を 支 配 し よ うと し,ポ リネ シア文 化 と様kな 摩 擦 を生 じた 時期 であ るが,入 口の 多 くの 部 分 を 占め るの は,依 然 として ハ ワ イ人 で あ るた め,ポ リ ネ シア文 化 の色 彩 が 色 濃 く残 って い る。 次 に宗 教 別 人 口統 計 につ いて 述 べ る。 (T) 表 3宗 教 別 統 計 宗 教 1853年 1884年 プ ロ テ ス タ ン ト ロ ー マ ン ・カ ト リ ッ ク モ ノレ モ ン ユ ダ ヤ そ の 他 56,840人(80.0%) 11,401(16.1%) 2,778(3.9%) ‐(o .o%) ‐Co .o%) 29,685人(36.8%) 20,072(24.9%) 3,576(4.4%) 84(0.1%) 27,161(33.7%) 合 計 71,019(100.0%) 80,578(100.0%) 表3を み る と,1853年 時 点 で,プ ロ テ ス タ ン ト教 徒 が 圧 倒 的 に 多 か っ た の に 対 し,1884年 に な る と,30パ ー セ ン ト台 に 減 少 し て い る 。 そ れ に 反 し て,カ ト リ ッ ク教 徒 が 徐kY`増 加 し て い くの が わ か る 。 こ の 時 期 の 宗 教 的 特 徴 は,プ ロ テ ス タ ン トの 勢 力 が 弱 ま る と 同 時 に,カ ト リ ッ ク,モ ル モ ン,並 び に ユ ダ ヤ 教 徒 の 存 在 が 認 め られ た こ とで あ る 。 す な わ ち,支 配 的 な 宗 教(宗 派)が 存 在 し な く な り,キ リス ト教,ユ ダ ヤ 教 が 互 い に 共 存 し う る こ とが 可 能 な 時 代 へ の 過 程 で あ る と言 う こ とが 出 来 る 。 この時 期 の教 育 は,プ ロテス タ ン ト宣 教 師 団 の影 響 力 か ら脱 した 後 に,ア メ リカ の公 教 育 の影 響 を 受 け,ハ ワイ教 育 が 義 務教 育 化 し て い く過 程 で あ る。18 40年 か ら1860年 にか け て,「 宗 派 公 立 学 校 制 度 か ら世 俗 的 な も のへ の移 行期 で あ っ た。1840年 憲 法 に よ って 与}ら れ た 政 府支 配 の法 律 的 基 盤,教 育 へ の公 的 な維 持 の確 立,宗 派 問 題 の解 決,ハ ワイ人 へ の英 語 学 校 の導 入 と リチ ャ ー ド ・ くわ ア ー ムス トRン グの 指 導 の 下 に 作 られ た公 教 育 の中 央 集 権 的 組 織 で あ る」 と, ブ リス ケが 指 摘 して い る よ うに,ア ー ムス トロ ングが ハ ワイ教 育 に果 た した 役
ハ ワイ州におけ る公教育制度成立過程 割 は大 な る も のが あ った 。 彼 の時 代 は,教 育 委 員会 制 度 の導 入 賛 否 につ い て議 論 が 白熱 して い る。 これ は,単 な る 制 度 的 な もの に 止 どま らず,ハ ワイ文 化,ア メ リカ文 化 の対 立 を生 じる。 つ ま り,こ の 制 度 導 入 派 は,教 育 現 場 で のハ ワ イ語 否 定,英 語 使 用 を主 張 し,そ れ は,ひ いて は ハ ワ イ文 化 否 定,ア メ リカ文 化 押 し付 け を求 め る。そ の 意 味 で,教 育 は,ハ ワイ人 の価 値 観 の変 化 に大 い に影 響 を与 え て い る。 以下 に 教 育 の そ れ ぞ れ の過 程 を 述 べ る。 b.義 務 數 育 化 の 時 期(1840-1846) 1840年 を 境 と し て ハ ワ イ の 「共 通 」 学 校 は,公 教 育 化 の 方 向 を た ど る よ うに な る 。 これ は,1840年 憲 法 の 教 育 規 定 に よ る と こ ろ が 大 で あ る 。 「15人 以 上 の 学 齢 期 の 子 ど も が い る す べ て の コ ミ ュ ニ テ ィ は,学 校 を 作 ら な け れ ば な ら な い 」 と あ り,各 コ ミ ュ ニ テ ィ に1校 小 学 校(「 共 通 」 学 校)の 設 置 を 求 め て い る 。 ま た,就 学 年 限 は 「4歳 か ら14歳 ま で の す べ て の 子 ど も た ち は,学 校V'通 学 し な け れ ば な ら な い 」 と定 め て い る 。 学 校 の 運 営 は 学 務 委 員 会(schoolcommitee)が あ た り,こ れ は そ の コ ミ ュ ニ テ ィ の 父 母 に よ っ て 選 出 さ れ る 。 だ が,学 校 運 営 に つ い て は,プ ロ テ ス タ ン ト宣 教 師 団 が 大 き な 影 響 力 を 持 っ て い る 。 「そ の 土 地 の 宣 教 師 団,税 務 官 と学 務委貽 が 撕 を獸 ねばな らな&と あ るよ 鵬 プ ・テスタ ン トの意 離 合 致 しな い 教 師 は採 用 され な い の で あ る。 この 法 律 は,1642年 と1647年 の マサ チ ュー セ ッツ州 学 校法 を先 例 と した もの とい わ れ て い8.こ の法 働 ミイギ リス の徒 弟 制度 蟻 務 化 した もの で あ り,特 に1642年 法 は両 親 と親 方Y'子 ど もた ち の教 育 を 義務 づ け てお り,こ れ が よ り鮮 明化 され た もの が1647年 法 で あ る。 「こ の教 区 の す べ て の町 は,主 が そ れ を50家 族 以 上 に増 や した な らば,直 ち に,読 み,書 きを 習 うす べ て の児 童 を 教 え るた めに,1名 の教 師 を任 命 す べ き で あ る 。給 料 は児 童 の両 親 また は親 方 に よっ て支 払 わ れ るか,あ る い は 町 の重 要 事 項 を 決 定 す る人kの 指 示V'従 って,一 般 の住 民 に よ り,補 助 され るべ きで あ ぎ」 とし て,教 育義 務 学 校設 置 義 務 が,両 親 親 方 だ け に限 らず,地 域 住
佛歡大學研究紀要通卷75號 民 に ま で拡 大 され て い く。 この 中 に ア メ リカ公 教 育 の 基 本 原 理 が示 され て い る が,こ の法 律 は主(キ リス ト)が 命 じた も ので あ り,神 の 王 国 を 求 め た ピ ュー リタ ンの精 神 が 色濃 くあ らわ れ て い る。 ア メ リカの 公 教 育 の 出 発 点 とな った1642年 法,1647年 法 を模 倣 した ハ ワイ王 国憲 法 の教 育 規 定 は,ア メ リカ的 な教 育 制 度 を 取 り入 れ よ うと した 点 で注 目さ れ て い るが,若 干相 異 点 が存 在 す る。 1840年 当 時,ア メ リカ公 教 育 は,世 俗 化,非 宗派 性 へ の動 きが よ り活 発 に な って お り,キ リス ト教 会 の影 響 力が 弱 ま って きて い た の に対 し,ハ ワイ王 国 で は,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 の指 導 の 下 に,200年 前 の マ サ チ ュー セ ッツ州 の 教 育法 の導 入 を 意 図 して い る。 理 由 として は,彼 ら宣 教 師 た ちが マサ チ ュ ーセ ッ ツ州 の プ ロテス タ ン トで あ り,神 の 王 国 を ハ ワイ の地 に建 設 し よ うと して い た か らで あ る。 しか しなが ら,マ サ チ ュー セ ッツ州 の教 育法 が,ア メ リカ の公 教 育 の基 礎 と な った よ う)'YY`.,ハワ イ王 国 の そ れ もハ ワイ州 公 教 育 の 基 礎 とな って い った の は 事 実 で あ ろ う。 す な わ ち,こ の教 育法 も時 の経 過 と と もに,非 宗派 的,さ らに 非 宗 教 的 な もの へ と変 化 して い くの で あ る。 1840年 の ・・ワイ最 初 の 憲法 に よ り,王 国が 小 学校(「 共通 」 学 校)を 経 営 す る よ うに な る。 学 校 経 営 は各 地 方 の学 務 委 員会 とプ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 とに よ って行 わ れ て お り,教 師 の採 用,解 雇 は宣 教 師 団 の意 向が 反 映 して い た 。 こ れ に対 し,カ トリ ッ ク教 団か らの反 対 が 強 く,1842年 の 法 律 が 修 正 され,従 来 使 用 され て いた 「宣 教 師 団 」 とい う言葉 が 「学 校 監 督 官 」 とい う名 称 に 変 え ら れ た が,実 態 はあ ま り変 化 は なか った。1842年 の 学 校 法 の 修 正 に よ り,各 島 に 学 校 監 督 官,ハ ワイ 王 国 に1人 の教 育 長(superintendent)を 置 く こ とが 規 定 され た 。 デ ビ ッ ド ・マ ロが 最 初 の王 国教 育 長 兼 マ ウイ 島(当 時 の首 都 ラハ イナ は マ ウ イ 島に あ った)学 校 監 督 官 とな る。 マ ロは熱 心 な プ ロテ ス タ ン トで, 1839年 の宗 教 的 寛 容 の布 告 を 無 視 し,プ 戸テ ス タ ン ト寄 りの教 育 行 政 を 行 った が,彼 の時 代 は各 島 の学 校 監 督 官 か らの報 告 も あ ま りな く,教 育 行 政 は 活 発 で は な か った 。 「1848年まで に ラ・・イ ナ ル ナ の卒 業 生 であ り,ハ ワイ 諸 島 最 初 の教 育長 で あ
ハ ワイ州 にお け る公 教 育 制 度成 立 過 程 っ た デ ビ ッ ド ・マ ロ と 彼 の 後 任 ウ ィ リ ア ム ・ リチ ャ ー ドは,学 校 教 育 に お け る ロう 王 国 政 府 の 果 た す 役 割 の大 まか な方 針 を策 定 す る のY"貢 献 した」 の で あ り,近 代 的 な 公 教 育制 度 成 立 に は まだ 大 きな 距 離 が あ っ た。 こ の時 期 は,教 育 規 定 に もか か わ らず,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 の 学校 とい う状 況 で あ った こ とに 変 化 は1なカ、った 。 ウ ィ リア ム ・リチ ャ ー ドは1846年4月 に 文 部 大 臣 と して就 任 し,翌 年11月 に 死 去 す る ま で の1年 余 りの 間,ハ ワイ の教 育 に大 き く関与 した。 彼 は,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 の 考}x方 と合 致 す る考 え方 を 持 った 教 師 を選 ぶ よ うに,と 各 ロき 地 区 の 教 育 長),rY`.指示 して い る 。 こ れ は,1840年 憲 法,1841年 改 正 法 を 反 映 した も の で あ り,リ チ ャ ー ドは, 公 教 育 とは い い な が ら,マ ロ と 同 様 プ ロ テ ス タ ン ト宣 教 師 団 の 教 育 を 総 て の ハ ワ イ 人 の 子 ど も に 強 制 す る こ とに つ い て 何 等 の た め ら い も な か っ た 。 c.ア ー ム ス ト ロ ン グ の 時 期(1847-1860) 1847年,プ ロテ ス タ ン トの宣 教 師 ア ー ムス トロ ン グは,リ チ ャ ー ドの 急 死 の 後 を うけ て,2代 目の文 部 大 臣 とな る。 彼 は,1832年,第5次 宣 教 師 団 の 一 員 と して ハ ワ イに や って 来 た。 彼 は,デ ィキ ンソ ンカ レ ッジ,プ リ ンス トン神 学 学 校 の卒 業 生 で あ り,ハ ワイ にや って 来 る まで,測 量 技 師,教 師 の仕 事 を して いた が,ハ ワ イに 来 る と,ホ ノル ル の カ ワイア ハ オ教 会 の牧 師 を 勤 め た。 彼 が,文 部 大 臣 に 就 任 した時,公 教 育 制 度 とは 名 ば か りの も の で あ り,以 下 の 問題 点 が 存 在 した 。 (1)政 府 に よ り任 命 され て職 員 に よっ て管 理 され る1つ に統 合 さ れ る 制度 を 作 る た め の組 織 体 が 必 要 で あ る (2>教 育 の改 善 のた め の 教育 監 督 制 度 が 求 め られ る (3>教 師 資 格 の水 準 の引 き上 げが 求 め られ る (4>宗 派 間 の調 停 が 必 要 と され る (5)一 般 民衆 に公 教 育 の 重要 さを認 識 させ る こ とが 必 要 で あ る (6>王 国 の税 収 入 か ら教 育 に よ り多 くの支 出 を求 め るた め の 政 治 的 な 活 動 が ロむ 必 要 で あ る
佛歡犬學研究紀要通卷75號 ア メ リカ人 ア ーム ス トロ ン グに とっ て,こ の よ うな 状 況 は ア メ リカ公 教 育 制 度 とは か な り掛 け離 れ た もの で あ り,彼 自身 ハ ワ イの教 育 改 革 の必 要 性 を 再 認 識 した の で あ った。 彼 が 仕 事 を始 めた 時,そ の 当 時 の カ リキ ュ ラム は次 の よ う で あ った 。' (1)19世 紀 の 中葉 に お い て,す べ て の地 域 で ス リー ア ール ズ は,小 学 校 教 育 の主 要 な 内 容 で あ っ た。 ハ ワイ語 で 書 か れ た 本 や教 材(資 料)に よる とい う限 界 は あ るにせ よ,ハ ワイ の公 立 学 校 に お け る学 習 計 画 は,ア メ リカ合 衆 国 で行 わ れ る も の と教 材 的 に異 な って い な か った 。 (2)「 共 通」 学 校 の教 師 は,ス リー ア ール ズ を 教 え る の に十 分 な 力量 を 備} て い な か った。 カ リキ ュ ラム を充 実 させ よ うと して も,教 師 の学 力,経 験 の 乏 し さが妨 げ に な る こ とを,ア ー ムス トロ ン グは よ く認 識 して いた 。 ロあ (3)学 習計 画 に注 目 しな けれ ば な らな い こ とが,認 識 され て い た。 13年 間 にわ た る在 任 中,彼 は,ハ ワイに ア メ リカ式 の教 育制 度 を 導 入 す るの に 努 力す るの で あ るが,そ の具 体 的 な 方 法 と して は,ハ ワイ人 と非 ハ ワイ人 共 に学 校 で の教 授 言 語 を 英 語 とす る こ とで あ る。 当時,ハ ワイ社 会 で は,す で に 商 業 と政 治 にお いて 使 用 され て い る言 語 ほ,英 語 とな っ て いた が,学 校 に お い て は,ハ ワイ人 子 弟 は ハ ワイ語 で,非 ハ ワイ人 子 弟 は英 語 で教 育 を 受 け る の が 一 般 的 で あ った。 彼 は まず 「共 通」 学 校 の 改 革 に着 手 した 。 そ の た め に 学 校 出席 を 義 務 づ け る 1850年 法 が 出 来 て い る 。 そ の法 律 は 以下 の通 りであ る。 「1 .警 官は,無 断欠 席者を逮捕 し,学 校 につれてい くぺ きであ る。 2.行 政 の 長 は,無 断 欠 席 者 とそ の両 親 又 は 保 護 者 を 逮 捕 し罰 金 を 科 す の ロゆ に,権 力 を行 使 す べ きで あ る 。」 1851年 ア ー ム ス トロ ン グは 以下 の報 告 を して い る。 「昨 年 の 学校 法 は,一 般 の人 々が 認 め る こ と と合 致 し,学 校に多 くの利益 を ロの もた らして い る よ うに 思 え る。 生 徒 の 出席 状 況 は よ くな って い る 。」 この よ うな 状況 の下 で,ハ ワイ語 で の学 校 教 育 は 普 及 した た め,「 カ ナ カ人
ハ ワイ州におけ る公教 育制度成立過程 (ハ ワイ人)は,人 口の割 に文 字 を読 む こ とが 出来 る人 が 多 く,特 に,新 聞 は よ く読 まれ て い る。 ホ ノル ル で は,2つ の主 要 な新 聞,ク オ コア(独 立)と ア ウ コ ア(新 しい 時代)が 発 行 され て お り,前 者 の発 行 部 数 は約5000,後 者 は 前 ロの 者 よ りす こ し少 な い」 と,バ リニイが 述 べ て い る よ うに,ハ ワイ人 民 衆 に と っ て ハ ワイ語 の新 聞 は,彼 らの 日常生 活 の 中 に入 り込 んで い た。 そ れ は,言 い換 }れ ば 文 字(ロ ー マ字 化 され た ハ ワイ語)を 学 習す る者 の 数 が 多 か った こ とを 意 味 して い る 。 義 務 教 育 制 度 が施 行 され て か ら3年 後 の1853年,彼 は 北 は ニ イ ハ ウ島 か ら, 南 は ハ ワイ 島 ま で視 察 した 。 そ の 際,ハ ワイ人 の父 母 た ち か ら子 ど もの 教 育 を 英 語 で や っ て ほ しい との要 望 を 多 く受 け た。 「英 語 で の 知識 は,富 を 追 求す る ロロ ハ ワ イの 人 た ち に とっ て,成 功 の た め に た いそ う重 要 な もの で あ る 」 とい うこ とが,広 く認 識 され て くる。 そ こで 彼 は,翌 年 「共 通」 学 校 の 英 語 化 を 図 り,ま ず 英 語 で 教 育 す る 「共 通 」 学 校 を 作 るた め の法 律 を 作 る。 しか し な が ら,こ の学 校 の設 立 の た め,英 語 で授 業 が 出来 る教 師 を 雇用 しな け れ ば な らな い た め,多 くの財 源 が 必 要 とな って くる。 だ が,ミ ッ シ ョナ リ ー ・ヘ ラル ド紙 が 「試 み は成 功 で あ る。 … … この運 動 の 推進 者 は勇 気 づ け られ た 」 と 書 い て い る よ う に,英 語 学 校 へ の ハ ワ イ 人 の 関 心 が 強 い こ と も 事 実 で あ る 。 ,同 じ く ミ ッ シ ョ ナ リ ー ・ヘ ラ ル ド紙 は 「学 校 に お い て 低 学 年 の 生 徒 の か な り の 部 分 が,文 学 や 科 学 の 授 業 の 多 くを 英 語 で 受 け る こ と が 出 来 る よ う期 待 し て い る 。.… … が,一 方,そ の 他 の 多 くの 生 徒 が,英 語 の み な らず ハ ワ イ 語 で す ゆ ら,こ れ ら の 科 目 の 学 習 を 放 棄 す る の を 心 配 し て い る 。」 と述 べ,英 語 で の 学 習 の 困 難 さ を 示 唆 し て い る 。 彼 の 時 代 の 「共 通 」 学 校 は,表4に 示 す よ うに 徐kに 変 化 し て い く。 彼 の 在 任 中,「 共 通 」 学 校 の 学 校 数,生 徒 数 そ れ ぞ れ が 約 半 分 に 減 少 し て い る。 同 時 期 の 人 口 は,1848年 一93,500人,1853年79,600人,1858年 71,800人,1860年70,600人 で あ り,12年 間 に2万 人 の 減 少 が あ る が,生 徒 数 の 減 少 ほ ど で は な い 。
佛 歡 大 學研 究 紀 要 通卷75號 ・ 表4「 共 通 」学 校 数 と生徒 数 の変 遷(1848-1860) 年 代 学 瀲1生 徒 数 .,. ・,. 185Q 1851 1852 1853 1854 527校 540 543 535 440 423 412 19,028人 15,620 15,308 15,482 13,948 12,205 11,782
年 代i学
櫞
生 徒 数 1855 ×856 1857 1858 1859 :.1 363校 332' 312 293 285 269 10,076人 8,67i 8,460 :: :: 8,771 また,ア ー ムス トロ ングは,学 校 教 育 の 中 に手 工 労 働 を 持 ち込 む こ とに熱 心 で あ った 。 厂私 は,各 学 校 で 必 要 に な る で あ ろ う,あ る種 の手 工 教 育 を 実 施す る の にた いそ う努 力 して い る。 そ れ ゆ え,教 師 は少 年 た ちを 地 面 の上 で働 く こ とに大 きな努 力を させ られ て い る」 と述 べ,ハ ワイ人 の 「怠 惰」 を治 す た め, す なわ ち 彼 らの態 度,行 動 を 自立 的 な もの にす るた め,職 業 教 育 や 手 工教 育 を 学 校 に取 り入 れ て い る。 ハ ワイ人 の生 活 を よ り禁 欲 的 な も の に作 り変 え る とい うア ー ム ス トRン グの 考 え方 は,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 の意 見 を 反 映 した もの で あ る こ とは い うまで も な い こ とで あ る。 プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 ア ー ムス ト律 ン グが2人 の前 教 育 長 と異 な るの は,彼 が,宗 派 を越 えた 学 校 を 設 立 した こ とで あ る。1850年 モ ル モ ン宣 教 師 団 の 到着 後,4年 以 内 にモ ル モ ン教 か ら公 立 学校 設 立 の要 求 が 出 て くる。 そ れ 以 前 に 既 に カ トリ ッ クに よる公 立 学 校 設 立 の 要 求 に苦 慮 し て いた ア ー ムス トロ ン グは, 総 て の 宗 派 の 厂共 通 」 学 校 の設 立 を認 可 した 。 ア ー ム ス トロ ングは,1854年 の 法 律 で小 規 模 な 「共 通 」 学 校 を 統 合 し,無 宗 派 の 政 府 立 の 小 学 校 す なわ ち 公 立 学校(publicschoo1)の 設 立 を 図 る。 これ に よ り,ミ ッシ ョンス クー ル,「 共通 」 学 校 と宗 派 立 学 校 が 近 代 的 な公 教 育 へ と脱 皮 して い く。 ア メ リカ本 土 の 小学 校 が,無 宗 派 とな って い ったの と同 じ道 程 を ハ ワ イが歩 む こ とに な っ た の で あ る。 この法 律 で は,学 校 管 財 人,警 官,兵 士 と同 様,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 と そ の使 用 人 に認 め られ て い た税 の免 除 が 廃 止 され た。1854年 法 は,プ ロテス タ ン ト宣 教 師 団 の影 響 力が 弱 体 化 した こ との1つ の現 れ で あ る。 しか しなが ら,ハ ワイ州におけ る公教 育制度成立過程 1860年)'YY`.は,公立 学 校 のわ ず か5分 の1し か 無宗 派 とな うて い な い 状 態 で あ り,彼 の 求 め た公 教 育 制 度 が 定着 す るの は まだ先 の こ とな の で あ る。 次 に ア ー ム ス トロ ングの教 育行 政 につ い て述 べ てみ る。 彼 は,ア メ リカの教 育 行 政,教 育 委 員 会 制 度 を ハ ワイ に導 入 した人 物 として 有名 で あ る。1855年 の 再 組 織 法(ReorganizationAct)で は,文 部 大 臣 が 廃 止 され,国 王 任 命 の 教 育 長(ア ー ム ス トロ ングが任 命 され る)と2人 の指 導 主 事 に よ って 教 育委 員会 が 構 成 され,教 育 委 員 会 は 内 務 省教 育局 の管 理 下 に入 る。 この 法 律 で は,(1)中 央 集 権 の 強 化,(2)教 育 行政 を他 の行 政 か ら切 り離 す,と い うこ とが 図 られ た。 この 制 度 は,一 見,反 ア メ リカ的 に み え る。 当時,大 きな 力 を 持 って い た プ ロ テ ス タ ンr宣 教 師 団 に 反 発 した ハ ワイ人 支 配 階 級 の人 た ち が 作 った ものだ か ら で あ る。 ヵ メハ メ ハ4世 は,反 ア メ リカ的 ゆ え に,ア ー ムス トロ ン グを 始 め プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 の影 響 力 を弱 め る措 置 に好 意 的 で あ った。 しか し,教 育 委 員 会 は,従 来,国 王直 属 の文 部 大 臣 の 下Y'あ った 教 育 を,複 数 の教 育 委 員 で構 成 さ れ る教 育 委 員会 の管 理 の下 に 置 か れ るた め,ア ー ム ス トロ ング は,彼 自身 教 育 長(そ の他 の 委 員 は,カ メハ メハ4世 の 兄 で あ り,後 に カ メ ハ メ ハ5世 に な る ロ ッ ト ・カ メハ メハ,とE.H.ア レ ンで あ る)に 任 命 され た こ と も あ って, この新 しい 組 織 に 好 意 を持 つ 。 この再 組 織 化 に よ り,文 部 大 臣 の 仕 事 が 教 育委 員会 に移 譲 され る。 しか しな が ら教 育 委 員会 制度 は,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 の影 響 力を 奪 うた め,一 見, 反 ア メ リカ的 で あ るが,国 王 の 教 育 委 員 任 命権 が依 然 として 存 在 して い る とい う限 界 を か か え なが ら も,ア メ リカ の教 育委 員会 制 度 の 影 響 を 受 け て い る。 中 央 集 権 の強 化 は,政 府 が よ り積 極 的 に教 育 に足 を 踏 み 入 れ た こ とを 意 味 し て い る し,教 育 行 政 を,他 の行 政 か ら切 り離 す こ とは,教 育 業 務 を,政 府 の他 の 機 能 と分 離 させ る こ とを意 味 して お り,当 時 の ア メ リカの公 立 学 校 運 動 と軌 を 一 に す る も の で あ る。 ウイ ス トは,こ の 再 組 織法 につ い て次 の よ うに述 べ て い る。 「1855年の 再 組 織 法 は,た いそ う注 目す べ き特 徴 を 持 って い る。 第1点 は教 育 が政 府 の 他 の 機 能 と分 離す る方 向へ と着 実 な一 歩 を歩 みだ した こ と と,第2点
佛歡大學研究紀要通卷75號 は教 育委 員会 の コ ン トロール の 仕 方 が ア メ リカ の実 践 の流 れ と同 じで あ る,第 3点 は こ の 委 員 会 に 公 的 な 責 任 が 付 与 さ れ て い る 」 ウ イ ス トの 指 摘 は,文 部 大 臣 に 与 え て い た 権 限 が 教 育 委 員 会 に 委 譲 さ れ て い っ た こ と を 意 味 す る と 同 時 に,ア メ リ カ の 影 響 を 強 く受 け て い る こ とを 示 唆 し て い る 。 当 時,「 共 通 」 学 校 の 教 師 は,ラ ハ イ ナ ル ナ,ヒ ロ ボ ー デ ィ ン グ ス ク ー ル, カ ハ ラ セ ミナ リー 等 の 各 宗 派 の 宣 教 師 た ち が 作 っ た 学 校 に お い て,養 成 さ れ て い た が,彼 ら は,英 語 で 教 授 す る こ と が 出 来 ず,そ の た め ア ー ム ス トロ ン グ は,英 語 で 教 授 す る 教 員 養 成 を 真 剣 に 考}ね ば な ら な か っ た 。 そ こ で,従 来, 存 在 し て い た 王 立 学 校(Royalscho61)に 教 員 養 成 機 関 の 機 能 を 持 た せ た 。 こ の 学 校 は,師 範 学 校 と エ リー ト校 に 分 離 し て い く が,師 範 学 校 の 方 は,ア メ リ カ 本 土 の そ れ と 同 じ も の が 作 られ,こ の 学 校 が 後 に,ハ ワ イ 大 学 に 合 併 さ れ, 教 育 学 部 とな る 。 ア ー ム ス ト ロ ン グ は,ハ ワ イ で も っ と も 程 度 の 高 い 英 語 学 校 と し て,1853年 ブ ナ ホ ウ ・カ レ ッ ジ を 作 り,ハ ワ イ 各 地 に 存 在 す る 英 語 で 教 授 す る 学 校 の 上 級 学 校 と し て 位 置 づ け る 。 1859年,ア ー ム ス ト ロ ン グ は,・ ・ワ イ に お け る 公 教 育 の よ り一 層 の 発 展 を 求 め て,新 し い 法 律 を 作 る 。1859年 法 は,・ ・ワイ の 公 教 育 の 発 展 に た い そ う重 要 で あ り,そ の 特 徴 は 以 下 の よ う で あ る 。 (1)1840年 法,1841年 法,1842年 法,1845-46年 法,1855年 法 の 基 盤 の 上 に こ の 法 律 が 存 在 す る 。 (2)教 育 委 員 会 と議 会 とが 直 接 関 係 を 持 つ こ と に な っ た 以 外 は,1855年 法 に 対 し て 行 政 的 再 組 織 化 に は 手 が つ け られ て い な か っ た 。 (3)カ リキ ュ ラ ム で の 教 科 に つ い て は,議 会 が 大 き な 決 定 権 を 持 っ て い た 。 (4)ラ ハ イ ナ ル ナ と王 立 学 校 は,政 府 の 支 配 下,援 助 下 で,中 等 教 育 機 関 と し て の 方 向 を 歩 み 始 め る 。 だ が,ブ リス ケが 言 う よ う に,「 ハ ワ イ の 統 一 公 教 育 制 度 の 組 織 化 は,ア ー ム ス ト ロ ン グ の 仕 事 で あ り,そ れ ゆx,彼 は ハ ワ イ に お け る 公 教 育 の 父 と 呼 ば れ て き た 」 の で あ る 。 ホ レ ー ス ・マ ン と交 際 が あ り,彼 の 影 響 を 受 け,ハ ワ イ
ハ ワイ州におけ る公教育制度成立過程 に ア メ リカ式 の教 育 を 導 入 した ア ー ム ス トロ ング は,「 ハ ワ イの ホ レース ・マ ン」 と呼 ば れ て い るが,ホ レース ・マ ン と同様,在 職 中 は様 々 な 困V'遭 遇 し,挫 折 の 日kを 送 り,後 の 時 代 に な っ て初 め てそ の教 育 的 効 果 が 現 れ た こ と も共 通 して い る。 しか しな が ら,小 規 模 な 宗 派 学校 を 近代 公 教 育 制 度 へ と組 織 化 させ て い った 彼 の 努 力 は 評 価 す べ きで あ る 。 か れ の 死 は,ま た プ ロテス タ ン ト宣 教 師 団 の支 配 力 が 完 全 に終 わ っ て しま った こ とを も意 味 して い る。 これ らの ア ー ムス トロ ングの 作 っ た法 律 は,1840年 の 憲 法 の教 育規 定 の基 礎 の上 に,よ り 「民 衆 の教 育 」 とい う面 を強 調 して お り,「 この 王 国 で現 在 有 効 な法 律 は,将 来 に わ た っ て 十 分 効 力 を持 ち続 け るで あ ろ う」 と,宣 教 師 サ ー ス トンが 主 張 して い る よ う に,そ の 後 ハ ワイ の教 育 に 影 響 を 与 え て い く。 ス ツ ーバ ー は,ア ー ムス トロ ングの 教 育 に お け る役 割 を 以 下 の5点 に ま とめ て い る。 (1)政 府 立 英 語 学 校 が 徐 ・嫡こハ ワイ 人 学校 に とっ て代 わ った (2)政 府 が ハ ワイ人 学 校 な い し英 語 学 校 の教 育 の財 政 的 責 任 を 持 つ よ うに な った (3)政 府 が,教 育 に よ り,よ り上 の社 会 階 層 へ上 昇 す る こ とを 奨 励 した (4)私 立 の エ リー ト校 の 財 政 的 援 助 を政 府 の管 理 下 で 行 い,宗 派 学 校 は 政府 の 許 可 を 必要 と した (5)教 師 に とっ て英 語 を話 す こ とが経 済 的V'有 利 とな った た め,ハ ワ イ人 学 セお 校 は 消 滅 に 向 わ っ て い っ た ま た,ド ッ ドも ア ー ム ス ト ロ ン グ の1850年 代 の 業 績 に つ い て,「 学 校 に お け にゆ る無 宗 派 主 義 と教 授 の手 段 と して の 英語 の使 用 」 であ る と述 べ て い る。 ア ー ムス トロ ン グは,ハ ワイ 社 会 が 英語 を必 要 とす るた め,英 語 で の 教授 の 必 要 性 を 痛 感 し,英 語 での 教 育 を 強 力 に 推 進 し よ う とした 。 しか しなが ら,プ ラ ンテ ー シ ョン制 度 は,ハ ワイ人 社 会 に 白人 は主 人,非 白人 は使 用 人 とい う関 係 を作 り出 す と共 に,教 育 にお いて も 白人 の 言 語 と非 白人 の言 語 の区 別 が 生 じ て くる。 ア ー ムス トロ ングは,19世 紀 中 葉 以降 の ア ジ ア系 移 民 の 増 大 は 予 想 出 来 なか った の で あ り,そ れ ゆx,ピ ジ ン英語 が 出現 し,学 校 教 育 現 場 で,そ れ
佛教大學研究紀要逋卷75號 が 犬 きな 力を 持 つ とは考 え られ な か った の であ るσ d.公 教 育 制 度 定 着 の 時 期(1961-1872) ア ー ム ス ト ロ ン グ の 後 任 と し て,カ メ ハ メハ4世 の 父 マ エ ア イ オ ・ケ フ ア ナ 矛 ア が1860年 教 育 長 に な る。 彼 は,1868年 死 去 す る ま で そ の 職 に あ っ た が,英 語 が 殆 ど 理 解 出 来 ず,教 育 長 と し て の 仕 事 が 全 く 出 来 な か っ た 。 カ メ ハ メ ハ4 世 ゐ 後 を 継 い だ5世 も,親 英,反 米 の 態 度 を と っ て お り,1865年 の 教 育 委 員 の 任 命 の 際,ケ プ ア ナ オ ア,フ ラ ン ス 人 シ ャ ル ル ・デ ・ ヴ ァ リ ニ,イ ギ リス 人 T.N.ス テ イ リー が 任 命 さ れ,総 視 学 に は,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 に 敵 意 を 持 ち,ア ー ム ス トロ ン グ の 教 育 行 政 に た え ず 批 判 的 で あ っ た ス エ ー デ ン人 ア ブ ラ ・・ム ・フ ォ ー ナ ン ダ ー が 任 命 さ れ,1870年 ハ ー ベ イ ・ ヒ チ コ ッ クが フ ォ ー ナ ン ダ ー に 取 っ て か わ る1877年 ま で そ の 職 に つ い て い る 。 教 育 委 員 会 の 方 は,ケ プ ア ナ オ ア の 死 後,ハ ワ イ 人 ウ ィ リ ア ム ・カ マ カ ウ が 教 育 長 を 勤 め た 。1969 年 チ ャ ー ル ズ ・ ビ シ ョ ッ プ が,ヴ ァ リ ニ と ス タ ン レ ー の 退 任 の 後,教 育 委 員 に 就 任 す る ま で の 間 に,プ ロ テ ス タ ン ト宣 教 師 団 の 影 響 力 は 完 全 に 衰Z..て し ま う。 これ が 典 型 的 に 現 れ る の が 宗 教 教 育 で あ る。 「ハ ワ イ で は,公 教 育 は 完 全 に 宗 教 教 育 と は 別 個 の も の で あ る 。 … … 総 て の 教 師 は ど ん な 宗 派 で あ ろ う と も, 子 ど も た ち に 宗 教 を 教 え る こ と が 禁 止 さ れ て い た 」 の で あ る 。 当 時,学 校 は 朝 9時 に 始 ま り,午 後2時 に 終 了 す る め で あ る が,も し 親 が 自 分 の 子 ど もV'宗 教 教 育 を 望 む な らば,週2回,3時 か ら4時 の 間 に,各 宗 派 の 教 会 な い し 自 宅 おり で,宗 教 教 育 を 受 け る こ とが認 め られ て い た。 こ こで は,プ ロテス タ ン トの 優 位 は既)/YVI_なくな り,総 て の 宗 派 が 平 等 に取 り扱 わ れ て い る。 教 育 委 員 が,一 般 民 衆 か ら選 出 され るの で は な く,国 王 か ら任 命 され た もの で あ る に もか か わ らず,教 育 行 政 が文 部 大 臣直 属 で はな く,複 数 の 委 員 に よ っ て構 成 され る教 育 委 員会 が 決 定 す る とい う制度 は,ア メ リカの 教 育 委 員 会 制 度 と完 全 に 同 じで は ない が,従 来 の よ うに教 育 を行 政 の一 部 分 とす る こ とか ら脱 却 す る とい う意 味 で 大 き な意 義 が あ る。 この時 期,「 共 通 」 学 校 と選 抜 学 校 の基 礎 が 確 立 して く る。 厂共 通」 学 校 は,
ハ ワイ州におけ る公教育制度成立過程 「政 府 に よ って維 持 され た無 月謝 公 立 学 校 」 で あ り,現 在 の公 立 学 校 の前 身 で あ る。 これ らの 学校 で は,ス リーア ー ル ズ や 日常生 活 に必 要 な教 材 のCLが 教 え られ て い る。 選 抜 学 校 は,「(1)両親 が 費用 の分 担 に,財 政 的 に耐 え る こ との 出 来 る 子 ども, (2)優れ た 能 力 を 持 って い る子 ど も」 が 通 う学 校 で あ る。 選 抜 学 校 に は,ア ー ム ス トロ ング が 作 った政 府 立 英 語 学 校 と私 立 学 校 の 二 つ が存 在 した 。 この 時 期 は,政 治 的 に は,反 ア メ リカ的 な もの で あ る に もか か わ らず,経 済 的 に は,急 速 に ア メ リカ の経 済 圏 に 組 み 込 まれ て い く過 程 であ り,教 育 面 で は 教 育 委 員 会 が,国 王 の権 力が 強 力 に 行 使 され て い る に も か かわ らず,ア メ リカ 式 の 無 月 謝 公教 育 が 普及 して い く。現 実 に は,「 共 通 」 学 校 の 中に 英 語 教 育 が 持 ち 込 まれ て い く と同時 に,選 抜 学 校 の 一 つ で あ る英 語 学 校 が この 時 期,急 速 に 普 及 して い くの で あ り,選 抜 学校 が 消 滅 の 方 向 を と らず に,逆 に 定 着 の 方 向 を と らて い くのが ハ ワイ め教 育 の特 徴 で あ る。 与反 ア メ リカ的 態 度 を とった カ メハ メハ5世 も,「 国民 が,当 時 の ハ ワ イの公 立 学校 の カ リキ ュラ ムの 教 科 で は十 分 で な く,将 来,英 語 で うま く教 育 す る よ にう う に しな け れ ば な らない こ とを認 識 して い た」 の であ り,彼 は,「 総 て の公 立 学校 に お い て の教 育 を ハ ワイ 語 か ら英 語 べ と転 換 させ るた め に,教 育 委 員会 に おむ 大 きな 権 力 を行 使 した 」 とい わ れ て い る。 この た め,選 抜 学 校 で あ る 政府 立 英 語 学 校 が 「共 通 」 学 校 に 取 っ て 替 わ り, 公 教 育 機 関 と して,ハ ワイ人 子弟,後 に は移 民 労 働 者 の 子 弟 とい っ た 被 支配 階 級 の 子 弟 の 教 育 機 関 として 機 能 して い く。. 1865年 前 後 で,ハ ワイの教 育 の カ リキ ュラ ム は大 幅 に 変 化 して くる 。 そ れ 以 前 は,プ ロ テ ス タ ン ト宣 教 師 団作 成 の ハ ウ イ語 の教 科 書 が 「共 通」 学 校 で使 用 され て い た が,そ れ 以 後 ア メ リカ本 土 の教 科 書 のハ ワ イ語 訳 が 使用 され る よ う に な る 。 特 に,1872年 ア メ リカ人 の商 人 で あ り,・・ワイの 王 女 パ ー ニス ・パ ウ ブ ヒ と結 婚 し,後 には ビシ ョ ヅプ財 団,カ メ ハ メハ ス ク ール 等 ハ ワ イ人 の 民族 文 化 覚 醒 に 努 力 した ビシ ョ ップが 教 育 長 に な る と,彼 は 宣 教 師 団 の 影 響 力 を 断 ち,か つ ハ ワイ人 の 要 求 を 受 け入 れ なが ら,ハ ワイ教 育 の ア メ リカ 化 を 強 力 に 推 進 して い く。
佛教大學研 究紀要通卷75號 2.ポ リネ シ ア 文 化 弱 体 化 の 時 期(1873-1892) カ ラカ ウア王 と白 人土 地 所 有 者 との勢 力争 い の 時期 a.社 会 的 ・経 済 的 変 化 1872年 カ メ ハ メ ハ5世 が 死 去 す る が,彼 に は 血 縁 関 係 の あ る後 継者 が お ら ず,こ こに カ メハ メハ 王 朝 は 終 息 す る。族 長 会 議 が 開 か れ,ル ナ リロが 王 に推 挙 され るが,彼 は1年 足 らず の 内に 死 去 した た め,族 長 会 議 は,今 度 は,カ ラ カ ウアを 王 に選 ぶ(1874年)。 彼 は,国 王 と して の基 盤 が 固 ま った1881年,プ ラ ンテ ー シ ョ ン労 働 者 の た め の移 民 を 求 め る とい う 目的 で,日 本 を 手 初 め に,ポ ル トガル,イ ギ リス,ア メ リカ と世 界 一周 の旅 に 出,世 界 に ハ ワイ王 国 の 国 王 と して の地 位 を示 す こ とに 成 功す る 。 そ の勢 い を か っ て,彼 は,プ ラ ンテ ー シ ョンの所 有者 で あ る 白人 と 衝 突 を繰 り返 し,ハ ワイ在 住 の ア メ リカ人 の 勢 力 を 削 る た め に努 力す るが,ハ ワ イ経 済 を 支配 す る砂 糖 業 の主 な輸 出先 ア メ リカ との 関 係 を 無 視 せ ず,1876 年,ア メ リカ と互 恵 条 約 を 締 結 せ ざ るを えな くな る。 この条 約 は,ハ ワイ産 の 砂 糖1ポ ン ド当 た り2セ ン トの関 税 な しに ア メ リカ に輸 出 出来 る とい うもの で あ り,こ の 結果,ハ ワイ経 済 は安 定 した 輸 出 先 を確 保 出 来 る よ うに な った 。 ハ ワイ 経済 に とっ て有 意 義 な この条 約 は,「 私 は免 税 品許 可 等 に関 して ア メ リカ合 衆 国 に与 え た特 権 を他 国 に与 え る よ うな 条 約 を 結 ぶ 事 は し な い」 と し て,ア メ リカ との特 別 な経 済 関係 を結 ぶ こ とを 宣 言す る と同 時 に,「 この条 約 が 有 効 で あ る限 り,私 は私 の領 地 の どの港 湾,土 地 を も賃 貸 し,又 は売 却 す る事 を しな い し,先 取 特権 を設 け る事 も しな い。 他 の 勢 力 の 国 家 や政 府 に私 の 領 土 を 使 う特権 を認 め な い」 と して,事 実 上,ア メ リカ 合 衆 国 との政 治的 結 び 付 きを も認 め て しま う。 この 条約 で は,ハ ワイ王 国 は パ ール ハ ーバ ー の ア メ リ カの 軍 事 基 地 化 の可 能 性 を認 め る の で あ る。 ア メ リカに と って,ハ ワイ に軍 事 基 地 を 確 保 す る こ とは,太 平 洋 へ の大 き な足 掛 か りを 得 た に 等 しか っ た。 経 済 的 に もア メ リカに砂 糖 を輸 出す る こ とに よ り,ハ ワイ は経 済 的Y'安 定 す
ハ ワイ州 に お け る公 教 育 制度 成 立 過 程 る が,ま た そ れ に よ り経 済 的 に 完 全 に ア メ リ カ の 経 済 圏 に 組 み 込 ま れ て し ま う。 こ の 時 期 は,カ ラ カ ウア 王 が,ハ ワ イ文 化 再 興 の 試 み を し た 時 期 で あ りジ ハ ワ イ 文 化 が 欧 米 の 文 化 と結 合 し,よ り高 い 質 の 文 化 が 出 現 し た 時 期 で あ る 。, 現 在 残 存 し て い る 様kな 伝 統 的 建 築 物,行 事,文 物 は,こ の 時 期 に 作 られ た も の が 多 く,カ ラ カ ウ ア 王 の 在 位 中 に,ハ ワ イ 王 朝 文 化 がxた と い う こ とが 出 来 る 。 カ ラ カ ウ ア は,ハ ワ イ 王 国 を 文 化 的 に も ア メ リ カ か ら 自 立 さ せ る た め に,イ ギ リ ス の 文 化 様 式 を 積 極 的 に 導 入 し,ハ ワ イ の 伝 統 と ヨ ー ロ ッパ の 文 化 が う ま く融 合 し た 新 し い ハ ワ イ 文 化 を 形 成 さ せ て い く。 1883年,ハ ワ イ 在 住 の ア メ リ カ 人 た ち が 反 乱 を 起 こ し,カ ラ カ ウ ア 王 の 実 権 を 奪 い,彼 を 名 目上 の 国 王 と し,実 質 的 に ア メ リカ 人 が 政 治 権 力 を 握 っ て し ま う。 プ ラ ン テ ー シ ョ ン の 所 有 者 た ち が,自 分 た ち の 特 権 を カ ラ カ ウ ア 王 に 奪 わ れ る の を 恐 れ て,カ ラ カ ウア の 動 き に 先 ん じ て,ク ー デ タ ー を 起 こ した の で あ る 。 1887年 憲 法 は,ア メ リ カ人 た ち の 意 向 を 反 映 し た も の で あ る 。 つ ま り,投 票 権 の あ る 者 は,3000ド ル 相 当 の 土 地 所 有 者 な い し600ド ル の 年 収 者 に 限 っ た た め,殆 どが 白 人 に よ っ て 占 め られ て し ま い,さ ら に 同 年 の 互 恵 条 約 の 更 新 で は,パ ー ル ハ ー バ ー は,完 全 に ア メ リ カ の 勢 力 圏 内 に 組 み 込 ま れ,ア メ リ カ 人 た ち が ハ ワ イ の 経 済 的 ・文 化 的 ・政 治 的 か つ 軍 事 的 と い っ た 総 て の 分 野 で 大 き な 力 を 持 つ よ うに な っ た 。 こ の よ う な 事 態 に 直 面 した カ ラ カ ウ ア 王 は,失 望 の 日kを 送 り,健 康 を 害 し,1891年,静 養 先 の サ ン フ ラ ン シ ス コ滞 在 中 に 客 死 す る 。 彼 の 妹 リ リ ウ オ カ ラ ニが 直 ち に 王 位 に 就 く が,彼 女 は,カ ラ カ ウ ア の 意 志 を 継 い で,ハ ワ イ 人 の 自立 を 掲 げ,ア メ リ カ人 土 地 所 有 者 と対 立 し,両 者 の 間 に は 険 悪 な 雰 囲 気 が 漂 っ て い た 最 中,1893年,ア メ リ カ 海 兵 隊 兵 士 が ホ ノ ル ル に 上 陸 し,リ リ ウ オ カ ラ ニ女 王 を 退 位 さ せ,サ ン フ ォ ー ド ・B・ ドー ル の 臨 時 政 府 を 成 立 さ せ,ハ ワ イ 王 国 を 崩 壊 さ せ て し ま う。 b.教 育 制 度 の充 実 この時 期 に お い て は,教 育 ・文 化 の ア メ リカ化 が進 んだ こ と は 事 実 で あ る
佛 歡 大 學 研 究紀 要 逋 卷75號.・ が,特 に,教 育 制 度 に お い て,ア メ リ カ の 教 育 委 員 会 制 度 が よ り定 着 の 方 向 に 向 か う。 ヒチ コ ッ ク は,1877年 ま で 総 視 学 を 勤 め,そ の 後D・ ド ワ イ ト ・ボ ル ド ウ ィ ンが 後 を 引 き継 ぐ。 ま た,教 育 委 員 の 方 も,ケ フ ア ナ オ ア,ヴ ァ リ ニ と ス タ ン レ ー が1869年 退 任 し,チ ャ ー ル ズ ・R・ ビ シ ョ ッ プ が そ の 任 に 当 た る 。 ビ シ ョ ッ プ は,ル ナ リ ロ 王,カ ラ カ ウ ア 王 の 在 任 中(1883-1887年 以 外 の 期 間)は,ず っ と 教 育 長 で あ り,1877年,ヒ チ コ ッ ク が 引 退 す る ま で は,ビ シ ョ ッ プ と ヒ チ コ ッ ク が,1877年 以 降 は ビ シ ョ ッ プ と ボ ル ド ウ ィ ンが ハ ワ イ 王 国 の 公 教 育 に 大 き な 役 割 を 果 た す 。 1887年,カ ラ カ ウ ア 王 は,枢 密 院 に 国 王 直 属 の 「5人 教 育 委 員 会 」 と い う名 称 の 委 員 会 を 置 き,ア ラ ト ウ ・T・ ア トキ ン ソ ン を 総 視 学 に 任 命 す る 。 こ れ は,1887年 憲 法 と軌 を 〉,rする の で あ り,こ の 政 府 の 方 針 に よ り,ア トキ ン ソ ンは,ハ ワ イ の 教 育 改 革 の た め に,ア メ リ カ 合 衆 国 を 旅 行 し,様kな 学 校 を 見 て ま わ り,ハ ワ イ に ア メ リカ 式 の 教 育 を 持 ち 込 も う とす る 。 1878年,「 共 通 」 学 校 の 生 徒 登 録 数 は,同 年 齢 人 口 の61.8%で あ る の に 対 し て,10年 後 の1888年 に は わ ず か15.7%に 落 ち る 。 こ れ は 厂共 通 」 学 校 に 通 う よ りは,政 府 立 英 語 学 校)'YVI_通学 す る 生 徒 が 増 加 し て き た た め で あ り,同 じ く1888 年 に 英 語 学 校 は 無 月 謝 に な り,王 国 崩 壊1年 後 の1894年 に は,「 共 通 」 学 校 は 過 去 の も の に な り,ハ ワ イ 語 で 授 業 し て い る 学 校 は わ ず か2.8%に な る 。 表5 は,「 共 通 」 学 校 の 学 校C,生 徒 数 の 変 遷 を 示 し て い る 。 。表5を み る と,ミ ッ シ ョ ン ス ク ー ル に と っ て 代 わ っ た 「共 通 」 学 校 が,ア ー ム ス ト ロ ン グ の 時 代 に 全 盛 で あ る こ とが わ か る。1860年 代 後 半 か ら徐 々 に 減 少 おの 表5「 共通」学校,選 技学校 と私立学校の学校数 と生徒数 の変遷 「 年 代 ・緬 学r・.'(生黴)選 抜学校数(生 黴) ユ848 .. :.: .. ユ888 1894 1897 527校(19,028人) 293校(8,628人) 219校(6,218人) 169校(4,313人) 63校(1,370人) 18校(320人) 1校(26人) 一 校(一 人) 16校(一 人) 一 校(1 ,880人) 11校(943入) 69校(4,772入) 107校(7,732人) 131校(10,542人)
ハ ワイ州におけ る公教 育制度成立過程 しつ つ あ った 「共 通 」 学校 は,70年 代 に入 る とそ の速 度 は 速 くな り,80年 代 に な る と,選 抜 学 校 と学 校 数,生 徒 数 共 に逆 転 して しま う。 総 視 学 ア トキ ン ソ ンの 報告 に よれ ば,1888年 時 点 にお い て,「 共 通 」 学 校 数 おロ 63校(生 徒 数1,370人),英 語 学 校 数69校(生 徒 数4,772人)と な って お り,両 者 共 学 校 数 に は あ ま り差 が な い が,生 徒 数 は後 者 の方 が 圧 倒 的 に 優 る。 これ らの 学 校 の変 遷 に 伴 い,ハ ワイ語 で の教 授 か ら,英 語 で の 教 授 へ の 転 換 が な され,文 化 的 に もハ ワイ文 化 が 衰退 し,ア メ リカ文 化 が そ れ に とって 代 わ って い く。 「ハ ワイ 語 か ら英 語 へ の移 行 が,政 治 的 ・軍 事 的圧 力 よ りは,む し ろ 社 会 的 ・経 済 的 力 の結 果 で あ る こ とは,教 育 の歴 史 に お い てた いそ う独 特 の もの で おロ あ る。」 とい わ れ てお り,ハ ワ イ民 衆 が この よ うな 状 況 を 望 む 姿 勢 は,彼 ら自 身 の意 識 の 変 化 は い うまで もな く,ま た,当 時 の ハ ワイ の人 種 構 成(表6)も 微 妙 に影 響 して い る とい うこ とも 出来 る。 にの 表6人 種 構 成 i年 代 ハ ワイ人1混11 血 ハ ワ イ人}白 人 中 国 人 日 本 人 1884 ユ890 :・. 40,014人 34,436 31,019 4,218人 6,186 8,485 16,579人 18,939 22,438 18,254人 16,752 21,616 116人 12,610 24,407 1890年 代 に 入 る と,中 国 人,日 本 人 を 始 め とす る多 く の ア ジ ア 人 た ち が,プ ラ ン テ ー シ ョ ンに 入 っ て く る 。 彼 らは 成 人 が 中 心 で あ り,学 校 で の ア ジ ア 人 児 童 ・生 徒 の 割 合 は 表7の よ うに,比 較 的 少 な い が,こ の 人 種 の ノミラ ン ス の 推 移 が,社 会 全 体 の 雰 囲 気 と して,様kな 人 種 間 の 共 通 語 と し て の 英 語 教 育 の 役 割 を 高 め た と も い}xる で あ ろ う。 次 に 教 育 内 容 に つ い て 述 べ て み る 。 「共 通 」 学 校 は,1874年 時 点 で,5年 間 の 就 学 が 求 め ら れ て お り,教 科 と し て は,読 み,暑 き,地 理,習 字,作 文 と音 楽 が,1876年 に は 初 歩 英 語 が 加}ら れ た 。 教 科 書 と し て は,コ ル バ ー ン ズ の 『暗 算 』,ト ン プ ソ ン の 『高 等 算 数 』,ホ ー ル の 『わ れ わ れ の 世 界 』 の ハ ワ イ 語 訳 が 使 用 さ れ て い る 。 こ れ ら は,ア メ リ カ 人 の 手 に な る も の で あ づ,カ ラ カ ウ
佛教大學研究紀要通卷75號 表7 生 徒 の人 種 別構 成(1888年) ハ ワ イ 人 混 血 ハ ワ イ 人 白 人 中 国 人 日 本 人 そ の 他 5,320人 1,247人 1,967人 147人 54人 35人 ア 王 が イ ギ リス 文 化 を 強 く求 め た の に 対 し て,教 育 現 場 に お い て は,ア メ リカ 文 化 が 支 配 的 とな っ て い く。 ま た,政 府 立 英 語 学 校 は,総 て 英 語 で 授 業 が 行 わ れ て い る が,就 学 年 限 は12 年 間 で あ る 。 こ の 期 間 は,各4年 間 が,初 等 段 階,中 等 段 階,高 等 段 階 の3つ の 段 階 に 分 け られ て い る 。 初 等 段 階(4年 間)で は,読 み,綴 り,書 き,会 話,算 数,地 理,実 物 教 授,音 楽,絵 画 と作 法 。 中 等 段 階(4年 間)で は,言 語,算 数,地 理,自 然 科 学,音 楽,絵 画,道 徳 と作 法 。 こ れ らの8年 間 の 教 科 書 は,ウ ィ ル ソ ン ・ リー ダ ー,タ ワ ー ・グ ラ マ ー,ダ ン ト ン ・シ ュ ラ イ ブ ナ ー 習 字 帳,イ ー ト ン算 数,ト ン プ ソ ン実 用 算 数 と コ ー メ ル 地 理 で あ る 。 高 等 段 階(4年 間)で は,特 別 の 指 定 の 教 科 書 は な か っ た が,教 科 は 以 下 の 通 りで あ る 。 9学 年 一 数 学1,簿 記,植 物 学 と生 理 学,人 文 地 理,古 代 史,フ ラ ン ス 語, ドイ ツ語 又 は ラ テ ン語 。 10学 年 一 数 学2,幾 何1,動 物 学,修 辞 学 と言 語 学,中 世 史,フ ラ ン ス 語, ドイ ツ 語 又 は ラ テ ン 語 。 11学 年 幾 何2,化 学,自 然 哲 学,現 代 史,英 文 学,ラ テ ン語 と ギ リ シ ア 語 。 12学 年 三 角 法,地 質 学,天 文 学,英 文 学,精 神 哲 学,ラ テ ン語 と ギ リ シ ア 語 。 これ ら英 語 学 校 は,ア メ リカ 式 の 学 校 教 育 を 求 め た も の で あ り,20世 紀 に 入 る と,こ れ らの 教 授 内 容 が,民 衆 の 子 弟 の 教 育 に 普 及 し て く る 。 この 時 期 は,ハ ワ イ が 急 速 に ア メ リ カ 化 さ れ て い く時 期 で あ る 。 政 治 的 に は,反 ア メ リ カ の 雰 囲 気 が 存 在 し た に も か か わ らず,教 育 に お い て は,当 初 ハ
ハ ワイ州 に おけ る公 教 育制 度 成 立 過程 ワ イ 語 訳 の ア メ リカ の 教 科 書,後 に は ア メ リ カ の 教 科 書 そ の も の が 学 校 で 教 授 さ れ る よ う に な る 。 ア ー ム ス ト ロ ン グ が 出 来 な か っ た ア メ リ カ 化 の 試 み が,ア メ リ カ 本 土 か ら採 用 さ れ た 教 師,ア メ リカ 本 土 へ 留 学 し た ハ ワ イ 人 教 師 た ち に よ っ て 現 実 化 さ れ て い く。 ア トキ ン ソ ンは,1888年 に お い て,rr共 通 』 学 校 おロ は,将 来 消 滅 す る で あ ろ う」 と 述 べ て お り,ハ ワ イ 人 の ア メ リ カ 化 が,教 育 を 媒 介 と し て,徐 々 に,何 等 抵 抗 な く,遂 行 さ れ て い く の で あ っ た 。 3.ア メ リ カ 化 の 時 期(1893-1899) a.社 会 的 ・経 済 的 変化 こ の 時 期 は,白 人 の 支 配 層 が ハ ワ イ の ア メ リ カ 合 衆 国 へ の 併 合 を 求 め た 時 期 で あ る 。1893年 ア メ リ カ 軍 の 援 助 の 下 に 成 立 し た ハ ワ イ 臨 時 政 府 は,ア メ リ カ 政 府 に ハ ワ イ の 併 合 を 呼 び 掛 け た が,ク リ し ブ ラ シ ド大 統 領 は,こ の 事 態 を 喜 ぽ な か っ た 。 当 時,ア メ リカ は,領 土 拡 張 主 義 を 取 る こ と を 好 ま ず,彼 は ハ ワ イ の 実 権 を リ リ ウ オ カ ラ ニ 女 王 に 委 ね る こ と を 求 め た 。 し か し,ド ー ル を 長 と す る 臨 時 政 府 当 局 者 た ち は,ク リ ー ブ ラ ン ドの 意 向 を 無 視 し,1894年 ハ ワ イ 共 和 国 樹 立 を 宣 言 し,ド ー ル を 大 統 領 に 任 命 し た 。 1897年11月,マ ッ キ ン レ ー が ク リー ブ ラ ン ドを 破 っ'てア メ リ カ 大 統 領 に な る や 否 や,彼 は 領 土 拡 張 主 義 を 取 り,ス ペ イ ン との 間 で 米 西 戦 争 を 始 め る 。 彼 は,ス ペ イ ンの 領 土 フ ィ リ ピ ンへ の 野 心 を 持 っ て お り,ブ イ リ ピ ン と ア メ リ カ と の 中 間 地 点 で あ り,太 平 洋 の 中 継 地 ハ ワ イ の 軍 事 的 価 値 を 認 め,直 ち に ハ ワ イ を ア メ リ カ 合 衆 国 に 併 合 す る 方 針 を 固 め る 。1898年8月 ドー ル 大 統 領 は,ア メ リ カ に そ の 統 治 権 を 譲 っ た 。 こ の 当 時,ハ ワ イ経 済 は ア メ リ カ の 援 助 な し に は や っ て 行 け な い 状 態 に な っ て い た 。 表8の 輸 入 を み る と,ア メ リ カ か らの 輸 入 が 約80パ ー セ ン トを 占 め て い る こ と が わ か る 。 し か し,輸 出 を み る と更'/r層 ア メ リカ に 依 存 し て い る こ とが わ か る 。 既 に,ハ ワ イ 経 済 が ア メ リ カ へ の 輸 出 な し に は 成 立 りた な く な っ て い
佛 教大學磅究紀要通卷75號 ゆ 表8ハ ワイに お け る貿 易(導 位 千 ドル) 年 代 ユ893 ユ894 ユ895 ユ:. 1897 1898 ;・. 輸 入 輸 出 ア メ リ カ 4;308 4,354 4,516 5,464 ・:11 ..'. 15,021 !そ の伽 諸国 ア ・リカ1そ の他の調 1,039 1,359 1,198 1,700 2,038 2,355 4,039 10,754 8,994 8,392 15,460 15,962 17,256 22,518 64 144 82 55 60 91 111 る 。 b.教 育 の ア メ リカ 化 政 治的 ・経 済 的 に ア ヂ リカ に依 存 す る よ うに な る と,教 育 も急 速 に ア メ リカ 化 す る。 従 来,ハ ワイ王 国 の 下 に あ った 教 育 は,ポ リネ シ ア文 化 と欧 米 文 化 の 混 合 に よ り成 り立 って い た が,1893年 以 後 は ア メ リカ文 化 が 優 性 に な っ て い く0 ハ ワイ共 和 国 に な る と,政 府 の財 源 か ら,宗 派 学 校 や 私 立 学校 へ の支 出が 禁 止 され,公 立 学校 と私 立 学校 が 明確 に 区別 され てい く。 1896年 に成 立 した教 育 法 で は,(1)総 て の公 立 学校 の教 授 言 語 は英 語 で あ る こ とが 求 め られ,(2)教 育 委 員 会 か ら聖 職 者 が 排 除 され,(3)公 教 育 は,政 府 とは別 ゆ 個 の行 政 組 織 であ る,と 規 定 され て い る。 この法 律 は,学 校 教 育 が,宗 教 か ら 独 立 して い く と同時 に,ハ ワ イの 学 校 に お い て英 語 が 支 配 的 とな り,ア メ リヵ 文 化 が ハ ワイ文 化 を凌 駕 す る よ うに な る こ とを示 唆 して い る。 この 時 期 に な る と,初 等教 育 が 普及 して い く と同時 に ,中 等教育への欲求が 高 ま って く る。 中等 教 育 機 関 と して は,プ ロテ ス タ ン ト宣 教 師 団 が 作 った ラハ イナ ル ナ が存 在す るが,こ れ は初 等 教 育 教 員 養 成 機 関 で あ り,程 度は初等教育 機 関 よ りは高 いが,厳 密 な意 味 で の ア メ リカ本 土 の ハ イ ス クール で は な か っ た。 ラハ イ ナル ナ以 外 に 数 多 くの 師 範 学 校 が 存 在 したが,本 格 的 な公 立 中 等 教 育
ハ ワイ州におけ る公教 育制度成立過稈 機 関 と して は,1895年 設 立 され た ホ ノル ル ・ム イ ろ クール が 最 初 で あ る。 この 学 校 の前 身 は,フ ォー トス トリー ト ・ス ク ール とい う名 称 の初 等 教 育 機 関 高 等 部 に相 当す る小 学 校 教 員訓 練 機 関 で あ った 。1888年 に総 て の政 府 立 英 語 学 校 が 無 月謝 とな るに 従 い,中 等 教 育 機 関 の必 要 性 が 求 あ らる た め,こ の よ うな高 等 部 に新 た に 普 通 科 を 中 心 とす る コ ー スが 併 設 され る。 この学 校 の 目的 は,「 ハ ワイ青 少年 にた いそ う高 度 な教 育 を与 え,ア メ リカ本 土 の大 学 の総 て の課 程 を にオ 学 習 出 来 る に 必 要 な 教 育 を 与 え る 」 こ と で あ り,ま た,教 育 内 容 と し て は,,ア メ リ カ 本 土 の カ リキ ュ ラ ム と同 じ も の が 採 用 さ れ て お り,語 学(ラ テ ン 語,ド イ ツ 語,フ ラ ン ス 語),文 学,数 学,科 学(天 文 学,地 質 学,初 等 物 理,化 学), 絵 画,音 楽 と公 民 が 教 え られ て い た 。 ホ ノ ル ル ・ハ イ ス ク ー ル か ら教 員 養 成 コ ー ス が 独 立 し た の が,ホ ノ ル ル 師 範 訓 練 学 校(HonoluluNormalandTrainingSchoo1)で あ る 。 ラ ハ イ ナ ル ナ に 代 表 され る 従 来 の 教 員 養 成 制 度 と ホ ノ ル ル 師 範 訓 練 学 校 と は ・ そ の 質 が 異 な る 。 前 者 は,ハ ワ イ 支 配 階 級 と の 妥 協 の 上 に 成 り立 っ て い た が,後 者 は,完 全 Y'ア メ リ カ 式 の 教 育 が 持 ち 込 ま れ る 。 校 長 ジ ェ ー ム ズ ・L・ ド ゥー マ ス は,オ ス ウ ィー ゴ ー 師範 学 校 の卒 業生 で あ り,ア メ リカ本 土 の 教 員 養 成 制 度 を ハ7イ に 持 ち 込 む 。 具 体 的 な 現 れ と し て は,1896年,ア トキ ン ソ ン の 後 を 継 い で 総 視 学 とな っ# ヘ ン リ ー ・S・ タ ウ ン ゼ ン トを 始 め と す る進 歩 主 義 教 育 者 た ち が,師 範 教 育 に 大 き な 影 響 を 与 え て い く。 彼 は,1896年,・ ・ワ イ の 学 校 制 度 の 中 心 的 役 割 を 果 た す よ う に な る と(教 育 長 に 就 任)教 師 の た め の サ マ ー ス ク ー ル を 開 講 す る 。 こ れ は,現 役 の 教 師 た ち の 再 教 育 の た め の も の で あ り,1898年 に は,フ ラ ン シ ス ・W・ パ ー カ ー,ア ニ ー ・E・ ア レ ン,1899に は,フ ロ ー ラ ・J・ ク ー ケ,ジ ョ ン ・デ ュ ー イ が 講 師 と し て 呼 ば れ て い る 。 タ ウ ン ゼ ン トは,伝 統 的 な 考 え 方 を 持 つ 教 師 た ち と衝 突 を 繰 り返 し な が ら,進 歩 主 義 教 育 の ハ ワ イ で の 定 着 に 努 力 す る 。 彼 の 業 績 は,「 彼 の 進 歩 主 義 的 教 育 の リ ー ダ ー シ ッ プ は,ハ ワ なお イの 教 育 現 場 に大 き くそ の 痕 跡 を残 して い る」 と述 べ られ た よ うに,彼 は ハ ワ イの 教 育 界 に ア メ リカ の進 歩 主 義教 育 を 持 ち込 む の に成 功 す る。
佛 教 大學 研 究 紀要 通 卷75號 〆 1900年,タ ウ ン ゼ ン トは,教 育 長 の 職 を 辞 す る に あ た っ て 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「今 や,ハ ワ イ の 学 校 制 度 は,合 衆 国 の そ れ に と っ て 代 わ っ て い る 。 そ れ は 誇 る べ き も の で あ り 教 育V'関 し て い え ば,ハ ワ イ は す ば ら し い なお リ ー ダ ー シ ヅプ を 取 っ て い る 」 1840年 か ら1899年 ま で の ハ ワ イ 教 育 は,1840年 の 憲 法 に よ り,従 来 の ミ ッ シ ョ ンス ク ー ル が 否 定 さ れ,「 共 通 」 学 校 が 誕 生 す る 。 し か し,こ の 学 校 は ア メ リ カ 本 土 の よ う に 総 て の 子 ど も が 行 く学 校 で は な く,庶 民 の 子 ど も だ け に 限 定 さ れ た 学 校 で あ り,支 配 層 の 子 ど も は,族 長 子 弟 学 校(Chiefs'Children's School,1839年 設 立),後 に は 王 立 学 校(RoyalSchoo1,前 者 を1846年 に 改 編 し た も の)に,白 人 の 子 弟 な い し,白 人 と の 混 血 の 子 ど も た ち は,ブ ナ ホ ウ ス ク ー ル に 代 表 さ れ る 私 立 学 校(lndependentSchoo1)セ こそ れ ぞ れ 通 学 す る と い っ た 複 線 型 学 校 制 度 を と っ て お り,こ の 状 況 は 政 府 立 英 語 学 校 が 設 立 さ れ た 後 に お い て も,変 化 は な か っ た 。 19世 紀 後 半,中.n1育 へ の 欲 求 の 高 ま り と共Y',ア メ リ カ の ハ イ ス ク ー ル が 持 ち 込 ま れ,更 に,20世 紀 に 入 っ て と ハ ワ イ 大 学 が 設 立 さ れ る に つ れ て,ハ ワ イ の 複 線 型 教 育 制 度 は 徐 々 に 崩 れ て い く。 こ の 時 期 は,ハ ワ イ 王 国 の 複 線 型 学 校 制 度 が,ア メ リカ の 影 響 で 単 線 型 学 校 制 度 へ と移 行 し,ま た そ れ と 同 時 に 伝 統 的 な ハ ワ イ 文 化 の 衰 退 ・ア メ リ カ 文 化 の 台 頭 へ と移 行 す る 前 兆 の 時 期 で も あ る と い}よ う。 ・註 '(1)ハ ワ イ 語 で,ハ ナ レ と は よ そ 者,外 国 人 の こ と を 意 味 し て い る 。 当 初,よ そ 者,外 国 人 は,白 人 だ け で あ っ た の で,白 人 の こ と を ハ オ レ と呼 ぶ よ うに な る 。 後 に,白 人 以 外 の 移 民 が や っ て 来 る が,ハ ワ イ 人 た ち は,彼 ら を ハ オ レ と 呼 ぽ な い で,中 国 人, 日本 人,プ エ ル ト リ コ入,ポ ル トガ ル 人 と,そ れ ぞ れ の 呼 称 で 呼 ん で い る 。 ポ ル トガ ル 人 を 白 人 に 含 め な い の は,彼 らが ア フ リ カ の ア ゾ レ ス 諸 島 か ら や っ て 来 て お り,黒 人 との 混 血 が か な り含 まれ て い た か ら で あ っ た 。 戦 前,白 人 専 用 の 場 所 に は,white onlyexceptPortugueseと い う表 示 が 出 て い た く ら い で あ る 。 現 在 の ハ ワ イ 州 の 人 口統 計 の 中 で は,ポ ル トガ ル 人,プ エ ル ト リ コ人 は,Caucasianの 中 に 含 ま れ る 。 (2)LawrenceH.Fuchs,"HawaiiPono:ASocialHistory",HarcourtBrace