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中国近代における文物流出と日本 文物流出の背景 と諸相

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(1)

中国近代における文物流出と日本 文物流出の背景 と諸相

著者 冨田 昇

雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報

号 110

ページ 1‑30

発行年 1995‑03‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024087/

(2)

はじめに

︵l筆者は︑先稿いて︑辛亥革命を中心とする中国近代ける文物流出を究明する意義その方法

て提示し︑とりあえず貿易資料基づて文物

海外流出状況を統計的示し︑文物が仏

米の

主要五ヶ国殆ど流出し︑とりわけて米国

過半がもたらされたことどを明した

本稿では︑先

稿

成果と既示した方法より︑文物流出の背景を考察し︑流出の多様具体相を究明したい︒即

文物の流出母体となったのは︑先稿でもか紹介したよう清朝旧蔵品︑王公

貴族らの累代の珍器

古玩であったが︑こうした文物流出至る清室や親王家側

経緯や要因を具体的指摘することで文物流出

1

'

f

'

文 物 流 出 の 背 景 と 諸 相

中国近代ける文物流出と日本

(3)

1-0

の背景を明する

で文物して放出海外

ともたのかこうした文物

流出の具体的経路を︑日本人の関わり限定しな︑できるだけ実例して突き止めた︒具体的

は︑前半のテ関しては︑先行の研究の成果をも踏まえながら民国成立以後の︑ 清室の歳費実際の経

費との差額文物を抵当した銀行からの借款の事例等を検討するなどして︑文物放出至る要因を

財政的側面か照射し︑また親王家ても没落の経緯要因を主経済的側面か考察る︒後半のテI

関しては︑幾つの具体的事例即し

流出経路の多様な実態を明らの際︑詳しく

触れるよう東京爾山龍泉堂

括資料の内よりこれであまり知られて清室自体よる文物競

売と日本人の関与を証る貴重な資料の紹介分析が︑中心的課題なる︒こより清室内府競売の様態を

実例即してほ把握できるはずである

以上より前稿た文物海外流出の背が明

らかれる︑その内日本

の流入の幾つかのパタンなしル事例よって究明るこ

ととなる

-

-

章流出の背景

中国文物は︑円明園焼き打事件や義和団事変の折︑列強よる略奪をうけたが︑辛亥革命を機本格的

(4)

な流出が始まった

清室は︑優待条件︵第二款︶基づき歳費四百万元

支給が民国政府より保証たもの

︑実際は支

給は遅延がちであり︑のうえ支給額は保証額を大幅下回つていたため︑慢性的な経費不足た︵後

述︶︒人員削減等よる経費削減も試みられはしたが︑実効はあがらず︑このため必然的︑その不足分を借入

私産の売却よって賄うこととなるが︑そ

際歴代皇帝よって蓄被た文物が︑最も手取り早担保 しては売却の対象としてあてがわれることなるのは︑むしろ当然の趨勢であった︒清室旧蔵文物流

出の要因は︑正この点あった︑といえる

では︑辛亥革命より

九二四年の宮中退去まで清室は

2ほどの文物をいかして流出させたのであろうか

当事者である薄儀の証言から聞くこしよう

3

-

關於内務府中飽︑舞幣的故事︑在這裏只舉出兩個例子就行了︒

個是内務府毎年的驚人開支︑即使四百元的

優待費全部照付也會入不數出

民國十三年我出宮後︑

清室善後委員會

在北京

京報

上掲露的當年収入抵

押金銀古玩款︑達五百多萬元當年並無剩餘︑全部開支出去了

據前面那段文字的作者説︑那幾年毎年開支

在三百六十萬兩上下︑這是和

京報

上掲露的材料大體相符的

ここではとりあえず︑清室善後委員会が︵民国十三年の単年だけで︶抵当れた金銀古玩

総計をぉよ

(5)

u

0

五百余万元見積もってること注日して

薄儀は前文続けて言う︑

- f-

個例子是我岳父榮源經手的

次抵押

抵押合同日期是民國十三年五月三十

日︑簽字人是内務府紹英︑者 齢︑榮源和北京鹽業銀行經理岳乾齊︑抵押品是金編鍾金册︑金寶和其他金器︑抵押款數八十萬元︑期限一年︑ 月息

合同内規定︑四十萬元由十六個金組︵共重十

千四百三十九兩︶做押品︑

一 一

R四十萬元的押品則

:

八個皇太后和五個皇后的金寶十個︑金册十三個︑以及金寶箱︑金印池︑金寶塔︑金盤︑金壺等計重

零九百六十九兩七錢九分六厘︑不足十成的金器三十六件︑計重八百八十三兩八錢︑男加上

銀珍珠

千九百五

十二顆︑賣石

百八十四塊︑瑪腦碗等珍品四十五件

只這後

筆的四十萬元抵押來説︑就等於是把金賀金册等

十成金的物件當做荒金折賣︑其餘的則完全白送

這様的抵押和要個︑毎年總要有好幾宗︑特別是達年過節需要

開銷的時候

︒ 一

到這時候︑報上就會出現秘聞消息︑也必有内務府闢語或解釋的聲明

比如這

次抵押事先就有

傳聞︑内務府和榮源本人也有聲明︑説所買都是作廢的東西︑其中决沒有傳説中的慈-

l 9

的册寶云云

-

ここでの薄儀の眼目は︑民国十三年五月の塩業銀行からの八十万元る借入を︑例えば貴重な金製の美

術品が金地金分だけでしか評価されないなど︑銀行融資ける過重な抵当設定の好例として批判するよりも︑

内務府の

中飽

舞幣的故事

︑つまり高官らよる不正な中間利得の典型的事例して- l

- a

上にのせるこ

(6)

しかもこうした事態が年幾度となく繰り返されていたわけである

ここで棄国経の

基ずく報 ︵ fa

参照すると︑民国元年から宮中退去の前年当たる同十二年まで

間︑民国政府の清室る実際の支給額

の総計は︑二︑四六五万元とどまっている︒因民国十二年ては︑半年間で支給額わず二十二万

元である

必要経費を本来の保証額四百万元として計算する︑十二年分で四︑八〇〇万元︑その不足額

は二︑三三五万元となる

即ちこの十二年間でると︑実際の支給額は必要経費の二分の

ほどぎなかっ

たことなる

統計は含ま民国十三年ついては︑先の善後委員会の掲げた数字それを

部裏付ける上記

塩業銀行らの借入の事例が︑同年ける借入状況を端的物語つて

この十三年

ける借入金額

規模をも勘案すると︑清室

借入総額は︑前記

単純な算定額を当然かなり上回ることが予

測され︑或は数千万元

巨額達する可能性すら出てくるであろう

こうした巨額な数字が︑清室旧蔵文物

流出の最大の背景を構成したことは明らかである

-

5

-

以上は︑文物抵当の場合だが例えば︑文物の徹底した点検が始まったばかりの建福宮焼失が官宦

る宝物持ち出しの証拠隠滅の為であったとする噂があったり︑また太妃らが腹心の官宣宝物を渡して換金し

たり︑或は実家持ち帰せてたらし

︑紫禁城内にては財政的逼迫権力の弛緩を背景文物

の不正持ち出しがいわば常態化してたらしい

薄儀は︑具体的こう指摘してい ︵

-

a ︒

a一

(7)

u

0

莊士敦師傅曾告訴我︑他住的地安門街上︑新開了許多家古玩鋪

聽説有的是太監開的︑有的是内務府官員或

者官員的親戚開的

後來︑別的師傳也覺得必須採取措施︑杜紹盜患

-

うありまで︑官宣

内府官僚その親類よって︑地安門街多数の骨 aM

f

店が開店した︑その品

5物の出所とえば︑

当時北京的各個古玩舗就不時発現宮内的古物

︑恐くは清室蔵品の

不正持出し多くよってたのであろう

乾隆帝酷愛の三希の内の二希︑即王献之

中秋帖

一 一

'

違帖

︑宣統帝宮中退去以前庶母よって持ち出て北京地安門外のかな骨董店の店

︵ 6

並べら郭世五

事を挙げ事態の深刻はぉむね了解るであろう︒更は︑

前稿冒頭も触れたよう︑宮中退去至る間︑ことあろう

-

l

9

儀自身が薄傑下賜は名ばかり︑例

清明上河図

をはじめする名だたる逸品の数

を城外せていのであった

以上のよう清室文物の流出の背景は主巨額の借款もなう過重な抵当設定求めようが︑また

面で皇帝以下の文物の大量不正持出しも見逃せま

-

6

-

︵ 7

親王家の状況をくと︑各親王家は︑皇族優待条件より︑

世爵

は保留れたものの︑

王俸

継続ては明言がなく︑実質的

俸銀

禄米

は取り消︑重要な固定収入がとざること

(8)

ける文物流出

直接的要因となったのである︒

なったが︑私産

ては保護された

即ち数百室から時千室

ぼる府邸︑数十万ムも及荘園地︑

それからあがる

万両を超える地代︑数百年にわたって蓄された夥しい金銀財宝

書画古玩

であるが︑

地代収入が円滑徴収されさえすれば︑ともかくもそれなりの生活は保証れるはずであった

ところが︑政治的権力の喪失は︑個戸

壮丁らよる抗租奪地闘争を誘発し︑地租収入の急激な減収をもた

らした︒そ

結果︑例えば民国二年十二月九日大総統命令

が発布れ︑王公貴族の荘地る保護

を狙つたが︑そ

後︑地方各省は︑領地の切り売り反対する領民との調停乗り出し介入した︒例えば奉天

全省ては︑原額地価分は王府︑原額超過分は

浮多

地として国有帰すと称し︑体よく軍閥張作無

吸収されたし︑また

I

当たりの地価が六元から二十元以下比較的低く押えられたため︑土地は地主

官僚

資本家らによって買漁られた

こうした荘園領地の喪失は︑りもなぉさず残れた固定収入の道︑

まり経済基礎の喪失を意味して

た︒

西洋化よって寧ろ奢侈となってた王公ら

生活は︑荘園買却費底を

くととも︑或い

はそれと平行し

て︑王府のならず累代

文物の抵当設定よって︑またそらの切り売りよって︑ :- a

一 一 一 一一 一

れたが︑その払

したる時間はかからなかった

例えば︑容

府は十 '年ならずして︑

珍貴東西売的差不多快完

n ﹂

り︑恵王府は

﹁ 一

庫的拍 ︵

よって文物を売

くした︒このよう︑固定収入の道の途絶が︑親王家

-

7

-

(9)

u

0

紫禁城旧蔵品は︑かなり蚕食はされたものの︑最終的は公有化れるこで︑ともあれ本体は維持

えようが︑王府旧蔵れた莫大な文物は︑私産として認められ公有化を免たが為︑却て︑ま北

跡形もない親王家

帰趨象徴れるよう︑徹底して散逸したもの考えら

第二章流出の諸相

本章では︑中国文物の流出と日本人と

関わりマを限定しながら︑新出資料を中心るだ

実例即して︑流出のまざまな様態

経路をより詳細

具体的明らかし︑流出の実態迫りた

-

-

節清室

内府競

清室伝来の古玩骨重類は︑実は借入

担保皇族

高官

官富らよる不正持ち出したばかりでな

く︑これまであまり知らようだが︑内府自身よる競売

事実があったのである︒今ここ示すの

は︑東京蘭山龍泉堂初代南山松太郎関連

括資料として︑震災

戦禍をくぐり抜けて保管た︑清室内府

(10)

自体よる古玩競売の実態を示す直接資料である

我が国保管︑日本人骨商の関与を証明するという

点でも興味深資料であるが︑特内府競売の実行経緯を

事例即してほタル再構成できる点で極

めて貴重なものであるといわねばならない

長文を厭はず以下紹介する所以である

資料

敬啓者此次招商承購庫存瓷玉古銅物件應交保證金業經截

定於

月十七日看視物件用特函達

貴號希於是日八時持具前發規則及物類單並字號名片至神武門外本府派有官役帯領進内以便按章看視一逾時不候幸勿自民可也此致9

龍泉堂内務府啓

右資料は宮中所蔵の磁器

玉器

古銅器払下げ保証金納入期限の締切り

月十七日︑払

げ品の展観を行う旨

案内状である︒龍泉堂対しては同日八時︑先配布した

規則

よび

物類単

︵出品リスト︶

・ ﹁

字号名片

︵商号名札︶持参

上︑神武門外

内府出向き︑係官の案内の下︑規則のっとっ

て展観するよう指示して

(11)

u

0

資料

︻ ロ︼

逕啓者本府此次出售瓷玉古銅業經各商號封價投遞本府現定於

月二十七日宣布用特函達

貴號希於是日准早九点持具前發保證金収據及物類單赴景山西門内務府籌備處聽候宣布幸勿自慢可也

此致

龍泉堂内務府啓

右資料は下げ品の入札終了

月二十七日その結果を発表す旨の案内状であ︒龍泉堂対しては︑同日午前九時︑先渡した

保証金収拠

︵領収書及び

出品リス

持参の上景山西門の内1

o

:lo務府準備所参り発表を待つよう指示して

恐らく左掲写真が︑

イ︼言う

字号名片

であろう︒

資料︻ハ︼︵現物複写

(12)
(13)

1 -0

掲げるのが︑資料︻イ

︻ロ

規則

書及び

物類単

︵現物複写の

部︶であ

︒ ﹁

規則

書は

長文なるが︑清室古玩競売システムの骨格を示す重要性鑑み︑全文を挙げてぉく

資科︻ニ

︵規則書︶

商號購看陳設等項規定條件

此項陳設種類擬分別陳列庶各商家易於鑒別所有出售之物略分數類日某質類某器類

各商號分期関看至某日某商號閲看某類由本府定妥函知各該商︻1

と称する

以下同じ︶一欲購此項陳設者必須殷實號一律以字號為憑毎家各交保證金

萬圓由本府掣付收據1 2

並付給詳章物類單各一

--

︻ 2︼

保證金原為鄭重起見開國後允准購領之家作為正價之内其未允准之家即前發收

理曁種類單

緻還本府即將保證金發還該商︵︻3︼

各商號交到保證金後應挨本府定期通知以便帶領看物屆時各號影友

家不得逾五人以免素亂

各商看物估價時須按照交納保證金先後次序定期領看儻經損傷照原物最高價格賠償

m一地點日期時間男函通知 ︵

4︼

︵︻5︼

6-

(14)

各商號完全看過後在本府發給物類單某物下逐件分開估個數日須楷書大寫蓋章封固按期投遞

俟開國後將最高價格核定照准方能購買︵

7

此項種類單由本府簽蓋圖章後發給該商照填如男用別紙作為無效︵

8

各商號投國時必須填寫估價數目方為合格如未逐件分估僅估數件或只書比較最高個格酌加成數

或添改塗抹以及開一後男行加價曁未投一地之家加價張購均作無效︵

9︼︶

商號自行投

m

聽候定期列單宣怖儻逾時不到係

該商自誤即作無效︵

︻1 0︶︼

允准購領之家交款取物日期以

星期為限儻逾限延不交款取物將該商所交之保證金全數

議罰充公再由本府男行招商

購買之家應交價款以現銀国為率 ︵

︻1 1

︼︶

1 3

︵︻1 2

︶ 一

起運物件時所有裝箱抬運

切事宜及經費統歸該商自理其經過門座道路直達落運之處以北京為限

由本府函知各機關査照放行

1

3

-

此次出售物件因經費奇細實出萬不得巳所有辧事各員役凡稍具人心者均應各乗天良承購各商

亦應從質估個所有辨事地點概無使費承一mM員役絶無陋規一有員役勒索定必從嚴懲排如該商等

有勾串情事除將員役重懲外並將該看物資格取銷其已交保證金全數議罰充公該商等幸勿自誤

︵︻1 4

、、

(15)

n

0

主だった点を指摘すると︑各商店は保証金

万円を納付し︑かわり内府発行の領収書及び規則書︵詳章︶

出品リスト各

部を与られる︒︵2︶

保証金は︑落札後︑購入を認めら店がその正価

の 一

当てることがで︑また購入至らなかった

商店は︑渡した領収書及び出品リストを内府返却することで︑保証金を返還

︵3︶

各商店は︑内府発行の出品リストの下出展品

つづつ分けて入札価格を楷書で記入し捺印の上︑封

をし期日どうり入札する

開札後︑最高価格を以て落札する︒︵7︶

購入を許れたものは︑

週間以内納金受領

こと︒期限を超えた場合︑保証金全額没収の上︑改めて競

付す

︵1 1

梱包輸送費は︑全て当事者の自弁とする

︵ l

3

この度の出展は︑財政窮乏伴う万むをえぬ措置であった

かり賄賂︵強要︶共謀のあった場合︑担

当者は厳罰︑当該商店は資格を取消の上︑保証金全額を没収する

︵1 4

-

14

-

以上のごとく︑

商号購看陳設等項規定条件

︵規則書︶よって︑内府主催よる清室所蔵古玩骨重品競売

の細則が明らかされた︒この規則書基づき︑さら前掲の資科︻イ︼

︻ ロ

内状︑の案参照な

をし

部重複するけれど︑こ

競売

実行経緯を再構成すると︑次

ようなる

︑規則書

︵ 2︶︑保より

(16)

証金

万円を納入し︑そ

領収書︵収拠︶出品リスト︵物類単︶等を既受け取る蘭山龍泉堂対し︑

清室内府は規則書︵ l

︶ ・

4︶より︑

月十七日八時出品リスト等持参のう神武門外の内府出向︑競

売品

下見をするよう︑保証金納付期限の締切後案内状を発送した

これ対して龍泉堂主人は︑下引資料

︻ホ

れるよう︑規則書︵7︶

︵9︶出展品全て

応入札価格を付して

また同じ規則書

7︶よれば︑龍泉堂主人は︑記入済み

出品リ

トを捺印のうえ封をし期日どうり提出るこなるが︑

︵6︶よると内府は入札場所

日時を別通知することなっている︵たしこの資料は︑龍泉堂

括資料

は含まれていない︶

そして入札後は︑規則書︵1

0

より特定た日時の落札結果

発表をま

なる

が︑前掲資料︻ロ︼が正その案内状であった

下見より十日後の

月二十七日午前九時︑保証金領収

書等持参のう景山西門の内府準備所て発表を待つよう指示している

その結果︑落札者は︑規則書

︵1 1

週間以内納金受領となるが︑その際︑︵3︶より保証金を支払額充当で︑また非落札者は︑保証

金領収書及び出品リストと引き替え保証金を返還されるのであった

龍泉堂主人は︑後述するよう

例えば磁器類関しては都合六点ほど落札しているが︑その価格照らし支払金額は保証金で充分まかなえ

たはずである

その後︑同主人は︑律儀もこ

内府競売関わる資料をほ

括して保存した

こうしてたまたまわが国もたられ幸保管れた規則書資料︻イ︼

︻ロ

︼の

案内状︑

ハ︼の名札等

よって︑清室内府自身よる競売の実行経緯を実例をもって端的

うこがでたわけである

以下では

-

l 5

-

(17)

u

0

更に︑出展品

種類や点数︑落札の状況ついて検討を加え︑この度

内府競売を内容的側面ら把握しな

ればならない

二競売品目

資料︐ホ

︵物類単

1

現物複写の

iiii

(18)
(19)

︑前頁示した

物類単

より︑前規則書てリストアップさる出展品の内容を検討 してぉこう

出展品リストは︑

写刷りでもともとは品目と個数のれている︑こ龍泉堂主人が

ろ書き込んで

ト全体は三部分かたれ︑初め古銅百点程︑次で玉器二百八十点程︑最後

陶磁器百数十点がリストアップれて

玉器では青玉︑陶磁器では乾隆を始る清朝官無磁器が圧

倒的である︒ここで︑先引の写真を参照する︑陶磁器てのことが︑

番上出てるのが恐らく最

高入札価格︑次は書き入れられた通し番号︑この番号と出展品日の間

は︑多分予定価

達せず不落札の意︑そ対したとえば

龍泉

とあるのは︑落札者の商号︑

番下出てるの︑龍

泉堂主人が規則

応全品付けた入札価格であろう︒

統計をとると︑落札したもの三十五種︑総額五︑八〇〇円余りで︑龍泉堂が最高価格を出したもの︵十六点︶

のう︑落礼できたものは六点である︒価格を見ると︑全落礼品のう最高価格は︑龍泉堂の落札し

乳釉

瓷双耳瓶

〇円である︒落札品は︑

〇〇円台のものが最も多く︑次

〇〇円以下︑二〇〇円台の順

なって

三〇〇円台

四〇〇円台ては︑わず二点づつである

落札たものは際立

高額なものは︑むし不落札

もののなか

翡翠瓷果盤二枚︑二︑三九〇円

際砂釉瓷葫

- f

瓶︵赤玉金欄手大瓢︶

︑七五〇円

-

18

-

1 l 0

(20)

定瓷果洗子

︑五六九円

など千円を超えるものがでてる︒

なぉ古銅器関しては︑最高入札価格が記入れていなが︑龍泉堂主人より落札れたものの上

v ﹂

と記

その数八点止まるが︑こが全体の落札数か︑龍泉堂の落札数か不明である

落札れたもののうち最高値を

けたのは︑

古銅三足朝天耳小鍾

〇円である

玉器は︑龍泉堂の全品

付した入札価格

︑アピア数字で記れて

るのが最高価格︑所

v

o

v ﹂

で示れてるの

が落札れたも

のようが︑

ずれもはっしたことは分からない︒

l g

-

なぉこの

規則

書や

物類単

は︑それぞれ

第拾肆號

と墨書さるから︑内府主催の競売はこ

れで十四回目を数えてたのであろう

︑その年次は不明だが︑前掲規則書︵7︶内府発行の出品リ

ト︵物類単︶の全品入札価格を付した後︑蓋章封固

せよとあるの注日した

うのは︑確か出品

本店東京市京橋區鈴木町︑収買所北京東城麻線胡同

う店判が押れてるのである︒仮

この店判が規則従つてその時点で押たものするならば︑龍泉堂主人が北京東城麻線胡同家屋

地所

を求めたのは︑明治四十五年三月のこで︑東京市京橋区鈴木町店舗を構えたのは︑大正九年のことである

(21)

1 1 0

から︵こ

ては次稿で詳しくれる︶この度の

まり十四回目内府競売の実行年大正

九年︵民国九年︶より以前は遡りえこととなる︒また龍泉堂主人が規則て展覧品全て付した

価格︑主人自身の算出古銅器類合計四︑六四

元︑玉類合計八六〇九元︑磁器類合計

三︑九

四元総計二七︑

四元る︒

骨董商の評価額ではある︑この競売の規模を一面で示してると思

-

以上ここ紹介した蘭山松太郎関連資料よって清朝内府自が所蔵古玩重を競売付した事実が

れると︑その実行経緯細則及び販売品目︑数量落札価格等

実態具体的且つ相当

詳細同時日本人骨董商の関与をも裏付けらたのである︒内府競売の様態を︑

実例

即してほタル示し意義を有するであろう︒

-

20

-

三古書画放出

l0辛亥革命後︑我が国大量の中国画をもたらし画商原田悟郎の回想を通して︑当該分野ける清

朝蔵品の流出経緯の

端を

︑清室内府は︑辛亥革命直後らであろう︑内藤湖南犬養木堂を介して︑大

量の古書画類を日本送り付け︑その処分を主博文堂委託し︑原田はそれ

応なし

しまった

(22)

また原田は︑清朝蔵品と書画類が︑内府高官陳宝深の甥の遊興費あてがわれて

たことを︑はし

l1︶なくも吐露して

︵1 2

︶ここで薄儀の回想を参照すると︑

我過去曾

度認爲師傅們書生氣太多︑特別是陳寶深的書生氣後來多得使我不耐煩

其實︑認眞地説來︑師傅們

有許多舉動︑並不像是書生幹的

書生往往不

商買之利︑但是師傅們却不然︒他們

行︑而且也很會沽名

釣譽

現在有幾張實單叫我回憶起

些事情

這是宣総八年十

月十四日

的記録一2

陳質深王時敏暗嵐暖翠閣手卷

卷 :--一 還有

宣統九年三月初十日記的單子-

- -

這類事情當時是很不少的︑加超來的數量遠遠要超過這幾張紙

上的記載

我當時並不極字畫的好壊︑資賜的品目都是這些内行專家們自己提出來的

至於不經賞賜︑借而不還

的那就更難説了

える︒

(23)

u

0

厳格な教師像とは裏腹︑当時薄

が古書画類半可通であったこと

け込んで︑下賜品

ては目敏

く自ら品定めを行︑また借用品ては借りたままとは︑後年

薄儀が描くところの陳宝

等の教師像で

ある

後年

感情的反発を割引て考えたしても︑陳が︑原田を通じ我が国した清室旧蔵古書画の

流出経緯とは恐らくはこうしたも

で︑多くは下賜品

借用品からの流用であったのだろう

このよう︑清室内府の古玩処分の方途は多様であり︑抵当や不正持ち出しの他︑内府自身よる競売

古書画の処分を日本の特定商人直接委託するという方法をも取たのである

第二節親王家

-

22

親王家目を転ずると︑その文物流出と日本人との介在を示す最も顕著な事例として︑恭親王の場合を

あげることができる

恐らく

二年三月ころ︑即ち前年十月の辛亥革命よって︑十二年二月十二日宣統帝退位した直後

のころ︑書画類を除く恭親王家累代の所蔵品を︑日本人骨商山中定次郎がほ

括して購入してる︒その

時期から判断すると︑恭親王は政情の不安を背景早くも

括売却の挙出たのであろう

購入規模は︑明確ではないが︑

十万円二十万円とう額と違い

﹂ ﹁

どんな商人しても︑その生涯二度

(24)

とあるべき事ではない

等と言つた表 徴すれば︑戦前世界の山中いはれた同社にしても最大級

入れであった相違なく︑或は百万円単位のものであった可能性もあ

︑その額は前稿で検討した

辛亥革命前後の単年度あたりの骨重品輸出額比しても︑また既指摘した民国十三年の清室北京塩業銀行

との骨

重を抵当とする八〇万元る最大級の借款比しても︑

巨大ものか容易知られよう

なぉ︑同じ山中商会は︑大正六年恭親王家かり

広荘な邸宅跡︵麻線胡同三

1 一

二︶︑主仕入

扱う出張所を開設している

また︑

九二

年から十年間程慶親王載振仕えた汪栄 :

一 一

:- 'の回 よれば︑北京在住のフンス人骨董商

徳洋行

では︑

各王公大臣

の委託をうけて骨董品の競売をしばしば行なったらし

王府か否かは定では

いが︑確か例えば民国十四年三月十七日の

順天時報

は︑

-

23

-

o

拍賣古玩

本月十八至廿號毎兩鍾

品德拍買行啓 在束單觀音寺四十八號宅内硬木掉椅各種古玩文玩地毯請諸君十七號入看

(25)

u

0

とある︒

このよう辛亥革命後︑次第収入の道を断たった親王家いても︑家蔵累代の古玩骨董を或

括して︑或いは切り売りしながら︑しあたっての極の替え︑避けえぬ零落の道を直走たのである

節そ

前稿でも指摘したよう︑軍閥よる清朝蔵品略奪︑西太后

束陵盗掘代表る基荒しの噂はえる

ことがなかったが︑前引原田の回想

山本んが蒐められたころは中国の軍閥のかんな時代で︑例えば林

長民んなんか︑軍の作戦上いつまでにどれだけの金額を送といって︑大な支那鞄を次

てくる︑そ

んな時代でし

などあり︑清朝内府とは別︑軍閥などからも︑軍費調達の

してか︑相当量の文物

が送り付けられてたらし

ぃ ︒

最後著名な個人

クション買上げの事例を二〜三指摘し︑文物流出の具相の究明を終ること

辛亥革命前のことではあるが︑明治四十年︑清朝四大蔵書家の

人陸心源の蔵書を現静嘉堂文庫が購入した

ことは︑周知

通りである︒同氏の

f i f i

宋楼蔵書は︑現在同文庫が所蔵する宋版

二三部︑元版

三〇部の骨子

-

24

-

(26)

を成すこは言うまでもな︒こは注目すべき宋元版の個人

クションの日本流入ではある '︑その内容

l 7

等は既類書詳細尽くれてるので︑ここでは全て省略従う

また︑清朝時代直隷総督を務め端方は︑当時中国屈指の古玩収蔵家して知︑特古銅器及び古

書画の収集で著名であった

︒ ﹁

陶斎吉金録

は︑数百点る氏の古銅器

クションの目録である︑その

著録品を含む端方旧蔵の古銅器数十点が山中商会入り︑同会の第

回展観から数次わたって︑販売

l 8

また同じ山中商会は︑昭和五年ごろ︑歴代官察の収集家して夙有名な沈吉甫の所蔵品を︑

︵1 9

よれば二四万元で

括購入したという

以上のごとく流出した文物は︑清室

親王家かりの品ばりではなく著名な個人

クションをも取

り込んでたのである︒

-

25

-

おわり

以上検討したよう︑流出文物の源はまこと多岐わたるが︑それら合流して大きなうねりなり︑各

国骨-

- i -

の手導かれて︑ま怒涛のごく日本欧米押し寄せたのである

今日あるは各国を代表する美術館︑博物館公開あるいは個人秘蔵る名品逸品の多く

(27)

辛亥革命後流出した文物

の 一

部であろう

︒ っ

まり︑それ自体が民族歴史を凝集する高度

文化的所産である文物とって︑辛亥革命と

創造

母体たる清朝︑うより王朝体制そのものの最終的喪失を意味していた︒そして

を失た文物は︑旧

秩序を崩壊せた近代欧米の政治的経済的力学関係の変化を如実投影せな︑皮肉もそら列強諸

の流出

移動を余儀なくれた

こうして文物は︑母体

みならず祖国をも失︑異国の地

キゾチズ

ムのタイムカプセとして展覧なし秘蔵

その際︑その文化的美的価値は経済的価値

品化れた︒

小論で主題とする中国文物の移動史は︑今世紀初頭︑崩壊した旧秩序の側した列強諸国との間

り広げらた︑美をめぐる壮大な

売り立て

の軌跡の探究であり︑しあたり前稿では︑文物移動を貿易と

いう観点から数量化して示し︑本稿では流出せた側の実態を実例即して究明した

次稿いては︑こう

して市場吐き出された文物が︑いかして海外

ともたられたのか︑その実態を日本人骨董商の動向

をしって明らかしたい︑と思う

即ち︑明治後期から大陸た日本人骨

重-

f

商の軌跡をたり︑彼等

よってもたられた文物

内容数量を具体的明らかにすることとなる

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26

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u

0

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