中国近代における文物流出と日本 文物流出の背景 と諸相
著者 冨田 昇
雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報
号 110
ページ 1‑30
発行年 1995‑03‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024087/
文物流出の背量と諸相 はじめに
︵l︶筆者は︑先稿において︑辛亥革命を中心とする中国近代における文物流出を究明する意義とその方法に
っ
いて提示し︑とりあえず貿易資料に基づいて文物
の
海外流出状況を統計的に示し︑文物が仏・
英・
独・
日・
米の主要五ヶ国に殆ど流出し︑とりわけて米国にそ
の
過半がもたらされたことなどを明らかにした︒
本稿では︑先稿
の
成果と既に示した方法により︑文物流出の背景を考察し︑流出の多様な具体相を究明したい︒即ち︑一
級の
文物の流出母体となったのは︑先稿でもいささか紹介したように清朝旧蔵品や︑王公・
貴族らの累代の珍器・
古玩であったが︑こうした文物流出に至る清室や親王家側
の
経緯や要因を具体的に指摘することで︑文物流出-
1・
'
言f
'
◆田
昇
文 物 流 出 の 背 景 と 諸 相
中国近代における文物流出と日本東北学院大学論集人間・言語・情報第1-0号
の背景を明らかにする
︒
次いで文物がいかにして放出され︑さらに海外へ
ともたらされたのか︑こうした文物流出の具体的経路を︑日本人との関わりにほぼ限定しながら︑できるだけ実例に即して突き止めたい︒具体的
には︑前半のテーマに関しては︑先行の研究の成果をも踏まえながら︑民国成立以後の︑ 清室の歳費と実際の経
費との差額や︑さらに文物を抵当とした銀行からの借款の事例等を検討するなどして︑文物放出に至る要因を
財政的側面から照射し︑また親王家についても︑没落の経緯と要因を主に経済的側面から考察する︒後半のテI
マに関しては︑幾つかの具体的事例に即し
っ
つ︑流出経路の多様な実態を明らかにするが︑その際︑詳しくは後に触れるように︑東京爾山龍泉堂
一
括資料の内より︑これまであまり知られていない清室自体による文物競売と日本人の関与を証する貴重な資料の紹介と分析が︑中心的課題となる︒これにより清室内府競売の様態を
一
実例に即してほぼトータルに把握できるはずである︒
以上により︑前稿に示された文物海外流出の背景が明らかにされるとともに︑その内︑日本
へ
の流入の幾つかのパターンないしルートが事例によって究明されることとなる
︒
-
2-
第
一
章流出の背景中国文物は︑円明園焼き打ち事件や義和団事変の折に︑列強による略奪をうけたが︑辛亥革命を機に本格的
な流出が始まった
︒
清室は︑優待条件︵第二款︶に基づき歳費四百万元
の
支給が民国政府により保証されたものの
︑実際には支給は遅延がちであり︑そのうえ支給額は保証額を大幅に下回つていたため︑慢性的な経費不足に陥つていた︵後
述︶︒人員削減等による経費削減も試みられはしたが︑実効はあがらず︑このため必然的に︑その不足分を借入
や私産の売却によって賄うこととなるが︑そ
の
際歴代皇帝によって蓄被された文物が︑最も手つ取り早い担保 として︑或いは売却の対象としてあてがわれることになるのは︑むしろ当然の趨勢であった︒清室旧蔵文物流出の要因は︑正にこの点にあった︑といえる
︒
では︑辛亥革命より一
九二四年の宮中退去までに︑清室は一
体︑2︶どれほどの文物をいかにして流出させたのであろうか
︒
当事者である薄儀の証言から聞くことにしよう︒
3
-
關於内務府中飽︑舞幣的故事︑在這裏只舉出兩個例子就行了︒
一
個是内務府毎年的驚人開支︑即使四百萬元的優待費全部照付︑也會入不數出
︒
民國十三年我出宮後︑﹁
清室善後委員會﹂
在北京﹁
京報﹂
上掲露的當年収入抵押金銀古玩款︑達五百多萬元︑當年並無剩餘︑全部開支出去了
︒
據前面那段文字的作者説︑那幾年毎年開支都在三百六十萬兩上下︑這是和
﹁
京報﹂
上掲露的材料大體相符的︒
ここではとりあえず︑清室善後委員会が︵民国十三年の単年だけで︶抵当とされた金銀古玩
の
総計をぉよそ文物流出の背最と諸相
東北学院大学論集人間
・
言語・
情報第u
0号五百余万元と見積もっていることに注日しておく
︒
更に薄儀は前文に続けて言う︑﹇- f-
一
個例子是我岳父榮源經手的一
次抵押︒
抵押合同日期是民國十三年五月三十一
日︑簽字人是内務府紹英︑者 齢︑榮源和北京鹽業銀行經理岳乾齊︑抵押品是金編鍾︑金册︑金寶和其他金器︑抵押款數八十萬元︑期限一年︑ 月息一
分︒
合同内規定︑四十萬元由十六個金組︵共重十一
萬一
千四百三十九兩︶做押品︑一 一
R四十萬元的押品則是
:
八個皇太后和五個皇后的金寶十個︑金册十三個︑以及金寶箱︑金印池︑金寶塔︑金盤︑金壺等︑計重一
萬零九百六十九兩七錢九分六厘︑不足十成的金器三十六件︑計重八百八十三兩八錢︑男加上
一
飲銀珍珠一
千九百五十二顆︑賣石
一
百八十四塊︑瑪腦碗等珍品四十五件︒
只這後一
筆的四十萬元抵押來説︑就等於是把金賀金册等十成金的物件當做荒金折賣︑其餘的則完全白送
︒
這様的抵押和一要個︑毎年總要有好幾宗︑特別是達年過節需要開銷的時候
︒ 一
到這時候︑報上就會出現秘聞消息︑也必有内務府闢語或解釋的聲明︒
比如這一
次抵押事先就有傳聞︑内務府和榮源本人也有聲明︑説所買都是作廢的東西︑其中决沒有傳説中的慈-
l 9
的册寶云云
-
4-
ここでの薄儀の眼目は︑民国十三年五月の塩業銀行からの八十万元にのぼる借入を︑例えば貴重な金製の美
術品が金地金分だけでしか評価されないなど︑銀行融資における過重な抵当設定の好例として批判するよりも︑
内務府の
﹁
中飽・
舞幣的故事﹂
︑つまり高官らによる不正な中間利得の典型的事例として- l- a
上にのせることにある
︒
しかもこうした事態が年に幾度となく繰り返されていたわけである︒
ここで棄国経の一
福案に基ずく報 ︵ faを参照すると︑民国元年から宮中退去の前年に当たる同十二年まで
の
間︑民国政府の清室に対する実際の支給額の総計は︑二︑四六五万元にとどまっている︒因に民国十二年に至つては︑半年間で支給額わずかに二十二万
元である
︒
仮に必要経費を本来の保証額四百万元として計算すると︑十二年分で四︑八〇〇万元︑その不足額は二︑三三五万元となる
︒
即ちこの十二年間でみると︑実際の支給額は必要経費の二分の一
ほどにすぎなかったことになる
︒
更に素の
統計には含まれない民国十三年については︑先の善後委員会の掲げた数字やそれを一
部裏付ける上記
の
塩業銀行からの借入の事例が︑同年における借入状況を端的に物語つている︒
この十三年における借入金額
の
規模をも勘案すると︑清室の
借入総額は︑前記の
単純な算定額を当然かなり上回ることが予測され︑或いは数千万元
の
巨額に達する可能性すら出てくるであろう︒
こうした巨額な数字が︑清室旧蔵文物流出の最大の背景を構成したことは明らかである
︒
-
5-
以上は︑文物抵当の場合だが︑更に例えば︑文物の徹底した点検が始まったばかりの建福宮焼失が官宦によ
る宝物持ち出しの証拠隠滅の為であったとする噂があったり︑また太妃らが腹心の官宣に宝物を渡して換金し
たり︑或いは実家に持ち帰らせていたらしい等
々
︑紫禁城内においては財政的逼迫と権力の弛緩を背景に文物の不正持ち出しがいわば常態化していたらしい
︒
薄儀は︑具体的にこう指摘してい ︵-
a ︒
文物流出の背 a一
一
と諸相五
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第u
0号六 莊士敦師傅曾告訴我︑他住的地安門街上︑新開了許多家古玩鋪
︒
聽説有的是太監開的︑有的是内務府官員或者官員的親戚開的
︒
後來︑別的師傳也覺得必須採取措施︑杜紹盜患︒
-というありさまで︑官宣
・
内府官僚やその親類によって︑地安門街に多数の骨 aM一f
店が開店したといい︑その品︵5︶物の出所といえば︑
﹁
当時北京的各個古玩舗︑就不時発現宮内的古物﹂
などとあるように︑恐らくは清室蔵品の不正持ち出しに多くよっていたのであろう
︒
乾隆帝酷愛の三希の内の二希︑即ち王献之﹁
中秋帖﹂
と一
・一
︐一 一
用 '﹁
伯違帖
﹂
とが︑宣統帝宮中退去以前に︑庶母によって持ち出され︑やがて北京地安門外のささやかな骨董店の店︵ 6
︶先に並べられ︑郭世五に見い出された
一
事を挙げれば︑事態の深刻さはぉおむね了解されるであろう︒更には︑前稿冒頭にも触れたように︑宮中退去に至る間︑ことあろう
-
l9
儀自身が薄傑に下賜するとは名ばかりに︑例えば
﹁
清明上河図﹂
をはじめとする名だたる逸品の数々
を城外に持ち出させていたのであった︒
以上のように︑清室文物の流出の背景は主に巨額の借款にともなう過重な抵当設定に求められようが︑また
一
面で皇帝以下の文物の大量不正持ち出しも見逃せまい︒
-
6-
︵ 7
︶次に親王家の状況をみておくと︑各親王家は︑皇族優待条件により︑
﹁
世爵﹂
は保留されたものの︑﹁
王俸﹂
の継続については明言がなく︑実質的に
﹁
俸銀﹂
と﹁
禄米﹂
は取り消され︑重要な固定収入がとざされることとおける文物流出
の
直接的要因となったのである︒文物流出の背景と諸相
七
なったが︑私産に
っ
いては保護された︒
即ち数百室から時に千室にもの
ぼる府邸︑数十万ムーにも及ぶ荘園地︑それからあがる
一
万両を超える地代︑数百年にわたって蓄積一された夥しい金銀財宝・
書画古玩︑
等々
であるが︑特に地代収入が円滑に徴収されさえすれば︑ともかくもそれなりの生活は保証されるはずであった
︒
ところが︑政治的権力の喪失は︑個戸
・
壮丁らによる抗租奪地闘争を誘発し︑地租収入の急激な減収をもたらした︒そ
の
結果︑例えば民国二年十二月九日には﹃大総統命令﹂
が発布され︑王公貴族の荘地に対する保護を狙つたが︑そ
の
後︑地方各省は︑領地の切り売りに反対する領民との調停に乗り出し介入した︒例えば奉天全省においては︑原額地価分は王府に︑原額超過分は
﹁
浮多﹂
地として国有に帰すと称し︑体よく軍閥張作無に吸収されたし︑また
一
ムI
当たりの地価が六元から二十元以下に比較的低く押さえられたため︑土地は地主・
官僚
・
資本家らによって買い漁られた︒
こうした荘園領地の喪失は︑とりもなぉさず残された固定収入の道︑
つ
まり経済基礎の喪失を意味してぃ
た︒西洋化によって寧ろ奢侈となっていた王公ら
の
生活は︑荘園買却費が底を尽
くとともに︑或い.はそれと平行し
て︑王府のみならず累代
の
文物の抵当設定によって︑またそれらの切り売りによって︑ :- a一 一 一 一一 一
されたが︑その払底にはさしたる時間はかからなかった
︒
例えば︑容王
府は十 '年ならずして︑﹁
珍貴東西売的差不多快完 ︵n ﹂
となり︑恵王府は
﹁ 一
庫一
庫的拍 ︵一
用﹂
によって文物を売尽
くした︒このように︑固定収入の道の途絶が︑親王家に-
7-
東北学院大学論集人間
・
言語・
情報第u
0号八
紫禁城旧蔵品は︑かなり蚕食はされたものの︑最終的には公有化されることで︑ともあれ本体は維持された
といえようが︑王府に旧蔵された莫大な文物は︑私産として認められ公有化を免れたが為に︑却つて︑いま北
京に跡形もない親王家
の
帰趨に象徴されるように︑徹底して散逸したものと考えられる︒
第二章流出の諸相
本章では︑中国文物の流出と日本人と
の
関わりにほぼテーマを限定しながら︑新出資料を中心にできるだけ実例に即して︑流出のさまざまな様態
・
経路をより詳細・
具体的に明らかにし︑流出の実態に迫りたい︒
-
8-
第
一
節清室一
内府競売
清室伝来の古玩骨重類は︑実は借入
の
担保や皇族・
高官・
官富らによる不正持ち出しに供されたばかりでなく︑これまであまり知られていないようだが︑内府自身による競売
の
事実があったのである︒今ここに示すのは︑東京蘭山龍泉堂に初代南山松太郎関連
一
括資料として︑震災・
戦禍をくぐり抜けて保管された︑清室内府自体による古玩競売の実態を示す直接資料である
︒
我が国に保管され︑日本人骨董商の関与を証明するという点でも興味深い資料であるが︑特に内府競売の実行経緯を
一
事例に即してほぼトータルに再構成できる点で極めて貴重なものであるといわねばならない
︒
長文を厭はず以下に紹介する所以である︒
資料
︻
イ︼
敬啓者此次招商承購庫存瓷玉古銅物件應交保證金業經截
止
定於一
月十七日看視物件用特函達貴號希於是日八時持具前發規則及物類單並字號名片至神武門外本府派有官役帯領進内以便按章看視一逾時不候幸勿自民可也此致9
龍泉堂内務府啓
右資料は︑宮中所蔵の磁器
・
玉器・
古銅器払い下げ保証金納入期限の締切りに伴い︑一
月十七日に︑払い下げ品の展観を行う旨
の
案内状である︒龍泉堂に対しては同日八時に︑先に配布した﹁
規則﹂
書および﹁
物類単﹂
︵出品リスト︶
・ ﹁
字号名片﹂
︵商号名札︶持参の
上︑神武門外の
内府に出向き︑係官の案内の下︑規則にのっとって展観するよう指示している
︒
文物流出の背量と諸相
九
東北学院大学論集人間・言語・情報第
u
0号〇
資料
︻ ロ︼
逕啓者本府此次出售瓷玉古銅業經各商號封價投遞本府現定於
一
月二十七日宣布用特函達貴號希於是日准早九点持具前發保證金収據及物類單赴景山西門内務府籌備處聽候宣布幸勿自慢可也
此致
龍泉堂内務府啓
右資料は︑払い下げ品の入札終了に伴い︑
一
月二十七日にその結果を発表する旨の案内状である︒龍泉堂に一対しては︑同日午前九時に︑先に渡した﹁
保証金収拠﹂
︵領収書︶及び﹁
出品リスト﹂
持参の上︑景山西門の内1o
︐ ︑
︑
:lo一務府準備所に参り発表を待つよう指示してしる恐らく左掲写真が︑
︻
イ︼に言う﹁
字号名片﹂
であろう︒資料︻ハ︼︵現物複写︶
東北学院大学論集人間・言語
・
悄報第1 -号0
次に掲げるのが︑資料︻イ
︼
︻ロ︼
でいう﹁
規則﹂
書及び﹁
物類単﹂
︵現物複写の一
部︶である︒ ﹁
規則﹂
書は長文になるが︑清室古玩競売システムの骨格を示す重要性に鑑み︑全文を挙げてぉく
︒
資科︻ニ
︼
︵規則書︶商號購看陳設等項規定條件
此項陳設種類擬分別陳列庶各商家易於鑒別所有出售之物略分數類日某質類某器類
各商號分期関看至某日某商號閲看某類由本府定妥函知各該商︵︻1
︼
と称する︒
以下同じ︶一欲購此項陳設者必須殷實號商一律以字號為憑毎家各交保證金一
萬圓由本府掣付收據1 2並付給詳章物類單各一
一
--︵︻ 2︼︶
保證金原為鄭重起見開國後允准購領之家作為正價之内其未允准之家即將前發收
一
理曁種類單緻還本府即將保證金發還該商︵︻3︼︶
各商號交到保證金後應挨本府定期通知以便帶領看物屆時各號影友
一
家不得逾五人以免素亂一
各商看物估價時須按照交納保證金先後次序定期領看儻經損傷照原物最高價格賠償一
投一
m一地點日期時間男函通知 ︵︻
4︼︶︵︻5︼︶
︵
︻
6-︶各商號完全看過後在本府發給物類單某物下逐件分開估個數日須楷書大寫蓋章封固按期投遞
俟開國後將最高價格核定照准方能購買︵
︻
7︼
︶此項種類單由本府簽蓋圖章後發給該商照填如男用別紙作為無效︵
︻
8︼
︶各商號投國時必須填寫估價數目方為合格如未逐件分估僅估數件或只書比較最高個格酌加成數
或添改塗抹以及開一動後男行加價曁未投一地之家加價張購均作無效︵
︻
9︼︶商號自行投
一
m一
聽候定期列單宣怖儻逾時不到係一
刷該商自誤即作無效︵︻1 0︶︼
允准購領之家交款取物日期以
一
星期為限儻逾限延不交款取物即將該商所交之保證金全數議罰充公再由本府男行招商
購買之家應交價款以現銀国為率 ︵
︻1 1
︼︶
1 3
︵︻1 2
︼
︶ 一起運物件時所有裝箱抬運
一
切事宜及經費統歸該商自理其經過門座道路直達落運之處以北京為限由本府函知各機關査照放行 ︑︵
︻
13
-︶此次出售物件因經費奇細實出萬不得巳所有辧事各員役凡稍具人心者均應各乗天良承購各商
亦應從質估個所有辨事地點概無使費承一mM員役絶無陋規一條有員役勒索定必從嚴懲排如該商等
有勾串情事除將員役重懲外並將該商看物資格取銷其已交保證金全數議罰充公該商等幸勿自誤
︵︻1 4
︼
︶文物流出の背最と諸相
、、
、東北学院大学論集人間
・
言語・情報第n
0号四
主だった点を指摘すると︑各商店は保証金
一
万円を納付し︑かわりに内府発行の領収書及び規則書︵詳章︶・
出品リスト各
一
部を与えられる︒︵2︶保証金は︑落札後︑購入を認められた商店がその正価
の 一
部に当てることができ︑また購入に至らなかった商店は︑さきに渡した領収書及び出品リストを内府に返却することで︑保証金を返還される
︒
︵3︶各商店は︑内府発行の出品リストの下に︑出展品
一
つづつに分けて入札価格を楷書で記入し︑捺印の上︑封をし期日どうりに入札する
︒
開札後︑最高価格を以て落札する︒︵7︶購入を許されたものは︑
一
週間以内に納金受領の
こと︒期限を超えた場合︑保証金全額没収の上︑改めて競売に付す
︒
︵1 1︶
梱包輸送費は︑全て当事者の自弁とする
︒
︵ l3
︶この度の出展は︑財政窮乏に伴う万やむをえぬ措置であった
︒
かりに賄賂︵強要︶や共謀のあった場合︑担当者は厳罰に︑当該商店は資格を取消の上︑保証金全額を没収する
︒
︵1 4︶
-
14-
以上のごとく︑
﹁
商号購看陳設等項規定条件﹂
︵規則書︶によって︑内府主催による清室所蔵古玩骨重品競売の細則が明らかにされた︒この規則書に基づき︑さらに前掲の資科︻イ︼
・
︻ ロ
︼
内状︑の案参照なが一
をしら部重複するけれど︑こ
の
度の
競売の
実行経緯を再構成すると︑次の
ようになる︒
即ち︑規則書︵ 2︶に︑保より
文物流出の背最と諸相
五
証金
一
万円を納入し︑その
領収書︵収拠︶や出品リスト︵物類単︶等を既に受け取つている蘭山龍泉堂に対し︑清室内府は規則書︵ l
︶ ・
︵4︶により︑
一
月十七日八時に出品リスト等持参のうえ神武門外の内府に出向き︑競売品
の
下見をするよう︑保証金納付期限の締切後に案内状を発送した︒
これに対して龍泉堂主人は︑下引資料︻ホ
︼
に示されるように︑規則書︵7︶・
︵9︶に従い出展品全てに一
応入札価格を付している︒
また同じ規則書︵7︶によれば︑龍泉堂主人は︑記入済み
の
出品リス
トを捺印のうえ封をし期日どうりに提出することになるが︑︵6︶によると内府は入札場所
・
日時を別に通知することになっている︵ただしこの資料は︑龍泉堂一
括資料には含まれていない︶
︒
そして入札後は︑規則書︵10
︶により特定された日時の落札結果の
発表をまっ
ことになるが︑前掲資料︻ロ︼が正にその案内状であった
︒
即ち下見より十日後の一
月二十七日午前九時に︑保証金領収書等持参のうえ景山西門の内府準備所にて発表を待つよう指示している
︒
その結果︑落札者は︑規則書︵1 1
︶に
従い
一
週間以内に納金受領となるが︑その際︑︵3︶により保証金を支払額に充当でき︑また非落札者は︑保証金領収書及び出品リストと引き替えに保証金を返還されるのであった
︒
因に︑龍泉堂主人は︑後述するように︑例えば磁器類に関しては都合六点ほど落札しているが︑その価格に照らし支払金額は保証金で充分にまかなえ
たはずである
︒
その後︑同主人は︑律儀にもこの
度の
内府競売に関わる資料をほぼ一
括して保存した︒
こうしてたまたまわが国にもたらされ幸いに保管された規則書や資料︻イ︼
・
︻ロ︼の
案内状︑︻
ハ︼の名札等々
によって︑清室内府自身による競売の実行経緯を実例をもって端的に
一
親うことができたわけである︒
以下では-
l 5-
東北学院大学論集人間・言語・情報第
u
0号一六更に︑出展品
の
種類や点数︑落札の状況について検討を加え︑この度の
内府競売を内容的側面から把握しなければならない
︒
・二競売品目
資料︻︐ホ
︼
︵物類単1
現物複写の一
部︶iiii
では次に︑前頁に示した
﹁
物類単﹂
により︑前規則書に続いてリストアップされている出展品の内容を検討 してぉこう︒
出展品リストは︑一
階写刷りでもともとは品目と個数のみ記されているが︑これに龍泉堂主人がいろいろ書き込んでいる
︒
リス
ト全体は三部に分かたれ︑初めに古銅百点程︑次いで玉器二百八十点程︑最後に陶磁器百数十点がリストアップされている
︒
玉器では青玉が︑陶磁器では乾隆を始めとする清朝官無磁器が圧倒的である︒ここで︑先引の写真を参照すると︑陶磁器に限つてのことだが︑
一
番上に出ているのが恐らく最高入札価格︑次は書き入れられた通し番号︑この番号と出展品日との間に記されて
ぃ
る﹁
不﹂
は︑多分予定価格に達せず不落札の意︑それに対したとえば
﹁
龍泉﹂
とあるのは︑落札者の商号︑一
番下に出ているのが︑龍泉堂主人が規則に従い
一
応全品に付けた入札価格であろう︒統計をとると︑落札したもの三十五種︑総額五︑八〇〇円余りで︑龍泉堂が最高価格を出したもの︵十六点︶
のうち︑落礼できたものは六点である︒価格を見ると︑全落礼品のうち最高価格は︑龍泉堂の落札した
﹁
乳釉瓷双耳瓶
﹂
四一
〇円である︒落札品は︑一
〇〇円台のものが最も多く︑次いで一
〇〇円以下︑二〇〇円台の順になっている
︒
三〇〇円台・
四〇〇円台に至つては︑わずかに二点づつである︒
落札されたものには際立つて高額なものはないが︑むしろ不落札
の
もののなかに︑翡翠瓷果盤二枚︑二︑三九〇円
際砂釉瓷葫一股
- f
瓶︵赤玉金欄手大瓢︶一
︑七五〇円-
18-
東北学院大学論集人間・言語・価報第
1 l号 0
八
定瓷果洗子
一
︑五六九円など千円を超えるものがでている︒
なぉ古銅器に関しては︑最高入札価格が記入されていないが︑龍泉堂主人により落札されたものの上に
﹁
落札
v ﹂
と記されている︒
その数八点に止まるが︑これが全体の落札数か︑龍泉堂の落札数か不明である︒
因に︑落札されたもののうち最高値を
っ
けたのは︑﹁
古銅三足朝天耳小鍾﹂
二一
〇円である︒
玉器は︑龍泉堂の全品に付した入札価格
の
下に︑アラピア数字で記されてぃ
るのが最高価格︑所々
に﹁
v﹂
や﹁
ov ﹂
で示されているのが落札されたも
の
のようだが︑ぃ
ずれもはっきりとしたことは分からない︒l g
-
なぉこの
﹁
規則﹂
書や﹁
物類単﹂
には︑それぞれ﹁
第拾肆號﹂
と墨書されているから︑内府主催の競売はこれで十四回目を数えていたのであろう
︒
因に︑その年次は不明だが︑前掲規則書︵7︶に内府発行の出品リス
ト︵物類単︶の全品に入札価格を付した後︑﹃蓋章封固
﹂
せよとあるのに注日したい︒
というのは︑確かに出品リ
ス
トには﹁
本店東京市京橋區鈴木町︑収買所北京東城麻線胡同﹂
という店判が押されているのである︒仮に︑
この店判が規則に従つてその時点で押されたものとするならば︑龍泉堂主人が北京東城麻線胡同に家屋
・
地所を求めたのは︑明治四十五年三月のことで︑東京市京橋区鈴木町に店舗を構えたのは︑大正九年のことである
文物流出の背景と諸相
九
東北学院大学論集人間・言語・情報第
1 1 0
号
〇
から︵こ
の
点については︑次稿で詳しくふれる︶︑この度の︑っ
まり十四回目とされる内府競売の実行年は大正九年︵民国九年︶より以前には遡りえないこととなる︒また︑龍泉堂主人が規則に従つて展覧品全てに付した
価格は︑主人自身の算出によれば︑古銅器類合計四︑六四
一
元︑玉器類合計八︑六〇九元︑磁器類合計一
三︑九一
四元︑総計二七︑二
ハ四元となる︒一
骨董商の評価額ではあるが︑この競売の規模を一面で示していると思-
つ
〇以上︑ここに紹介した蘭山松太郎関連資料によって︑清朝内府自らが所蔵古玩骨重を競売に付した事実が証
明されるとともに︑その実行経緯︑細則︑及び販売品目︑数量︑落札価格等
々
に及ぶ実態が具体的に且つ相当詳細に明らかにされ︑同時に︑日本人骨董商の関与をも裏付けられたのである︒内府競売の様態を︑
一
実例に即してほぼトータルに示しえた点︑意義を有するであろう︒
-
20-
三古書画放出
︵l0︶次に︑辛亥革命後︑我が国に大量の中国画をもたらした画商原田悟郎の回想を通して︑当該分野における清
朝蔵品の流出経緯の
一
端を一
規うと︑清室内府は︑辛亥革命直後からであろう︑内藤湖南と犬養木堂を介して︑大量の古書画類を日本に送り付け︑その処分を主に博文堂に委託し︑原田はそれに
﹁
いや応なしに巻き込まれてしまった
﹂
という︒
また原田は︑清朝蔵品とおぼしき書画類が︑内府高官陳宝深の甥の遊興費にあてがわれて
ぃ
たことを︑はし︵l1︶なくも吐露している
︒
︵1 2
︶ここで薄儀の回想を参照すると︑
我過去曾
一
度認爲師傅們書生氣太多︑特別是陳寶深的書生氣後來多得使我不耐煩︒
其實︑認眞地説來︑師傅們有許多舉動︑並不像是書生幹的
︒
書生往往不一
画商買之利︑但是師傅們却不然︒他們都
很一価一
行︑而且也很會沽名釣譽
︒
現在有幾張實單叫我回憶起一
些事情︒
這是﹃宣総八年十一
月十四日﹂
的記録一2一實陳質深王時敏暗嵐暖翠閣手卷
一
卷 :--・一 還有一
張﹃宣統九年三月初十日﹄記的單子-- -
這類事情當時是很不少的︑加超來的數量遠遠要超過這幾張紙上的記載
︒
我當時並不極字畫的好壊︑資賜的品目都是這些内行專家們自己提出來的︒
至於不經賞賜︑借而不還的那就更難説了
︒
とみえる︒
文物流出の背景と諸相
東北学院大学論集人間・言語
・
情報第u
0号厳格な教師像とは裏腹に︑当時薄一
一
慨が古書画類に半可通であったことにっ
け込んで︑下賜品にっ
いては目敏く自ら品定めを行い︑また借用品については借りたままとは︑後年
の
薄儀が描くところの陳宝一
探等の教師像である
︒
後年の
感情的反発を割引いて考えたにしても︑陳が︑原田を通じ我が国にもたらした清室旧蔵古書画の流出経緯とは恐らくはこうしたも
の
で︑多くは下賜品・
借用品からの流用であったのだろう︒
このように︑清室内府の古玩処分の方途は多様であり︑抵当や不正持ち出しの他に︑内府自身による競売や
古書画の処分を日本の特定商人に直接委託するという方法をも取つていたのである
︒
第二節親王家
-
22次に親王家に目を転ずると︑その文物流出と日本人との介在を示す最も顕著な事例として︑恭親王の場合を
あげることができる
︒
恐らく
一
九一
二年三月ころ︑即ち前年十月の辛亥革命によって︑十二年二月十二日に宣統帝が退位した直後のころ︑書画類を除く恭親王家累代の所蔵品を︑日本人骨董商山中定次郎がほぼ
一
括して購入している︒その時期から判断すると︑恭親王は政情の不安を背景に早くも
一
括売却の挙に出たのであろう︒
購入規模は︑明確ではないが︑
﹁
十万円や二十万円という額と違い﹂ ﹁
どんな商人にしても︑その生涯に二度とあるべき事ではない
の
で﹂
等と言つた表 ︵別に徴すれば︑戦前世界の山中といはれた同社にしても最大級の
買 い入れであったに相違なく︑或いは百万円単位のものであった可能性もあ ︵製︒
因に︑その額は前稿で検討した辛亥革命前後の単年度あたりの骨重品輸出額に比しても︑また既に指摘した民国十三年の清室と北京塩業銀行
との骨
一
重を抵当とする八〇万元にのぼる最大級の借款に比しても︑ぃ
かに巨大なものか容易に知られよう︒
なぉ︑同じ山中商会は︑大正六年に恭親王家ゆかり
の
広荘な邸宅跡︵麻線胡同三1 一
二︶に︑主に仕入れを扱う出張所を開設している
︒
また︑
一
九二一
年から十年間程慶親王載振に仕えた汪栄 :一 一
:- 'の回 ︵搬によれば︑北京在住のフランス人骨董商﹁
品徳洋行
﹂
では︑﹁
各王公大臣﹂
の委託をうけて骨董品の競売をしばしば行なったらしい︒
王府か否かは定かではないが︑確かに例えば民国十四年三月十七日の
﹁
順天時報﹂
には︑-
23-
o
拍賣古玩本月十八至廿號毎兩鍾
品德拍買行啓 在束單觀音寺四十八號宅内硬木掉椅各種古玩文玩地毯請諸君十七號入看
文物流出の背景と諸相
東北学院大学論集人間・言語
・
情報第u
0号とある︒
このように辛亥革命後︑次第に収入の道を断たれていった親王家においても︑家蔵累代の古玩骨董を或いは
一
括して︑或いは切り売りしながら︑さしあたっての極の替え︑避けえぬ零落の道を直走つたのである︒
第三節そ
の
他前稿でも指摘したように︑軍閥による清朝蔵品略奪や︑西太后
の
束陵盗掘に代表される基荒しの噂は絶えることがなかったが︑前引原田の回想に︑
﹁
山本さんが蒐められたころは中国の軍閥のさかんな時代で︑例えば林長民さんなんか︑軍の作戦上いつまでにどれだけの金額を送れといって︑大きな支那鞄を次
々
に送つてくる︑そんな時代でし ︵通
﹂
などとあり︑清朝内府とは別に︑軍閥などからも︑軍費調達の一
環としてか︑相当量の文物が送り付けられていたらし
ぃ ︒
最後に著名な個人
コ
レクション買い上げの事例を二〜三指摘し︑文物流出の具体相の究明を終えることとする
︒
辛亥革命前のことではあるが︑明治四十年︑清朝四大蔵書家の
一
人陸心源の蔵書を現静嘉堂文庫が購入したことは︑周知
の
通りである︒同氏のf i f i
宋楼蔵書は︑現在同文庫が所蔵する宋版
一
二三部︑元版一
三〇部の骨子-
24-
を成すことは言うまでもない︒これは注目すべき宋元版の個人
コ
レクションの日本流入ではある 'が︑その内容︵l 7
︶等は既に類書に詳細に尽くされているので︑ここでは全て省略に従う
︒
また︑清朝時代直隷総督を務めた端方は︑当時中国屈指の古玩収蔵家として知られたが︑特に古銅器及び古
書画の収集で著名であった
︒ ﹁
陶斎吉金録﹂
は︑数百点にのぼる氏の古銅器コ
レクションの目録であるが︑その著録品を含む端方旧蔵の古銅器数十点が︑山中商会に入り︑同会の第
一
回展観から数次にわたって︑販売され︵l 8
︶ている
︒
また同じ山中商会は︑昭和五年ごろ︑歴代官察の収集家として夙に有名な沈吉甫の所蔵品を︑一
説に︵1 9
︶よれば二四万元で
一
括購入したという︒
以上のごとく︑流出した文物は︑清室
・
親王家ゆかりの品ばかりではなく︑著名な個人コ
レクションをも取り込んでいたのである︒
-
25-
おわりに
以上に検討したように︑流出文物の源はまことに多岐にわたるが︑それらが合流して大きなうねりとなり︑各
国骨-
- i -
商の手に導かれて︑まさに怒涛のごとく日本︑欧米に押し寄せたのである︒
今日︑あるいは各国を代表する美術館︑博物館に公開され︑あるいは個人に秘蔵されている名品逸品の多く
文物流出の背景と諸相
五
も
︑
辛亥革命後に流出した文物の 一
部であろう︒ っ
まり︑それ自体が民族と歴史を凝集する高度の
文化的所産である文物にとって︑辛亥革命とは︑その
創造母体たる清朝︑というより王朝体制そのものの最終的喪失を意味していた︒そして
﹁
主﹂
を失つた文物は︑旧秩序を崩壊させた近代欧米との政治的経済的力学関係の変化を如実に投影させながら︑皮肉にもそれら列強諸
国
へ
の流出・
移動を余儀なくされた︒
こうして文物は︑母体の
みならず祖国をも失い︑異国の地にェ
キゾチズムのタイムカプセルとして展覧ないし秘蔵される
︒
その際︑その文化的美的価値は経済的価値に読み替えられ︑商品化された︒
小論で主題とする中国文物の移動史とは︑今世紀初頭︑崩壊した旧秩序の側と滅ぼした列強諸国との間に繰
り広げられた︑美をめぐる壮大な
﹁
売り立て﹂
の軌跡の探究であり︑さしあたり前稿では︑文物移動を貿易という観点から数量化して示し︑本稿では流出させた側の実態を実例に即して究明した
︒
次稿においては︑こうして市場に吐き出された文物が︑いかにして海外
へ
ともたらされたのか︑その実態を日本人骨董商の動向に的をしぼって明らかにしたい︑と思う
︒
即ち︑明治後期から大陸に渡つた日本人骨一
重-f
商の軌跡をたどり︑彼等によってもたらされた文物
の
内容や数量を具体的に明らかにすることとなる︒
-
26-
東北学院大学論集人間
・
言語・
情報第u
0号六