著者 冨田 昇
雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報
号 115
ページ 139‑191
発行年 1996‑12‑20
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024083/
展観日録研究
九
おいて辛亥革命前後に渡清した中国←日本型個人骨董商
の
典型的事例とし
て︑蘭山龍泉堂の
︒
ここでは︑
先稿の
課題に引き続き︑
蘭山と好対照をなす中国←世界型骨童商の
最大の
事例 場合を取り上げたい︒
中期に米国進出を果た
し
てより︑
世界各地に支店網を拡げ︑日本・中国を始めとする東洋古翻き
︑
終戦時に至
るまで斯界の
牽引車として﹁
世界の
ヤマナカ﹂ の
名を窓にしていた︒
この
-
1田
昇
展 観 日 録 研 究
世 界 篇 1
東北学院大学論集人間・言語・個報第
1 1 5 号
一
四〇 わが国空
前絶後の
巨大美術商︑ つ
まりはその
代表として君臨した山中定次郎の
業續を顧みることなくしては︑小論がこれまでに
一
貫して追究してきた近代における中国文
物の
流出と日本との
関わりの
問題も︑当然にも点晴を欠くこととなる
︒
まさに同商会の
業績の
解明こそが︑一
連の
研究の
中でも最大の
課題として位置付けられるの
である︒
ところで︑これまでにも直接間接に山中商会に触れた論考
・
評論の
類は︑多数にのぼるが︑本格的な紹介と︵2︶︵3︶なっている
の
は︑桑原住雄の ﹁
山中商会盛
衰記﹂ の
みであろう︒
同氏
は﹁
山中定次郎伝﹂
を根本資料として︑これに関係者に
対
する取材を加え︑評論風に定次郎の
足跡を的確に辿り︑
商会の
事業を歴史的に概観することに成功している
︒
しかし後続の
評論類はこの
桑原の
業一績を基本的に一
歩も出ていないようであり︑その
戦前に記した巨大な足跡にもかかわらず︑山中商会に関する本格的論考は今日に至るまで見い出せないでいる
︒
こうした研究
の
遅滞をもたらしている原因はさまざまに考えられるが︑根本原因の 一 っ
は︑桑原も指摘するように︑第 二次大戦の
勃発に伴う在外資産の
凍結や終戦時の
混乱によって関連資料が散逸しただけでなく︑そもそも商会自体が
例
えば少
なくとも国内においては販売先の
記録を残さなかったなど︑同商会の
事業を直接に窺うに足る帳
簿・ 売
買記録等の
根本資料が殆ど絶無に近いことに求められよう︒
いきぉい﹁
山中定次郎伝﹄の
みが︑実質的にほぼ唯
一 の
根本資料となるが︑これに改めて若干の
取材を加えても︑よほどの
新資料の
発見でもない限り︑桑原
の
域を超えることは︑恐らく困難であろう︒
山中商会展観目録研究
四
ここで筆者は
︑
今日なぉ巷間に流布している戦前山中商会が大量に発行した展観目録類に注目したい︒
例え ば昭和三年発行の
﹃支那古陶金石展観﹄を見ると︑﹁
銅器﹂ ﹁
鏡鑑﹂ ﹁
石刻仏像﹂ ﹁
土器陶磁﹂ ﹁
清朝官窯﹂
等々 の
ジャンルに分けられて各分野
毎
に出展品がナンバーを付してリストアップされてぉり︑
しかも主要品は巻頭部 に写真入り︵一
部カラー︶で掲破されているの
である︒
とすれば︑同目録の
存在によっ
て︑同展観の
数量的規模
︑
品目︑主要
品の
形状まで判然としてくるではないか︒
仮に戦前二〇
数回にわたって開催された展観の
全日録を収集し︑そ
の
推移の
状況を追うとともに︑中国文物に就き各分野毎に統計をとれば︑戦前山中がもたらした中国文物
の
概要
が極めて具体的に明らかになるうえに︑主要品につ
いては今日に至る流転を辿りうる可能性 すら生まれてこよう︒
小論は︑ほぼこうした発想
の
もとに山中商会発行の
展観目録にほぼ焦点を絞り︑その
集成と分析を通して︑展観全体
の
推移やその
規模と特質を概観し︑
特に戦前に同商会がもたらした中国文物の
概要︑即ちその
分野・
数量等を統計的に把握するとともに︑代表的名品
の
事例をも個別に探究して質的面からも検討を加え︑
こうして山中
の
国内展開と︑それに占める中国文物の
位置を示し︑最大の
供給者としてわが国近代における中国文物の
流入や中国鑑賞美術︑とくに筆者
の
関心を寄せる鑑賞陶磁器の
成立や近代的中国古陶磁研究確立に果たした役割を文物供給
の
側面から解明したぃ ︒
これが︑小論の
最終的課題である︒
ところで︑こ
の
山中の 日
録類に関しては︑なぉ注目すべき一
群の
資料がある︒
即ち現在大阪の
山中本社に同東北学院大学論集人間・言語・情報第
1 l号
一
二四5 商会が国内で発行した展観日
録以外に︑更に戦前海外で自社及び他社によって開催された競売︵AUCT ION
= PUBL ICSALE︶や展観︵EXH
IB IT
I〇N
︶の
目録︵CAT A
L〇GUE︶類の膨大なストックが︑精装本百冊程 にしたてられ︑保管されているの
である︒
これら山中が直接間接に関わっ
たと思われる都合一
五〇回ほどにもの
ぼる海外オークション・
展観等の
記録は︑その
性格上︑国内の
展観目録とは異なって︑恐らく現在少なくと もわが国においては殆ど山中本社の
みに集中保管されている可能性がたかく︑その
上︑これも同社に保管されて
ぃ
る国内の
展観目録の
場合とは異なって︑例えば個々 の
落札価格からオークション全体の
売上高の
総計︑時に仕入れ原価や購入者名に至るまで︑多く
の
書き入れが見られる︒
この
ようにこれら海外カタログ類こそは︑往時
の
山中の
世界的規模での動向を一
親うことの
できる目下最良の
しかもほとんど未使用唯一 の
根本資料ということができる
︒
確かに︑小論の
最終的課題は同商会が中国文物の
わが国へ の
流入に果たした役割の
解明にあるが︑ここでは︑その前提として山中
の
日本における展観販売の
規模や特質を相対化する必要の
範囲内で︑言い換えれば山中
の
世界展開を概観する範囲で︑これら海外ヵ
タログを活用してぉきたい︑と思う︒
即ち各支店・地域毎
︑年
次別
の
オークションや展観開催状況を概観し︑いくっ
かの
中国文物販売の
代表的事例に即してオークション等
の
規模︑即ち出品数・
価格・
売上・
利益などを明らかにし︑地域的・
年代的特色やその
推移︑また代表的名品の取扱例などを紹介することで
︑
山中の
世界展開とそれに占める中国文物の
位置を示し︑最終課題解明の
ため
の
有効な前段としたぃ ︒
こうして小論は︑先ず本稿
﹁
世界篇﹂
において海外カタログ類の
分析を通して︑山中商会の
世界展開が概観 され︑次いで次稿﹁
日本篇﹂
においては国内の
展観目録の
分析を通して︑日本における展観形式による販売の
規模や特質が示され︑そ
の
中国文物の
流入や中国鑑賞美術の
成立
に果たした役割が考察されることとなる︒
そして
﹁
中国近代における文
物流出と日本﹂
という通
しタイトルを付した一
連の
論考は︑本稿と次稿をもって一
応締めくくられ
︑
以後は改めて中国文物を供給した側からではなく︑それを受け止
めたっ
まり享受者の
系譜からわが国
近
代における中国鑑賞美術成立 の
過程や彼等の
美意識の
変化を一辿一り︑その
歴史的意味を日本人の
精神史
の
流れの
中で本格的に考究してみたい︑と思つている︒
山中商会
の
世界展開第
一
章定次郎略伝と山中商会本章においては︑次章で海外カタログを分析する
の
に必
要な予備知識を得るため︑主に定次郎の
略伝を-
!!-りながら
︑
山中商会の
世界展開の
軌跡を簡略に振り返
つてぉ ︵- :
一ぃ
︒
定次郎は
︑
慶応二年七 月
大阪堺市に骨董商を営んでいたという安達信五
郎長男として生まれ︑
明治六年に堺山中商会展観日録研究
一
四三大学論集人間
・
言語・
情報第1 1 5 号
一
四四入学
︑
同校卒業後︑同十一
年十三歳で大阪市東区高E E
橋
の
同業山中吉兵衛方の
丁稚見習いと八歳から十
九
年まで大阪市立
商業夜学校に通い︑かたわら英語塾にも学んでいる︒
同二十二て雇主吉兵衛
の
養子となり︑
同氏長女テイと結婚する︒
この
ように定次郎は︑明治初期の
段けており
︑
とくに就職五年後より改めて学業の
機会をえて後日飛躍の
基礎を培い︑こうした 嘱望されてであろう︑往時の
関西の
商家に一
般的であっ
た婿入の
機縁をつ
かむの
である︒
そ 二十九歳の
おり︑同族同業の
山中吉郎兵衛等の
後ろ楯で︑同族山中繁次郎と渡米し︑一一 ュ I 丁
目四に小店舗をかまえ︑翌二十八年には同前二十七丁目二十番に改めて店舗を開き︑また 商業学校に入り︑二年後に卒業している︒
齢三十を重ねてしかも異国の
地で改めて学業を再を見るぺきであろう
︒
更に明治三十二年には︑ボス
トンに支店を開き︑翌三十三年には英国を設け︑また組織を合名会社山中商会に改め︑自ら業務執行社員とな
っ
ている︒
同三十八年に赴き︑パリに代理店を設けている
︒
この
ように定次郎は︑長年の
宿志であった渡米開業を か十年程の
間に︑ボス
トン・
ロンドン・
パリと欧米の
要地に支店網をしき︑この
間ビ
ゲロー・
ャ ・
ロツクフェ
ラー・
ケント公・
デビ
ット等々 の
学者・
貴人・
富豪らと親交をかさね︑世界を數く
の
である︒
大正
に入ると︑六年に北京に出張所を設け︑また同年の
合名会社社長山中伴い︑翌
七
年五十三歳にして資本金二百万
円・
株式会社山中
商会に改組するとともに︑
自ら-
6-
社長に就任︑
一
切の
実権を掌握するに至る︒
翌八年には︑功績が認められて英国皇帝よりロイヤル・ ヮ
ラント︵皇
室
御用印︑美国わ下おい二十同展観方式に大
々
的古賜によてな︶をが信れて世界的は用得年をるもよなさり術品
の
販売が行われるようになり︑
これより昭和十一
年の
定次郎の
死去
をも乗り越えて戦中に至るまで大規模 な展観販売
が波状的に繰り返
された︒
享年七
十一
歳︒
定次郎は︑大正 七
年の
社長就任を機に自らの
人生において絶頂期を迎え︑海外販売を充実させるばかりでなく︑大
正
十二年よりはわが国における盛大な展観販売方式を定着させ︑こう
し
た業績が広
く認知された結果︑昭和に入つてからは︑わが国の
みならず各国より勲章をあたえられるなど︑そ
の
名声をいよいよ不動の
もの
とし
たの
である︒
しかしその
死去後︑日中戦争の
泥沼化︑
太平洋戦争
の
勃発を契機にし
て︑
海外
資産は敵産とし
て凍結︑その
後競売にふされたばかりか︑
国内においても 昭和十八年を限りにさしもの
展観販売も終一一
一一
一一
を余儀なくされた︒
総資産の
八割を占めたという海外資産を失つ た上に︑戦後は中国大陸からの
文物将来の
道も閉ざされ︑山中商会は四肢をもがれた格好となった︒
その
歴史 的使命は終戦時に果てたというべきであろうか︒
第二
一 一 a
・海外
'目録に見る世界展開本章では
︑
始めに所蔵されている競売 日
録及び展観日
録の
成り立
ちや資料的価値を改めて検討し︑その
上で山中商会展観日録研究
四五
大学論集人間・言語
・
情報第n
5号一四六 ークションや展観の
開催状況を概観し︑次いで各支店の
概況を窺い︑その
終焉にいたる軌跡中
の
世界展開︑特に中国文
物の
流出・
伝播に果たした役割や意味にっ
いて考察する︒
所蔵競売
・
展観目録の
描成と性格所蔵されている競売
・
展観目録に関し
ては︑
先ずその
保管の
現況及び全体の
構成から述べな同目録は︑装丁
の
状態から欧米分と日本国内分に大別される︒
即ち一
八九七年から一
九三七
おいて自社及び他社によって開催されたオークションと展観
の
カタログを一
回分乃至複次分直した精装本
一
〇〇
冊程と大正十二年︵ 一
九二三︶から昭和十八年︵一 九
四三︶に至る当時未裝丁
の
国内自社開催分の
展観目録二〇
数冊とである︒
更に欧米分は︑表紙の
装丁︵主に色︶
分けられている︒
その
色分けの
基本的メルクマールは︑オークション等の
開催時期・
開催場示品
の
種別
等々
であるが︑これらの
要素が単独乃至
は複数組み合わされて色別の
基準を構成・
支店毎に欧米装丁本の
色別構成を見ると以下の
ようになる︒
即ちロンドンは︑開催の
主体れており︑山中主催
の
展観を示す黒色と︑他社開催の
競売を示す茶色に分別装丁され︑パリ 基準に︑古い開催を示す小 豆
色と︑
比較的新しい開催を示すこげ茶色に分別装丁されている︒
︵ 5
︶催を示す小豆色
の
もの
からほぼ成つている︵
且つ
ほぼ山中競売︶︒
ニューョ
ークは︑AA A の
-
8-
展観目録研究 ︵6︶売をしめす茶色︑
W P G の
開催で浮世絵の
競売を示すこげ茶色︑更に古い開催を示す小豆色︑ 容とも幅広い開催を示す緑色・
青色に分別装丁されている︵補注︶︒
因に各地域ごとのオI
開催回数は︑後に表示されるように概略でロンドン五〇回程︑パリ
・
ボス
トン各一
〇回程︑数回などで
︑
総計一
五〇回程となっているが︵後述︶この
内︑﹁
山中競売﹂ ﹁
山中展観﹂ の
主も
の
だけでも六十回程に上り︑その
他の
多くの
場合も︑書き入れの状態などからみて︑山中︵
一
部買入をも含め︶で関与
していたことを示している︒
ている目録類は︑以上の
ように色分け分類された欧米精装本一
〇〇冊程と国内未装丁二〇数 半世紀に及ぶ山中商会が直接間接に関わった内外総計一
七〇〜八〇回程の
オークション並び なコ
レクションなの
である︒
これら総計何万
点にも及ぶ膨大な出展品の
記録であるカタログずからに山中
の
世界展開の
航跡を描いてぉり︑しかも冒頭に述べたように︑展示品の
種類・状まで判明する上に︑欧米分には印刷された展示品毎
の
説明文の
ほかにも︑多くの書き込み売価格
・
売り上げ・原価等々
まで明らかとなるの
である︒そしてこれら台帳がわりともいえが︑い
つ の
時点にか本国に送付されてより今日に至るまで︑幸いにも保管されて︑正に日下 界展開を確実に追尾しうる質量ともに最良の
根本資料となっているの
である︒
点に
つ
いては予め注意してぉかねばならない︒即ち所蔵されている海外目録類は︑国内日
録-
g -東北学院大学論集人間・言語・情報第
n
5号一
四八分に若干
の 過
漏が確認されることから︑自社分に限つても︑往時出版されたカタログの 必
ずしも全量ではない可能性があること︑またオークションや展観形式による販売は︑各支店毎
の
店頭売りや訪問販売とはもとより別
個であっ
て︑
山中の
総売上の
その
意味で一
部分であること︑さらにオークション販売の
形式は︑これも自社分に限つても︑出展品
の
全てが山中自身の
仕入商品というわけではなく︑コ
レクターや同業者からの
委託品の
場合もあり︑また競売に
つ
いても山中競売
として行うこともあれば︑山中競売であってもコ
レクター自身の
名を利用する場合もあるなど︑様
々
なバリェ
イションが想定され︑山中の
オークションへ の
関与
には濃淡があって
︑ 必
ずしも一
律ではないこと等々
である︒
しかし︑こうした限定にも拘わらず︑山中が直接・
間接に関わった幾多
の
オークションや自社主催の
展観が山中の
販売の
重要部分を構成し凝︑そ︑
の
足跡がカに集れそタログさの
恐らくは大部分が山中本社所蔵海外目録中に集成されているという事実性の
重みと今日的資料状況に鑑みて︑所蔵海外目録自体
の
資料的価値は些
かも減ずることはないの
である︒
以下においては海外目録を︑山中が主催するか何らか
の
形で関与
し︑且つ
山中を中心
とする東洋古美術の
販売状況を克明に示す資料群として位置づけ︑基本的にそれらを
一
括して扱うことで各地の
概況を明らかにし︑更
にその
中から可能な範囲で山中の
世界展開を捉えてゆきたい︑と思う
︒
第二節オークション及び展観開催状況
の
概観﹇
a
﹈開催推移本項では︑オークション及び展観開催
の
地域的・
年代的推移及び出品テーマ つ
まり展示種日の範一
購一を探るため
︑
先ず以下に各地
域・
支店毎の
開催状況を年次別に図表1〜表4にして示してぉく︒
先ず次
頁
表1によりアメリカの
概況から見て行こう︒
同国においては︑定次郎渡米三年後の 一
八九七
年にボス
トンでオークションが開催されているが︑その
後五年間程の
プランクがあり︑一
九〇二年に再開される︒
しかしオークションが本格化する
の
は一
九〇五
年以降の
ことで︒
︑降催二二年以は開数総九
わずか四回ほにが一
過囲れー記録オれた範シクはぎでいさよなどこりョ ︑そ︑三五後一
応一
九年の
継続はれの の
でまさるも︑ ン
の
最盛期は
一
九〇
五年から二一
年にい至る一 七
年間程で︑実質的にはほぼ一 九
二二年前後︑山中競売自体も一
九一 七
年で終息したといえる
︒
さて︑その
間の
推移の
状況であるが︑ 一
九〇五年から一 一
年まではボス
トン開催分の
全 七
回︑及びニューョ
ーク開催分の 一
三回︑
都合二〇回︵
内︑山中一
二回︶
が日本中国美術の
展示で︑
他方中 国美術の
単独開催も八回︵同︑ 五
回︶を占めている︒
この
両者の
総計でこの
間の
延べ開催数三一
回の
殆ど大部分を占めることから︑オークション
の
主要な範一廳一は日本中国美術であるが︑底流とし
てより多く中国美術に傾斜していたことが分かる
︒
次に一
九一
二年から二一
年までの 一 〇
年間で見ると︑中国美術の
単独開催は実に二山中商会展観日録研究
一
四九(表1) ニューヨー ク
・
ポ ス ト ン 年次別・範購別オーク シ ョ ン 開催
一
覧[ 細 字 数 字 : ニ ュ ー ヨ ー ク , ( ) は 山 中 競 売 数 , 太 字 数 字 : ポ ス トン,1897年分以外全て山中競売]
年次/範購 日本
美術
浮世絵類
(含版画
,
他)
日本中国 (東洋)
美術 中国美術 雑 不明 他 計
1897 1 1
i
1902 1 1
03 04
05 2 1 3
06 3 ( 1 ) , 2 5
07 1
4 ( 2 ) , 2
1 2
7
08 1
09 l 3(3) 4
10 3 ( l ) , l 1 5
11 2 ( 1 ) , l 1(1) 1 5
12 4(3) 4
13 1 1(1) 1 3
14 1 ( l ) 3(2) 4
15 1 1(1) 4 l 7
16 l 2(1) l 1 ( 1 ) 14
17 1 3(1) 1 5
18 1 1 2 2 6
19 4(1) 1 5
20 1 1 2
21 4 1 5
22 1 1
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第1 l5 号一五〇
山中商会展観日録研究
( 表 l ) っづき
年次/範尊 日本
美術
浮世絵類 (含版画,
他)
日本中国 (東洋)
美術
中国美術 雑 不明 他 計
23
24 1 1
25 26 27 28 29 30 31
32 1 l
33 34
35 l l
年次不詳 1
計 1 l 5 30 38 2 5 2 93
九回
︵
内︑山中八回︶に上り︑これに対して日本中国美術は七回
︵同
︑
二回︶
に減少
し︑逆に浮世絵類
の
単独開催は一
四回︵同︑
二回︒
ただ
し
これの
み山中展観︶に達し ている︒
この
間の
延べ開催数は五五回であるから︑オークション
の
主要な範E
m
は日本中国美術から中国美術に移行したといえ︑中国美 術
の
浸透ぶりを強く印象づける が︑一
方で浮世絵類の
単独開催が かなりの
ウェ
イトを占めたことも見逃せない
︒
総じて︑アメリカにおけるオー
クション
の
総体的な展示構成は︑一
五一
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第n
5号一
五二統計に示した全開催数九
〇
回余に占める中国美術三八回︵内︑
山中一
三回︶︑日本中国美術三〇
回︵同︑一
五回︶︑浮世絵
一
五回︵同︑
二回︶
という数字に明らかであろうが︑その
推移の
状況は以上に見て来た通りである︒
全体的には浮世絵類を含む日本美術と中国美術が拮抗しながらも︑やはりそ
の
単独開催数からみても中国美術がより主要な流れを構築
し
ていたとみるべ
きであろう︒
それにしても一
九一
六年の 一 一
回という突出した数字をピ
ークにし
て一
二年から一
八年に至
るわずか七
年間の
間に二八回︵内︑山中八回︶にも及ぶ中国美術オークショ ンが開催されており︑
その
密度にはやはり改めて目を見張らざるを得ない︒
残されたカタログによれば︑
この
前後にアメリカにおいては︑競売全体
の
三分の 一
を負つた山中商会を核としていはば第一
次の
中国美術プームが沸き起こ
っ
たと見ることが可能であろう︒
そしてこの
数字こそ年代的にもまた内容的にも辛亥革命による中 国文
物の
大量流出を雄弁に物語るもの
であることは︑次項以下に次第に明らかとなろう︒
なぉこうした隆盛に もかかわらず︑
一九一 七
年における山中競売の
終息と一
九二二〜
三年以降の
オークションの
記録の
激減という より実質的な消滅はいかにも唐突の
感を免れないが︑この
点につ
いても後に改めて言及するであろう︒
次に次表
2
によりロンドンにつ
いて見てみよう︒
同地は装丁本の
色別に従つて︑山中主催の
展観︵黒色装丁本︶と他社開催競売分
︵
茶色裝丁本︶とに分けて見ると便宜である︒
これに従えば︑他社開催の
オークションは
一 九
〇九年から一 九
二二年に至
る一
四年間に延べ 一
九回程行われているが︵この
中にも明示はされていない が︑
明らかに山中の
関与
している事例が複数ある︒
例えば恭親王
競売など︶︑この
間山中主催の
展観は︑一 九 一
山中商会展観日録研究
一
五三(表2) ロ ン ド ン 年 次 別 ・ 範 購 別 オ ー ク シ ョ ン・展開開催
一
覧[細字数字:黒色装丁本(山中主催展観),太字数字:茶色装丁本 (他社開健競売)]
年次/範購 日本美術
(含房風)
浮世給類 (含版画,
他)
日本中国 (東洋)
美術 中国
美術 雜 不明 他 計
l909 10
1 1
1 1 1 3
l 1 l l 2
12 1 13 14
1
2 2
1
4
1 1 3
15 16 17
l 1
l 1
1
1
18 l 1
19 20
l 1 2
21 22
2 l , 1
2
1 3
23 2 2
24 1 1 2
25 26
1 1
1 1 2
27 3 3
28 2 2
29 30 31
1 l 1
1 1
1
2 2
東北学院大学論集人間・言語・情報第
1 l5 号
一
五四( 表 2 )
っ
づき年次/範略 日本美術
(含屏風)
浮世絵類
(含版画
,
他)
日本中国 (東洋)
美術 中国
美術 雑 不明 他 計
32 33
1 1 2
1 2
1
34 2
35
36 l 1
37 1 l
年次不詳 2 2
l 2 12 4 20 1 1 1 51
〇年に二回開催され︑以後
一
四年まで都合五回開催される︒
その
後は︑二二年に至るまで七年間休止
されており︑同年の
再開以降は三七年に至る
一 五
年程の
間に都合二七
回開催されている
︒ つ
まり一
九〇九年から一
九二二年までは︑総回数二五 回中︑
他社開催が大半の 一
九回を占めていたにもかかわらず︑山中が
再
開した一
九二二年を最後に︑他社オークシ一一一
ンの
記録は消滅し︑二三年以降は全く山中主催展観
の
みになるの
である
︒
言い替えれば︑山中は二二〜三年を境にして︑それ以前
の
他社開催依存から︑全くの
自社主催の
展観に全面転換を果た
し
たということなの
であろう︒
さて︑その
推移の
状況であるが
︑ 一
九二二年までは︑他社開催に関しても︑屏風を含む日本美術が四回︑浮世絵類が八回︑日本中国美術が二回︑中 国美術もわずかに二回
の
みで︑
圧倒的に日本美術が主流をなしていたことが分かるが︑山中主催分においても屏風を含む
日本美術と浮世絵が都合五回な
の
に対し中国美術は一
回の
みである
︒ っ
まり総計を改めて示すまでもなく︑全く日本美術特に浮世絵や屏風類が圧倒的比重を占めていたこ とが明瞭である︒
これに
対
して二三年以降は︑三二年までで見ると︑日本美術と浮世絵をあわせても七
回の
みで︑また日本中国美術も二回に
止
まっているが︑
反対に中国美術の
単独開催は 1〇
回に上り︑展観の
主要な範一
購が︑日本美術 から中国美術へ
と大きく移行していることが分かる︒
そして三三年以降は︑中国美術の
展観の
み六〜七回となり
︑
流れは全く中国美術に転じたの
である︒
かくて大まかに言えば︑二二年までの
他社開催オークション1
日本美術︑二三年以降
の
山中主催展観-
中国美術というモチーフの
変更が判然となる︒
とすれば︑
二二〜三年にかけて
の
山中の
オークション形式から展観形式へ の
開催路線の
全面転換の
要因解明こそが焦点となるが︑この
問題に
つ
いては︑ロンドンにおいて二三年以降に起こったいはば第二の
中国美術ブームの
検討やその
他の
課題とともに︑後に改めて言及することにする
︒
次いで次頁表
3
に示したフランス
であるが︑
開催年次でみると︑ 一 九 〇
六年から一 一
年に至る期間と二〇
年から二二年に
至
る期間とに二分される︒
前半は日本中国美術と版画浮世絵類各二回づつ
︑中国美術が一
回で日中おおむね拮抗
し
ているが︑後半は版画浮世絵類四回︑
日本美術一
回の
みである︒
トータルで見ると︑パリは日本美術それもほとんど版画浮世絵類に傾斜していたことになる
︒
なぉバリにおいては︑山中が買入れを行つたと思われる事例が含まれている
︒
ここではとりあえずパリ・
オークションの
記録が一
九二二年以後に途絶え山中商会展観日録研究
一
五五(表3) パリ 年 次 別 ・ 範 購 別 オ ー ク シ ョ ンー
:
覧年次/範路 日本
美術
浮世絵類 (合版画,
他)
日本中国 (東洋)
美術
中国
美術 維 不明 他 計
l906 1 1
07 08
09 1 1 2
l 2
10 1
11 1 1
i
20 2 2
21 1 1
22 1 1 2
計
1
6 2 1 1 11東北学院大学論集人間
・
言語・情報第1﹈
5号一
五六ていることに注日してぉこう
︒
最後に日本だが︑次頁表4
によれば︑同地
では一
九二三年︵大正
十二年︶から三六年︵昭和十一
年︶
の
定次郎の 死 去
を経て四三年に至る二一
年間︑ほぼ全て山中主催
の
展観で都合二八回︵年次不詳一
回を含む︶
ほど開催されてぃ
る︒
詳細な分析は次稿でぉこなわれるから︑ここでは︑要点
の
み簡略に触れることにするが︑とりあえず定次郎生前
の 一
四年間における開催総数二〇
回分と没後七
年間における開催総数
七
回分とに分けてみると︑生前においては日本美術と浮世絵で都合六回を数
え︑日本中国美術二回
︑
中国美術三回︑東洋・
世 界合わせて七
回となっている︒
単独開催数その
他 で︑浮世絵を含む日本美術が一
見中国美術を圧し ているかにみえるが︑実は東洋・
世界美術に中国山中商会展観目録研究一五七
( 表 4 ) 日本 年次別・範購別展観
一
覧年次/範盛 日本
美術
浮世絵類 (合版画,
他) 日本 中国 美術
中国 美術
東洋 (合 中国)
世界 (含 中国)
雑 他 計
大正12年 (1923)
1 1
13 1 1
14 15/昭和元
(1925)
2 2
2
3 1 1 2
4
5 1 1
6
7 2 2
8 2 1 1
4
9 1 1 2
10 2 1 3
11 3 3
12 l 1
13 l 1
14 1 1
15 1 1
16
17 l l
1
18 1
年次不群 l
7
l
計 2 3 3 2 7 1 3 28
美術は重い比重を占めており︵殆どに大量
の
中国美術が含まれている︶︑それ故中国美術は全体としては日本美 術に良く拮抗し
ているといえる︒
没後は︑日中一
回︑日本美術︑東洋・
世界美術とも二回づっ
である︒
因に日本に関しては︑
一
九二三年に至
つて初めて展観が開催されたこと︑っ
まりそれまで全く開催されたことがなかったという事実に注目してぉきたい
︒
さて最後に︑以上に検討してきた各国別オークション並びに展観
の
開催状況の
推移を通して︑山中の
世界展開を概括し︑問題を整理しておきたい
︒
先ず最も注日すべきは︑開催年次に関連して世界各店地域にほぼ同時に大きな変化が起きていることであろう
︒
即ち二十世紀に入つて本格化してきたアメリカにおけるオークショ ンの
記録が実質的に一
九二二年前後に途絶え︑アメリカに一 〇
年遅れて一
九一 〇
年代より本格化したロンドン においては一
九二二年を境にして︑他社開催オークションから自社主催展観に一
八〇度方針を転換し︑ 'パリに おいても一
〇年の
休止
を経て再開されたオークションの
記録が二二年に途絶え︑日本においては︑逆に一
九二 三年に至
つて初めて自社展観が開催されたということである︒ っ
まりどうやら一
九二二年ないし二三年を共通時として︑世界全店を巻き込んで︑山中
の
大胆な方向転換が強力
に推進されたらしぃ
ということ︑端的にいえば
︑
ニューョ
ークとバリにおけるオークションへ の
関与を打ち切り︑ロンドンと日本においての
み︑
しかも全く
の
自社主催で展観を継続ないし開始する︑ということなの
であろう︒
しかも展示種目にっ
いても︑辛亥革命以降
一
層顕著となっ
たニュ
ーョ
ークにおける中国美術へ の
傾斜の
流れを受けて︵第一
次中国美術プーム︶︑ロン 東北学院大学論集人間・
言語・情報第1 1 5
号
五 八
ドン
の
自社主催展観においてはやがて中国美術の
みが前面に押し出されるようになったばかりでな︿
︵第二次プーム︶
︑
わが国においても︑自国美術と有力に伍しっ つ
中国美術が一
方の
支柱とされたの
である︒ っ
まり山中は辛亥革命以降
の
中国美術流出の
時流に大胆に乗じながら︑展示の
重心
を日本美術から中国美術に置くようになり
︑
先駆的にはア
メリカで︑つ
いで自社主催を通してロンドンと日本に中国美術プームを巻き起こし︑こうし
て世界的規模における巨大な中国美術市場の
開拓に成功した︑と見ることができよう︒
さて最後に
︑
先程来指摘してきた山中商会の 一 九
二二年前後における大きな方針転換の
要因の
解明を試みて おかねばならない︒
まず背景として最も注視すべきは︑大正 七
年︵一 九 一
八年︶における定次郎の
社長就任並びに
株
式会社改組であろうが︑ここでその
意味を間明するためには︑山中一
族の
販売組織に是非とも触れてぉく
必
要がある︒
即ち同族には三つ の
組織があっ
て︑山中商会社長をも兼ねていた大阪﹁ 一
a董
堂山中吉郎兵衛商店
﹂
が茶道具を中心
に国内販売を担当し︑
また京都の ﹁
山中合名﹂
が主に来京の
外人を対象に販売を行い︑﹁
山中商会
﹂
は海外販売に専従するという︑同族三者それぞれに一
種の
役割分担を數き︑竸合関係に陥るの
を巧妙に回
避
していた︒ つ
まり言い換えれば︑山中商会自体は︑店舗を構えて国内販売を行うことが︑事実上不可能 だっ
たということなの
である︒
ところでニューョ
ークにおいては︑定次郎の
社長就任の
前年︑即ち一
九一 七
年︵
一
-︶に目抜きの 五
番街六八〇
番地に終の
店舗を構え︑移転していた︒
当時の 地
元紙上にも絶賛されるように︑それ はまさに堂々
たるギャラリーと呼
ぶにふさわしく︑例えば広
い二階は一
〇の
展示室
に仕切られ︑講演会場とし山中商会展観日録研究
一
五九東北学院大学論集人間・言語・情報第
1 1 5 号一六〇l8︶て充分使えるほど
の
部屋さえあったといい︑事実残された写真をみても︑
その
広壮豪奢な様をまざまざと彷彿 させる︒
あるいは︑
会場を借り受けての
オークション販売の 必
要性は相対
的に低下したの
ではあるまいか︒
事実
︑
ニューョ
ークにおいては︑
実質的に一 九 一 七
年に山中競売は終息しており︑これは右の
推測を強く裏付けるも
の
といえよう︒
またロンドンにおいては︑社長就任の
翌年の 一
九一九
年に︑それまでの
功續が高く賛えられてで
あ
ろう︑
日本人として窒
別の
ロイヤル・ワラントを受け︑いやがうえにもその
威信は高まっ
た︒
就任直後
の
社長として他社開催依存から脱し
︑一
層の
自社主催展観をめざすの
もまた自然であろう︒
以上は︑推測の
域に
止
まろうが︑日本に関しては︑
大正
十二年︵二十三年︶以降の
展観開催は比較的容易に合理的に説明されよう
︒
即ち社長就任・
株式会社改組を機に実権を掌握し︑
さらに海外での
陣容と名声を背景に︑国内店舗販売御法度
の
同族の
不文律との
整合性をも保ちっ つ
︑国内展開を図ろうとすれば︑展観方式による販売以外に︑
い かなる方途も見い出せなかっ
たであろう︒
苦肉の
策というべきではあるが︑その
発想を得て豪快無比の
展観方式
が定着し ︑
未曾有の
成功を遂げた経緯は︑次稿に詳述されるであろう︒
この
ように一
九一 七
年〜一
九二二年前後にかけて
の
山中の
方針転換は︑定次郎の
社長就任・
株式会社改組を最大の 要
因として︑これに幾つかの
偶然的
要
因が重なっ
て実行された可能性が高いが︑やはり何よりも定次郎の
強いイニシアチブを読み取るべ
きであろう
︒
山中商会展観日録研究
=
/、
﹇
b
﹈開催規模と営業規模本項では︑前項で各
地
域におけるオークションや展観の
開催状況とその
推移を概観したの
に引き続き︑先ずオークション等
の
数量的規模︑っ
まり出品数・
販売額・
原価等々
を可能な範囲内で明らかにして︑各地域の
展示規模を窺い︑次いで断片的ではあるが各支店
の
業績を示す外務省等の
周辺
資料をも参照して︑各地域の
営業規模を窺い︑これらを通して主に経済的観点から山中
の
世界展開に占める各支店の
位置と各支店の
業續に占めるオークション等
の
位置を考察する︒
とりあえず以下に目録中に売上総額・
原価総額等の
記入されているもの
を
ピ
ックアップして示し︑
その
後各支店の
営業規模に関わる若干の
資料を検討する︒
さて
︑
次頁
以下に掲げた表5
〜表7は︑アメリカとロンドンの 日
録中に記されている合計額を取り上げたもの
である︒
パリと日本を除外
したの
は︑パリの
目録には書き込みは見られるもの の
︑総計を示しているもの 一
点
の
みであり︑また日本の
場合はそもそも書き込み自体が数点しかなく︑
総計を示すもの
は皆無であることによる
︒
さて﹁
売上﹂ ﹁
元価﹂ ﹁ c o s t ﹂
等と明記されているもの
以外は︑必
ずしもはっきりしない場合もあるが
︑
多くは出展品の
売上価格︵以下では一
応売価と称しておく︶の
総額であろうと思われる︒
以上を前提にし て︑
各地 の
状況を検討すると︑ニューョ
ークにおいては︑ 一
九〇五
年から一
七年に至る﹁
売上﹂
と明記されて いないもの 一
五〜
六回の
内︑一 万
$台から最高一 九 万
$台の
幅で︑ 一 万 ・
五万 ・
六万
$台各三〜四回︑一 〇
万$台以上四回等となっており︑記録された範囲では︑
五
〜六万
$台が一
般的な売価総額︑っ
まりオークション(表5) ニューヨー ク ・ オ ー ク シ ョ ン の 規 模
一
覧年次 競売名 展示種別 出展数 総 額
(売価・販売・利益等)
l905年 藤田競売 中 国 765点 22,156
// ボ ース 中国他 1
.
615 $65,86l.2508 山中 日本中国 632 51,902.5
09 山中 中 国 415 正味売上 15,054
此 元価 6,810.18
// 山中 中 国 l76 tota1 54,190
cost 25,969.40
10 山 中 ? 日本中国 608 総売上高 $8,260.50
元価 ?
11 山中美術品集 中国 5 4 l ? 三日間合計65,530.50
正味売上高 19
.
820// ゲ ッ ツ 東洋 681 総
〆
壱万六千弗先方元価大凡半分位
// 山中 日本中国 678
226
総売 6,908.5
67,000?
12 山中 中国
// 山中 中国 193 (三日l'船計)$106,727.前
正味売上 $30
.
90014 15
山中 中国 519 $192,036.50
ア イ ビーズ 474 $134,807
16 マ ー シ ュ 中国 534 13,100
cost?
// 季文郷?
デ フ ァ ニ ー
中国 6l6
145
14
.
358,50// 中国 44,392.5
//
//
ワ ッ サ マ ン 中国
日本
465 737
$88,550
$ l 9
.
000?17 山中 中 国 ?
: ;
l115,870原 価 ?
//
//
季文郷 平川
中国 日本
86l $ 5 1
.
454$ 1 5
.
734 引 3 , 0 0 2$12,732 503
東北学院大学論集人間・言語・個報第1 l5号
一
六二山中商会展観目録研究
三六
( 表 6 ) ポ ス ト ン ・ オ ー ク シ ョ ン 規 棋
一
覧年次 競売名 展示極別 出品数 総 額
(売価・売上・利益等)
1906 山中 日本中国 502 $ 4
.
l49.25元価 $2,757.5
1932 山中 日本中国朝鮮 452 $10,487
( 表 7 ) ロ ン ド ン ・ オ ー ク シ ョ ン
-
展観規機一
覧年次 展観名 展示極別 出品数 総 額
(売価・売上・利益等)
191l年 テュケ ー 版画 790 競売高大略
i 1
.
810.10.0// 版面内筆他 397 錦絵 i 5 6 1 . 6
元価 ¥4,620.27
掛物 i212.12
(元価) ¥656.95
正味 i773.18
(元価) ¥5,277.22
13 恭親王 中国 2l1 競売高 i 6
.
25519 版画 374 i585.l8.6
i 1
.
252.16.622 ピーバ ン 雑 146 i 1 3
.
58127 山中 中国 43 売上合計 i 1 , 3 3 0
29 山中 中国 168 i 5
.
059東北学院大学論集人間・言語・情報第
u
5号一六四の
経済的規模であったといえよう︒
また﹁
売上﹂
と明記された5例でみると︑売上高は一 万
$以下及び一 万
$台二回
︑
三万
$台一
回となっ
ている︒ 更
に一
九〇 九
年の
二例と一 一
年の 一
例から︑
売上
総額に占める原価総額の
比
率がおおむね二分の 一
ほどであったことが知られる︒
この
原価・一 一 一・ :
:S
一
と言う数字がどこまで一
般化できるかは不明だが︑オークションにおける販売規模等を推測する
一 つ の 日
安にはなるだろう︒
因に売価総額一
〇万
$以上
の
比較的規模の
大きいオークションが全て一
二年以降となってぉり︑同時にそれは一
点当たりの
高額化をも示しているが︑いずれにせよこうした現象が辛亥革命後
の
文物流出と密接に関連していることは次項以下に改めてふれる通りである
︒
なぉニュ
ーョ
ークで開催されたオークションの
総回数八四回分の
全出品数を確認できる範囲で総計すると︑五
万
点を優に超え︑ポス
トン一 一
回分の
それ五千数百点を加えると︑合計で延べ六万
点弱︑
一
回当たりの
出展数は単純平均で六〇〇点程ととなる︒
これは他社分を加えての
数字であるが︑しかし実質二〇年問ほど
の
︑しかも望
元分だけの
数字であるから︑山中の
店頭販売分等を加えた半世紀に及ぶ総販売数は︑膨大な分量に達する可能性がある
︒
次にロンドンであるが︑売上総計と思われる四回
の
うち︑三回が二︑
〇〇〇 -
未満で︑ 一
三年の
恭親王
だけ が︑六︑〇 〇
〇e・一 一一
を超
えている︒
また売価総計と思われる二例︵一
九年・
二二年︶
は︑二︑〇〇〇一 一
一・一
以下︑一
〇
︑〇〇〇一一
一︐一
以上各一
点である︒
因に当時の
ポンド対ドルの
為替比率は︑概ね5
対1
から4対1ほどであるから
︑
売上・
売価総額はドル換算で四千$〜五︑
六万$の
範囲に止
まる︒
ここではさしあたり辛亥革命後の 文
物流出を象徴する恭親
王 の
場合が︑比較的高額になっ
ていることに注日 し
てぉきたぃ ︒
なぉロンドンにおける総出品数は︑他社開催オークション
一 九
回分の
総計で一 万
点ほど︑自社主催展観三二回分で四千点ほど︑合算で約
五 〇
回一 万
四千点ほどとなり︑
他社開催一
回当たりの
出展数は約五 五 〇
点︑自社分は一
二〇
点となる︒
実質三〇年ほど
の
数字であるが︑それでも総数でアメリカの
四分の 一
強に止
まり︑
因にパリも一 〇
回程で四︑〇〇〇
点強︑
ロンドンの 更
に四分の 一
強に過ぎぬことから︑こうした単純な展示総数の
比較から見ても︑
米国にお ける販売
規模の
絶対的な巨大さが︑改めて浮き彫りとなる︒
またロンドンにおける一
回当たりの
出展数でみる と︑他社分が自社分を大きく上回つているが︑これは他社分には日本美術特に浮世絵・
版画類が大量に合まれていることと関
連
してぉり︑更 に
一
点当たりの
販売額でみても版画類が平均して数ポンド程度であるの
に対し︑中国美術
の
場合は︑恭親王 の
みならず︑山中主催分を含めて恐らく三〇ポンド前後に. なり︑一
点当たりの
高額化を示している
︒
'さて
以
上︑目録に記職された総額の
数字から︑オークション等の
経済的規模の 一
端が読み取れ︑特に出展品 数の
単純な比較からもアメリカの
圧倒的販売規模が改めて明瞭となった︒
以下においては各支店の
営業規模に 触れる資料を検討し
ながら︑山中の
世界展開に占める各支店の
位置と︑各支店の
業績に占めるオークション等の
位置を考察したい︒
とはいえ
︑
すでに論文冒頭に述べたように︑直接に戦前の
各支店の
経営状況を窺うに足る資料は殆ど皆無で山中商会展観日録研究
一 一
ハ五大学論集人間・言語・情報第
1 1号一六六 5
ここでは︑検索し得た外務省外交資料館保管資料
﹁
支那二於ケル本邦人発展及状況雑件︵別業及貿易調
査
ノ件第六巻﹂
︑﹁
昭和自十年度至
十一
年度在外本邦人実業者調査
雑件調査年在外本邦実業者調
査
関係雑件年報ノ部﹂
及びその
他を参照し︑上記課題を検討するこ二於ケルー
-
第六巻﹂
所載︑﹁
在天津北京本邦輸出入商調﹂
に商会北京出張所
-
:- -
始年
月
︶輸出
円振込金百五十
万
円大正
九
年度取引高那人十人 邦人官商録﹄︵天津興信所編昭和七年
一
月︶に︑商会出張所
同三号
'
個人経営︶大正七年六月︵株式組織︶ 三拾四年頃
︵
個人経営︶大正 七
年六月︵株式組織︶万
円也振込額金弐百弐拾五万
円也
倫敦堡斯頓
展観日録研究
六七
大学論集人間・言語・情報第
1 l号 5
人
五
名中国人拾二名︵
雜役共
︶一
六八外務省
資
料を表にすると︑次頁表8 の
ようになる︒
とって専ら中国
文
物買入の
為の
基地
であった北京の
状況から見てぃ
こう︒
前掲二資料によれ頃に開設され︑大
正 七
年に株式組織に改められた北京出帳所 ︵出︑大正九年度の
取引額二二万昭和十年銀八
万
元︑十一
年六万
五千円︑十四年一 五 万
三千円等の
数字を︑最大二〇年間の
時 ず上回つている︒
参考までに大正九年の
海外向け中国古美術品の
輸出総額を挙げると︑七
〇〇
年の
為替相場で約一
六六万
円=八七 万
$︑二一
年では約一
1〇万
円=五三万
$に相当︶ほ前掲取引高と直接対比することは無理であろうが
︑
山中盛
期の
中国文物取扱量の
全輸出総量模を
一
親う一 つ の 日
安にはなるかもしれない︒
30 被みされた
文
物は︑世界の
各支店に送られることとなるが︑ニュ
ーョ
ーク支店の
販売額は︑一観目録研究
六九
シカゴ 1 5 万 $ 8
倫敦 300万円 約 2 万 ポ ン ド 日 3
外 1
11年 北平 300万円 6 万 5 千 円 日 4
支 12
紐育 200万円 60万$ 日 14
外 2 l
ポ ス ト ン 200万円 30万S 日 5
外 8
シカゴ 10万$ 8
倫敦 300万円 2 万 2 千 ポ ン ド 日 1
外 3
14年 北京 本店共
400万円 15万3千円 日 5
支 l 3
紐育 50万$ 日 10
外 20
日 3
外 6
日 2
外 2
シカゴ 1 0 万 $ 3 千 $
(欠額額) 5 万 2 千 ポ ン ド
倫数 400万円
-
31大学論集人間・言語・情報第
u
5号一
七〇︑
三六年六〇万
$︑三九年五〇万
$とほぼ五〇 〜
六〇 万
$の
間で推移したようで︑これに一
数字三
〇 万
$を加えれば︑この
時期の
アメリカ全体での
総売上があるいは一
〇〇万
$前後にれよう
︒
もとよりこれらの
数字には︑その
年代からし
てオークション形式による販売額は含 うより︑
ないはずで︑基本的に店頭売等の
総額であろう︒
参考までに一
九三五年〜
四〇年の
向け総輸出額を挙げると︑概ね
一 〇 〇 万
$銀前後から一
六〇 〜 七
〇万$銀ぐらいであり︑ま一
六年〜
三一
年にいたる対米向け輸出総額は︑大約八〇〇
万海関両︑年平均五〇 万
海関両︵一
四
〇 万
$弱︶であ ︵a ︒
これら輸出額を先の
売上額と単純に比較することはできないし︑しか における販売が中国の
みならず日本美術をも含むもの
であるとはいえ︑それにしても前掲の
推計の
数字は︑山中の
販売額自体の
絶対的規模及びその
米国におけるシェアがいかに巨大な易に想像させよう
︒
なぉロンドン支店の
売り上げは︑前掲期間二万---一
〜五万一
・一・一
︵一
九二一
年の
万
$︵=一
六万
円弱︶〜一
九万
$︵=四〇万
円︶︶で推移し︑あるいは米国での
総販売額の 一
に相当していようか
︒
これにより米国での
売上が︑
ロンドンの
それを大幅に上回り︑山中に が主要販売地であったことが具体的に裏付けられると同時に︑また少なくともこの
時点にお開に占める両
地
域の
位置付けがほぼ窺われるの
である︒
なぉ参考までに示せば一
九二一
年る英国向け輸出総額は︑
一 五 〇 万
海関両ほど︑
年平均一
三万五千海関両︵一
九二一
年の
相場- 3 2 -