はじめに―課題と方法,対象の限定
本稿の課題は,近代ヒューマニズムの歴史を辿 り,その成立過程の特徴を,時代背景となった 17,18世紀のヨーロッパの実情に即して明ら かにすることにある。そして,そのような歴史的 手法でのアプローチにより,ヒューマニズムの現 代社会における有効性を検証することを目指して いる。この課題意識に基づく検証としては,すで に別の機会に,15,16世紀のイタリア・ヒュー マニズムの出発点に焦点を当て,そもそものヨー ロッパ・ヒューマニズムの淵源を辿り,その特徴 を明らかにする試みを行った1)。
ここでも,現代ヒューマニズム成立の原点に立 ち戻って,成立史的観点から課題に迫りたい2)
が,その対象は,ヨーロッパ・ヒューマニズムの 完成期,17,18世紀のドイツに据えてみたい
3)。別稿における成立の起点の分析を受けて,こ こではその帰着点に着目し,生成から発展,そし て完成への道筋を辿ってみたいと考えているわけ である。
周知の如く,ルネサンス期イタリアを出発点と する近代ヒューマニズムは,近代思潮全体がそう であるように,時代を経過する中で,アルプスを 越え,スイス,そしてフランスへと展開し,その 間にイギリス経験論の影響を受けながら,さらに ドイツへと伝播していった。そしてその過程で,
内実を豊かにし,また,普及力を強める形で,近 代ヨーロッパにおける思潮の主潮流としての位置 を確定し,現代社会への影響力を高めていったの である。すなわち,ヨーロッパにおいて中世封建 制が大きく揺らぎ,その変革の契機は地域によっ て多様性があったものの,一様に,それまでの国
王・領主権力及び,そこと密接な結びつきをもっ ていた教会勢力の絶対的な力が減退し,代わって 経済力を高めた市民の発言権,政治力が増してい く,いわゆる近代市民社会の成立過程と符号して いた。そして,この過程の背景には,封建制の解 体を進め,自由を掴み取ろうとする活動と,また その一定の成果の獲得を前提として,プロテスタ ンティズム,民主主義に代表される新しい思潮の 台頭があったと考えられる。
土地領有を基軸とした支配構造の中で,身分制 を根幹に強い支配・被支配の関係で成立していた 中世封建制は,一方で権力による自由の制限を際 立った特徴としていた。支配権力側に組みしてい た教会勢力も,精神世界における一元的支配を貫 徹することにより,国王・領主権力の経済的・政 治的支配を強力に補完し,同時に支配層の一翼と して重要な役割を担っていた。生産力の向上によ る,とくに経済的支配システムの動揺に起因し て,この体制が揺らぎ始める中で,その根源的な 部分を支える精神世界における教会の支配力も漸 く衰えを見せた。束縛からの解放,すなわち自由 の獲得を求める人々の強い意志の高まりに対し,
さしものその強大な威力も翳りを見せ始めたので ある。神の世界の絶対性が崩れ,それに代わる価 値の源として人間存在がその地位を大きく浮上さ せてくる経過の中で,近代ヒューマニズムの精神 は生成,確立されていったが,それは自由を求め る人々の強い意志が,封建的観念からの脱却を 着々と進めていったことを背景としていた。
経済システムを皮切りに進んだ,封建社会から 近代市民社会へのこのドラスティックな移行は,
もとより一挙的ではなく,数世紀の弛まぬ戦いの
近代ヒューマニズム成立の時代背景とその特徴
―17,18世紀のドイツを事例として―
平賀 明彦
白梅学園大学・短期大学 教育・福祉研究センター研究年報 No.20 24 〜 33(2015)
論文・研究ノート
歩みの中で達成されていったわけだが,人々の思 念,精神世界における変化も,まさに遅々たるテ ンポながら,しかし着実に成果を積み上げていっ た4)。近代ヒューマニズムの生成,発展の過程も またそうした道程を辿ることになった。それを広 がりの視点で眺めてみると,前述したように,イ タリアに端を発し,スイス・アルプスを越えなが ら中央ヨーロッパに展開し,転じてフランスに流 入し,イギリスからの影響を強く受けながら,ま さに以後の革命の精神的支柱を形作ることに貢献 し,そして次いでドイツに伝播することで,その 完成を見るのである。学芸の分野では,ゲーテ,
シラーの文芸思潮に代表されるドイツ人文主義の 成立期にそれは照応していた。近代イデオロギー の基軸としてのヒューマニズムの確立も,また,
それと時代的に合致していたのである。
本稿では,そのような経過で完成形に近づいた 近代ヒューマニズムの特徴を,ドイツにおける成 立過程を追いながら検証していく。そのために,
まず手始めとして,15,16世紀イタリアを出 発点に展開したヒューマニズムが,どのようにし てドイツに流入し,その形を整えていったのか,
その経緯を辿っておこう。そのために先ず,当該 時期のドイツの実情を把握しておくことから始め たい。
近代ドイツの成り立ち
10世紀,神聖ローマ帝国が成立したが,教皇 権との確執などもあり,国内はなかなか統一が進 まず,13世紀に入ると皇帝権力の衰退は明らか となった。そして,それぞれの領有基盤を固めた 諸侯の力が増し,ケルン大司教をはじめとする教 会諸侯と,ザクセン大公,ブランデンブルグ辺境 伯らの世俗諸侯にボヘミア王を加えた選帝侯制度 が始まった。各地の封建諸侯が凌ぎを削る割拠 的な時代に突入していったのである。15世紀 に入るとハプスブルグ家5)の下に統一が進み,
1452年,フリードリッヒ3世が神聖ローマ帝 国皇帝となって以後,同家がほとんど帝位を継承
することとなり,16世紀,カール5世時代には スペイン王位も兼ねることとなり,その最盛期を 迎えることとなった。17世紀には,宗教的対立 から周辺諸外国をも巻き込んだ長期の戦争状態と なった。三十年戦争である。そして,その戦争後,
東プロイセンが台頭し,18世紀初頭,ブランデ ンブルグを中心にプロイセン王国が成立すること になったのである。その後,シレジア,西プロイ センを合して,ヨーロッパの強国としてのドイツ が誕生する礎はこのようにして築かれていった。
19世紀に入って,普仏戦争の結果成立したドイ ツは,4つの王国,6大公国,5公国,7侯国と 3つの自由市から成る連邦国家であったが,その 場合でもやはり中心はプロイセンにあり,その主 導下に他地域が位置する事情に余り大きな変化は なかったのである。
このように,統一国家としての成り立ちの中に も,ドイツの地域割拠主義の特徴は良く示されて いる。ここで問題にしようとするヒューマニズム の精神の流入,定着過程でも,その地域割拠の特 性には大きく影響を受けることが予想される。こ こでは,しかし,その独自性にまで踏み込むこと は,紙数の上でも,また論証的にも難しいので,
その部分は捨象し,近代ドイツという一つの括り で,近代ヒューマニズムの成立過程を検証してい きたい6)。その検証を進める前に,15世紀から 18世紀ころにかけて,封建制から近代市民社会 に向けた移行期に当たるヨーロッパでは,思想的 な側面では,どのような主潮流が形成されていた のだろうか。個別事例検証の前提として少し概観 しておこう。
ヨーロッパ近代思潮の流れ
ル ネ サ ン ス 期 に イ タ リ ア で 光 を 発 し た 近 代 思 潮 の 潮 流 は, 先 に 見 た よ う な 経 路 を 辿 っ て 17,18世紀にドイツに流入し,克服されるべ き封建遺制,すなわちキリスト教的伝統と近代 合理主義とのせめぎ合い,融合を経て,近代市民 社会のシステムに適合的な近代思潮へと展開して
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いった。経済的基礎構造としての封建制の解体過 程は,その下支えとなっていたキリスト教的伝統 主義,権威主義への抵抗の強まりをともなって進 行していった。とくに支配権力との強い結びつき の中で,次第に腐敗し,固陋を守るのみとなった キリスト教文化,伝統は,それら旧勢力に代わっ て台頭しつつあった都市市民層からは打倒の対象 として位置づけられた。そして,精力的に,ある いは地道ながら着実に,とその形には地域差が あったものの,しかし,総体として克服されてい く過程が進行し,諸事象を合理主義的な価値判断 の下に裁断していこうとする考え方にその座を明 け渡していった。
ここでは,そのような近代思潮の流れを,当代 を代表する二人の人物の活動ぶりに焦点を当てる ことで検証しておきたい。先ず,ボルテール7)
を取り上げることとする。
17世紀末から18世紀にかけて活躍した代表 的啓蒙思想家ボルテールは,『オイヂュプス』に よって成功を収めた後イギリスにわたり,そこで 議会制度を学び,また,イギリス経験論に触れる ことで,後につながる思想形成の大きな画期を得 た。ロックに代表されるイギリス経験論は,認識 の基礎を感覚的経験に置き,人間の知性を重視す るために,宗教的には多元主義を承認し,信教の 自由に道を開く流れを持っていた。それは,すな わち,王権神授説の否定につながり,社会契約論 に行き着く政治思想としての性格を色濃く持つこ とになり,結果的に権力論としては,人民の合意 形成による政治の在り方に価値を見出す考え方に 結びついていった。3年後にイギリスから帰国し たボルテールは,しばしば弾圧を受けながらも,
啓蒙的創作活動によって,合理主義の徹底追及に 力を注ぎ,その完成を目指した。すでにイタリ ア・ルネサンスの中で,人間理性に絶対的価値を 見出し,その自然的在り方を基礎に真理探究を進 めようとする考え方,すなわちヒューマニズムは その歩みを始めていたが8),これを受け止めたボ ルテールにあっては,それはまた,必然的に無神
論の根拠となり,また唯物論の基本となっていっ た。もちろん,その全てにおいて即座に完成形態 に立ち至ったわけではなく,神の存在否定といっ ても,その徹底性は,後世のような揺るぎないも のではまだなかった。ただ,人間存在の在り方に 価値の基軸を定め,それがために神の絶対性に疑 問を投げかける中で,人間存在が拠って立つ現実 を形作っている物質的価値に重きを置く思考回路 が整えられていくのは,ある意味で当然のことで あり,唯物論の成立が導かれることになった。啓 蒙思想家ボルテールは,とりわけ宗教観の領域 で,この思潮の旗手としての役割を果たすことに なったのである。
そして,これも良く知られているように,こう いった思想的営みは,宗教領域においてはレッシ ング9)に,認識論的哲学では,カント,ヒュー ムや百科全書派と呼ばれる一群の人々に,また,
社会思想においてモンテスキュー,経済思想にお いてスミスにそれぞれ引き継がれ,総体としての 啓蒙思想の時代を形作っていくことになったので ある。
フランスからの影響を受けることが多かったド イツの思想界も,ボルテールを中心とするこれら 啓蒙思想家の強い影響を受けることになったが,
しかし,先の地域的な広がりに見られるように,
ドイツへの流入は時期的に遅く,そのため,すで に宗教改革を終えていた中では,キリスト教的伝 統と近代合理主義の徹底した対立という構図とは 異なった,両者の妥協と和解といった枠組みの中 で,この対抗関係には解決の道が開かれていった と言われている10)。
もとより,そういった関係すらも単線的に形成 されていったわけではなく,さまざまな葛藤と紆 余曲折を経て,次第にある方向性が作られていっ たと考えるべきであろう。そのような動きを検証 しようとする時,取り上げられることの多い人物 に先に掲げたレッシングがいる。18世のドイツ で活躍した劇作家であり,当代を代表する啓蒙思 想家でもあったレッシングは,この時期,フラン
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スを中心にその位置を確立した市民劇をドイツで 確固たる位置に押し上げた創作家としても知られ ている。新興の市民階級を担い手としたこの市民 劇は,ディドロが提唱したことでも良く知られて いるが,それまで演劇の中で取り上げられること の少なかった市民を真正面から題材とし,極めて 写実的にその日常を描き出しながら,道徳観の涵 養などをテーマとして掲げており,まさに新し い市民社会にふさわしい演劇として18世紀ヨー ロッパ各地で定着していった。ドイツで最初の市 民劇と言われる『サラ・サンプソン嬢』を発表し たレッシングは,他方で,評論『ラオコオン』に よって,造形美術と文字による芸術,つまり文学 との差異を明らかにし,そのそれぞれの特徴に基 づいた特性を解析した。また,市民劇として喜劇
『ミンナ・フォン・バルンヘルム』によって,7 年戦争時の市民生活を精緻に描き出し,ドイツを 象徴するかのような高潔で真面目一点張りのプロ イセン将校が,敵方ザクセンの才知溢れる優美な 女性に惹かれる中で,その頑迷さが和らいでいく 姿を映し出していた。また,宗教を主題とした劇 詩『賢者ナータン』では,エルサレムを舞台にキ リスト教,回教,イスラム教が取り上げられ,皇 帝サラディンのどの宗教が最も真であるかという 問いに,賢者ナータンは,どれがということでは なく,その宗教実践において何が為されたかが重 要であることを説いた。世界の創始者としての神 の存在は承認しながら,その神の啓示や奇跡を起 こす力など神秘主義的要素を排除しようとする理 神論は,17世紀後半に,完全にではないにしろ 信仰の自由に道を開いたイギリスの宗教的寛容の 姿勢に示され,それがフランスなどに渡って時の 自由主義的風潮と重なりながら受容されていっ た。その道筋を確かなものとし,理論的な基礎を 築いたのがレッシングだと言われている11)。そ れはまた,理性に裏付けされた人間存在の意味を 重視しようとするヒューマニズムの考え方が,神 の絶対性の根拠とされた啓示や奇跡の存在を駆逐 していく過程でもあり,それを鋭い対抗関係の中
で果たしていくか,妥協的,和解的に進めていく かの違いはあったものの,この時期ヨーロッパで 着実に歩を進め,一定の成果をおさめていった。
レッシングはその代表だったのである。
合理主義万能の時代
ルネサンス期イタリアに端を発した人間尊重の 考え方は,そもそもがこれ以前の神の絶対性への 疑惑から発していたと言える。それは,神そのも のの存在というより,神秘主義のベールに包まれ ながら,神の絶対性を呼号することで,人々の信 仰の対象となることを企図していた教会勢力,あ るいはそのために駆使されたさまざまな道具立て に対する懐疑と不信,そしてその克服という形で 進んでいったと言える。その際,自然科学の飛躍 的な発達が預かって力のあったことは言うまでも ない。とりわけ,あらゆる物事の作用には,それ が起こる物理的根拠があり,そこには法則性が看 て取れることもしばしばで,決して神の摂理や超 自然的力によってもたらされたものでないことが 白日の下にさらされていく過程があったことが重 要である。そのことは,翻って考えると,人間を 取り巻く環境を成り立たせ,また,その存在の基 礎を為している自然に対して,その意味を再認識 することとも結びついていた。それは自然の猛威 にあらためて畏敬の念を抱くといった限定的な思 いにとどまらず,あるがままの状態,すなわち自 然状態を価値の源泉として位置づけ直す心性に結 びついていったのである。そしてそれはまた,人 間存在そのものを形作り,まさに人間を人間たら しめているその本性,つまり人間性への深い関心 と厚い信頼へと結びついていった。正しく人間 的な社会を構築するためには,何が為されるべき か。その問いは,政治,経済そして社会全体の構 造についての能動的な姿勢を生み出していったの である。さらにまた,人間尊重のこの思惟は,人 間だからこそ保有する,創造的態度の産物である 芸術,宗教,学問などへの力強い働きかけとなり,
他方,それらを思いのままに発露することの重大
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さに立ち至った時,それを抑え込む束縛からの解 放,すなわち自由の保障の希求へと結果していっ たのである。
先にみたように,こういった人間存在に価値の 基軸を置く考え,すなわちヒューマニズムは,イ タリアを経て中央ヨーロッパ,フランスへと展開 し,独自の営みの中で経験論的な発展を遂げたイ ギリスの思潮を含みこみながら,ドイツへと浸透 していったのである。その場合,そもそも初発の 契機に示されているように,それが科学的理論化 の特質を持っていたことから,そして,神の摂理 として神秘主義的に行われていたそれ以前を克服 するために,必然的に合理主義をその骨格として 展開することになった点が重要であろう12)。精 神世界の多くの部分を占めていた神への帰依は,
聖書と福音書と使徒に代表される象徴的なるもの への畏敬により,そしてその深さによって成り 立っていた。そこで語られる物語は,非日常的,
超自然的内容,すなわち非合理であり,それが神 の力を表徴していた。それゆえ,この克服を目指 そうとするならば,その方法は,合理主義の追及 によってしかあり得なかったのである。
先に触れたように宗教界におけるレッシング,
認識哲学におけるカントなど,この時期,多様な 領域で,中世封建制の遺制を批判し,その克服を 目指した一群のグループを啓蒙思想家と呼んでい るが,彼らは,自然と自由を思想形成の原点に置 き,それ故に人間存在に高度な価値を見出すこと によって,その根源たる理性に強い信頼を抱き,
またそこから発して,束縛からの解放を進めるあ らゆる行動,すなわち進歩の歩みを高く評価す る。そしてその行動原理の核として理性による合 理的判断が据えられたのである。余りに強固で頑 なな封建遺制との対峙の中で,熾烈な抵抗と戦い を余儀なくされた彼らは,そのため,合理主義に 拠り所を見出し,その徹底をひたすら追い求める ことになった。そのことは,抗する相手の強大さ との関係では致し方ないことではあったが,ま た,一方で,合理性を至高の価値であるかのよう
に錯覚し,一元的価値への傾斜という狭隘な道筋 に落ち込んでいく結果を招いた。そのため,次に は,多様な価値,とりわけ人間世界に当たり前の ように存在している非合理的なものに対するこれ までとは異なった向き合い方が模索されねばなら なかったのである。
啓蒙思想の歴史的役割
啓蒙思想家たちが活躍した時代は,封建遺制を 克服するために,人間理性に重きをおき,それゆ え自然と自由を武器として束縛からの解放を目指 したと言える。先に取り上げたボルテール,レッ シングはその典型例であった。周知のルターの宗 教改革も,自然状態を脅かし束縛しようとするキ リスト教会に対する抵抗が,自然主義に基づく価 値判断がその根底にあったという点で,共通項を 見出すことが出来るかも知れない。
この啓蒙運動は,また,自然で自由であるべき 状態を,宗教的権威や慣習によって束縛されるこ とへの抵抗であったことから,それは,今現在の 生産と生活を脅かす圧力を跳ね返す行動でもあっ たわけで,すなわち立脚点において極めて現実的 な問題であった。人間理性に基づく本来の在り方 が危胎に瀕しているのであれば,まずはその本来 の在り方をしっかり見つめ,認識し,その肯定感 に立って,現実に働きかけ,よりよい本来の状態 に戻す営みが取り組まれねばならない。
実際にこの影響を強く受けた代表的思想家とも 言えるゲーテの詩劇の多くには,今,自らが生き ている世界を讃え,その日常を立脚点として,す べての思考が始まることを強調する考えが随所に 見受けられる。この現実的な日常に重きを置く考 えは,来世利益を説き,そこに導かれるために は,求道者やそれが携える書,経典,器物などを 通じて,信仰を極めていくことを求めたキリスト 教世界に対抗する明確なアンチテーゼであり,だ からこそより強調されてその意味が提起されたと 言える。前時代に忌まわしいものとして排斥され た現世利益的観念は,このようにして肯定され,
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むしろ大切なものとして位置づけられていったの である。その点で,啓蒙思想が,キリスト教的来 世観の否定から始まっていることは間違いなく,
それだからこそ,現世的利益の追求に価値を見出 し,今現在の幸福を求め,現実生活をあらゆる意 味で豊かにすることを積極的に提唱すらしたので ある。この現実主義は,また,宗教観にも反映さ れ,唯一神から多神への移行を後押しする結果と もなった。全てが一に帰することの非現実性が 一度自覚されたことにより,唯一神からの脱却,
そして信仰の自由へと宗教的解放もまた進んでい くことになったのである。
このように,前時代の,超自然の神秘主義に拠っ た神へのひたむきな信仰を是とする考えは,自然 科学の発達をしっかりした後ろ立てとして,急速 に勢力を弱め,代わって,神の前にひたすら罪深 き存在で,それ故来世に救済を求めるしかなかっ た人間存在についての新たな価値の創出という大 きな転換を迎えることになった。そして,その拠 り所が弄られる中で,中世封建制以前への着目,
すなわち古典古代への関心の深まりと,そこでの 大きな発見が,その時代への回帰の道筋を作って いった。神からの脱却,それに代わって徹底した 人間中心の考え方が強まる中で,何と1千年以上 も前に,その点で輝きを持って打ち出されていた 伝統,文化が存在していたことを見出し,その再 生が試みられたのである。そしてそれが,さらに 研ぎ澄まされ,鍛えられる過程で,そのきっかけ を作った自然科学の発達の基本である合理的思考 にさらに磨きがかかり,合理主義絶対とも言える 価値観に収斂していったのである。それはまさ に,新興市民階級が,都市で力を蓄え,発言権を 増して行く際に,その裏付けとして獲得を目指し てやまなかった経済力,富の蓄積を実現していく 際の基本理念とも合致していたと言える。富を約 束する自由な経済活動,市民生活を豊かにする,
出来る限り束縛されない政治活動の獲得は,まさ に現実生活の向上であり,現世利益の追求によっ て果たされるものであった。そして,そのために
は,彼岸での幸福を目指して神に縋り,神の代弁 者やそれらが携える具物を崇めるといった営みで はなく,現実生活をしっかりと見つめ,合理的判 断によって,その充実を図って行く利益追求の姿 勢が承認され,価値基準の軸となっていったので ある。啓蒙思想の時代の現実主義,合理主義の背 景には,このような時代の変化が横たわっていと 言える。後にヘーゲルが,「理性的なものは現実 的であり,現実的なものは理性的である」13)と 定義づけたように,合理主義的判断は,現実生活 そのものとの関係性の中で意味を成してくると考 えられたのである。そのような中で育まれた近代 ヒューマニズムが科学性,合理主義に裏打ちされ ていたことはまた当然でもあった。
非合理的要素の取り扱い
前時代の神秘主義から合理主義への移行は,こ のように時代そのものをの大きく変化させる役割 を果たした。それだからこそ,啓蒙思想時代の合 理主義は,その徹底性を強く打ち出すことが必要 となり,実際にその方向で突き詰められていっ た。そしてそのことは,身の周りの全ての事象を 合理的に解釈し,説明することが必須であり,ま た当然でもあるとの風潮を生んでいった。しか し,18世紀も後半になって,いわゆるシュトル ム・ウント・ドラングと呼ばれた時代になると,
さしものこの合理主義万能の考え方にも翳りがさ し始めることになった。
もともと現世利益追求の思考経路によって,そ の大前提である市民的自由の主張に沿って,合理 性を高めることは,神秘的な存在としての神の呪 縛から逃れるためにも必要なことであった。そし て,それ故にまた,そこでは徹底性が求められる ことになったのである。しかし,この道筋は,当 然のことながら,比較的早い段階で限界に行き当 たり,行き詰まって破綻を来たすことになる。何 故なら,人間理性に対する絶対的信頼から始まっ たこの考えは,その本体の人間そのものが胚胎し ている非合理的なもの,すなわち感性,心情といっ
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たものの存在にも向き合わねばならなかったから である。人間が矛盾に満ち,徹底した合理性とは 縁遠い側面を兼ね備えている事実に突き当たった ところで,合理主義万能の価値基準は修正されね ばならなかったのである。そして,それは概ね,
悟性と心性,心情の問題として提起されることに なった。
この点についてヤスパースは,18世紀を代表 するヒューマニストであるゲーテを取り上げて,
「ゲーテはいかなる命題に定着した思想にも自己 を束縛されず,むしろつねに自己の根源的な眼ざ しを信頼し,何ものにも捉われることなく,矛盾 に身をまかす」14)と評し,完璧な合理主義を身 にまとって武装した姿ではなく,自然本来の姿に 立ち返り,多くの矛盾を抱えながら,感情のコン トロールも間々ならない在り方にこそ,本来的,
根源的なものが見出せ,信頼に足ると説明してい た。ゲーテ本人も,悟性による洞察の力に大きな 信頼を寄せながら,心情に身を委ねることの大切 さを指摘することも忘れていなかった。次のよう な言い方にそれは良く示されていた。
真の確信は闇から生ずるものです。悟性はも ちろん多くのものを洞察し決定しますが,決し て正しい点を射ぬくことはないのに対して,良 心の本来の住み家である心情は悟性よりも遥か に確実に許すべきものと許すべからざるものと を判断します15)
若き日のゲーテやシラーが担い手となって展開 したシュトルム・ウント・ドラングの時代は,行 き過ぎた合理主義重視の結果として,ともすれば 陥りやくすなっていた形式的秩序への傾倒を鋭く 批判し,文学活動を通して,人間の感情の解放を 唱え,そこから導き出される人間の独創的個性,
創造性をこそ重んじなければならないと訴えた。
このように,人間理性に重きを置き,そこを出 発点にした合理主義,悟性重視の考え方は,しか しそこに全てを委ねる形での物事の突き詰めには やはり限界があることを露呈し,その意味での修 正を余儀なくされることとなった。
主に芸術分野から出された批判に応えて,人間 理性とともに人間的なもの,すなわち感性,欲望,
好奇心といったものの意味が問い直され,それも また,人間的なものの表象として重要であり,そ の解放,多様な形での表現が人間的なるものの豊 かさ,深みを築き上げて行こうとする時,欠かせ ないものであることが確認されていった。
このことをゲーテは『ヘルマンとドロテーア』
の中で次のように表現している。
母なる自然から授かった欲望は,人間に害が ない限り非難したくないものです。悟性や理性 で知りがたいことも,天与の欲望がいやおうな しに連れていって知らせるということもある。
好奇心のいざないで,激しい魅力を感じていっ て,それでこの世のものが美しく,互いに関り あっていることが初めてわかるというもので しょう16 )。
人間の好奇の目が,あるいは感性的な触れ合い が,新しいものの価値を見出し,その美しさや人 間との関わりを明らかにしていくことの積み重ね が,また人間的なるものの幅を広げ,内奥への深 みを増していくと考えられていたのである。
まとめにかえて
15,16世紀のイタリアに源を発する近代 ヒューマニズムは,アルプスを越え,中央ヨーロッ パに展開し,フランスを経て,17世から18世 紀ごろドイツに流入していった。すでに宗教改革 を終え,キリスト教的文化,伝統の軛から解き放 たれていたドイツではあったが,領邦国家的特性 を色濃く持ち,地方割拠性の強い地政上の性格か ら, 色々な面で封建遺制は払拭されず,多くの 残存物を残していた。近代化過程を歩み初めてい たドイツに,思想的側面も含め,大きな影響を与 えていたのは隣国フランスであった。ヒューマニ ズムの流入に際してもそれは同様で,当代を代表 する啓蒙思想家ボルテールの果たした役割が大き かった。パリを拠点に百科全書派の旗手として旺 盛な啓蒙活動を行っていたボルテールは,多くの
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劇作,小説とともにエッセイ『寛容論』『哲学書簡』
『哲学辞典』などによりその主張を展開し,ヒュー マニズムの確立と普及に多大な貢献を果たした。
その影響を強く受けたドイツの劇作家レッシン グは,多くのヨーロッパ近代思潮とともに,ドイ ツでヒューマニズムを受け止める役割を果たす人 物となった。ドイツで初めての市民劇を手がける など,その進取の気性,能動的な性向は,また,
フランスからのヒューマニズムの流入にも,受け 手として重要な役割を果たす結果となったのであ る。もともと伝統的文化に固執し,頑迷ともいえ る守旧性を一つの特徴としていたドイツの文化的 風土に抵抗感を持ち,新たな精神風土との触れ合 いの中でそれを変革していく意志を持っていた。
劇作の中で,そのような志向性は主題として取り 上げられ,訴えとして表出されていったのであ る。また,宗教に対しては,形式化された信仰の 在り方に批判的であり,神秘主義のベールに覆わ れたキリスト教を否定し改革を進めることを提唱 し,理神論を掲げて宗教実践の意義を訴えること に奔走した。
イタリアを発したヒューマニズムは,ボルテー ル,レッシングに代表される啓蒙思想家たちに引 き取られ,フランスを経てドイツに流入してい き,その間にまた,その内実を鍛え,より豊かな ものを作り上げていった。神の絶対から人間理性 の尊重という価値基準の大幅な転換は,自らの現 実の在り方,すなわち日常の生活そのものにまず 目を向け,それをより豊かで充実したものにする ためには何が必要かを突き詰めていく,優れて現 実主義的思考の大切さに思い至したところから始 まっていた。自らを取り巻く環境について,その 全てを神の摂理で説明することをやめた時点で,
目の前の現実を先ず直視するというこの方法は,
すでに見出されていたと言える。
神の摂理からの脱却が目指される中での現実主 義重視の道筋は,そのため,現実への視点の据え 方と,そこに根差して自らの日常をより豊かにす るための営為として結果することになり,さらに
それを徹底する方向で鍛えられていった。神秘主 義,不合理なものからの解放は,合理的なものの 徹底によって成し遂げられるということである。
実際に啓蒙思想の時代は,科学主義,合理主義万 能とも言える徹底性を特徴としていた。ヒューマ ニズムについてもそれは同様であり,人間理性に 重きを置き,そこにおける価値判断を基軸に諸事 象を意味づけていくことが目指される中で,科学 的手法に基づく合理的判断は,もとより最重要な 手法であった。
このこと自体の正当性には疑いはないものの,
しかし,この合理性追求の徹底性は,またそれが,
過度に突き詰められることによって,その矛盾 に突き当たることになり,修正が求められること になる。だが,これはある意味当然のことであっ て,そもそも人間は器械でもなく,その存在その ものがかなり怪しい不安定さの中にあって,もと より完璧とは程遠い不整合部分を多々兼ね備えた 不完全な存在に過ぎない。だからこそ,より良さ を求めて,鍛えた科学に助けを請い,合理的判断 を下しながら,不完全さから生じる危うさ,過ち をできるだけ少なくしようと努めるのである。そ のことは一義的に非合理なものを排し,合理主義 に徹底することを意味しないのであるが,そのこ とを実態的に自覚するのには,一定の時日を要す ることになった。科学の長足の進歩や,それを裏 付ける合理的判断の有効性が,恰も完璧なるもの を目指して,もしかしたらそれを達成できるかも 知れないという錯覚に人間を陥れてしまったとこ ろがあるのではないだろうか。少なくとも,その ような方向に舵を取ることに重きを置く価値判断 をした時期は確かにあったと言えるだろう。それ だけ,科学性,合理性を高めることが多くの価値 を生み出し,人間を豊かにしているように捉えら れたのだろう。少なくともそのような実態があっ たことは確かで,それが科学万能,合理主義万能 の誤解を植え付ける結果となり,人間的なるもの の価値判断にも,その観点が適用されてしまうよ うな,ヒューマニズムの危機状況も現出されたの
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である。
そのようなプロセスを経て,しかし,非合理的 なものの存在の意味が再確認され,人間存在その ものがまさにその典型であり,だからこそ,人間 的なるものが魅力溢れる,価値高いものであるこ とが再認識されようとしている。悟性と心性と いった形で問題が立てられることが多いが,とく に心性の豊かな発露である芸術的な営みに対する 価値の再発見が,近代ヒューマニズムの担い手た ちによって果たされたことの意味は,繰り返し強 調されなければならない。そしてそのことは,本 来自然のままの姿で,自らの感情のコントロール すら間々ならない,不安定で危なっかしい存在で ある人間の本性にこそ価値があり,その解放され た姿,そしてそこから生み出される独創的な営み にこそ見るべきものがあることを明らかにしてい る。そしてさらに,ゲーテ,シラーはすでにこの ことに気付き,人間的価値の拠り所として高い評 価を与えていたのである。
注
1) 拙稿「現代ヒューマニズムの淵源を探る―
15 世紀イタリア・ルネサンス絵画を素材とし て―」 白梅学園大学・短期大学『教育・福祉 研究センター年報』19号 2014 年 8 月 2)本稿で現代ヒューマニズムの特質について問
題とし,その解明の一方法として,成立史的に ヒューマニズムを検証するのは,現代社会にお けるヒューマニズムの有効性を検討することを 目的としている。この点については,前掲拙稿 に少し詳しく触れておいたので,参照された い。基本的視覚は本稿でも同一なので,紙数の 制約もあり本稿では割愛した。
3)ヒューマニズムを対象とした先行研究は枚挙 に暇なく,ここで全体を取り上げることは出来 ないが,1950 年代を中心に研究が積まれた時 期の代表的文献としては以下のようなものがあ る。日本ヒューマニスト協会編『現代ヒューマ ニズム講座 20 世紀のヒューマニスト』宝文
館 1956 年,務台理作・谷川徹三・他監修『現 代ヒューマニズム講座 現代ヒューマニズムの 諸問題』宝文館出版 1969 年。また,ヒュー マニズム研究のもう一つのピークと思われる。
20 世紀末の一連の文献としては,やはり代表 的なものを挙げれば以下のようなものがある。
すなわち,ハイデッガー/渡辺二郎訳『「ヒュー マニズム」について』ちくま学芸文庫 1997 年,福井一光『ヒューマニズムの時代―近代的 精神の成立と生成過程―』未来社 1989 年,
村 瀬 裕 也『 教 養 と ヒ ュ ー マ ニ ズ ム 』 白 石 書 店 1992 年,深沢賢一郎『ヒューマニズムの 現在―混迷の政治の中にいる私―』郷土出版社 1995 年,竹田宏『ヒューマニズムの変遷と展 望』未来社 1997 年,都留重人『科学的ヒュー マニズムを求めて』新日本出版社 1998 年。
尚,ドイツ・ヒューマニズムについての先行研 究としては,主要な文献として以下をあげるこ とができる。木村直司『ドイツ・ヒューマニズ ムの原点』南窓社 2005 年,藤原定「ドイツ・
ヒューマニズム」務台理作・谷川徹三・他前掲 書。大村晴雄「18 世紀ドイツのヒューマニズ ム」山崎正一・串田孫一責任編集『近代精神』
第三書房 1949 年,曽田長人『人文主義と国 民形成―19 世紀ドイツの古典教養―』知泉書 館 2005 年 2 月,良知力編『資料ドイツ初期 社会主義』平凡社 1974 年。ここでは,藤原 論文に多くを拠った。
4)この流れについては,本論で後に詳述するが,
大きくは,15,16 世紀のイタリア・ルネサン スの時期を起点に,17 世紀に入ったところで 啓蒙思想の時代を迎え,その後,18 世紀にか けて人文主義の時代を迎える。その後は本稿で は取り扱わないが,19 世紀に入って新人文主 義の時代を迎えることになる。この時期のドイ ツ史の大まかな時代区分としては良く用いられ るが本稿でも概ねそのように捉えている。
5)ハプスブルグ家の統治時代については,稲野 強『マリア・テレジアとヨーゼフ 2 世―ハプス
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ブルグ,栄光の立役者』山川出版社 世界史リ ブレット 56 2014 年。
6)この点では,多くを参照させていただいた藤 原前掲論文をはじめ,多くの参考文献がドイツ として一国的に扱っている場合が多い。領邦国 家的特性について,どこまで分析の要素として 組み込むべきかは,さらに検討を加えたい。
7)フランスの作家,思想家で,1694 年パリに 生まれる。政府批判の著作物や風刺詩などでた びたび投獄,追放された。カトリック教会に対 しても終生批判的であった。1778 年没。
8)前掲拙稿「現代ヒューマニズムの淵源を探る」
9)後に少し詳しく見るように,フランスを経由 してドイツに流入した,ボルテールらのヒュー マニズム,合理主義のドイツでの受け手の役割 を果たした。1729 年,牧師の子として生まれ,
当初はライプチヒ大学で神学を学んだが,劇 評,劇作の道に進み成功を博した。演劇論も著 すなど,その活動は多彩で,晩年には独自の宗 教論も展開し,本稿にあるような活動を展開し た。尚,レッシングについては,安酸敏眞『歴 史と探究』聖学院大学研究叢書2 2001 年が 詳しい。
10)前掲藤原定「ドイツ・ヒューマニズム」
11)同前
12)この点については,前掲拙稿「現代ヒュー マニズムの淵源を探る」でイタリア・ルネサン ス期のヒューマニズムの特徴として掲げておい た。
13)ヘーゲル『法哲学』1821 年
14)前掲藤原定「ドイツ・ヒューマニズム」
15)同前。尚,引用は,山崎八郎・訳『ゲーテ=カー ライル往復書簡』岩波文庫より
16)同前。尚,引用は,国松孝二・訳『ヘルマ ンとドロテーア』新潮文庫
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