中国近代における文物流出と日本 貿易資料にみる 文物流出
著者 冨田 昇
雑誌名 東北学院大学論集. 人間・言語・情報
号 109
ページ 65‑92
発行年 1994‑12‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024090/
質易資料にみる文物流出
六 五
た
〇
はじめに一
中国は
近
代に至
り︑列
強による文
物の
略奪をうけたが︑
他方では特に辛亥革命による清朝崩壊後︑清室蔵品・
各親
王
家蔵品等を始めとする膨大且つ 一
級の
文物コ
レクションが︑
政治的混乱と経済的困窮によっ
て散逸し︑
さらに古美術商
の 手
を経て海外へ
と流出した︒
こうした辛亥期を中心
とする文物の
流出とは︑文
物を創造ないし蒐集
し
た主体である王
朝体制その
もの の
崩壊にともなう不可選 の
現象であっ
たが︑それはなによりも帝国の
没落を象徴
し
た︒
そして流出し
た文物を受け入れたの
は︑ 旧
秩序を崩壊させた近代欧米及び日本以外ではなかっ冨 田
昇
貿 易 資 料 に み る 文 物 流 出
中国近代における文
物流出と日本中国近代における
文
物の
移動史とは︑
こうした崩壊した旧秩序 の
側と滅ぼした近代列強との
間に繰り広げら れた︑美を巡
つての
杜大な﹁
売り立
て﹂ の
記録の
探求にほかならない︒
これを通して王
朝体制終潟の
もたらし た文
化的側面における波紋とそれを受け止
めた例えば日本との 文
化交流史における深層が︑
明らかにされるであろう
︒
ところで
︑
辛亥期を中心
とする日中交流史研究は︑
革命思想や運動の
形成において日本人の
果たした人的・
思想的役割
の
解明に主眼があり︑既に一
定の
蓄演がある︒
例えば近年の
研究では︑中国人が典拠・
参照した日本側
文
献が解明されるなど︑
より詳細な実証的段階に至つた︒
だが︑この
時期における﹁
物﹂ の
︵文化︶交流史となると︑殆ど白紙である
︒
︵ l︶確かに︑例えば中国陶磁史からは︑小山冨
士
夫による中国古陶磁の
日本流入につ
いての
概説があるが︑簡略︵2︶な
通
史であるし ︑
また古美術商広田不弧斎や原田悟郎の
回想録は︑興味深いエ ピ
ソードに富み有益だが︑なぉl3︶資料としては十分に生かされていない︒
更に往時の
骨董雑誌の
関連記事や近年の
山中商会にっ
いての
美術評論 などの
ように︑ 一
般に好事家的趣味性が濃厚に過ぎたり︑
詳細な実証的文献的裏付けを欠く憾みがある︒
当面の
課題につ
いては︑
美術史や中国陶磁史などからもなぉ十分な研究の
蓄積があるとはいえない︒
・小
論は︑
こうした古美術研究の
現状をも批判的に踏まえながら︑
日中近代交流史研究における﹁
物﹂ の
交流史
の
空白をうめるべ
く︑辛亥期を中心
とする文
物の
流出と日本へ の
流入に注目し
︑この
テーマ
を以下の
ような-
2-
東北学院大学論集人間
・
言語・憎報第-a
9号六 六
貿易資料にみる文物流出
六七
方法で可能な限り
実
証的に明らかにし︑
その
実態を究明し
たい︒
即ち︑
略奪を除く文
物の
移動を古美術商の
介在する
一
種の
貿易行為の
結果とみなし︑文
物を貿易品日
として対
象化することで︑
その
数量的統計化を図る︒
同時に︑新聞雑誌記事
・
骨董関連資料・
回想記などにより︑清朝崩壊に伴う文
物流出の
経薄と背景を考察し︑
更に実例に即して流出
の
多様な実態を明らかにする︒
また日本人骨- i
目心
中中山︑向に商注特に動商会の
をしとf
する当時
の
古美術販売展観日
録等により︑ 文
物流入の
状況及びその
内容を具体的に明らかにし︑分類を試みる︒
最後に現在の
著名コ
レクションの
内︑来歴の
明らかな戦前蒐収 の
名品を中心
にリス
ト化し︑それがいつ
どの
よ うにし
て我が国に将来されたの
か︑
現在に至
る文
物の
流転を振り返
る︒
以上
の
作業を経て︑
辛亥期を中心
とする中国近
代における文
物の
流出と日本へ の
流入を︑数量的にも内容的にもかなり実証的具体的に明らかにすることができよう
︒
更に︑
例えば中国古陶磁の
流入が︑
当時の
茶道中心 の
古美術観に対 し
て︑いかにして所謂鑑一質陶磁の 地
歩を固めていっ
たの
か︑こうした文
物移動の
もたらし
た美 術的文
化史的意義につ
いても︑
いささか考察を加えたい︒
なぉ本稿では
︑
さしあたり貿易資料を通 し
て文
物の
流出状況を分析することとし ︑
次稿においては日本人との
関わりを中心
にして文物流出の
背景と実態をさぐり︑
以下の
課題につ
いては︑それぞれ別稿を予定している︒
-
3-
東北学院大学論集人間・言語
・
情報第10 9号
六 八
第
一
章清室
旧蔵文
物の
概要
と流転本章では
︑
辛亥革命前︑清室
に歴代皇
帝によっ
て収
蔵された文物の
概要と︑それらが辛亥革命後
から台北故宮博物院
文
物として収蔵される間の
移動経緯及び散逸の
状況を︑ごく簡略に追つておく︒
それは紫禁城旧蔵品の
移動・
流出こそ︑
中国近代における文
物流出を象徴し︑
この
間題を究明するうえでかっこうの
導入になるか らにほかならない︒
-
4-
︿
書 画 ︶
清朝御物
の
書画日
録には︑
乾隆期を中心
にして三次に互
つて編纂された宗教画の
リス
ト﹁
秘殿珠林﹂
︵初編・
重編
・
三編︶
と一
般書画の
リス
ト﹁ 石
渠宝笈﹂ ︵
初編・
重編・
三編︶
とがあり︑いずれも蔵品を書画の
置かれていた宮殿ごとに分類
し
︑かつ
時代順に配列し
ている︒
こ
の
両目録により︑
乾隆初期にいたる歴代収
蔵状況︵
各初編︶や乾隆期における蒐集状況︵各重編︶が窺えるが
︑
いずれにせよ両目録
に著録された膨大な作品群が︑
清室 旧
蔵書画類の
骨子を成し
ている︒
なぉ
︑それら貿易資料にみる文物流出
六九
に著録されていない爾後
の
収集品や盛京・
熱河行宮旧
蔵品が加増分としてあり︑逆に建福宮一
帯の火災︵一
九︵4︶二三︶による千点をこえる消失や︑周知
の
ごとく廃帝薄儀が一
九二四年に宮城退出を余儀なくされる間︑弟薄一
5︶傑に下賜するとの
名目で︑千三百点にの
ぼる書画類を城外に密かに持ち出させるなど︑かなりの
出入りもあった
︒
こうした曲折を経ながらも︑二千点に近い唐宋元書画類と二千点前後
の
明代書画類を含む巨大な清朝書画コ
︑す故氏厳荘八際
︑
八遷南五物文
宮年れ成類画書に三形点二︑一
九三に及ばぶがよにをれがもるさンシクレョ ︵ 6︶︵7︶︵8︶搬送されたと言う
︒
なぉ台北故宮博物院登記組組長余城氏の
近年の
報告によれば︑現在同博物院には新収
增加 分以外に︑南京の 旧
中央博物院所蔵四七 七
点及び旧故宮博物院所蔵五︑五二・一 ︐
点の
書画類が収蔵されていると いうから︑結局南遷された故宮旧蔵書画類九︑〇〇〇点弱の
うち三︑
三〇
〇点程が︑本土に残されたことにな る︒
︵因に︑旧中央博物院は︑盛京・
熱河行宮旧
蔵品を主体にして紫禁城内に成立
した古物陳列所収蔵品︵後述︶
︵ 9
︶
の
うち︑故宮文
物と共
に一 九
三三年に南遷させた一 一 万
点余にの
ぼる文
物を︑・抗日戦勝利後に接収し
ている︒
言 い換えれば︑現台北故宮は︑ 旧
故宮蔵品及び盛京・
熱河行宮旧
蔵品︵古物陳列所から後中央博物院に一 一
用一︐ i
一 一
一一
︶より成り
立
つているの
である︵新収
増加分を除く︶︒
︶-
5-
東北学院大学論集人間・言語
・
情報第m
号七〇
︵ 図 書 ︶
清室所蔵
の
宋元明善本書は︑昭仁殿に収蔵され︑乾隆初期にはその
目録﹁
天禄琳環﹄が刊行されたが︑嘉慶初期
の
火災によっ
て多くを消失︑
その
後収集した分を含めて改めて﹁
天禄琳琅続編﹄が刊行され︑それには宋版二百三十部あまりが著録されていた
︒
︵l 0
︶現在台北故宮になぉ所蔵されている前掲続編著録
の
宋版は六十部あまりに止
まるようだが︑
その
多量の
散逸︵1 1
︶も
︑
書画の
場合と同じく︑薄儀が薄傑に下賜するとの
名目で︑宋版二百部ほどを持ち出したことによる︒
︵ 銅 器 等 ︶
書画
・
刊本をの
ぞき︑古器物で所蔵日
録がの
こされているの
は︑古銅器と硯の
みである︒
清室旧蔵の
銅器の
目
録には︑﹁
西清古鑑﹂ ﹁
寧寿鑑古﹂
﹃西清続鑑﹄︵甲乙
二編︶ の
三著があるが︑
いずれも乾隆期の
リス
トで四千点あまりが著録されている
︑
という︒
なぉ先の
荘厳氏.によれば︑銅器五七
二点・
銅鏡五 '一 七
点・
銅印一
六四六点
︑
計二︑七
三五 点 の
故宮旧
蔵品が南遷されたといい︑また前引余城氏の 報
告によれば︑
台北故宮には︑
新出土
の
もの
を除き︑
中央博物院旧
蔵品二︑七 一
六点︑故宮旧
蔵品二︑三九
三点の
古銅器が所蔵されているという︒
つ
まり南遷された故宮旧
蔵銅器類の
内︑三四〇点程が本土に留められたことになる︒
また乾隆後期までに内府 に旧蔵されていた二百程の
硯の
総目録に﹃西清硯譜﹂
がある︒
-
6︵ 陶 磁 ︶
陶磁器に関
し
ては︑ 日
録を欠いているため︑
清朝旧
蔵品の
総量や種類は不明だが︑ここでは台北故宮に移さ一
12︶れたもの
に限つて︑その
数量や種類を示し ︑
清室 旧
蔵の
状況を知るよすがとしたい︒
譚旦
間氏
によれば︑
所蔵 総数二三︑七
八〇
点とされ︑その
内清朝官一
器品が当然最多で一 万
数千点︑明磁は六︑七四四点︵
官窯品五︑四 四七
点︑
その
他一
︑二九 七
点︶︑
従つて明清合計で二万
点前後にの
ぼろう︒
残りが千五
百点程とされる宋元磁︑及びそ
の
他となっている︒
因に︑中国陶磁史の
二つ の
頂点を示す宋官察と清朝職那彩磁は︑前者が二一 七
点︑
後︵l 3︶ '者が四
〇 〇
点以上所蔵されているという︒
なぉ先の
荘厳氏によれば︑
南選
された故宮旧蔵磁器類は二七
︑八七〇
点とされ︑
また前引余城氏 の
報告によれば︑
中央博物院旧
蔵品が五︑ 九 〇
六点︑
故富旧蔵品が一
八︑ 〇
〇七点であるというから
︑
結局南遷された故宮旧
蔵陶磁器類の
内︑ 一 万
点弱が本土に残されたことになる︒
-
7-
︻ 文 物 移 動 ︼
以上に概観
し
たように︑
清朝文
物は特に乾隆皇帝の
大蒐集を通じ
て膨大な量に達していた︒
それが辛亥革命後程なく
︑ 内
務部の
管轄で旧
外朝部特に文
華殿・ 武
英殿等を基幹にして﹁
古物陳列所﹂
が開設されたが︵一
九︵1 4
︶
一
四︶︑
その
展示品はむし
ろ革命後に移送された盛京及び熱河行宮の 旧
蔵品が主体であった︒
また︑
教育部の
所 管で午門楼上に﹁
歴史博物館﹂
も開設されていたが︑例えば鉅鹿発掘品等の
学術資料を中心
にして展観されて貿易資料にみる文物流出
七
おり︑清
室 旧
蔵品とは直接関係しなかっ
た︒
こうして
一 九
二四年冬︑国民軍総司令憑 玉
祥の
実力
による宣統帝の
宮中退去
という事態を迎えるが︑
これを機に清
室
善後委員会が組織され︑これまで清室
私産とされていた内廷所在の
文物を接収し︑
その
管理・
調査
に︵1 5
︶
あ
たったが︑
翌年には数万
点にの
ぼる文物の
調査結果をまとめた﹁
故宮物品点査報告﹄を公表し︑あゎ
せて同年双十節を期して
旧
内廷に﹁
故宮博物院﹂
を公開し︑ここに清朝文
物の
精華が展覧された︒
そ
の
後︑
満州事変を契機に︑文
物の
南遷が決せられ︑一 九
三三年二月にはその
第一
回の
発送を終え︑同年五
︵l 6
︶
月
に至
る都合五
回︑古物陳列所の
蔵品をも含め総計二万
箱ほどに厳重に梱包された文物が︑ひとまず上海に送 られた︒
その
後三年を経て南京に︑更にその
翌年一
九三七年以後︑南遷文
物の
八割程が四川・
貴州に戦禍をさ けて疎開し ︑
漸く戦勝後一 九
四七
年基れに一 〇
年の
歳月
を隔てて全て南京に集結する︒
しかし︑
それも束の
間内戦
の
帰趨が決するや︑一 九
四八年十二月
より三次にわたり南遷文物の
精華︑
数量にして全体の
六分の 一
ほどに当たる三千箱弱
の 文
物が海峡を超え︑
遂に台湾へ
と至る︒ 残
余は︑故宮博物院南京分院に暫し留められ︑後 に大部分が北京故宮に回送された︒
こ
の
ように近
代以降︑歴史に翻弄された観の
ある清朝文
物であったが︑
この
間清室
自体がそれら文
物を銀行 からの
借入の
担保に当てたり︑
また皇帝を始めとする皇
族︑
高官・
宣官らが不正
に持ちだすなどの
ことがあっ た︒
さらに憑玉
祥︑張作一採ら軍閥による私物化の
噂︑果ては故宮博物院長︑
易培基に対する告発騒ぎ︵故宮舞-
8-
東北学院大学論集人間・言語・情報第
- 0 9
号
七
弊案︶等など︑清朝文物流出の風聞は︑ほとんど絶えることがなかった
︒
更にこうした故宮蔵品に限らず︑辛亥後困璃した各親
王
家らが︑家伝の
文物を担保に借り入れを起こしたり︑あるいは直接売却した
︒
また民間に害積された文物も散逸した︒
こうした事情に
つ
いては︑改めて次稿で詳述することになるが︑概ね以上の
ような経緯の
下に大量の
文物が 国内外に散逸することとなったの
である︒
その
直接的契機は︑言うまでもなく辛亥革命による王
朝体制の
崩壊 である︒
次章では︑本稿の
中心
的課題として︑これまで明らかにされることのなかった文物の
海外流出の
状況 を︑貿易資料を通して検討し︑その
統計化をはかりたい︒
g
̲
第二章貿易資料に見る
文
物流出状況これまで中国近代における文物
の
海外流出状況が︑数量的に示されることはなかった︒
というの
は︑例えば我が国
の
大蔵省が明治以来公刊している﹁
日本外国貿易年表﹂
にも︑骨- f
品の
品日
自体が見当たらず︑
数量的把握が困難であ
っ
たことによる︒
この
度︑在天津日本総領事館編築・
天津日本人商業会議所︵後︑天津日本商貿易資料にみる文物流出
七
東北学院大学論集人間・言語・一情報第
1 0 9
号七四
︵l7︶工会識所に改称︶刊行
の
大正二年より昭和十年に至る﹁
天津貿易︵統計︶年報﹂
及び在天津日本総領事館報告︵1 8
︶︵l9︶
﹁
重要支那品輸入額調﹂
と︑上海日本商業会識所︵後︑
上海日本商工
会識所︶刊行の 一
九一
六年〜一
九三一
年の ﹁
上海港輸出入貿易明細表﹂
︑更に東京商工
会識所刊行の
昭和二年度から同十五年に至る﹁
支那外国貿易統計表﹂
︵後︑支那を中華民国
︑
更に中華民国及満洲国に改む︶等々
に︑骨一
重品の
種目を見い出したことで︑概ね明治末 より昭和十年代中葉に至る同品日 の
統計化がようやく可能になった︒
これにより辛亥革命前後における文物の
海外流出状況が
︑
初めて数量的に示されることとなる︒
とりあえず︑次頁に天津・
上海の
骨一
重品輸出状況を示す表
一一
-l 1
︑および表一
-l 2
を掲げる︒
10
-
貿易資料にみる文物流出
七五
表fイ)
-
l 天津・
上海の骨近品輸出 (単位: 海関両)天津 上海 天津・上海
合計
中国全体 総計
年度
輸移出高 (含再輸出)
【a】
外国輸出高 (含再輸出)
【b】
外国輸出高 (含再輸出)
【c】
外国輸出高 総計
【d】
外国輸出高
【e】
明治42年 226,493 24
.
18743 44
270,164 14
.
98725427 283,626
379,856
45/大正元 54,996
2 531,234 50
.
5413 257,200 51,126
4 151,323 64
.
3065 365,673 165,160 513,495
425
.
918678,655
6 252
.
247 87,433 513,3517 83,934 28,829 77
.
9 l 9 106.
7488 224,905 20,166 457
.
27l 477.
4379 238
.
103 41,933 653.
843 695,77610 304,365 171,794 440,567 612
.
36111 219
.
947 113.
968 487,928 601,896l 2 417,278 154
.
926 723,328 878.
25413 360,687 123
.
404 961,946 1.
085,35014 261,659 143
.
866 945,6641,142,759
1,089
.
53015/昭和元 416,373 281
.
824 1.
424,583 1,468.
2422 5l3,558 325,456 1,139,l95 l
.
464,65l 1,534.
4663 585,082 454,806 1
.
105,120 1,559.
926 1.
606.
5304 585,540 467,598 950
.
125 1.
417.
723 1,497,600-
1i-
以 下 次 買 に 統 く )
5 320
.
679 268,600 795,455 l,064,055 l , l 6 8 , 6 l 46 362
.
315 687,529 1,049,844 1.
298,1107 220,777 752,396
8 (以一
F
l銀元)364
.
960 (以下,$銀)1.
130,8879 39l
.
590 1.
003,72910 561
.
915 955,80911 939,120
12 l,154,526
13 l,091,557
1
.
676.
986 1415 1,437
.
554表lイ)
-
2 天津・上海の骨通品輸出(単位 : 海 関 両 )
年度
天津,輸移出高 (含再輸出)
【f】
上海,輸移出高 (含再輸出)
【g】
天津・上海 輸移出高総計
【h】
昭 和 2 年 3 4 5 6
513
.
558 585,082 585,540 320,679 465.
5751,140,029 1,107
.
047 956,753 797,836 695,1451,653,587
1,695
.
l291,542
.
293 1,118.
515 1,160,720東北学院大学論集人間・言語・情報第1 8号
七六
はじめに︑表
一
-- 1 の
各項目につ
いて説明してぉく︒
︻ a ︼
は︑天津の
明治四十二年︵ 一
九〇 九
︶から昭和五
年︵一 九
三〇
︶に至る骨- l i -
品輸移出高︵
含再輸出︶︒
︻b
︼
は︑天津の
明治四十二年から昭和十年︵一
九三五︶に至
る同直接︵外国︶輸出高︵含再輸出︶︒
︹
︻ a
︼ ・
︻
b︼
とも﹁
天津貿易︵統計︶年報﹂
及び﹁
重要支那品輸入額調﹂
による ︺︻ c
︼
は︑上海の
大正五年︵一 九 一
六︶から昭和六年︵一
九三一
︶に至る骨董品︵直接︶外国輸出高︵含再輸出︶
︒
︹﹁
上海港輸出入貿易明細表﹂
による ︺︻ d ︼
︑前項はの
︻ b ︼
と︻ c
︼ の
和で得られる大正五
年から昭和六年に至たる︑天津・
上海両港における骨- i i -
品直接外国輸出高総計
︒
直品四に体五国
︻ e
に︵一 九 〇 ︶
全至中おけ骨重接︼
年十同は︑大正
末年昭和元年︵一
九二五︶
外るるから・
国輸出高
︒
-
13-
次に表1
- 0 l
2の
各項日につ
いて説明する︒
︒
致出再出至︑一
当の
︼︻該はれ年度︶分輸含︵︼ ︻ f
移には︑昭和二同輸年六津天にお高か年けるこるらとa
︹貿易資料にみる文物流出七七
東北学院大学論集人間
・
言語・情報第m
号 するが︑︻ a
︼
に欠
けている昭和六年分を補う ︺七八
︻
9︼
は︑同前期間の
上海における輸移出高︵合再輸出︶︒
︻ h ︼
は︑
前項︒
間計総高出移輸港両海上津天の ︻ f ︼
前︻ ︼ の
和期得れ同るでらとと・
9︹
商 1 1 の
︻ e
︼
及び表 S l 2 の
︑ ﹁ ︻ f ︼
貿国外︶国国民華中国民準那支︻ 全
︑︼
中は易満洲及て︵
統と9計表
﹂
による ︺次に以上
の
各項目に基づき分析を加えていく︒
先ず︑昭和二年〜同六年にかけて︑︻ c
︼即ち上海
の
外国輸出高を
︑ ︻
9︼
即ち同港の
輸移出高と比較してみると︑︻
9︼
がごくわずかに︻ c
︼
を上回るもの の
︑両者の
数値が殆
ど一
致し
ていることが知られる︒ こ
れは︑上海の
輸移出高の
殆ど全
てを占めていたの
が外国向けの
直接輸出高であ
っ
たことを示している︒
言い換えれば︑
同港は殆ど外国向け輸出専門港であっ
たの
である︒
︵︻
9︼
から︻ c
︼
を引
いた分が︑移出分にすぎない︶因に
︑
天津は︻ a 一 の
輸移出高と︻ ・
D︼ の
輸出高とを比 べ
てみると一
見して明らかなように︑国内向けの
移出港と
し
ての
性格を示し
ている︒
それは︑移出が圧倒的割合を占めていた明治末年から大正
初期にかけてはもとより︑後年にいたるまで基本的に変化
し
ていない︵後述 ︶ ︒
-
14-
次に︑昭和元年から同六年にかけて︑
︑体国全国中即
︼ ︻
計総高出︼
輸外両津接上直港海の
ち天ち即︻ d
とe ・
の
直接外国輸出高とを比
較すると︑︻ e ︼
がわずかに大差
︑
両︻ d
数がいがに値の ︼
者の の
回上
分なこをもるとかる
︒
これは︑中国全 土
における外国向け直接輸出高の
殆どをし
めていたの
が︑
天津・
上海の
両港であっ
たこ とを示し
ている︒ つ
まり︑骨- l i -
品の
外国輸出は︑
天津・ 上
海両港にほぼ独占されていたの
である︒ ︵
従つて︑︻e ︼
から
︻ d ︼
を引いた差額が︑
天津・ 上
海両港以外の
外国輸出高の
総計となる︶
以上
の
分析により︑
大正 五
年から同十
四年における中国全体の
直接外国輸出高は︑
天津・
上海両港の
直接輸出高
の
和であ
る︻ d ︼
と大差ないもの
と推測してよいであろう︒
そし
てこれに︻ e
︼
を加えれば︑大正五年から昭和十
五
年に至
る直接輸出高がほぼ明らかとなる︒
また︑同前期間における中国全体
の
輸移出高- - ︑
出即天和高外出高輸上国︑
直接の の
海移輸の
津ぼほちとと︻ a ︼
十︻ c
︼
で窺えようし︑
それに続く大正
十四年から昭和六年にかけての
同移輸出高は︑︻
h︼
即ち天津・
上海両港
の
輸移出
高の
和でほぼ推測されよう︒
以下では︑ 更
に詳しく天津・ 上
海両港の
輸出状況を分析する︒
-
l 5-
︻ 天 津 ︼
先に示
し
た︻ a ︼ ︑ ︻ b ︼
によると︑明治四十二年から大正
四年に至
る七
年間で︑同港の
輸移出高総計は二一 〇
万
両ほど︑
年平均で三〇 万
両ほどとなるが︑これに対 し
直接輸出高総計は二八万
五千両余り︑年平均で四万
両賀易資料にみる文物流出
七九
次に大
正 五
年から同九年に至
る五
年間では︑輸移出高総計一 一
六万
両ほど︑年平均二三万
両ほどであり︑こ れに対し直接輸出高総計は三四万
三千両︑
年平均六万
八千両余り︑
輸移出に対する直接輸出の
割合は二九 ・
五%
に増加している
︒
'更
に大正
十年から昭和六年に至
る一 一
年間では︑
輸移出高総計四四五万
両︑年平均四〇 万
両余り︑これに対して直接輸出高総計は二八
七 万
両弱︑
年平均: ー
ハ万
両で︑輸移出に対する直接輸出の
割合は六四・
五%
まで上昇
し
ている︒
ここで改めて上記三期間
の
年平均額を比較してみると︑輸移出高では︑明治四十二年〜大正
四年が三〇万
両で︑次
の
大正五年〜
九年の
二三万
両よりむしろ高く︑大正十年〜昭和六年の
四〇万両余に比しても際立
つた差があるとはいえない
︒
明治末期から昭和六年に至
る二一
:年間
の
物価上昇分等を考慮すると︑
かえって明治末から大
正
初期に至る絶対額の
大きさが注意されるし︑特に大正
二年即ち辛亥革命翌年の 五
三万
両が突出しているの
が日
を引く︒
次に直接輸出高でみると︑明治四十二年〜大
正
四年まで四万
両と低く︑
輸移出に対する割合も一
三・
六%
に止
まっているが︑
大正 五
年〜九
年で六万
八千両余となっ
て前期間の 一 ・ 七
倍に增え︑
輸移出に対する割合も二九 ・
五%
になっている︒
更に︑大正
十年〜
昭和六年では︑ : ー
ハ万
両となり︑大正
五年〜九年に比しても三・
八-
16-
東北学院大学論集人間
・
言語・悄報第109号余りとなり︑輸移出に
対
する直接輸出の
割合は一
三・ 六 %
に止
まっ
ている︒
八
〇
倍に增え︑輸移出に対する割合も六四
・
五%
にまで急激に上昇している︒
即ち
︑
天津は︑明治末より昭和初期に至
る期問︑年次毎の
輸移出高でみると︑
著しい增加があったわけではなく
︑
また当初直接輸出高自体も︑
その
輸移出にしめる割合もともに極く低かったが︑徐々
にその
比率を高めてゆき
︑
ことに大正十年以後は額・
割合とも急激に上昇し
た︑といえる︒ っ
まり︑
天津は︑
当初圧倒的に移出中
心
であっ
たの
が︑
次第に輸出中心
に重心
が移行していったの
である︒
17
︹各国
別
輸出
︺.さて以下では︑次頁に掲げる表
0
E l︶
により︑
天津の
各国別
輸出高を検討する︒
買易資料にみる文物流出
表(ロ) 天津の骨
iff
品各国別輸出( 単 位 : 海 関 両 )
年度/国別 英国 独国 仏国 米国 日本
明治42年 3
.
204 l,492 8,58343 3,401 l l
.
08344 102 24,392
45/大正元 46 1,406 52,755
2 73 11 49596
3 276 678 42
.
0614 52
.
8515 2,849 161
.
7376 19,963 65,165
7 307 24
.
8948 1,3l4 16
.
9409 21,899 16
.
14810 1
.
692 126818 57811 16,440 12,290 1,658 29,535 36
.
08112 28,85l 4
.
475 1,748 55,349 52.
09313 20,117 146
.
197 8,059 l7,123 17.
91314 45
.
895 8.
618 6.
299 21,997 50.
61415/昭和元 115
.
688 12,74l 15,157 37,237 88.
8132 43
.
325 68,906 34.
230 68.
898 74,3053 41,670 73
.
394 5l,023 138.
24l 115.
1884 43
.
020 50,841 60,617 142.
506 142,2425 10
.
546 20.
173 21,194 83.
406 1l0,1616 7
.
440 23.
295 30,054 142,276 74,1447 8
(」,1
11l i
屋常元)
49.
828 17.
707 28.
528 132,885 80,7759 65,055 1,917 37,548 148,040 71,374
10 139,497 12,357 67,633 234,049 39,995
-
18-
東北学院大学論集人間・言語
・
情報第1 0 9
号
八
貿易資料にみる文物流出
八
右表によれば
︑
明治四十二年から大正八年まで︑輸出の
絶対額こそ低いもの の
︑直接外国輸出額に占める日本
の
割合は︑七 〇 %
台〜 九 〇 %
台を維持してぉり︑この
間日本は天津における骨- i f
輸出をほぼ独占していた︑
といえる
︒
それが大正
九
年︑
十年位に︑
米国向けの
輸出の
割合が急激に高まっ
たの
を契機にして︑
同国に対する輸出は︑大
正
十三︑ 十
四︑
十五年にやや低調であっ
たもの の ︑
それ以後は日本に拮抗するか︑
徐々
に日本をかなり大幅に上回るようにな
っ
ている︒
即ち︑直接翰出高
の
絶対額が急激に上昇し
た大正
十年前後を境にして︑それ以前は日本向け輸出が圧倒的大 部分を占めていたが︑
それ以後は米国向け輸出が急激にシェアを伸ばし
︑っ
いには日本を凌無したの
である︒
最後に︑
後 表 一 一︵二一 頁
上︶により︑
大正 五
年から昭和六年に至
る各国別輸出高の
総計でみると︑日本は一
〇
五 万
両ほどで︑この
間の
直接輸出高の
総計三二一 万
両に対字る割合が三二・
六%
となっ
て第一
位︑次いで米国が
九 一 万
両で二八・
三% ︑
以下︑
独国一
三・ 一 % ︑
英国一 一 ・ 七 % ︑
仏国七 ・
二% の
順である︒
この
五カ国総計が二
九
八万
両で︑直接輸出総計にし
める割合も九
三%
に達し︑圧倒的な数字となる︒
即ち︑天津における骨
一
重品輸出は︑
右五
カ国でほとんど占められ︑
特に日本と米国が突出し
た比率であったといえる︒
-
l 9-
東北学院大学論集人間・言語・情報第10 9
号
八 四
︻ 上 海 ︼
上海では︑大正七年を除くと︑大
正
五年から同十一
年までほぼ横這いで︑概ね四〇万
両を中心
に推移し︑同十二年より增加に転じ︑ピーク時
の
大正十五年から昭和三年にかけては一 一
〇万
台となり︑ほぼ当初の
二・
五倍に增加している
︒
上海の
特色は︑先に検討したように︑何といっても殆ど直接輸出が占めていたことで︑
むしろ当初移入港として
の
性格が濃厚であった天津と好対照をなしている︒
大
正
五年から昭和六年の
期間で見ると︑左表-n
により︑上海の
直接輸出高総計は︑一
︑一 五
〇万
両に達し︑天津
の
同総計三二〇万両の
実に三・
六倍ほど︑同港の
輸移出高総計五六一 万
両に比べても︑ほぼ二倍となってい る︒ つ
まり︑骨重品の
直接輸出に関しては︑上海こそがメッカであった︑といえよう︒
20
-
︹各国
別
輸出 ︺ここで︑次頁に掲げる表
い
により︑上海の
各国別輸出高をみておく︒實易資料にみる文物流出
八五
表
t ::11
天津・上海の骨置品各国別輸出総計(単位:海関両)
大 正 5 年 ˜昭 和 6 年 天津 上海 計
全輸移出総計 5,615
.
605全外国輸出総計 3,212,078 11,508,062 14,720,140
(以下5ヵ国別内訳)
日本 1
.
047,016 270,886 1.
317,902米国 909,718 7
.
228,467 8,138.
185英国 (大正10˜) 374,684 l , l 0 5
.
944. l,480,628仏国 (大正11
˜
) 230,039 1,117,152 l,347,191独 国 (
″
) 420,930 239,171 660,101五ヵ国総計 2,982,387 9,961
.
620 12.
944.
007表0l 上海の骨重品各国別輸出
(単位:海関両)
年度/国別 英国 独国 仏国 米国 日本
大正5年 12,950 l 0
.
88l 434.
555 453516 8
.
331 3,161 379,376 28.
2677 735 2
.
786 42,317 12,8618 93
.
467 82.
469 210,360 130849 127,754 12
.
497 57.
539 327,765 1528310 72,172 945 46,983 177,l12 22842
11 66,322 2,766 22,920 325
.
l35 11,06112 700,008 5,523 69,945 478,497 8,301
13 14
73
.
650 16,949 69,432 692,176 2,34693,257 26
.
578 94.
322 580,112 15272l5/昭和元 89,720 7,984 132
.
506 778,325 16.
3302 87,339 84,557 91,626 742
.
407 16,8313 108,656 36,798 165,507 629,9l8 19,293
4 80
.
323 18,751 106,236 570,014 111735 66
.
109 16,326 69.
342 462,314 20,5836 54
.
651 9.
497 91,497 398,084 12,008-
21-
こ
の 表 い
と表一
目から示されるように︑この
上海において︑
圧倒的シェア
を占めたの
が米国向けの
輸出であっ
た︒
即ち︑
大正 五
年から昭和六年でみると︑この
間の
米国向け輸出高総計は︑
実に七
二三万
両弱で全体の
六三%
を占め︑二位
の
仏国一 一 〇 万
両ほど︑九・ 七 %
を大きく引
き離している︒
三位は英国で九・
六%
︑因に日本は二
七 万
両︑
二・
四% ︑
独国は二四万
両︑
二・ 一 %
であるが︑日本の
その
額は天津港の
それの
二五%
にすぎず︑これによって日本向け
の
骨一
重品輸出の
主要な基地
は天津であっ
たことが判明する︒
なぉ前記五
カ国総計で九
九六万
両︑上海港全
直接輸出総計の
八七 %
を占めている︒
さて最後に︑表
-
により︑同右期間中の
天津と上海の
直接輸出総計は︑ 一 ︑
四七
二万
両となるが︑この
うち米国が八
一
四万
両で全体の
五五 %
と圧倒的な割合を占め︑日本・
仏国・
英国は︑一
三〇万
両から一
四〇万
両でそれぞれ九
% 〜 一 〇 %
でほぼ並んでいる︒
因に︑
独国を加えた主要五カ国の
総計で一
︑二九四万
両となり︑全総計
の
八八%
を占めている︒
即ち︑こ
の
期間を例にとると︑
前記主要
五カ国が︑
中国文
物の
輸出をほぼ独占し︑とりわけて米国がその
過半を占め断然突出していたことが明らかとなった
︒
-
22-
東北学院大学論集人間・言語・情報第
1 0 9
号
八 六
賀易資料にみる文物流出
八七
お わ り
に・以上
の
検討により︑明治末期より昭和十年代中葉に至
る︑中国文
物の
流出状況が︑数量的に示されたわけである
︒
その
結果︑この
間の
年次毎の
貿易量の
推移と文
物の
流入先およびその
量がここに初めて明らかにされた︒
既に見たように
︑ 王
朝体制の
産物に他ならない中国文
物は︑皮肉にも清朝と言うより王
朝体制その
もの
を崩壊へ
と導いた近代列強の
国々
︑英・
独・
仏・
日・
米の 主
要五
カ国に殆ど流入したの
であっ
た︒
とりゎ
けて米国に その 過
半がもたらされたの
である︒
もとよりこう
し
た統計上の
数字が︑
どの
程度に実態を反映しているの
か︑ 一
般的にいっても疑間であるし ︑
まし
て税関上実際の
取り引き額が極めて反映しにくい骨董品の
場合はなぉ
さらである︒
おそらく不正
は常態化し
︵20︶ていたの
であ
ろう︒
その
意味で︑
本稿で検討した数字は︑
その
精度の
点では当然保留付きの
もの
であるが︑
に もかかわらず︑
特に文
物の
各国別流入の 概
況につ
いてはおそらくかなり正
確に実態を反映しているもの
と思わ れる︒
ここでは︑
数字の
精度を追究
するよりは︑むしろ数字の
示す全体の
傾向︑
その
中に込められている基本的事実関係を見い出せば︑さしあたり
足
りるであろう︒
-
23-
-
24-
東北学院大学論集人間
・
言語・f
青報第m
号八 八
一
一
員易資料にみる文物流出八九
便宜である
︒
︵6︶楊仁一
置前掲書︑P五三〜P五四︑参照︒︵ 7
︶荘厳著︑筒井茂徳
・
松村茂樹訳﹁
過老が語る故宮一 一 一 一
物院﹂
︵二玄社一
九八五年︶﹁
六故宮の文物の箱詰めと南方へ
の迎搬
﹂
P一
九二︑参照︒
﹁
取﹁
︒︵ 8︑文物︶刊号九一
九故三尚︑同院宮創版に蔵文物の語点検総て︵日本っ
蔵概の類画番要主物所い博﹂
照︶参年要﹂
は︑現在刊行中の
﹁
故宮書画図録﹂
︵台北故宮-
︒
︑︶で蔵一 一 一一 -
画類の概要は︑れ所富故因が京でに現北現るきとこうこもa ;
在刊行中の
﹁
中国古代就一
画目録﹂
第二冊︵文物出版社︶︑及び﹁
中国古代書画図目﹂
で知ることができる︒
︵9︶劉北.- l 9
﹁
故宮一搶桑﹂
︵南粤出版社・北京故宮博物院紫禁城出版社︑一
九八八年︶﹁
接管古物陳列所﹂
によると︑古物陳列 所蔵品のうち︑南遷されたもの一 一 一
︑五四九点︑北京に留められたもの八八︑二〇二点という︒︵1 0︶呉哲夫
﹁
故宮宋版- !-之旅﹂
︵国立故宮博物院﹁
故宮文物月刊﹂
三一
民国七四年︶P八七に故富的栄版
- l l-
︑經-
E
位選帝有一 一
-測的一偸盗︑存在的爲酸已極爲有限︑以後從天識一球一
規一的殘餘並各宮殿的收-l lf
︑加上内関大1i !-的七種殘巻
一
起計算︑只有六十九種而已︒
とある︒
︵1 l
︶薄儀前掲
- l
﹁
内部衝突に﹂
-! 古版書一一
約方面︑乾清宮西昭仁殿的全部宋版明版書的珍本︑都被我們速運走了︒運出的證
大約有⁝⁝二百種上下的宋版 番︒とあり︑また一
消室普後委員会が 皆屬琳環秘一期︑繰-t a
構品︑天識番日所-9
a一
插三編所收︑押其精華︑大都移理富外 としたのに対して︑﹁
通是一
點不錯的﹂
と管定している︒︵1 2
︶︵1 3
︶
一
那旦間﹁
論官- --
﹁
種︵故富刊甲之一
二十︑国立故録一 一
藏一
︑從故宮的收説起︵陶瓷所〇年収︶︑七国民l
院物博宮一
︶﹂ ﹂ m f
参照︒また