1 夏目漱石「文展と芸術」 1912(大正元)年の第6回文展では、「瀟湘八景」と「近江八景」という漢和両様の八景画 が三人の画家から出品されて少なからぬ話題を呼んだという。例えば、その会期中に二度も足 を運んで見物したという夏目漱石は、次のような反応を残している。 ○広業大観二氏は両方とも「瀟湘八景」を見せてゐた。二人が隣り合せに同じ八景を並べて ゐるのは、八 はつ 景 け 好 よ いやといふ洒落の様にも見える。が実際両方を観て行くと、丸で比較に も何にもならない無関係の画であつた。 ○広業君のは細い筆で念入りに真面目に描いてあつた。ことに洞庭の名と (ママ月) いふのには、細か い鱗の様な波を根限 こんかぎ り並べ尽して仕舞つた。此子供の様な大人のする丹念さが、君の絵に 一種重厚の気を添へてゐる。自分は先刻茄子の葉を見て、多少御苦労の様な感じを起した。 然し此波に対したときは、善く倦まずに是丈の結果を画面に与へられたものだと敬服した。実 際此波は馬鹿気て器械的に描かれてゐながら、眼界を非常に大きくする効果を有つてゐる。 夫だから子供のやうに働らきのない仕事でありながら、遂に貴重な努力になり終せるのであ る。尤もそれが色彩と相待つて始めて達し得られた結果である事は云ふ迄もない。 ○そこへ行くと広業君の画は大観君に比べて個性がそれ程著るしく出てゐないやうに思はれ る。(中略)大観君の八景を見ると、此八景はどうしても明治の画家横山大観に特有な八 景であるといふ感じが出て来る。しかもそれが強ひて特色を出さうと力めた痕迹なしに、 君の芸術的生活の進化発展する一節として、自然に生れたやうに見える。(中略)此八景 はあんなものから見ると活きてゐる。横山大観君になつてゐる。それを説明すると暇 ひま が要 るが、一言でいふと、君の絵には気の利いた様な間の抜けた様な趣があつて、大変に巧み な手際を見せると同時に、変に無 ぶ 粋 いき な無頓着な所も具へてゐる。君の絵に見る脱俗の気は 高士禅僧のそれと違つて、もつと平民的に呑気なものである。 ○今村紫紅君の「近江八景」も此所に並んでゐた。是は大正の近江八景として後世に伝はる かどうかは疑問であるが、兎に角是迄の近江八景ではない様である。 (夏目漱石「文展と芸術」) ― 234 ―
「 八
は つ景
け好
よい や 」
―「近江八景」と近代文学―
水墨表現に対して、漱石自身は古風な好みの持ち主だったのかもしれない。寺崎広業と横山 大観とを並べて後者の独創性を支持したのはさすがだとしても、審査員でもあったその二人の 八景に比べれば、斬新さにおいてはるかに一頭地を抜いたと思われる今村紫紅の八景に対して は、明らかに冷淡さを隠していないためである。それにしても、明治から大正へ移行したばか りのその年に、こうして同根の大画題が惜しげもなく出陳されたというのは、何とも豪勢な話 ではないか。上野の森で、漢と和とが四つに相渡った図と称せよう。 2 井伏鱒二「神屋宗湛の残した日記」 ところで、これだけ広量な画題がわが国に定着するに至った経緯については、中国からの 「瀟湘八景」図が初めて将来された室町時代にまで遡り、その受容史を辿ってみなければなる まい。わけても、南宋の禅僧画家牧谿 もっけい と玉澗 ぎょくかん の諸作は、将軍足利義満や義政の愛蔵するところ となり、元は巻子仕立てだったものが八幅に切り離されて、桃山、徳川の将軍、大名、茶人た ちの間に広く伝世され、それが、当代の画家たちにも並々ならぬ影響を及ぼしつつ今日まで伝 承されてきたというわけだ。本家の中国に亡んだ現在でも日本に存する所以である。 次に引くのは、博多の豪商で茶人の神 かみ 屋 や 宗湛 そうたん が、間一髪で本能寺を脱出する際に、牧谿の 「遠浦帰帆」を持ち出したという挿話の一節である。 その次の日、十七日の朝の茶会には、床の間に「瀟湘夜雨」の軸が掛かつてゐた。その 前々日には、牧谿の「煙寺晩鐘」の絵があつた。この日記を読む者は、宝の山に入つたや うなものである。 宗湛は天正十年六月、まだ二十歳代のとき織田信長に招かれて上洛し、折から本能寺を 足だまりにしてゐた信長を訪ね、たまたま明智光秀の乱に遭つた。信長が宗湛に「お前は 博多の田舎に居たのだから、ろくな絵は見てゐないだらう。明日は、ゆつくり掛軸や道具 を見せてやる」と云つた、その直後のことであつた。明智光秀の謀反だと注進があつたと き、信長は「是非もない」と云つたさうだ。宗湛はぐつすり眠つてゐたところ、時ならぬ 矢たけびの声と銃声で目をさました。すぐ動乱だとわかつたので、床の間の掛軸を取りは づし、ぐるぐる巻いて腰に差し、南蛮寺に辿る道を逃げて行つた。信長の下僕、弥助とい ふアフリカ生れの黒人が道案内をしてくれた。 (井伏鱒二「神屋宗湛の残した日記」) その後、この一幅は、宗湛が隠居の際に徳川家康に献上するまで、彼の秘蔵に帰していたと いう。 さて、旧教科書類に名残をとどめている「近江八景」の一点一点が、こうした詩画受容史の さらにはるかな後 こう 裔 えい に当たるものであることは改めて断るまでもあるまい。 ― 235 ― 第Ⅲ部 戦前の旧教科書にみる近江の人物、近江八景
「瀟湘八景」 「近江八景」 山市晴嵐 粟津晴嵐 漁村夕照 瀬田夕照 煙寺晩鐘 三井晩鐘 瀟湘夜雨 唐崎夜雨 遠浦帰帆 矢橋帰帆 洞庭秋月 石山秋月 平沙落雁 堅田落雁 江天暮雪 比良暮雪 ここに見えるのは、中国文化への素直な憧 どう 憬 けい であって、基本的には、上野の森で漱石た ちのながめたものとほとんど同一軌道上を運行する運動体の一つだったといえるのではあ るまいか。 (寺横 武夫) ― 236 ― 図1 長等山三井寺勝景略図(大津市田中喜久栄氏所蔵)