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「諸国百物語」成立の背景

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「諸国百物語」成立の背景

著者 太刀川 清

雑誌名 紀要

28

ページ 1‑7

発行年 1973‑12

URL http://id.nii.ac.jp/1118/00000878/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止

(2)

長野県短期大学紀要

﹁諸国百物語﹂成立 の背景

百物語とは盲物語怪談会のことである︒臆夜転人々が集い怪談に興じる戯れで

ある︒戯れといっても長い歳月のうちにいつか享楽的な催しに展じたもので︑そ

打さきは怪を祈る其面目な習俗であったやら知れない︒

百物語の起源はと問われるなら不明というより仕方がない︒﹁和憐怪談評林﹂

︵正徳年間︶に﹁育物語といふ事何の代より始たると云伝たしかならず︒又何人

ず﹂とあって︑そのさきを明かにしない︒なにを根拠に中古を起源というのであ

ろうか︒ただ﹁嬉遊笑魔﹂︵文政十三年︶には﹁首物語といふことも是巡物語な

がら怪事を語る戯なり﹂︵巻九二言語︶と託して百物語のそのさきを巡物語転あて

ようとする試みもあるがこれもさだかでない︒巡物語とは中世の法文集﹁三国伝

記﹂所収のものによると︑法談に集った人々が宵の月待ちの間を慰め合うために

語りあった法文ならぬ雑談であったようである︒

﹁古き番には見え侍らず﹂という通り︑育物語ということばをはじめて見るの

は江戸時代に入って寓治二年刊行の﹁百物語﹂なる書名であり︑また同じとし刊

行の﹁御伽物語﹂︵とのゐ草トモ︶の﹁官物話して蜘蛛の足をきる事﹂︵巻二︶の

条の官物語の催しが最初であるが︑ここでもその起源にはふれず︑すでに既存の

習俗としてあらわれてくるのである︒

昔より人の云ひ伝へし怖ろしき事怪しき事をあつめて官話すれば︑必ず怖ろ

しき事怪しき事ありと云へり︒首物語には法式あり︑月暗き夜︑行燈に火を

点じ︑其行燈は背き紙にて張り立て︑首筋の燈心を点じ︑一つの物語に燈心

一筋づゝ引き取りぬれば座中漸々暗くなり背き紙の色うつろひて何となく物

焼くなり行くなり︒それに語り統くれは必ず怪しき事︑怖ろしき事現はるゝ

とかや︒︵伽妹子巻十三︑怪を帯さば怪至る︶

これが育物語の法式の大概であるが︑なおその場にょってはまた別のしきたりも

あった︒﹁面々皆背き小袖を著て﹂︵伽妹子︶臨んだり﹁灯をl筋づつ消しては鏡

をとりて我顔を見る﹂︵怪談老の杖︶といった趣向もあってまちまちであるが

﹁宗祇諸国物語﹂︵兵事二年︶で伝えるものは一段と詳しい︒

此の寮の作法とて人のいひしは︑一間なる所に︑其の連衆こもりぬ︑戸の口

にひしと鎖をおろし燈に灯心首筋入れ︑育紙を以て閣燈に用ゆ︑扱座中のひ

とりひとり両手のおや指を一つ所によせてしとどくゝり︑働く事を待ざるや

親指を一つ所によせるのは魂を奪われまいとするつもりであったか︑いずれにせ

よ怪談会である以上それに相応しい雰囲気をかもし出すために案出された当世人

の知恵の産物であったであろう︒それに雨そぼ降る晴夜という白魚の景物まで添

かかる法式そのものがすでに怪談の素材となることは勿論であり︑加えて官話

に及んで怪事が起こるということになると怪談としてなお相応しいものとなる︒

こうして育物語は怪談文芸に好んでとりあげられるところとたったのである︒

例にょって無柳の徒が百物語をはじめて︑九十九に話がすすんだ︒壷の戊の

が酒杯をかわしながら不思議のあらわれるのを待っていると︑天井から﹁ここへ

も一つ﹂と大きな手が出た︒居あわせた一人が刀を抜いて切りつけると蜘暁の手

が三寸ほど切れて落ちたという︒﹁御伽物語﹂巻四﹁百物語して蜘敗の足をきる事﹂

の育物語の場面である︒この作者は勿論怪談のつもりでしるしたのであろうがこ

れを笑話と解せば解せなくもない︒天井の化物が下の酒宴をみて﹁百噺するうち

(3)

ばけものは待ってゐる﹂︵柳樽︑十二︶わけにいかず︑﹁ここへもlつ﹂と大きな 手を出して酒を請求するなど立沢なおちをもった笑話である︒後日の首物語を素

材とする小職の類はすでにこのへんに胚胎するのであろうが︑それを切りつける

と蜘蛛の手が落ちる︒そこで怪談となるのである︒こうして百物語の催し自体そ

の結果いかんで怪談ともなれば笑話ともなるという性格をもっていたのである︒

同じ蜘蛛の怪でこの話と同趣のものに﹁曽呂利物語﹂巻二﹁足高蜘蛛変化の事﹂

というのがあるが︑その切り落されたものがこれは足あれは手であったという適

いだけではなく﹁六十許りなる女鉄寮をつけ髪のかすかに見えたる四方に乱し︑

彼の男を見てけしからず笑ふ﹂と変化のものが姿をあらわすと︑それにもまして

.怪談となることはいうまでもない︒﹁御伽物語﹂と﹁曽呂利物語﹂のこの二つの話︑どちらをどちらの粉本と考え

︵ 注 ュ

るべきであろうか︒それはとにかく︑ほぼ時代を同じくして百物語を扱った二つ

の態度があるのに心ひかれる︒そしてこのことは怪談と笑話がいつも同居してい

たことの証左でもあるのである︒

一体︑江戸時代はじめにあっては︑今日怪異小説と呼ばれている作品は揃って

﹃咄本﹄として分析されているのが書籍日録の通例である︒たとえば﹁増補書籍

日録﹂︵寛文十年︶や﹁古今審籍日銀﹂︵延宝三年︶では﹁伽妹子﹂︵寛文六年︶

も﹁曽呂利物語﹂も﹁醍睡笑﹂﹁仕方咄﹂同様に﹃咄本﹄の車に分類されていた︒

それが﹃咽本﹄と訣別して一類をたてるのほ貞享二年の﹁広益書籍日録﹂からで

ある︒なぜに﹃咄本﹄に入れて分類するかといえば︑怪異小説が単に諸国の寄事

異聞を蒐めたものといい︑また怪談会で話されたものの薬療であるという序既を

そのまま信じてのものであるが︑つまるところそれが難詰集であったからにはか

ならない︒そしてその雑話の集成がやがて怪談に結びつくものと笑話に結びつく

ものに二大別されていくのも自然のなりゆきということになる︒

そのことから百物語を名告る作品として﹁首物語﹂と﹁諸国官物語﹂が江戸時

代のはじめにあらわれたことは理由のないことではない︒

その一つ︑﹁諸国百物語﹂は延宝五年四月の刊行である︒序文のおわりには次

のようにいう︒

当囁すでに冒物語と云双紙あれども︑わらんべのもてあそび草にして出所正 しからず︒今此双紙はその国々の諸人も聞および見及びたるはなしの覆拠ただしきをあつめ五巻として諸国首物語と名付くとしか云︒いうところの﹁官物語と云双紙﹂とは萬治二年刊の﹁首物語﹂を指す︒そして作者は﹁育物語﹂所収の説話を﹁出所正しからず﹂とし︑それに対して﹁諸国百物語﹂のそれを﹁産拠ただしき﹂ものなりと自負するのである︒

一体︑﹁官物語﹂の説話を出所正しからずというわけは︑たとえば﹁一休諸国

物語﹂の作者が﹁l休はなし﹂や休閑東はなし﹂の作を指して﹁それ世上に

同名のはなしの書共済ありといヘビも是をもって実義ならず﹂休諸国物語︑

序︶と評したのと同趣であり︑つまり﹁聞きしにまさるからロ﹂休はなし・序︶

﹁いつあり塵じりのむかし物語﹂︵l休閑東はなし・序︶というかるロでありいつ

わりばなしと同義と解しているのであって︑いうところの﹃咄本﹄なのである︒

万治二年刊の﹁百物語﹂は百物語を名告る最初のものであったが︑その名に百

物語を名告り︑話も上下巻各五十話と官話を収めながら怪談集ではなかった︒百 物語といったのはさまざまの話を官話集めたという位のつもりであったかも知れ

ないが︑怪談とは凡そ似ても似つかない雑詩集であったのである︒

例にょって人々集って﹁冒物語をしてこわきもの出づるかとこころみて後の世

のためしにせむ﹂と怪談会をはじめたが予想に反して官話になっても何の変事も

起こらなかった︒人々は昔の人はなんともたわいのないことをいったものかと嘲

笑していると︑その座にいたこぎかしき男が﹁ただ今咄し給ひし其中にこわきも

の出たり︑かの奴がきたりし衣裳の色々を見給はずや牛首布かたびら︑のりこは

しのしぶかたびらみなこわきものなり︑おさまりし此御代にこれよりこあきはな

し﹂というのである︒

それは下巻の最後の話で革の奴鋸南兵衛のいでたちのことで﹁其たけ六尺あま

りの男上にはふと布のしぶ染に七八百がのりをかい︑皮のふと帯しかとしめ︑熊

の皮の長羽織︑其直な大小十文字にさしたるけしき身の毛もよだつばかりに侯﹂

といったそのさまでこわきものとは怖しいものではなく︑堅いものの意で語呂合

わせと酒落たものである︒はじめおわりをこんな形でおさえたこの﹁首物語﹂は

勿論怪談集ではなく﹁醒陸笑﹂や﹁きのふはけふの物轟﹂に旅する笑話雑詩集で

あったことはいうまでもない︒

﹁諸国百物語﹂が怪談集であるためには︑﹁伽妹子﹂の例にならっても﹁琵拠正

しき﹂説話を収めるものでなければならなかったのである︒そして後託の百物語

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長野県短期大学紀要

が怪談集であるために是非ともl言しなければならなかったのもここであサたか

﹁それが中に艶なるあり︑哀なるあり︑おかしきあり怪しきあり︑おそろしきあ

り︑是彼琵拠正しきをぬき音きして﹂というのは﹁諸国新嘗物語﹂︵元禄五年刊︶

であり︑﹁あやしき物語どものそれが中にも出所正しきをのみ集て﹂編んだのが

﹁太平首物語﹂︵享保十七年刊︶であった︒

なぜこれほどまで出所や証拠に固執するのか︑怪異小説なる故に︑それが怪異

の実在を読者に訴えるに効果あることを考えてのことは勿論であろう︒しかしそ

れにもまして混沌とした説話の世界にわずかに見せたジヤソル意識のあらわれで

﹁諸国首物語﹂におくれること三年︑延宝八年に﹁咄物語﹂なる一作が出た︒

咄︵ほなし︶と物語をl諸にしたかの︑この書名には作者の意園するところが含ま

れていた︒咽と物語の区別を明かにしようというのである︒序文には︑つれづれ

なる雨の夜を物語をして慰めあおうと作者の幸億がまず物語をはじめた︒いわず

もながの冒物語の形式である︒辛佐の話がおあるや居あわせた人達は大笑いして︑

物語せんと申さるゝ程に︑耳を澄し閉居たれは恩ひの外の戯言なり︒さやう

の事を咽とこそいふなれ︒世の時にもまことしからぬ義を人のかたれば︑夫

ははなしにこそあらめといふにて弁へしられよかし︒

と諭される︒咄といわれたそのわけは︑﹁音義所に夜更て盗人来り﹂ではじまる

この帯で具体的な時︑所を明かにしない︒かわってする物語なるものは﹁朱雀院

の御年平将門といふ人有﹂ではじまる一語はその時︑所を明かにする︒そして

﹁かやうの出所有事を物語といふなり﹂と出所正しき︑迂拠正しきか香かを物語

と咽の区別の根拠にしているのである︒

この考えに従えば﹁諸国冒物語﹂は物語であり︑怪談集であるためにも︑琵拠

云々をもって咽とは区別されなければならなかったのである︒ちなみに貞享二年

の書籍目録では﹁諸国百物語﹂は﹃物語煩﹄に﹁百物語﹂を﹃咄の煩﹄に分類し

ていることはいうまでもない︒

他方︑冒物語に諸国なる語を冠せることも意味ないことではなかった︒諸国と

はその話を諸国にもとめたという単純なものではなく︑近世人の知識的意欲を象

徴するものであるが︑その諸国を書名に付すことは︑lにこれが諸国物語をもの

す意識にも通じるのである︒諸国物語につけば﹁一休諸国物語﹂がある︒刊年の

明かでない本番も魔文十l年以降延宝三年以前のものであることは確からしい︒ 一供宗純︑の逸話を背景に諒国行脚に於叶も見聞に配して敵国の話霊草のやあサ

姿勢をみることが出来る︒﹁l休諸国物語﹂につぐ﹁宗祀諸国物語﹂︵貞事二年︶

の刊行もそう遠いさきのことではなかった︒

盲物語にして諸国物語である﹁諸国百物語﹂は居ながらにして諸国行脚という

旅の体験をももち得ようという趣向と見てよい︒﹁今此双紙はその国々の諸人も

聞および見及びたるはなし﹂︵諸国冒物語・序︶というのは︑居ながらにして諸

国物語をものす意識のあらわれにほかならないのである︒

︵ 注 ∩ ︼ ︶

﹁諸国百物語﹂の紹介はかつてなされていた︒しかし中村幸彦氏の紹介された

九州太宰府天満宮の御文庫のものは惜しいかな巻一を欠く零本であったらしい︒

しかるに近時︑別の一本を国立東京博物館の蔵本の中で見る機会を得た︒天満宮

所蔵のものは大本五巻五冊本であるかにいわれるが︑管見のものは五巻十冊︵各

巻二冊︶︑しかも形は半紙本である︒奥には﹁延宝玉丁巳卯月下旬京寺町通松原上

ル町粛畳七郎兵衛板﹂とあるのは天満宮献本と一致するようである︒思うに管見

のものは半紙本十冊という体裁から刊記をそのままにした戟版であったであろう

か︒刊記転入木のあとありゃと見るにそれもさだかでない︒官話をもって完とす

るのほ文字通りの百物語であり︑加えてすべて怪異談ということは名実ともに百

物語の春名に相広しい斯界の第一作であったのである︒

﹁諸国育物語﹂は序文に証すところにょると膚州諏訪の浪人武田信行が両夜の

つれづれ堅二四人の伴と冒物語を行った際のはなしを睾きしるして梓行したもの

であるという︒

はなし九十九に及び灯心もいまl筋になったとき天井で大音響がして灯が消え

た︒すかさず信行が落ちたものをとりおさえて︑明かりをつけてみると大きい衣

服であった︒人々はひときは大笑いするのである︒

天井より落ちた怪異が大きい衣服であったというのは︑何のことない笑話に近

いもので︑たとえば﹁当世軽口うかれはなし﹂ ︵兵事二年版書籍目録所収︶に

今宵百物語をして見んとてほなしを仕いだす︒大かた九十七八はなすと案の ごとく二階なりわたる︒さてこそと患う処に天じゃうのいたふみやぶり大き

なるあしだしたり︒あほやと云ふてにげけり︒のちにきけばばけ物にはあら

(5)

ず︑下おとこのたきざをとりにあがりしが︑とりはずしておちたるとなり︒

と似たようなものであるが︑違いは恐れて逃げ出す人々と︑恐れずそれをとりお

さえた信行の豪胆さにある︒

かつての首物語怪談会は多く練胞の意図があっていまだ享楽的な催しにだけに

とせまるところではなかった︒﹁拾椎雑話﹂︵宝暦七年序︶に伝える延宝のころの

首物語は次のようなものであった︒

延宝のころにや︑若きとき今宵本境寺の堂にて百物語いたすべき云けるを外

聞し先達堂の下にかくれ居たり︒案のごとく誰彼来り官物崇しけるに︑縁の

下より手を差いだして足をしかと返りたり︒足をとらへられて少しもさはが

ず小刀にてその手を突き︑それより這ひ出て名乗り互に大成云ふに成たるよ

こうして官物帯は怪談紅よる胞だめしの格好の場でもあったのである︒﹁それは

血気盛んの若人武士などは好ましかる﹂︵諸国新嘗物語・序︶ものであり︑時に

ほ﹁中々気弱き者は絶入し︑囁きも出づべき計り﹂︵宗祇諸国物語二二︶のもの

もあったゎするのであって︑つまるところ﹁是にて人の強弱を見る事﹂︵拾椎雑

話︑六︶が首物語の催しであった︒そして殊に武辺ではその豪胆さが大きく賞賛

されたであろうし︑そうでなくとも胞大き人には必ずそれなりの報いがあったで

あろち■﹁諸国官物寮﹂の最終話はそうした態度にもとづくものであるが︑官話

日は﹁官物がたりして富貴になりたる事﹂︵巻五︶である︒

京五条の堀川の米農八郎兵衛が商取引で大津へ出かけた留守に子供たちが近所

の子供を交えて百物語をはじめた︒話が四五十になると大方は帰り二三人となり︑

さらに八九十になると︑この家の惣領だけになってしまったが︑惣虜は﹁はけ物

のしやうたい見んための官物がたりなるに︑むけうなるものなる事也︒さればわ

れ一人に首のかずあわせん﹂とつづける︒官話になって用便にたつと十七八の女

があらわれ︑われはこの家の主であったが産のため死んだものであるが︑あとを

弔うものもいない︒是非千部経を読んで枚しいという︒惣領はこの家は貧困故に

出来ないと断ると︑女は瀬戸の柿の木の下に金子が埋めてあるからといって消え

た︒翌朝︑親の八郎兵衛にこのことを話し︑早速柿の木の下を凍ってみると小判

百両があったのでこれでねんごろに弔ってやった︒それからというものほ商売は

繁昌も下京一の米屋檻なっ七といぅ︒ 雷物語故にめでたく富貴となったのはのもの﹁御伽冒物語﹂︵宝永三年刊︶の巻末の﹁黄金の精井首物語果て宝を得し事﹂にも通じる一話で︑その人の豪胆さが幸いを招いたもので︑巻末をかざるにふさわしいものであった︒

﹁諸国百物語﹂におさめられた説話が育物語怪談会の際のはなしをあつめて上

梓したものといえながらも︑それは仮託であったかも知れない︒しかしここに百

物語の話が集成されたというだけでも史的意義は認めてよいところである︒それ

だけに作者は怪談会に相応しい話をもとめていたことは﹁諸国百物語﹂の話のい

くつかが既刊の﹁曽呂利物語﹂によっていたことでもわかる︒

﹁諸国百物語﹂と﹁旨自利物語﹂との間には次のような説話の関係を認めるこ

調

l

l

雨竜の関係椎大凡以上で点り︑すべては﹁諸国官物歴巻一に蘭係する︒﹁曽

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長野県短期大学紀要

ったであろうことは︑寛文はじめのものと考えられる無刊記の﹁和漢客籍日録﹂

にはその記戦がないからである︒

﹁曽呂利物語﹂がいかなる性質の説話集であったか︑それはほしがきで常呂利

という雑談の上手が秀膏の前で語った話を﹁近習の人々是を書きとめ﹂たもので

あるという︒秀青の面前でそのお伽衆の曽呂利が語った伽の話とは思いつきそう

な仮託である︒しかも﹁曽呂利物語﹂所収の話がきわめて語りの口調があったこ

︵ 注 4

とは﹁御伽物語﹂との比校考察から明かであることからして︑﹁諸国育物語﹂の

作者がここで﹁曽呂利物語﹂の話を帯めたことは怪談金での詰虹相応しい語りの

表現を期待することが出来ると考えてのことではなかったか︒それにまた﹁常呂

利物語﹂は﹁ある夜大樹︵秀吉公︶のまへにておどろくしき事を語れとのたま

ふに十づゝ十に及べり﹂︵ほしがき︶というところは百物語の形式すらふんでい

さきにあげた﹁諸国百物語﹂の説話を﹁曽呂利物語﹂のそれと比較すれば︑わ

ずかの語句をかえるにとどまり︑行文殆んど同じである︒ちなみにに開巻第二話

の﹁駿河の囲板垣の三郎道げんの物に命をとられし事﹂と﹁常呂利物語﹂のこれ

また巻一の第一話﹁板垣三郎高名の事﹂を併記すると次のようである︒

板垣三郎鹿名の事

駿河国大もり今藤ときこえし人︑府中に 在城したまひけるが︑ある夜つれ′仲\忙家 の子らうどうを集め酒宴数刻に及ぶ時︑さ

てもたれか有る︑今夜千本の上の社まで行

いて来らん︑とのたまひければ︑ひごろ事

がらをあらはす者多しといヘビも︑これは

聞ゆる魔所なれは︑あへてまゐらんといふ

着なし︒愛に甲斐国の住人に板垣の二面と

て代々弓矢をとっては隠れなき勇者あり︒

すなはも私こそ参り候ほんと申しあぐる︒

大もりなのめにおぼしめして︑やがてしる 艶河の国改定の三郎遺げんの物に命をとられし事するがの国の住人に儀本といふ人あり

あるよのつれ′ぐー紅

家の子らうどうをあつめしゆゑんゆふ叶う

をせられし折ふし儀本仰られけるはたれ忙

しもあれ此内にせんげんの上のやしろまで

こよひ行たらんやとの給へは︑日ごろてが

らをいふものどもおゝしといヘビも是はき こゆるましやうのすむ所なれはたやすくみ

て参らんといふものl人もなし︒要に甲斐

の園の住人板垣の三郎とて代々ゆみやをと

りてかくれなく︑ぶゆうのはまれある人あ

しをたぶ︒板壇は大剛の者にて少しも恐る

ゝけしきなく︑殿中よりすぐに千本へぞ参 りける︒頃は九月中旬の事なれは月いとし U

を過ぎて︑石だん封通りけるが︑杉め木叫

落ちけるが︑あやしみこれを見る忙へぎ

雪 盲 l

山彦にこたへ野しく聞えけるを不.忙息ひ

て一礼してしるしの札をたて置き帰りし

が︑いづくともなく白きねりのひとへを被

きて女房一人来れり︒奴は晋に脚きつる変

化の甥が心をたぶらかすらんと息ひ菅

よりて破きたるきぬを引きのけて見れば︑

引司村到矧対叫村引刑漸掴郡司魂痢引d

1

U︒きれども板垣少しもたゞよはず何もの なれは︑とて太刀をぬかんとすれば︑かき

消す如く先せぬ︒不審なる串ながらせんか

るしを立てて帰りさふらふ御検便をたてて

御らん候へとまうし上ぐる︒まことに板垣

にてなくは︑叢なくは帰らじと一同に感じ

あへり︒扱何番にもあひ供はぬかと御尋ね

有りければ︑いや何事も怪しき啓は御ざな

きと申す︒かかりける所に座敷も隈なき月 の夜なるが︑俄にかき曇り︑ふる両軍袖を

流しける︒酒宴輿を失いをけふし︑虚空忙

しはがれ声していかに板東1引割田痢萄朝

腹を何とて指みあり慧召︑俄梅せよとよ

︵ 以下 略

りけるが︑それがし参らんと申︑俄本なの

めならずおぼしめてすなはもしるしを給は

りけれは︑板垣は御前をたち︑大こうの人 なれは物ともせず︑すぐに浅間へまゐられ ける︒ころは九月中旬のことなれは月さへ

わたる森のうち嵐はげしき落葉のおとすさ

まじき山みちを心はそくもすぎゆきて︑

上の塵しろの御ま

へ忙しるしな立をき帰られける︒かかる所

へいづくともなく白きねりのひとへきぬを

かづきたる女ほうに行あひたり︒鉦はおと

忙きくへんげの物我を心みんとおもふにや

と霊はしりかかるを︑岬瑚割引叫劇鋸

のけて見れば︑まなこは一眼にてふりわけ

がみの下よりもならべる角はかずをしらす

うすけしやうにかねくるくつけ︑おそろし

も故老はさはがずして︑なにものなれはと

て贋の刀に手をかくれはけすがととくにう

せにけり︒霊はしづかに立かへり儀本の

上れば︑御前の人々板垣なれはこそつゞが

なくかへり候とをのをのかんじあひけり︒

改めづらしき事はなかりけるかと御尋ねあ しもくまなき月の夜にはかにそらかきくも

おびただし︒一座の人々儀本をはじめけう

にていかに誓ざんげせよ′\とたからか

によははりける︒

︵ 以下 略

(7)

引用の長きを厭えばこれでとどめるが︑このあとは風雨はげしく吹きあれ︑危

難を感じた板垣を植︵諸国盲物語では長持︶の中に入れ︑夜の明けるのを待って

蓋をあけてみると板垣の姿はなく︑虚空でどっと笑う声がしたので走り出て見る

と板垣の首を縁におとしておいたという︒わずかの語句の他は異同のみられない

両者の比較をあえてこころみるのは類似を指摘するのが意図でない︒先行作の

説話をもってする怪談会のはなしらしいところをみょうとするからである︒怪談

会といえども自己の経験を生のまま語ることだけではなかったであろう︒時には

身近かな怪談集に依存しながら語りすすめられたのではなかろうか︒とすればそ

の過程でいくつかのありがちな懐向を知ることが出来るはずである︒

いうまでもなくその場合話者の関心は先行作の怪異の様態にある︒それも表面

にあらわれたところにひかれてそのさまを忠実にうつそうとする︒そのため︑表

にあらわれない趣向などたとえそれが説話の核心にふれるものであっても往々見

落されてしまうのである︒即ち引用文に従えば﹁曽呂利物語﹂で板垣が上の社に

赴く途中の変事︵傍線揖︶は﹁諸国首物語﹂ではすべて省かれてしまっている︒

その結果板垣がもどって酒宴なかばにして俄かにあたりがかき重り雨が激しく降

る虚空から﹁いかに板垣さきに我等が腹を何とて贋みわりけるぞ俄悔せよ﹂とい

う個所の︵傍線㈱︶の﹁さきに我等が腹を何とて贋みありけるぞ﹂の部分が﹁諸

国百物語﹂では当然省かれてしまうことになる︒これではなにゆえに板垣が俄悔

しなければならのか明かでないばかりか︑葉さいここが一話の核心であるだけに

その趣向を生かすことが出来ないのである︒

即ち板垣が非業の最期をとげなければならなかったのは︑このへぎ板一枚︵こ

れは神慮にかかわるものであったであろう︶を倣懐にも踏み割った報いによるも

のである︒そうした肝腎の個所をすべて省きながら︑﹁諸国百物語﹂は表面にあ

らわれた怪異の様態をば忠実にうつし伝えているのである︒︵傍線㈲︶︒こうした

ことは作者の著作態度の安易さを詰られるところかも知らないが︑怪談会での話

ということになればこれも一つの傾向として許されなければならない︒

しかしいかに先行作に依存したからといっても話者は自らを全く埋没させてし

まうわけにはゆくまい︒そうしたときにもっとも安直な方法が末尾に付される評

語なり感想なりである︒﹁曽呂利物語﹂と﹁諸国冒物語﹂の関係語をみると必ず

そうした手法をみかける︒巻一の例の板垣の話にも微妙なちがいがある︒ 阪塩が首を線上に落してけり︒かかる不思議も有ることにこそ︵曽呂利物語 ︶板垣がくびをゑんの上へおとして︑そのすがたはみへずなりにけり︵諸国百

怪異の姿を明かにしない前者に対して後者はその姿を認めたかにしるしている︒

こうして一座はまたその怪異の形相からはじまろうというものである︒

そうした手法にはいろいろある︒

○座頭辛き命助かりて斯くぞ語り侍るとぞ︵曽呂利︑三11︶

○座頭はあやうき命をたすかりやう′︵\都へ帰りけると也︒此脇指三条小かぢ

がうちたる銘の物なるゆへにきどくありけると也︒︵諸国盲物語︑一Ⅰ±︶

○何事にもよらずよろづ高慢なるものわざはひに蓬へることこれに限るべから

ず︒︵曽呂利︑ニー七︶

○これより道弥日本一のをくびやらものとなりけるとなり︒是も道弥あまりに

かうまん有けるゆへ天狗のなすわざわなりけるとぞ︒︵諸国百物語一−三︶の

ように怪異変化の由来を明らかにすることもあろう︒また︑

○前の友達に逢ひ爾々と語りければ︑各手柄の程を感じける︒彼の袋に入れた

る物は如何なる物にかありけん知らまほし︒︵曽呂利︑三1三︶

〇着の人々にはじめをわりを物かたりして件の袋をとり出して見ければ金子盲

両ありけると也︒それよりのもは此壕なにごとなしといひつたへ侍るなり︒

のように先行の話が明かにせずして伏せたところを暴露することもあろう︒また

自分で納得のいかない場合は﹁いかなるゆへともわきまへかたLLといい︑﹁曽

呂刑物語﹂で離魂病によるというのも︑それにかえて﹁かかるふしぎもあること

にぞ﹂︵巻一Ⅰ十一︶と不審のまま残そうとする︒これまた怪談会での即興とい

うべきで︑いかにもその唐に相応しいものといわなければならない︒

はなしから文芸作品がつくられる︒これは怪異小説の成立についてまず考えら

︵ 荘5 ︶

れるところである︒しかしその作品から再び低次の話がつくられることもあった

であろう︒﹁諸国百物語﹂の場合がそれである︒﹁曽呂利物語﹂によって成った

﹁諸国首物語﹂そこには所謂文芸的成長のあとが見られると思いきや︑事実はそ

の反対でより素朴な話としての性格を見るのは比較に於いての通りである︒

怪異小説をひもとくと類誌と目されるものがきわめて多い︒そしてその殆んど

(8)

長野県短期大学紀要

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が語句の改変や趣向の安易な変更程度のものである︒塀話が多いということも怪

異小説の成立過程から明らかなことで︑怪談会や御伽を背景として成立するとい

う作者の言はそのかぎりでは素直にうけとられなければならない︒﹁曽呂利物語﹂

と﹁諸国百物語﹂の関係をたどれば︑その感を強くするのである︒

﹁諸国首物語﹂はのちに﹁諸国新百物語﹂という追従作を生む︒元禄五年のこ

とである︒もっともこれは既刊の﹁御伽比丘尼﹂︵兵事四年︶ の改題本であった︒

五巻にして二十二話︑話数も百物語に忠実でなければ︑﹁幾なるあり︑京れなる

た︒従うところは﹁産拠正しき話﹂という点だけであったのである︒

︵注1︶ 両替の関係については拙稿﹁怪談の係累﹂︵北大近世文学研究会報二六号︶参

照 ︒

︵注2︶ 中村幸彦氏﹁秋成に描かれた人々﹂︵国語国文・昭和三八年六月号︶

︵注3︶ 頴原退蔵氏﹁近世怪異小説の一源流﹂︵園雷国文・昭和十三年四月号︶

︵注4︶ 拙稿﹁酋畠利物語の袈現−主として御伽物語との関係から﹂︵可呈嬰祢・五号一

︵注5︶ 拙稿﹁怪談会から怪異小説へ﹂︵国語国文研究二一四号こ昭和三八年二月︶

参照

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