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音楽科教育における伝統音楽指導に関する試み       〜琉球民謡を中心に〜

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平成23年度  学位論文

音楽科教育における伝統音楽指導に関する試み       〜琉球民謡を中心に〜

  兵庫教育大学大学院 学校教育研究科 教科・領域教育学専攻 芸術系コース(音楽)

    M102011小那覇真弓

(2)

      凡例

・引用文献、参考文献及び資料名を表す場合は『』を用いる。

・引用部分は「」を用いる。

・引用・参考文献及び資料については著者、出版社、発行年を明記する。

・人名の敬称はすべて省略する。

(3)

       目次

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  1

第1章 沖縄伝統芸能の概観

 第1節 沖縄伝統芸能・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  3  第2節 琉球民謡と三線・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  20

第2章 音楽科における沖縄伝統音楽指導の現状

 第1節 学習指導要領・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  35  第2節 全国の沖縄伝統音楽指導の実例・・・・・・・・・・・・・・…  49  第3節 沖縄県教員へのアンケート調査・・・・・・・…  1・・・…  57  第4節 沖縄県南城市立大里中学校の事例・・・・・・・・・・・・・…  84

第3章 沖縄県立名護高等学校生徒へのアンケート調査

 第1節 アンケート調査の目的・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  94  第2節 アンケート調査の形式と方法・・・・・・・・・・・・・・・…  94  第3節 アンケート調査結果と分析・・・・・・・・・・・・・・・…  100  第4節 アンケート調査結果の考察・・・・・・・・・・・・・・・…  122

第4章 琉球民謡を教材とした学習指導案の作成

 第1節 目的・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 125  第2節学習指導案・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 128  第3節 指導上の留意点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  156  第4節 今後の課題と展開・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  160

おわりに・・・・・・…  H・・・・・・・・・・・・・・・・・…  164 謝辞・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  166 参考・引用文献及び資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…  二167

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はじめに

 中学校学習指導要領20年度改訂により、教科目標に「音楽文化についての理解」が盛り 込まれた。音楽科教育の課題として「我が国の音楽文化に愛着をもち、そのよさを感じ取 って理解し、他国の文化を尊重する態度等を養うため、長く歌い継がれ親しまれてきた日 本のうたや、和楽器などの伝統音楽の充実を図ること」が挙げられた。さらに実践的提案 として「多様な音楽文化」「校種間の連携と音楽科」「音楽科と他教科等との関連」階別活 動との関連」「『総合的な学習の時間』と音楽科」等が挙げられている。

 音楽科で伝統音楽指導を行うということは、伝統音楽に関わる習い事等をしていない多 くの児童・生徒が郷士の音楽に触れられる機会をつくることになる。伝統音楽を授業で学 ぶことで、音楽の教科書に載っている西洋音楽や日本の音楽との差異を学ぶことができ、

多様な音楽文化を知ることにっながる。また、音楽科で伝統音楽を取り扱う際に曲の背景 や歴史を学ぶといった取り組みが可能になれば、方言で書かれた歌詞を学ぶという国語科 教育の側面や、当時の郷土の歴史を学ぶという社会科教育の側面も持ち合わせるため、他 教科との連携を図ることができ、学習の場を蝉断的に広げることができるだろう。さらに 地域に伝わ亭伝統音楽の学習には地域の人々の協力が不可欠であ.り、伝承者にゲストティ ーチャーとして指導してもらうことで教員も地元の伝承者から学ぶことができる。地域社 会と学校との連携がうまれ、郷士の文化・歴史といったものへの興味・関心を促すことや 地域の伝統文化保存にも繋がると考える。以上のことから、音楽科の授業で伝統音楽を指 導することの意義は大きいと考えられる。

 しかし、沖縄県の音楽科教育においては、実際に沖縄の伝統音楽指導を行うことができ る環境は少ないという実状がある。現場の教員がそれぞれの実践の場で取り組みを進めて いるが、指導内容・指導量に差があり、どのような指導をどう進めるかといった詳細な部 分に関しては教員個々人の裁量に任せられているのが現状である。音楽科教育において琉 球民謡を取り扱うには多数の課題があり、伝統楽器等の設備・伝統音楽の音源の有無など、

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伝統音楽の指導の環境も各学校で差がある。

 このようなことから沖縄県の音楽科教育においては、伝統音楽である琉球民謡は現時点 では体系的に指導されていないと考えられる。また先行研究に関しても、琉球古典音楽や 琉球民謡については様々な研究がなされているが、音楽科教育における琉球民謡の指導に ついての研究や文献は少ない。

 本研究では、まず沖縄の伝統音楽に関する先行研究や、学校の音楽科教育で行われてい る沖縄の伝統音楽に関する教育実践の内容についてまとめる。また、学校の教員や生徒へ のアンケート調査、聞き取り調査を行い、学校教育における伝統芸能指導の現状や伝統音 楽に関する意識について調べる。教員への調査対象は沖縄県の小学校、中学校、高等学校 であり、複数校を選出し実施した。生徒への調査対象は筆者の出身校である沖縄県立名護 高等学校の2年生にアンケート調査を実施した。この研究調査をもとに、最終的には沖縄 県の音楽科教育での指導を目的とした、琉球民謡を取り入れた学習指導案づくりを試みる。

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第1章 沖縄伝統芸能の概観

 本論文では、沖縄県の音楽科教育において沖縄伝統芸能指導をする意義や、その方法に ついて考察していく。本章では、まず「沖縄伝統芸能」とはどのようなものであるかを確 認するため、沖縄の歴史や伝統芸能について全体的な概要をまとめる。

 沖縄県は本島を中心とした多数の離島からなり、また中国・日本・東南アジアの国々と の貿易のセンターとして機能していた歴史的な背景もあり、その複雑さや多様性、重層性 は他県に類を見ない。以上のことを前提として、本章では沖縄の歴史や沖縄伝統芸能、民 謡や三線について、その概観をまとめていこうと思う。

第1節 沖縄伝統芸能

 沖縄の歴史や伝統芸能についての先行研究は複数あるが、それらを踏まえた上で沖縄の 歴史や人々の風俗、信仰など、多角的な視点から伝統芸能について緻密な記述がなされて いる文献として、大城學『沖縄芸能史概論』1が挙げられる。また、日本放送協会『日本民 謡大観(沖縄・奄美)』2では、南西諸島の自然・歴史・文化について詳細な分析がなされ ており、示唆に富んだ資料となっている。本節では、沖縄の伝統芸能を考える際に必要な 沖縄の歴史や地理、人々の信仰、伝統芸能の種類や使用されている楽器について、上記2 つの文献を中心に考察をすすめる。

1大城學『沖縄芸能史概論』砂子屋書房2000

2日本放送協会『日本民謡大観(沖縄・奄美)』日本放送出版協会1991

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1.南西諸島の自然と風土

(1)地理

 九州と台湾の間に弧状に連なる琉球列島の南半分が沖縄で、日本列島の南西端にあたる。

行政的な区切りで沖縄県という場合、沖縄本島を中心とする沖縄諸島、宮古島を中心とす る宮古諸島、石垣島を中心とする八重山諸島を指す。しかし、有史以来の言語・文化の成 り立ちや、島喚的な社会構成のありようでいうならぱ、現在は鹿児島県の行政下にある奄 美諸島をも含めた4諸島全域が、同一の言語・文化を共有するエリアとして括ることがで

きる。

 沖縄県の沖縄諸島は117島、宮古諸島は12島、八重山諸島は32島から成り、あわせて 161島が沖縄県を構成していることになるが、そのうち有人島は45島である。3

      奄染大島

勺b礫紬 許

グ  慶児蝋」

   ナ  ○       太

   3

洋繰賭風

八賃山講島

。魂垣

 官吉島ρ漢良 宮古諸島

1中細県

南西詰島

津奉

沖縄県地図4

3日本放送協会 前掲書p1 4日本放送協会 前掲書p1

4

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(2)気候

 沖縄・奄美は亜熱帯に属しているため、自然環境が日本本土とは大きく異なっている。

夏と冬との気温差は本土に比べて小さい。それはこの地域での四季の変化を小さくしてい る主因である。しかし、季節風(モンスーン)が南から北に吹き訪れて、1年の季節の区 切りを感じさせてくれる。

 ミーニシ(新北風)とは北東の季節風で、熱帯夜に悩まされた人々が、1O月ごろから吹 き出すこのさわやかな風の訪れを待つという語感がある。北風に対する南風はウリスンベ ー(うりずん南風)で、4月ごろから吹きだして9月ごろまで続く。梅雨明けのころ南か ら吹いてくる風を特にカーチーべ一(夏至南風)と呼ぶが、夏の酷暑の前触れである。冬 至のころになると西の大陸から寒い季節風が吹くが、それにはトゥンジービーサ(冬至寒

さ)という言葉に季節感が込められている。5

      琉球方言の下位区分6 2.沖縄語(琉球方言)について

      奄美大島方言       喜界島方言       奄美方冒 街之島方言  奄美、沖縄、宮古、八重山の4つの諸島で使われ      沖永螂肺言       奄美・

       与論陶方首ている諸方言を総称して、日本語学では琉球方言と     湘方言       湘方言膿駕 呼んでいる。日本語は、本土方言と琉球方言に二大

       宮古亀方言 別される。琉球方言を話すこれらの地域の人口は         宮古方言触馳施        多食問扇方官 140万に満たないが、本土方言に匹敵する多様な言       石触楯        竹富高方言 語群から成る琉球方言は、日本祖語の古い形を保つ       小細掘        新城蝪方習        八重山方官 八重山方言でいたり、独自の変化が起こっていたりして、日本      黒肺言        西表島方言 語の歴史を研究するうえで、非常に貴重な存在であ      蝸肪言        波照間風方言

る。

       与那国方言

5日本放送協会前掲書p.1 6日本放送協会前掲書p.1

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3.南西諸島の音楽的特徴

 この地域の音楽文化の大きな特徴は、人々の日常生活、年中行事、人生の節目で音楽・

芸能が高い密度を持っているということである。島ごとに伝統的な歌や踊りが数多く残さ れている一方、沖縄本島のエイサー大会のように工夫を凝らした新しい創造が、豊かな音 楽性に支えられてなされている。

 しかし、古い歌は、人々が島を離れ、歌を支えた共同体組織が弱まるにつれ、そして伝 承者が高齢化するとともに急速に失われつつある。祭りの重要な歌が、歌い手を失いテー プやレコードから流れることもあるという。近年、この地域の歌はその姿を大きく変えつ つあるが、日本全体からみれば歌や踊りの最も盛んな地域と言えるだろう。

 さて、南西諸島4地域の伝統的な歌や踊りについて、一その基本的共通事項と各地域での あり方を述べる。その際、次の3つの要素が特にこの地域の重要な特徴として考えられる。

まず第一に、生活基盤としての共同体意識の存在で、そこでは共同体の全員(または全戸)

の参加が条件とされる。第二に、宗教における女性の役割の重要性であり、第三に、歌舞 を通じての競争意識で、これは歌舞の能力が、高い評価を受ける社会であることを意味す

る。

 第一に挙げた「生活基盤としての共同体の意識の存在」の特徴としては、男女の集団に よる踊り歌の存在がある。例えば八重山のく巻踊り〉く宮古のクイチャー〉く沖縄のウシデ ーク〉(女のみ)や〈エイサー〉(主に若者)奄美の〈八月踊り〉などである。これらは本 来、共同体の絆を深め、苦労を発散させる役目を十分果たしていたと思われる。そうした 集団舞踊の多くは輪を作り、歌いながら同じリズムで身体を動かすもので、そこには一心

同体の心地良さがあるのだろう。

 第二の「宗教における女性の役割の重要性」の特徴としては、女性の神役(ノロ・司)

や祭祀集団による神歌や宗教的歌謡が、今も伝承されていることが挙げられる。そうした 祭祀集団は、その中で多くの歌が学ばれ、宗教が深く浸透した日常生活の中でも、女性は       6

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その存在を大きく認められてきた。特に高齢の女性が、その豊かな歌の経験を通じて知識 と教養を高めた先輩として尊敬されている。

 第三の「歌舞を通じての競争意識」の特徴は、歌や芸能の中で、集団または個人が相競 う場がうまく設定されていることである。その結果、例えば男対女、シマの中の東西の組 など、二分した双方の競争意識が働き、歌や芸能に熱気や活気を与える。東西組の綱曳歌 の投げ合い、座を組んだ芸能の競演、男女で交互に歌詞を継いで行く 歌掛け のときの 即座の機知。こうした競い合いが多くの工夫や技巧を生み歌や芸能を活性化させてきた。7

4.沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島の芸能文化

(1)沖縄諸島の芸能文化

 沖縄諸島は、沖縄本島を中心とした島喚群である。沖縄本島には琉球王国の首都であっ た首里や、海外交易の拠点であった那覇がある。琉球王国時代の文化興隆の舞台は、もっ ぱら首里・那覇であった。そこで練りあげられた芸能(組踊や端踊、古典音楽など)が、

沖縄各地に流布して、島々、村々の芸能に影響を及ぼした。旧暦七月から八月にかけて行 われるくヌーバレー〉やく八月踊り〉などは、いわゆるく村踊り〉(豊年祭)一でこれらの芸 能が演じられたものである。1日暦六月のくウマチー〉のころに、豊作を祝う神事として〈綱 引き〉が行われる。東西に別れた雌雄二本の綱の結合によって豊かな実りを予祝し、勝敗 の結果で豊凶を占う行事である。旧暦七月に、〈シヌグ〉や〈ウンジャミ〉と称して、祓い と豊穣予祝を祈願する祭りがある。そこでは神女たちが鼓を打ちながら神歌を歌って、神 扇をもって舞う祭式舞踊が行われる。全地域に分布する芸能には、〈獅子舞〉や〈棒踊り〉

がある。獅子舞はその信仰とともに中国から伝来した。<棒踊り〉(単に「棒」と言ったり、

「棒術」と言ったりすることもある)は六尺棒、四尺棒、三尺棒などの長短の棒や槍、長

7日本放送協会 前掲書p.7

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刀、ティンベー、鎌、擢などの道具を持って、一人で演じることもあるが、二人以上の者 が組んで演じるいわゆる〈組棒〉が多い。主に青年男子が演じる。日本本土からは、近世 初期あたりに念仏聖や万歳芸人らの遊行者が渡来した。盆踊りの〈エイサー〉には、念仏 和讃の文句が取り入れられている。8

(2)宮古諸島の芸能文化

 宮古諸島は、沖縄本島から約300km南西にあって、宮古島を中心にして、周りに池間 島、大神島、伊良部島、来間島があり、60k m南に多良間島と水納島がある。

 宮古の三線音楽は、昭和20年代から本格的に普及しはじめた。三線なしで歌う音楽と しては、〈二一リ〉〈タービ〉〈フサ〉くピャーシ〉くアーク(アヤグともいう)〉〈トーガニ〉

などがよく歌われる。

 踊りは、宮古特有のものとして、集団舞踊〈クイチャー〉があり、宮古諸島全域で踊ら れている。クイチャーとは、大勢の者が声を合わせて歌うという意味である。雨乞いや豊 年祭、新築祝い、祝宴などで演じられる。

 宮古全地域に分布している民俗芸能は、〈獅子舞〉とく棒踊り〉である。獅子舞は、沖縄 諸島が一頭で舞うのに対して、宮古諸島では二頭で舞う。笛、ホラ貝、銅鍵、太鼓、鉦の 灘子で舞う。多良間島の棒踊りは旧暦人月に行われる〈八月踊り(豊年祭)〉で演じられる。

二人一組で跳躍をして打ち合い、独特の技芸を披露する。9

8大城學『沖縄芸能史概論』砂子屋書房2000pp.239・243 9大城學2000pp.243・244

      8

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(3)人重山諸島の芸能文化

 八重山諸島の主島・石垣島は、宮古島から150km南西に位置する。その他、西表島、

竹富島、黒島、小浜、新城島、鳩間島、波照間島、与那国島等が点在して八重山諸島を形 成している。最西端の与那国島から西へ110kmに台湾がある。

 八重山には、〈アコー〉〈ジラバ〉〈ユンタ〉くユングトゥ〉と称して、三線を用いずに歌 う古謡があるが、早期に三線文化を取り入れ、節歌を発展させた。

 歌舞、演劇を演じる祭りは、旧暦三月の〈ユーニガイ(世願い)〉、旧暦六月の〈プーリ ィ(収穫祭。豊年祭)〉、旧暦七月のくソーロン(盆)〉、旧暦八月から十月の間に行われる

〈キチィガン(縞願祭)〉、〈タニドゥル(種子取祭)〉などである。

 全地域でみられる芸能にばく巻踊り〉〈獅子舞〉〈棒踊り〉〈太鼓踊り〉〈盆アンガマ〉〈弥 勒踊り〉などがある。巻踊りは集団舞踊で、ウタキ(御獄。オン、ウガン、ワ㎞ともいう)

と称する祖先神をまつる聖地の座や、祭りの広場で踊られる。獅子舞は、宮古諸島と同じ く雌雄二頭で舞う。地域によっては子獅子会登場するところもある。棒踊りは、二人で組 んで演じる組棒が多い。三人棒もある。太鼓踊りは、十数人で締太鼓を持って演じる。盆 アンマガは、仮装や覆面をした集団が各家を巡回して、念仏歌を歌い、踊りを披露する。

弥勒踊りは、弥勒の面を被った者が幼児や夫人を引き連れて登場する。弥勒を五穀豊穣を もたらす農耕の神と仰ぎ、弥勒の来訪によって島の繁栄が成就すると考えたのである。琉 球王朝芸能もよく取り入れている。その一つに組踊がある。組踊は現在、竹富町字竹富と 与那国島で演じている。

 沖縄の村踊り全般についていえることだが、演目の多くは琉球王国の首都であった首里 士族社会で育まれたものである。それが村々島々に受け入れられると、それぞれの村の生 活や風土にマッチした、その地域独自の芸能として完成させている。

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5.琉球王国の歴史

 14世紀、沖縄本島には山北(今帰仁城)、中山(浦添城)、山南(島尻大里城または島添大里 城)の有力按司が鼎立した。そのころを沖縄の歴史ではく三山時代〉と称している。三人の 覇者が中国との間に外交関係を結び、以後、およそ500年にわたる中国との冊 封・進貢が 開始された。「琉球」という文字が使用されるのはこの時からである。

 琉球では、三山が対立を繰り返し、それぞれが琉球統一を夢見ていたという。しかし、

その夢を実現したのは三山のいずれのく王〉でもなかった。山南に属する佐敷上城に思紹 とその息子の尚巴志という人物がおり、勢力を蓄えた上で三山を順に滅ぼし、三山を統一

した。

 1429年に尚巴志によって王国がつくられた。首都を首里におき、一人の国王によって統 治される独立国家が誕生した。これが〈琉球王国〉である。琉球王国は、中国・日本本土・

朝鮮・東南アジアの国々との間に外交関係をもつと同時に、貿易を盛んに行った。

 1368年に建国した明国の皇帝・洪武帝は、即位して間もなく琉球だけでなく周辺諸国に も使者を派遣して入貢をうながした。それに応えたのが琉球、日本、朝鮮、ジャワ(イン

ドネシア)、サシブッセイ(インドネシア)、スマトラ(インドネシア)、シャム(タイ)、

マラッカ(マレーシア)、アンナン(ベトナム)など十か国会であった。これらの国を進貢 国あるいは朝貢国という。冊封・進貢の関係は、言い換えれば政治的関係と経済的関係で

ある。

 中国と冊封・進貢の関係を結んで、琉球にとってありがたかったのは、朝貢品の代償に 莫大な中国物産を持ち帰れることであった。中国から見返りにもらってきた品々は、中国 本土や朝鮮、東南アジア諸国にも輸出された。琉球が貿易のセンター(中継貿易地点)と なって、中国・日本本土・朝鮮・東南アジアの諸国の物資を交換流通させ、琉球王国は、

アジアの国々と交流して繁栄したのである。

 また、中国と冊封関係を結んだ琉球王国では、国王の代替わりごとにく冊封〉の式典が       10

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行われた。冊封とは、中国(明)の皇帝が臣下の国の主に対して、汝をどこそこの国王に 任命するという詔勅を与えることである。その即位のために詔勅を携えでやってくる使者 を〈冊封使〉と称した。そして、冊封使は詔勅のほかに新国王に授ける王冠も携えて来る ことから、冊封使が乗って来る船・封舟のことを〈冠船〉とも呼んだ。発音は、敬称の「御」

を冠して、〈おかんせん(方言=ウクゥンシン)〉という。冠船の渡来は1404年に始まり

(中国皇帝は時中を派遣して、中山王の武寧および南山王の注応祖を冊封した)1866年の 最後の国王尚泰の冊封をもって終わった。その間、24回の冊封が行われた。来琉する冊封 使一行は、数百名であったといわれ、最も多いときは649名で、少ないときは417名だっ た。1O

[御冠船踊コ…およそ数カ月滞在する冊封使の労を慰めるために、琉球王国で豪華な遊宴       を7回催した。この公式のもてなしの行事を〈七宴〉と称している。〈諭祭       之宴〉〈冊封之宴〉く伸秋之宴〉〈重陽之宴〉〈髄別之宴〉〈拝辞之宴〉〈望舟       之宴〉である。七宴の芸能を総称して〈冠船踊〉あるいは〈御冠船踊〉と       いう。御冠船踊は古典舞踊、あるいは宮廷舞踊ともいい、それは18世紀に       大成した。踊奉行に任命された玉城朝薫(1684〜1734)たちによって基礎       が固められ、その後の優れた芸術家たちによって肉付けされ、磨きあげら       れていったのである。そのく御冠船踊〉の成立には、琉球王府が介入して       いたことを承知していなければならない。つまり、王府によって〈御冠船       踊〉は仕立てられたのである。〈老人踊〉〈若衆踊〉く二才踊〉〈女踊〉の〈端       踊〉、歌舞劇の〈組踊〉に分類される。踊りの技法は〈男芸〉と〈女芸〉に       分けられる。11

10大城學2000pp.15・18 11大城學2000pp.20・30

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[踊奉行]…琉球王国では、冊封使をもてなす芸能公演のためにく踊奉行〉を設けた。踊      奉行は、踊り(芸能)公演を開催するにあたり、その指導監督あるいは芸能      の指導をする奉行のことである。奉行にあたる彼らは、数多くの舞踊や演劇      を仕立てた。踊奉行は、国王や王族の年忌または御冠船のときに臨時に任命      される。5人構成で、按司1人、親方字1人、親雲上3人(1人のこともあ      る)からなる。ところが、1719年の踊奉行は玉城朝薫1人であった。12

6.民衆の芸能

 琉球王国は、1872(明治5)年に琉球藩となり、1879(明治12)年、明治政府は琉球 藩を廃し沖縄県を置いた(廃藩置県)。これを〈琉球処分〉という。

 こうした政治の大きな動きのなかで、琉球王国時代に御冠船踊を勤めた武士やその子弟 たちは禄を失い、宮廷から市井の舞台へ移り、そこで芸能を披露し、観客から木戸銭をも らって生活をしていた。市井の舞台では、彼らは御冠船踊に加えて、民間に流布する民謡 や風俗をとり入れた新しいスタイルの芸能を創り出した。そうしてできた踊りを〈雑踊〉

といい、演劇の分野ではく沖縄芝居〉と呼ばれる歌劇と方言せりふ劇や新しいく狂言〉な ども生まれた。13

端踊

①老人踊

②若衆踊

③二才踊

④女踊

⑤雑踊

演劇

①組踊

②狂言

③沖縄芝居(歌劇、方言せりふ劇)

12大城學2000 13大城學2000

pp.29・30 P,35

12

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[組踊]…組踊とは、せりふを主として歌曲と踊りを組み合わせて一組にまとめた形式の     歌舞劇である。組踊は、琉球王朝時代にあっては、冊封使歓待のために御冠船     踊として演じられ、士族・貴族社会でもそのつど観劇された。1879(明治12)

    年の廃藩置県以後は、御冠船踊の役者やその子弟たちによって市井の舞台で演     じられて受け継がれ、今日まで伝統の形を保持しながら、上演が繰り返されて     いる。

     組踊をはじめてつくった入は、玉城朝薫(1684〜1734)である。朝薫は、1718     年に御冠船踊の踊奉行に任命された。そして、翌19年の冊封使歓待の重陽之宴     ではじめて組踊が上演されたのである。演目は朝薫の作品で、「二重敵討」(護     佐丸敵討)と「執心鐘入」の二番であった。朝薫はこの二番の他に「銘苅子」「女     物狂」「孝行の巻」も創作し、その年の冊封使をもてなす宴で上演された。朝薫     のこれらの作品を〈朝薫の五番〉と称され、地方の村踊りでも盛んに上演され     ている。組踊は、1972(昭和47)年に国の重要無形文化財に指定された。14

[狂言]…方言で「チョーギン」という。く狂言〉という言葉は、古くは演劇一般を意味し     ていた。現在、沖縄諸島でいう〈狂言〉とは、喜劇的な内容のせりふで構成さ     れた演劇のことを指しており、今日もなお村踊りや芝居のなかで演じられる人     気のある演目である。八重山諸島の場合は、儀礼的な内容のく狂言(例の狂言)〉

    と、滑稽諸諺な内容の〈狂言(笑し狂言)〉に二分する方法がある。八重山では     結願祭、種子取祭、節祭などの祭りの場で狂言が演じられる。言葉は八重山方     言が多いが、首里方言も使われる。首里方言で書かれたいわゆる〈琉狂言〉は、

    琉球国王の就任を祝う宴席で士族たちによって演じられたようである。そして、

    これらの狂言は作者不明であるものがほとんどである。15

14大城學2000 15大城學2000

pp.52・53 P,53

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[歌劇コ…〈歌劇〉は歌、せりふ、舞踊、しぐさなどで組み立てられた歌舞劇である。〈歌      劇〉の発生は、〈舞踊〉が〈御冠船踊〉から<雑踊〉へと展開していく過程と      時期が同じで、その事情もかなり似ている。男女の恋を掛け合い形式で歌った      歌詞に振り付けたく川平節〉や〈越来節〉などのいわゆる〈打紐舞踊〉にも〈歌      劇〉の要素は内包していたと考えられる。16

7.沖縄の信仰

 沖縄は、日本のいちばん南に位置していて、わが国では唯一の亜熱帯気候である。その ために、日本本土とは農作物の栽培や収穫の時期が異なっていて、農業、特に稲作を中心 とした祭りに特徴がある。沖縄の稲作は、田植えを旧暦一月下旬から二月中に行い、旧暦 五月から六月にかけて収穫をする。

 沖縄の祭りの目とりは、ほとんど旧暦で決める。旧暦とは、月の満ち欠けをもとにして 定めた暦(太陰暦)で、現在、私たちが使用している新暦(太陽暦)とは異なる。

 祭りと深い関わりのある信仰について、沖縄の人々は祖先神をとても大事にし、敬って いる。「祖先神は、村人の健康を守ったり幸せを授けたり、病気や災いをもたらす悪霊を追 い祓い、農作物の豊かな実りや海の幸を約束してくださる」と信じられている。祖先神は、

ふだんは海の遥か彼方、あるいは海や地の底にいると考えられている。そこを沖縄の方言 で〈ニライ・カナイ〉あるいはくニレー・カネニ〉といっているが、古代目本でいう〈常 世の国〉と同じ意味である。祭りのとき、祖先神が〈ニライ・カナイ〉から村に最初にや ってくるところを<ウタキ〉とかくウガン〉くオン〉〈ズク〉〈ワン〉などといい、〈御獄〉

という漢字をあてる。く御獄〉は村人の信仰を集めている聖なる場所で、祭りの目以外はそ こに立ち入ることが禁じられている。

 村の祭りを司る人のことを〈カミンチュ〉(神人)という。〈ノロ〉く二一ガン〉〈グディ〉

16大城學2000p.90

      14

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〈ウッチガミ〉〈ツカサ〉くサス〉などと呼ばれる女性(神女、巫女)が中心になるが、彼 女たちを補佐する〈二一ツチュ〉〈アカチュミ〉く二一ブトゥイ〉〈テイディビー〉〈ディジ

リビー〉などと称する男性の神役もいて、彼らもやはり〈カミンチュ〉と呼ばれる。

 祭りに神女たちが芸能を演じることがある。神衣裳を着け、つる草の被りものをして、

ビロウ(方言はクバ)の葉で作った団扇を持ったり、あるいは鼓を打ち鳴らしたりしなが ら神歌を歌い、それにつけて前進後退、手を左右に振るなどの所作を演じる。単純であり 素朴である。〈舞踊〉というものが生まれる以前の原始的な呪術的所作とでも呼ぶべきもの

である。

 これをくあそび(方言ではアシビ)〉ということがある。古代目本においても、神事の場 での行動を〈あそび〉といっていた。つまり、手を振?たり、土を踏んだり、旋回したり する行動は、霊魂を招き寄せたり、農作物を豊かに実らせたり、雨を降らせたりすること になると考えられていた。〈あそび〉は、元来鎮魂を意味する言葉で、それらの行為が芸能 化していくのである。

 現在、沖縄では村落の過疎化や神女の後継者不足等、祭りをとりまく環境のなかでさま ざまな問題を抱えている。祭りで演じられていた民俗芸能のみが生き残って継承されてい ることもある。継承者がいなくて、消え去った祭りや民俗芸能もある。その一方で、復活 上演される芸能もある。17

8.使用していた楽器について

 「沖縄を代表する楽器」と問えば、十人中十人がまようことなくサンシン(三線)と答 えるだろう。琉球王国時代には三線以外にもさまざまな楽器が使用されていたにもかかわ

らず、今日では三線が県民的楽器であることがわかる。

 首里城での慶賀や御冠船踊、または江戸上りの際に奏された室内楽を〈御座薬〉という 17大城學2000pp.237−238

(19)

が、それは中国の明・清楽系統の音楽を奏するものであった。そのときの楽器には、弦楽 器に轟、二線、三線、四線、琉三絃、長線、琵琶、胡琴、楊琴、月琴、提琴などがあり、

打楽器に鼓、二金、三会、銅鍵、三板、小鉦、金鋼、小鍋鍵、新心、両班、韻鍵、挿板、

欽子、檀板、想思板、看板などがあり、吹奏楽器に箏築、半笙、噴柄、立笙、横笛、管、

銅色、1刺臥、洞簸、十二律などがあった。

 また、琉球王国時代に中国から伝来した道中楽を〈路次楽〉と称するが、それに使用す る楽器には、銅鍵、両班、瑚臥、銅色、鼓、新心などがあった。

 ここでは、古典音楽の演唱に使用される楽器のなかから、三線、箏、笛、胡弓、太鼓、

そしてサンバをとりあげる。18

[三線]…沖縄の楽器を代表するのは、やはり三線である。方言ではくサンシン〉という。

     三線は14世紀〜15世紀初頭に、中国から伝来した。そして、永禄年間(1558      〜1570)に琉球から大阪の堺に渡来し、本土でも普及したといわれている。

     中国から伝来して以後、沖縄では、沖縄の音楽に合うように工夫され、改良が     加えられた。三線の文化等については、第2節で詳しく扱う。19

三線20

18大城學2000 19大城學2000 20大城學2000

p.254 p.255

資料

16

(20)

[箏]…方言で〈クトゥ〉という。箏は、1702年に薩摩に公務で出かけていた稲嶺盛淳(生     没年未詳)が、服部清左衛門政真・政寛父子から八橋琉箏曲の奏法を学んで沖     縄に伝えたのが構矢とされている。そのとき菅撹(段の物)として滝落菅撹、

    地菅掻、江戸菅撹、拍子管擬、佐武也菅撹、六段菅授、七段菅撹の7曲、〈歌     物〉として船頭節、対馬節、源氏節の3曲、以上の1O曲が伝来したといわれる。

    これらの曲はすべて保存・継承されている。なかでも歌物の3曲は、本土伝来     であるにもかかわらず、本土では節名、歌詞、旋律についてこれらの原曲に当     たるものは見当たらないという。沖縄のみに残存し継承されているのである。21

1鰹」、

       箏22

[胡弓コ…方言でくクーチョー〉という。馬の尾毛を張った弓で弦をこすって音を出す。

     中国から伝来した胡弓は三弦であったが、1965年に又吉真栄(1916〜1985)

    が改良して四弦の胡弓を作り普及させた。又吉は1972年に『胡弓工工四』も     編集している。全長(樟)およそ二尺三寸(約70c m)で、樟材はリュウキ      ュウゴクタンの芯材を用いる。胴材は椰子の実の殻やエゴノキ(方言はシタマ      ギ)、イヌマキ(槙。方言はチャーギ)などをくり抜いた直径三寸五分七厘(約       11〜12c m)の半球形の丸胴にビ

21大城學2000 22大城學2000 23大城學2000 24大城學2000

P.259 資料

P.261

資料

ルマニシキヘビの皮を張る。23

胡弓24

(21)

[笛]…方言で〈ファンソー〉という。六孔の横笛で明笛の構造である。現在使用してい    る笛の管は樺巻をせずに生地のままで、両端を唐木または象牙で飾る。下端の飾    孔に飾り紐を通して装飾することもある。御座楽の楽器としても用いられていた。

   1832年の「琉球人舞楽御巻物」の「女四っ竹踊り」「二才両扇子踊り」「女花籠    踊り」の地謡に笛を演奏する絵がある。1838年の御冠船踊(戌の御冠船)〈仲秋    之宴〉三番「扇子をどり」に「音取笛太鼓一・・」とあり、六番「執心鐘入」(組    踊)の最後の場面に「いのりに取付侯時、笛太鼓小鞍にて拍子有る」とある。く重    陽之宴〉一番「老人老女」にも「音取笛・一・」とある。

       古典音楽では、笛は三線の伴奏楽 器として使われることが多い。しか

し、民俗芸能では、笛の演奏だけで 踊らせることもあり、笛が楽器の主 役になることもある。25

箇%

[太鼓]…方言で〈テーク〉という。太鼓の胴には、ケヤキや松などのくりぬき祠と、雑      木を寄木して作った桶型胴や樽型胴があって、この胴に皮を鋲か紐で締める。

     沖縄では、寄木の樽型胴のものが普及している。その他、締め太鼓、平吊り太      鼓、片面にだけ皮を張ったパーランクーなどがある。太鼓の民俗芸能といえば、

     盆踊りrエイサー」に代表される。石垣市登野城にはr大洞・小胴」と称する      能楽難子の流れをくむ太鼓の芸能がある。

      御冠船踊や御座薬、路次楽にも使用されている。1838年の戌の御冠船〈仲      秋之宴〉二番「入手躍」は太鼓・鼓の芸能である。古くは『李朝実録』1463

25大城學2000 26大城學2000

pp.261−262

資料

18

(22)

年の記事に「中国からの詔勅や朝鮮からの文書が琉球に着き、それを駕籠に乗

せ、その傍から鼓や胴鍵を打ち 鳴らして、太平箭を吹いて王宮 に迎え入れられる」とある。

  太鼓や鼓についての古文献 と芸能の事例には、リズムを刻 む楽器であること、霊力を持っ ている呪具として用いられてい ることが記されている。27

締め太鼓・平太鼓(上) サンバ(右)28

[サンバ]…テンポの早い音楽に用いるリズム楽器。

       〈三板〉と書く用座薬の楽器として\〃

      も用いられている。中国楽器の拍板と       同系統の楽器である。リュウキュウコ       クタンや樫で作る幅4〜5c m、長さ12

      〜13c mの三枚の板の片方を紐でつなぎ合わせる。それを片手の指にはさ       み、もう一方の手の指を使って軽快に3枚の板を打ち鳴らすのである。『江       戸上り資料』の「琉球楽器之図」には「拍板以指鳴之」とサンバ奏法が記       されている。羽

27大城學2000pp.262・263

28知名定男『めんそ〜れ!知名定男の三線入門』日本放送出版協会2009pp.1OO−101 29大城學2000p.263

(23)

第2節琉球民謡と三線

 前節で沖縄の歴史と郷土の文化、沖縄伝統芸能で使用される楽器等について概要をまと めた。そこでも少し述べたが、沖縄の人々にとって琉球民謡と三線は非常に大きな存在で ある。本論文では、実際の伝統音楽指導の教材として琉球民謡と三線を使用するため、本 節ではそれらをついてさらに深くまとめる。

 琉球民謡と三線については、国立劇場沖縄で第四回一線音楽公演「琉球弧のひびき」

(2005年上演)が行われた際に、演目解説としてまとめられた、大城學「三線音楽公演 演 目解説」に詳しい記述がある。また、大城學「三線の歴史と文化」は、三線の型などの知 識が整理された論文である。琉球民謡と三線に関して大城學の双方の先行研究を参考にし、

まとめる。

1.琉球古典音楽

 広義の沖縄民謡は、古典音楽と民謡(狭義)に大別される。古典音楽は、琉球王朝時代 に王府(宮廷)を中心にして演唱されてきたもので、このごろは、しまうた(鼻唄・島歌)など と呼ばれることもある。いずれも、こんにちまで歌い継がれており、民謡についていえば 新作(新民謡)も生まれていて、隆盛をきわめている。

 三線は、14世紀から15世紀初頭には中国から琉球に伝わったと考えられる。永禄年間

(1558〜1570)に琉球から大阪の堺に渡来し、本土でも普及した。

 中国から伝来した三線は、当初は宮廷楽器として定着した。琉球王府では貝摺奉行に三 味線打匹夫(三線製作者)の指導を管掌させるなどして三線を重宝し、のちに三線製作者 に南風原とか知念といった名工が出現する。その一方で、王府を中心に三線歌曲の創作活 動が活発になったものと考えられる。

 三線の登場により、一音楽は歌詞(琉歌)が定型化し、民謡として拝情的表現へ傾斜して        20

(24)

いった。三線音楽は舞踊や組踊と密接に結びついて、質的に高められていくことになる。

 琉球王朝時代の三線の演唱は士族男子の嗜み、教養として伝えられ、三線音楽は男子中 心の音楽へと発展する。沖縄の歌・三線の特色は、三線の弾き手が歌い手を兼ねるという く弦声一体>の関係にあり、技巧的には弦と声とは同時進行ではなく、そこに微妙な味わい

を追及するところにある。

 三線音楽を芸術音楽の域まで高めたのは、湛水親方こと幸地質忠(1623〜1683)である。

湛水は芸能の才に秀で、三線音楽の整備と振興に尽力し、く湛水流>という一つの芸風を確 立した。湛水の後の演唱者には沢蝿長沢(1653〜1702)、新里朝住(1651〜1713)、聞覚 こと照喜名名仙(1681〜1753)らが盛名をはせた。聞覚は三線楽譜の「工工四」(中国の 譜面「工六四」を参考にして作成)の断片を残したといわれる。伊波普猷の「音楽家の息 のか㌧かった琉歌」(『伊波普猷全集』第一巻所収)に「屋嘉比の師匠で、最初の国劇の時

(屋嘉比が四歳の時)地謡ひを勤めた、聞覚(天和2年〜宝暦3年)の工工四の断片の中 には、作田節・首里節・謝武名節・苦しよどん節・伊野波節・昔伊野波節の五曲しか見出 せない」とある。

 聞覚の弟子の屋嘉比朝寄(1716〜1775)は『屋嘉比工工四』に117曲を記録した。屋嘉比 は、湛水以後の芸風を整理刷新して集大成を試み、古風な湛水龍に対する当世風な「当流」

と称する流派を創設した。それは知念積高へと継承され、暗声曲節三味線兼得たり」と評 されていた。

 知念の弟子の中から台頭したのが、安冨祖正元(1785〜1865)と野村安超(1805〜1871)

である。安冨祖は、屋嘉比や知念が創りあげてきた細線精巧な技巧の洗練の伝承を第一に 心がけ、今日にその芸風を伝える「安冨祖琉」を創設した。野村は、これまた今日にその 芸風を伝える畷対流」を創設したが、野村は、屋嘉比や知念が創りあげてきた細線精巧 な技巧偏向を脱却して、平明率直な技芸の高揚を主張した。以後、両流とも歴代優れた名 人上手を輩出させながら、その伝統を今日に伝えている。湛水流、安冨祖琉、野村流は、

それぞれr沖縄伝統音楽湛水流」r沖縄伝統音楽安冨祖琉」r沖縄伝統音楽野村流」という

(25)

名称で、昭和47年12月に沖縄県指定無形文化財となった。1

2.奄美民謡

 薩南諸島の南部に位置する奄美諸島のなかで人の住む島は、奄美大島、喜界島、加計呂 麻島、諸島、与路島、徳之島、沖永良部島、与謝島の八つの島である。歴史的には、琉球 王朝時代にこれらの奄美諸島全体が支配下に繰り込まれたこともあった。また、日本語学 では、日本祖語は本土方言と琉球方言に二大別するが、奄美・沖縄・宮古・八重山の四諸 島で使われている諸方言を総称して琉球方言と呼ぶ。琉球方言は、日本祖語の古い姿を保 持していたり、独自な変化を生じていたりして、日本語の歴史を研究するうえで、貴重な 存在であるということができる。こうした琉球方言は、琉球方言圏の文化の礎となってい

る。

 奄美諸島が沖縄と九州の間に位置しているという地理的状況を反映して、奄美諸島の民 謡(歌謡)は、沖縄や本土との共通性がある一方で、奄美特有の個性を認める事ができる。

奄美民謡の音階には、琉球音階、律音階、民謡音階、都節音階と日本にみられるタイプが 存在しているが、琉球音階が分布していることは沖縄の文化的影響があったことがうなず

ける。

 奄美民謡を歌う際の楽器には太鼓、三線、(三味線)胡弓などがある。中でも太鼓は古く から奄美では使用されていたようだ。三線はおきなわで使用しているものと同じで、同に はビルマニシキヘビの皮を張る。古くは和紙に芭蕉の渋を塗って張った(渋張り)というの でこれも沖縄と同じである。沖縄で使用している舷よりも綱ザ絃を張るので、音域が高い ことも特徴である。竹ひごを細く削ったバチを用いる。沖永良部島や与謝島では牛の爪な どで作られた義甲を使用する。

 奄美民謡は、ふつうは歌い手の三線の弾き歌いで演唱される。三線の演奏は、旋律線の

1大城學「三線音楽公演 演目解説」財団法人国立劇場おきなわ運営財団2005pp.16・18

       22

(26)

合間合間にコバチ(小援)という左手指を使った細やかな装飾音を加えて弾く。この演唱 方が奄美三線の独自性を示している。なお、「六調」の演奏は三弦全てをかき鳴らす奏法が 用いられている。楽器ではないが、指笛(ハト)も奄美民謡では欠かせない。八月踊りなど の集団の踊り歌や六調などの手踊において、リズムを整えたり、雰囲気を盛り上げるため に、拍子の裏拍をとって鋭く吹かれたり、長い音を伸ばして吹かれたりする。

 奄美民謡の特徴として裏声の使用がある。八月踊りの旋律にも裏声が認められるが、三 線伴奏の民謡においては裏声が技巧的な発展をとげ、その旋律様式を特徴づける重要な要 素となっている。また、遊び歌には男声(ウグイ)、女声(メグイ)という声質の区別もあ

る。

 奄美諸島の歌謡群をみてみると、呪祷的歌謡には「クチ」「タハブェ」「オモリ」「マシニ ョイ」があり、叙事的歌謡にはrナガレ歌j r八月踊り歌」rユングトゥ」があり、叙情的 歌謡には「鼻唄」がある。演劇には「諸鈍芝居」「狂言」がある。わけても鼻唄関係では、

多くの優秀な唄い手(ウタシャ)が活躍しており、活動の場も奄美のみならず、国外まで も広がっている。

 ウタシャには、坂本豊蔵、前政五郎、福島幸義、武下和平、上村藤枝、坪山登、築地俊 造、中野律紀、朝崎郁恵、中島清彦、貴島康男、山下聖子、元ちとせ、中学介ほか多くが 存在する。2

3.宮古民謡

 多良間諸島をのぞく宮古諸島は、三線にのせて歌う民謡が比較的に少なく、三線を用い ない民謡が豊富である。 これらの民謡(古謡)は「二一リ」「タービ」「フサ」「ピャーシ」

「アーク」「トーガニ」などと呼ばれ、現在でも盛んに歌われている。特に、村の神や英雄

2大城學「三線音楽公演 演目解説」財団法人国立劇場おきなわ運営財団2005pp19−21

(27)

を歌った民謡に魅力的なものが数多くある。「灌水クイチャー」「なり山アヤグ」「伊良部ト ーガニ」「多良間シュンカニ」などの民謡はよく知られている。3

4.八重山古典民謡

 八重山諸島への三線の伝来は、18世紀の半ばごろといわれている。当初、三線の伴奏に よって歌われる「節歌」は、役人(士族)たちが専有していた。士族たちに嗜まれた節歌 の演唱法は、「石垣風」と「登野城風」に大別される。さらに、島々村々にはそれぞれの風 がある。三線及び節歌は、明治以前から庶民の間でも普及しはじめた。

 明治二年に編纂された『野村工工四』の下巻には、八重山古典民謡のうち「古見之浦節」

r揚吉見之浦節」rイヤリ節」「小濱節」r石之屏風節」r赤馬節」rタラクジ節」r鳩間節」

r布晒節」r白保節」r月夜漬節」rナカラタ節」の12曲が収録されている。

 大浜用能の演唱法が「登野城風」であり、大浜の弟子には波照間氷端、石垣信演、森岡 永船、大浜当温、宮城常行、宮良信光らがいる。森田永船と大浜当温に指示したのが大浜 津呂(1891〜1970)で、現在、津呂の弟子たちにより、「登野城風」の演唱法、芸風が継承

されている。

 八重山古典民謡の工工四は喜捨場英整による『八重山歌工工四』が現存する最古のもの で、1884(明治17)年に編集作業が始まり4年後に校了している。この工工四は「石垣 風」のものである。r登野城風」の工工四は、大浜用能が1885(明治18)年に編集した『八 重山歌集』が最古である。「八重山古典民謡」は、昭和58年3月に沖縄県指定無形文化財

となった。4

3大城學『沖縄芸能史概論』砂子屋書房2000p.253

4大城學「三線音楽公演 演目解説」財団法人国立劇場おきなわ運営財団2005pp.21・22       24

(28)

5.沖縄民謡

 沖縄の民謡を概観すると、神歌あるいは古謡とも称され、村落の祭りや行事と関わりの 深いもの、家の行事に関わるもの、わらべ歌・子守唄、作業歌、座興歌・遊び歌、古典音 楽、新民謡に分けられる。

 内容は、神を崇べるもの、五穀豊饒、狩猟、雨乞い、造船、航海安全、牛馬の繁昌、新 築祝い、婚礼祝い、誕生祝い、家内繁昌、葬送、轟旅、島ほめ・村ほめ、恋、時勢の風刺、

教訓、風物、反戦、観光音頭等々実に多岐に及んでいる。

 これらの沖縄民謡は、クェーナ、ウムイ等の神歌(古謡)から、かぎやで節、恩納節等 の古典へ、ナークニー、カイサーレ等の民謡へ、そでいて移民小唄、別れの煙、芭蕉布、

ノ、イザイおじさん等の新民謡へと継承されてきており、存在する民謡の数は計り知れない。

言葉の数だけ民謡があるといわれるように、村落ごとに数多くの民謡が歌い継がれている。

 1945年に沖縄戦により、沖縄は日本から切り離され、アメリカの統治下におかれた。生 き残った人たちは収容所に集められ、缶詰の空き缶を利用して作ったカンカラ三線を弾き、

心を慰めたという。そこで生まれた民謡に「屋嘉節」がある。「懐かしや沖縄戦場になや い 世間御万人ぬ 苦しさみそち」この民謡は多くの人々の共感を呼んでいる。

 米軍は芸能好きの沖縄の人々に芸能公演を催し、昭和20年8月20目に石川市でスター トした沖縄諮論会(戦後沖縄初の中央攻治機構)の文化部が中心となり、生き残った芸能 人を集め、ベニヤとテントの仮設舞台が作られた。rかぎやで風」で幕を開け、いくつかの 踊りを披露した後、組踊「花売の緑」が上演された。「花売の緑」は世話物の組踊で、生き 別れになっていた家族が、紀:余曲折を経た後再開することができたという内容が、当時の 沖縄の人たちの状況と重なるものがあり、この組踊を観た人たちの共感を得たという。

 戦争をテーマにした民謡は、その他に「姫百合の唄」「平和の願い」「平和の鐘」「摩文仁 の華」「帰らぬ我が子」「艦砲ぬ喰え]ぬくさ一」などがある。これらの民謡の底辺には、

恒久平和を願う想いが込められている。

 また、朝喜は、昭和26年に沖縄・神戸間に黒潮丸が就航したとき、「通い船」という民

(29)

謡を作詞・作曲した。「嬉りさ懐かしや振別りぬ港 何時までん肝に染みてでもの サー那 覇と大和ぬ通い船よ」という歌詞で始まり、関西に住む沖縄県人の航路開通を喜ぶ気持ち を歌った民謡で、ヒット曲の一つである。

 戦前に比べて、戦後は民謡のレコーディングも盛んに行われ、一方では民謡酒場も次々 と誕生し、「小浜守栄、嘉手苅林昌、山内昌徳、喜納昌永、登川誠仁、石原節子、城間ひろ み、山里ゆき」など民謡歌手も増えた。僑司・作曲者としては、朝喜、普久原恒勇、川田 松夫、知名宝繁、喜屋武繁雄、知名定男、滝原康盛、照屋林助、」二原直彦、平敷なみ、吉 川安一、びせかつ、三日ヨ信一たちがいる。

 新たに作られる民謡は、以下のようなものがある。

・恋歌:r石くぴり」「片思い」「想偲び」rうんしゅが情ど頼まりる」「想い」「嘆きの梅」

   「紺地小」「夫婦船」など

・島や村落を讃えたもの:「なれし古里」「伊江島渡し船」「二見情話」「名護の七曲い」「浜       小唄」「具志堅小唄」など

・観光音頭的なもの:「夢の沖縄島」「高めぐり」「沖縄育ち」「与勝海上めぐり」「久米島観         光小唄」r宮古四季音頭」「八重山観光音頭」など

・ホームソング・童歌:「芭蕉布」「ちんぬくじゅうしい」「ふるさとの雨」「山原ガラサー          小」rウーマクカマゲー」rチョッチョイ子守歌」など

・時勢を風刺したもの:「時代の流れ」「アメリカ節」「オーライ節」など

・風物をうたったもの:「別れの煙」「四季の歌」「四季の喜び」「娘ジンドヨー」「バイバイ          沖縄など」など

 詞は従来の8・8・8・6音(30音)の定型の琉歌にこだわらず、散文詩調もある。曲の 面ではポップ調やレゲエのリズムを用いた作品もあり、その時代の社会状況が反映されて いる。5

5大城學「三線音楽公演演目解説」財団法人国立劇場おきなわ運営財団2005pp.22・24        26

(30)

6.三線  三線の歴史

 三線(サンシン)の呼び方については、沖縄の三線は胴にビルマニシキヘビの蛇皮を張 ることからジャヒ、ジャビという呼び方をすると考えられている。三線を基準にして比較 すると、中国の三絃は樟の長さに比して胴が小さく、本土の三味線は樟が長い。中国の三 絃を源とする三線であるが、三絃系統の楽器はアジア各地に分布している。三絃系統の楽 器は、弦を押さえる位置を変えることによって、経済的な弦数で多くの音高や多様な旋律

を奏することができることが特徴である。6

以下に三線の各部名称と三線年表を載せる。

6大城學「三線の歴史と文化」沖縄県立図書館紀要2006p.49

(31)

三線の各部名称7

蕃窪姦野

天 帖I 一

    天

vs昭 裏

統一

多i   ( D一  女

掛)

蔵歌/

(男

栗弩転

袋野 窪姦野

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_駒 ■1一憂裏   )

糸  心 │替/穴

の  天 輸虹橋

掛創穴

7大城學「三線の歴史と文化」沖縄県立図書館紀要2006p.59 28

(32)

三線略年表8

西暦 琉球 日本 事    項

1392 察度43 明徳3 闘人三十六姓が帰化。「始メテ音楽ヲ節シ礼法ヲ綱ス」

1403 武蜜8 応永10 武蔵国(現、神秦川県)六浦に漂着した琉球船の中から「音楽ノ 声肴リ」(『南方紀伝』)

1534 尚清8 天文3 「楽二絃歌ヲ用フ。音頗ル衰怨タリ・…」「四夷童ヲシテ夷曲ヲ 歌ヒ、表舞ヲ為サシメ・ ・」(『使琉球録』)

1558 尚元3 永禄1 永禄年間(〜70年)に、琉球より大阪の堺に三線が渡来する。

1572 尚元17 元亀3 r三味線を高々と小歌にのせてひかれ候て・…」(r利家夜話』)

1575 尚永3 天正3 尚永正の使者金武大屋子一行が薩摩において徳永源五衛門尉宅で

「しやんせん」を演奏してきかせた。また、島津義久公の御前で も「しやんせん」を演奏した。(『上井覚兼日記』)

1579 尚永7 天正7 r楽ハ弦歌ヲ用フ・…」(r使琉球録』)

1580 尚永8 天正8 出しろといふ河原者がrしやみせんひかせらるる・…」(r御湯殿

上日記』)

1587 尚永15 天正15 呼家上るり等三線等引之・…」(『言経卿記』)

1603 尚寧15 慶長8 X㎜カxen シャミセン(三珠線)三弦の或る種のヴィオラ(r日 1606 尚寧18 慶長11 葡辞替』)

r楽器二金太鼓、三絃等ノ薬アルモ、但々不善ノ作多シ。嘗テ吾 ガ随従者ヲ借リテ之ヲ教フ。亦士戯アリ・…」(r使琉球録』)

「酒手バニシテ曼声ニシテ歌ヒ、三絃ツマビキテ之二和人。其ノ 音哀怨、抑シテ揚ゲズ・…」(『使琉球録』)

1610 尚寧22 慶長15 尚寧王一行が薩摩の川内新田八幡宮に参詣してr三絃の秘曲」を

奉納する。(『喜安日記』)

r琉球人差江戸、・… 在江戸衆徒小姓を呼、しゃみせんを引せけ ると云々、・…j(『通航一覧』)

1612 尚寧24 慶長17 毛泰連(保栄茂親雲上盤良)命を奉じて、貝摺奉行に任じ、兼ね て、絵師・槍物師・魔物師・木地引・御櫛作・三線打・矢作等匠 夫の事を管す。然り而して、此れ等の匠は、旬れの世より始まる か、得て詳かにすべからざるなり」(r球場』)

1664 尚質17 寛文4 「抑B本に三味線を引き初めし事は、永禄の頃ほひ、石村検校と いふ琵琶法師あり。心だくみにして器用無双の者也。ある時琉球 の島に渡りけるに、彼の島に小弓といひて糸三筋にて鳴らす物あ

り・…」(『糸竹初心集』)

8大城學「三線の歴史と文化」沖縄県立図書館紀要 2006p.57

(33)

西暦 琉球 日本 事    項

1699 尚貞31 元禄12 「永禄年中に琉球国より是(三味線、筆者註)を渡す・…」(圧糸 竹大全奴佐』)

1703 尚貞35 元禄16 『永禄の比、琉球より蛇皮二絃の楽器渡り、和泉の国境にすめる 琵琶法師中小路が手につたへ、長谷の観音の霊夢によりて一絃ま

し、三絃とせしを、世に三味線と呼て・…」(『松の葉』)

1710 尚益1 宝永7 唯昔の世、素、三絃有り。未だ何れの世にして始まるかを知ら ざるなり。近世に至り、南風原なる者あり。善く三絃を製す。其 の韻音鰯々として絶えず。遠く四境に聞こえて、世の三絃と音声 相異なるなり。今、亦、知念なる者有り。善く三絃を造り、是の 年に至り、摺られて其の主取と為る。」(『球場』)

1700 r屋嘉比二〔工四』なる。屋嘉比朝寄(1716〜75)編纂。琉球古

年代 典音楽117曲収録。

1719 尚敬7 享保4 冊封使歓待のために、玉城朝薫(1684〜1734)組踊を創作し、

首星城内で上演。

1721 尚敬9 享保6 r楽工十四人アリ。・… 楽器ヲ持ツ。三絃二、提琴一。即チ三絃 ヲ用イチ弓ヲ上二着ス。三絃ノ槽柄ハ、中国二比スルニ短キコト 半尺許。・…」(r中山伝信録』)

1795 尚温1 寛政7 琉歌r歌と三味線のむかし初や 犬子音東の神の御作」(r琉歌百

控』)

1869 尚泰22 明治2 r野村工工四』なる。野村安趨(1805〜71)ら編纂。

西暦 日本 事    項

1912 明治45 『安官祖流工工四』なる。安室朝持(1841〜1916)により編纂。

1939 昭和14 首里城南殿で「三味線祭」が開催。

ユ954 昭和29 肝琉球三味線費鑑』刊行(池宮城喜輝著)。

1955 昭和30 「三線翁長閑鐘」「三線志多値開鐘」E線湧川開鐘」が沖縄県指定有形文 化財(工芸品)となる。

1956 昭和31 「三線江戸与那」が沖縄県指定有形文化財(工芸品)となる。

1958 昭和33 r三線南風原型」(2挺)r三線久葉の骨型」r三線久陽春殿型」(2挺)r三 線知念大工型」が沖縄県指定有形文化財(工芸品)となる。

1986 昭和61 琉球三線楽器保存育成金繕成(初代会長・宮里春行)

1988 昭和63 特別展r三線名器100挺展」が沖縄県立博物館で開催。

1992 平成4 沖縄県三味線製作組合結成(初代組合長・照屋政雄)。

企画展「沖縄の三線・現状と課題を探る」が沖縄市立郷土博物館で開催。

シンポジウムr三線の現状と課題を探る」が沖縄市立芸能館で開催。

第1回沖縄県三味線製作組合技能展(主催・沖縄県三昧練製作組合)が開

催。

1993 平成5 沖縄県文化財調査報告書第110集『沖縄の三線』(歴史資料調査報告書W)

刊行(沖縄県教育序文化課編集)

1994 平成6 「三線盛島開鐘附胴」「三線冨盛開鐘附胴」「三線真壁型銘西平」「三線真壁 型銘安室」r三線真壁型」r三線大真壁型附胴」r三線平中知念型銘時受」

「三線与那城型銘王城輿那」「三線糸蔑長与那城型」が沖縄県指定有形文化 財(工芸品)となる。

1999 平成11 特別展r三線の広がりと可能性展」が沖縄県立博物館で開催される。

三線略年表9

9大城學「三線の歴史と文化」沖縄県立図書館紀要2006p.58 30

(34)

 三線の製作工程

 三線の製作工程は、①樟の加工、②樟の漆塗り、③胴の加工、④胴張り(蛇皮張り)、⑤ 胴掛け、糸掛け、絃掛け(範)、糸駒(義。ウマ)の加工、⑥組み立てである。10

 三線の型

 三線主取によって制作された三線の樟には、現在7つの型がある。その多くが制作者の 名をとって命名されている。南風原型、知念大工型、久場春殿型、久葉の骨型、真壁型、

平仲知念型、与那城型、の7つである。これからそれぞれの特徴について述べる。11        南風原型

①南風原型(フェーベルガタ)

 もっとも古い型といわれる。南風原とい う名称は、三弦匠主取(三線制作者)の名 工の名に由来する。樟は細めで、天の曲が

りが小さく、野坂は大きく曲がり、野丸は 半円形である。野丸と鳩胸の区別がほとん

どできない。この型は、拝領南風原型と翁 長親雲上型の2つに分類される。12

引』

… 日

1

cI

」 

品一 岨目

11「 Ψ

簑位{mm)

南風原型13

10大城學「三線の歴史と文化」沖縄県立図書館紀要2006p.51 王1大城學2006pp.49・50

12大城學2006p.50 13大城學2006p.60

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