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私法的判斷の基礎的指導観念に関する研究(4) : 我不法行爲に於ける違法性理論の進展

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(1)Title. 私法的判断の基礎的指導観念に関する研究(4). Author(s). 中塩屋, 九一郎. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 4(2): 52-57. Issue Date. 1953-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3536. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 4巻 第2 号. 北 海 道 学 嚢 大 学 紀 要 (第一部). 昭和28年12月. 私 法的 劉 断の基 礎 的指 導 観念 に関す る研 究 4 我不 法行 篇に 於 ける 違 法性 理 論の 進 展 中 塩 屋. 九 一 郎. 北海道学聾大学札幌分校法律学政治学研究室. Kuic iH) NAKAST lopment o l l i fthe Theory ofl l l ty IIOYA : The Deve - ega i )anese L乳w of Tort l 1 the Ja 1 ・. 1 . 序. を負担せしむるに つき法律上正当の理由があ る 場 合 に. 言. 一般的不法行篤の原則を揚言 した我民法第 709燐は、 その主観的成立要件として 「故意」過失」 を掲げると共 に、 その客観的成立要件としては 「権利侵害」 を掲げて. いる。 それ故に我不法行篇法の理論は、 主観的には過失 責任主義の原理の上に立ちつつ、 他方客観的には違法性. (権利・ 侵害)の理論の上に立っているものと言 わ な け れ ばな らない。 然るに我民法は一般不法行罵の外特殊の不 法行罵に就ても規定を設け、 その第717燦第1項但書に. 於て土地の工作物の所有者の無過失賠償責任を認めてい るのである。 而して近代的企業の経営に伴う所謂企業責. は、 之を根拠として不法行篇の成立を認むることもまた 2 ) 不可能ではある まいと主張しておられる。 ここに於て、 不法行罵の本質は違法にあるという従来 の観方は、 果 して正当であるか否かに就ての新なる疑問. を生ずるに至ったのである。 かくて本稿の目的もまた我 不法行鴬法に於ける違法の概念が 「権利侵害」 を基点と し、 それが社会進展のうちに如何様に発展 したかの跡を 岐り、 且つ将来 如何なる方向に向って進展しようとする かを、 専ら学説を通して検討することによって、 この疑. 問に答えんとするにある。. 1 ) 我妻 栄 債権法 (不法行篇) 「現代法学全集 3頁以下。 所牧」 第37巻 407頁以下、 第38巻 44 牧野英一 法律に於ける進化と進歩 189頁以下 2 ) 末弘巌太郎 適法行篇による 「不法行傷」 『法 律時報所験』 第5 魯7号 8頁以下。. 任の如きも、 またこの無過失賠,償責任の理論を以て論ず べきことを学説・判例も一般に認むるに至っ た の で あ る。 そうすると我不法行澱法に於ては、 過失責任主義の 認むるが如き 「故意 ・過失」 なる責任形式は、 最早その. 2 . 「権利傷害」に微衷せられた違法の性格. 成立の篇の不可鉄の要素であるとは言い得なくなったわ けである。. 然し他方我民法は行篇を適法行鷺と違法行 篤 と に 分 ち、 不法行篇と債務不履行とを共に違法行鷺に届せしめ ているのである。 して見ると不法行篇たろが罵には、 何 等かの意味で違法性を有するものでなけオ滅ばならないこ. 生が不法行鴛の本質であると謂われ とになる。 これ違法1 る所以である。 ところが近時適法行篇による損害賠償の理論をも、 不. 法行篤理論の晒唯に探り入れて説明せんとする学説が提 唱せらるるに及んで、 或る一派の学者は不法行鷺の成立 1 ) 他の学 要件のうちより違法性を排除し得 べしと唱え、 者は不法行篇の成立を認めんとするには、 必らずしも違 法性に拘泥する必要はなく、 他に加害者をして賠償義務. 我民法第709係の掲ぐる 「権利侵害」 の概念が、 あま りに狭虚に失するものとして、 これに置き代うるに 「違. 法性」 なる概念を似てすべしということが主張せられ、. そしてそれがまた我不法行篇法に於ける現代の通説とな. っているわけである。 而してこの主張を、 我学界に於て いち早く提唱されたのは実に末 弘博士であられる。 今薮 にこれを要約すれば、 『権利侵害に於ける権利とは特に 何々権と名付けられるものではない。 元来或る人に 「権利」 があるというのは、 一面彼 は権. 利行鷲と して積極的に権利内容実現の行篇を篇 し得 べき ことを意味すると同時に、 他面一般第三者 は権利者の権 利実現を妨害すべき行篇を鴛してはならないと云う消極 的意味をもち、 不法行鷺の制度は此の消極的方面に注目. - 52 -.

(3) . 私法的判断の基礎的指導観念に関する研究 4 我不法行罵に於ける違法性理論の進展 して権利侵害は、 即ち法律の侵害禁止に違反する「違法」 の行篤であるとする点に根拠を有するものである。. 先鞭をつけられたのはわが末川博士である。 そして、 今. それ故に、 法律的に保護された利益 が第三者によって 侵害されたならば、 其処に権利侵害ありと解すべきもの とし、 或る人が他人の行篇によって故なく損害を興えら. かろう。 09憐が形式 博士も末弘・牧野両博士と共に、 民法第 7 「権利侵害」 なる要件を掲 げることは、 不法行澱の 的に・. ようなことを探究せずとも、 筒所謂 「権利侵害」 あり、 不法行篇の成立ありといい得べきではあるまいか。 即ち. うかとして、 特に同係の掲げる 「権利侵害」 の意味を探 研しておられるのである。 今博士の主張の概略を遮ぶれ ば、『凡そ法律とい うものはその対象である社会事象を、. れた場合に於て、 其の加害者が法律の禁止に違反する違 法のものである以上、 特に何々権の侵害があったという. 法典の所謂 「権利侵害」 とは法律の禁止に違背 して違法. に他人の利喬を侵害したと言うほどの意味であって、 例. えば善良の風俗公の秩序に違背するが如き方法に於て一 即ち違 法に-他人の利纂を犯 したるものがある以上、 違. 法の利益侵害即ち 「権利侵害」 ありたるものとして、 不 法行篇の成立を認めて然るべきものと思う。 』 と説いて 1 ノ◆ お られ る。. また牧野博士も従来の権利本位の法律論の批判よりは じめられて、 公の秩序善良の風俗という方面より之が観 念を改造し、r『人は常に公の秩序善良の風俗に反 して行. 動す べきにあらずということを基点とし、 其反面に於て. 他人は人の斯くの如き行篇に因りて損害を受けしめられ. ざる権利を有するものと解することが出来ないであろう か。 そうすると、 かかる反公序良俗的行篇によって損害 を受けるときは、 常に権利の侵害ありと解す べきもので 2 ) ある。 』 とせられる。. このように末弘・牧野両博士の説かるるところは、 そ の立論の仕方に於ては多少異るところがない で も な い. 日の通説の中心も博士の見解に従うものと見て差支えな. 認めうるべき範囲を不当に限縮しているものではなかろ. 先ず法律の理念という齢にかけた上で、 これ らを法律の ・ 世界に取り込むのである。 そして法律の世界に於てはこ れらを法律秩序としての一大体系につくり上げているわ けである。 博士はその秩序を特に全体秩序と呼んでお ら れる。 かかる観点から博士は更に法律と権利との相関関 係に言及せられる。 即ち個々の権利の内容は全体秩序と しての法律の部分を形成している部分秩序に 他 な ら,な いのであるから、 法律は秩序を全体として抽象的に見た : 権利は斯る法律が主体との関連に於 場合の概念であり 、 て、 個々に具体化せんとする場合の概念である。 故に権 利を侵害するということは即ち法律秩序を破ることとな り、 それ自体が遵法であるとし、 その侵害の状態が責任 能力者によって惹起された場合たると、 責任無能力者乃. 至自然の力によって惹起されたろ場合とにかかわらず 、 等しく違法であると断ぜられる。 而して今日の法律制 度 の下にあっては、 違法と評贋されるものは権利侵害とい. う形に於てのみ認められるのが普通であるが、 命令的法 規がそれ自身で評慣的機能を有することによって独自に. 違法とい う許質の規準であることもあれば また顕現的 が、 要は不法行澱成立の要件としての権利侵害の存在す 、 { 法規が欠 けている場合には、 法律の根本理念たる公序良 09鱗の適用 る場合を広く認めることによって、 民法第 7 俗に反するという意味に於 て違法という許贋が鴬される の範囲を広め、 社会の健全なる法律観念に適腹する結果. を招来 せしめる篤に、 侵害さるべき権利の存立の範囲を ひろく求めようとする従来の進歩的解釈論め に 比 す れ. こともあるのである。 そうすると、 違法と評鱈されるも のは必 らずしも権利侵害という形に於てのみ表われると. ば、 その権利の概念を窮極にまで拡大 したと同一の結果 に到達するものであり、 権利概念を全法律秩序との関連 に於て把握したものということができるであろう。 従っ て、 不法行篇は斯る修正された概念と しての権利の侵害. は限らない。 かくて権利侵害は違法性を検定するための 一標準に過 ぎないのであ・ り、 それは単なる違 法性の徴表 に止るものとしておられる。 何となれ ば 若しすべての 、. 権利侵害が違法であるとするならば 正当防衛 緊急避 、 、. -違法行篇一を要件と して成立するものと解される。 従. 難、 事務管理乃至被害者の承諾の如き違法阻却の事由が. る批判を通 して、・その修正をなさんとする点に於ては全 く同一の方向に向い ているということができる。. ならないからであると。. って、 これら両謙は従来の形式的概念法学的見解に対す i存する場合にも、 筒かつ不法行鷺の成 立を認 めなければ 然らば我民法第 ? 09燐が何故に 「権利侵害」 を掲げた のかというに、 この点に関 しては博士 は権利・ 侵害の大部. かくの如く、 「権利侵害」 の概念を弾力性ある違法性 概念に置 き代えんとする所謂 「違法性理論」 を中心とす. 分は違法阻却の事由のない限り違法性を帯びるから. る不法行篇法論が提唱され、 而もその合理性が直観的に. の最も普通の場 合を捉えて違法性認識の一つの手懸りと. 或いは批判的に明かにせられたとき、 斯る違法性理論に 何等かの客観的基礎づけを奥えんと し、 その概念構成に .. 一 53. こ. したに過ぎない,ものであり、 従っ, て民法第709僕は故意 過失に因り違法に加えられた損害とい う意味に他な らな.

(4) . 中塩屋 九一郎 4L い。』 と し て お られ る。. このように、 博士の権利の概念自体の考え方は必らず しも末弘・牧野両博士と一致しない。 従って、 不法行篇 を成立せしむべき違法状態は、 必らずしも権利侵害のみ. によって発生するものではなく、 権利侵害のない場合に も発生し、 不法行篤を成立せしむることある所以を特に 力説しておられるのである。. 以上何れの見解も権利なる概念それ自体を全法律秩序. との関連に於て、 規定しようとする所謂客観的違法論の 立場に立とうとする態度は同一であり、 従って、 第 709. 係の適用の実際的結果に於ても殆んど同一の結果に到達 0 9候の解釈に . するものである。 それにも拘 わらず、 第7 即して見るときは、 そこに解釈の態 度仕方の上に幾分の. 差異があるということができると思う。 何となれば、 末 弘・牧野両博士のこの点に於てとる 態度は、 あくまで法 文上の叉言即ち 「権利・侵害」 なる概念をその不法行澱成. 立の篇の必要不可欠の要件としての地位を保持せしめつ つ、 その概念を従前の解釈より変更し、 義務 本位に構成. ・. つことが明かになったわけである。 2頁以下。 1 ) 末弘巌太郎 民法講話 上巻 11 吾妻光俊 我不法行筋法に於 ける違法性理論の 動向 「民商法雑誌 、所牧」 第3巻 i 号 34頁。 石本雅男 不法行篇 崩法に於ける過失主義と無過 68頁。 - . と経済所 「敗」 第5 巻5号 60 失主義 「法. 5 2 2 0 頁以 石本、.民 事責任の研究 法学叢書 下。. r. 7頁 2 .性 34 ) 牧野 英一 法律に於ける具体的妥当 以下。 吾妻、 前掲論文 34頁以下。 石本、 前掲 論文 64頁以下。 石本、 前掲民事責任 の研究 5 , 3頁以下。 19版) 857 3) 鳩山秀夫 日本債権法各論 下甥 ( lo頁以下、 o l 債権各論 頁以下。 末弘巌太郎 5頁。 1042頁、 1050頁。 石 本、 前掲論文 6 4) 末川樽 権利侵害論 法学講書 11(昭和i8 年 75一316頁。 吾妻、 前掲 版)174頁以下、 特に 2 論文 36一39頁。 石本、 前掲論文 61頁以下。 石本、 前掲民事責任論 47頁以下、 特に52頁。. 3 , 客観的違法性理論と過失責任主義との関係. することによって同僚適用の結果を妥当ならしめようと するにある。 然るに、 その表現に於ては一礁 「権利侵. これまで、 私は我民法第709係に掲げた 「権利侵害」 に徴表された違法の性格は、 客観的違法性と言わるべき. い .法行鴬としての違法行鷺は常に権利侵害行罵であると 0 7 9 第 果 少くとも同係の妥当な根拠は うことになる結 、. ているが故に、 かかる違法行篇によって惹起された損害 の賠償責任の発生は、.「故意・過失」 という主観的要件. とし. て承認するという立場に立っ 害」 自体を妥当なもの, ものであると言わなければな らない。 ここに於ては、 不. ものなることを述 べた。 然るに、 同係は不法行篇の成立 要件として更に 「故意・過失」 という主観的要件を掲げ. 膝の係女の内部よりそれの概念分析を通 じて導き出され るわけである。 それ故に、 第 709儀の実質的妥当性の根. によって決定されなければならない。 ここに於てか、 客. 拠は、 ー感形式的にはその係女自体に内在すると見られ ているということを得るが、 しかも斯る従来の解釈を改 09係自体の外部に 変せしめる根本的動機は、 却って第 7. のうちに存 於て、 社会に於ける健全なる法律観 念の要求. できる その意味に於て 在するということが 。 、 斯る立論 の仕方はその形式的表現に於ては、 従来 の解釈学的であ. るように見えるが、 笑談蛮的には極めて自由法学的な立論 の仕方であると言 わなければな らない。 之に反し、 来月1 博士の解釈態度は人類社会に共通なる規範意識から見る と、 第709係の 「権利侵害」 は単に違法性の徴表がある. 観的違法論と過失責任主義との関係が問題に な っ て 来 る。. 元来理論を貫こうとする限り、 違法論に於ても責任論 に於 ても一律に客観的立場をとるか叉は主観的立場をと るかに終止 しなけれ ばな らない。 そうすると、 客観的違. 法論は無過失責任と主観的違法論は過失責任主義と相対 醸せしむべきである。 何となれば、 客観的違法論に於け 全ける責任 の 発 生 と る違法の決定と無過失 責任主義に万 は、 共に行篇 者の故意過失とは全然無関係になされるが 故に、 客観的違法行鷺があれば、 直ちに責任があるとい うことになり得ない のであり、 主観的違法論に於ては違. と見るの他はないのであるから、 同憐にその実質的妥当. 法の決定と過失責任主義に於ける責任の発生とは、 共に. 質より展開し基礎ずけておられるに拘 わらず、 而も解釈. 意過失なきところに違法性なく、 従って責任の有無もま た問題にならないからである。. 性の根拠を内在せしめているということになる。 この意 味に於て、 博士が権利侵害の理論を専 ら抽象的な法の本. 行儒者の故意過失にかからしめて決定されるが故に、 故. 理論に於けるその論証の,仕方は正に歴史的実証的である. 我不法行罵法はローマ不法行篇法の流をくんでいると ローマ不法行篇法に於ては、 言われているのであるが、、. と言われる所以である。 かくて、 不法行鴬成立要件としての権利侵害の解釈上 有する意味内容が一隙確 立すると共に、 我不法行篇成立. 要件としての違法概念が、 客観的違法性理論の立場に立. すべて主観的立場に立って違法や責任の概念を構成して ,では、 違法を行篇者の主観的容 いるのである。 即ちここ 態如何にかからしめているが故に、 その主観的容態は軍. 一 54 「.

(5) . 私法的判断の基礎的指導観念に関する研究 4 我不法行篇に於ける違法性理論の進度 」さるべきにも拘わ らず、 予見せ に結果の予見、 或は予見. り、 従って、 過失責任主義に於ても到底ローマ不法行篇 法に於けるが如き意味と同一の過失責任主義の原理に立. に於ける事実ではなくて、 それ自体のうちに非難さる べ き原因を保有する意識過程である。 これ敵に、 ローマ不 法行篇法に於 ては、 斯る主観的容態を伴わない限り違法 もなく、 従って権利侵害もないとせられ、′そこでは我民 法に於けるが如く権利侵害なる概念は、 その主観的要件. つわけには行かない。 何となれば、 配達の如くローマ不. ざりし意味 に於ける所謂故意過失というが如き心理過程. のうちに吸収せられていたのである。 故にそこ では我民 法に於けるが如く、 特に権利侵害というが如き客観的要 件を掲げる必要はなかったわけであり、 理論もまた一貫 してい た ので あ る。“. ,然るに、 我民法第709係の解釈としては、 同係に掲げ. 法行篇法に於ける過失主義は、 結局違法性を決定すべき 役割を演じていたのに反して、 .我不法行篇法に於ける過 失責任主義は責任の有無を決定すべき役割をもつものな. のだからである。 要するに我不法行篇法に於ける違法性. 理論は客観的違法性理論であり、 故意過失の如き主観的 容態は違法性決定の要件ではなく、 却って損害賠償を何 人に負わしめるかを定める場合の責任決定の要件に他な らないことを知ったわけである。. ing dmomentim r6n i iva‐ 1 ・ chen pr s ) Jher . Schul t r echt .8 .1867 .S .40 , 平野 義 太 郎 民 法 に ,S 於 ける ロ ー マ 思想 と ゲル マ ン,思想 ・(昭 和 27 年. る 「権利侵害」 が極めて客観的に解釈せられているに拘. わらず、 主観的責任要件としての 「故意過失」 はまた極 めて主観的に解釈 せられているのである。 その結果客観. 6頁-290頁。 末弘、 前掲各論1003 増補版) 28 頁。 末川、 前掲書 24頁一84頁。 我妻、 前掲全 0頁。 石本、 前掲論文 集 第37巻 409頁r‐41 53頁、 同頁註 1 ) によれば岡松 参太郎 無過失 損害賠償責任論 4頁にもある由であるが、 該 本 が絶版になってし ・るため参照し得なかったこ とを薮にことわっておく。 石本、 前掲民事責任 論.25頁以下。 我妻、 損害賠償理論に於ける 『具体的衡平主義』「法学志林所験」 第24巻、.4 6頁以下) 号 40頁 (通 し頁47 。 2 ) 我妻一 前掲全集、 第37巻 415頁。 石本、 前掲 論女.72頁。 石本、 前掲民事責任 の研究 75頁。. 的に違法はあるけれども直ち に責任ありというオ っけに行 かなくなり 理論としては甚だ一貫しないことになる。 何となれば、 元来違法と責任とは共に法律的概念である. に拘わらず、 夫々の概念構成の基盤を異にしているから である。 即ち客観的違法の概念は法概念自体の分析を通 じて必然的に導き出されるもので、 それは法の本質のう. ちに必然存在するに反して、 責任の概念は斯る法自体よ ′それは具体的秩序 の性格 り導き出さるべきものでなく、 に寓するものだからである。 勿論我民法の下に於ても、 ・見方によってはローマ法的 に 「故意過失による権利侵害」 のみが違法性を有し. 「故 意過失によらない権利侵害」 の場合は違法性を有し ない のだと解釈できないわけでもない。 然し権利侵害●を 行篇者の主観的容態にかからしめて、 或る場合は之を違. 法とし、 他 の場合は之を適法と解するが如きは、 法の安 定性の立場から見て到底その妥当性を認めるわけにはゆ かない。 されば我妻教授も 「蓋し、 不法行鷺を以て個人. の自由活動の最小限度の限界を謝する制度な り と す れ. ば、 法律が他の個人に対して歌興した権利を侵害せざる 以上、 個人の活動は制肘を受けずとなすことは極めて当. 然だからである。 換言すれば、 各個人はその権利の行 使 に於て責任を負わず、 叉他人の権利を侵害せざる限り責. 任を負わずとなすことが最もよく、 各八の権利を中心と して最大限の自由を保障せんとする法律理想に適するも 09俵が不法行 2 ’と説いて、 我民法第7 のだからである。 」 篇成立要件として権利侵害を掲げることは、 個人本位の. 法律理想から見て、 合理的意義を認め得るとしているこ とからも明かにうなずかれるのである。 かく 考えて来ると、 我民法第709燦の解釈としては到 底主観主義違法論の立場に立つことはできな い の で あ. 4 ,.客観的違法性理論の限界. 通説の認める客観的違法性理論は、 違法なる概念を専. ら法の本質自体から導き出して来ており、 従って、 不法 行罵に於ける責任の理論とは無関係に独立になされて来. たことは既に述べた通りである。 然るに斯る性格 の違法 性理論による時は、 適法行鴬によって生ずる賠償責任の 根拠を基礎づけ得ないとして、 違法の概念を寧ろ反対に. 責任概念との関連に於て求め、 従来の客観的違法性理論 よりも一層違法の概念を拡張せしめて説かんとする学者. が現われるに至った。 これ我妻柴教授である。 教授によ れば 『不法行罵は違法なる行篇なりとせらるるときは、 一般に 「許されざる行罵」 なりとの意味を有する。 然し 社会生活に於ける個人の行篇を、 許されたろ行篤即ち適 法従って無責任、 許されざる行篇即ち違法従 っ て 有 責. 任、 と 繊然区別することは決して正確なものではない。 許されたろ行篇にして、 しかも賠償責任を伴うものは既 に相隣関係に適例を存ずるのみならず、 他の部分にも決 してその例に乏しくない。 のみならず社会的公平による 損害の分担の理想から見れば、 その行篤を許してしかも 因って生ずる損害を分担せしむることが最もよく理想に. 一 男 -.

(6) . 中 塩.履 適する場合が少くない筈である。 必然的に危険を包蔵す る企業を許してしかもそ の損害を絶対的に賠償せしめん 績責任の理想を とすることは、 実に許されたろ行馬の賠, 前提とするものである。 かく考えるとき、 私は、 不法行. 篇に於ける違法性は行鷺そ のものを絶対に許 さざる意味 .これを篇 ではなく 「因って生ずる損害を分担せずして、. すことが公序良俗に反する」 との意味に解すべきもので 1 )としてお られる。 』 あると考える。 今この簡単な論述を通して教授 の主張を見るに、 それ. は先ず第一に、 賠償責任は必らずしも違法行鷺を前提す る必要はない。 許されたろ行篇即ち適法行罵に於ても生 ずるものであり、 而もその点に於 ては我民法にも明かに. その規定が存する。 即ち相隣関係に関する我民法第 209 2燐、 同232係等の外、 その他の関係に於 憐2項、 同21 65 1係、 同第 720係 3 8 4 燐 ても同第 、 同第341燐、 同第. 2 項等にその趣旨がうか がわれる。 第二に、 不法行馬に. 於ける違法性の概念は、 従来の客観的違法性理論の説く が如く、 法の本質より導き出されるも のではなく、 却 っ て損害 の分担 という賠償責任との関連に於て、 構成さる べきものだというにある。. そこで、 更にこれ等の点について教授の見解を詳細に 検討すると、 元来適法行鷲なるものはそ の反面に於て、 その行鴬が罵されるに当って生ずることあるべき何等か. 丸 一 郎 鴬に於ける 「違法性」 の要件は -- 「過失」 の要件と同. 様--一定の権利侵害の結果を或人に帰責するを法律上 正当とするや否やを決定する .篇めの要件である。 此の故 に理論的に考えて違法性なきも筒帰責の正当さを基礎附 くるに足る べき 何等か他の事由があれば、 必らずしも違 法性にのみ拘泥することなく、 その事由を根拠として賠 償責任を肯定し得る訳 であるが、 現行民法そのものの解. 釈としては筒別に現行民法が違法性以外の事由を帰責原 因とすることを解釈論として禁じているかど,ぅかを問題 3 )としておられる。 』 とせざるを得ないのである。. ところが、 我民法は違法性のない適法行罵による賠償 責任をその内部に於て認めているとせられ、 その事例と して隣地者関係に関する民法第209膝2項、 第 212燐、. 第 232傑等の諸規定をあげられ、 且つそれらについて簡 単な説明を施しておられるのである。 そうすると、 解釈. 論に於ても我民法が違法性なき場合には絶対的に賠償責 任の発生を否認する主義をとっていないことは明かなる 事実であると せられ、 結局 『適法行澱による「不法行澱」 の原理は「権利侵害」そのものが必然に他の権利を侵害す べきに拘らず、 其権利の存在を許すことが社会経済上憤. 値ありとして要求される場合には、 面其権利の存在を 許しつつ、 之によって蒙るべき他人の権利に対しては損. ノ こある 害賠償によって調節的救済を輿ぅべし』り というモ. の加害行鷺は、 その行周着自身が賠償 の責に任ずべきも のであり、 そしてそのことはまた明かに公の秩序善良の. と結論してお られる。. あるというに他ならない。 かくて教授の主張せらるる違 法性なるものは、 実に適法行篇それ自身の半面に要請さ れる責任との関 連に於 て定まる特殊の性格をもつもので. て取扱わんとしておられるのである。 従って、 この立場 からはかの所謂企業責任の如きも、 適法行罵による賠償 責任であると同時に違法行罵による賠償責任とも見得る. あり、 それは明かに従来 の客観的違法 生理論や主観的違 法性理論とも性 格を異にするものであると謂わなければ. ことにもな る。 ところが企業の如く法律が一方に於て有 益と認めて許した一定の行篇を行 観護果、 筒発生した損 害を賠償せしめんとするには、 従来の客観的違法性理論. 以上見たように、 我妻 教授 や末弘博 土に於 ては、 萄も る 社会生活関係から生ずる損害が法の立場から見て賠償に 風俗の要求するところであるというにある。 そ う す と、 適法行鷺はそれ自身としては違法性はないわけであ .値すると見られる限りに於ては、 た とい違法行鷺によっ て生ずる損害たると適法行鷺によって生ずる損害たると .適法行篇がそれ自身の許されたる容態をとらない るが、 罵が損害を発生せしむる時に於て で、 換言すればその行 を問わず、 これ らを統一的に規律し得べき賠償滋墓論の構 性 の 成を説かれ、 而も、 筒、 これを不法行馬理論の範鴫とし これを分担 しない場合、 は じめて違法 を帯びるも で. 性理論は具体的場合に な らない。 それ故に、 教授の違法-. 於ては、 それぞれの場合に於ける被侵害利益の程度と侵 害行鰯の態容との相関関係に於て較量し決定されなけれ. ばならず、 従って斯る性 格の違法性に基づいて具体 的に 損害の分担を定めなければならないことになるわけであ る。の そして、 斯る見解は適法の行篇にも違法性の成立. を認めることになるのであるから、 通説の詔 、める客観的 広い範囲に 遥かに 違法性理論の見解をとる場合よりは、. 於て賠償責任を認め得ることになるわけであるo 次に、.末弘博士の見解を見るに、 博士は 『元来不法行. を以てしてはその根拠を合理的に説明し得ない。. 何となれば、 ここに於ては最早法を破ると言う意味の 違法ょ性は絶対に存在しないのであるか ら、 通説の認める 客観的違法性理論はその限界点に達し、 言わば切れなく なるまで鋭くとがれた小刀にも比すべき運命におかれる こととなるからである。 それにもかかわらず、 絃では斯 る適法行鷺による賠償圏論を不法行篇の範唯として提唱 せんとするのであるから、 勢い不法行篇の本質ともいう べき違法という概念を無硯する ,わけには行かない。 そこ. 一 56 一.

(7) . 私法的判断の基礎的指導観念に関する研究 4 我不法行篤に於ける違法性理論の進展 で我妻教授が従来の客観的違法性理論の認める違法の概 念より一層その範 囲を広め、 逆に責任に関する原理を違. 慮するものの、 必 らずしもそれを唯 の責任帰属の根拠 としない点に於て、 また更に分担の結果被害者が或る程. いう立場から、 その責任の半面に於て認められる主観的. 度の責任を分担すること、 即ち損害を甘受することに就 て積極的な根拠を奥えるという点に於て、 個人主義的賠. 既に述 べた如くである。 この点に関し、 末弘博士は広く. る。D. 法なる概念によって聴回しようとして、 公序良俗違反と. 色彩を帯びた 種の違法性理論を唱えるに至ったことは. 賠償問題を解決せんとするには、 必 らずしも従来の客観 的違法性理論にい, う違法の概念に拘泥する要はなく、 た とえ法を破るという意味の違法はなくても、 加害者に賠. 償責任を認め得べき何等かの根拠--私はそれを社会的 不調和の是正という立場か ら構成される批難+ 性即ち違法 性と .解せんとする-- があれば足りるとしておられるこ ともまた既に述 べた通りである。 要するに、 我妻教授及 び末弘博士の主張はその説き方こそ多少異なれ、 両者の 意図するところは略々同様のものではなかろうかと思わ. 償理論と著しい対立を示すものに他ならない か ら で あ そうすると、 国体主義的損害分担の責任理 論 に 於 て は、 最早加害者に過 失によって批難するということは本 質的なものではなくして、 斯様な損害を惹起せしめた行 篇に内在する社会的雄難.性によって批難するのである。. そうすると、 違法とは民法上斯様な批難性即ち違法性を 内含する損害の発生であり、 違法行鷺とはかような結果. をもたらす容態である。 そうすれば、 個人的立場に於て はたとい不利益であっても、 社会全体の見地から見 ては. 望ましい歌態即ち大多数の者にとって利纂であること- 公共の幅随一は決 して違法とはならないのである。 従っ. れる。 i ) ,我妻、・前掲全集 第37巻 417頁以下。 石本、 前掲論文 77頁-80頁、歩射こ77頁。 石本、 前掲 3頁 98頁、 特に94頁。 ・究 9 民事 .責任の研 8頁 449頁。 吾妻 17頁、. 2 44 ) 我妻、 前掲全集 4 前掲論文 40頁。 石本、 前掲論文 77頁 80頁 特に79頁。 石本、 前掲民事責任の研究 93頁. て、 違法とは単なる抽象的な秩序違反ではな い の で あ る。. -. これに反して、 個 人のうけた不利益に関して上漉 した . 士鵬 性を認め得る場合があれば、 かような ような社会的ま. 98頁 特 に96頁。 、. 3 ) 末弘、 前掲諭丈 8頁一=頁、 特に9頁 lo頁。 4) 末弘、 前掲論女 8頁- =頁、 特にlo貫一”頁。 5 , 違法性理論の進路-- 結語 性理論は、 「権利 以上私は我不法行馬法に於ける違法‘. 侵害」 か ら 「客観的違法性理論」 へ、 更に 「責任の半面 に認められる違法性理論」 へと三縛して来たことに就い て述 べた。 ここに於て、 不法行馬に於ける違法性理論は 最早や責任の理論を抜きにしては、 その本質を充分に把 えることができないことを知つたわけである。 そこで、 今これを責任論の立場から見るな らば、 我不. 法行篇法は個人主義的賠償責任論から園体主義的損害分 担の責任鰹論へと推移するものではなかろぅかと思われ る。 そして、 仮に国休主義的損害分担の責任理論へと完 全に移行したと仮定しても、 違法性理論の領 域 に 於 て. は、 違法性という概 念 を全然不法行鷺から排付し得ると は到底老え得られないものではなかろうか。 何 と な れ ば、 圏体主義的民事責任論の原理はその目的とするとこ ろが、 損害あればその填補に当って国家乃至社会国体の. 立場より、 その損害の- 性質被色 ,の分布その現実に興える. 苦痛や不利益等について、 一面的考察を避けて全面的に 各当事者の立場に即してこれが分担の限度を糠討し、 そ の分担決定のためには、 加害者 の主観的容態を充分に考. 損害こそは秩序違反の具体的内容なのである。 従ってこ の場合の違 法性というものは最早かような損害というこ. とのみに関連しているのであり、 既に従来考え られてい たような正不正の問題の領域を離れて考えられる社会の 不調和ともいう べきものであり、 それに対する賠償も加 害者の不法な行罵に対する購いというよりも寧ろ社会的. 不調和の是正というべきものである。 而して、 正不正と いう概念も却ってこの立場より構成されるものなのであ る。 そうすると、 違法性というものは従来の公の秩序善 良の風俗に違反するということに関する主観的違法性理 論でも、 また客観的違法性理論でも説明することのでき ない性格のものであると言わなければならない。 それは 最早斯る違法概念からは超越したものであり、 実 に社会 的不調和即ち公共の禰融違反として、 社会的に解決しな. ければならない所の損害の填補に他ならない ,のである。 この点に於ては、 従来の違法性概念とは切り離された責 任のみが、 この領域に於ては考えられるわけである。 然 し賠償責任の半面 にそれらの原因 乃至根拠として、 矢張 り違法性即ちま遊離性というものが考えられるとすれば、 丁度その違法性こそがこの領域に於ける違法性そ のもの であり、 従って、 我不法行篇法に於て要求される違法性 ではなか も、 また斯る生格のものへと進路を求むるもの・. ろうかと予想されるわけである。 1 ) 石本、 前掲民事責任 の研究 244頁以下、 特に. 」 57 -. 248頁。.

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