第Ⅱ部 研究編
○
長谷川成一 山と飢健 一近世後期津軽領の山林統制 と天明飢健 一○
菊池 勇夫 近世 の餓死者供養 について山と飢健
一近世後期津軽領の山林統制 と天明飢健 一
長谷川 成 一 は じめ に
筆者 は、
2 0 0 6
年6
月、「近世後期の自神 山地 一山林統制 と天明飢健 を中心 に ‑」
(『自神しらかみ
研究』 第
3
号 弘前大学 自神研究会、長谷川2 0 0 6 )
において、 自神 山地 に焦点 をあてて 同山地 に関す る弘前藩の山林統制の実態 と、天明飢健 における同藩の同山地 をめ ぐる御救 山について論 じた。具体的には、天明4
年( 1 7 8 4 )
の弘前藩の藩政史料 を用いて、近世後 期の自神 山地が岡津の山林政策によって どの ように変化 したか、加 えて天明飢健の飢餓 に 苦 しむ村民 たちに自神 山地 は どの ような救済の機能 を果た したのか、 について検討 した。その結果、次の ような結論 を得 た。す なわち
1 8
世紀後半の自神 山地 は、すでに槍 ・杉 な どの商品価値の高い材木の大量伐採 と市場‑の移出によって、森林資源 は枯渇状態 にあ り、櫓 などは現在の向日神岳の付近 に一部樹林 として残 るのみ となっていた。 また天明飢健 に あっては、弘前藩が同山地での材木伐採 を村民‑全面的に許可 して、民衆の救済に大いに 資す ることになった、 との見解 に至 った。
そ こで本稿では、前述の拙論が自神 山地に限定 した論究 に止 まらざるを得 なかった点 を 克服す る意味 も含 めて、津軽領全域 に敷街 して
1 8
世紀後半の弘前藩 による山林統制の全 体像 を把握す ることを 目ざす ことにす る。その上で、1 8
世紀後半、 日本史上、最 も多 く の餓死者 を出 した、天明3
年( 1 7 8 3 )
の凶作 ・飢鐘 と山林 について、つ ま り山が領民の救 済に果た した機能 を明確 に し、救済 システムの実態やその問題点について検討 を加 えるこ とに したい。 山を媒介 とした飢民救済策の具体的な展 開過程 を、全領的に明確 にで きれば と考 えている。本稿では、主 として天明
4
年 「諸 山之内上山通 よ り西之浜通迄 ・中山通 より外浜通古懸 山迄 御 山所書上之覚」
(資料番号1 8 0
号 弘前市立弘前図書館蔵人木橋文庫、以後、「山 所書上覚」 と略記 し、行論上、特 に出典 を断 らない限 りは、全て同史料 に拠 っている) に 依拠 して、1 8
世紀後半の津軽領 山林の実情 を明確 にして行 くことにす る。なお、「山所書上覚」は刊本 に未収録の部分が存在するので、該当す る未刊行箇所の 「中 山通」 を本稿末に付録 として翻刻 ・掲載 した。参考に していただ きたい。
Ⅰ
天 明4
年 (1784) 「山所書上覚」
と森林 管理 区分 につ いて「山所書上覚」の冒頭 には、次の ように史料作成の趣 旨が記 されている。
御郡内諸山槍 ・杉 ・雑木共二木立之模様井御用木仙取御 山所、御故 山 ・御払 山、其外 御留山 ・明山共二委細可 中上 旨、御尋被仰付奉長、乍恐左二奉 中上候、
上記 によると、同史料 は、弘前藩の御 山方吟味役が全領的に山林の状況 と山林制度の実 態 を調査 した報告書 なのであ り、天明
4
年 (1 7 8 4 )
、管理す る村 ごとに領内の山々について、生育 している樹種、樹勢、留 山 ・明山の状況、材木伐採 の実態 をまとめた ものであった。
おす くいや ま
具体 的には各 山の槍 ・杉 ・雑木 な どの生育状態、御救 山 (飢健の時 な どに留 山へ入 山を許
おはらいや ま お とめ や ま
して、伐木 を許可)、御払 山 (材木 の売却 を許可)、御留 山 (藩が直接支配 し、領民 は許可
あけや ま
な くして入 山で きない)、明 山 (農民 の林野利用 が許 された 山林) の実態 を調査 ・報告 し た史料 であった。 これ に よって
、1 8
世紀後半 におけ る弘前藩の 山林統制 の全体像 が判 明 す るとともに、領内山地の山林 としての具体相 や特徴 も浮 き彫 りになるのであ る。次 に 「山所書上覚」の構成 は、図表
1
の ようになってお り、 これは津軽領内の山々の 山とおり そとがはま
林管理 と区分 の実態 を示 している。領 内の山林 は、上 山通、西之浜通、中山通、外浜通の
4
つ に区分 され、他 に黒石津軽領 との抱 え合 いの山地が存在 した (邪もl)。 しか し、実際 に は 「上 山通 よ り西之浜通迄」 (大鰐 か ら自神 山地方面 と岩木 山か ら日本海方面) と 「中山 通 よ り外浜通 ・古懸 山迄」 (津軽半 島の 山地か ら八 甲田山北麓 を経 由 し碇 ヶ関方面) という二つの山系 に区分 されていた (脇野
2 ( 氾6 a )
0図表
1
「話山之内上山通より西之浜通迄 ・中山通より外浜通古恵山迄御山所書上之覚」の構成通名等 遇の艦Pl 刊 本 噂̲声
上山通 碇ヶ関山より日屋野沢山迄 F
C2
青森県史』資料編近世##%%1 8 0 3
津9
の村 .山のうちカ村領惣山o図表N n4 9‑5 3.4 7
西之浜通 中村山より大間越山迄 『青森県史』資料編近世3
津1 7
カ村領惣山○図表3.4
軽
2
資料番号1 0 0
の村 .山のうちN n5 8‑7 4
中山通 大釈迦山より小泊山迄 刊本なし0本稿所収
1
の村 .山のうち8
カ村領惣山o図表N n3 1‑4 3.4 8
外浜通 三馬屋山より深沢通 .荒川 F新青森市史j資料編5
近世2
8カ村領惣山o国表3.4
山迄3
資料番号3 8
の村 .U」のうちN a1‑2 8
黒石領御抱合山 浅瀬石山より古懸山迄 F新青森市史』資料編5
近世2
カ村領惣山o図表3.4
前述の通 り、「山所書上覚」の上 山通 ・西之浜通 は、 『青森県史 資料編 近世
3
津軽2
』(青森県2 0 0 6
年)に、外浜通 と黒石領御抱合 山は、『新青森市 史 資料編5
近世(3) 』
(青森市2 ㈱
年) に収録 されてお り (図表1
参照の こと)、本稿 で は中山通 を翻刻 ・校 訂 の上、本稿末 に掲載 した。 これで 「山所書上覚」の総体が明確 になったのであ り、広 く 活用 され ることを期待 してい る。ところで、「山所書 上覚」 の巻末 には、御 山方吟味役 か らの上 申書 が掲載 されてい る。
それは、天明期前後の領内状況 と山林経営 について述べ た もので、次の ように事情 を開陳 した。
一、諸 山櫓 ・杉 ・雑木共 二仕立 山等 も兼而被仰付、御厭之筋相立御 山盛衰相考伐取方 吟味仕罷有候処、近年度 々之洪水等 二両川除諸普請入用木柄伐取方等被仰付侯上、
去年凶作 二付在 々為御救御郡 内惣 山雑木之分 開山二被仰付 、櫓之分 も不少為御救伐 取方被仰付候 間、諸 山御 山模様 当時薄立二相成 申候、乍然御 当節柄御救方御補之筋 相立侯 二付不得止事奉存候、依之此末之儀者是迄之通 山下村 々御 〆方精 々相立盛木 方吟味仕候 間、追年御 山盛木可仕様二奉存候、
(付葺)
「右点羽二両奉 中上候外者天明四辰年 より是迄之通二奉存侯、以上、
天明七丁未年五月 」 右之趣奉 中上侯、以上、
十一月 御 山方 吟味役
上記によると、領内山地の槍 ・杉 ・雑木の植栽 を励行するように下命 し伐採 に関 して も 統制 して きたが、近年洪水が頻発 して堤防などの治水工事 に必要 とする材木伐採 を許可 し て きた。加 えて天明
3
年 (1 783)
の凶作 による窮民の救済のため、惣山の雑木のみならず 槍の伐採 も許可 した。 これによって領内の森林資源が希少になったが、 これは救済のため 致 し方のない事業であった。今後、山下の村 々は森林資源の回復 に努めるように精励 してもらいたい、 とい うものであった。
文中に見 える、天明
3
年の凶作 とは、言 うまで もな く天明飢鐘 を、洪水 とは、安永7
年 (1 7 7 8)
以降の領内洪水のことを指 してい よう。 『津軽歴代記類』 (青森県文化財保護協会1 9 5 9
年)な どによる と、安永7
年6
月の岩木川洪水、同8
年6
月の平川大洪水、同9
年7
月の岩木川洪水、天明元年正月の岩木川洪水、同2
年6
月の大雨 と洪水 な どがあった。津軽領内は、毎年、岩木川 と平川の洪水 に見舞われ、津軽平野はもちろん岩木川下流の新 田地帯 も甚大 な被害 を受けた (五所川原市
1 9 9 5) 。
御 山方吟味役 は、河川改修や治水工 事 に領内の森林資源が費消 されたことを述べてお り、それに加 えて、天明飢健 による窮民 救済に開山をして、すなわち留山を解除 して山下村民へ入 山を許 し、藩庁 にとって大切な 財源 となる、槍 などの貴重な樹木の伐採 まで許可 した とい うのである。御山方吟味役 による上記の上申書 を勘案すると、弘前藩では
1 8
世紀後半に頻発する洪水 などの災害復旧や、不作 ・飢健 などの救済に対処 していった結果、「諸山御山模様当時薄立 二相成 申侯」と嘆いているように、領内山林資源の枯渇が深刻化 した状況であった と推察 される。「山所書上覚」は、このような一連の情勢 を踏 まえて作成 された史料なのであった。なお、「山所書上覚」 には 「御救」 として各村領の山々‑の入 山を許可 して槍 な どの伐
て ん ば
採 を許可 した旨の貼紙 (弘前藩では、点羽 と称する)が、該当する村 々の箇所 に数多 く貼 られている。 それはおおむね天明
7
年の段階の ものであ り、同史料末に、次の ように見 え ることによって成立の事情が判明する。「 覚
(点)
御発駕前御渡被仰付候御 山帳江夫々詮儀之上迄羽二仕、則奉差上候、以上、
未六月六 日 戸田次左衛 門
」
のぶはる
未年 ‑天明
7
年6
月6
日、御山方吟味役戸田次左衛 門が、弘前藩8
代藩主津軽信明が江 戸‑参勤する前 に、領内の山々の状況 を記録 した 「山帳」 を藩主へ提 出するに当たって、点検の上、必要な箇所 に貼紙 をした とある。 したがって、天明
4
年に作成 された 「山所書 上覚」は、当時 「山帳」 との呼称であったこと、戸田などの御 山方吟味役が 3‑ 4年 をか けて領内の山林 を調査 ・点検 した結果 を書 き入れた点羽 を貼 り込んだ史料であった。以上 の ような点か ら見 て も、「山所書上覚」 は領内山林の単 なる書上 とい う域 を脱 してお り、弘前藩による天明期山林経営の全体像 を記録 した公式書類 として評価することができよう。
Ⅰ
近世後期の山林統制 についてとお り
本章 で は、「山所書上覚」 に基づ いて各通 ご とに天明期津軽領 山林 の実態 を見 てゆ くこ とに しよう。 なお本稿 で は、近年、弘前藩の U」林制 度 に関す る研 究 を大幅 に進展 させ た、
黒瀧秀久氏 の 『弘前藩の 山林制 度 と木材流通構 造』 (北方新社
2 0 0 5
年) に多 くを依拠 し た ことを、あ らか じめお断 りしてお く。図表
2
は (黒瀧2 0 0 5 )
を参考 に して作成 した、1 8
世紀後 半 の弘前藩 にお け る森林 地 帯 の区分 を表 した地 図である。 前述 の通 り、領 内は上 山通、西之浜通、 中山通、外浜通 の4
つ に区分 され、 ほか に黒石津軽領 との抱 え合 いの山が存在 した。図表 2 天明期津軽領の森林区分図 なお、本 史料 に 掲載 されてい る村 領惣 山 とは、弘前 藩では御本 山 (御 山) と呼ばれ、藩 庁 に管理経営権 の あ る 山 林 で あ っ た。「津 軽 藩 林 制 要 領
」
(前 掲 『青 森県 史 資料編 近 世 3 津 軽 2』3 5 0
頁)に よる と、「御 本 山 と申ハ 上 之御 山 にて、槍 ・ 杉戎ハ流木伐取 山
こ もあ り」と見 え、
商 品 価 値 の 高 い 槍 ・杉 な どを産す る領 内で最 も優 良 な山々を指 していた。 図表3 ・図表 4に見 える山林が これ に相 当 した。
しやくばつ
一般 に藩庁 は御用木の多 くを析伐 し、仙役上納 をさせ た上 で山師 に払 い下 げた。御本 山に は明山 ・留 山の制があ り、前述 の ように留 山は森林 資源 の維持 ・育成 を図 るために領民 の 利用 を禁 じた。領民 には、 明 山 に限 って柴 薪 ・採 草株等 を許可 し、代 償 と して 山手 米 ・
の で
野手米 を上納 させ た (黒瀧
2 0 0 5 ) 。
また全領 的に見 た留 山率 は
5 2 . 3%
であ り、領民 は領 内の半数 を超 える御本 山へ 自由に入 ることがで きなか ったのであ る。 各通 の留 山率 は、外浜通5 1 . 5%
、 中山通5 6 . 2%
、上 山通4 9 . 7 %
、西之浜通5 2
.1%であった。図表
3
「山所書上覚」の村領惣山図1
、外 浜通 三馬屋 よ り深 沢通荒川 山迄 ・浅瀬石 山よ り舌懸 山迄 (津軽半 島の津軽 山 地東側 か ら八 甲田火 山北麓 ・大鰐 山地北縁)あ せ い L
外浜通は、図表
3 ・4
のNo1‑ 3 0
の村 と山の地域である。No2 9
浅瀬石村領惣 山・No . 3 0
こがけ古懸村領惣 山の
2
山を除外す ると、ほぼ津軽海峡、陸奥湾東側沿岸 に面 した山地の山々で ある。 これ らの山地の特徴 として、樹種 は櫓 ・雑木が大半であ り、No . 2 8
荒川村領惣 山が 雑木のみ となっていて、津軽 山地が主要 な櫓の樹林地帯であったことが判明す る。 ちなみせ へ じ う ち ま つべ ひ は
に、近代 に入 ってか らも
、No2
増川、No . 8
蟹田、Nol l
瀬辺地、No . 1 7
内真部は、櫓葉の模 範林 として有名で良材の切 り出 しが行われ、明治4 2
年( 1 9 0 9)
、内真部の山林 には青森営 林局の森林鉄道が敷設 された (脇野2 0 06b)
。 これは我が国で初めての森林鉄道であった。それでは、以下、津軽 山地の北縁 と平舘山地の山々と、陸奥湾東側沿岸沿いの山々とに 分けて考察す ることに したい。
たいらだて みんま
や
おく(:津軽 山地の北縁 と平舘 山地の山々には
、No
l三馬屋‑N09
/」、国があ り、樹種 は前述 のよ うに棺 ・雑木 が大 半 であ った。留 山率 は、津 軽 山地 の北緑 の三馬屋 が6 5% ・No . 2
増 川710 / o・No . 3
浜名8 30 / o・No . 4
今別8 2%、No . 5
大川平43
0/O、平舘 山地のN o . 6
平舘470 / o・No . 7
野田40%、No . 8
蟹 田1 7%、No9
小国41
%と、海峡に面 した津軽 山地北緯 の山地 は留 山率 が著 しく高い。御用木山師が入 っているのは、今別で南部の秋浜三右衛 門だが、天明6 年 ( 1 7 86)
に松 山久蔵が 同山に入 ったため、秋浜 は内真 部御 山に繰 り替 えになった とい う。そのほか、安永
2
年( 1 7 7 3)
、小 国の櫓 山が払 山になった とある。当該地域 は、櫓 山地 と図表
4
「山所書上覚」の各村領惣山一覧村.山の恥 通 と山の範匪 村 .山名
1 ●外 浜 通り深沢通荒川 山迄三馬屋 山 よ 三馬屋村領惣 山
2○
増川村領惣 山3●
浜名村領惣 山4 ● 今別村領惣 山
5○
大川平村領惣山
6●
平舘村領惣 山7( ⊃
野 田村領惣 山8●
蟹 田村領惣 山9●
小 国村 領惣 山l oo
広漁村 領惣 山1 1○
瀬辺地村領 .、山1 2 ● 蓬田村領惣 山
1 3●
阿弥陀川村領惣 山1 4 ● 中沢村領惣 山
1 5○
後潟村領惣 山1 60
六枚橋村領惣 山1 7( ⊃
内真部村領惣 山1 80
前 田村領惣 山1 9●
奥 内村領惣 山2 0○
瀬戸子村領惣 山21 ● 新城村領惣 山
2 2 ● 声 門柑領惣 」」
2 3( ⊃
浅虫村領惣 山2 4 ● .久乗坂村領惣 山
2 5 ● 滝沢村領惣山
2 6●
駒龍村領惣山2 7( ⊃
横内村領惣山2 80
荒川村領惣 山2 9○
浅瀬石山より古懸山迄 浅瀬石村領惣 山3 0○
古懸村領惣 山3 1○
中 山通り小泊山迄大 釈 迦 山 よ 大釈迦村領惣 山!
3 2○
前 田野 日村領惣 山3 30
若 山村領惣 山3 4 ● 戸沢村領惣 山
3 5●
飯詰村領惣 山3 6○
′」、田川村領惣 山村.山のh 通 と山の範囲 村 .山名
3 8C.
川倉村領惣 山3 90
宮野沢村領惣 山4 00
中里村領惣 山41●
尾別村之領惣 山4 2○
薄市村領惣 山4 3●
今泉村領惣 山4 4 ● 相 内太 田村領惣 山
4 5●
相 内村領惣 山4 6 ● 磯松村領惣 山
4 7 ● 脇本村領惣 山
4 8 ●
小泊村領惣 山4 9●
上 山通り目屋野沢山迄碇 ヶ関 LLは 碇 ヶ関村領惣 山5 0●
虹月村領惣 山51 ● 三 ツ 目内村領惣 山
5 2C.
大和沢村領惣 山5 30
湯口村領惣 山5 4 ● 相馬村領惣 山
5 5○
大秋村領惣 山5 6○
白沢村領惣 山5 7●
目屋野沢村領惣 山5 8 ●西 之浜 適り大 間越 山迄中村 山 よ 中村沢 目村 之領惣 山
5 9●
赤石沢 目村之領惣 山6 0●
大童子沢 El村之領惣山
61 ● 関村領惣 山
6 2 ● 金井ケ沢村 領惣 山
6 3●
網野沢村 領惣山6 4 ● 晴 山村領惣 山
6 5●
風合藤村領惣 山6 6●
晶木村領惣 山6 7 ● 追良瀬村領惣 山
6 8●
広戸村領惣 山6 9●
深浦村領惣 山7 0 ● 岩崎村領惣 山
71 ● 森 山村領惣 山
7 2 ●
松神村領惣 山7 3●
黒崎村領惣 山7 4●
大 間越村領惣 山*●は御政 として仙取 を許可 さjlた村 ・山
、
○は許可のなかった村 .山して知 られた山々であるが、「棺盛 山模様」 と記 されたのは
、N o . 4
今別のみで、あ とは例 そまい:)えば三馬屋 は 「櫓若木立」、増川は櫓が若木のため抽入不可、大川平 は 「槍経木薄立」、平 舘 は 「櫓素性不 良」、野 田は 「櫓 薄立 ・素性不 良」 と見え、近年の盛 んな析伐 によって森
そまとり
林資源が衰退 していたようである。雑木の利用 に関 しては、塩釜薪や船木の仙取、炭焼 出 し方、農具 などであ り、海岸地帯の特徴 を備 えていよう。
なお
No . 9
小 国村領惣 山では、御手 山‑小 国鉄 山での製鉄 に櫓材が活用 されたようだ。同 鉄 山は蟹 田地方か ら産出される砂鉄 を原料 として、豊富な櫓菓材が鉄吹用燃料 として用いられていた (補注2)。
陸奥湾東側沿岸沿 い と八 甲田山北麓の山々は、
No . 1 0‑ 2 8
の村 と山の地域 に該 当す る。この地域の樹種 は前述の通 り槍 ・雑木で、留 山率 は海岸地帯がおおむね
40‑ 6 0%
、八 甲せ と し
田山北麓が
5 00
/.台前半であった。樹勢 については、No . 1 4
中沢 とNo . 2 0
瀬戸子 は櫓 が若木 立のため、仙人禁止 となってお り、後述の ように御用木 山師の析伐が進んで、植林 した木 が未 だ成長途上 であ る こ とを示 してい よ う。 一方、NQ1 6
六枚橋・No . 1 7
内真 部・No . 1 9
お くない
奥内は、櫓 は相応の盛木 山と見 える。
うしろがた
天明
4
年の段 階で御用木 山師が入っているのは、No . 1 5
後潟 ・六枚橋 ・内真部、No . 1 4
中 沢 とNn2 0
瀬戸子では御用木 山師が仙取 を した後の時期 に当たっていた らしく、留 山に し た とい う。 そのほかにNnl
O広瀬 には南部の秋浜三右衛 門、N o . 1
1瀬辺地 には天明元年 に松 山久蔵が受 山 として入 っている。 ついで六枚橋 ・Nn1 5
後潟 ・内真部 に中村佐兵衛 ・鹿内 瀬兵衛 (補注3)・竹越忠右衛 門が払 山証文 を下付 されて入 山の予定であったが着手 しなかっ た らしく中止 になった ようだ。 しか し後潟では、天明7
年 に青森町の能登屋勝右衛 門に仙 人 を許可 している。N
n2 9
浅瀬石 とNn3 0
古懸の惣 山の地域 は黒石津軽領 と隣接 してお り、特 に浅瀬石 は惣 山 の大沢が1 0
、小沢が3 8 0
と広大であ り、留 山率 は31%
であった。 また弘前 ・黒石両領抱 合 山として、双方の入 り会いで柚取 をしていた とある。 両村惣 山ともに御用木山師が入 っ ている形跡 はな く、古懸では仕立杉つ ま り杉の植林がなされていた とい う。2、中山通 大釈迦 山よ り小泊 山迄 (大釈迦 山地、津軽半 島の津軽 山地西側、中山山地) 中山通 は、図表 3 ・4のN
n31‑ 48
の村 と山の地域である。 樹種 は、槍 ・雑木で、前記 外浜通 と同様、津軽 山地の西側 も槍の主要な樹林地帯であったことを物語 っている。 留 山だ い し ゃ か あ い う ち お お た
率は、
No . 31
大釈迦か らNQ4 4
相内太田に至る山々がおおむね8 0%
か ら5 00
/Oと高率で、No . 45
相 内か らNo . 48
小泊 にいたる半 島西側の海岸地帯 は3 0‑ 400
/Oの留 山率であった。地域全 体 としては、1 8
カ山の うち明和9
年 (1 7 7 2)
と天明元年 (1 7 81 )
か ら御用木 山師が入 っ て析伐 を行 った山、 もしくは現在 も実施中の山は1 2
カ山であ り、碇 ヶ関村領惣 山 と並 ん で領内で最 も盛 んに御用木の析伐が行 われていた地域であった。相内太 田は、櫓 は領内第いいづめ
一の盛木 山 と称 され、N
o . 3 3
若 山 ・飯詰 ・相 内・Nn47
脇本の惣 山は 「櫓盛木」
「櫓、当時盛木 山
」
「槍相応之 山模様」 な どと記録 され、析伐の活況 を看取 で きよう。 一方では、大ま え だ の め
釈迦 ・N
n32
前 田野 目・Nn46
磯松 は槍が細木 ・若木のため仙取 を禁止 されてお り、 これ ら の山々はすでに御用木山師による析伐が終了 したようだ。御用木山師は、天明元年か ら大津屋儀兵衛 と松 山久蔵がN
G3 4
戸沢へ、中村佐兵衛 ・鹿 内瀬兵衛 ・竹越忠右衛 門が飯詰へ、南部の秋浜三右衛 門がNn3 6
小 田川 ・相内太田 ・磯松 ・ 小泊へ、大津屋儀兵衛がNn3 8
川倉・Nn3 9
宮野沢へ、松 山久蔵が天明 2年 までNG4 0
中里 ・うす いち
N
o . 42
薄市へ、相 内は南部の秋浜三右衛 門 と天明6‑ 9
年 までが松 山久蔵であった。南部 の秋浜三右衛 門は、明和9
年か ら小 田川へ、磯松 には天明6
年か ら入 山と、時期 に相違が ある。 これ らの御用木山師は、前述の外浜通で も各 山々へ入 山 していた人物であ り、彼 ら が津軽 山地の東西、つ ま り津軽 山地全体の御用木の捨所伐 に従事 していた と見てよかろう。 彼 ら御用木 山師が天明 2年 まで入 山 していた川倉 ・宮野沢 ・中里 ・薄市 は、若木立 を理 由に同
4
年の段 階で留 山となってお り、 これは析伐が終了 して主 な櫓 を伐 り尽 くした状況 に 至 ったことを示 している。 前述の大釈迦 ・前 田野 目 ・磯松 は天明2
年以前 にすでに槍が枯渇 し、同様 に川倉 ・宮野沢 ・中里 ・薄市 は天明
2
年 までに槍が枯渇 したことを示唆 してい る。 津軽 H」地 における槍の森林資源 は、南か ら実施 された析伐が北へ進展 して、天明4
年 の時点においては、十三潟周辺 もしくは以北 に限定 されて きたように見受け られる。なお、御用木 山師の大津屋儀兵衛 ・松 山久蔵が受 山 とした
No . 3 4
戸沢村領惣 山では、御 用木は在 々用水 ・樋 ・水 門の資材、江戸登せの御用木 として仙取が なされてお り、岩木川 の中流か ら下流 に至 る中間点 に位置す る同山は、領内治水工事 に供給す る資材 と江戸へ販 売する捨所伐の拠点的な地域であった。 これは、当時頻発 していた岩木川洪水 に対処す る ためにとった措置であろう。 また、薄市 と相内では杉の植林が行われていた。留 山の雑木活用 に関 しては、磯松 と小泊が塩釜薪 に、後 は薪 ・農具 ・炭焼 出方への利用 があげ られてお り、磯松 ・小泊の ように海岸地帯で製塩が行われていた地域 と金木台地 に 位置 した村の山々とは相違 した。
3
、上 山通 碇 ヶ関 よ り日屋 沢 山迄 (大鰐 山地か ら自神 山地東側方面)上 山通 は、 図表
3
・4のNn49‑ 57
の村 と山の地域 である。 なお当通 の樹種 は、槍 ・さわ ら
杉 ・梶 ・雑木であった。当該地区については、①碇 ヶ関 ・大鰐 山地 と② 目屋野沢の
2
つの 地域 に分けて述べ ることに したい。①碇 ヶ関 ・大鰐 山地地 区 当時、碇 ヶ関地域 では津軽 山地 と並 んで、領内にあって活 発 な析伐が実施 されていた と考 え られる。 N
Q49
碇 ヶ関村領惣 山は、有数の鉱 山地帯 を抱 えてお り、黒石津軽領 との抱 え合 いの山を含 む浅瀬石 を除 くと、大沢1 1
と小沢1 5 0
を数 える領内で も最大規模 の山の一つであった。そ こで当地区を代表す る碇 ヶ関の惣 山につい て見てみることに しよう。当惣 山の樹種 は櫓 ・杉 ・雑木であ り、留山率は
40%
であった。杉や槍 は御用木であって、同山師の松 山久蔵が受 山として析伐 に当たったが、御用木や柾木舞、弘前城下で必要な研 伐 と柚取 は御 山方で実施 した ようだ。雑木は願によって薪や炭焼 に活用。鉱 山の関係では、
天明
4
年6
月、山師の阿部定次郎へ湯野沢鉛 山の開掘 を命 じ御 山証文 を渡 したが着手 して いない状態である、 とい うものであった。にじかい
ついで、碇 ヶ関 と同様、大鰐 山地 に所在の
No . 5 0
虹貝・No . 51
三 ツ目内領村惣 山について 見てみ よう。虹月 は樹種が櫓 ・杉 ・雑木立で、留 山率が
5 5. 7%
、御用木山師の大津屋儀兵衛が受山 と して櫓 ・杉の析伐 に当たっていた。御用木棚取 は碇 ヶ関 と同様で藩庁の御用のほかに弘前こ ひ る い さむみず
入用であった。なお鉱 山 としては、小 目類沢 ・寒水沢での鉛 山見立てに山師竹内四郎右衛 門を起用 し開掘許可 を与 えた。三 ツ目内は樹種が櫓 ・雑木立で、留 山率が
4 4. 7%
、虹月 と 同様、御用木 山師の大津屋儀兵衛が受 山として櫓の析伐 に当たっていた。御用木仙取 は碇 ヶ 関 ・虹月 と同様で、藩庁の御用のほかに弘前入用であった。め や お お わ さ わ ゆ ぐ ち
大鰐 山地の北縁 と目屋丘陵に位置す る
No . 5 2
大和沢・Nn53
湯 口・No . 5 4
相馬村領惣 山は、次の ような状況である。
大和沢 は、樹種が槍 ・雑木で、留 山率が
2 1 . 5%
、御用木 山師の大津屋儀兵衛が受 山とし て槍 の析伐 に当た り、御用木仙取 は藩庁の御用のほかに弘前入用 であった。雑木 は、薪、炭焼 き、川除普請つ ま り治水工事 に活用 した とある。 湯 口村領惣 山は、樹種が檎 ・雑木で、
留 山率が
7 7%
、御用木 山師の松 山久蔵が受 山 として櫓 の析伐 に当た り、御用木棚取 は藩庁御用のほかに弘前入用であった。同山では木々が若木のため天明
2
年か ら仙取 を許可 し ていない とい う。 相馬は、樹種が櫓 ・堪 ・雑木で、留 山率が53. 4%
、御用木山師の松 山久 蔵が受 山 として櫓 の析伐 に当た り、御用木仙取 は藩庁 の御用のほかに弘前入用であった。雑木は、薪 ・炭焼 出 し、農具 ・川除普請用 に活用 した とある。 同山では木々が若木のため 天明
2
年か ら仙取 を許可 していない とい う。以上
、No . 49
碇 ヶ関か らNo . 5 4
相馬にいたる、おおむね大鰐 山地 に属する山々においては、いずれ も御用木山師が入 山 し受 山として槍 ・杉の析伐 に従事 した。御用木の用途は藩庁の 御用のほかに、藩庁の山方が析伐す る弘前城下での入用であった。雑木は、通常の薪 ・炭 焼のほかに、大和沢や相馬の ように、川除普請 ‑治水工事 に活用 してお り、前述の ように 安永期か らの相次 ぐ洪水被害の影響が認め られ よう。
② 目屋 野 沢地 区 さて 目屋丘陵な らびに自神 山地 に属す る
No . 57
日屋野沢村領惣 山は、現在の中津軽郡西 目屋村 に属する地域で、岩木川の南側、秋 田県境 に至 る山々である。 同地 区は、樹種 が櫓 ・杉 ・雑木立、留 山の割合 は
6 7%
であ り、御用木の状態 は 「槍 ・ 杉之分薄立二而少分」 と見えるので、藩有林の伐採 はかな り進行 していた ようだ。前述のNo . 49
碇 ヶ関やNn5 0
虹月、NQ51
三 ツ目内、Nn5 2
大和沢、Nn5 3
湯 口、No . 5 4
相馬では、御 用木山師が山中に入 って、弘前藩で必要な櫓 ・杉 を御用木や弘前入用払材木 として伐採 し ていた。 この ことか ら、1 8
世紀後半の弘前藩では、碇 ヶ関を中心 とした藩領の南東部の 地帯 に、藩の御用材木伐採の力点 を移 していたことが判明す る。藩の管理下 にあって領民が入 り込めない留 山には、願いによって雑木の採集が許可 され まき
たが、「山所書上覚」 による と、 目屋野沢では、弘前焚用薪の採取、加 えて鉱 山での製錬 用の炭の焼 出 しが許 されていた。弘前焚用 とは弘前城下の燃料 としての薪の生産 を示唆 し てお り、城下民衆の 日常生活 に欠かす ことがで きない燃料が 目屋野沢のほか、N
o . 5 5
大秋 ・あんもんさんす いかん
Nn5 6
白沢か らも供給 された ようだ (補注4)。「暗門山水観」 (青森県立郷土館蔵)の各国に見 える、岩木川 を経 由 して 目屋野沢か ら薪流 しの作業 を展 開す る幕末維新期の世界 が、1 8
世紀後半にはすでに現 出 していた可能性が高い (工藤 ・牧田2 005)
。周知の ように、 目屋野沢 にある湯 ノ沢川の流域 は、津軽領最大の鉱 山地帯であった。 し たがって、鉱 山での製錬、坑道普請などに大量の材木が必要 とされた。「山所書上覚」 には、
鉱 山の入用 に関す る記載 は見 えないが、「湯野沢」で銅 ・鉛の生産や大瀧俣沢での鉛 山見
お っ ぶ
立 と採掘 に関す る記事が掲載 されている。 湯野沢の竹内勘六 とは当時尾太銅鉛 山の支配人
さ ん き ろ く
だった二代 目竹内勘六 と推定 され、明和
8
年 (1 771 )
に尾太鉱山の鉱山旧記 「山機録」 をきんかけい しゅうぎん
著 した金華渓秀 山を指す ようだ。「山機録
」
(日本鉱業史料集刊行委員会編 『日本鉱業史料 集 第1
期近世篇(参 山機録』 白亜書房1 9 81
年)によると、先年 (享保末期)、尾太が 受山 として繁盛 したことか ら、製錬 ・坑道普請用の盛木 を伐 り尽 くし、現在では各沢の山々 は若木がほ とん どであ り、木立のある山は、湯 ノ沢川沿いの沢で三分の一 もない有様 と書 いている。林業の面では、前述の ように御用木の伐採が実施 された結果、槍 ・杉が少 な くなってい たが、湯 ノ沢川の流域の鉱山地帯で も尾太 を中心 とした銅鉛 山が繁盛 した結果、鉱 山用の 材木が伐採 されて、木立のある沢が
3 3%
弱 にまで伐 り尽 くされた とい う。 この ように見 るな らば、「山所書上覚」 に記録 された 目屋野沢村領惣 山の森林資源は、枯渇状態 に陥る 寸前であった と考 え られる。4
、西之浜通 中村 山よ り大間越 山迄 (青森県西部、西海岸地域)西之浜通 は、図表
3 ・4
のNn5 8 ‑ 7 4
の村 と山の地域である。 対象 とするのは、西之浜通な か む ら さ わ め お お ま ご し
の
Nn5 8
中村沢 目村領惣 山か らNo . 7 4
大 間越村領惣 山にいたる地帯 である。 「山所書上覚」の 「西之浜通 ・中村 山よ り大間越 山迄」 に登載 された、N
n5 8
中村 をは じめ とするNn7 4
大 間越 に至 る全2 7
カ村領惣 山の状況 は、次の6
点にまとめ られ よう (長谷川2 0 0 6)
。(∋各村領の山々は、総 じて小規模である。
(参この地区全体 の留 山率は、
5 2
.10/.で、前述の上 山通が4 9 . 7%
であったの と比較す る と留 山率は高い。 しか し、各村領 山々の規模が小 さいことか ら、一概 にこの ように 結論づけるのは早計であろう。つき
(彰樹種 は、杉 ・槍 ・槻 ・桐 ・五葉松 ・堪 ・雑木であった。ほかの通 と比較す ると、樹 種 は多様であった。
い ら が わ
④Nn7 4
大 間越 と秋 田藩 との藩境地帯 に、 当時入良川銀 山が存在 していたが、特 に同 鉱 山に関わる記録 は同村領惣 山に掲載 されていない。1 8
世紀後半の天明期 に入良 川銀 山が実際にどの程度稼行 していたかは不明である。 実際に稼行 していた、前述 の 日屋野沢の尾太銅鉛 山の状況 を 「山所書上覚」は記録 しているので、製錬 な どに 必要不可欠な材木需要の記述が全 く見あた らないのは、入良川銀 山が稼行 を停止 し ていたか、鉱 山自体の機能が極度に低下 していた可能性がある。お お ど う じ か そ せ
⑤
No . 6 0
大童子・No . 6 5
風合瀬 は、海嵐によって、櫓の生育が不良。Nn61
関・Nn6 3
田ひ ろ と まつかみ
野沢
・Nn6 4
晴 山・Nn6 7
追良瀬・Nn6 8
広戸・N n7 0
岩崎・No . 71
森 山・Nn7 2
松神 ・No . 7 4
大間越の各山は槍の生育が不良であった。大童子では、仙人が禁止 された。(釘西之浜通では、⑤ で も触 れた ように槍 の生育が不良であること、全
2 7
カ村 の うちNo . 6 6
慮木 とNo . 6 9
深浦 を除いて御用 山師が入って伐採 をした形跡がな く、中村 は槍 が少な く仙人す ら禁止 となっていた。「槍之分素性不宜」と表現 された山々は、当時、ほ とん ど伐 り尽 くされていた と考 えられる。
西浜には、鯵 ヶ沢 ・深浦 ・金井ケ沢 など上方市場への木材の積み出 し湊が点在 し、
藩政前期か ら商品 としての櫓 ・杉 な どが各湊 か ら移 出 されていた (印牧
2 0 0 6)
。 したが って、 これ らの山々では1 7
世紀の後半か ら移出商品 としての材木伐採が本 格的に行 われていたので、約 1世紀 を経て森林資源 は枯渇状態 にあった。当該地区の特徴 は、以上の ようにまとめ られるが、特徴 的な山として、藩政期の西之浜
お い ら せ
通 において材木伐 り出 し山 として重要 な拠点であった
Nn6 7
追良瀬村領惣 山 (現青森県西 津軽郡深浦町追良瀬) を取 り上げてみ よう。追良瀬の留 山率 は
42 . 5%
で、他村 と比較 して率 は低 いが山々の沢の規模が大 きいことか ら、この ような率 になったのであろう。 ちなみに深浦 も留 山率は、4 7 . 8%
であった。なお、櫓 の生育が思わ しくな く、山下村民 に御救 山 として伐採 を許可 している。 また槻 ・五葉松 も若木であることを断っている。 留 山の雑木 は太木で生育 も悪 くないので、塩釜用の薪、
造船用 ・家屋建築用 の材木 として伐採 の願いがあれば許可 している。 明山
31
カ沢 は、 山 下村 々の燃料用 として柴の採取 を認めている、 とい うものである。留 山の雑木利用 に関 しては、追良瀬 のケースが ほかの 山々
( Nn61
関・Nn6 6
慮木・N
o.7 2
松神・ Nn7 4
大間越)で も認め られ、塩釜用の薪、つ ま り製塩用の燃料 として活用 された。西之浜通 において製塩が広 く行 われていたことが窺 われ よう。 これ と並 んで、造船用の材
木 を伐採 したの は、
N n5 9
赤石 ・追 良瀬 ・深 浦 ・岩崎 ・大 間越 の 山々で あ り、 これ らの H」 下 の村 で は、 おそ らく磯 漁用 の小型船舶 を建造 していた可能性 が高 い (補注5)0この ように、海岸 に山々が迫 り、磯伝 い に村 々が散在 してい る西之浜通 は、製塩 と磯漁
おす くいや ま や ました
が生業 として主 たる ものであ った。 その他、天明飢僅 時 にあ って は、御救 山 として山下村 民 に留 山での仙人 を許可 してお り、杉 ・柾 木舞 の伐採 も天明
6
年 (1 7 8 6 )
まで許可 した と い う。 この地域 の明 山は、前 述 の 目屋 野沢村 々 と異 な り、2 7
力材 全 部 に山下村 民 の燃料 用柴 の採集 を認 めてい る。Ⅱ 天明飢優 と後期の山地
天明飢鐘 の経過 に関す る詳細 については 『新編弘前市 史 通 史編
2
近世1
』(弘前市2 0 0 2
年) を、 また当飢健 の引 き金 となった当時の気象状況 については (前 島 ・田上1 9 8 3 )
を参照 いただ き、本稿 では領 内山地 との関わ りのなかで飢健 を捉 えてゆ くことに したい。
江戸 時代、津軽領 はたびたび飢健 に見舞 われ、なかで も元禄
8
(1 6 9 5 )・9
年の元禄飢健、天 明飢健 、天保飢鐘 は、大量 の餓死者 を出 したの をは じめ として領 内 に甚大 な被 害 を及 ぼ した もの として、特筆 され る飢健 であ った。 その うち、最 も多 くの餓死者 を出 した、天明
3
年( 1 7 8 3 )
の天 明飢 鐘 にお い て、津軽 領 で は同年9
月 か ら翌4
年6
月 にか けて餓 死 者8
万1 7 0 2
人 を出 し、 うち農村 部 の被 害が 際 だ っていて7
万 人余 りを数 えた。 当時 の弘前 藩領 の人 口が約2 0
万‑2 5
万 人ほ どであ ったか ら、約三分 の一 の死者 を出 した こ とになる (弘前市2 0 0 2 ) 。
この ような惨 禍 の なかで、弘前藩で は少 しで も被害 の拡大 を防 ごうと領せ ぎ ょ う ご や せ が ゆ
民 の救 済 に努 めた。窮民 を収容す る施行小屋 の設置、施粥、年貢 の減免、米 を大量 に費消 す る酒造 の禁止 な どの対 策 を打 ち出 し、 山林 との関わ りで は御救 山の設定が あった。御救 山 とは、藩 の管理 してい る山 (留 山) を開放 して、 山下 の百姓 に 自由に立 ち入 らせ、伐採 した薪等 を販売す る こ とに よって現金収入 の手段 を与 え ようとした ものであ った。加 えて 御救 山で は、木材 のみ な らず苅敷 な どの肥料 や蕨 な どの 山野草 を採取 させ てお り、飢僅対 策 として も有効 な手段 であった。
ところで上記 の御救 山につ いては、研 究史の蓄積 は必ず しも豊富 とは言 えない状況 であ る (司法省刑事局
2 0 0 4 )
。盛 岡藩での実施 と実態 に関す る研 究 はなされている ものの、津 軽領では実施 に関わる言及 はなされて きたが (菊池1 9 9 4 )
、内容 に関 してはほ とん ど分か っ ていない 。 本稿 で は、先ず初 め に御救 山につ いて史料上 の確 認 を行 い、その上 で 「山所書 上覚」 によって領 内における御救 山実施の具体 的な状況 を明 らか に してゆ くことに しよう。1、御 救 山 につ い て
従 来の研 究史 に よる御救 山に関す るアウ トライ ンにつ いては前述 の通 りであ るが、 この 制度が いつか ら開始 したのか、飢健 の時 にのみ制 度が発令 されたのか、 これ らにつ いては 不 明の点が多 い。
この件 に関す る史料 が 『日本林制 史資料 弘前藩』(朝 陽会
1 9 3 2
年3 5 4・3 5 7
頁)享 保8
年 (1 7 2 3 ) 7
月1 0
日の記事 中に見 えるので、少 々長文 であ るが、次 に掲 げ よう。一、相 内村 ・板 割沢村 領御 山山王坊 沢 ・小 股沢 ・四 ツ瀧沢右 三 ヶ所御座候 、右 之御 山 者鏡村 ・磯松村 領之御 山之前 山二両、線 之御 山に御座候 、其上 (a)元禄八年以後
去 ル寅之年迄御故 山 ・御利分 山二数度被仰付候 山所 に御座候付 、只今ハ弐 間丸太垂 木之類之外拙取木無御座候、尤丸太垂木拙攻被仰付候両 も二三 ケ月な らては取木御 座有 問敦 と奉存候、ケ様之儀 にては新 田開発之助カ ニハ不罷成義二御座候、
(中略)
一、右 之儀 二付 、手紙之趣左之通 り、
後潟組代官 を以 申立候、相 内村庄屋 四郎左衛 門申立候
、(b)同所百姓不足伝 馬宿継 ・
入 ま し宿継過分有之、近年百姓及 困窮候 由、然者 同所 二田井畑 開発之場所在之候付、右 空地 開発 高無之者共江割付、新百姓 二取立、伝 馬宿継相務せ 中皮 由、然共百姓 自
【丁丁)
分物入 二両者成兼候 間、鏡村御 山之 内何 之沢三ケ沢五 ヶ年 封 机取被仰付候ハ 、右 之助力 を以新 田開発、十 ヶ年過候ハ 、御樟可奉 願 旨委細書付 申立候、 山方江吟味之 上候処、此御 山之儀者勝而 よ く不 時御用 に も相立候御 山之 由申出候得共、御役 人詮 議之上治定、且者 開発仕候待者永 々御為被成侯儀、殊代官 よ り右 開発者相違無之段
客 間届之上 申立候 (下略)、 (下線筆者)
か な ぎ あいうち いたわ りざわ
下線 (a)の記事 による と、金木組 の相 内村 ・板割沢村領御 山であ る山王坊 沢 ・小股沢 ・
お り わ け や ま
四 ツ瀧沢が御故 山 ・御利分 山に指定 されたのは、元禄
8
年 (1 6 9 5)
か ら去寅年 (享保7
年‑1 7 2 2
年)の27
年 間の間に数 回あった と記 してい る。 御利分 山 とは、御本 山の内、 山師 な どに払 い下 げた時、柚役 を上納 させ たが、 さらに御礼銭 と称す る運上 を賦課 した山の こ とである (黒瀧2 0 05) 。
上記 の記述 か らす れ ば、御故 山は
1 7
世紀末 に北東北地方 を襲 った元禄飢健 に際 して、設置 された制度の ようであ る。 開山の期 間については同史料 に 「去 々年 よ り去八 月 まて御 故 山被仰付」 と見 えるので、2‑ 3年の期 間であった ようだ。 また上記 の山王坊沢 ・小股 沢 ・四 ツ瀧沢 は、享保
2
年7
月 に も御救 山に指定 された こ とがあ り、それに よる と同年7
月中に仙取が済 み次第8
月か らは留 山に戻す 旨が藩庁 か ら申 し渡 されてい る (前掲 『日本 林制史資料 弘前 藩』2 5 3
頁)。 したが って、約1
カ月 間の開 山だ った ようで、 開 山の期 間は一定 してお らず、地域、 困窮の度合 い、 山の状態 な どに よって区々であった と考 え ら れ る。次 に下線 (b) に見 える ように、直接御救 山の文言 は見 えないが、相 内村 の庄屋 は同村 における伝 馬 ・宿継 の負担軽減 を図 り、百姓 の困窮 を回避す る意 図か ら、田畑 の開発 によっ て新百姓 を取 り立 てて定住 させ、その際 に鏡村 の
3
カ沢 開山に よる収益 を新 田開発 費用 に 充 当す るように したい と要請 した。 開山は、飢健 に よる窮民救済だけではな く、 この よう に伝馬 ・宿継制度の負担 にあえ ぐ村 々の救済 に も活用 されたのであ り、多面 的な援助機能 を有 していた。2、弘前 藩 にお ける御救 山の展 開
津軽領の年代記 として活用 されて きた 「平 山 日記
」
(み ちの く双書2 2
青森県文化財保 護協会1 9 7 6
年41 4
頁) には、弘前藩 に よる御政 としての開山に よって、人 々に仙取 を 許可 したの は、天 明3
年 (1 7 8 3)1 0
月か ら翌4
年3
月 まで と見 える。 本章 で は、 この点についての検証 も含 めて、津軽領御救 山の展 開を明 らか に してゆ くことに したい。
「弘前藩庁 日記
」
(御 国 日記、弘前市立弘前 図書館蔵津軽家文書 以後、「国 日記」 と略記) 天明3
年8
月2 2
日条 に よる と、 同年8
月 に至 って、 い よい よ大 凶作 の恐 れが深刻化 してゆ くなかで、藩庁 は管理 に支障のない櫓 山 と他 に槍 ・杉 ・雑木の払 山 (材木の売却 を許可 した山)の仙取 を許可 した。「天明卯辰 日記
」
(豊島勝蔵編 『津軽の飢僅史』森 田村古文書 研究会 など1 9 8 0
年、以後、「天明卯辰 日記」 と略記)同 日の条 には、「槍杉之外雑木井所 々 村 々館 山森林之分迄在方為御救開山被仰付侯」 と見 え、領内全域 における全面的な開山の ように記 しているが、実情 は上記の ように必ず しもそ うではなかった。藩庁の意図は領内 留山の一部条件付 きで伐採 と材木の売却 を許可 した ものであったが、民衆の側か らすれば、「天明卯辰 日記」に記載 されたように全面的な開山 と受け取 った可能性 は高い。
しか し事態はさらに悪化 し、上記藩庁の措置は窮民の救済に何 らの効果 も期待で きない ほ どになっていた。「天明卯辰 日記」同年
8
月2 9
日条 によると、領内在方では五穀 は勿請 の こと他の食料 も欠乏 して人 々が他 国へ逃散 を開始 し、木造村 の者 の話 によれば、三関の な い
(碇 ヶ関 ・野内 ・大 間越 の関所)か ら我先 に と他領へ逃亡 した とい う。 彼 らは、 この惨状 を前 に して江戸か ら帰国 しない
8
代藩主津軽信明を批判 して、「殿様の無 ぎ国に不可居 と、讐死す共、他 国へ 出死可 申」 と述べた。つ ま り、領主が在 国 して救済の陣頭指揮 をとろう としない ような国には、 もはや居 られない し、た とえ死んで も他 国へ脱出す ると言明 した のである。 いわゆる地逃げが本格化 し、在方、 なかで も岩木川下流の新 田地帯では、村落 に人影 をほ とん ど見かけない状態 に至 った。その ような山下の村落へ 開山 した として も、
組織的な労働力の投入が必要な伐採 と伐 り出 しはとうてい不可能であった。つ ま り、地逃 げが本格化 した農村 では、御故 山はほ とん ど機能不全の状態であったに違いない。
この ような状況下で藩庁 では、同年 9月 4日に次の ような覚書 を発 した
(
「国 日記」同 年 9月 4日条)。此度在方為御手当諸 山開山被仰付侯処、和徳組 山下村 々之儀ハ弘前随一之近 山二付、
御家 中井町方一統入込、町家之分ハ雇馬等二両大勢入込伐取侯 二付、在方御手当之筋 二相成不 申、却而難儀之趣相聞得侯、弘前薪取之分ハ、相走 り候明山之外 は急度差留 申付侯、
わ と く
上記の内容 によると、弘前 に近い和徳組 (津軽平野南部、岩木川右岸)の救 山では、藩 士や町方の者 まで入 り込み、馬 を雇 って大勢で入 って伐採 した とい う。 この ように、 まだ 比較的余力のあった弘前城下の住民 には、都市近隣の開山は魅力的な救済策に違いなかっ たのである。 この覚書 に加 えて、支障ある山は開山 しない とした前記
8
月2 8
日の触書 に 反 して、「早道稽古所」や小沢村 の 「砲 山」 に も入 り込んで薪取 りや仙取 を行 う者があっ たため、厳重 にそれ らを取 り締 まるように と発令 した(
「国 日記」同年 9月 4日条)。なお、大勢の城下民衆が弘前城下近隣の有力 な山へ押 しかけたことについては、「天明卯辰 日記」
同年
9
月26
日条 に も同様 のケースが見 えてお り、原 ケ平村柏木館 山が伐採 し尽 くしの状 態 になって しまい、以後、家中召使いだけでな く寺社 ・町人の同山」への入 山を禁止 した と い う。 この ように津軽領では、藩庁が本来企図 した開山の 目的を果たせず、本来の救済対 象の農民の保護のために、逆 に開山に歯止めをかけなければならなかった。開山に伴 う混乱 を防止 しようとした藩庁であったが、
9
月1 0
日に入 る と、事態 はい よ い よ深刻化 し、藩庁では次の ような布告 を出 した。「槍杉之外 田畑差障に不相成木 山 ・御 鷹待之場之外、森林迄為御救 当十月迄 開山被仰付」(
「天明卯辰 日記」 )
と、櫓 ・杉 のほかおす くい
田畑 に支障のない木 山、鷹待場以外 の森林 は