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近世における高野山と紀州藩―地士の分析を中心に ―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

近世における高野山と紀州藩―地士の分析を中心に

著者 白井 頌子

雑誌名 高円史学

巻 22

ページ 28‑56

発行年 2006‑10‑01

その他のタイトル Koyasan and the Domain of Kishu during Early‑Modern Period

URL http://hdl.handle.net/10105/8840

(2)

近世における高野山と紀州藩 −地士の分析を中心にー

は じ め に

白     井     増     子

近世の紀伊国は︑紀州藩領と高野寺領からなっている︒そして︑近世における高野寺領に関する先行研究は比較的少ない︒

1

本稿で取り上げる紀州藩の地士に関しては︑いくつかの研究はあるが︑﹁寺領に居住する紀州藩の地士﹂に関する研究は︑

みあたらない︒従来︑紀州藩の地士は紀州藩領に住む者だけがつとめていたと考えられてきたように田心う︒しかし︑高野寺

領に住む者が︑紀州藩地士の中でも格上の存在である六十人者地士をつとめていたという事実が知られるのである︒高野寺

領に住む寺領民が︑紀州藩の家臣団構成の末端に位置する地士の中でも︑平地士や帯刀人とは区別して特筆される六十人者

地士に抜擢されるというこの事実は︑近世における高野山と紀州藩の関係を考える上で重要な手がかりになると考えられる︒

そこで︑本稿では︑高野寺領に属していた那賀郡安良見村の北家文書を一つの重要な素材とし︑高野寺領に居住しながら︑

紀州藩の地士であり︑また高野山の地士でもあった北家の地士としての活動を通して︑近世の寺社領主である高野山と︑紀

州藩の関係について考察したい︒また︑更に︑高野山の近世領主としての特質についても言及したい︒

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︵一︶高野寺領と安良見村北家について

近世の高野寺領は︑紀伊国北部にある那賀郡と伊都郡内の紀ノ川南岸から有田郡境までの地域一帯に位置する︒紀州藩領

が︑一部紀ノ川南岸に入り込んでいるところはあるが︑紀ノ川が︑紀州藩領とのほぼ境界線であった︒この地域のうち︑東

部が行大領︑西部が学侶領︑奥の山地については︑東方の霊場一帯が学侶領︑西方が行大領︑貴志川筋に修理領があった︒

天正十三 ︵一五八五︶年の豊臣秀吉の紀州攻めにより︑荘園領主高野山は降伏し︑弘法大師御朱印縁起に記されていない

領地はすべて没収され︑武装解除をさせられている︒その後︑太閤検地が実施されるが︑検地に反対する勢力が高野山に存

在したために︑検地はなかなか進まず︑天正十八 ︵一五九〇︶年に秀吉から高野寺領全ての没収令が出ている︒そして︑検

地の終了後︑改めて天正十九︵一五九一︶年一〇月に高野山惣寺中に一万石︑木食応其領に一〇〇〇石の秀吉朱印状が発給 29

されている︒翌︑天正二〇︵一五九二︶年八月︑更に一万石が那賀郡内で加増され︑高野寺領は二万一〇〇〇石となった︒

2

北家のある那賀郡安良見村が寺領になったのもこの時で︑これにより︑近世の高野寺領が確定した︒

寺内の僧侶は学侶方・行大方・聖方の三つに分かれて属していた︒その中の学侶と行人は︑中世末から近世を通して︑寺

内の地位を巡って激しい権力争いをしていた︒そのため︑領地の配分を巡っても激しく対立し︑何度も朱印状が下される中

で︑学侶方と行大方の領地配分は少しずつ変遷していった︒

2

秀吉の死後︑政権を執った家康も︑秀吉の定めた寺領を追認し︑慶長五︵一六〇〇︶年に二万一〇〇〇石を安堵している︒

4

しかし︑慶長六 ︵一六〇一︶ 年に学侶方九五〇〇石︑行大方一万一五〇〇石と配分し直されている︒この後︑慶安二

1

︵一六四九︶年に家光が行人方に一〇〇石︑聖方に二〇〇石を加増し︑寺領総高は二万一三〇〇石となった︒これ以後︑総

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高は幕末まで変化がなかった︒寺領の各派配分高は︑第三章で取り上げる元禄五︵一六九二︶年の学侶・行人の紛争に際し︑

行人方が六六〇〇石と衰退︑学侶方九五〇〇石︑学侶・行人双方支配五〇〇〇石︑聖方二〇〇石となり︑以後この配分高で

1

明治維新をむかえる︒

7

旧那賀郡安良見村にあった北家は︑中世以来の土豪で︑近世では安良見村に十四家あった庄屋︵蔵下庄屋︶ のうちの一つ

をつとめていた︒安良見村は︑学侶方の十四の寺院の相給地であったため︑十四人の庄屋が存在したのである︒また︑北家

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は︑代々紀州藩の六十人者地士にも任じられており︑九頑神社の神職もつとめ︑北家を中心に同社の宮座を運営するなど︑

村内に大きな地位を占めていたようである︒北家文書には︑中世以降から現在までの諸史料が約四七五〇点残されている︒

紀伊国那賀郡安良見村は︑中世は粉河寺領であったが︑戦国期に秀吉の朱印状で高野寺領に加えられた︒史料中には︑

﹁荒見﹂﹁安良見﹂﹁安楽見﹂など数種類の表記が見られる︒安良見村は︑天正二〇︵一五九二︶年八月四日付けの豊臣秀吉

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高野山朱印状では︑﹁一︑四百六捨石 同荒見﹂とありこの時以後︑江戸期を通じて高野山学侶領とされた︒

北家については︑﹃高野山文書﹄の巻末の ﹁嘗巻文書と其の所蔵者について﹂によると︑

﹁同郡龍門村荒見にあり同家の系園に依れば遠祖は天武天皇の第三皇子舎人親王より出で先祖には荒見弾正左衛門朝治が

ある︒朝治は元弘の頃粉河寺の衆徒と共に南朝に属し大功があつたと云ほれてゐる︒元亀の頃荒兄を喜多と改め︑その後

北を名乗った︒信長高野貢の時は山徒に属して庵ノ城を固め︑眞田幸村の召に應じて大坂城にも籠もった︒代々高野地士

となり︑維新前後には高野山より胡乱方改役命じられ︑此の地方に於ける裁判警察の事務を管掌した︒﹂

とある︒また︑﹃南紀徳川史﹄では︑元和・寛永期の頃に紀州藩召し抱えの六十人者地士として︑那賀郡荒見村︑喜多長左衛

1

2

門が名前を連ねている︒そして︑高野地士もつとめていた︒これらに関しては次章で詳しく述べたい︒

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︵二︶紀州藩の地士制度と紀州藩高野寺領地士の存在

①地士制度について

紀州藩の地士制度は︑﹃南紀徳川史﹄によると︑元和五 ︵一六一九︶年に初代藩主の頼宣が入封の際に︑﹁土豪武達者の由

緒事暦を軋し︑たとへ抜群たり共藩士に翠けす特に地士となして郷里に在住人馬兵員を蓄はへ所謂土着の士たらしめ﹂たこ

とに始まった︒戦国期︑紀州は土豪の小勢力が分割支配したにとどまり︑戦国大名は成長しなかった︒そのため︑土豪は戦

国大名に吸収されず︑江戸時代に入っても︑依然︑各地の農村に一族で居住し︑広大な土地を所持し︑多数の下男等を従え︑

鉄砲・馬などの武力を持っていた︒彼らは﹁平素は農事に服し﹂ ていたが﹁他国旅行等には藩士の資格を免し又年賀引見参

暇送迎等の特遇﹂といった特権を与えられていた︒また﹁封内巡視の際には近く屈従を命して地理先導民情諮諭の用に供し 31

地士制度の目的の一つは﹁豪士の心を収携慰撫﹂することであり︑もう一つは﹁不虞に備へ給ふ郡治の政客に出たる﹂も

l

H

のというように︑地士は地方支配の末端を担う武力的性格を帯びたものであった︒地士となれば﹁資格士籍に準し長屋門を

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構へ弓鏡武器を玄関に装置して﹂︑旅行の際には﹁槍具足槽を携え紀藩を揚言して宿泊渡津に権﹂を振るった︒

当初の紀勢地士の総員は詳しくは分かっていないが︑元禄十四︵一七〇一︶年には総計二五六人︵内六九人は勢州︶ であっ

1

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たが︑天保十二︑三 ︵一八四一︑二︶年頃には総数九二一人︵内三八一人は勢州︶と大きく人数が増加している︒年代が下

がるにつれ︑地士の人数が増加した理由として︑①郷中の豪民︑篤志者で私財を使ってインフラ整備に功績のあった者︑②

大庄屋︵庄屋︶杖突・胡乱者改役・山廻り等を長年つとめた者︑③藩の財政逼迫のため︑金米の献納を勧誘し︑それに応募

(6)

した者など︑①〜③を全て地士に取り立てていったためと考えられる︒享保後期︵一七二〇年代後半︶頃から︑家の筋目を

言い立て︑地士への取り立てを郡奉行へ願い出る者が出てくる一方で︑藩財政の逼迫に伴い︑藩もまた金・米の献納による

地士への取り立てを歓迎したのである︒その中で︑献金額によって与えられる資格に基準が作られ︑地士の中にいくつかの

︵l︒︒︶格式が生じるようになった︒

1

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やがて︑幕末期に至ると︑騒動鎮圧や海防などに動員されるようになった︒たとえば︑紀州藩領で起こった文政六

︵一八二三︶年の百姓一揆の際にも権力側として動員されている︒そして︑海防や調練などに駆りだされ︑彼らのもつ武力

が軍事・警察的な目的で利用され︑動員されるようになる︒幕末期の地士は︑再び初期地士と同様に支配の末端の︑武力を

担う者としての性格を持つようになった︒

②紀州藩高野寺領地士の存在

高野寺領安良村の北家の当主である喜多長左衛門は︑寛永十一︵一六三四︶年に紀州藩に新規に召抱えられた六十人者地

士の一人である︒六十人者地士は︑﹃南紀徳川史﹄によると︑地士のうち︑特別に﹁国士六十人を抜擢元和八年各所知五十

石宛を賜り大番頭に付属せしめられ﹂た者を特に六十人者と通称していた︒﹁正保元年十二月を以て卸家中之士数十人及ひ

与力等断然御暇を賜りたる者多﹂かったが︑﹁地士は以然継承其家筋之者は代々六十人者地士に被命特に名誉として他地士

︵ 加

中にも推尊せられ以て維新に至れるなり﹂と書かれている︒このように︑特別に抜擢された六〇人が︑六十人者地士として

元和八 ︵一六二二︶年各新知五十石宛与えられ︑大番頭に付属せしめられていたが︑藩の支配体制の確立とともに︑正保元

︵一六四四︶年︑扶持召し放ちが行われ︑在地給人制的な側面はなくなったものの︑依然その家筋を継承している︒

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表1 高野寺領在住の紀州藩の六十人着地士

五十石 寛永)同十一年外へ御役替 津 田 九 太 夫 (神 田村)

寛永十一成年新規被召抱 寛永十六年病死 平野 四郎兵 衛 (安 楽川)

鍵田半左衡門 (安 楽川)

喜 多長左衛 門 (荒 見村)

北家の他に︑高野寺領に居住する六十人者地士は三人︑北家を含むと寺領在住の六十人者地士は四

人存在する︒その姓名を︑﹁元和八年被召出地士六十人者姓名﹂より抜粋すると表①のようになる︒

従来︑紀州薄地士は︑当然紀州藩領に住む郷士から選ばれた者がつとめていると考えられていた︒

江戸中期以降︑献金などによって地士の家格を得たのではなく︑制度の設立当初から︑地士の中でも

格上とされた六十人者地士に高野寺領の者が含まれていることは興味深い︒高野寺領に住む寺領民が︑

紀州藩の家臣団構成の末端に位置する地士の中でも︑平地士や帯刀人とは区別して特筆される六十人

者地士に抜擢されるということは︑高野山と紀州藩の関係を考える上で重要なことではないかと考え

る︒北家文書からは︑北家と奥家が郡奉行︵郡代官︶からの書状を受け︑荒見・安楽川の他の地士たち

2

に廻達を出していることが分かる︒つまり︑この地区の地士を取りまとめる世話役を任されていたと

更に︑﹃南紀徳川史﹄に﹁高野寺領地士﹂という項目があり︑﹁高野寺領は版図之治外に属すといへ

︑ J ︑

とも同しく従来土着之郷士撮り逸すへからす故に大略を示す﹂とある︒紀州藩は︑高野寺領を他領だ

とはっきり認識しながらも︑それを承知の上で︑高野寺領に住む郷士を紀州藩の地士に編成している

ことが分かる︒喜多長左衛門も含め︑寺領に住みつつ紀州薄地士として名を挙げられている者は二十五

︵ 飢

人存在する︒︵表②︶ この他にも︑﹃紀伊続風土記﹄によると︑高野寺領の那賀郡神野荘福田村の河野

兵部と伊都郡隅田荘中道村の上田樽右衛門は︑南龍公︵徳川頼宜︶から禄を賜っていた地士として記

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(8)

表2 高野寺領地士

平野段右衛門 安 楽川 奥  杢  之  助 安楽川 鹿 田 九 太 夫 安楽川 城 四 郎 兵 衛 安楽川   孫  四  郎 安 楽川 城  万  五  郎 安楽川 坂 中 勝 之 丞 安楽川 鹿 田 作 之 丞 安楽川   禰  太  夫 調  月 川  野  左 近 神  野 野口利右衛 門 調  月 田尻半左衛門 神  野 喜多長左 衛門 荒  身 山本角左衛門 杉  原 中 橋 勘 之 丞 慈尊院 生 地 作 兵 衛 馬  場 菅野留 右衛 門 清  水 菅野三右衛門 清  水 西  十  太  夫 荒  身 岡 本 九 太 夫 神  野   司  孫  三 友  淵

  領  庄  官

岡左衛門猶粛 田所治郎左衛門正業 亀岡兵部丞秀宗 高坊 太郎兵衛秀昌

︑1︑Jlされている︒﹃南紀徳川史﹄や﹃紀伊続風土記﹄に記されていない者が︑まだ他にも

いたと考えられ︑寺領に居住する紀州藩の地士は︑かなりの人数が存在したことにな

る︒

表②の中にある寺領庄官である四人は︑紀州藩の地士でありながら高野山から禄を

賜っている者たちである︒つまり︑北家のように︑紀州藩・高野山双方の地士をつと

める家は︑寺領内に複数あったことが分かる︒北家が︑高野山から禄を貰っていたか

どうかは︑北家文書からは︑分からないが︑紀州藩から扶持米を貰っていたこと︵た

だし前述のように正保元年には扶持召し放ちとなっている︶は︑北家文書︑﹃南紀徳

川史﹄からも明らかである︒

34

︵三︶地士北家の両属性

前節で高野寺領に居住しながらも︑紀州藩に仕えていた地士の存在を明らかにした︒

その具体例としては︑北家を挙げることができる︒しかし︑高野寺領には︑高野地士

と言われるものも存在した︒

︵ ㌘

﹁北家文書解題﹂では︑紀州藩高野寺領地士については︑次のように述べられてい

る︒

﹁直接の支配は高野山︵荒見村は学侶領︶から受け︑一般の諸触れも高野山から来︑

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諸勤めも一般には高野山に対して行っていたようである︒しかし︑紀州藩との関係が全くなかったわけではなく︑年頭御

礼に和歌山城に参上し︑藩主の参勤交代時には道筋にお迎え︑お見送りに出︑諸祝い時にお城で行われる大能時にも拝見

を許されている ︵これは﹁地士﹂自体が紀州藩より任じられたものであるからであろうが︶﹂

と書かれている︒これは︑地士の任命権は紀州藩︑日常の指令系統は高野山︑という体系の地士制度が一つしかなかったと

想定していると恩われる︒しかし︑私は︑紀州藩が任命・命令する地士制度と︑高野山が任命・命令する地士制度と二つの

地士制度が並存していたと考えている︒

一つは︑六十人者に代表される︑紀州藩が﹁高野寺領地士﹂と呼び︑任命・御用を申し付ける支配系統の地士制度である︒

もう一つは︑一般的には﹁高野地士﹂と呼ばれている︑高野山が任命・御用を申し付ける支配系統の地士制度である︒

この二つについて混同して記述されている町史も見かけられるが︑指令系統も任命権も︑紀州藩と高野山がそれぞれ個別

に持っていたと考えられる︒

高野寺領に住み︑紀州藩の地士をつとめながらも︑高野山の地士もつとめていた北家を例に考えたい︒

北家文書によると︑紀州藩那賀郡奉行︵郡代官︶を通して紀州藩の勘定奉行・勘定吟味役・側用人衆から﹁御用﹂の名目

の書状が北家宛てに出されている︒年号の記されていないものが多いが︑寛文九︵一六六九︶年から元治二 ︵一八六四︶年

にかけて一〇六通の ﹁御用﹂がきている︒つまり︑紀州藩の指揮系統のもとで北家が紀州藩の地士として活動していたこと

が分かる︒また︑高野山︵年預代︶からの書状では﹁安良見村喜多長左衛門﹂宛となっているのに対し︑紀州藩からのそれ

°  

°  

°  

°  

°   t    

°  

°   t

は﹁高野寺領安良見村地士喜多島左衛門﹂宛となっている︒紀州藩は︑明らかに他領に居住する士分としての地士・喜多長

左衛門に対して書状を出していると考えられる︒

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また一方で︑年預代︵高野山︶からも﹁御用﹂の名目で北家宛てに書状が出されている︒北家文書では︑慶応四︵一八六八︶

年高野山からの﹁永苗字帯刀免許﹂と﹁地士御用に付定﹂が残されているが︑北家の分家である西家に残されている元文四

︵ 部 ︶

︵一七三九︶年の書状には︑﹁代々帯刀仕候儀︑卸一山井御国方迄︑隠無御座候﹂とある︒これらのことなどから︑北家は︑

高野山からも地士としての地位が与えられていたことが分かる︒

高野山の地士制度が︑いつから制度として整えられていったのかははっきりしないが︑慶応元︵一八六五︶年の ﹁寺領内

地士名簿﹂が残っており︑それによると︑﹁高野地士﹂は︑整然と組織化されている︒﹁学侶方地士連名﹂︑﹁惣分︵行人︶方

︑い∵地士連名﹂︑﹁御修理方地士連名﹂の三つの名簿に分かれ︑地域ごとに組頭が決められている︒﹁寺領内地士名簿﹂の﹁学侶

方地士連名﹂に五十人︑﹁惣分︵行人︶方地士連名﹂に五十三人︑﹁御修理方地士連名﹂には二十五人の名前が挙げられてい

る︒このうち︑先に表②で述べた二十五人の紀州藩高野寺領地士と同じ名前は︑七人挙げられる︒構成メンバーは完全に重

複しないので︑ここから︑紀州藩の地士とは別に︑高野山独自に地士制度が作られ組織されていたことがうかがえる︒

︵ 盈

小田康徳氏の﹃近代和歌山の歴史的研究﹄では︑﹁喜多淳介天誅組出動日記﹂が全文翻刻されており︑その史料解説の中

で︑小田氏は︑喜多淳介の ﹁父であり当主でもある喜多︵北︶長左衛門は︑紀州薄地士としても特別な待遇を受けている︒

喜多家はこの点一般の高野領地士とは少し違う位置にあるが︑淳介自身は︑あくまで高野領地士として行動している﹂と述

べている︒ここで述べられている﹁高野領地士﹂とは︑本稿で問題にしている﹁高野地士﹂のことであるが︑ここでは︑北

家が紀州藩の地士をつとめながらも高野山の地士もつとめ︑紀州藩の地士制度と高野山の地士制度を区別してとらえている︒

以上のことから︑紀州藩高野寺領地士と高野地士については︑治安維持といった地方に果たす役割は同じであっても︑全

く別の組織系統に属すものであり︑区別して認識し︑扱うべきであると考える︒

36

(11)

しかし︑ここで高野寺領内に二つの地士の並存を認めると︑北家のように紀州藩の地士をつとめながらも︑高野山の地士

もつとめているものがいることになる︒一般的に︑居住する領地とは異なる他領の領主に仕えることは︑通常考えられない︒

また︑一人の者が︑同時期に二人の領主に重複して仕えることも通常では考えられない︒そこで︑北家の一般的ではない︑

いわば特殊な主従関係について考えたい︒

︵ 刀

﹃南紀徳川史﹄の﹁元和八年被召出地士六十人者姓名﹂一覧では︑北家の当主である﹁喜多島左衛門﹂の名前が登録され︑

︵ 朗

先述の ﹁寺領内地士名簿﹂ では︑学侶方地士として息子の ﹁喜多淳介﹂ の名前が登録されている事を考え合わせると︑当主

の ﹁長左衛門﹂は紀州藩高野寺領地士︵六十人者地士︶として紀州藩に仕え︑後継者の淳介が高野地土として高野山に仕え

ていたのではないかと考えられる︒一家の中で当主は紀州藩との問で︑また︑後継ぎが高野山との問で︑それぞれ主従関係

を結んでいると考えると︑二人の領主と同時に主従関係を持たないという矛盾を上手く解消していると言えるだろう︒しか

し︑個人としては使い分けているが︑家としては両属していることになるのである︒

寺領の郷士が高野山の地士としてつとめるのは自然な流れだと思うが︑なぜ他領である紀州藩がわざわざ寺領の郷士を地

士として召抱えたのだろうか︒この間題を解明するために︑次章では︑北家文書を通して︑北家の地士としての具体的な活

動について見ていきたい︒

37

二 地士北家の具体的活動

北家は紀州藩・高野山双方の地士をつとめていたが︑あくまで高野寺領の領民であり︑領主・高野山へ年貢を納める身分

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でもあった︒水論や山論など争論には︑庄屋として対応し︑池普請や薮の借用の際にも庄屋や薮庄屋として年預代︵高野山︶

と交渉している︒たとえば︑享保九︵一七二四︶年年預代︵高野山︶ に宛てて出された﹁乍恐口上を以奉願候︵両地当春御

︵ 施

普請仰付け願い︶﹂では︑たんに﹁安良見村喜多長左衛門﹂と署名している︒このように︑庄屋としてや︑村人総代として︑

百姓側の立場に立って︑年預代︵高野山︶と対応している︒しかし︑天明六︵一七八六︶年地士として安良見村の出入を仲

︵ 討

介している︒ここでは︑﹁安良見村地士 喜多長左衛門﹂と署名している︒また︑寛政七︵一七九五︶年には︑胡乱者改役

︵ 訂

にも任じられていたようである︒北家文書の中の︑年預代︵高野山︶から下される﹁御用﹂は︑登山を命じるものと︑年預

坊に詰めることを命じるものが大半である︒

1元文四︵一七三九︶年には︑高野地士の税制上の特権として︑事実上認められていた夫役の免除に関する出入が起こって一

いる︒これは︑中世以来の土豪層であった四軒︵北長左衛門・新才之進・西十太夫・西惣左衛門︶が︑これまで夫役を免除 38

されてきたことについて︑村人全員がその特権を排除しようと訴えた事件である︒村人達は︑彼らを自分たちと同じ百姓身

分としてとらえ︑平等に夫役を負担するように主張したのである︒この争いは︑年預坊では解決をみず︑幕府の寺社奉行に

まで持ち込まれたが︑結果として︑黙認されていた特権は︑公認されることになった︒その中で︑高野山は︑弘化四

︵一八四七︶年の触書で﹁家柄帯刀之為格式︑地頭夫役臨時之用務申付儀有之︑殊二年頑暑寒別段相勤釆候二付︑組下並ニ

︵ 刃

申付候同列夫役筋者︑都而令許容候趣申渡︑許状差通候事﹂というように︑北家の高野地士としての特権を認めている︒

︵ 咄

紀州藩が高野山で行う行事については︑﹁若山御名代高野山登山につき山内警固仰付差紙﹂として高野山側から地士御用

が出ていることから︑紀州藩の用事とはいえ︑高野山で行われる行事に関しては︑高野山側からの命令によって高野地士と

して活動していたと考えられる︒

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︵二︶紀州藩高野寺領地士としての活動

①日常的活動

北家文書のうち︑紀州藩の地士関係の史料は約三一八点ある︒その内︑紀州藩の那賀郡代官から﹁御用﹂として﹁高野寺

領安良見村地士喜多島左衛門﹂宛ての書状は約一〇六通ある︒これらを見ていくと︑平時の活動は︑年頭御礼︑藩主の参勤

交代時の街道までの送迎︑葬式法事家督相続などの際の挨拶に分類できる︒年頭御礼とは︑毎年正月に︑若山城に出向き︑

お目見えを許されていることである︒そして︑紀州藩の家老や側用人︑年寄︑奉行など二十数人に挨拶回りをするのが恒例

4

1

となっていた︒御目見えの手順や︑家臣の名前と役職を記した﹁御目見家中廻り帳﹂が︑元禄九 ︵一六九六︶ 年〜嘉永五

︵ 彪

︵一八五二︶年の間に九冊︑﹁奉行・吟味役・代官名前住所覚﹂も八冊作られている︒そして︑年頭御礼に関しては︑紀州藩

内で金納による地士の増加によって︑正月の御目見えの際の古参の地士の席次が下がったため︑﹁先年之通り﹂ に戻して欲

しいという﹁奉願口上﹂が残っており︑席次争いがあったことがうかがえる︒そこからは︑紀州藩は︑北家に対して﹁他領

︵ 心 ︶

御出入之客分﹂という認識をしていたことが分かる︒地士の相続については︑紀州藩那賀郡代官との間で書類のやり取りを

している︒那賀郡代官から来た﹁御用﹂ の書状で︑﹁其許地士相続之義二付﹂﹁書付を以被談候事候︑右者︑役所相志らさせ

︹ 胡

候処︑其節持参之書付者︑何等差支候品者︑無之候間︑右書付早々差出可被申候﹂という文面があることから知られる︒ま

た︑紀州藩那賀郡代官の代替わりの際にも代官の方から挨拶状が来ている︒

紀州藩主の参勤交代の発駕・帰国の折には︑その道筋まで送迎・御目見えに出向くようにとの代官からの書状があり︑紀

州藩領河辺村と山口村の間まで出張して行ったようである︒また︑北家からも﹁倖同伴﹂などの申出もしている︒川支︵大

井川が増水で渡れない︶ や到着日程のずれなど︑江戸−紀州間の藩主の道中の様子を事細かく代官を通して連絡が来ている︒

39

(14)

藩主の動向を逐一知らせているということは︑単に日程調節のためだけでなく︑地士としての特権意識を持たせ︑家臣団の

末端に加わっているという意識を持たせようとしていたのではないだろうか︒それはまた︑冠婚葬祭の際︑参列するように

との書状が来ていることからも考えられる︒

②有事の時の活動

調

嘉永期に入ると︑海防がますます取沙汰されるようになり︑武芸や砲術の稽古が頻繁に行われ︑海防や調練のために地士

へ 4 7

帯刀人が軍事動員されている︒北家文書では︑﹁安政二卯年御代官所ム調練之儀申釆写﹂によると︑﹁尚々︑寺領筋江者︑其

許△可被申合候﹂﹁鉄砲所持之節者︑持参可有之候事﹂と書かれている︒那賀郡代官から鉄砲を持参して代官所に集まるよ

う命令があり︑寺領筋の者にもその調練参加の命令を伝達させている︒ここからは︑紀州藩支配の地士︑高野地士を問わず︑

装備一式を持参して調練に参加させていたことが分かる︒異国船騒動や内憂外患に備えて︑国境の警備や日々の打廻を命じ︑

不審な事があれば早々に伝えるようにという書状も残されている︒治安維持や情報伝達︑実際に何かが起こった時の現場の

対応もこれら地士たちに担わせていたことが分かる︒武目一二式を揃え︑軍役に応じられるだけの経済力が彼らには蓄積され

ていたのだろう︒そして︑不審船警固に出勤すると︑紀州藩から三人扶持や銀などが支給されている︒﹁請取中米之事﹂ で

は︑﹁九月廿七日朝丘廿八日朝迄﹂﹁異国船渡来二付︑他領境相詰候節﹂の扶持米として﹁米壱升五台也  但三人扶持﹂を

紀州藩の ﹁博法御蔵所﹂から支給されている︒また︑﹁一︑銀弐匁三分﹂というように銀で支払われている場合もある︒

40

(15)

5

1

小田康徳氏の﹃近代和歌山の歴史的研究﹄の中に﹁喜多淳介天誅組出動日記﹂が全文翻刻されている︒ここでは︑喜多長

左衛門の息子で︑高野地士として活動していた喜多淳介の ﹁喜多淳介天誅組出動日記﹂を中心的史料として︑天誅組騒動の

時の地士たちの動きを見ていきたい︒

文久三 ︵一八六三︶年八月十三日天誅組が河内国に現れたところから︑十月十日〜十一日ごろの騒動が静まりかけるとこ

ろまでが日記として書かれている︒文久三 ︵一八六三︶年︑天誅組が五条代官所襲撃の後︑高野山を仲間に取り込むべく

五〇人余りが高野山に登り︑学侶・行人・聖方の三派を武力で押さえ込んでしまった︒内命をもって喜多淳介は若山へ掛合

に走っている︒そして︑若山からは地士のみならず︑大番頭や勘定奉行︑勘定吟味役が駆けつけ︑総勢一二〇〇人余りの軍

勢が動いている︒年預代︵高野山︶ から︑若山から出張してきた地士たちに﹁一刻も早く御登山可被下候︑早々相頼候様︑

取斗被致度候﹂と淳介に連絡を依頼していることからも︑高野山側も紀州藩の軍隊を待望していたことが分かる︒

若山勢は︑寺内を警固で固め︑他領境の警備や打廻りをして︑天誅組と接戦している︒その際に︑寺領在住の紀州薄地士・

河野左近が実際の戦闘に加わっている︒また︑若山代官所から喜多島左衛門宛に﹁一揆蜂起之趣﹂﹁厳敷追討可致旨﹂﹁相心

得候様年寄衆披仰出候事﹂という通達が来ている︒一方で︑淳介は︑首尾一貫して年預代の御用に従って動いている︒高野

地士は︑主として年預坊に交替で詰めていた︒年預坊に詰めていない時は︑陣所詰めや情報伝達などの活動をしていたよう

で︑現場では若山勢と連携・その指揮に従って行動していたのではないかと考えられる︒実際の軍事行動は紀州藩が担当し︑

召し捕えた者も若山で処分していることから︑軍事・警察権に加えて︑この時は検断権も︑紀州藩が担っていたと考えてよ

さそうである︒それは︑﹃南紀徳川史﹄によると︑九月には﹁公儀ヨリ御達﹂として﹁万一山中立籠リ及乱暴候程モ難計候

41

(16)

間早々追討御人数御差出可被成候﹂という命令が紀州藩に来ているためと考えられる︒

北家は︑紀州藩高野寺領地士として︑紀州藩との関係の中で日常的に地士としての活動を果たしながら︑有事の際には︑

紀州藩の指揮の元︑軍事動員されていた︒高野寺領は海に面していないが︑紀州藩が海防を強化する際にも︑動員がかけら

れ︑また︑寺領内における騒動でも︑紀州藩との関係の中で紀州藩の指揮下で動いている︒

高野山は︑天正十三 ︵一五八五︶年の秀吉の高野攻めによって武装解除されて以来︑領主身分としての正規の武士・軍隊

を持っていなかったと考えられる︒従って︑軍事・警察権︑とりわけ軍事権に関しては事実上持っていなかったと考えられ

る︒高野山の近世領主としての性格を考えた場合︑軍事力・軍事権の欠如という重要な特徴を指摘できるのである︒そして︑

それを補完すると言うのが︑紀州藩との関係だとは言えないだろうか︒

紀州藩は︑高野山の︑軍事・警察権という領主権の一部を担当していたが︑高野寺領に紀州藩の正規の武士を置くことは

できずに︑半農半士である地士という曖昧な存在を通じてその目的を達成しえたのである︒

42

三 元禄の高野騒動と安永五年の一揆

前章で︑北家文書から︑地士が軍事動員され︑紀州藩の具体的な軍事力として発動している例として検証できたのは︑天

誅組騒動と海防だけであった︒この章では︑地士の動向にも留意しっつ︑軍事・警察権をめぐる高野山と紀州藩の関係その

ものに焦点をあてたい︒そこで︑時代をさかのぼって︑二つの事件について考えたい︒一つは︑高野寺領の領主階級内部の

騒動に紀州藩がどう介入するかという対領主の問題を含む元禄の高野騒動である︒二つ目は︑高野寺領内の騒動に紀州藩が

(17)

どう介入するかという対百姓の問題を含む安永五年の一揆である︒

︵一︶元禄の高野騒動について

学侶と行人の対立は︑中世の頃から存在していたが︑江戸時代に入って両者の対立が表面化してくるのは︑寛永十五

︵一六三八︶ 年の堂上濯頂一件からである︒学侶方の無量寿院澄栄が行大方の文殊院応昌に濯頂授供を約したのに対し︑

︵ 軸

三〇〇〇人の学侶一同が︑家康御朱印に背くものとして反対した︒その為︑澄栄はその約束を破乗せざるを得なくなり︑立

腹した応昌は︑配下の行人二五〇〇人一同を学侶方と絶交させた︒そして︑応呂が大塔に棟札呪文を打付けた事が問題にな

り︑その後も行大方の横暴が目に付くようになり︑遂に一六四四年︵正保元︶ に両門主が︑幕府寺社奉行へ︑応昌が堂上濯

︵ 施

頂の報復として学侶方へ行った﹁無礼な振舞往々なる事﹂と﹁大塔棟札の次心なる所為﹂を訴えでた︒

結末は︑行大方を大粛清することで両者の争いは一応の決着をみることとなった︒この時︑幕府の寺社奉行︑大目付︑目

︵ 認

付の三人が上使として江戸から五〇四人を引き連れ高野山へ派遣されている︒その時に︑紀州藩は︑上使一行の警備と行大

二︑こ方の抵抗を阻止するため︑紀州薄地士達を動員した︒若山から御家老・奉行・物頭・諸士・同心など約一万三千人近くの人

員が動き︑橋本へは役人三六人・侍一〇〇騎・歩立一〇〇人・足軽一二〇〇人・人夫一五〇〇人︑紀ノ川の上には人夫一万

︵ 測 ︶

人を配置した︒また︑六十人者をはじめ︑地侍共や大庄屋等にも︑出張が命じられ︑総勢八十一人の地士・帯刀人が出動し

︵ 盟

ている︒この時︑高野地士が動員されているかどうかは定かではない︒

この際︑大和郡山の本多下野守忠泰は︑国境五條に兵を置き︑行人方が下山の命令に従わなかった場合は︑紀州藩へ駈け

︵ 餌

付ける用意を整え︑紀州藩へ断りを入れていた︒

43

(18)

また︑幕府は︑和泉・河内・大和の各領主に対しても国境まで人員を派遣して待機させ︑葛城山の峰峰に狼煙台を設けて︑

煙が上がれば城下に残っている武士にも紀州に駆けつけるようにし︑人馬の用意をさせた︒西国の大名の中には︑上使の御

∴∵用があればすぐに駆けつけると願い出るものもいた︒

このような近国大名の人員が紀州へ押し入ることをさせないためにも︑紀州藩は多くの人員を動員し︑高野寺領内の警備

も厳重に固めたようである︒

このことから︑寺領を含め︑紀伊一国の軍事・警察権は︑紀州藩が握っているという紀州藩の認識がうかがえる︒

この騒動の後︑笠原氏の前掲書によると︑幕府の上使三人から﹁高野山知行当分御預け之事﹂が紀州藩に渡されている︒

これは︑多数の行人が流罪になり無住になった興山寺の行大方の諸事納米の請払いや︑行大方知行地の堂杜の行事料︑上意

︵ 位

を受けて帰山できた僧の配当米などの支配を当分の間︑紀州藩に預けるという沙汰であった︒このことは︑裁断によって行

大方の人数が激減した為︑支配が困難になったためではないかと思われる︒実際に︑行大領であった小川荘が一時的に︑紀

︵ 瓜

州蒲郡奉行の支配下にあったことがうかがえる書状も残っている︒

すでに︑前章で明らかにしたように︑紀州藩は︑高野寺領の郷士を紀州藩地士として支配下に置いていたというだけでは

なく︑この騒動からは︑一時的にではあるが︑紀州藩が︑土地支配に関してまでも支配権を持っていたことが分かる︒

一連の経過からみると︑高野寺領の︑領主である学侶・行人の支配者層内部の抗争は︑全て幕府寺社奉行に訴えられ︑幕

府が処理している︒そして︑その裁定を実行する際に武力が必要な時は︑高野寺領に隣接する紀州藩が担当し︑治安維持に

あたっていた︒そのことを幕府も認めていたことが分かる︒これらの諸事実から判断して︑高野寺領の軍事・警察権とりわ

け軍事権は︑おそらくは近世初期から紀州藩が一手に引き受ける体制ができていたのではないかと考えられる︒

44

(19)

︵二︶安永五年の一揆について

高野寺領で起こった一揆のうち︑紀州薄地士の動員が明らかなのは安永五︵一七七六︶年の一揆である︒

﹃和歌山県史﹄近世史料四に収録されている高野寺領慈尊院村中橋家文書の﹁高野寺領百姓強訴実録﹂が詳しいので︑以降︑

それによって見ていく︒安永五年六月頃から高野寺領の農民の間では行大領の新田の竿入れをめぐって騒動が起こっていた︒

この時︑福田村地士河野左近の地所へ︑高野山側が竿入れする際に︑河野左近は︑紀州藩から禄を賜っていたため︑紀州藩

︵ 朗

を楯に竿入れを拒んでいる︒そして︑九月にはついに︑行大領の神野荘福田村で打ち壊しが起こった︒福田村地士岡本忠太

夫が行人方に取り入り︑年貢増収を計る見返りに三〇石を与えられることになっていたが︑それを知った南郷の百姓が遺恨

を含み︑岡本宅を打ち壊したのである︒

十月二十三日︑紀州蒲郡奉行は︑橋本へ免定めに来た際に﹁若近郷々に騒動ケ間敷儀有之候者︑各々早速駈付領分境相聞

︵ 伍

メ則注進可有之との事﹂というように近隣の地士中へ命じている︒年貢免率をめぐる騒動は︑学侶領にも波及し︑十一月一

日には︑南郷と紀ノ川筋の学侶方領民二〇〇〇人近くが︑高野山へ ﹁惣登り﹂をして強訴し︑高野山は紀州藩に急使を発し

応援を求めた︒そして︑﹁不容易形勢の旨急報﹂を受け取った紀州藩は︑同日︑紀州藩勘定奉行より伊都・那賀郡奉行へ各

支配下地士共へ昼夜油断無く警戒を加え御領分を取り締るよう達している︒このように︑高野寺領での騒動が︑紀州藩へも

飛び火しないように︑国境の警備を厳重にしたと考えられる︒

そして︑紀州藩伊都郡奉行は粉河へ︑那賀郡奉行は岩出へ出張し︑五日には伊都・那賀郡の紀州藩領の地士・帯刀人を残

らず粉河へ集め︑﹁此節みたりに他領へ入込候事︑親類たりとも堅く無用︑御領分内村々昼夜打廻候様﹂と命じている︒粉

河に待機していた地士・帯刀人のところへ︑同日夜半に︑高野地士の萱野孫四郎が﹁明六日惣分下百姓惣登り致し候間︑早々

45

(20)

御加勢可被下﹂という行人方興山寺からの依頼を伝えた︒しかし︑彼らは︑郡奉行の﹁此節みたりに他領へ入込候事︑親類

︵ 槌 ︶

たりとも堅く無用﹂という命令を守り何も行動しなかった︒そして︑六日に紀州藩から地士達に﹁此度高野山騒動二付学侶

︵ ㊥ ︶

万古願の品二付︑百姓取鎮之儀被仰付﹂られ十六人の地士が高野山へ登山した︒しかし︑学侶方は行大領で起こった騒動だ

︵ Ⅷ

から関知しないとの態度を示した︒そして︑七日には︑三︑四千人の百姓が行大方興山寺へ押し寄せてきたので︑興山寺は

7

1

あわてて再度地士へ応援を求めた︒地土中は皆重装備で興山寺へ出向き︑紀州藩のご威光を持って鎮めようとした︒﹃南紀

︑¶.︑徳川史﹄によると︑総勢数百人近くの地士・帯刀人が動員されたようである︒彼らは︑﹁強訴徒党ハ公儀御法度の事二候へ

ハ︑たとへ何れの領分たりととも隣領の事二候へハ︑紀伊殿其偉指置れかたく急度御人数を以取鎮メ可申事二俣﹂と言って︑

︵ 乃

騒動を静めている︒

行大方と学侶方の役僧は︑騒動の首謀者五︑六人の逮捕を紀州藩の地士たちに要請し︑さらに﹁召捕候者共此方へ御引渡

し候而も沙門之儀致方も御座なく候問︑御国表へ御引取被下候様仕度﹂と首謀者の和歌山連行を願ったが︑地士たちは﹁一

7

4

向私共了簡二難及義二御座候﹂としてこの申し出を拒否している︒そのためか︑高野山はこの一揆の参加者たちの処分につ

いて幕府寺社奉行に訴え出ている︒そして︑高野山に代わって︑幕府の寺社奉行が︑一揆に関わった者たちの処分・論功行

賞を一手に行っている︒その内容から︑紀州藩支配による地士にしろ︑高野山支配による地士にしろ︑寺領に居住する地士

達の対応は︑百姓側に味方するもの︑中立を保ち事態を静観するもの︑高野山や紀州藩側に味方し鎮圧側にまわるものに分

かれていたということが分かる︒それによると︑学侶領では︑地士十五人が苗字帯刀取上げになっている︒このうち︑三人

は︑高野山背厳寺地からの苗字帯刀免許であった︒更に︑地士六人が詫状を高野山に提出したためお答めなしになっている︒

北家も︑強訴・徒党に参加したがお答めなしになっている︒行大領では︑四人の地士が苗字帯刀取上げ︑五人の地士に褒美

46

(21)

銀が渡されている︒

以上のように︑高野寺領における安永五年の百姓一揆についても︑紀州藩の武力︑この場合︑藩領から動員された紀州藩

地士を中心とした軍事力によって解決されている︒近世の高野山は自領で発生した百姓一揆に対しても自ら軍事的に対応す

る能力を持たず︑解決のための軍事力を紀州藩に依存していた関係が知られるのである︒その際︑前述のように高野寺領内

に居住する地士に関しては︑高野地士・紀州藩高野寺領地士を問わず一揆に対する地士の態度が分裂し︑地士制度という下

級軍事システムが領主にとって正常に作動していない点についても注目しておきたい︒こうした事態は︑本来は百姓身分で

ある地士たちを下級軍事システムに組み込んだ地士制度そのものの矛盾を示していると考えられるからである︒また︑この

安永五年の一揆については︑元禄の高野騒動の時と同様に︑幕府の寺社奉行が裁断を行っている︒しかし︑前節で見たよう

に︑天誅組騒動の時は︑紀州藩に首謀者の処分を任せており︑この安永の一揆の時も寺社奉行に持ち込む前にまず︑紀州藩

の地士たちに任せようとしていることが知られる︒これから判断して︑軍事・警察権だけでなく︑十八世紀には検断権も紀

州藩に委ねようとする関係ができあがっていたと思われる︒

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高野寺領に属していた那賀郡安良見村の北家文書を使い︑北家の具体的分析を踏まえて︑近世の寺社領主である高野山と︑

紀州藩の関係について考察してきた︒その中で︑紀州藩の地士が︑高野寺領にも居住していたこと ︵紀州藩高野寺領地士︶︑

更に︑彼らが紀州藩の指揮のもとで武力装置として実動していたことを︑明らかにすることができた︒

(22)

高野寺領に居住しなから紀州藩の地士もつとめている具体例としては︑北家を挙げることができる︒北家は︑さらに︑高

野山の地士︵高野地士︶ でもあり︑地士として紀州藩と高野山の二つの近世領主に両属していた︒当時︑一入の人物が二人

の領主に同時に仕えることは普通では考えられないことであったが︑北家の中で︑当主の名前と息子の名前を名簿上で使い

分けながら両属していたことが分かった︒その中で︑北家は︑高野地士としては︑年貢を納める身分でありながらも︑山内

の警固という寺領内の治安維持の活動をも担っていた︒また︑紀州藩高野寺領地士としては︑当初は扶持米を与えられ︑年

頭挨拶・参勤交代の送迎・冠婚葬祭への参列などの日常的な活動をしなから︑有事の際は︑紀州藩の指揮下で軍事的行動を

とっていた︒高野寺領で騒動や事件が起こると︑高野山は無力で︑紀州藩が軍事動員をして鎮圧に出兵している︒

紀州藩は︑高野山の︑軍事・警察権とりわけ軍事権という領主権の一部を担当していたことは分析からも明らかであり︑

紀州薄地士制度が︑本来他領である高野寺領にまで拡大する形で存在している基本的な理由も︑この点に求められると考え

られる︒紀州藩はその一方で︑高野山の一応の領主権を認めていたため︑高野寺領に紀州藩の正規の武士を置くことはでき

なかった︒そこで︑半農半士である地士という曖昧な存在を高野寺領に置くことを通じてその目的を達成しようとしたので

従来︑紀州薄地士は当然紀州藩領に住む郷士から選ばれた者だけがつとめていると考えられてきた︒そこで︑高野寺領に

住む者が︑制度の設立当初から︑地士の中でも格上の存在である六十人者地士をつとめ︑実際に活動していたという事実は︑

紀州藩地士研究において目新しいことではないかと考える︒

次に︑高野山と紀州藩の関係についてであるが︑近世初期から︑高野寺領で起こった事件に対して︑紀州藩が武力支援を

する関係が日常的にあったと考えてよいように思われる︒

48

(23)

高野寺領の有事の際︑紀州藩が地士を軍事動員した例として︑二章と三章にわたって︑元禄の高野騒動と安永の一揆︑天

諜組騒動の三つの事例を分析した︒天誅組騒動と安永五年の一揆を比較すると︑騒動は高野寺領内で起こっているが︑騒動

の要因が領外からくるもの ー 天誅組のようにに対しては︑紀州藩は︑要請を受けてすぐに軍事動員をかけて出動して

おり︑その時は︑幕府からの出動命令も出ている︒

一方で︑その騒動の要因が高野寺領の地方支配に関すること − 安永五年の一揆など寺領内一揆Iに対しては︑紀州藩

は︑騒動か自領に及ばないように︑まず藩領を固めてから︑高野山からの再三の要請でやっと出動している︒この場合︑紀

州藩は︑高野山との関係において︑まず︑自領である藩領を固め︑要請があって初めて軍事動員し︑騒動鎮圧に動くのであ

る︒

以上のことから︑紀州藩としては︑高野寺領内の騒動の場合には︑積極的には関わろうとせず専守防衛とも言いうる姿勢

がうかがえる︒一方で︑幕府の了解があれば︑すぐさま兵力を差し向け︑処断も担当し︑元禄の高野騒動の時のように︑地

方支配の肩代わりも行っている︒紀州藩は︑紀州藩高野寺領地士はもちろんのこと高野地士をもその指揮下で動員しうるた

め︑高野寺領に関する軍事・警察権とりわけ軍事権を事実上握っていたが︑土地とそれに付随する百姓までは直接は支配で

きなかったのである︒それには︑幕府の′1承が必要なのである︒そこから︑紀州藩は︑高野山に対して︑軍事・警察権以外

の一応の高野山の領主権は認めていたことがうかがえる︒しかし︑慶応二 ︵一八六六︶年に︑紀州藩が幕府に提出した﹁内

7

6

八月 ︵日不知︶高野一山御支配二相成度旨︑公儀へ御内談

左ノ通︑渡辺水主ヲ以︑於大坂板倉伊賀守へ提出之処︑次項ノ通差図アリ

49

(24)

高野山ノ儀ハ︑国中第一ノ要地二候処︑兼テ寸兵ノ備モ無之候故︑先前夫和一揆ノ如ク浮浪の賊徒共︑同所へ入込︑乱

暴二及ヒ候者必定可有之︑就テハ︑国内兵備二差支候間︑紀伊殿ヨリ兼々︑人数差出置度︑依之向後右一山︑紀伊殿ニ

テ支配被致度︑此段及御内談候様︑被申付越候事

差図高野山ノ儀ハ︑都テ御支配可被成トノ儀ハ御聞届相成兼候得共︑此節柄御警衛向ノ儀二付︑御支配方ノ儀ハ十分御取計

有之候様︑被 仰出候間︑此段可被中越候事

これによると︑紀州藩は高野寺領を﹁国中第一ノ要地﹂ととらえており︑紀州藩は︑高野山が正規の武士・軍隊を持って

いないというように認識していたことが分かる︒高野山が近世領主として︑軍事力・軍事権を欠いていたことは﹁寸兵ノ備

モ無之候﹂という言葉で明示されている︒そのため︑紀州藩は︑大和一揆︵天誅組騒動︶が起こり︑国内の兵備に差し支え

ると考えていた︒高野一山を紀州藩支配にしたいという内談は﹁高野山ノ儀ハ︑都テ御支配可被成トノ儀ハ卸間届相成兼候﹂

と返答されている︒しかし︑﹁御警衛向ノ儀二付︑御支配方ノ儀ハ十分御取計有之候﹂というところから︑紀州藩が︑高野

山に対して近世初期から武力支援をする関係は︑幕府公認だったことが︑この史料からも再確認できると思われる︒

高野山は︑近世では最大級の知行石高を誇る寺社領主である︒その高野山の領主としてのこのようなあり様は︑近世領主

としての寺社領主の一般的なあり方や︑有する領主権の内実を考える際︑極めて興味深い︒他の寺社領主と比較して高野山

の事例のみが特異であるとは考え難いからである︒他の寺社領主についても︑その近隣の武家領主との関係を含めつつ︑寺

社領主としての領主権の特質的なあり方を更に追究してみる必要があるだろう︒本稿で注目したような軍事・警察権を軸と

した寺社領主のあり方や近隣武家領主との関連は︑今後︑近世寺社領主研究を深める上で︑新しいそして重要なテーマにな

50

(25)

るのではないかと考える︒

﹇ 註

︵1︶小山草城氏﹁紀州藩の地士制度−地士の創設とその変容を中心に1﹂ ︵﹃和歌山地方史の研究﹄安藤精一先生退官記念論文集宇治書

店︑一九八七年︶︑白井陽子氏﹁近世後期における紀州遠地士について−名草郡山口組を中心として−﹂︵﹃和歌山の歴史と教育﹄渡

辺広先生退官記念会︑一九七九年︶︒

︵2︶小山善城氏﹁近世高野山の成立と寺領支配﹂︵﹃紀州史研究五高野山特集﹄︑国書刊行会︑一九九〇年︶︑九〇〜九一貢︒

3

︵4︶神亀法寿氏﹁百姓中心に見たる近世の高野寺領﹂ ︵﹃社会経済史学﹄二⊥〇︑一九三三年︶︑一〇ノ六九 ︵一〇七七︶ 貢︑小山註

2

5

︵6︶神亀註︵4︶前掲論文︑一〇ノ七〇︵一〇七八︶頁︑小山註︵2︶前掲論文︑九三百︑なお﹃和歌山県史﹄・﹃粉河町史﹄では︑学

侶行人双方支配五〇〇〇石のうち奥院灯明料二〇〇〇石を行人支配に含めて行人方八六〇〇石としている︒

︵7︶現在では市町村合併で紀の川市になっている︒

︵8︶﹃日本歴史地名体系和歌山県﹄平凡社︑一九八貢︒

9

51

参照

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