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H 近世初期木曽林業における技術と、労働形態

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(1)

14 ‑

近世初期木

曽 林 業

における技術と︑

働形態

H

脇 野

( 一

九九 二 年 一

O

月 三

O

日受理 )

田 砲其外兵器を構へすハといハパ︑可打懸休ニ相見江申ニ付無 ‑内近国の柚

木曽に移入していた柚について︑ここでは畿内周辺の柚を中心に 是非︑此節者被罷帰︑翌年和を入︑北山之義︑各別ニ而上様

取り上げ︑柚労働及び採運技術の検討を行う ︒ 近世初期の畿内周辺 ニも水魚之ごとく被為間百候上者︑縦検地打申候共他の様ニ

の柚の実態については︑詳細なことを知ることができないが︑まず 者敏成問敷︑其上年賀ニ可納者無之段︑委細申上︑元来御柚

大工頭中井大和守の支配下にある大和国吉野郡北山の柚について見 役之儀有之上ハ︑御年賀之義も山ニ而御材木を以納候様可申

て お

こ ︑

フ ︒

上候︑既ニ某検地之奉行被申付︑文々検地打不申罷帰り而ハ

次 の

宝永六(一七

O

九 ) 年 ﹁ 和州吉野郡北山上組百人御柚役由緒

升釆盛丸凱﹂によれば︑近世 初期の北山は用材供給地であ

っ た

一 分

茂 一 小相立︑殿様之御目が年ニ茂は づ れロ情事 ニ 候︑此段

了簡可仕曲︑若右之訳虚言ならパ武運忽ニ尽て子孫永く可墜

悪趣旨添茂以御製詞呉々彼仰下候ニ付︑無拠且者下として上

一 ︑ 百 拾四年以前︑文禄四来年秀 吉 為御下知八嶋久兵衛殿検地 を侵す第君臣之道ニ背︑又者末々ケ様ニ可被成共不審存候故

之節︑去年天ノ川より大峯越ニ川合村之枝郷西山と申所へ御 検地請申候︑依之勢約御たか江不彼成︑随分下免ニ被成被下︑

培 ︑

夫よ り 川 合村へ検地打か︑り被申候処︑樹木申候故小瀬

当 初 ハ

御つま

ミ と

して御材木少シ宛冥加上申候︑此時より初

栃本へ打か︑り彼由甲候得共︑是又弥鯖不申︑従往古面々所持 而御年貢御材木上納仕来申候︑然ニ中比より先法を取失ひ申

之畑屋敷ニて︑終ニ公方様より不申請所領ニ而候へハ︑検地 候処︑御年賀之義御材木を以て上納仕候故︑山ニ御掛被成候

前可取様無之候︑其上年賀ニ可納物無之故︑何分ニ茂輔由甲背中 由ニて段々高免ニ御取被成候︑上組之義ハ続々作場悪所ニ而

龍不成と申切居市中候て︑強儀ニ打由甲候故︑縄引棒打之者共を 図作一円無御座候︑右御取箇北山ニ而茂下組者 一 倍茂高免

散々ニ打榔いたし猶及異議候ハ¥可打呆儀勢ニ市銘々 弓 鉄 御座候︑其上新検より以来︑大分之山年賀か︑り申候故︑上

(2)

組之分ハ今更山年貢と御取ケ高免と弥重ニか︑り申処に寵

成︑何共迷惑仕候御事

一 ︑文操 三年 秀吉公伏見之御城初而御普間之節︑北山へ槍御

材木御 注文を以 被仰付候︑柳之御殿北山木 一 色を以御作事後

遊︑其節之材木は柑長三間四間木八寸角之割線節ニ而御座候

一 ︑慶長 元申年七月大 地震ニ而伏見御城御天守御櫓御殿悉やり

崩し申候処︑右北山木を以御立被成候曲︑柳之御殿 一 字 許 少

茂悲無御座候故︑胡者北 山木は名水たるのゆへ︑於此御殿徴

盛茂不損段尤可賞翫所成池︑御感甚不浅為御褒美北山前御材

木所ニ御定︑東ハ紀州二之 山を限南者八鬼山西北者大峯山大

台山水流限此閉山不残被下之置︑其上上組ニ百挺之斧御定︑

西野村ニ而拾九人小瀬栃本ニ而弐拾四人川合村ニ市弐拾 三 人

白河村ニ而三拾四人以上︑五ケ 村ニ百人御柚役被為仰付︑所

領如先規安堵被為仰付候御事

右の柚役由緒容によれば北山は︑年賀の材木代納と共に︑伏見城

作都府材が援連され︑御柚役が設けられた材木生産地帯であった︒

他方︑慶長期には ︑次のよう に駿府械作事用材が中井大和

守を

通じ

て︑北山から買い求められている︒

(

)

‑15‑

上 以

御用に被 急度申入伎︑仰吉野にて駿 州 仰付候材木かひ候儀 貴所もの立あわせよき木を見せ候てかわせ其木かわらさる様 こくいをうたせ出させ可申由 恐々謹 言 御意に候

未 二 月十四日 成小吉 正成(花押)

安彦兵 直次(花押)

大石見守長安(花押)

本 上 野 介 正 純 ( 花 畑 作 )

中井大和殿

A 2}  

まいる

()

猶々︑右之通弥頼可入之由昨日も申来候問︑扱々如此候︑御意

得のため注文写進し候︑巳上此中者不申通無音所存之外候︑伯

駿 府

御作事ニ付而︑吉野北山にて材木かわせ候へと江戸御奉

行衆より被仰下候︑難然材木売買ね段之犠無案内之儀ニ候間無

心之儀ニ候へ共︑食様より御下代一人彼地へ被遣御指引彼仰付

可後下候︑入目之儀者右之御下代次第相波可申候︑実様を頼入

かわせ候へと石見守も被申置候間如此候︑恐々謹言

正月廿六日 鈴織部佐

口口(花 押 ﹀

中大和様

3}

人々御中

右のように︑北山は城郭作事用材を供給できる材木生産地帯であ

っ た ︒ きて︑それでは北山で材木の採運に携わる労働力は︑ どのよ

うに存在していたのであろうか︒それに関わる若干の史料が残され

(3)

‑16‑

ているので︑検討してみたい︒

乍恐申上御目安之事

一︑吉野郡北山にて大仏御材木長さ拾間半︑未ロ弐尺弐寸とが

の木を出し新宮うとのはまに御座候を︑ ねたんも不仕候処

いかや久介・いつみや三右衛門・京屋オ兵衛と申あき人御公

儀をかうけにかり候て取上せ申ニ付︑代銀之出入大和殿へ申

上︑当正月廿九日ニたいけつ仕︑代銀三貫目右三人之者へ出

し候へと大和殿かたく被仰付候へ共︑代銀波り不申何共迷惑

仕候事一三貫目之代銀大和殿内仁右衛門とり波シ候へと大和

殿堅被仰付候問︑銀子請取可申と候へハ只今いへんの被成御

取渡しなく候ニ付キ︑重而大和殿へ御理り山中候へハ御口かわ

り何ニもめいわく仕候事

一︑右之材木出入大和殿おまえにてたいけつ仕有様ニ被仰付候

て︑只今いへん敏成弥々めいわくニ存大和殿へ色々御理り申

上 候

へ と

も ︑

われら申分御とり上なく迷惑仕候︑此上ハ御設

ならてハ不健成候間御理・申上候事

右之旨少も相違無御座候︑仇如件

慶長拾六年六月十一日

北山ノ内白川村柚 次右衛門(花押)

大石見守様

右の史料は︑慶長二ハ( 一

六一二年に方広寺大仏殿作事用材木

を北山から採運した柚が︑材木屋の代銀不払による出入の裁定を大

久保長安へ訴えた目安であ︹却︒この目安によれば︑白川村の柚であ

る次右衛門は︑採運した材木を材木屋が不当に取り上げたとして︑

まず中井大和守へ訴え出ていることから︑次右衛門は中井大和守支

配下の柚であったことがわかる︒一方︑採運された材木は︑とが(栂)

の丸太で﹁長さ拾間半︑米ロ弐尺弐寸﹂という大材であり︑新宮に

運ばれた︒柚次右衛門は次の史料のように︑これ以前にも栂丸太の

大材を採運している︒

北山大川筋ノいきい谷ニ有之とかの丸物長九間末口弐尺弐寸の

木壱本今度之水ニ新宮へ流出申候︑是ハ山ニてねたん仕候へ共

銀子わたり不申ニよりねたんニ出入すみ不申候︑重而衆中へ諦

ムロ申出入相済シ可申候︑以上

慶長十四年十二月十八日 助(花押)

い か

京屋 オ兵衛(花押)

いつみや三右衛門(黒印)

志ら川次右衛門殿

栂丸太の大材は︑﹁今度之水ニ新宮へ流出申候﹂とあるように︑熊

野川(新宮川)を利用して新宮へ運ばれた︒これらのことから︑北

山の柚は︑大材の伐木から河川を利用した運材までの工程に関わっ

ていたことがわかる︒そこで︑この採運の技術面について見ておこ

ぅ︒北山においては︑年賀が材木によって代納されていることは先

(4)

に触れたが︑それは次のような材木であった ︒ 一 ︑弐千八拾壱本 弐問木

此内千拾八本ハ 二 丁かけのへて高ニあけ申候

新宮へ下ス 一 ︑御年貢米並御拝借共上納仕候御材木柚飯米として︑毎年 二 ひの木 合四千七百四拾七本ハ

月末方 三 月中ニ下市池原村西之河御蔵ニ而︑御米御拝借彼為 一 ︑ 五 拾 三 本 三 間木

仰付候︑右御材木御代米之襲︑槍削木無節長四間八寸角代米 一 ︑拾本 三 間木

四石八斗同 三 間八寸角代米 三 石八斗︑右之御材木を以御年賀

御拝借共上納仕一候由申伝候札恥 一 ︑参本 三 間木

一 ︑

拾 七

弐間木

一 ︑

壱 本

三間木

上納材木は ﹁ 槍割木無節長四間八寸角 ﹂

﹁ 同

三 間八寸角 ﹂ ︑即ち槽 合八拾四本者 但是ハ山ニ御座候

の角材で︑しかも大材(以下︑大角材と称す)

で あ

っ た

長さ七尺 杉板大わり

つ ま

り ︑

一 ︑

三 千

北山では恒常的に槽大角材を生産していたことになる︒次の史料は 但是者山ニ御座候

北山における園役大鋸による材木を示したものであるが︑ここにも

(7

大角材生産が反映されている︒ 木数惣合七千八百三拾壱本者

四月六日ヨリ拾月迄 国役大鋸

右人数合壱万千五百八拾五人

吉野北山ニ而御国役大鋸にて被申候御材木数之事 此米弐百参拾壱石七斗

一 ︑弐百廿七本 三間木 口里人数合千武百九拾三人 八寸角

一 ︑六百七拾 三 本 三 間木 七寸角 此米九石五升壱合

一 ︑六百四+

三 本 三 間木 かたみち人数合百 三 十五人 六寸角

此内拾五本ハ ニ 丁かけのへて高ニ上申候 此米六石六斗 ニ 升九合

一 白米合弐盲目拾六石七斗五五十 二 石五斗弐升

一 合

一 ︑六拾九本 壱尺 ニ 寸 三 間木

一 ︑五十八本 気間壱尺 あっき 一 尺 三 寸はば八寸

‑17

一︑四百七拾弐本 慶長十年十二月三日 弐間木 五寸角

弐問木 六寸角 中井藤右衛門尉殿

て 五 百 廿 四 本

四寸角

七寸角

六寸か︿

八寸角 五寸角

壱尺弐寸

日ニ但一人ニ付弐升づっ

一 日

一 人ニ付七合つつ

一 日ニ但壱人ニ付而五升宛

人足へ波升

大か作右(印)

(5)

18

杉本仁左お衛門尉殿

次右 ( 印 ﹀

山上久左衛門尉殿

国役大鋸によって生産された主な材木の規格は次のようなもので

あ り

︑ 角 材

長さ 二 問

1

三 間 幅四寸

i

一 尺

二 寸

長さ七尺

柑大角材と杉板であ っ た ︒ 造材技術の面から見れば︑大鋸とは鋸に

よって原木を挽いて板を造ることであり︑またそれを行う職人を意

旅することから︑国役大鋸材木に角材が含まれていることは注目で

きょう︒なぜなら︑角材は斧によって原木を削って造られ︑ それは

制が行う造材であ っ たからである︒先に北山では年貨代納材木とし

て大角材が生産されていたことを述べたが︑国役大鋸においても大

角材が含まれていたことは︑大角材生産がこの地滅の主要な材木生

産であ っ たことを示している ︒

また︑右の史料の差出人に﹁大か作右﹂﹁同 次右﹂という名が見

えるが︑大鋸 ﹁ 次右 ﹂ とは先に掲げた慶長 一 六年の目安差出人の ﹁ 北

山ノ内白川村柚次右衛門﹂ではないかと思われる︒しかし︑ こ の 点

については検証しえないので︑これ以上 雷 及できないが︑大鋸と柚

が明確に区別されていなかったことを示唆している︒このことは社

会的分撲の観点から見れば︑大鋸と柚がいまだ未分化の段階にあ っ

たことを意味しているかもしれないが︑この点の検討は今後の謀題

で あ る ︒ 他方︑運材に関しては﹁ひの木 合四千七百四拾七本ハ

富へ下ス ﹂ とあり︑檎大角材は先述した栂丸太と同様に河川を利用

して新宮に運ばれたと考えられる︒

以上のことから︑北山における柚は大角材生産を行い︑ さらに河

川を利用した運材にも関わっていたことが明らかになった︒大工頭

中井大和守支配下の柚についてその実態の 一 側面を示したが︑大角

材生産を行う技術を有していた柚が存在していたことを指摘してお

き た

い ︒

木曽の在地採遭技術

ここでは︑近世初期の木曽の在地の採運技術の性格について検討

を 加 え る ︒ ま ず ︑ 後 掲 の ﹁ 近 世 一 初 期 の 木 曽 材 木 採 運 年 表 ﹂ ( 以 下 ︑ ﹁ 採

運年表﹂)から︑近世初期に木曽から採速された材木の特徴を考えて

みたい︒材木の種類は二つに分類することができる ︒ 一

つ は

︑ ﹁

採 運

年表 ﹂ の

2

・ m ‑ n に見られる︑樽木・土居 ( 土井 ) と呼ばれる小

径材である ︒ もう一つは︑築城用材等の丸太・角材等である ︒

以 下

︑ それぞれについて採連方法も含めてその特撮を見ておこう ︒ 小径材である樽木

土居は︑役木として木曽在地の百姓によ っ て

いわば在地の恒常的な材木生産であった︒その採

運 の

一 端を 示 す史料を次ぎに掲げておこう .

採 達

さ れ

て お

り ︑

千 丁

御只樽

1

J i  

夏冬両川壱川ニ候間右之樽木毎年五月以前二わり出尤候

(6)

右の史料に ﹁ わり出﹂と表現されてい るよ うに︑縛木 ・ 土居は丸

太を蜜柑制りに割 っ て造材した割材であった ︒ また次の慶長 一 四

( 一

O

)

の書付によれば︑役氷とは 別 に御用の板材が村に課された

が︑造材技術は共通であ っ

d

岩郷村庄屋児野九郎右衛門処ニ有之御骨付

長サ七尺 ・ は︑壱尺 三

寸 迄

下ニあつミ四寸 ・ 五寸のいたこの

事︑五百弐拾枚岩郷村︑布之板こいそきの 御用 ニ候閥︑早々湯

舟沢 ・ つまこ山にてわり出し 可申 者 也

とり四月 二 日 山 甚(花押)

右の板は︑樽木

土居より一回 り大きい 寸法 の板であ

っ た

︑ ﹁ わ

り出し﹂と表現されているように割材であった︒これらの割材の造

材技術は︑丸太から角材を造材する技術とは 異な

っ た

技 術

で あ

り ︑

在地の造材技術の基本は割材という小径 材造材技 術に求めることが

できる .

運材については︑慶長七 二 六

O

ニ ) 年 ﹁ 寅之年木曽御勘定之事 ﹂

から関係する箇所を次に欽粋しておく ︒

米五百五拾壱石七升五合 右之樽 川かり人 足之ふち方ニ波手

形 有

19

此人数拾壱万 二 百拾五 人 偲壱 人 ニ 付五合

つ ︑ 内

弐万六千三百 廿四人夏川分︑寅六月廿 三 日より七

月 サ

日 迄

︑ 日数 三 十日分

八万 三 千八百九拾壱 人 冬川分︑策十月一日より正

月廿 ニ

臼 迄

回数百十 一

B

( 中略

)

米五拾八石 ニ 升七合 右之とい付申役馬ノ飼料 ニ 波手形

此 館

内 数

四 千

三 百五拾弐疋ノ分

初期の頃は︑樽木は 川狩

( 河

川を利用し た流送で︑管流のことを

指す)され︑土居は駄送されていたが︑次の寛永六( 一 六二九)年

の記録に見られ るようにその後は樽木・ 土居の大部分は錦織まで川

狩されており ︑樽木・土居は河川を利用した管 流による運材を原則

としていた ︒

丑寅両年ニ樽五十五万丁土居四千駄錦織へ狩出し角倉へ相渡し

申候︑残ル分も当夏川ニ狩出し御勘定相究可申と存候処︑当年

五月之水五十ヶ年以来ニ無之大水ニて少しも不残流矢申候ニ付

迷惑仕候 一 方︑次の慶長

一 一 一 一 三

O

八 ) 年の岩郷札制によれば運材は在

地の百姓が行い︑また 川狩は毎年務め る役であ っ たことから︑樽 ・

土居の運材は恒常 的 に行われていた在 地 労働力による採運労働であ

っ た

(7)

20

岩之郷村毎年可相動条々事

( 中略 )

一 ︑御公方御材木川かり之事︑此以前者︑人数を相定︑ 田立ま

て遣候へ共︑百姓尊臥候由象候問︑ 向 後者人役ニ罷出候て︑

上 松 之長とろより小沢までかり届 尤候 事

( 中 略 )

申之五月朔日 益兵衛 ( 花押 ・

風 間 印

) 山

岩之郷肝煎 九郎左衛門 惣百姓中

これらのことから︑木曽の在地に存在する採運技術の特徴は︑小

径材生産と 小 径材の河川流送に求める こ とができる ︒

それでは次に︑築城用材等に用いられた丸太 ・ 角材などはどうで

あ っ たろうか︒これらの材木の種類は︑﹁採運年表 ﹂ によれば長さ二 ー 三 問︑巾四

i

八寸の槽大角材が主要なものであ っ た ︒ こ う した材

木は︑次の尾張藩国務行原因右衛門の材木売買不

正 一

一 件に関する寛

永五

( 一

六 二 八 ) 年の記録に見 ら れるように︑当時も大材として認

識されている ︒ 原田右衛 門 余議

此年同心頭御国奉行兼原因右衛門襲︑江戸御城御作事ニ付大材

御尋之処︑御城下町人材木屋惣兵衛 卜

申 合

︑ 木 的

H

S

樫之大材引

出し江 戸 江遺売 上 候付︑御

AM

議之上宿衛門ハ渡辺半蔵 江

御 預

枠九右衛門其外五人之男子夫々御預有之 それでは︑大材はどのように採運されていたのであろうか ︒ 採運

の記録で自につくことは︑次のように採運場所についての指示がし

ばしば出されていたことである ︒ ( イ

) 慶 長 日 年

7

3

御門御材木之本伐之儀︑ いつかたの山にても︑手寄能所を見立

可申入旨彼仰趣候︑手寄可然山ニ而柚衆本切仕候様ニ被仰付御

( 尤存候 ロ ) 慶 長 時 年

4

尚々︑御材木之様子︑ 右 両人衆可被仰上候︑以上 御 量 百 黍 拝 見 仕 候

︑ 愛

一 冗御材木之義堅申付候へ共︑殊 外 出場悪敷

御座候問︑早参不申候而迷惑ニ車中存候︑将亦丸木手寄よき処ニ

而︑本切可彼仰付之由御意彼成候︑向者九寸角をも 川 近キ処

而為御切可後下候︑ ( 後略 )

卯月朔日 遠藤図書助 口 口 ( 花押 )

( 他署名花押略)

千平右様 遠久兵衛様

御 報

山 七郎右様

( ハ ) 慶長時年

4

2

一 ︑御用木い つ れの山にて本切仕候時 ︑ たとへ潜行見落候共︑

川近 ニ て本切可仕候︑若川近を残し置候ハ︑︑成敗可申候︑

能々入念可申候︑何時も本切仕候山へ我等上り可見候問︑其

(8)

心得尤ニ候事(後略 )

慶長十六亥卯月二日 山七郎右

( 花

問 印

)

上松村

右に掲げた史料によれば︑何れも川近くの場所で採材せよとの強

い指示が幽されている ︒ その理由は︑史料 (

ロ )

﹁ 殊外出場悪敷

御座候問︑早参不申候而迷惑ニ務存候 ﹂ とあるように︑材木の調達

遅延の原因として︑搬出が容易でない事があげられている ︒ 搬出容

易でないということについては︑慶長一五( 一

六 一

O )

年六月一七

自の岩材城主松平家乗書状の記述からその様子を窺うことがで

C

'h

v

奥山ニて材木為伐申候て︑水之ほそく御座候魁︑なかし候て御

周ニ立申度候︑左様ニ候者︑本切又 川 場へ出し候事も︑其元之

人を頼候て仕度候関

松平家来は︑採運場所が山奥であり︑ かつ水流が不十分であるこ

と を 理 由 に ︑

山村氏に支援を求めている︒材木の搬出が水量に左右

されたことがわかる ︒ 川近くでの採運が求められたことは︑織出を

容易にするためであり︑当時は川から隔た っ た場所からの鍛出を行

いうる技術が未だ土木確立の状態であったことを意味している ︒

し た

21

がって︑当時の大材採運においては︑伐木造材した材木を車ちに水

流を利用して運材するという技術が基本であった︒ 以上のことから︑近世初期の木曽においては縛木・土居等の小径 材生産と大角材等の大材生産が存在し︑それぞれ採連技術の性格が 異な

っ て

いたことが明らかになった︒そして︑木曽の在地の百姓

柚が恒常的に関わ っ ていた生産は小径材生産であり︑彼らの採運技

術もそれにともなうものであり︑在地の採運技術は大材採運技術と

一 一

線を画するものであ っ たといえよう ︒

お わ り に

近世初期に︑他所から多くの柚が木曽に入り込んでいたが︑それ

らの柚は大材の採運を行っていた︒他所柚が入り込んでいた理由は︑

木曽の在地の林業技術のあり方に求められよう ︒ 即ち︑木曽の在地

の 柚

1

地柚の採運技術は︑基本的には小径材生産技術であり︑築城

用材等の大材生産には適合できなかったと考えられる ︒

し た

が っ

て ︑

大材生産にはそれをなし得る技術を有する他所の柚を必要としたの

である︒中井大和守玄配の 柚が動員されたことは︑ その一つの例で

あ る

︒ そして︑採運技術においては︑特に造材面での技術の違いが

重要である︒樽・土居と大角材における造材技術の違いから︑大角

材造材技術を有する他所の柚が必要とされたのであ っ た ︒

﹃ 木

曽 山

話﹄の﹁古来木曽表ニ而 柚功者成者無之︑伊鯵・和泉

S

雇入申候 ︑

小物類ハ地柚も仕候由︑宝永之比地柚之内角板子作り候者も出来︑

追々地柚功者ニ相札制﹂という記述は︑小径材生産技術しか有して

いなかった木曽地柚が︑他所の柚がもたらした大角材生産技術を身

につけていった過程を記したものであった︒

(9)

22‑

他方︑運材技術についてはどうであろうか ︒ 初期には︑小径材︑

大 材とも に 河川流送を 主 体とし︑修綴・桟手などの運材装置は用い

られていなかった︒しかし︑寛文期あたりになると日用組の存在が

確認でき︑運材装置が用いられるようにな っ たことが推定できよう︒

つ まり︑初期には柚が運材も行 っ ており︑伐採と運材の分業はみら

れなかったといえよう ︒ しかし︑採運場所が奥地化し︑直ちに水流

を利用できない場所から採運せぎるを得なくなり︑運材装置が用い

ら ら

れ( れ る t Q

。 そ

れ と も な っ て 分 業 カ マ

進 み

日用が確立してい っ たと考え

近 世林業技術を代表する木曽式伐木運材法は︑近世初期から存在

したのではなく︑技術の伝婚によ っ て成立したのであ っ た ︒

(1)

島国錦蔵 ﹃ 流筏林業盛衰史 ﹄( 林 業 経 済 研 究 所 ︑

一 九

七 四

年 )

所収 ﹁ 小橡奥村恵司所蔵文書

﹂ ︒

(2)

﹁ 江 戸

幕府老中連署泰啓 ( 折紙

) ﹂

高橋正彦編 ( ﹃ 大工頭中井

家文書 ﹄(

慶 応

通 信

一 九七

O

年)所収一二四号文書) ︒

(3)

﹁ 鈴木織部佐書状 ( 折紙

) ﹂

( ﹃大工頭中井家文書﹄所収 二

四号文書

) ︒

(

4

) ﹁ 吉野郡北山の柚次右衛門目安

﹂ ( ﹃

大 工 頭中井家文書 ﹄ 所収

二 八号文容

) ︒

(5

)

﹁ い

つ み

三 右衛門他二名連署書状﹂ ( ﹃大工頭中井家文容 ﹄

所収七七号文書

) ︒

( 6 )

島問前掲容所収﹁小橡区有文容﹂ ︒

(7)

﹁ 大鋸次右・作右吉野北山国役大鋸材木数之事 ﹂(

﹃ 大

工 頭

井家文書﹄所収八六号文書) ︒

(8)

役木の規格は︑樽(長さ五尺 二

寸 ︑

三 方四寸︑腹 二 寸五分 ) ︑

土居 ( 長さ 三 尺

一 ニ

寸 ︑ コ 一

方九寸︑腹四寸 )

で あ

っ た ︒

( 9 )

慶 長

三 年

五 月

B

﹁上田村毎年可相動様々之事﹂(﹃信濃

史料﹄二

O

) ︒

( 叩 )

﹃ 木

曽 旧

記 録

四 円

(日)日本林制史調査資料・名古屋藩 ︒

( ロ )

﹃ 前

向 留

密 ﹄

( 日本林制史調査資料・名古屋帯

) ︒

( 日

) ﹃

信 濃

史 料

﹄ 二

O

巻 ︒

(M

)

﹃ 源

敬 様

御 代

御 記

録 ﹄

( 日本林制史調査資料・名古屋藩) ︒

( 日 ) ﹁

美濃旗本西尾氏教等速署舎状﹂ ( 山村文書︑徳川林政史研

究所﹃研究紀要﹄昭和四三年度掲載﹁秀吉

家康時代の木曽

山採材史料 ﹂ 所収三 二 号文容

) ︒

( 日 ) ﹁

遠藤図舎助 状 ﹂( 山村文響︑徳川林政史研究所﹃研究紀

要 ﹄ 昭和四三年度掲載 ﹁ 秀吉・家康時代の木曽山採材史料﹂

所収 三 五号文

、 句. . .

.  

( げ ) ﹁ 定 ﹂

( ﹃

信 浪

史 料

一 巻

) ︒

( 凶 ) ﹁岩村城主松平家乗書状 ﹂ (山村文書︑徳川林政史研究所﹃研

究紀要﹄昭和四 三 年度掲載 ﹁ 秀吉・家康時代の木曽山採材史

料 ﹂

所 収

三 八

号 文

書 )

( 日 )

﹃ 長

野 県

近世史料編﹄第六巻 ︒

(10)

( 初

) 日用に関する記録上の初見は︑私見の範囲によれば寛永八

( 一 六 三

年 一

O

月 の

﹁ 付

土井わり村々にしこり日用可

有 事

( ﹃

木曽谷中御年賀木御買上ケ木 ﹄ 日本林 制 史調査資料

名古屋藩 ) という記述である︒右の臼用は︑狩り下げられ錦

織綱場に到着した土井を扱う役人夫であると考えられる ︒ し た が

っ て 日用という表現はいわゆる臼雇いとしての日用と

いう意味あいが強いと思われるが︑運材労働の局面でこの表

現が用いられていることから︑後の運材専業労務者

1

日用の

成立を考察する上で示唆を与えてくれる ︒ 日用とはもともと

は役人夫による管流による運材労働を意味していたが︑大材

採運の奥山 化 にともなう運材装置の使用などによ っ て特別な

運材技術が要求されるようになり︑ その技術を有した労務者

によって抱われる専業運材労働が成立した ︒ それにともない︑

当初は管流による運材に関わる労務者を日用と呼んでいた

が︑専業運材労働を担うものを日用と呼ぶようになり︑採材

を行う柚と区別されていったのではないかと推測できる︒

23

近世初期の木鎗材木採運年表 要 概 の 運 採 年 次

年 月 日

岩郷村で槍角採材[山村甚兵衛材木申付状}

慶長

11

5

9

年賀木売値を定める[木曽土井代定覚]

11  11

7

11

かわら木採材の手伝扶持米を諏訪因幡守に渡す[山村良勝役扶持証文]

11  111011

駿府築城用材(槍

l

.8

寸角

3

間柱

943

本、棺

56

寸角同柱

5996

本 、 格大板長

7

尺・巾

2

尺・厚

4‑5

2000

枚、さんかまち

5000

丁)、江戸

築城用材(槽瓦木

47688

丁)採材 [ 木曽御勘定弁方々ヨリ請取渡帳]

11  11 

駿府築城用かわら木の甲州経由駄走を催促。急用材木の付知 ・ 加子母

での採材を指示 [ 大久保長安書状]

11  12

4

16

駿府築城用さわら木板子の催促[桑名代官水谷光勝書状〕

駿府築城用かわら木の桑名港搬出を催促[駿府作事方飯川五郎右衛門 書状]

11  12420

11  12

5

15

(11)

2

I

慶長

12

12

28

駿府築城周松板を美濃の侍衆に割付、川近くでの採材を指示。天井材

の上々の土居の甲州経由駄走を指示[大久保長安令書]

11  13

1

13

付知・加子母・木曽よりの柑角(

4

5

寸角)は、商人材であっても

イ直が適正な らば買輔、早 〈桑名へ送ることを指示。御用の松板は、 奨 液中の大鋸を集めて挽かせることを指示[大久保長安令書]

10  11  13

5

1

百姓による縛木川狩区間を指示[岩郷村毎年可相勤条々事]

11  1/  13.  7

3

御材木は手智子よさ所で採材させることを指示[美濃旗本西尾氏教等連

署轡状]

12  14

4

2

湯舟沢・つまこ山にて板子(長

7

尺巾

l

3

寸厚

4

寸)

520

枚割出す[岩

郷村庄屋児野九郎右衛門処ニ有之御谷付]

13  1/  15

4

1

丸木・角材を手寄よき所 ・川近くで採材させることを指示[遠藤図智子

助以下連署容状]

14  1/  156

17

岩村城主松平家来、奥山の水沢の悪い場所からの採材について、山村 氏に指南を依頼[岩村城主松平家乗轡状〕

15  11  15

7

7

江戸築城用材

4‑7

寸角を採材[郡上城主遠藤康隆書状]

16  11  158

20

名古屋築城用縛木

3

万丁採材、筏送する[美濃代宮石原清左衛門書状]

17  1/  15

10

3

名古屋築城用足代木は、川近き所で採材させることを指示。樽木の伐

出時期を指示[大久保長安書状]

18  1/  164

2

御用木の川近くでの本伐を岩郷村・三尾村に指示[定]

19  JJ  17

7

6

江戸六郷橋木用大材の木曽での採運を指示[大久保長安令書]

20  JJ  19

4

26

中井大和守、江戸城長屋門矢倉材木(長

7

.2

間巾1.

3

尺厚

3

寸の板 子、長

3

閉め

2‑6

寸角等)

13700

本の木曽山での採運を注文 [江戸城 御長屋御門矢倉御材木注文]

21 

元和

2

921

年賀木

20

万丁余を角倉与一へ波[木曽土井樽御勘定目録]

22  JJ  3

3

2

中井大和守、江戸御宮本堂材木(長

2‑3

間・

5

‑ 1

2

寸角等)

15296

本の木曽山採運を注文[松平正綱等材木注文]

23  11  3

10

4

角倉与一江戸城御台所大黒柱大材を木曽で採運するが出材に手間取

り、竹腰山城守それをあざける[竹腰正信轡状]

江戸城天守材を木曽にて採運〔美濃代官岡田善同害状]

25 

寛永

4

5

26

国家行原悶右衛門、裏木曽での他国材木商人の売木行為を禁止[原因

右衛門令状、図ロ文書]

(12)

25

26 I

寛永

512

23

成瀬隼人正、江戸築城用材を瀧越山から採運するために他国仙の手当

を求める[成瀬隼人正害状]

国奉行原因右荷門、名古屋の材木屋と談合して江戸城用虹梁を木曽か

ら採運し、余謙をうけ死罪になる[源敬様御代御記録]

28

6

3

脇坂

仙石・松平・諏訪

保科氏木曽山で公儀御用材本伐を命じられ る[源敬様御代御記録]

29 I " 10

8

2

大坂天満材木屋与の安井らが、地上寺客殿材木

28

本の採運を請負う[増

上寺御客殿御材木従木曾御山出シ申目録]

30 

正保

2

12

10

紀州の角兵衛が木曽で柚をし、成敗される[源敬様御代御記録]

31 

420

本町半右衛門等が木曽で御法度の大木を伐出、成敗される[源敬様御 代御記録]

三浦山に飛脚から柚が多量に入り込み問題になる[声高留書]

33 

寛文

33

2

柚・元〆・川狩の者が伊勢木と称して材木を密かに出材することを取

り締まる[概留普]

34 

76

4

上松山で、越前柚一組が留山内に踏み越す[留帳抜粋]

35  11  6

23

瀧越山の上黒須柚小屋から出火、柚

8

人欠落[御日記]

36 

10

216

和泉田谷川の柚が尾州御用木伐出を請負う[禽覚書、神戸文書]

37  12

1

2

和泉国の柚日用が中津川で殺人事件を起こす[木曽故事故]

38  11  133

摂津国等の柚が三浦山にて尾州御用木伐出を間負う {盤上申 一札之本、

田口文容]

越前の日周が上松で殺人事件を起こ す [ 木曽飲事駿]

40 

貞享

1

7

27

上松村の祭礼で越前・伊豆・伊勢・三河

尾張の柚・自周が殺人事件

を起こす〔木曽故事談]

(注) 出典は [ ]内に示した。尚、これらの出典の内で以下の文献に所収されているものは、そ

の出所を省略した。

日本林伽

i

史調査資料・名古屋藩、徳川林政史研究所『研究紀要j昭和四三年度掲載「秀吉・

家康時代の木曽山採材史料」、所三男『近世林業史の研究j所収

f

参考史料j 。

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