京都府南部山城地域の木津川と近世の水害
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(2) 近畿大学教育論叢. 第18巻. 第1号(2006・7). 以 上 あ げ た研 究 で は、 水 害 は年 表 形 式 で リス トア ップ され て お り、 時 代 ご と の頻 度 や季 節 ご との 回 数 を 調 べ るの に は不 可 欠 の 資 料 と な って い る。 しか し、 これ まで1っ. の洪 水 が ど の よ う. な 気 象 条 件 の も とで 発 生 し、 上 流 か ら下 流 まで ど の よ う な災 害 を もた ら した のか を系 統 的 に示 した研 究 は知 られ て い な い。 本論 で は各 市 町 の 史 誌 に掲 載 され た史 料 を もと に、 近 世 に お け る 木 津 川 の河 床 変 動 と堤 防規 模 、 な らび に洪 水 と水 害 に よ る被 害 状 況 を 広 く面 的 に山 城 地 域 全 体 を通 して 明 らか に す る こ とを試 み る。. 11木. 津 川 の河 川 特 性 と 気 象 の 条 件. 木 津 川 は三 重 県 西 部,滋 賀 県 南 部 、 奈 良 県 北 部 の 山地 を源 流 に もっ河 川 で、 山地 の 中 を西 に 流 れ た の ち、 加 茂 の盆 地 を抜 けて 木 津 に至 る。 そ して、 木 津 か らは平 地 に 出 て北 へ流 れ を変 え、 八 幡 で 宇 治 川 、 桂 川 と合 流 して 淀 川 と な る(第1図)。 1気. 象条件. 木 津 川 の 洪 水 は、 梅 雨 季 の 前 線 の 活 動 に よ る降 雨 よ り も、 台 風 に よ る ものが 圧 倒 的 に多 い。. 京都. 第1図.木. 津 川 の 流 域 。 図 中 の 枠 は第2、3図. 一2一. の位置を示す。.
(3) 京都府南部 山城地域 の木 津川 と近世 の水害. 台 風 が 通 過 す る さ い、 一 般 に台 風 の進 路 の左 側 で は風 向 は反 時 計 回 りに変 化 し、 最 接 近 時 は北 風 と な る。 反 対 に、 進 路 の右 側 で は風 は時 計 回 りに変 化 し、 最 接 近 時 は南 風 とな る。 そ して、 進 路 の右 側 で は、 台 風 の渦 に よ る風 と台 風 の進 行 に伴 う風 が 合 体 す るの で風 が よ り強 くな る。 降 水 量 は、 台 風 の雲 が 非 対 称 形 に分 布 して い る た あ、 台 風 の進 路 の左 側 の方 が 圧 倒 的 に多 くな る。 したが って 、 台 風 が 紀 伊 半 島 を縦 断 して 伊 勢 湾 に抜 け る コー ス を と った場 合 に木 津 川 流 域 に多 量 の 雨 が 降 る こ と に な る。 この と き山 城 地 域 で は、 北 東 か ら北 、 そ して北 西 へ と風 向 きが 変 化 す る。 また 、 台 風 が まだ 遠 い海 洋 上 に あ って も、 秋 雨 前 線 を刺 激 して 多 量 の雨 を もた らす こ とが あ る。 2降. 水 量 と流 量. 近 世 の 水 害 を 復 元 す る前 提 と して 、 現 在 の 雨 量 や 流 量 にっ いて 述 べ る。 木 津 川 が 観 測 史 上 最 大 の 流量 を 記 録 した の は、 昭 和34年9月27日 量 は毎 秒6,200ト. ン、 量 水 標 水 位 は7m、. 大 の洪 水 に な った の は、 昭和28年9月25日 ト ン、 量 水 標 水 位7mで. の15号 台 風(伊 勢 湾 台 風)の 時 で 、 八 幡 で の流 流 域 名 張 で の雨 量 は332㎜. で あ った。 淀 川 本 川 が 最. の13号 台 風 の と きで 、 枚 方 で の流 量 は毎 秒7,800. あ った。 こ の と き木 津 川 は 八 幡 で毎 秒5,800ト. ン、 名 張 で の 雨 量 は. 252㎜ で あ った。1885年 近 代 観 測 が始 ま って以 降 、 高 山 ダ ムが 完 成 した1969年 に、 毎 秒3,000ト 秒5,000ト. ンか ら4,000ト ンの 洪 水 が11回 、 毎 秒4,000ト. ま で の84年 聞. ンか ら5,000ト ンが4回 、 毎. ン以 上 の 洪 水 は5回 、 記 録 さ れ て い る(淀 川 百 年 史 編 集 委 員 会 編 、1974)。 量 水 標. の 水 位 は、 毎 秒3,000∼4,000ト 6,000ト ンで は6∼7mに. ンで4∼5m、4,000∼5,000ト. ンで5∼6m程. 度 、5,000∼. 達 す る。 近 世 に お け る堤 防規 模 を考 慮 す る と、 お お む ね毎 秒3,000ト. ンが 水 害 を 引 き起 こす 目安 と な る。 この よ うな洪 水 は84年 間 に20回(50年. 間 で は12回)で. あ. る ので 、 あ と で述 べ る18世 紀 後 半 の 洪 水 頻 度 とお お む ね 一 致 す る。 ま た、 ダ ム の管 理 下 に お け る現 在 の 中規 模 な洪 水 で は、 名 張 で の降 水 の ピー クか ら下 流 の八 幡 に洪 水 が 到 達 す る の に7∼8時. 間 か か る。 洪 水 の規 模 に よ って洪 水 の伝 播 速 度 は異 な る が、. 加 茂 か ら八 幡 まで の間 で 洪 水 の ピー ク は数 時 間 のず れが あ る。. 川. 1天. 近世 における木津川の堤防. 井 川 と輪 中 の 地. 山城 地 域 の 水 害 環 境 を 扱 う さ い大 切 な こ と に、 木 津 川 そ の もの と支 流 が 天 井 川 で あ る と い う. 一3一.
(4) 近 畿 大学 教 育 論 叢. 第18巻. 第1号(2006・7). こ とが あ る。 山 城 平 野 の 木 津 川 に流 れ 込 む 支 流 は、 右 岸 側 で は上 流 よ り、 鳴 子 川 、 不 動 川 、 天 神 川 、 渋 川 、 玉 川 、 南 谷 川 、 青 谷 川 、 長 谷 川 が あ り、 左 岸 側 で は、 井 関 川 、 鹿 川 、 山 松 川 、 山 田川、藤木川、堀切川、煤谷川、遠藤川、普賢寺川、防賀川、馬坂川、天津神川、手原川が あ る(第2、3図)。. これ らの す べ て が 天 井 川 で あ り、 各 村 々 は支 流 と本 川 の 堤 防 に囲 まれ た輪 中. とな って い る。 した が って 木 津 川 が あ る と ころ で 決 壊 して もそ の 濁 流 は下 流 域 の す べ て を 覆 う わ け で は な い。 この こ と は近 世 の 水 害 の 被 害 状 況 を 推 察 す るの に重 要 で あ る。 2近. 世 に お け る 河床 の上 昇 と 水 害. 河床 が高 くな る とい う こ と は、 洪 水 とな れ ば 水 害 の 危 険 性 を 増 大 させ る。 近 世 初 期 の 木 津 川 河 床 の上 昇 の 問 題 はす で に 多 くの 史誌 や 、 乾(1987)、 て い る。 水 本(1990)の. 水 本(1990)、. 鈴 木(2005)で. 資料 に よ れ ば 、 河 床 の上 昇 の 著 しい 時 期 で あ った1690年. 述 べ られ か ら1739年. ま で の50年 間 に は26件 の 水 害 が 発 生 して い る。 しか し、 木 津 川 の 洪 水 は、1740年 代 以 降 は減 少 し、1740年 か ら1789年 水 本(1990)は. ま で の50年 間 で は13件 と な った。 そ れ以 前 に く らべ半 減 して い る。. この原 因 を、 幕 府 の 国役 堤 制 度 の 改正 に よ る堤 防 強 化 政 策 に 求 め て い る。 しか. し、 筆 者 は、 土 砂 留 とい う砂 防対 策 事 業 が効 果 を 表 わ して 木 津 川 の 河 床 が安 定 して きた と解 釈 す る べ きで あ る と考 え て い る(鈴 木 、2005)。 そ こで 、 近 世 に お け る木 津 川 の 堤 防 規 模 に っ い て以 下 に述 べ る こ とに す る。 3木. 津 川 の堤 防 規 模. 各 史 誌 に は、 国 役 工 事 に か か わ る工 事 区間 、 費 用 、 破 堤 に と もな う堤 防修 築 記 録 な どが収 録 され て い る。 そ れ らを もと に、 近 世 の木 津 川 の堤 防 の規 模 に っ い て述 べ る。 各 史 誌 の史 料 の範 囲 で、 堤 防 の大 き さが 分 か る最 も古 い記 録 は元 禄 元 年(1688)上 の で あ る。 この 文 書 で は上 狛 村 の 木 津 川 国役 堤 の 下 を通 る悪 水 樋 の 長 さが11間. 狛村 の も. 、 内 法4尺. 四. 方 と記 載 さ れ て い るの で(浅 田 家 文 書 、 上 田監 修 、1990)、 これ に よ り木 津 川 の 堤 の根 敷 も20 m程 度 で あ っ た こ とが わ か る。 残 念 なが ら、 高 さ と馬 踏(天 端 の幅)は 記 載 さ れ て い な い。 正 徳 二 年 の 洪 水 で 決 壊 し た上 狛 村 新 在 家 前 の東 西 の堤 は、 根 敷 は 東 で7聞(12.6rn)西 (14.4m)、 馬 踏 は東 で2間(3.6m)西. で2間 半(4.5m)、. た(小 林 家 文 書 、 上 田 監 修 、1990)。 正 徳 六 年(1716)の. 高 さ は東 で2聞. 西 で2間 半 で あ っ. 文 書 で は上 狛 村 の 新 在 家 前 の 堤 の犬. 走 りの 規 模 が 分 か る。 こ の場 所 は も と も と高 さ1間 余 、 幅5間 の 洪 水 で 流 出 した。 新 しい犬 走 りの 仕 様 は、 長 さ250間(450m)、 間(5.4m)、. の犬 走 りが あ っ たが 、 正 徳 二 年 高 さ1間 半(2.7m)、. 土 留 め と して は杭 柵 を 用 い、 さ ら に根 石 を 高 さ1間(1.8m)幅3尺(0.9m)設. 一4一. で8間. 幅3.
(5) 京都府南部 山城地域 の木津川 と近世 の水害. 第2図.山. 城 地 域 北 部 の、 近 世 に お け る木 津 川 ・宇 治 川 ・巨 椋 池 と村 落 。 陸 地 測 量 部. 発 行 の 仮 製2万 分 の1地 形 図(明 治18年. 一5一. ∼22年 測 量)を. も と に推 定 。.
(6) 近畿大学教育論叢. 第18巻. 第1号(2006・7). 2345km. 第3図.山. 城 地 域 南 部 の、 近 世 に お け る木 津 川 と村 落 。 陸地 測量 部 発 行 の 仮 製2万 分. の1地 形 図(明 治18年. 置 す る と い う も の で あ る(浅 享 保 二 十 年(1735)か. ∼22年 測 量)を. も と に推 定 。. 田 家 文 書)。. ら寛 保 三 年(1743)ま. と 、 馬 踏 は 大 き い と こ ろ で1丈3尺(3.9m)、 り の 程 度 に よ っ て か な り異 な っ て い る(枇. で 、 枇 杷 庄 村 で の 工 事 記 録 が あ る。 そ れ に よ る 小 さ い と こ ろ で7尺(2.1m)で 杷 庄 天 満 宮 文 書 、 宮 垣 監 修1985)。. あ り、 水 当 た 高 さ にっ い て の. 記 録 は な い。 以 上 が1740年 m、. ま で の 堤 防 規 模 の 記 録 で あ る。 史 料 が 少 な い が 、 根 敷20m程. 高 さ は4∼5mと. い う の が 一 般 的 な 姿 と推 定 さ れ る 。 次 に1740年. 度 、 馬 踏2∼4. 以 降 の堤 規 模 にっ い て. 年 代 順 に述 べ る。 宝 暦 六 年(1756)下. 狛 村 の 百 久 保 で の 堤 修 理 の 記 録 で は 、 根 敷 は14間(25.8m)、. 一6一. 馬 踏3間.
(7) 京都府南部山城地域 の木津川 と近世 の水害. 2尺(6m)、. 高 さ1丈9尺(5.7m)で. あ っ た 。 こ の う ち 、 下 か ら4尺(1.2m)は. る。 こ れ に っ な が る 支 流 煤 谷 川 の 堤 は 、 根 敷 が8間 さ1丈6尺(4.8m)と. い う記 載 で あ る 。 い ず れ も 古 堤 よ り2尺. 文 書 、 精 華 町 史 編 纂 委 員 会 編 、1992)。 明 和 五 年(1768)藤 六 年(1769)の. 高. 大 き く設 計 し て い る(安. 宅家. こ れ は 当 時 と し て は 相 当 に 頑 丈 な 堤 防 で あ る と い え る。 あ った。 明 和. 堤 普 請 願 い の 文 書 に は 大 き さ の 記 載 が あ り、 封 戸 村 の 村 ノ 上 に お い て 、 馬 踏 、 古 堤 に 長 さ50間. に わ た っ て3尺(0.9m)の. い る。 藤 和 田 村 で は 、 宮 ノ上 に お い て 腹 高5間(法 に わ た っ て3尺. 間 、 馬 踏2間. 馬 踏1丈1尺(3.3m)、. 和 田 村 の 御 所 ノ 内 に お け る 堤 の 馬 踏 は 平 均1丈(3m)で. 高 さ と も に2間(3.6m)の. 長 さ34間. 半(15.3m)、. 水中で あ. 面9m)、. 上 置 き を す る と して. 馬 踏1間5尺(3.3rn)の. 古堤 に. の 腹 付 け を 行 う と し て い る 。 同 じ藤 和 田 村 の 北 嶋 に お い て も 高 さ2. の 古 堤 に 長 さ70間. に わ た っ て3尺. の上 置 き を行 う と して い る。 これ らの記 載 は、. こ れ が 木 津 川 の 堤 か と思 う く ら い に 小 さ な も の で あ る 。 「右 の 場 所 洪 水 の 節 、 殊 の 外 危 き場 所 」 と い っ て い る の が よ く わ か る(中 明 和 九 年(1772)下. 西 家 文 書 、 久 御 山 町 史 編 さ ん 委 員 会 編 、1992)。. 狛 村 の本 庄 で悪 水 樋 伏 替 工 事 が 行 わ れ た が 、 そ の 費 用 見 積 書 に堤 の 大 き. さ が 書 い て あ る 。 馬 踏2間(3.6m)、. 根 敷13間(23.4m)、. れ は 他 の 場 所 と く ら べ て か な り大 き な 堤 と い え る(安 寛 政4年(1792)下 5尺(1.5m)、. 直 高4間(7.2m)と. あ るの で 、 こ. 宅 家 文 書)。. 狛 村 の 樋 の 普 請 が あ っ た 。 そ れ に よ る と、 樋 は 長 さ22間(39.6m)、 横9尺(2.7m)で. 立. あ る の で 、 こ の 辺 の 木 津 川 と して は か な り 大 き い(栗. 田家. 文 書 、 精 華 町 史 編 纂 委 員 会 編 、1992)。 文 化 七 年(1810)時 293間. 点 で 、 枇 杷 庄 村 の 国 役 堤586間(1055m)の. は 、 根 敷14問(25.2m)、. 樋 か ら 水 主 村 の 境 ま で の293間 m)と. 馬 踏2間(3.6m)、 は 、 根 敷10間(18m)、. う ち 富 野 村 境 か ら樋 ま で の. 直 高2間5尺(5.1m)で 馬 踏1間. 半(2.7m)、. い う 記 載 が あ る 。 さ ら に 水 主 村 の 堤 は 後 者 と 同 じ と 記 さ れ て い る(枇. あ った。 続 い て 直 高2間(3.6 杷 庄 天 満 宮 文 書)。. 場 所 に よ っ て 堤 防 規 模 に 差 が あ る の は 、 富 野 村 で 最 も水 当 た り が 強 く、 下 流 に 弱 く な る た あ で あ る。 弘 化 三 年(1846)の 間(3.6m)、. 普 請 仕 様 書 に よ る と 、 富 野 村 の 六 ケ 池 堤 は 根 敷12問(21.6m)、. 直 高2丈(6m)で. あ る(中. 馬 踏2. 自 治 会 文 書 、 城 陽 市 史 編 さ ん 委 員 会 編 、1996)。. この よ う に各 地 の 堤 の 規 模 を 調 べ て み る と、 場 所 に よ って 堤 防 規 模 に大 き な差 が あ る こと が 分 か る。 年 代 に よ る 違 い が 分 か る の は 枇 杷 庄 村 の 堤 で あ る が 、 享 保 二 十 年 か ら寛 保 三 年 ま で の 期 間(1735∼1743)と. 文 化 七 年(1810)と. く らべ て、 ほ とん ど差 は 見 られ な い。. 一7一.
(8) 近 畿 大 学 教 育論 叢. 第18巻. 第1号(2006・7). 文 書 の記 録 の ほか に、 近 世 最 末 期 の堤 防 が 直接 観 察 で き る と こ ろが 存 在 す る。 これ は明 治 二 年 に木 津 川 の流 路 が変 更 され た た め で あ るが、 久御 山 町 島 田 や 藤 和 田 、 京 都 市 伏 見 区 生 津 や 美 豆 な ど に 旧 堤 防 が 残 って い る。 こ の う ち、 島 田 の 木 津 川 旧 堤 を計 測 す る と、 馬 踏2.2間(4 m)、 高 さ2.8間(5m)、. 根 敷14.4間(26m)で. あ るの で、 中西 家 文 書 に記 載 され た 規模 と同. じ程 度 で あ る こ とが 分 か る。 現 在 の堤 防 は直 近 の生 津 に お い て 、 馬 踏2。8間(5m)、 間(8m)、. 根 敷30.6間(55m)で. 高 さ4.4. あ る の で、 この付 近 の近 世 の堤 防 は現 在 に比 較 して、 高 さ. で6割 、 馬 踏 で8割 、 根 敷 で5割 、 断 面 積 にす る と3割 程 度 で あ った こ とが 分 か る。. 1V近. 世 の4大 水 害. こ こで は1回 の 洪 水 にお い て 、 山 城 地 域 に どの よ うな 水 害 が 発 生 したの か 、 面 的 に と らえ て 述 べ る。 こ こで扱 う水 害 は、 気 象 条 件 や 災 害 時 刻 の 記 録 が 良 好 に保 存 され て い る、 正 徳 二 年 、 享 和 二 年 、 文 化 十 二 年 、 弘化 三 年 の洪 水 で あ るが 、 結 果 と して 、 これ ら は近 世 の4大 水 害 と い うべ き被 害 を もた ら した洪 水 に該 当 して い る。 な お 、 文 中 の 日付 の うち 漢数 字 は和 暦 を 表 わ し、 算 用 数 字 は西 暦 を表 わ して い る。 西 暦 へ の変 換 は 内 田(1975)を. も とに した。 不 定 時 法 によ る. 時 刻 は季 節 を考 慮 して現 時 刻 に 直 して あ る。 1正. 徳 の 大 洪 水(正. 徳 二 年 八 月 十 九 日、1712年9月19日). こ の洪 水 にっ い て は、 月 堂 見 聞 集 に概 括 的 な記 載 が あ る ほか 、 被 害 状 況 を伝 え る庄 屋 の文 書 も多 数 残 され て い る。 全 般 的 状 況:正 徳 二 年 八 月 、 山 城 地 域 は十 八 日夜 か ら明 け方 にか けて 強 い北 風 が 吹 き大 雨 と な った。 この た め 、 上 流 の 加 茂 、 木 津 で は十 八 日夜 か ら大 洪 水 と な り、 十 九 日 に な っ て木 津 川 は各所 で決 壊 した。 特 に、 上 流 か ら中 流 の加 茂 、 木 津 、 上 狛 、 富 野 、 祝 園 な どで 大 き な被 害 が 出 た が、 下 流 域 で は被 害 は少 な か った。 た だ し、下 流域 の う ちで も 巨椋 池 に面 した地 域 で は、 宇 治 川 水 系 の洪 水 に よ り中書 島 の宇 治 川 に か か る豊 後 橋 で は橋 の上3尺. の 水 位 とな り、 中 書 島. で は2階 ま で水 が っ き二 十 一 日ま で淀 の堤 は通 行 止 め とな って い る。 宇 治 川 の洪 水 は強 い北 風 に よ り琵 琶 湖 の水 が 吹 き寄 せ られ、 これが 川 津 波 とな って押 し寄 せ た か らだ と され て い る(月 堂 見 聞 集 、 上 田 監 修 、1990)。 この と き近 畿 地 方 全 体 で は、 尼 崎 や 武 庫 川 で も洪 水 が 発 生 した こ とが わ か って い る(小 鹿 島 編 、1894)。 各 地 の被 害(左 岸 地 域):加 茂 町 域 で は、 船 屋 の す べ て が 流 出 した た め、 船 屋 を 形 成 して い. 一8一.
(9) 京都府南部山城地域の木津川 と近世 の水害. た里 、 兎 並 、北 の集 落 は現 在 の 山 際 の地 に 移 住 す る とい う大 きな 被 害 が 発 生 した 。 そ れ に伴 っ て街 道 の付 け替 え が行 わ れ、 本 陣 の位 置 も変 更 され た(永 保 記 事 略 、 加 茂 町 史 編 さん 委 員 会 編 、 1991・1999)。 里 村 で は、 そ の 被 害 見 立 て 高 は436石1斗. 余 で 、 「昔 の 大 辰 ト言 ふ 年 」 と記 して 、. 今 年 の干 支 で あ る辰 が何 か 凶年 の ま わ り年 で あ る と して い る(里 春 日若宮 社 文 書 、 加 茂 町 史 編 さ ん委 員 会 、1991・1999)。 川 原 村 で も、 こ の年 の 二 月 に社 殿 を 再 建 した ば か りの 蛭 子 神 社 が 3尺 余 り浸 水 す る とい う被 害 が 出 た(蛭 子 明神 記 録 、 加 茂 町史 編 さん委 員 会編 、1991)。 木 津 町 域 で は、 八 月 十 八 日夜 よ り両 側 の村 々 に水 が入 り、 木 津 一 村 で流 出 した り潰 れ た り し た家 は700軒 余 、 流 死100人 余 と い う被 害 が 出 た。 木 津 で は常 水 よ り2間 半(4.5m)に. およぶ. 出 水 で あ っ た(土 久 里 家 文 書 、 木 津 町 史 編 さん 委 員 会 編 、1986・1991)。 千 童 子 村 の小 堀 代 官 所 支 配 分 で は、200石 の うち76石 余 の 田 畑 が 荒 地 と な り、27軒 中5軒 が 流 出、4軒. が全 壊 、8軒. が 半 壊 と い う被 害 で あ っ た(土 久 里 家 文 書)。 精 華 町域 で は、 祝 園 村 で 堤 が 決 壊 して 村 内 に8尺(2.4m)も. 水 が っ き、300軒 の家 の うち. 220軒 が 流 れ るか 潰 れ るか して53人 が 溺 死 した。 ほか に も野 小 屋 や 農 具 が こ と ご と く流 出 した (森 島家 文 書 、 精 華 町史 編 纂 委 員 会 編 、1996)。 以 上 の よ う に、 左 岸 域 で は加 茂 、 木 津 、 精 華 で 多 大 の 被 害 が 出 たが 、 これ よ り下 流 の京 田辺 市 域 や八 幡市 域 で は ほ とん ど記 録 が な い。 木 津 川 左 岸 域 の 下 流 側 で は この 洪 水 に よ る被 害 は軽 微 で あ った と考 え られ る。 各 地 の 被 害(右 岸 地 域):山. 城 町 域 で は、 上 狛 で新 在 家 の堤 が250間 、 そ の 東 の内 垣 内 の 堤. が20間 、 合 わ せ て270間(490m)に. わ た って 決 壊 した ほか 、5ヶ 所 で堤 が 欠 け る被 害 が 出 た。. 林 村 の禁 裏 御 料 分 で は流 出 した家 が27軒 、 潰 れ た家 は17軒. とい う被 害 が 発生 した が 、 人 間 や. 牛 馬 は無 事 で あ っ た(小 林 家 文 書)。 北 河 原 村 で は、 総 家 数70軒. の うち13軒 が 流 出 し、34軒. が 潰 れ 、 流 死 人 も出 た(中 嶋 家 文 書 、 上 田監 修 、1987)。 井 手 町 域 に お け る被 害 は、 史 誌 に は収 録 さ れ て い な い。 城 陽 市 域 で は、 奈 島 で3ヵ 所 決 壊 し、 市 辺 、 中村 で は 田畑 は も とよ り屋 敷 ま で水 が入 り込 ん だ 。 木 津 川 へ の五 島 川 排 水 樋 門(生 口 樋 門)も 137軒 、 倒 壊 家 屋50軒 、 死 者5∼6人. 破 損 した。 富 野 で は2ヵ 所 で 決 壊 し、 流 家 が. と い う被 害 が で た。 上 津 屋 東 村 で は1ヵ 所 が 決 壊 し、 死. 者 が で た(市 辺 区 有 文 書 、 上 津 屋 自治 会 文 書 、 上 田氏 旧記 、 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 、1977)。 宇 治 市 で は、 損 島村 の 村 高 の ほ と ん どが 水 損 した と い う記 録 が あ る(宇 治 上 神 社 文 書 、 林 屋 ・藤 岡 編 、1976)。 久 御 山 町 で は 巨椋 池 周 辺 で の 災 害 が あ っ た はず で あ るが 、 史 料 が 残 って い. 一9一.
(10) 近畿大学教育論叢. 第18巻. 第1号(2006・7). な い。 2享. 和 の大 洪 水(享. 和 二 年 六 月 二 十 九 日、1802年7月28日). 近 世 も後 期 に な る と史 料 も豊 富 に な る が、 特 に この 洪水 は 規模 が 大 きか った た め に、4大 洪 水 の なか で最 もよ く経 過 が 再 現 で きる。 各 市 町 に さ ま ざ ま な 史料 が残 され て い るが 、 特 に 精 華 町 祝 園 の代 官 で あ った森 嶋 家 の江 戸 状 に は災 害 発 生 か ら復 旧 ま で の経 過 が克 明 に記 録 され て い る(江 戸 状 、 精 華 町 史 編 纂 委 員 会 編 、1992)。 ま た、 山 城 町 北 河 原 の 西 音 寺 の住 職 は過 去 帳 の 裏 に、 後 々 の た め に と して経 過 を 記 録 して い る(西 音 寺 文 書 、 上 田監 修 、1990)。 ま た、 奈 良 井 上 町 年 代 記 に も詳 しい記 述 が あ る(奈 良 井 上 町 年 代 記 、 木 津 町 史 編 さ ん委 員 会 編 、1991)。 一 般 的 状 況:享 和 二 年 六 月 、 山 城 地 方 は二 十 五 日 よ り東 風 が 強 くな りだ し、 二 十 七 日夜 九 っ 時(午 前0時. ご ろ)か ら雨 が 降 り出 した。 そ して 二 十 八 日明 け方 か ら雨 が 強 くな りだ し、 夕 方. か ら翌 二 十 九 日 に は車 軸 を流 す 暴 風 雨 とな り、 山 津 波(土 石 流)も. 発生 した(江 戸 状)。 そ の. 結 果 、 木 津 川 は満 水 とな り、 二 十 九 日昼 ご ろ加 茂 の 舟 屋 、 午 後2時. ご ろ木 津 で(奈 良 井 上 町 年. 代 記)、 二 十 九 日夕 七 っ 過 ぎ(午 後5時 九 日の暮 れ六 っ 時(午 後7時)に 5∼6尺(4.5∼4.8m)で っ 時(午 前0時)に. ご ろ)に は上 狛 の新 在 家 で(西 音 寺 文 書)、 そ して 二 十. は祝 園 で木 津 川 が 決壊 した。 この と き、 祝 園 で の 水 位 は1丈. あ った(江 戸 状)。 これ よ り下 流 の 京 田 辺 市 大 住 で は二 十 九 日夜 九 決 壊 した(江 戸 状)。 そ の ほか 時 刻 ま で は分 か らな い が 、 木 津 川 の堤 防 は. 各 地 で 決 壊 した。 さ らに、 三 川 合 流 後 の淀 川 も当 然 増 水 した。 翌 七 月 一 日の昼 ごろ に は、 淀 川 の水 位 は1丈5 尺(4.5m)と. な って点 野 で 崩 れ 始 め、 夜 に な って 仁 和 寺 ま で大 決 壊 して大 阪平 野 一 帯 の大 水. 害 とな った(鉄 川 ほか 、1979)。 そ の 後 の 復 旧 経 過:七 月 四 日 に な る と祝 園 で は各 村 に被 害 状 況 の見 分 が 入 る よ うに な り、 七 月 十 五 日か ら早 い村 で 水 留 め 作 業 が 始 ま った 。 七 月 十 六 日段 階 で 木 津 川 の水 は、 右 岸 は水 主 の 決壊 場 所 か ら6割 、 左 岸 は大 住 の 決 壊 場 所 か ら4割 の 水 が 流 れ 出 し、 そ れ よ り下 流 に は川 の中 を水 が流 れ て い な い状 況 で あ った。 この2ヶ 所 の水 留 め工 事 は難 航 した。 大住 村 の 水 留 め 工 事 は、 八 月 六 日 に降 った 雨 で8尺 の 増 水 とな り、 復 旧 した と ころ が流 さ れ て しま った。 九 月十 三 日に な って 水主 村 の 水 留 め は完 成 した が、 大 住 で は九 月 二 十 七 日 に ま た ま た 木 津 川 が8尺. の増 水 と な り、 再 び30間 が 流 さ れ る. と い う状 況 で あ った。 しか し十 月 四 日に な って、 何 とか完 成 に こ ぎっ け た(江 戸 状)。 各 地 の 被 害(左 岸 地 域):加 茂 町域 の うち、 加 茂 郷 で は流 家 潰 家 は5村 あ わ せ て342軒. 一10一. 中195.
(11) 京 都府 南部 山城地 域の木津川 と近世の水害. 軒 で あ った(里 春 日若 宮 社 文 書)。 禁 裏 御 料 の河 原 村 で は常 水 に対 し7丈 余 りの 出水 で 、 河 原 村 の 木 津 川 で は、3ヶ 所 あ わ せ て54間 が 決 壊 した(石 井 家 文 書 、 加 茂 町 史 編 さん 委 員 会 編 、 1991・1999)。 船 屋 で は木 津 川 が 切 れ 込 み、 人 々 は荷 物 を二 階 へ 上 げ た けれ ど も、 二 階 ま で 水 付 き と な って流 出 した(奈 良 井 上 町年 代 記)。 木 津 町 域 で は、 本 町 南 東 の大 樋 の 堤 が 切 れ た た め 町 中 大 水 とな り、60軒 余 も潰 れ た。 木 津 西 側 の河 口屋 の家 屋 は4kmほ. ど下 流 の祝 園 村 ま で流 され て しま った ほか、 木 津 町 出垣 内 の 西 方. で は 山 田川 が 切 れ込 み1m前. 後 も水 に漬 か った。 吐 師 で は 問屋 の南 あ た りま で浸 水 した が 、 こ. こで は格 別 の被 害 は なか った(奈 良 井 上 町 年 代 記)。 千 童 子 村 の 中 宮 御 領 分 で は40軒 の うち10 軒 が 潰 れ た(土 久 里 家 文 書)。 木 津 川 の堤 防 は、 小 寺 口 と町 口 で は崩 れ と切 れ が あ り、 宮 の裏 町 で は3ヶ 所 の堤 切 、 塩 田 の百 間 堤 で は2ヶ 所 の堤 切 れ が あ った。 さ らに支 流 の鹿 川 で は6ヶ 所 、 井 関 川 で は1ヶ 所 の堤 切 れ や堤 崩 れ が 起 き た(岡 田 家 文 書 、 木 津 町 史 編 さ ん委 員 会 編 、 1991)。 精 華 町 域 で は、 祝 園 村 で 堤 が 上 流 か ら、 北 古 川 で130聞 、 若 森 で50間 、 半 道 寺 で50間 間 の2ヶ 所 、 合 わ せ て5ヶ 所340聞(約600m)が こ ろ に60軒. 決 壊 した。 祝 園 村 は総 家 数150軒. と70. ほどの と. も流 家 潰 家 が あ り、 そ の ほか物 置 小 屋 な どが37ヶ 所 で流 出 した。 半 壊 も多 数 発 生. し、 水 が 入 ら なか っ たの は20軒 の み で あ った。 菱 田村 で は4ヶ 所250間 の堤 が 切 れ て一 面 の水 入 り とな った が 、 こ こで は家 の 被 害 は出 て い な い(江 戸 状)。 京 田 辺 市 域 で は、 木 津 川 の 堤 は山 本 で100間 、 藪 で60間 、 岩 崎 で30間 、 飯 岡 で3ヶ 所500 間、 草 内 で300間. 、 天 神 裏 で200間. が 決 壊 した(相 楽 神 社 当 役 記 録 、 木 津 町 史 編 さん 委 員 会 編. 1991)。 さ らに 支 流 手 原 川 の堤 も北 側 で 決 壊 した(樺 井 家 文 書 、 山 村 家 文 書 、 田辺 町 近 代 誌 編 さん 委 員 会 編 、1987a、b)。. 大 住 村 で は北 浦 田 の 堤 防 が250間. に わ た って 決 壊 した。 大 住 村 は. 総 家 数260軒 の うち50軒 は水 が 入 らず 、 人 家 へ の 被 害 は、 流 家 、 潰 家 、 物 置 小 屋 な ど全 部 含 め て7軒. ほ ど と軽 微 で あ っ た。 しか し、 田畑 へ の被 害 はお び た だ し く、 砂 入 りの 場 所 は東 西20. 町余(2kmほ 6km)の. ど)、 南 北13∼14町. 余(1.5kmほ. ど)に な り、 砂 の 先 端 は大 住 村 よ り1里 半(約. 八 幡 に ま で及 ん だ(江 戸 状)。. 八 幡 市 域 の堤 防 は、 大 住 で の決 壊 が大 きか った た あ に ほ とん ど被 害 はな く、 最 下 流 部 の 美 豆 で決 壊 した の み で あ った(八 幡 市 誌 編 纂 委 員 協 議 会編 、1980)。 各 地 の 被 害(右. 岸 地 域):山. 城 町 域 で は、 新 在 家 の 上 流 の 片 刈 堤 が8町(864m)ほ. ど決 壊. し、 「狛 中 一 面 之 洪 水 、 誠 二水 満 て大 海 の 如 」 と い う状 況 と な った。 ま た 、 大 河 原 で は流 出 あ. 一11一.
(12) 近畿大学教育論叢. 第18巻. 第1号(2006・7). る い は全 壊 した 家 屋 は20軒 あ ま りで 、 村 方 残 らず 家 屋 の被 害 を 受 け 田畑 は川 原 の よ うに な っ て しま った(西 音 寺 文 書)。 上 狛 で は、 畑 に作 付 け して い た綿 は全 滅 し、 稲 もそ の4分 どが 残 っ た のみ で あ っ た。 綺 田で は堤 切 れ に よ って8町7反 村 高788石. の1ほ. 余 りの耕 地 に砂 の入 る被 害 を受 け、. 余 の う ち8分 の1強 の100石 が 荒 れ 所 と な った(木 村 家 文 書 、 上 田監 修 、1987)。. 井 手 町 域 で は、 綺 田 ・ 玉 水 で2ヶ 所70間. 、 多 賀 で3ヶ 所400間. が 決 壊 した(相 楽 神 社 当役 記. 録)。 さ ら に、 支 流 玉 川 と渋 川 も切 れ と欠 けの 箇 所 が合 計 して197間. の区 間 で 発 生 した(宮 本. 家 文 書 、 井 手 町 史 編 集 委 員 会 編 、1979)。 城 陽 市 域 で は、 水 主 で五 助 裏 よ り カバ イ の坂 の下 ま で、240間 の堤 が 切 れ 込 み(水 主 法 念 寺 文 書 、 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 編 、1996)、 近 衛 家 領 分 の枇 杷 庄 村 で は高394石8斗. の う ち90石. 近 くが 砂 入 と な っ た(森 家 文 書 、 宮 垣 監 修 、1984)。 この決 壊 の た め、 下 流 の寺 田 ・上 津 屋 東 村 な ど も洪 水 に襲 わ れ た ほか 、 平 川 村 も大 洪 水 に な っ た。 中 村 で は、 支 流 長 谷 川 の堤 が 切 れ 田畑 に土 砂 が 流 れ 込 み 、 家5軒 が 流 出 し、 出 垣 内 で は床 上 浸 水 した(寺 田区 有 文 書 、 中区 有 文 書 、 諸 宮 覚 帳 、 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 編 、1977)。 宇 治 市域 で は、 宇 治 川 が 洪 水 に な り橋 本 町 の上 林 道 庵 家 な どが 浸 水 と い う記 録 が あ る(上 林 家 文 書 、 林 屋 ・藤 岡編 、1976)。 久 御 山 町 域 で は大 池 の 中 堤 の被 害 が 大 き く、 東 一 口 で1ヶ 所 18聞 、 相 島 で2ヶ 所 あわ せ て37間 、 森 で は都 合3ヶ 所34間 、 野 で は2ヶ 所42間 、 江 ノ ロ で は 3ヶ 所94間 3文. が 決 壊 した(中 西 家 文 書)。. 化 の大 洪 水(文. 化 十 二 年 六 月 二 十 七 日、1815年8月2日). この洪 水 に っ い て は、 京都 代 官 所 と下 狛 村 の 留 め 書 きや(精 華 町 役 場 文 書 、 精 華 町 史 編 纂 委 員 会 編 、1996)、 水 主 法 念 寺 過 去 帳 の余 白 に当 時 の様 子 が 記 入 さ れ て お り(水 主 法 念 寺 文 書)、 気 象 状 況 や災 害 発生 時刻 、 復 旧経 過 な どを読 み取 る こ とが で き る。 全 般 的状 況:文 化 十 二 年 六 月、 二 十 六 日の 暮 れ六 っ(夕 方7時. こ ろ)よ り雨 が 降 りだ し、 夜. 中 降 り通 して、 翌 二 十 七 日八 っ 前(2時. ご ろ)ま で の大 雨 とな っ た(水 主 法 念 寺 文 書)。 木 津. 川 は六 月 二 十 七 日、 先 に述 べ た 享 和2年. の 水 位 よ りさ らに3∼4尺. 高 い1丈8尺(5.4m)の. 増 水 とな り、 精 華 町域 で は 申 の下 刻(午 後6時 前 ご ろ)本 庄 で 決壊 、 そ して 夜 に入 って 百 久 保 で決 壊 した(精 華 町役 場 文 書)。 また 、 下 流 域 で は四 っ 時(夜10時 さ らに九 っ 前(夜12時. ご ろ)に 久 御 山 町 森 付 近 、. ご ろ)に な って 大 住 の 堤 防 が 決 壊 した(水 主 法 念 寺 文 書)。 残 念 な が ら、. 加 茂 、 木 津 で の決 壊 時 刻 は分 か らな い。 この と きの気 象 条 件 は雨 にっ い て の記 述 は多 い が、 大 風 が 吹 い た とい う記 録 は見 られ な い。. 一12一.
(13) 京都府南部 山城地域 の木 津川 と近世 の水害. 日付 か ら見 て 梅 雨 最 末 期 の前 線 の活 動 に よ る集 中豪 雨 、 あ るい は そ れ に加 え て小 さな 台風 が来 て 大 雨 を降 らせ た こと も考 え られ る。 ま た、 享 和 の洪 水 よ り も3尺 高 い増 水 で あ った に もか か わ らず 、 決 壊 した総 延 長 は短 く、 被 害 額 を記 した記 録 も少 な い。 復 旧 経 過:下 狛 で は、 災 害 が 起 き た翌 日の六 月 二 十 八 日に は船 で上 京 して注 進 して お り、2 日後 の 七 月 一 日 に は京 都 所 司 代 か ら役 人 が 見 分 に来 て い る。 七 月 二 日に は京 都 町 奉 行 同心 の見 分 も行 わ れ 、 七 月 十 日 に な る と下 狛 全 域 の被 害 状 況 が 把 握 され る よ うに な った。 八 月 十 九 日に は普 請 工 事 の 工 法 を 注 進 し、 九 月 十 三 日 に は6、7部. の進 行 で あ る と報 告 して い る(精 華 町役. 場 文 書)。 残 念 な が ら完 成 日 にっ い て は史 料 が な い。 ま た、 他 の市 町 村 で は この よ うな 詳 細 な 経 過 は残 され て いな い。 各 地 の 被 害(左 岸 地 域):加 茂 町域 で は、 こ の年 の 洪 水 で 街 道 や民 家 な どが 流 出 した こ とが 記 録 され て い るの み で あ る(里 春 日若 宮 社 文 書)。 木 津 町 域 で は、 木 津 川 の 堤 防 が 大 藪 で2町(218m)、 田 川 の 堤 も1町 半(ユ63m)あ. 小 寺 尻 で 半 町 あ ま り決 壊 し、 支 流 山. ま り切 れ 込 ん だ ほか 、樋 も決 壊 流 出 した。 洪 水 流 に よ って 潰 家. が 本 家 だ けで も106軒 発 生 し、 この ほか 小 家 、 土 蔵 が 数 多 く壊 れ た。 小 寺 村 は残 らず 潰 家 と な って しま った ほか、 上 津 角 屋 、 大 路 口 、 祇 園 の 筋 、 本 町 通 な ど もだ い た い潰 家 にな っ た。 ま た、 鹿 背 山 で は塩 田、 柿 内、 は さま古 田、 な どが の こ らず 淵 とな った(木 津 家 文 書 、 木 津 町 史 編 さん 委 員 会 編 、1991)。 千 童 子 村 で は荒 地 に な っ た場 所 と して 、 内 垣 内、 雲 村 、 宮 ノ浦 、 川 端 な ど の木 津 川 隣接 地 の ほ か、 支 流 の鹿 川 や井 関川 に面 した 村 が 多数 あ げ られ て い る(藤 本 家 文 書 、 木 津 町史 編 さ ん委 員 会 編 、1991)。 精 華 町 域 で は、 先 に述 べ た よ うに本 庄 で80間 、 百 久 保 で90間 丈8尺(約5.5m)で. が決 壊 した。 出 水 の 高 さ は1. あ った(精 華 町 役 場 文 書)。 しか し、 具 体 的 な 田畑 人 家 の被 害 にっ い て. の史 料 は見 られ な い。 京 田辺 市 域 で は、 大 住 で 享 和2年. の切 れ所 よ り3町(327m)ほ. ど上 流 の志 保 で木 津 川 堤30. 聞 が 決 壊 した ほか 、 支 流 も田辺 新 田村 の堤 が 数 ヶ所 で決 壊 した(小 西 家 文 書 、 田辺 町近 代 誌 編 さん 委 員 会1987a,b)。 各 地 の被 害(右. そ の下 流 側 の八 幡 市 域 で は具 体 的 な史 料 が な い。. 岸 地 域):山 城 町 域 で は具 体 的 な 史 料 が の こ って い な い。 他 の洪 水 の 記 録 は. 比 較 的 良 く残 され て い るの で 、 こ の地 方 で は水 害 は少 なか っ た と考 え られ る。 井 手 町域 で は、 木 津 川 洪 水 の 結 果 、 人 家 水 下 に な り流 家 、 潰 家 が 多 く出て 、 道 も切 れ 所 が 数 多 く発 生 した(宮 本 家 文 書)。 城 陽 市 域 で は、 水 主 の 堤 もは な は だ 危 な くな った が 寺 田 よ り300人. 一13一. ほ どが や っ て.
(14) 'ε こ 、t>. 近畿大学教育論叢. 第18巻. 第1号(2006・7). き て水 防 に 当 た っ た た め無 事 で あ っ た(水 主 法 念 寺 文 書)。 久 御 山 町 で は封 戸 村 の高 札 が今 回 の 洪 水 で 押 し潰 れ た(中 西 家 文 書)。 宇 治 市 で は大 池 表 の 遊 田 堤 な どが 決 壊 した(北 川 家 文 書 、 林 屋 ・藤 岡 編 、1976)。 4弘. 化 の 洪 水(弘. 化 三 年 七 月 七 日、1846年8月28日). この 洪 水 にっ いて は弘 荒 録 と い う中 島 家 の文 書 に気 象 条 件 や被 害 状 況 が 記 録 さ れ て い る(弘 荒録 、 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 編 、1996)。 一 般 的 状 況:七. 月 七 日朝 は あ ま り曇 っ て もい な か った が 、 四 っ 時(10時. そ よ そ よ と吹 き出 し、 空 も しだ い に 曇 って い った。 九 っ 時(昼. の12時. ご ろ)よ. り東 風 が. ご ろ)よ. り暴 風 雨 に な. り、 た そ が れ 過 ぎの 激 しさ は表 現 で きな い ほ ど で あ っ た。 夜 四 っ 時(午 後10時. ご ろ)に は風. は少 し弱 ま っ た が 雨 は依 然 と して 強 く降 って い た。 この こ ろ よ り、 木 津 川 の 水 位 が8,9合 な って きて 、 富 野 で は 夜 九 っ 時(夜12時 く、7尺. に. ご ろ)に 決 壊 した。 この 時 の洪 水 は宇 治 川 で は少 な. ほ ど の水 位 で あ った が、 木 津 川 が 増 水 した た め、 宇 治 川 に逆 流 し、 伏 見 の 中書 島 で は. 床 上4∼5尺. の浸 水 とな った(弘 荒 録)。 この 状 況 は伊 佐 家 の 日記 に は、 昼 よ り丑 寅 の風 と雨. が 烈 し く、 暮 れ ごろ よ り出水 し夜 半 に富 野 堤 が 決 壊 、 下 津 屋 村 の堤 もま た決 壊 した、 と記 され て い る(伊 佐 家 文 書 、 水 本 監 修 、1990)。 夏 の 終 わ りか ら秋 の は じめ の台 風 で あ るが 、 風 の吹 き始 めか ら暴 風 に な る ま で の時 間 が非 常 に短 く、 移 動 速 度 の 大 き な台 風 で あ っ た こ とが 読 み 取 れ る。 全 国 的 に も、 この台 風 に よ って瀬 戸 内 一 帯 、 兵 庫 、 大 阪 、 滋 賀 か ら愛 知 、 静 岡 に か け て 被 害 が 出 て い る(小 鹿 島 編 、 ユ894)。弘 荒録 を記 した 著 者 は享 和2年 以 来 の大 水 と して い るが 、 これ は この 地(富 野)で は 決 壊 して い な い か らで あ ろ う。 水 位 と して は文 化12年 の下 津 屋 付 近 で の 測定 で は1丈7尺5寸(5.25m)で 各 地 の 被 害(左 岸 地 域):加. は文 化12年 に. と同 程 度 で あ り、 下 流 の久 御 山 町 域. あ った(中 西 家 文 書)。. 茂 町 域 で は、 こ の年 大 風 雨 で 洪 水 と され て い る の み で あ る(里. 春 日若 宮 社 文 書 、 観 音 寺 区 有 文 書)。 木 津 町 域 で は、 支 流 山 田 川 が 流 れ込 む あ た りの木 津 川 堤 防 が 決 壊 した(木 津 町 史 編 さん 委 員 会 編 、1991)。 精 華 町 で は 特 に被 害 は 出 て い な い よ うで あ る。 京 田辺 市 域 で は、 飯 岡 の堤 が決 壊 した こ とが 弘荒 録 に記 録 さ れ て い る が地 元 の 史 料 は見 ら れ な い。 八 幡 市 域 で も特 に被 害 は報 告 され て い な い。 各 地 の被 害(右 岸 地 域)1山. 城 町 域 で は、 上 狛 村 で堤70間. 町 域 で は、 玉 水 と多 賀 で8ヶ 所 お お む ね370間. が 決 壊 した(浅. 田家 文 書)。 井 手. が 決 壊 した(弘 荒 録)。 城 陽 市 域 で は、 先 に述. べ た よ う に富 野 の 堤 が80間 決 壊 した た あ、 富 野 村 で は ユ,699石 の うち の280石(16.5%)の 一14一. 田.
(15) 京都府南部山城地域 の木津川 と近世 の水害. 畑 が 砂 入 り と な っ て い る(諸 官 覚 帳 、 宮 垣 監 修 、1985)。 富 野 の下 流 側 の東 上 津 屋 で も村 中 の 田 畑 が 水 入 り に な った(伊 佐 家 文 書)。 久 御 山 町 域 で は、 田 井 で170間. が 決 壊 した 。 特 に こ こ. で は、 昨 年 も切 れ て6尺 余 の砂 が 入 っ た上 に ま た して も1丈 ばか りの砂 入 り とな り、 田地 が残 らず 潰 れ て しま っ た(弘 荒 録)。 宇 治 市 域 で は 大 池 の洪 水 に よ り小 倉 の堤 が100間 た(教 栄 寺 文 書 、 林 屋 ・ 藤 岡編 、1976)。 伏 見 中 書 島 な どで は床 よ り4∼5尺 倉 堤(太 閤 堤)も 所 に よ り2∼3尺. ほ ど決 壊 し. の水 が つ い た。 小. 水 に沈 ん で 、 伏 見 領 にて2ヶ 所 あわ せ て130問. が 決 壊 した. (弘荒 録)。. Vお. わ りに. 本論 で は 、 木 津 川 に お け る河 床 変 動 と堤 防 規 模 、 水 害 の 発 生 状 況 、 な らび に代 表 的 な水 害4 っ を取 り上 げ て 、 山 城 地 域 の 水 害 環 境 に っ い て 述 べ た 。 被 害 状 況 を ま とめ て み る と、 同 じ箇 所 が 何 回 も決 壊 して い る こ とが 良 く分 か る。 また 、 各 洪 水 にお け る浸 水 範 囲 や 水 深 な どの 定 量 化 は 今後 の課 題 と して 残 され た が 、 そ れ らに っ い て は機 会 を 改 め て 述 べ る こ と と した い。 と ころ で、 毎 年 、 災 害 が 発生 す るた び に 「ま さか こ こに 水 が 来 るな ん て 知 らな か った 」 と い う反 応 が 聞 か れ る。 現 在 で は 、 か っ て の遊 水地 や 洪 水 の常 襲 地帯 に 住 宅 が 密 集 す る よ う にな っ て い る。 ま た、 核 家 族 化 が進 み、 お年 寄 りの経 験 が 伝 わ らな くな った とい わ れ て 久 しい 。 地 域 、 家 庭 で災 害 に対 す る教 育 力 が失 わ れ て きて い る状 況 で あ るか ら こそ 、学 校 教 育 の 中 で 校 区 の 災 害 環 境 、 災 害 の履 歴 な ど を扱 う こ とが大 切 に な って い る と考 え る。 理 科 教 育 の な か の1っ. と して河 川 の働 き と災 害 、 あ るい は総 合 的 な学 習 と して地 域 の 歴 史 を. 調 べ る さ い な ど に災 害 の問 題 を ぜ ひ取 り上 げ る べ きで あ ろ う。 歴 史 を知 る こ とが地 域 環 境 を知 る こ と、 あ る い は災 害 教 育 の第 一 歩 で あ る こ とを 強調 して お きた い。. 文献 乾. 幸 次(1987)南. 山城 の歴 史 的 景 観 。 古 今 書 院. 林 屋 辰 三 郎 ・藤 岡 謙 二 郎 編(1976)宇 井 手 町 史 編 集 委 員 会 編(1979)井. 治 市 史3、 近 世 の歴 史 と景 観 。 宇 治 市. 手 町 史 シ リー ズ第3集 、 く ら しの 歴 史 。 井 手 町. 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 編(1977)城. 陽市史年表。城陽市. 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 編(1979)城. 陽 市 史 第2巻 。 城 陽 市. 一15一.
(16) 近畿大学教育論叢. 第18巻. 第1号(2006・7). 城 陽 市 史 編 さん 委 員 会 編(1996)城. 陽 市 史 第4巻(史. 加 茂 町 史 編 さん 委 員 会 編(1991)加. 茂 町 史 第2巻 近 世 編 。 加 茂 町. 加 茂 町 史 編 さん 委 員 会 編(ユ999)加. 茂 町 史 第5巻 資 料 編2。 加 茂 町. 木 津 町 史 編 さん 委 員 会 編(1986)木. 津町史史料篇。木津町. 木 津 町 史 編 さん 委 員 会 編(1991)木. 津町史本文篇。木津町. 久 御 山 町 史 編 さん 委 員 会 編(1992)久. 料 編)。 城 陽 市. 御山町史史料編。久御山町. 宮 垣 克 巳監 修(1985)史. 料 が 語 る城 陽 近 世 史 第 二 集 、 富 野 庄 地 域 編 。 城 陽 市 教 育 委 員 会. 水 本 邦 彦 監 修(1990)史. 料 が 語 る城 陽 近 世 史 第 四 集 、 久 津 川 地 域 編 。 城 陽 市 教 育 委 員 会. 水 本邦 彦(1990)江. 戸 時 代 の 木 津 川 水 害 。 京 都 府 立 大 学 ・同 短 期 大 学 部 編 「南 山 城 学 術 調 査 報. 告 」1-13 小鹿 島. 果. 編(1894)日. 本 災異 志 ・1973年 復 刻 版 。 思 文 閣. 精 華 町史 編 纂 委 員 会編(ユ992)精. 華 町史 史料篇。精華 町. 精 華 町史 編 纂 委 員 会 編(1996)精. 華 町史 本 文 編 。 精 華 町. 鈴 木 一 久(2005)山. 城 の 国 の木 津 川 と支 流 の天 井 川 。 日本 地 質学 会 第112年 学 術 大 会(2005年. 京 都)見 学 旅 行 案 内書 田辺 町 近 代 誌 編 さん委 員 会 編(1987a)田. 辺 町 近 代 誌 。 田辺 町. 田辺 町 近 代 誌 編 さん 委 員 会 編(1987b)田. 辺 町近 世 ・近 代 資 料 集 。 田辺 町. 辰己. 勝(1996)木. 鉄川. 精 ・松 岡 数 充 ・田村 利 久(1979)淀. 内 田正 男(1975)日. 津 川 下 流 平 野 の地 形 環 境 と水 害 。 京 都 地 域 研 究11巻95-109. 本 暦 日原 典(第2版)。. 川:自 然 と歴 史 。 松 籟 社 雄 山閣 出版. 上 田正 昭 監 修(1987)山. 城町史本文編。山城町. 上 田 正 昭 監 修(1990)山. 城町史史料編。山城町. 八 幡 市 誌 編 纂 委 員 協 議 会 編(1980)八 淀 川 百 年 史 編 集 委 員 会 編(1974)淀 吉 田 敬 一(1962)巨. 幡 市 誌 第2巻 。 八 幡 市 川百年史。 建設省淀川工事事務所. 椋 池 干 拓 誌 第2編 巨 椋 池 史 説 。 巨椋 池 土 地 改 良 区. 一16一.
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