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十九世紀末の日本と英国(研究報告)

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十九世紀末の日本と英国(研究報告)

著者 原田 勝正

雑誌名 東西南北

巻 1997

ページ 138‑142

発行年 1997‑03‑19

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003876/

(2)

研究報告 一 九 世 紀 末 の 日 本 と 英 国

原田勝正

経済学部教授

な ぜ ご 九 世 紀 末

﹂ か

ここ数年︑二

O

世紀が終末にさしかかって︑

﹁ ニ

O

世紀の検証﹂やら︑さまざまな議論が論

壇をにぎわしている︒これらを見ていると︑

この

OO

年の聞に日本もまた一定の﹁世紀

意識﹂というか︑一

OO

年を区切りとする歴

史意識をみずからのものとして持つようにな

ったという感想が湧いて来る︒

たしかに︑二

O

世紀は︑人類の歴史のなか

で︑マクロな宇宙認識からミクロな身体意識

にいたるまで︑かつてない認識分野を開拓し

た︒また自然環境や社会システムについても

あらたな認識の立場が構成され︑それはまた

人間の生存のための権利意識のあり方にも画 期的な段階を築き上げた︒日本は︑このような画期的変動の中にみずからを巻き込んで︑いった︒ほぼその前半は明白な加害者ないし侵略者として︑その後半は︑あらたな理念をかかげる一方で︑依然として前半以来の基本姿勢を脱却することなく︑﹁進歩と向上﹂を目指す﹁優等生﹂として︑﹁大国﹂へのつよい執念を燃やしつづける力が大勢を占めている︒

こうして︑二

O

世紀

のこ

の一

00

年間

は︑

日本にとっては︑世界史の舞台の上にみずか

らを投じてきた時代であり︑世紀末を迎えた

現在

この

OO

年の日本の進路をふりかえり︑

その事実を確認する作業は︑そのままこの一

OO

年の世界史の進行と結びつくのである︒

義和国事件にはじまり︑日露戦争さらに韓国 併合と︑二

O

世紀

初頭

の一

0

間に

日本

は一

気に対アジア侵略の進路を突き進む態勢をつ

くりあげ︑それはそのままご等国﹂として

世界の﹁大国﹂への仲間入りを果たそうとい

う目標に結びつけられた︒それは明治維新直

後に展開された富国強兵・殖産興業・文明開

化政策の延長線上に定置された路線であった︒

﹁進

歩と

向上

﹂を

目指

すそ

の路

線は

︑ニ

O

世紀

に入って一挙に世界史の舞台の上に展開され

るこ

とに

なっ

たの

であ

る︒

このような日本にとって︑一九世紀末は︑

いわばこのような展開の準備段階として把握

されるのではないか︒その準備段階に︑日本

は︑何を︑どのように増備したのか︒もちろ

ん︑あらたな世紀における全面的な展開を予

(3)

定して準備を進めるという意識はなかったで

あろう︒もともと西暦を基準とする世紀の意

識など︑当時どれほどの日本人が抱いていた

かは考えるまでもない︒たまたま二

O

世紀初

頭に世界史の舞台に踊り出す機会が重なった

と見るのが妥当というべきである︒

しかし︑とくに一八八

0

年代後半以降の一

五年ばかりの聞に︑日本の支配体制が選んだ

進路は︑彼ら自身がつねに不安に駆られ︑危

機意識にさいなまれながら︑予想外というべ

き﹁成果﹂を彼らにもたらしたのである︒

こうして一九世紀末における日本の進路は︑

世界史への舞台への登場を目指す準備段階と

して︑進行していったということになる︒そ

して︑それが︑欧米世界における世紀末とた

またま時期のうえで符合していたこと︑この

ことを﹁文明﹂史というべき視点をもとにし

て跡づけて見たい︒そうした視点に立つ歴史

に関心を抱いたこと︑それがこの研究組織の

そもそもの出発点となったのである︒

日本における一九世紀末

いま見てきたように︑一八八

0

年代後半以

降の日本の進路は︑明治初年に敷かれた﹁進 歩と向上﹂の軌道をさらに前進させるという課題意識に立っていた︒それは一面で﹁野蛮から文明﹂へのコ

l

スとして認識されると同

時に

︑﹁

被支

配か

ら支

配へ

﹂の

l

スとして認

識されていた︒明治日本の支配体制にとって︑

文明への道はそのまま支配への道を意味して

いた︒百姓一挟・打ちこわしから世直し一撲

に展開した民衆運動を利用しつつ権力を奪取

した彼らは︑権力奪取の過程でこれを弾圧し︑

その

﹁根

﹂と

なる

民衆

を︑

反政

府士

族と

とも

に︑

文明化にさからう野蛮と位置づけ︑その民衆

を基盤として自由民権運動が社会的影響力を

持ちはじめ︑近代国家のあるべき姿を提示す

ると︑文明化の主導権を確保するためにも︑

これを圧服する必要に駆られたのである︒そ

の圧服の過程に目途が立ったのが一八八五年

であった︒この段階で︑彼らの文明化の体制

保証としての明治憲法の草案は完成し︑内閣

は組織され︑華族制度は実施段階に入り︑これ

に引きつづいて皇室財産の確立によって︑天

皇制の政治的経済的基礎は完成期に到達した︒

そしてこの過程は︑ペリ

l

艦隊来航以来不

平等条約による被支配からの離脱を目指す過

程でもあった︒一八六九年木戸孝允らの対朝 鮮侵略論は︑世直し一撲による危機回避の方策として主張されたものだったが︑それだけでなく︑そこには支配国家への目標がすでに据えられていた︒そして︑いわゆる征韓論︑台湾への出兵︑江華島事件とつづく一連の対外行動は﹁蝦夷地﹂を﹁北海道﹂と名付け︑琉球を﹁沖縄県﹂とする一連の領土化作業と並行していた︒自由民権運動の昂揚につよい危機感を抱きながらくり返された朝鮮におけるクーデター策謀は︑政府存立の危機意識が深まれば深まるほど︑緊急性を強めていったの

であ

る.

このような支配国家への道は︑一八八四年

以降︑とくに清仏戦争における清国の敗北を

契機に︑朝鮮から中国にその目標を拡張する

かたちで進められた︒不平等条約の改正交渉

が難航するという状況のもとで︑一方で鹿鳴

館を代表とする欧化主義に文明化へのポ

l

を見せっつ︑他方で︑朝鮮︑中国支配の実現

による文明化の﹁実力﹂を見せ︑それによっ

て条約改正への足がかりをつけようとする姿

勢はさらに強められた︒一八八五年三月に発

表された福沢諭吉の﹁脱亜論﹂は︑この基本

路線をそのまま支持したのである︒

139

一 一 一 一 一

(4)

一八八九年の明治憲法発布を前に︑軍部は

対消戦争の本格的単備に入り︑参謀本部の派

遣する将校による中国情報の収集︑鎮台から

野戦集団としての師団への改編︑清国の巨大

戦艦に対抗するための高速船の増備︑小銃︑

弾薬自給態勢の確立が一八九三年を目途に実

現された.これらの戦争準備はようやく芽生

えた資本主義生産体制の軽工業生産水準をは

るかに超える軍事産業部門の偏情的発展をも

たらしたが︑それらすべてが文明化の名のも

とに容認されていったのである︒

一八九四年八月イギリスの中立保障を最高

のよりどころとして日清戦争は開始された.

この保障は︑条約改正への道をひらくという

点もふくめて︑日本の支配体制にとって一石

二鳥の効果をもたらすが︑もうひとつ︑彼ら

にとっては︑﹁文明国日本﹂の保証証明書の意

味を持っていた︒だからというべきか︑福沢

諭吉は︑この戦争を﹁文明の野蛮にたいする戦

争﹂と意義づけた︒

俗謡は﹁恨み重なるチャンチャン坊主﹂と︑

中国文化にたいする長い伝統的追随を一挙に

逆転して文明的優越の地位に立ち︑強い侮蔑

の立場を歌い上げていった︒このような俗謡 も︑かつて﹁オッベケペ﹂で民権論を鼓吹した川上音次郎の舞台﹁壮絶日清戦争﹂も︑戦況を報告する錦絵も︑それらはすべて日の丸から四方八方に光台を放つ旭日旗を背景に持っていた.連隊旗︑軍船旗にデザインされた旭日旗は︑この戦争を通じて新興﹁文明国﹂日本の象徴としてその存在理由を確立したのである︒

台湾割譲によってアジア最初の植民地保有

国となり︑老大国消国から三億円の﹁賠償金﹂

を獲得した日本は︑一九世紀末をまさに﹁旭

日界天﹂の時期として過ごしていく︒条約改

正はすでに目標の聞に迫り︑朝鮮支配の強化

は通貨支配と鉄道建設によって実現を約束さ

れ︑﹁三国干渉﹂によって手離した遼東半島の

再奪取は︑明治天皇みずからが伊藤博文にた

いして実行目標として硲認する︒

いわゆる﹁世紀末﹂

への 挑戦

﹁旭日昇天﹂の日本は文明国となったのか.

伝染病は根絶の域に近づき︑初等教育の普及

率は向上の一途を辿り︑衣生活における洋風

化はその緒につき︑東京の官庁︑企業街の整

備は急速に進む︒しかしそれらは条約改正実

現の手段とされるものが多く︑とくに伝染病 予防法や東京の中心街整備は文明国の体面保持を主な目標としていた︒だから︑伝染病患者は搬送から治療にいたるまで人権を無視され︑東京の市街地には江戸にくらべてはるかに大規模なスラムが周辺部に拡大する︒外に向かっては︑日清戦争中の旅順(?)における

住民大量虐殺事件にはじまり︑朝鮮における

関妃殺害事件︑さらに台湾支配における反抗

民族の集団虐殺と︑とうてい文明国とはいえ

ない

凶行

が連

続す

る︒

それでも日本は︑文明国としての地位の確

立に奔走する︒義和団事件にさいして出動し

た八カ国の連合軍兵力二万の八

O%

を出動さ

せた日本は︑軍紀の﹁厳正﹂を列国に誇示し︑

かつてアジア︑アフリカ︑アメリカで植民地

支配に蛮行をくり返した欧米文明国の後継者

としての立場を示した︒日本軍将校の汚職な

どはたくみに隠蔽され︑﹁極東の憲兵﹂日本の

地位はゆるがないものとしてその声価を得た︒

そこには︑かつての欧米諸国が植民地支配に

おいてひたすらに追い求めた文明国の虚像に

追随する﹁文明化優等生﹂日本の姿があった

とい

うべ

きで

あろ

う︒

しかも︑かつての植民地支配の覇者には︑

(5)

しだいに疲労の色が濃さを増しつつあった︒

いわゆる世紀末現象は︑その疲労の表白とも

見られる︒フランスにもイギリスにも︒その

疲労は蓄積されつつあった︒イギリスは︑つ

いに﹁名誉ある孤立﹂の地位を放棄するに至

る︒そのイギリスの孤立放棄の最初の相手国

がほかならぬ日本であった︒一九

O

二年に結

ぼれた日英同盟は︑﹁文明国﹂の地位継承とい

う重

要な

事件

であ

った

このような地位継承によって︑日本は︑あ

らたな文明国として︑疲労を増し︑世紀末現

象を生みつつある欧米︑とくにヨーロッパの

﹁文明﹂にあらたな挑戦の立場を固めようとす

る︒義和国事件のさい︑北京の城壁にたどり

ついた日本軍の部隊長は︑同時に械壁を登っ

てきてユニオン・ジヤツクの旗をかかげよう

としたイギリス梅軍水兵を城壁から突きおと

し︑指を傷つけてハンカチに日の丸を描き︑

これをかかげたという︒そこには︑単なる軍

功争い以上の意味が含まれていると言うべき

であろう︒のちに旅順口閉塞戦で戦死する広

瀬武夫小佐がモスクワ駐在中に柔道の手でロ

シア軍人を投げとばしたといったエピソード

がある︒それらは﹁旭日昇天﹂の﹁文明国﹂

が︑

﹁疲

労退

疲﹂

の﹁

文明

国﹂

にと

って

代わ

ていく過程を示してはいないか︒

一九

0

代前

半か

らは

じま

る﹁

日本

回帰

の潮涜︑そして一九四一年度にはじまる﹁大

東亜戦争﹂への布石は︑すでに一九世紀末︑

O

世紀初頭にはじめられていたのではない

か︒

この

よう

に見

てく

ると

︑日

本の

﹁挑

戦﹂

内容は何か︑その目標は︑いったいどこに置

かれていったのかといった問題意識が︑少な

くと

もニ

O

世紀前半における日本の進路とい

う時代のスパンを通視するかたちで生まれて

くる

ので

ある

世紀末問題への視点

一九

世紀

末を

考え

たい

とい

う問

題意

識は

日本を通じて見てきたこのような推移の中か

ら生まれてきた.すなわち文明開化以来の欧

化主義が︑鹿鳴館の狂燥を頂点として国粋主

義にとって代わられていく過程は︑そのよう

な潮流の一典型と見られるが︑しかしまた︑

そこに成立する国粋主義は︑基本的な脱亜入

欧路線を踏み外す方向をとるものではなかっ

たこともうなずかれるのである︒しかも︑そ

こで唱えられる﹁入欧﹂は︑場合によっては 欧米を踏台として利用しつつ︑欧米的近代を超克するという方向を目標として意識していたのではないかと考えられる︒そこにこそ︑

尊皇様夷論以来の﹁中体西用論﹂の本質的展

開が

あっ

たの

では

ない

か︒

このような論点を具体化するために︑まず

思想・文化といった分野から切り込んでみよ

うということになり︑一九九五年度には︑導

入文化としての唱歌から軍歌が生まれ︑それ

が普及していく過程を︑日消戦争期を中心に

考え︑また︑和漢洋の文化を吸収した知識人

夏目

激石

の国

字論

を考

え︑

さら

に︑

﹁廃

娼﹂

いう当初は多分に宗教的または慈善的動機か

ら開始された運動が︑女性の人権を中心に展

開していく転回について考え︑このようなテ

ーマから︑一面で一九世紀末におけるある特

定の方向︑とくに体制化の方向と︑それとな

らんで起こってくる近代社会の走者の方向と︑

この

二つ

の相

克を

考え

てみ

た︒

一八

九六

年度

に入

って

から

は︑

日本

﹁精

神﹂

の結晶とされた﹁日本魂﹂の成立︑都市近代

化事業の中に天皇制を公式に持ちこんだ平安

神宮の造営をまず取り上げ︑さらに﹁帝国主

義の疲労﹂を見せはじめたイギリスの問題を

141

一 一 一 一 一

(6)

ロンドンの下層社会に見るという試みを行な

った︒この第三の視点は︑一九世紀末におけ

る日本のいわゆる都市下層社会の分析との対

比を前提としており︑前年の廃娼問題を継ぐ

かたちで︑これまでの思想・文化の分野から

社会の分野に一歩踏み入れるという混交視角

の展開を予想するものである︒もうひとつ︑

これに加えて︑平安神宮造営期における京都 の織物業を中心とする中小企業の経営と︑そこにはたらく労働者の問題を取り上げる計画がある︒それは︑経済・労働の分野というべきか︑一九世紀末から二

O

世初頭にかけて日

本社会の基盤に起こった変動を把握したいと

いうのが︑その趣旨である︒

多分に大風自敷をひろげて収拾がつかなく

なることを恐れてはいるが︑いま述べてきた ような日本の﹁挑戦﹂をひとつの軸に据えて︑朝鮮︑中国などアジアにおける変動と︑さらにイギリスだけでなく︑フランス︑ドイツなどヨーロッパにおける変動も視野に入れながら︑﹁世紀末﹂問題にたいするあたらしい視点

の構成を試みたい︒これが︑わたくしたちの

構想である.

参照

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本報告書は、日本財団の 2016

本報告書は、日本財団の 2015

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彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に