東南アジア華僑経済研究の一視角 139
東南アジア華僑経済研究の一視角
一 Pang Field−workのための覚え書き一
市 川 信 愛
目 次
1.急変する東南アジアと帯(Pang)問題一Field workへのアプローチー 2.華僑一幕形成の経済的背景をめぐる問題一タイを中心として一
に)問題の限定
(2)King,s Chineseと王家商業
(3)農民的商品経済とChinese Middleman (4)タイ「幕」問題の特質と現局面
3.結 語
1.急変する東南アジアと幕問題
一Field workへのアプローチー
周知のとおり,東南アジアの諸国は,原住民以外に,かなりの数にのぼる東洋外国人グ ループをかかえ,彼等は「同じ政治単位に,異った社会秩序が隣…りあって,しかも全く孤 (注ユ)
立して存在している。」といういわゆる「複合社会」Plural societyを形成している。
とりわけ,世界各地に推定約1,800万人いるといわれる華僑Oversea chineseは,その 96%強がアジアに住み,それぞれの地域の自然環境や,政治経済社会諸条件に対応しつ つ,多様な活動を展開しているが,共通して認められることは,誓Pangという特異な 集団を結成し,強い結合と団結および排他性・閉鎖性をもっことから,高揚するナショナ
リズムともからんで,現地住民ないし政府と,深刻な対立矛盾を表面化させている。一方,
華僑社会内部における諸変化の進行もあって,幣問題は,新たな問題と局面をむかえるに (注2)
いたっている。 (第1表参照)
「幣」については,一般に地縁,血縁,業縁(職業集団)という3つの性格が混合した もので,華僑社会の発展の潤滑油の作用を果して来たものとされるが,須山卓博士はとく に下部構造二経済的性格について「幣とは,郷土経済(本国経済筆者注)と出先経済との 間の密接な連関の上に成立する集団である。」と規定,とくに上部構造としての「幣派主 義」を重視し,次のごとく言われる。
海外中国人の幣(Pang以下幣と略す)の集団を単なる機械的な人々の集りとしてとら
第1表地:門別華僑人口
地 域 入 口 数 !67 人 臼 数 !70
全
ア 東
ブ イ
シ マ タ
ビ
南 北
カ ラ
南
日
世 界 ジ ア 南 ア ジ ァ
ィ リ ピ ン ソ ド ネ シ ア ン ガ ポ 一 ル レ シ ア イ
ノレ マ ベ ト ナ ム ベ ト ナ ム ン ボ ジ ア オ ス 北 ア メ リ カ 本
17,708,695 ( 100)
17,353,781 (98.0)
※16,000,000 (90.4)
1].5,501 ( 0.7)
2,750,000 (15.5)
1,427,000 ( 8.1)
3,388,334 (19.1)
3,799,000 (21.5)
400,000 (2.3)
].,1].5,944 ( 6.3)
600,000 ( 3.4)
260,000 ( 1.5)
46,830 ( 0.3)
488,142 ( 2.8)
49,431 ( 0.3)
18,896,666 ( 100)
18,095,400 (95.8)
※16,000,000 (84,7)
300,000 ( 1.6)
3,000,000 (15.9)
1,490。600 (7.9)
3,507,082 (18.6)
3,500,000 (185)
450,000 (2.4)
}・,・・5,944(・.9)
300,000 100,000 607,126 5Q,445
鴇(3.2)}
(0.3)
(注)※は推計値,それ以外は登録のみ,( )は%,出所=「華僑経済統計年鑑」
える捉え方でなく,多様な統一的な相互に機能的に結合しあっている有機的集団の全体社 会として理解することによって,特殊アジア的とも表現し得る独自の存在形態として位置 づけられるべきである。それ故,従来指称され来っている西欧流のギルド(Gllild)的集 団とは,その本質において異質的であることを示唆すると同時に,このアジア的なものに基 礎づけられた特異の「幣派主義」が全形態を支配していることに着目すべきである。
華僑社会における二二主義の実現の貫徹は,移民の初期段階においては種族的な械闘
(かいとう)から秘密結社の組織形態をとらしめ,資本主義的発展段階の過程において は,宗族的集団から会館にいたるまでの組織形態をとらしめるに至っている。
したがって「幣」には,幣集団の内部結束を固めるため前近代的共同体観が支配的であ るが,その半面,幣の集団利己主義,幣同士の排他性が強いことも,その特色の一つであ
る」と。
小稿は,以上の博士と同じ見解に立脚しつつ,幕の経済的性格ないし下部構造研究への 分析視角と,Field workにおける問題の所在を明確化することをねらいとする。しかも今
日,東南アジアにおいて幕問題研究は,極めてUp−to−dateな課題にとなっているとい う認識に立っている。その理由はこうである。
華僑社会における蓄形成と経済的位置との関連についての,一般的理解を要約すると次 のごとくなろう。
まず,移民労働者からスタートして,行商入,露天商,大商店主といった上昇過程を 着々とたどり,その過程で土産品の販売と加工を支配し,中には農業生産や漁業にも融 資する金貸し業を行うようになる。さらに彼等は,政治団体をはじめ,銀行・学校・文
東南アジア華僑経済研究の一視角 141 化団体等あらゆる面において,舗と呼ばれる独得の連帯組織を形成し,原住民社会から 孤立した異質な社会を発展させてきたのである。
このような過程が,急速に集んだのは19世紀以降の植民地体制確立期以降に属するが,
第2次大戦後の経済ナショナリズムの高揚のなかで,幣は大きな転換を余義なくされると 同時に,自らもその変貌をとげようとしている。その典型的事例をシンガポールに見出す ことができる。
即ち華僑経済の工業化の進展に伴なう,商業社会から工業社会への移行につれて,閉二 時な幕の存在は,近代国家への展望を阻害する重大な要因となりつつある。とりわけ住民
の83%を占める同国の中国入は,も早華僑=外来人ではなく,公民権をもつ土着民となっ ている。したがって,現地生れの華僑二世(僑生という)の中から,幣のあり方について 大要次のような批判的動きが現れるようになったのも当然といえよう。甜のセクショナリ ズムを解消しようとする動きが,僑生(現地生れの二世代,三世代の華僑)に現れた原因 は,中国語(標準北京官話)の普及,通婚圏の拡大,人間交流の盛繁等の結果が積み重な って,シンガポールの独立を契機になしくずしに幕を形骸化してゆこうとする底流が形成 され始めたためである。併し,このような動きにも拘らず,幕の存廃問題については,幣 内部に依然次のような慎重論が支配的である。
①幣派は中国から帯同した旧観念の甚しいものであるが,今これを廃止する時期では ない。何となれば,現在なお多くの同郷会(地縁的)が存在しているのであるから,
まつこれを廃除した後で舗派も廃除さるべきものである。
②蓄派体制を廃止してしまえば,小常の代表がなくなる恐れがある。
③ 当面暫らくは幕派制度を保留し,適当な時期に再び幣派の廃止問題を研究すべきで ある。
勿論,このようなうごきは,未だシンガポールにおいて明瞭に看取されるにとどまり,
広く東南アジア地域の需社会の現実的課題として提起されるまでには到っていない。それ は,インドネシア,ベトナム,フィリピン,マレーシア,タイ等の国々にあっては,ニュ アンスの差はあってもそれぞれの居留国政府との関係,華僑の権益と自衛のために,需が 依然存在意義を有するのと同時に,華僑社会自体が依然前近代的な残津(商人社会・商人 資本)と深く結合しているためである。とはいうものの,第2次世界大戦以後,社会の進 化,或いは教育の普及,経済状態の変化につれて,血縁関係,地縁関係が次第にうすれ,
出入商会(貿易商の商会)や華洋百貨公会(雑貨商の同業組合)に見られるように,一智 一業から,一帯二業というように一つの幕に属する人が数個の営業を行なう多様化が現れ ている。そのためとみに,商人的・非定着的傾向から生産→産業面へと移行する定着傾向 (注3)
が,益々顕著となりつつあるといわれる。
かかる動向と共に,高揚する経済ナショナリズムに支えられる民族資本と,欧米や日本 等の先進国資本および華僑資本という3者の中心にあって,幕の性格,役割,機能が当然
変貌を余由なくされつつあることも見落ことができない。だが,この極めて11P−to−date な問題へのアプローチは,現地でのField−workなしには不可能であり,今やその試みが 緊要とされる時期であると考える。
筆者自身さきに拙著『タイ軽済とMiddleman』においてタイ農産物流通経済を中心 に,仲間商人の実態分析を試みた。それは,タイ経済におけるMiddlemanが,中国系タ イ人(華僑)が主体を占めることから,華僑問題一般に解消してしまうことへの反省に立ち つつも同時にタイの市場流通問題は,華僑ないし華人系タイ人をぬきにして語ることもで きないという二面性ないし二重性への配慮から,まずMiddlemanという経済的側面から アプローチを試みたものである。
したがって,次には当然,華僑=東洋外国人の実態への視角,側面からの分析と研究が 後日補完されるべきものであった。幸い今回,須山博士の主導の下に「幣」集団の経済的 性格を現地学術調査を通じて明らかにする企画を推進することになった(筆者も分担研 (注4)
究参画)。この現地学術調査プランの,主なねらいは,大要次の3点である。
① わが国学会において,論理的な推定範囲での研究は可なり存在するが,最近の東南 アジア地=域における体系的研究を主眼におく箒別職業構成の動向と需派主義=価値観 変化との関連,相互規定的な史的関係を一段と分明ならしめる必要のあること。とり わけ,各面内部における指導者層の交替,僑生(二〜三世代の華僑)による蓄社会近 代化への指向と,それに対立する旧世代との対応関係,等の動きが最近急速に促進し ている実態を,選定調査対象地区ごとに経済基盤の構造変化の進展との関連において 明確にする。
② 辮派に依然として根源的に典型的な痕跡を留めているところの,前近代的な幣派主 義一上部構造を各帯(右記,潮気,広智,環幣,梅蕎,:哺幣,三江幣など)毎に探 ぐり,それが今日如何に変化され,変質化しつつあるかの実態を具体的たらしめ,以 て常の変貌過程を総合的に究明することにある。
そのため「帯派主義」の上部構造と,その下部構造の両側面から調査を行なうこと とし,前者では「意識調査」後者では「経済調査」を智別,職業別,地域別に行なう。
③ Field work計画として,下記の3調査国および7調査地区を選定対象とする。
(i)
(ii)
(iii)
シゾガポール(1国1調査地区)
マレーシア(3調査地区)
クアランプール,イポー,タイピンの3都市およびその周辺。
タイ(3調査地区)
バンコック,チェンマイ,ウドンターニイの3都市およびその周辺。
上記諸国の各地域の幣別主要職業を多面的に亘って具体的に調査し,幣派主義の 浸透度合いをインタビュー調査,アンケート調査(調査表は別途作成)によって行 なう。国別,地区別の調査ポイントは幕の勢力分布に対応させる。(附図参照)
東南アジア華僑経済研究の一視角
第2表 東南アジアにおける華僑郷誓の勢力分布(%)
143
タ
マ シ イ
フ
南 カ ビ
ラ
ン ガ ポ ー ン ド ネ シ イ リ ピ ベ ト ナ ン ポ ジ ノレ
イ ヤ
ノレ
ア ン ム ア 子
福 建 10 30 40 55 80 8 6 50
広 東 8 26
工8
15 20 41 15
客 家 潮 州
・・1
22
1
20 11 5
60 11 23 10
37 67
海 南 10
9。5
3 7
その他 2 5.5
18
50
(注)黄天一『華僑経済問題』1963,ゴヂックは高い集中を示す。
第3表1952年および1955年における出身別による指導集団とバンコック在住の 総華僑住民の出身県別による算定比較
出 身 県 別
1952年におけ;ユ952年におけ る135名の選
る185名の既 出指導者 力ある指導者 露
光 桜 潮 文 饒 掲 晋 台 硬 豊 同 新 大
そ の
十
割 駒
畜1
毒
油
脂
劃
瘤
計
数 28 23 14 12 9 8 9 4 6 3 2 2 3 1 11 135
% 21 17 10 9 7 6 7 3 4 2 1 1
2
1
8 99
1955年におけ る185名の勢 力ある指導者 数
36 28 20 18 18 9 10 5 9 3 2 2 5 1 19 185
% 19 15
・・1
10 10 5 5 3 5 2 1 1 3 1 10 101
数 31 26 23 19 18 14 7 6 8 3 4 4 2 3 17 185
% 17
!4
12
!0
10 8 4 3 4 2 2 2 1 2 9
※ バンコック在 住の華僑住民
…i
% 15 15 10 10 8 8 7 6 4 2 1.5 1.5 1 1 10 100 ※推定値
(注)スキンナーrタイにおける華僑社会』377頁より
すなわち,マレーシアは,広東幣と福建幕,タイは潮一幕,シンガポールは福建轄,潮 州幣のほかに,少数だが学界に大物を輩出している梅幣を調査対象に追加する。
なお,上表について若干のコメントを加えておく。幕を一般に「会館」と呼ぶが,一般 的には鞭派団体独自の利益の助長と保護を目的に結成される。タイでは大要次の通りであ
る。
7つの会館があり,中国人はすべて1ないしそれ以上の会館に属する資格をもつ。た
だし,客家人の団体のみ,会館ζいわず「総会」といい,会員資格を成文で規定してい る。その他の会館では地縁的であることが原則である。大会館は学校,病院あるいは診 療所,墓地などを自分で経営している。
帯出身者の相互扶助,親睦をはかるため設立された建物,内部に郷党の入々の共通の 守護神を泊る場合が多い。郷帯とは,同郷出身者の団体の意,また幣とは一般にグルー プとくに同一方言を話ず同郷のグル〜プが,外地で自己を守るために結成した相互扶助 団体をいう。第2表に示すごとく,東南アジアでは,福建,広東,潮州,客家,海南の
5大幕が有力である。このほか,同族,同姓の者で結成される智もある。
なお,会館とギルドgiuldsとは異る。この会員資格は,雇用者・被雇用者のいずれ を問わず,同一業種に関係するすべての者に開放され,その目的は徒弟の監督と競争者 の排除にある。業需=同業組合のことを,公会ないし公所ともいう。
注1) 「複合社会」については,J. S. Furnivai1 Netherlands India 1959, p.15,に初めて 規定された。
2) 『中国総覧,1973年版』所収「華僑問題」の項,564頁以下参照。毎日新聞社,アジア調査会 3)香港中文大学陳荊和「華僑の蓄問題」(中村孝志編『東南アジア華僑の社会』昭和47年ll月天 理教東南アジア研究室刊所収,16〜17頁)
4)代表須山卓,研究分担筆者『華僑社会における「帯派主義」の変貌過程に関する実証的研究 一タイ・マレーシア・シンガポールを中心として一』(「昭和50年度,文部省科学研究費 補助金一海外学術調査・現地調査一計画調書」3〜8頁より)。
現地の政情からインドネシアは割愛した。
2.華僑一帯形成の経済的背景をめぐる問題
一タイを中心として一
(1)問題の限定
華僑社会(幣)が,本質的に商人社会であり,その資本もまた前期的商人資本の性格と 範躊に属するという見解から,その解体の現局面への分析の必要性を前節でのべたが,つ
ぎには同じ視角から,その形成過程と経済的背景について,概観しておく。
そもそも華僑経済の支柱は,経済的範疇では商人資本である。i華僑の経済的地位は,商 人,手工業者(小生産者),労働者(苦力)の3つに大別されるが,その中心は商人に求 められる。華僑資本における生産資本は,むしろ広義の流通資本としての商人資本のネッ
ト・ワークに組み込まれており,その利潤の源泉は,生産過程に基礎をおくものではな く,むしろそれに寄生しつつ流通過程から利潤を抽出する「前期的性格」を本性としてい
る。
歴史的には,まず後進諸国の国家商業の担い手として現われ,つづいて原住民生活の商
東南アジア華僑経済研究の一視角 145
品・貨幣経済化の過程で商業・流通をとりあげ,彼等をして原始的農業=アジア的停滞農 村社会にとどまらしめた。つづいて19世紀中葉から侵入して来た西欧近代資本主義経済に 対応し,土着経済との仲間に介在し,土産品の集荷(out−put)と輸入品の販売(inpu.t)
という買弁的役割を果してきた。換言すればMiddlemanとしての地位と機能を一貫して 保持してきたのが,華僑経済であり,その資本の本性である。
かくして,華僑資本は専ら流通部門内部にとどまり,生産→産業資本へと転化せず,反 対に新らしい生産方法の創出を阻止する方向に作用したが,その中核に甜派の存在がある
のである。ここではタイにおける具体的史実を概観しつつ,上述した論理の歴史性を検証 する。その場合,19世紀を画期として,商品経済の展開を,それ以前と以後の2つの段階
にわけて考察するが,その論拠を記述しておこう。
まず,前近代社会の自然経済の内部において,商品経済→商品資本の形成と発展が徐々 に進行するが,それは領主=王家経済の商品化として現れる。そもそも,自然経済の解体 は,農業生産の一定の発展に支えられ,農業と手工業(加工業)との分離から始まる。生 産物の余剰は,経済外的強制の機構を通じて支配階級の手中に集められ,その交換という 形で,商品経済=貨幣経済が,王家・領主・貴族階級内部に浸透し,それに吸着する特権 商人階級の形成とその活動分野をつくり出す。そこでの取引は,主に奢修品で,取引は専 ら王家商業=特権商人の手で遠隔地間に行われた。奢修法への欲求が刺戟され,増大する につれて,支配階級は隷属民に対する収奪を強化し,その形態を直接の賦役(労働地代)
から現物納を通じて貨幣貢納へと変化させる。
かかる貨幣での貢納の強制は,被支配階級=貢納義務者である農民・手工業者の商人へ の依存をますます増大させる結果を生み,農民=庶民経済における商品化,貨幣化を押し すすめるようになる。かくして,商人の活動分野が,空間的に遠隔地間商業から地方(国 内)商業へと舞台を移し,王家=奢修品商業から,庶民=日用品商業へと商業の取引品目 も多様化し,やがて社会の全域におよび,国民経済的な広がりをもつようになる。
約言すれば,前近代「社会における商人が,初期には遠隔地貿易に従事する冒険商人=
旅商であったのが,やがて後には地方に定住する商人と交替し,この後者こそが封建的社 (注5)
会と密着して商業を担当する者となったのである。」そして西欧先進国においては前期的
「商業がなり立つ条件であり,基礎であったところの後進,未発達の諸国民の経済的発展 がすすむのと同じ度あいで崩壊した。」のであるが,東南アジアにおいては,今日なお,
依然としてかかる前近代的商業が東洋外国人の掌中で営なまれているのである。
かくして,華僑は原住民から「商業」をとりあげ,現住民をして原始的生産=アジア的 停滞農村社会にとどまらせることとなった。19世紀以降,東南アジア諸地域に侵入して来た 欧米帝国主義も,基本的なこの事態を変革することなく,むしろ「商人資本の独立的発展 (注6)
は,資本主義畢生産の発展に逆比例する」方向に作用したのである。
(2)King/s Chineseと王家商業
タイの近代化の画;期は,1850年越のボーリング条約に求めるのが一般であるが,それに さかのぼる前近代の考察はアユタヤ期(1350〜1767)ラタナコシン期(1767〜82)は一応 おき,バンコック期,別名チャタリー王朝(ユ782〜1850)の奴隷制度解体過程を中心にみ ることで足りるであろう。ほぼ通説として認められるごとく,タイ人が専ら農耕に従事し それ以外の活動は華僑が分担するという社会的分業の基盤は,前近代社会内部の独自の奴 隷制の解体過程に準備されたからである。即ち石井米雄氏は「タイの奴隷制に関する覚え
(注7)
書」で次のごとくいう。「身分制度の底辺に位置するプライとタートからなるタイ人の行 動の自由は極めて制限されていた。ところが外国人である華僑にはプライに課されていた 夫役義務も,住居束縛もなかった。人頭税は課せられたが,プライに比べると軽かった。
このような有利な条件をフルに生かして,その地位と活動分野を拡大していった」と。
「海水到るところに華僑にあり………」といわれるごとく,タイ族が現在地に陸路南下し た頃(A.D.1世紀),すでに中国人はタイ湾周辺で船を操って交易を行なっており,ア ユタヤ期の後期17世紀半ばに1万人面の華僑がタイに定住していたと伝えられる。当時,
一般農民は年貢米の生産者であり,その土地をはなれて移動する自由を与えられなかった がそれに対して移動する自由を有した華僑は,国王から船舶による輸送と,国内の流通機 構を委ねられ,商業地を順次掌中のものとしていった。
彼等は「忠誠な中国入」King s Chineseと呼ばれ,とくにタクシン王(王の父は潮州 の出身といわれる)の時代には,王自身王宮を華僑の貿易,商業の中心地区,バンコック のサンワートに移し,専ら彼等を国家=王家商業の特権商人として起用したのは有名であ る。タイの華僑社会が,潮鳥網を中核とする共同社会の形態をとるに到ったのは,この時 以降に属する。 (第2表参照)
プラヤタクシン王(1767〜 82)は,アユタヤ王朝がビルマに攻略されたとき,再統一した 明主だが父が華僑,母がタイ人という出自である。王はトンブリ王朝をたて華僑の積極的 移住受け入れ策をとり,とくに父の同郷人である潮州出身者を「チーン・ルアンダ」 (御 用華僑)と称して,数々の特権を与え優遇する政策をとった。こうして華僑の数は急増
し,この方針は次のチャタリー王朝に移っても踏襲されたため,19世紀半ばその数は30万人 にも達したといわれる。かくして支配階級内部には,中国人との血と文化の積極的交流が 進んだ。
つぎのチャタリー王朝(別名バンコック王朝,ラタナコーシン王朝とも呼ぶ)のうーマ 一世は,母方に中国人の血をうけていたこと,新王宮建設用地として華僑の富豪プラヤー (注8)
・ラチャセーティの屋敷跡をえらんだことから,その土地建物接収の代償として,サンペ ン地区を下賜し,その広大な土地を中心として,バンコック最古の中国人町サンペンが発 達した。ここは,現在でもi華僑の業務中心地で,主要な農産物取引の情報センターとなっ ている。
東南アジア華僑経済研究の一視角 147 なおここで,中国本土側の状況について概観しておこう。加藤繁教授の古典的著作によ (注9)
ればこうである。「9世紀末(唐代末)には,中国の商船はサラセン(アラビヤ)商人の 活躍に刺戟され,東南アジアはもとより,ペルシャ湾沿岸の諸港まで渡航した。当初は,
朝貢という形態の国家貿易であったのが,次第に商人の個人貿易に移行した。航海は,季 節風(モンスーン)を利用してなされたため,航行の時期に制限があり,また取引に一定 期間滞在する必要があるので,これらの諸港に自然住みつくものがでてきた。たまたま,
勃発した黄巣の乱(878年)をのがれた中国人が,これらの交易地へ亡命移住したのが華 ペルシヤ 僑発展の始期とされる。唐字面の商船はジャワ,スマトラ,セイロンを経て波如露に達
し,その船体は巨大堅牢であって,乗組員の数6〜7百人ないし1千人に及ぶものもあ り,帆の外簡単な推進機を用いるものさえ生じた。(中略,人員はやや過大。筆者注)
支那へ輸入されたものは,象遅,真珠,蕃布(木棉)等の外,前官,沈香,檀香等の香 料,董藏,畢出嫁その他の薬材で,香料心材は唐土に至って特に盛に支那に流入したので ある。支那からは,絹織物の外,銭並に陶器が輸出され」るという奢修品の遠隔地取引が 行われた。「元代になると,アジアの大部分から欧州の一部までを包容する大帝国が築か れ(中略),南方に於ける海上貿易は南画の後を承けて更に隆盛となり,彼より来るもの も益々多く,例えば杭州住民の20分の1が回教徒であった」ことは,国外における嵜形成 の基礎が執った事実に照応するものといえよう。
「さらに我より往くもの愈々多く,福建広東地方からジャワ・スマトラ・リンが等に移住 するものさえ少くなかったと言われる。元代においては,海陸の通商ともにその絶頂に達
したともいうべく,そうして海路のそれは,終始その盛況を維持したのであった。」と。
ここに,前述した「旅商であった」華僑商人が,貿易地に「定住」するようになる契機 と函芽を見出すことができよう。
もちろん,常を支える意識・観念構造として,元時代(ユ4世紀)に本国を追われた漢民 族が,「移住地に故郷の名をとって郡・県を僑塗した」(,『証書』食貨志による)事実,
流亡者共通の望郷の念と外圧に対する団結・自衛の必然性のあったことはいうまでもな
い。
下って,ラーマ3世時代(1824〜51年)には,税収の増加をねらって徴税請負制度が設 けられたが,それに選ばれたのはほとんど華僑であった。
中村孝志氏(天理大)も指摘されるごとく,華僑が前近代社会内部で資本蓄積を行った 方式のうち,もっとも一般的なものは,支配者に癒着し,特権を手に入れることであり,
とくに「徴税の請負人」になることが捷径であった。タイでは,貴族の末端に列され,サ クデナー(保有地)400ライの身分を与えられ,特権と私兵をもつものもあり,農民には 苛酷な収奪を行った。旧体制の基礎をゆるがした半農奴的農民の没落一身売りして奴隷
となる一ものが少なくなかったのも,この収奪の結果であるといわれる。
ともあれ,この時代に特権階級にのし上った華僑は,タイ人の有力な貴族層と結び,タ
イ人と通卜して多くの子女をもうけ,この混血児たちは,有能な官僚,商人,技術者とな った。かかる華僑上層部は,16世紀以降,ポルトガル,オランダ,イギリスの植民地形成 と同時に現地社会との買弁(コンプラドール)の機能を果す集団を形成する方向に進ん だ。したがって,華僑社会における「箒」も植民地主義下の東南アジア各地の実情とのから み合いの中で再編強化されて行くのである。一方欧米先進資本主義諸国による経済的従属 にくみ込まれ,第1次産品国への激化という半植民地的国際分業体制下に編入されるのと 対応し,チュラルコーン国王(ラーマ五世)は,「チャクリ改革」といわれる一連の近代化 政策を,上から積極的に推進する。そしてこの改革は外国商品の流入と商業的農業の展 開,更に農産物市場の拡大とともに,華商Middlemanの活動分野を拡張し,より大量の中 国人流入の条件を用意した点で重要である。
チャクリ改革の性格と内容はおよそ次のとおりであった。
ボーリング条約の国内政治的表現とされるもので,チャクリ王朝のラーマ五世を中心 として,1870年忌から1900年忌にかけて行なわれた一連の上からの近代化政策がその内容 である。
1885年 1892年 1892年 1899年 1905年
これらは,主としてヨーロッパ人を政府顧問とし,
された。だがその結果,
する先進資本主義諸国の半植民地的経済体制の中にくみ込まれ,停滞的農耕社会=モノカ ルチュアへ移行するにいたった。
他方一般タイ農民がプライ(農奴)とタート(奴隷)の身分的束縛から解放され,職業 選択の自由が与えられたときには,前述したとおり商業や流通経済のほとんどが,華僑と その後山によって掌握されていたのである。かくして,稲作農耕に従事するタイの民衆へ の貨幣経済の浸透は,専ら華僑の主導の下に推進・掌握され,国内市場の形成をみるので
ある。
チャクリ改革の経済的意義は,一連の前近代的諸制度の解体,除去により,外国商品のた めの国内市場の形成と,それに対応する農民的商品経済・商業的農業発展への道を拓いた ことにある。そして,商業の主導権は,次節でみるごとくKings Chinese(又はRoyal chinese)からChinese Middlemanの手に移行するに到るのである。
なおここで,「帯」の存在(主として制度ないし名辞)を確認する歴史的文献について,
若干附言しておこう。
最初の幕の存在は,17世紀末のベトナム会安港において「合作」 (福建会館・広東会 国内郵便電信事業の導入と組織化。
地方,中央の行政制度改革と徴税請負制度の廃止。
鉄道の開通。
盛塩制度の廃止と人頭税の公布。
奴隷解放,教育制度の改革。
ヨーロッパの近代諸制度の移植がな タイの政治的独立は維持されたが,経済的にはイギリスを中心と
東南アジア華僑経済研究の一視角 149 (注IO)
館)の名が記録に現われる疇矢という。
また,満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナの華僑』によると,パン制度は1814年に始 るという。京都大学藤原利一郎教授は,凡そ1826年以前に認の制度が存在したとされ,香 港中四大学部教授は,「大体1802年忌らユ807年の間に箒の制度がすでに施行された」とさ れる。さらに陳教授はマレイ・シンガポール地域において帯なる名称が一般化したのは,
辛亥革命(1911年)から第一次大戦の前後とされ。その契機となったのは,孫文や注精衛 が,シンガポールを本拠に民国革命思想を宣伝し,華僑に呼びかけたとき,華僑社会を初 めて分けて,福建箒,広二二,潮二二,客三三,環州(海南)箒,土生讐の6つに呼称し たからと云われる。陳教授に従えば,東南アジア地域で幣という名称が一般的に使われる ようになったのは,1910年代以降ということになる。華僑の歴史が1,000年をこえるのと 対照的に「都」の名称が極めて新らしくこの限りでは,河部教授の主張の論拠(後述参照)
を裏づけているともいえる。しかし前述したとおり華僑が本来,商人資本の系符に属 し,それと不可分な構成要素として蕎が形成されたものである以上,名称や制度上の有 無とは別に,その起源および経済的性格は,商業資本の史的展開に着目してみる必要があ るのではあるまいか。以上は,試論ないし仮説にとどまる。今後の研究課題としたい。
(3)農民的商品流通とChinese Middleman
上述したとおり特権的華僑階級の形成を支えてきたものは,国家,王家的商品流通に加 担したKing/s Chin.eseたちであり,前近代社会において,その基礎は礎立された。これ に反して,農民に接触し彼等に商品の売り込みと生産物の買占めを担当する「地方商人」
の形成は,19世紀後半から始まる農民的商品生産の展開に対応する新らしい活動分野の展 開をまたねばならぬ。即ち東洋外国人である華僑が東南アジア諸地域により深い結びつき をもつにいたる直接の契機は,19世紀西欧諸国の植民地経営に求められる。奪取した植民 地の開発,経営に多大の労働力を必要とした帝国主義列強は,苦力を南中国沿岸地帯の 各省(広東,福建,海南島など)に求めた。いわば本源的労働力の商品化である。
これに応じた貧農たちは,契約料を妻子に残し赤手空挙裸一貫で南洋諸植民地域に渡 り,二二(華僑労力者)となって各地で働いた。この流出のピークは,19世紀後半から今 世紀20年代〜30年代にかけて続いた。だがこれは「中…華民族の栄光の拡散」 (孫文)でな く,苛酷な労働と搾取との苦しみに満ちた,弾圧と同化の過程であった。と同時にこの過 程は,現地植民社会の中に,ファーニヴァルの指摘するごとき複合社会Prural Societyを 形成させる社会構成変化の大きな要因となったのである。
一方,中国清朝政府も,1860年10月イギリスとの間に「北京条約」を締結し,それまで 禁止していた海外移民を正式に認めると同時に,1868年ワシントンでアメリカと諸国との 間に結ばれた「パーリングゲーム条約」で一そう加速された。この条約は中国内部の過剰 人ロ圧力と同時に欧米諸国における奴隷制廃止に伴なう「苦力貿易」の必要性という背景
の下で行われた事実を見落すことはできない。かれらは植民地本国よりもむしろ東南アジ アの植民地経営とくにプランテーション労働者需要へ向けられたのである。
このような19世紀以降に顕在化する帝国主義諸国の進出とそれに対応する苦力労働力の 供給に,今日の「華僑問題」研究の始期をおくことを主張する見解は, 「問題史」的な視 角に立つ限り,正鵠な主張ということができる。その代表的主唱者である河部利夫教授 は,華僑を「第3民族社会」と規定される立場から,次のごとく主張される。
「華僑の時間的限定は19世紀以降にもとめなければならない。後に,孫文の辛亥革命 (1911年)のころからもてはやされ,現在にも及んでいる中国的見解に潜在するよう な,中華民族の栄光の拡散ではない。それ故,華僑の通時的研究をたとえば,漢の濡濡 の南海径路(紀元前12年)とか,あるいは明代初期の鄭和の海外遠征などの結果に由来 する海外移住にまで言い及ぶがごときは,中国民族の海外交渉史を華僑研究と混同する ものといえよう。」と。
(前出『中国総覧』567頁)
確かに,華僑問題への歴史的視座としての現代史的位置づけには,異論の余地はないと しても,中国海外移住への言及を「混同するもの」とされるのは,いささか言いすぎでは あるまいか。「華僑経済」ないし同経済史の研究に関しては,須山博士をはじめ本稿でも 試論的に「言い及」んでいるとおり,商人資本の範疇としてとらえる立場を放棄しない限 り,その初山としての王家商業を素通りないし無視して,今日の華僑経済は語りえないと 考えるのである。勿論,19世紀以降の華僑経済は既に各地に形成された蕎集団のネットワ ークとして組み入れそれを活用し,市場情報の入手,それにもとつくそれぞれの国の土産 品のうち商品化できるものの発見,開発と市場への投入を勢力的に行ってきた。同時に,
農民に資金を貸付け,生産を刺戟し,買付と販売を行う高利貸資本としての性格と役割を も強めてきた。
この推進に中心的役割を果したのは,タイにあっては華僑の精米業者たちであった。彼 等はほぼ1世紀前にタイ米の輸出をはじめた。以来今日まで,米の輸出貿易を支配し,し たがってタイ農産物の流通の中枢部分を支配してきた。というのは,タイ人口の8割は米 の生産に直接たずさわっているし,政府才入の約7割は米から出ているからである。華僑 商人Chinese Middlemanは,タイ農民のあらゆる経済関係における仲介者であり,商店 主,金貸業および低次加工業をかねている。
1962年の調査によると,大製米業者兼大手輸出業者として次の6人の名があげられてい
る。 (漢字名不詳)
Kong Heng Chan K:eng Seng Lee Tai Kee Chan Chew Thye H:ong
東南アジア華僑経済研究の一視角 151 Sek Hong
Lia貧g Hong Lee
彼等はいずれもバンコックを本拠とするが,それはタイ最大の貿易港クロントイ港を有 するからである。このほか,米の集散地である北部のチェンマイ,ゴムおよびスズの集散 地である南部のプーケット,海産物の輪出港シンゴラ(別名ソングラ)などにも,数多く 見出すことができる。近年,東北タイの開発が進み,鉄道が整備されるにつれて,ナコン (注ll)
サワン,ウドンターニイ等の諸地方都市が,彼等の新らしい活動の中心地となりつつある。
このよな相いつぐ,華僑の活動分野の開拓,拡大は,商品流通およびそれに直接結びつ く低次生産部門の大部分が,彼等の掌中に握られていったことを意味する。かくして,農 産物流通における華僑の支配網は,徹底的ともいえるほど整然とはりめぐらされるにいた (注12)
っているが,その実態は,筆者が既に明らかにしたところである。
そして,これは同時に甜集団の外延的拡大の過程と密接に関連している。このことにつ いてG。ウィリアム・スキンナーは,その著『タイ国における華僑社会』で次のごとくの べている。やや長いがこの方面の数少い実態分析に基づくものだけに紹介しよう。
「華僑人口の増大につれて,華僑社会の語派Speech group構成(箒集団の意,筆者 注)とその選良とに変化をもたらす出来事が数回にわたって起った。「語派」というの は,共通な言語を話す華僑人口の地縁的つながりをもつ小地区を意味する。最近年ま でこれらの語派は,言語の障壁のみならず,顕著な文化的差異や自民族中心主義の感 情によってもたがいに隔離し合っていた。5つの語派はすべて中国最南方の2つの省 Provinceの住民で,シャムへの移民のなかでもっとも重要なものである。これらのう ち,福建入(南福建から)がまず大挙して移住し,それよりもはるかに少数であるが,
広東人(広東中部から)が同期か,あるいはすこしおくれてやって来た。シャムにおけ る福建人の地位が潮州人(広東北東部から)の挑戦をうけるようになったのは,18世紀 になってからのことにすぎない。海南人(広東省の海南島から)が18世紀にシャムと貿 易を開始し,19世紀初頭には相当数の者が定住しはじめた。第5番目の語派である客家 人(広東北部および福建南部の奥地から)は,潮州の諸港を経由して移住したのである (注13)
が,かれらの大移入は,ようやくユ9世紀中ごろから始まった現象なのである。」
したがってこの時期の流入中国人は,出稼ぎ的性格が強く,本国送金を行い,タイ人お よび中国本土在住の家族に送金された。その金額は1890年から1941年までの約50年間に 12億5000万バーツに達したと推定されている。そのため20世紀に入ると華僑の経済活動を 制限しようとする試みが数次にわたり行われる。 (後述参照)
タイにあっては,裸一貫で移住した下層の華僑たちは,主としてバンコックその他の主 要都市に住み次第に職人(家内工業)から,小商人等の非農業部門へと領域を拡大してい
った。さらに,19世紀中葉以降の市場の拡大は,華僑の活動分野の開拓と結びつき,相つ ぐ中国人の流入に補充されつつ,商品流通経済の大部分が彼等の手中に掌握されて行く。
タイに流入した中国入はかくて戦前においてタイの商業を完全に掌握し,農産物の集 荷,卸小売,金融など商業(広義)のすべての面で,独占的地位を確保した。彼等の中に は,巨額の富を蓄積する者が少なくなかったが一貫して商業資本としての性格を維持し,
産業資本として機能することは,スズ鉱山など少数の例外を除いてみられなかった。だが 近年ターク,カムペンペッチ両県地方で多額の資金を投入し,処女地を開墾し耕地を造成
し農民に貸し与える地主経営が出始めている。
かくして,華僑の進出は,タイ全土にくまなく行きわたり,しかも一世より二〜三世(僑 生)にその比重が移行しつつあることが注目される。 (第4表)
第4表 1952年における135名の選出指導者の世代と都市,農村の背景※
背 景
都 中
農 総
市 間
村 計
事実上の
完全なる1世
2世と3世
数 15 16 29 60
% 25 27 48 100
数 11
26 6
43
% 26 60 14 ユ00
完 全 な
2世と3世
数 28 3
3
32
% 88 9 3 100
総 計
数 54 45 36 135
% 40 33 27 100
※系列相関の分割表。x2:有意水準O.01%(算式略)
出所:G.ウィリアム・スキンナー『タイ国における華僑社会』P.377 (4)タイ割問題の特質と現局面
商品経済の支配層における上からの展開=王家商業と,それにつづく下からの被支配層 内部への浸透=地方商業という2転化,2段階をへて,タイにおける商品経済全国市場を 形成していった。そして,それに対応して,華僑の活動分野と領域もまた,中央,首都バ
ンコックから地方都市,農村部へとネットワークを拡大し今日にいたったのである。
かくしてタイに流入した中国人口の形成した「帯」は,東南アジア諸国の複合社会にお (注14)
ける華僑社会とは共通する側面と相違する側面をもつにいたった。その要因は,華僑社会 内部の問題と,彼等が移住,定着したそれぞれの国の社会・経済・政治的諸環境条件とに よって規定されたものということができる。河部利夫教授は,おしなべて「第3民族社 会」という性格規定を行いつつも,かなりのニュアンスの差を指摘される。その見解は,
極めてユニークな,核心をついた主張であり,現在かなりの支持をえつつある。やや長い が紹介しよう。
華僑と現地民との接触融合によって一元化(Integrate)されてきている東南アジ アの各地の社会を第3民族社会と措定する。いうなれば華僑の現地定着化を単純に同 化(Assimilation)とするのみではすまされない。中国的伝統の強靱性に着目しなけれ ばならない。
:Nativeness(現地人性)とChineseness(華人性)との弁証法的合一という理解にこ
東南アジア華僑経済研究の一視角 153
そ,今日の東南アジア各国の特質がある。
華僑は,自らを現地民社会に融合せしめることによって,生活基盤のいっそうの確得 と展開を期することができる。現地民はまた,その国づくりのために華僑の人的能力,
経済力などの大きなエネルギーの利用が可能となる。(中略),華僑はもはや中国人と して「僑居する」のではなく,現地に深く定着し,これまでの華僑の定義そのものが矛 盾するような状態になっている。
しかし,両民族の混融のあり方には,いまだ地域ごとにそれぞれの社会の実状に対応 して,程度の相違,現実的な差異などがあることはいうまでもない。それでもなお一応 は類型化してみることも可能である。すなわち,
①タイ「高度の融合型」
華僑がタイ社会集団の成員となり,またタイ人が華僑社会集団に加わる。あるいは両 者がある第3の集団に属するようになる
②マレーシア「並在的複合型」
マレー人(41%),華僑(35%),インド人(9%),多人種並存の複合社会で,マ レー人と華僑との2二二抗的,二元的複合民族国家の様相を呈している。(360万人)
③フィリピン「混合型」
タイとマレーシアの中間的なタイプで,フィリピン人との混血(メスティーソ)を含 (注15)
めると60万人と推定される。現地民の中に混在して識別されぬ僑生が多い。」と。
さらに教授の見解をふえんすると,華僑への風当りと異和感の強いインドネシアの場合 は,「混在型」と呼んでよいであろう。ただし,この分類の基本視角には,人種=血の混 交と,文化の交流,同化度がおかれており,現地経済と華僑経済との対応の差違への配慮 が少いように思われる。前節の考察とのかかわりで言及すれば,それぞれの地域におけ
る,商品経済展開の過程 上からと下から一一に,いかに商人資本一華僑資本が対応し 参入,分担して来たかの,経済的背景と側面にメスを加える必要があると思われる。
ともあれかかるタイプの差を示すように,華僑社会(帯派)は,現在かなりのテンポで 多様化と変貌をとげつつあるといえる。例えば,智は一般に都市部に形成されて来たの が,北ボルネオ(現マレーシア・サバ)にあっては,農村型を呈していること。 (文末附 記参照)。或いは,華僑の本業は商業で,非農業(Non−agriculture)であると認められ ていたのに,タイにあっては,畑作経営にのり出す華僑農民が現れ始めていることなどで ある。ただ,タイ農民の作目が自給性の強い米作であるのに,華僑農民のそれは,茶・野 (注τ6)
菜・果樹その他の換金作であるという特徴が認められる。
即ち1ライ当り600バーツの土地代と開墾費を入れると,1ライ当り2000バーツ(日 本円で3000万円)を投じてサトウキビを自ら耕作する華商が輩出しはじめている。政府
もその奨励をしており,ここでは逆に農業労働者が増加している。一種のPlantation Farmingの成立とみることができよう。だが華僑資本の土着傾向一非流通部門への進出
は,とりわけ戦後に顕在化したものであり,戦前は錫鉱山経営のごとき少数の例外にとど まっていた。都市から農村へ,流通部門から生産部門へと活動分野を拡大し,多様化しつ つある華僑は,定着性の高まり一土着性向の上昇を示し,ひいては華僑(網)からの脱皮 を指向している。
その代表例をバンコック中i上総商会会頭の黄幽明(タイ名,Amphom Bulpakdi)にみ (注17)
ることができよう。彼は黄点明という中国名はあっても,名刺や公式文書にはアンポンと いうタイ名しか使わない。3人の息子は上の2人がタイ陸軍のそれぞれ少佐と中尉,3男 はこの国で最高の医科大学を卒業後,いまバンコック市内の国立病院に医師として勤めて いる。彼は,小さな精米業から身を起し,この国の流通,貿易をにぎる実力者に躍進,中 華総商会の会長になった。
彼に代表される中国系タイ人は,大きな銀行,製造業,貿易,流通業などあらゆる分野 で頂点に立っているが,必ずタイ名と中国名をもっており,一見タイ人になり切ってい
る。だが,それぞれ潮州,福建,客家,海南などの各会館に所属し,その総括として中華 総商会がある。この国では,インドネシア,マレーシアなどの他の東南アジア諸国よりも
はるかに同化が進んでいる。だがそれだけに,裏がえしていえば,タ4の華僑財界人は世 界各地の「華商水準」で計ると中以下の規模だといわれてきた。それはタイだけを舞台に タイ化,に重点をおいてきたからだと言う。(第3表参照)
とはいうものの,前述した華僑の中華総商会(潮影会館,台湾会館,広東会館などの 同郷会館,および同業者組合を傘下に擁する)はその後地元タイ,米国,英国,オラン ダ,西ドイツ,インド,日本(1954年設立,会員は1966年9月末現在ユ55社)などの商業会 議所が結成されるに伴い,それらの代表者から成る貿易評議会(Board of Trade)がタイ 政府外国経済省の諮問に応じる形態をとるにいたっている。
このような新たな局面は,当時箒の性格と役割の改変をせまることとなり,単なる親睦 団体化の傾向を強めている。しかしながら,シンガポールにみられるごとき,網の解消論 が提起されるまでにはいたつていない。
他方Middlemanとしての華僑の活動領域は,近年かなり厳しい制限が加えられつつ あることにも留意せねばならぬ。それは,東南アジア各国が,自国民の中小商工業への進 出の機会をつくるべく努めているからである。それぞれ「外国人職業制限令」を公布し,
華僑を締め出すため臭体的な職種を指定している。たとえばタイにあっては,1927年忌移 民法(外国人の入国制限,48年に改正強化,各国200名に制限)をはじめ,1937年の外国 人職業制限令(47年27制限職種)につづき,49年には,16種が追加され,さらに71年には その強化がなされた。
とりわけ,戦時下ピプン内閣による国粋主義運動のあおりをうけて,華僑は経済制限法 令による外国人として商権をうばわれ,民族資本の育成,各種の専売事業,国営会社が設 立された。しかし一時的効果は別として,結局華僑の力は戦前にもまして強大となってい
東南アジア華僑経済研究の一視角 155 る。これは,前述したとおりタイ国籍を取得した中国人たちは,外国人として認められず かえって各種の保護や特権を享受できるからにほかならない。さらに,1948年の華僑土地 取得禁止令(55年に制限を緩和)などによって民族経済確立のための政治的措置を講じ,
ようやく最近になって商業に携わるタイ人の数もふえ始めたといわれている。
因みに,『第3次5ケ年計画』(1972〜76年)には,「商業部門におけるタイ人就業率 の促進」として次のごとくうたわれている。
タイ人の商業部門における就業率を高めるためにタイ人商業従事者に地方レベルまで 信用供与の援助を拡大する。
又,タイ商人に信用面で援助をし,商取引に関する知識を会得させる。このためそれ ぞれの部門での輪出業者,小売業者の密接な協力のための同業者組合の設置を促進して ゆく。
このほか南ベトナムでは11業種(1956年),カンボジア18業種,ラオス12業種(1959年)
インドネシアの地方における外国人小売業禁止(1954年),米穀業国民化法(1960年),やビ ルマの一切の貿易の国有化法令,銀行業国民化法令(1963年)があげられる。
さらに外国人企業管理強化条令(インドネシア,1957年),労務者雇用制限令(フィリピ ン,1958年),同じく雇用制限令(マレーシア,1969年)などは,外国との合弁企業をむ かえながらも,現地民の就業機会を確保するための華僑労働者圧迫政策の現れとみること ができる。
華僑が締出された職業の主なものは次のとおりである。
米穀・雑貨などの小売等
織物・宝石・金銀細工・機械などの専門業
車夫・運転手などの運輸業 軸 洗濯・給仕・料理入などのサービス業
政府役人・教員
このような制限措置と前述した華僑自身の変貌とは,恐らく微妙なからみあいのもと に,様々の矛盾を露呈しているにちがいない。だが,その実態の究明は,今後のField workに待つほかないであろう。
注(5)茂木六郎「前資本主義商業とその理論」森下編『商業経済論体系』(昭和41年)文人書房,
68〜69頁。
(6> r資本論』第3巻,岩波書店,向坂訳407頁。
(7> 『東南アジア研究』第5巻第3号所収。
(8)前出,綾部『タイ族一その社会と文化』弘文堂(昭和46年)140〜244頁参照。
(9)加藤繁『支那経済史概説』弘文堂,初版(昭和19年3月)l14〜118頁。
⑩前出,中村編『東南アジア華僑の社会』vii〜viii頁。 ,