東南アジア華人の思想意識の変容 -華僑から華人へ
-著者
今冨 正巳
著者別名
IMATOMI Masami
雑誌名
アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻
25
ページ
1(154)-18(137)
発行年
1990
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00010134/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja東南アジア華人の思想意識の変容 27)方修「馬華新文学史稿・下巻
J
1971.8,再版, シンガポール世界書局, p.2500 28)向上, p.2550 29)向上, p.2530 30)方修「馬華新文学簡史J
1974,シンガポール万 里書局, p.150。
31)方修「戦後馬華文学史初稿J
(註21に既出)p. 380 32)リー・クン・チョイ「南洋華人J
1987. 1 (p 338) p. 147。
33)向上書, p.1960 18-(137)東南アジア華人の思想、意識の変容 の問題であろう。華文文学の果たすべき役割は 当分尽きることはない。 (この論文は文部省科研研究費重点領域研究 「東南アジア華人社会と東アジアの発展に関す る比較研究
J
く 課 題 番 号63605015>に関連する 作業として書いたものである。) 註 1)文芸副刊:中国語新聞の伝統的形式で,特定 の曜日ページの一部若しくは全部を当てて作 る文芸欄,外部の特定の人または社内の人が 編集する。 2)同郷会館:華人が出国し,船に乗り,現地に着 き,職場を定め,就労する等一連の行動は,実 際には全て同一方言の集団組織の支配に依存 するのが普通であった。方言集団は出身地別 の地縁集団で,00
会館と称した。それぞれの 集団の冠婚葬祭,互助救済,紛争調停等を行な う親睦,自治と自己防衛の組織であるO 宗親会館:同郷会館が地縁組織であるのに対 し,こちらは血縁組織で,同姓,近い同族の団 体で親睦,互助等の自治,自己防衛の組織であ る。 3)方修:1922年生まれ,本名呉之光, 1938南渡 移住,現在シンガポール公民,観止,任辛の筆 名がある,星掛旧報編集者,シンガポール大学 講師等を歴任馬華新文学大系はじめ編著書多 数ある。 4)呉天才:1937. 6,クアラルンプール生まれ, 南洋大学卒。英,華,マレ一語に精通し,マラ ヤ大学副教授, 中文系主任を歴任, 創作, 理 論,翻訳の各方面に著作多数。 5)方修著「馬華文学及其歴史輪郭J
(153 p) 1973 年, シンガポール万里企業公司, p.1 。 方修著「馬華新文学史稿・上巻J
(342 p) 1962, シンガポール,世界書局, p. 20 呉天才著「馬華文芸作品分類目録J
(354 p) 1975. 7,マラヤ大学中文系出版の序文から0 6)東洋大学アジア・アフリカ文化研究所研究年 報第24号, 1990. 3,楊松年「シンガポール・ マレーシアの華文文学作品に反映される華人 社会J
p. 207~ 2120 7)楊松年著:1981 (266 p),シンガポール南洋商 報社。 8)同上, p. 1 ~ 220 9)現地意識:中国本土よりも現地に対して愛着 と理解を持ち,現地住民としての意識を持っ て全てに対応する考え方と態度。それに対し 中国人意識を堅持する態度を僑民意識と言う。 10)方修「文学通俗化運動」屋洲日報, 1958. 6, 21~ 23連載。 11)今冨正巳「馬華文学在抗戦初期的一些問題」 1987. 4,韓国「中国現代文学J創刊号, p. 1510 12)今冨正巳「馬華文学史を通して観察される華 人の意識形態の変容J
1989. 3,東洋大学アジ ア・アフリカ文化研究所研究年報 23巻 p. 1980 13)今冨正巳「馬華文学の独自性をめぐる論争」 1988. 3,東洋大学アジア・アフリカ文化研究 所研究年報, 22号, p.1520 14) I馬来西:9E華文文学史料展記念特輯J
1983ス ランゴール中華大会堂発行,同展覧会開催の 時出された特刊, p.480 15)越戎・本名趨大成:1920シンガポール生ま れ,永年中正中学教師を勤めた1936年から創 作活動し,理論書,新馬華文文芸辞典等工具書 を含めて著書・作品極めて多数。 1989逝去。 16) I新馬華文文学大系2巻・導論J
1970. 12,シ ンガポール教育出版社, p.2 17)孟毅・本名黄孟文・ 1937. 7,マラヤ・ベラ州 生まれ,南洋大学卒,シンガポール作家協会会 長を歴任,創作,理論で著作多数。 18) I新馬華文文学大系4巻・導論J
1971. 1, p. 2。
19) I同上3巻・導論J
1970. 10, p. 2。 20)今冨正巳:東洋大学アジア・アフリカ文化研 究所,研究年報22号1988. 3, I馬華文学の独 自性をめぐる論争J
p. 138~ 1530 21)方修「戦後馬華文学史初稿J
(139 p) 1978. 2, シンガポール東芸印務公司, p. 29~ 380 22) I東洋大学創立100周年記念論文集第一巻」 1987.10の中の「太田・今富マレーシア,シン ガポールの華人社会の変貌J
p. 1250 23)向上, p.270 24)王潤華「シンガポール華文新詩の起源および 発展の方向」今冨正巳訳, 1986. 3,東洋大学 アジア・アフリカ文化研究所研究年報20号, p.92。
25) I馬華文芸作品分類目録J
(註5に既出)の序 文。 26) I馬華文学在抗戦初期的一些問題J(註11に既 出)。 17一(138)東南アジア華人の思想意識の変容 をとらえており,その対策として,儒家思想の 再認識や普及教育が提起されて十年たった。そ して最近は小学校では民族母語(華人にとって は華語)を第一言語,英語を第二言語として教 育し,中学校では英語を第一,母語を第二にす るようになった。その前は小学校から英語のみ という場合さえあり,そこでは華語の読み書き の出来ない華人が作られていた。実際シンガ ポールには英語の能力がそのまま人の価値とし て評価される様な奇怪な風潮が見られる。そこ には何か歪んだ価値意識が存在しているのでは ないかと言う疑問を感ぜしめるものがある。政 府は人民の徳性の向上が国家生存の必須条件で あると認め,華語文化による徳義,士気の振作 を期待し,華人は華語の会話と簡単な読み書き 程度は出来る様にすべく策案するに至った。そ こで本論の官頭に紹介したような,華文文学推 奨策が採られることになった。しかし,英語が 出来なくては, シンガポールでは絶対に社会的 上昇が不可能と言うことを知っている大衆に, 今の時点では華語教育に依存して,人の価値 観,倫理観,徳義観を何とかしようとしても, 果たしてどれだけの効果が得られるものか分か らなし、。シンガポールにはマレーシアと同じく 数十年に亙って華文文学の田閣を耕して来た 人々が居る。政府は政策上の要求から通俗化し た程度の高い人も低い人も共に楽しめる,ま た国家の意志を体現する様な華文文学の出現を 望んでいるが,それがうまく行くかどうかは分 らなし、。主として中国には,文学を政治に奉仕 させる道具と見倣す伝統があり,シンガポール の支配者がまた徹底した現実主義,実用主義哲 学の信奉者なので, この政策が採られたのはよ く理解できるが,文学は道具であるにしても, 同時に人々の飽くなき自己実現の声であると言 う面もあるO シンガポールの華語系華人は由来 政府に対して,たいへん従順であったが,政府 の華文文学政策が如何程成功するかは分からな い。筆者はシンガポールの知識青年と手紙のや りとりがあるが,彼らの漢字の獲得の程度から みて, もう華文とは断絶状態の境地に入ってお り,末長い将来は,一定水準の華語能力は確か に維持出来るだろうが,全体的には,益々英語 化し華語文化との縁は薄まって行くに違いない と確信するに至った。これこそ意識形態の変貌 であろう。 マレーシアの方は, シンガポールに比べて, 問題は直哉であるO マレーシアは複合社会では あるが,権力はマレ一人の利益を至上とするマ レ一人の政府にある。この国にはさまざまな人 種差別的な原則があり,華人は二級市民の地位 にある。特に近年実施されている,土着人優先 の経済政策たるブミプトラ政策の下では,華文 文化の前途に保証が無いのみならず,華人児童 を容れる小学校の存在すら必ずしも保証されて いない。華人にとって華人小学校が民族文化の 防衛の第一線なのだから,華人は常時危機感に 苛まれている。中学段階では華人は公式の制度 の外に立つ「独立中学」を作り,華文華語を教 え,且つ海外留学の路を確保している。万一華 語小学校がなくなれば,独立中学の生徒の来源 も途絶する。そうなれば, この国では,まった く華語を喪失した華人ばかりになり,華人全部 がパパになってしまう恐れがあるO この状況下 で,華人意識に燃える華人作家がどのような活 動をすべきかは論を待たない。ここにあるのは 抵抗の文学,被圧迫者の文学,少数派の戦闘的 文学であろう。 マレーシアの馬華文学は複合社会の中で抑 圧,差別されている華人,華人社会のアイデン ティティ確立,華人の尊厳回復,華人社会の利 益擁護,そしてその象徴たる華語の確保のため に活動することが求められている。また,曾て 抗日戦争の時,小紅が主張したような華入社会 の好ましくない一面を暴露し,教育改造するこ と,一言で言えば華人社会の向上と進歩を追求 するための活動も求められているO シンガポール華人もマレーシア華人も,今日 では中国本土との聞の心理的葛藤は基本的に清 算が完了しているので,今後の意識形態の面の 課題は,それぞれの国度の中で如何なる華人像 を形成し,合理的な環境と未来を入手すべきか - 16一(139)
東南アジア華人の思想意識の変容 変容に就いて補足的に検討する。
1
9
4
8
年から1
9
5
3
年迄は, イギリスとマラヤ の当局がマラヤ共産党(馬共)武力討伐作戦を 成功させるために,1
緊急法令」が施行された緊 急事態の時期である。馬共は中国共産党の地下 指導を受け1
9
2
8
年に結成された南洋共産党が1
9
3
0
年にマラヤ共産党と改名したものである。 第二次大戦中はマラヤの山地森林にゲリラ基地 を設け,英軍の特殊部隊に協力したものであ る。戦後の混乱時代馬共は都市部の政治闘争に 参加し,撹乱運動も進めたが,他の政党やイギ リス当局とも決裂し,1
9
4
8
年5
月から武装闘争 に入った。当局はそれに対して緊急事態を宣言 した。討伐作戦は全土にわたる大規模なもの で,山地森林周辺の華人は強制移住の命令で有 刺鉄線で因われた「新村」に収容された。緊急 事態は一種の戒厳状態であるから,集会,言論, 行動諸般にわたって厳しい制限を受け,勿論文 学創作の自由も制限され,華語の書籍は僅かに 香港から低俗読み物が輸入されるだけであっ た。低俗文学のことを中国語では黄色文学と言 う。緊急事態下の華人大衆の生活の実態に就い ては,緊急法令解除後の馬華文学の中で描写さ れて居て,興味深いものがある。馬共の抵抗は1
9
5
5
年迄続いたが,1
9
5
3
年にはその衰退が決 定的となり,緊急法令は解除された32)。なお, 馬共がタイ南部の山地でタイ・マレーシア軍警 当局に最終的に帰順したのは1
9
8
9
年のことで ある。 馬共の構成員は華人が絶対多数であったた め,英馬軍・マラヤ当局と馬共の対立の構図は 大衆の感情にはマレ一人一般対華人一般の対立 抗争の図式に置き換えられ,そのことが後々長 く華人に不利を鷲らした。しかし華人のこのよ うな「不利の共有」や「屈辱の共有J
もマラヤ ならではの特殊の現象であるO それが現地の華 人社会のアイデンティティ認識に役立つ一面が ある。 緊急事態が終わり,新聞・文学創作の自由が 回復すると,馬華文学作家はそれまでこの地域 に蔓延して居た華文の黄色文学に対する反動と して反黄運動が勃興した。これは,単なる文学 の範鴎に止まるものではなく,緊急事態の下で 欝屈して居た華人が,反黄に名を借りて自己を 主張し,権利を主張し,尊厳を取り戻し,アイ デンティティを確認しようとする運動に他なら ない。これまで緩々述べた華人社会の思想意識 の問題として眺めるならば, これは現地華人の 「自己確認運動」に他ならず,反黄運動も華人共 通の独自意識の形成推進を刺激したのであるO 故に,緊急事態も反黄運動も共に華人のアイデ ンティティ感覚を強めたのである。前シンガ ポール駐日大使リー・クン・チョイは「南洋華 人J
1
9
8
7
,サイマル出版会のP
.1
9
6
で1
5
0
年末 (ロンドンから)シンガポールに戻った時には 私はマレ一人意識を持っていた。……この間に 知らず知らず中国志向の華人から,マレーに心 を寄せるマレ一人に変わった。i
3)と書いてい る。 7. おわりに 本論は華人社会の思想,意識,感情の変容を 明らかにすることを目的として,マラヤ地域に 起った華文文学運動を材料にして検討を進めて 来たが,シンガポールとマレーシアは1
9
6
5
年 に分離し,すでに2
5
年を経ているので,両国の 異なる事情に鑑がみ,華人もそれぞれ違った問 題を抱え,或は違った理念・意識を持つように なった。 シンガポールの支配階級は英語教育を受け, 英語文化的教養を持ち,ある者は欧米留学の経 験を有するが,華語文化,東洋文化にはどちら かと言えば理解度の低い華人,すなわち英語系 華人と少数のインド人マレ一人である。華語の 最高学府たる南洋大学が強制廃止されてからも う十年以上になるO 憲法では一つの国語と四つ の公用語が定められてはいるが,実態は成功裡 に 英 語 国 家 の 建 設 に 湛 進 し て い る 。 華 人 の100%
が英語化する日が何時来るのかなどはと ても分からないが,現在でも華人が価値観,倫 理観の面で無国籍化し,それが人民の士気に悪 影響を及ぼすのではないかと言う不安は支配層- 1
5
-(14
0
)
東南アジア華人の思想意識の変容 直ぐさま内戦が始まったので,帰ることが出来 ず,暫時帰国を延期して本国の様子待ちをして いる人達であるO この人達は,中国で教育を受 け,本国の知識人に対しでも劣等感はなく,現 地にはたまたま臨時に来ただけのことであると 思って居り,中国の伝統文化を身につけている という自信に満ち,現地の華人はもとより,現 地派の作家を見下す者も中には居る。本土から 来ている僑民派の人達の,生活手段としての職 業は教師,記者,編集者を始め知的労働者が多 く , このことが結果的には現地生まれの作家を はじめ知識人達の職場を侵していることも, こ こで考慮にいれて置くべきであろう。もともと 本土の人間であるから,現地社会への馴染みは そんなに深くはないし, この土地を自己の故郷 と信ずる必要などは全くなし、。本国を離れて南 渡した事情は無論人によって違うけれど,反国 民党か,親共産党の傾向が出国の原因になった 人も居ない訳ではない。この様な二派の概観を 基にすれば,両派の対立抗争に就いて理解がし 易い。現地派は相手側を臨時居住のよそ者,僑 民と認め,その文学作品は現地華人の生活と心 を描かず,目は本土に向かい,専ら中国の革命 しか描かないのだから,それは僑民文学だと非 難した。そして,ついには彼らをマラヤに居な がら中国の解放を待ちわびる者,中国からの避 難者,逃亡者,
I
逃難作家」に過ぎないと決めつ けた31)。僑民派は,現地派の文学的な力量は之 しく, もしも僑民派が創作を止めれば, この土 地には読むに耐える作品はなくなって,一片の 荒廃が残るだけであろう, くやしいと思うのな ら良い作品を書けばよいと切り返した。現地派 はそれに答えて,一片の荒廃でもよい,我々は ゼロから自らの文芸の田園を耕そうと応酬し た。 上記の背景を理解すれば,両派が些細なこと から,論戦に入ったことも領けるであろう。こ の論戦は,本筋を逸脱して,文学以外の感情的 要素まで混入したけれど,両派対立の構図その ものは,本質的な意味を持っていたと言わざる をえない。すなわち,戦後の世界政治の激変の 中に翻弄される華人社会の離心的傾向と求心的 傾向の相克である。この争いに於いて現地派が 多分にむきになっているのに対して,本土派 (僑民派)がこれを榔撤する態度が見られる。反 発する者と軽蔑する者の関係であるO 現地派は 本土派の思想を「大国民思想」と言って非難し た。この論争は現地に愛着を持つ人達が,I
倣慢 な中国作家」と「弱い立場の現地作家」の対立 の現実に直面し,現地華人社会の脱中国,自立 化,現地土着化の意志を誇示したものである。 この時,現地派が本土派を攻撃するのに用い たキーワードが「僑民性J
I
僑民作家J
I
僑民文 学J
I
逃難作家J
I
大国民思想、J
I
ショービニズ ム」等であったことからも, この対立論争の深 刻な本質が分かる。 この論争が香港に伝えられた時,郭沫若は一 度軽率に,現地派を支持する文章を書いたが, 共産党方面の注意を受けて,態度を訂正したと 言う挿話もある。 本土派と現地派の論争は,求心運動と離心 (遠心)運動の矛盾が表面化したものであるが, それはまた,華人社会が歴史・時間の大きな流 れの中で,自己を環境に適応させるために,自 己改造の苦渋のさ中にあることを示すものであ る。言葉を換えれば,華人社会は今,伝統と近 代化の相克という,普遍性を持った課題に取り 組んでいるのである。華僑から華人への転化と 言っても,転化の境界線は単純ではなく,明快 に論断し難い微妙な部分もある。ただ,言語や 文学の領域においては, この問題はかなり具体 的に説明出来ることである。そして僑民文学論 争を観察すると, この段階で意識の変化は基本 的に完了し,その次の段階で華人は新しい意識 を持って他の民族人種と共に,現地の独立運動 に参加した。華人に意識の変革がなくては,現 地の独立運動参加などはあり得ないことであ る。 本論は 1948年の僑民文学論争迄の検討にお いて,華人の思想意識の変容についての解明は 一段落を告げたことにして,以下において,そ の後に続く緊急法令時代に触れて,思想、意識の - 14 -(141)東南アジア華人の思想意識の変容 の時代に就いては,く馬華文学在抗戦初期的ー 些問題>今冨正巳・「中国現代文学」韓国ソウ ル・
1
9
8
7
・4
p.1
4
5
~1
5
4
26)または同題「東 洋大学 AA文化研究所・研究年報 21号J
・1
9
8
7
・3
p.1
8
3
~1
8
8
に詳論している様に,抗 日戦争が始まった時,マラヤ現地では本土志向 派が主導権を握り,本土の国民と全く変わらぬ 精神で,戦争支援運動を進めた。その時馬華文 学運動の上で一つの論争が起こった。 抗日戦争の当初,馬華文学界で最初に出され たスローガンはく南洋抗戦文芸〉であった。次 いでく南洋戦時文芸>も打ち出された。戦争の 二年目に,現地出身の作家小紅はく南洋戦時文 芸>は言葉の遊戯の嫌いがある,寧ろく華僑救 亡文学>の方がよいと主張したことからスロー ガンをめぐる論争が起こった。小紅は「中国は 実際に戦争をしているのだから,く戦時文学> でよい。然、し,マラヤには戦争状態が無いだけ でなく,政治的,地理的にも,また人心の状況 の面でも,すべて中国とは異なっているO 第二 に南洋に敵は侵入していない,第三に南洋華人 は平和な暮らしをしている。第四に南洋の政治 行政は「他人」の手によって行なわれて居り, 華人の行動の自由には制約があるので,く戦時 文学>を打ち出せば逆に障害が生ずる。く戦時 文学〉の考え方は不必要なことであって,本当 に必要なのはく華人救亡文学>である。その創 作の原則は 1.マラヤ華人啓蒙運動の任務を果 たすこと。消極面では封建主義に反対し,帯派 主義思想に反対し,積極面では識字運動を進 め,華人の知識水準を高めること。 2. 協同し て救亡運動をすすめる。 3.侵略に反対し,世 界的な安全保証を求める運動をする。 4. すべ ての被侵略国の団結を促し,救亡運動の発展を 計る。く華僑救亡文学>の主張にはく南洋戦時 文学>の様な敵陣突破を描く痛快さも,難民の 悲憤も無いかもしれないが, このスローガンに は地域への適応性があり,はっきりした任務が ある。これこそ南洋文学の現実主義である。J27) と述べているO ここには,華僑から華人に転化 した者の思想感情が痛切に吐露されている。 小紅の所説に対しては,当然ながら猛烈な反 論が出された。く馬華新文学史稿>の筆者方修 も , この論戦の経緯を述べつつ,反論側を支持 しているお)。反論者の主張は,小紅の説は眼前 の太平に気をとられて, この時代の苦しみを忘 れている。そうであればこそ,く戦時文学>に よって抗戦の意志を強固にしなければならな い, というものであった29)。だが,現実に於い ては,この地域の抗日戦争支援運動は多いに伸 張した。この論争は,その後ある副刊の編集者 の調停によって収束した。論争そのものは,反 論者側の勝利に終わり,現地の華人は,本土国 民と一体化して抗日運動に参加した。華人社会 は,本土の難民救済の寄付金を集め,公債購入, 花売り運動,遊芸による募金,日本製品不買運 動等を進めたが,馬華文学文芸界はこの運動の 宣伝教育,講演会,演劇,唱歌会,ポスター製 作等等の面で能力を発揮した30)。この状況下で は馬華文壇はもとより,華人社会全般に於いて 中国人としての意識自覚,僑民思想が強く発揚 されるのは当然であるO この時,馬華文学の独 自性とか現地意識の高揚などの発想は全く現実 に適応出来ず,影を潜めた。楊松年が現地意識 が挫折した時代と呼ぶのはこの事態を指す。次 いで日本軍政の3年8ヵ月の空白を経て,マラ ヤは戦後に入る。 (6)1
9
4
5
~1
9
4
8
年馬華文学の独自性主張の 時代 この時期の小題の付け方は各研究者によって それぞれ違うことは,既に述べた。この時代の 特徴は,現地意識の高まりがあった事と僑民文 学をめぐる論争があった事である。この時期マ ラヤ,特にシンガポールには大きく分けて二派 の文学思想、上の集団があった。一つは現地生ま れか現地育ちの人達で, この土地には十分な馴 染みがあり,現地に永住するのを当り前と思っ て居り,現地の複数の民族や言語集団と共存す ることに対しでもあまり抵抗を感じない人々で ある。もう一つは,大陸本土の戦乱を避け,或 は何らかの不可抗的な事情でこの土地に移って 来た人達で,抗日戦争は終わったが,本国では ~1
3
一(14
2
)
東南アジア華人の思想、意識の変容 と言う新しい文学活動が生まれた。呉天才は, その発生の原因は,単に中国の影響だけではな く,現地の華人が,自己の心情と願望を表すた めの新しい文学形式を待望していたと述べてい る。同氏はまた馬華文学は中国新文学に源を発 しているが,
i
本質的な違いがある」とも指摘し た25)。呉天才の所説の中には既に馬華文学の独 自性主張の萌芽が認められる。方修や呉天才は 馬華文学の性格に就いて多くを語っているが, 要約すれば,馬華文学には中国新文学の支流と しての性格と,それとは異なる,現地住民の立 場と心で書く,一種の現地文学としての性格 の,二重の性格があると言うことになる。中国 人としての身分,現地住民の身分, この二つを 兼ね具えている,即ち二重性格があると言う点 は,華人は早くから自覚していた。華人社会の 意識形態の変容の歴史は,内包するこの二つの 性質の競合の歴史であり,後者が徐々に優位を 占めて行く過程である。 しかし, 1919 - 1924 年のこの段階は,まだ本土志向性が支配的で, 本土の文学を輸入し,学習する段階であった。 (3) 1925 - 1933年南洋思想・現地志向意識 の自覚が芽生え,i
南洋色彩(南洋ローカル カラー )Jが提起された時代 楊松年の所説の様に, ここで初めて「南洋的 色彩」のスローガンが出された。華人は自分の 住む南洋を客観的な目で批判する様になった。 馬華文学活動家は,こんな社会は改造しなけれ ばならないと主張した。このような主張は,所 詮この土地に対する愛情があるからである。単 なる通過者や傍観者にとっては, こんなことは 関心外であり,話題にもならないだろう。南洋 ローカルカラーを訴える人の心の奥には, この 土地に対する深い関心や愛情があり,現地の現 実を反映する作品を書いた。彼らは南洋華人の 欠点は,華人がこの土地を故郷と考えない点に あるとする反省をした。またこの土地が複合社 会であることを認識し,北米社会と対比させな がら華人社会を論ずるに至った。即ち自己を客 観視するのみならず,問題考察に当たって普遍 的な原理を適用するようになったのは,大きな 前進であると共に,中華中心主義の古い枠から ぬけ出す趨勢をも示している。 南洋華人は,腰掛け的な僑民思想の有害性を 認識し始めたが, この時勢を広く認識させ,現 地意識を鼓吹する役割を馬華文学活動家が担っ た。 (4) 1934 - 1936年現地意識が成長した時代 馬華文学活動家は, これまで成長して来た馬 華文学に就いての認識をこれまでよりも大幅に 明確化させ,中国本土はじめ外部と自己の社会 の違いをはっきりと自覚し,外に向かつて自己 主張した。馬華文学と中国文学の関係に就いて も一つの議論が起こった。馬華文学の源流が中 国にあることから,中国の影響を受ける事を批 判する動きが現われた。此の事自体現地華人の 中国観の大きな変化の前兆とも言える程の事で あるが,そんなに過度に「批判」する必要は無 いとする,さらに刺激的な次の意見が出た: 「マラヤの文学も世界文学の一環であるから, 外部の影響を受けるのは当然であり,中国文学 もその様な外部地域の一つに過ぎない。」中国 を並みの外国のーっとして扱う態度は,例えそ れが建前の上での論理にせよ,驚くべき変化と 言うべきである。この主張の根底には,馬華文 学を中国文学と対等の地位に置き,馬華文学の 独自性を自明とする考え方がある。如上の一連 の主張や考え方の出現は,中国本土からの離心 運動の明らかな表徴であると共に,現地華人の 自立性の表現であるO また,各研究者が馬華文 学運動史の時代区分をする時につける小題は, 研究者各人の見解を象徴的に盛り込んだものに 他ならず,同じ時期に対して色々と異なった解 釈があるのは,一つの事物の多面性を物語って いるわけである。それらの中で楊松年の区分法 は馬華文学の独自性,南洋ローカルカラーの濃 淡強弱を基準にしているので,重要な参考にな る。 (5) 1937 - 1942年 現 地 意 識 が 挫 折 し た 時 代 この小題は楊松年のものを借りた。これは中 国本土が抗日戦争に入っていた時期であるO こ - 12一(143)東南アジア華人の思想、意識の変容 民文学派との違いを強調する為に作られた言葉 であるが,現在,シンガポール・マレーシア華 文文学の発展を主張する人々は,自己の正統性 を鮮明にする為に,潜在的に凌佐の「馬華民族」 の観点を継承しているO 然、し,現実にはシンガ ポールの華語系華人は英語系華人によって正統 性を尊重されるどころか,一段下に視られて居 り,英語に精通しない限り,社会的上昇は難し い状況に置かれている。さらに言えば,今日シ ンガポールでは,人間の能力や価値を英語能力 の水準によってだけ定めるような風潮があ る23)。マレーシア華人とは別の意味ではある が, ここにも二級市民の存在がある。シンガ ポールのこの状態に問題があることは,自明の ことである。英語化が進行し,華語を喪失し, 歴史を失った華人が思想意識の上で無国籍化 し,社会を維持するのに必須の一定の倫理観, 価値観が希薄になってくると,英語系支配者も 前途に不安を抱かざるを得ず,現状を黙認出来 なくなる。そこで,冒頭に紹介した様な王鼎昌 副首相の一連の発言も意味を持って来るのであ るO 王副首相が究極的には華人の倫理観の再興 を求めていることは,容易に理解し得るところ である。思想的に無国籍化し,価値観,倫理観 が暖昧になった者を華語では不倫不類と言って 軽蔑し,否定し去る。 マレーシアでは華人が「二級市民」の屈辱を 克服するために,華語をアイデンティティの象 徴とし,華語の文章,文学,言論報道を以て, 多数派と戦うための手段にしているが,シンガ ポールではそれよりも遥かに複雑微妙,隠微な 原因理由の為に華文文学の出番が求められてい るのである。これまでシンガポール華文文学は 単純に華語系華人の利益擁護の為に存在した し,それだけであればそれなりに明快な説明も 出来る。然し,今日のシンガポール華文文学は その為にだけに存在するのではない,多数派で ある英語系支配者も亦それが必要だと言い出し ているO しかも,英語系支配者はシンガポール の英語中心主義を決して捨てようとはしなし、。 だから「程度の高い人にも低い人にも読める」 「誰にとっても面白い
J
I
通俗的な文体」が必要 となる。ここに言う「程度の高低」には読者の 文化教養程度だけではなく華語閲書能力の問題 もあるに違いない。王副主相の発言は,現在シ ンガポールの英語系支配者が,深刻な問題意識 に直面していることを窺わせる。シンガポール の華語文学者や言論活動者は強大な権力を持つ 支配者の政策を支持しながら,一方,当面この 情勢に乗じて自己の陣営の強化に務め,華語お よびそれによって書かれた文学作品の地位を高 め,本来政府の政策に拘りなく数十年来堅持し て来たシンガポール華文文学そのものの発展向 上の為に努力するであろう。然し,I
程度の高い 人も低い人も読めるJ
I
通俗化文体J
の如き,政 府がそう望みかっ規定する大枠による製肘はあ まり好まれないであろう。文学の現実主義,文 学の効用主義は中国文学の伝統ではある。然 し,極度に実用主義,効用主義,経済効率至上 の傾向の強いシンガポールで,華文文学と政府 が果たして何処まで二人三脚を続けて走れるも のか,些かの疑念なしとしない。 だからこそ, 華文文学の消長はこの国を理解する上での重要 な関鍵たるを失わないのである。 6. 総括的鳥撒と補筆 若干の史料を加えて,五四運動から戦後に至 るまでの馬華文学と華人社会の思想意識の変容 の状況を総括整理する。 (1) 1919年以前旧文学の時代 この段階,新馬華人はすべて華僑と呼ばれ, 基本的に僑民意識を持つO たとえ半永住者で あっても,華僑意識を持っていた。馬華文学と 称すべき文学活動は無く,文学作品はすべて中 国からの旅行者,外交官等の作で,出版も本国 で行なわれた。内容は花鳥風月か,異国情緒を 楽しむ紀行文の類いが主であり,散文よりも旧 体詩が多い24)。 (2) 1919~ 1924年僑民意識が日郎、時代 中国の五回運動の影響を受け,本国の反帝, 反封建の愛国,民主思想と口語文学の主張にな らって,マラヤ現地にも馬華文学(馬華新文学) 11 -(144)東南アジア華人の思想、意識の変容 て形式の面では「通俗化の路を進み,程度の高 い人も低い人も共に楽しもう」となり,内容の 面では「国家の精神を反映する文学が必要だか ら,新華文学はより大きな征途に挑戦しよう」 と言うことになる。冒頭のところで,王副首相 の発言を 10項目に整理したが,その中の, 1 独自性あるシンガポール文学, 2.華人社会と 新華文学のつながり, 3.新聞別刊, 4.同郷 団体などに対する肯定的評価, 6.国家の言語 政策と新華文学の関係, 8. シンガポール国家 精神と新華文学, 9.民族の心の記録の保存, 10.母語の問題等等,全てが新華文学固有の独 自性や存在理由に関することを述べている。こ れらの項目の持つ社会的意義は,マレーシアに おける華文文学の理念と大局的にはかなりの共 通点がある。 複合社会国家における多数派と少数派の別 は,必ずしもそれぞれの人口の大小にのみょっ で決まるものではなく,何れの集団が権力,支 配権を握っているかによって決まる。シンガ ポールの場合,なるほど華人人口は全人口の 76%, 180万人に達するが, シンガポールの支 配層の中心は英語教育出身の華人,海峡植民地 に代々住み,華語を失ったパパと呼ばれる累代 華人子孫家庭の出身者および一部のインド人, マレ一人である。そこで,大多数の華語教育出 身の華人は実質的に被支配集団,即ち少数派に 属することになる。シンガポールの華語系華人 は確かに数は多いが,彼らは政治的には少数派 であり,被害者意識にとらわれた集団であり, そのアイデンティティの象徴は華語である。 従って,華語で書かれた新華文学は華語系華人 の存在証明のための手段・喉舌であり,自己の 尊厳回復と,自己の価値観主張の為の重要な手 段であり,華語系華人のアイデンティティの最 重要の象徴である。華語系華人の社会では,英 語系華人とは違った価値観が展開される。太田 勇の華語系華人と英語系華人の墓石に刻まれた 碑文の違いを調べた報告22)によれば,同じ華人 でも,キリスト教徒の死者は華人墓地に埋葬さ れない。また,一般華人の墓には本土の祖籍・ 出身地名が刻まれて居るのに対して,キリスト 教徒の場合は,それが半分以下に減っているO さらに,使用する文字は,一般華人が殆ど全て 漢字であるのに対して,キリスト教徒は漢字の みに限られるのは,その全数の三分の一程度に 減り,英語やローマ字が反対に増えている。一 般華人は,同郷会館が独自に作った墓地(義山) またはそれらの統合された墓地に埋葬される が,キリスト教徒用の墓地は人種・言語集団 (出身別グループ)にとらわれなし、。これが同郷 観念の違いとなって現われ,墓石の碑文の違い となることを指摘している。一般華人の墓は, 祖先の本籍を意識して建立され,その中に連帯 感を顕示するが,キリスト教徒はその意識が相 対的に薄弱である事が,一生を終えた記念碑た る墓石の上に端的に表われている。英語系華人 の全てがキリスト教徒とは限らず,華語系華人 の全てが非キリスト教徒とも限らないが,墓碑 に現われた現象が一つの傾向を示して居ること は否定出来ない。これは,華人の意識の変容の 表現と言える。 このような状況の下で,被害者意識を持つ華 語系華人が独自の思想意識を持とうとするのは 当然の成り行きである。また,現実の政治面で 責任を持つ立場にあると信じている英語系華人 が自分らこそシンガポールの全華人の未来の運 命を担うものとしての自負心を持ち,華語系華 人を見下すのも当然の成り行きである。 我々の聞き取り調査の印象では,全ての華人 が英語化し,思想、意識つまり考え方や生き方ま で非中国化する日が来るのかどうかは分からな い。非中国化にはさまざまな現象が含まれるだ ろうが,華人の伝統的価値観,倫理感,歴史共 有感,華語の喪失,祖先の出身地との完全な絶 縁等の問題に限っても,今後百年 2~3 世代ぐ らいでは,非中固化の実現は困難と思われる。 それ故,現在シンガポール華人に華語系と英語 系が厳存する状況は暫らく続くものと考えられ る。 第四章にある凌佐の言う「馬華民族」は,現 地生まれ,現地育ちの者が大陸本土色の濃い僑 10 -一(145)
東南アジア華人の思想意識の変容 独自性に就いての主張には,僑民文学,僑民性 への反発が一つの重点として認められる他,マ ラヤ人民としての立場,人民性,民族性の観点 があり,
I
馬華民族」なる用語さえも出現するに 至ったのは十分に注目すべきであろう。なお, 「人民性」には階級性のニュアンスがあること も留意すべきである。 凌佐は多民族の風俗習慣を摺合し,言語的に も豊富さを加えた新しい文学を創造し,未来の マラヤ国家の中に,素晴らしい馬華文学を作る ことを理想として描いた。その理想図絵の中で は,新国家は各民族が平等であり,相対的に高 い文化を持つ華人は,諸民族の中でも「主要」 の地位を占めるべきだと考えていた。しかしな がら,その後現実に成立した新しい国家の実際 の姿は,凌佐ら馬華文学活動家の期待したもの とは大変にかけ離れたものになってしまった。 期待された理想像と現実の結果を対比すれば, 凌佐らは「裏切られた」とはっきり言った方が よい。たとえば今日のマレーシアで華人,華人 文化が如何に差別されているか,それが如何に 制度化されているか,重要なものを挙げてみ るO マレーシアの場合,今日次のような国家原則 がある: 1.国語はマレ一語とするO2
.
立憲君主制度であるO 3.イスラム教を国教とする。 4. 非神権の世俗国家である。 5.政治は民主主義,経済は自由主義である。 また,次ぎのような国家文化の概念がある: 1.国家文化は当地原住民の文化を核心とす る。2
.
それ以外の文化に就いては,その優れた 部分を国家文化の一部分として採用する。 3. イスラム教が国家文化の重要部分を構成 する。 これら諸項目は「敏感問題」に属するものと して,発言討議することすら許されていない。 さらにまた,文学の分野に於いても次の様な 差別が規定されている: 1.マレ一人がマレ一語で書いたものを「国 家文学」と言う。2
.
非マレ一人(華人,インド人,英人など) がマレ一語で書いたものを「マレーシア文 学」と言う。 3. 華人,インド人,英人のマレーシア公民 が自己の母語で書いたものを「移民文学」 と言う。 現在,マレーシアの馬華文学者はこの差別的 格付けを廃止させようとして,懸命の努力中で ある。 ここに挙げた3種類の原則が物語るマレーシ アの現実が,凌佐らの描いた未来図絵とは全く かけ離れたものであることは説明するまでもな い。華人文化は,傍流文化と規定されて居り, もっと端的に言えば,華人は2級市民と規定さ れたのに等し L、。凌佐らが 1947・
48年頃胸の 中に考えた馬華文学の独自性,馬華文学を存立 させるマラヤ国家の政治的,社会的,文化的形 象(イメージ)は,甚だ甘い,幻想に満ちた, 主観的な願望であった嫌いがある。凌佐の述べ た馬華文学の5原則の中の 3. 4. 5項は今日 では提起すること自体が敏感問題として危険視 されるだろう。 今日,マレーシアの馬華文学活動者の運動の 重点は,失われた華人の権利,尊厳を回復し, 自己のアイデンティティの確立を求める華人社 会の運動の前衛として機能することに置かれて 居り,曾て凌佐らが主張した理想の追求とは異 なる性格の運動に転化しているO なお,今日の マレーシアに所謂現代派等,香港,台湾の の作家と何ら変わらぬ文学的趣昧曙好を持つ 人々が居ることは否定しないが, ここでは割愛 する。 5. シンガポールの華文文学(新華文学) シンガポールの場合,官頭に挙げた王鼎昌副 首相の発言に見られるような,I
シンガポール 華文文学を作ろう。」と言う呼び掛けがあるが, シンガポールの言語教育の型肘の下で,新華文 学の前途は余り明るくはない。その打開策とし ~ 9一(146)東南アジア華人の思想意識の変容 故ならば,皆が文芸は何に対して奉仕すべきか を認識した場合にのみ読者を明確に指導でき, 有効に光と熱を発することができ,着実に歴史 が作家に与えた崇高な使命を達成することが出 来るからである。J18)趨戒はまた次の様に述べ ている,
I
馬華文芸と僑民の論争のおかげで,馬 華文芸の進むべき道がはっきりした。これは馬 華文芸界が政治の先頭に立っていることの現わ れであるO 疑いもなく,馬華文芸はこの目標に 向かつて発展を磨げたのである。J19) これらの 論述は,独自性を自覚した馬華文学と僑民文学 の聞の論争で代表されるこの時期が,馬華文学 が大陸文学とたもとを分かつて,我が道を進む 事になった転換期である事,さらに文学に限ら ず,華人社会の思想・政治が中国のくびきから 脱し,独自の方向に転じた事,馬華文学が中国 文学の亜流・支流であることを否定し,自己の 「遠心的傾向」を上昇させた状況を示している。 実際, この時期馬華社会は現地の独立運動に逼 進した。これは,華人の中国本土からの自立運 動であり,華人はそれを前提にして,現地の独 立運動に参加した。その状況は前シンガポール 駐日大使リー・クン・チョイの著「南洋華人」 1987. 3東京サイマル出版会に活写されている。 1946年から 1955年に至る聞がマラヤ華人の現 地意識,独自意識,土着意識,離心性,目立性 が顕在化し,成長し,定着した時期である。勿 論,長い歴史を持ち,自己の文化に絶対的な誇 りを抱く中国人が安易に現地化,土着化するだ ろうかと言う疑問はあるであろう。これには確 かに甚だ微妙難解な側面があるけれど,一個の 種族集団のアイデンティティといっても,政治 的,経済的,文化的,血統的,歴史的(歴史的 記憶の共有),宗教的等等のアイデンティティ が異なる程度で複合して形成されるのであるか ら,現地化はやはり一定の程度で有り得るので あるO4
.
馬華文学の独自性とマレーシアの現実 馬華文学の独自性を主張する現地生まれ現地 育ちの作家側は,僑民文学派との論争を通じて 自覚を深め,理論武装を強化した20)。 この論争は,最初は小さなきっかけから起っ たもので,大きな問題になるとは誰も予想しな かったと言われる。 1947年,シンガポールで或 る文芸座談会が開かれた時, 1 馬華文学をや る青年は中国から来た友人に学ぶべきである。2
.
中国から来た友人は,現地の社会の現実に 留意し,土地の作家と協力するようにし,また 彼らが現地の問題に心を配るように人々が援助 することを希望する。以上2
項目のありふれた 意見が出されたことからこの大論争が起こっ た。論争には芸術論と思想内容の面があるが, 特に後者で問題が起こりやすい。また, 2 に も論争を招く要素が潜んでおり,たちまち独自 派と僑民派の対立論争を惹起した。 方修はく戦後馬華文学史初稿>に於いて,次 の様に紹介しているoI
凌佐はく長屋>副刊に 書いた文章で[馬華文芸活動家は,人民の立場 と現時,点の民族民主運動を結び、っけなければな らない]と述べた。また同紙は馬華文芸の独自 性の最も重要な意義は,馬華民族(マラヤ地区 の華人)がマラヤ社会を構成する主要民族であ るという既存の事実の上に立つことにあり,馬 華文芸には積極的に発展する前途と独自の性格 がある。馬華文芸の作家はマラヤ人民としての 立場を出発点とし,活動の場では,マラヤ民族 独立の仕事を第一にせざるを得なし、。中国に対 する義務は依然として負うべきであるが,それ は二番目の地位に置かざるを得ないとした上 で,馬華文芸の独自性として,少なくとも次の 幾つかの特徴を具えているとした。 1.中国文芸の焼きなおしであってはならな2
.
ましてや僑民文芸であってはならない。 3. マラヤ文芸の主要な成分である。 4. 人民性と民族性を重んずる。 5. この土地の社会生活(風俗習慣を含む) の特色を融合浸透させ,言語は必然的に豊 富になり,形式も必然的に多彩になる。}l) 方修は凌佐の主張にはかなりの代表性がある として紹介したのであるが,上記の馬華文学の - 8 -(147)東南アジア華人の思想、意識の変容 方向問題に若干の混乱をもたらした。J13) ここ に言う中国の題材とは単なる中国の風物ではな くて,中国革命を意味し,彼らが中国共産党を 支持していたことを意味する。方修の記述には 二つの柱がある。先ず, 馬華文壇には, 中国 人・華僑としてではなく,現地住民を構成する 一分子として, この土地の独立運動に参加する ことを当然、とする空気があった。これは文壇に 限らず,華人社会一般の動向であった。次に革 命運動をやっている中国共産党の側に於いて も,南洋華人社会の支援と革命参加を求めてい た。当時は中国革命が短期間のうちに共産党の 勝利に終わるなどとは誰も予想出来なかったの であり,中共があらゆる方面に対して物心両面 の支援を求める事は,逼迫した要請であった。 「華僑は革命の母」の伝統があり,敵対する国民 党も華人からの支援に期待を持っていた。現地 の独立運動に参加することと,中国共産党を支 援することは華人にとってどのような意味があ るのか,簡単な表にして示すと次ぎの様にな るO 両者の矛盾を解決するのは,難しいことで, 現実の利益を確保しようと願うならば,現地独 立重視派の主張に傾かざるをえない。それで, 方修氏が述べた様に僑民派の存在が「馬華文学 活動の方向問題に若干の混乱をもたらした」の である。この時の混乱や論争を通じて,馬華文 学は自己の進路方向について自覚を持ち始める ことになる。 五四運動を契機にして,その影響の下で,中 国文学運動に触発されて発展して来た馬華文学 が,明らかに中国新文学とは異なる道に入るの は戦後のこの時期からであると見ることが出来 るO く馬来西亜華文文学史料展覧記念特輯>は 「この時代に収穫が大きかったのは詩歌であり, 文芸批評活動の主な成果は[馬華文学の独自 性]についての指導的理論を確立したことであ るJ14) と指摘しているO また,趨戒15)は次ぎの ように述べた。「中国の政権が変わったので宣 伝的な書籍の輸入が禁止された。そのため,僑 民文芸の意識は徐々に捨てられ,馬華文芸の精 神は隆盛に向かった。これは,馬華文芸史上の 転換点である。……文芸界は最初,空虚,寂莫 を感じた。なぜならば,沢山の作家が大陸に帰 り,その上,書籍の輸入もなくなり,参考にし たり,吸収したりすることも出来なくなったか らであるO 然し,文芸は所詮社会的産物である から,後継者も現われて,文壇に生色が生ずる に至った。これらの後継者の大多数はこの土地 に生まれ育ったか,あるいは小さい時からこの 土地に育ったもので,彼らの生活における思想、 と感情は既にマラヤ化していた。J16)孟毅(黄孟 文)17)も次ぎの様に述べた。「この土地の作家は この論争後,普遍的に次ぎの様な思想意識を持i つに至った。即ち,馬華文芸はもうこれ以上中 国文芸の支流や附庸であってはならず,真実の 馬華文芸でなければならなL、。馬華文芸は何千 里も離れた彼方の中国の事を描くべきではな く , [この時,この土地]を描くべきである。彼 らは,中国文学の指導にのみ従うのではなく, 自己の独自性を持つべきであると考えた。この 思想意識の転換は極めて重要なことである。何 現地独立運動重視 中国革命支援 愛情の対象 現地 中国大陸 運動の性質 多民族共同の独立運動 漢民族中心の階級革命 思想感情 中国人である事を強調しない 民族の解放を強く意識する 運動の理解者は誰か 現地派のみがよく理解する 僑民派がより良く理解する 将来への見通し 末長く現地に居住し現地の公民 何時かは必ず中国に帰る 権を目指す 中国新文学運動との関係 思想上の継承性には問題がある 全くない 7 -(148)
東南アジア華人の思想意識の変容 動に対応する」のほかに三番目の目的が唱えら れていたことを明らかにし,資料に基づき当時 の論調を次ぎのように紹介している,
1
南洋文 化の低下は事実であり,南洋華僑の封建性も事 実である。これらの事実は抗戦にとって有害な ので,我々はマラヤ華人の新啓蒙運動を唱えな ければならなし、。然し,馬華新啓蒙運動はどん な領域でやるべきだろうか?我々は当面の通俗 文学運動こそ最も良い手段だと考えた。我々は 通俗文学の提唱を一つの方策として,それに よって華僑新啓蒙運動の達成を計りたい。J
10) 即ち,中国本土の抗戦文学に並行させた現地の 文学運動に於いても華人社会の改造運動が一つ の地位を占めた事実は,正に華人の現地意識を 強烈に反映したものに他ならないと言うことに もなる。見方を変えれば,現地意識との並行が なければ,他の運動も巧くやれないような状況 を見出すことが出来ると主張しているのであ る。 楊松年は,中国の抗日戦争を主軸にした抗戦 文学が現地で展開された後でさえ,一部には中 国問題と新馬文学の問題を結び、つけることに賛 成しない作家が居たと述べている11)。この現地 派作家たちは南洋現地と本土中国人の生活は違 う,だから,マラヤ現地で中国と同じ抗戦文学 や戦時文学のスローガンを出すことには問題が あると主張したが, これは他の多くの作家の反 論と非難を蒙った。楊松年はこの状況を捉らえ て,永年に亙って培われて来た現地意識がここ で挫折したと評価している。非難された側の作 家小紅たちは抗戦運動や抗戦文学を否定したの ではなく,中国の抗日戦争に対しては,南洋華 人としての独自の対応のし方が有るべきだと主 張したのであった。世の常として,斯かる場合 強硬論が優勢を占めたまでだとも言えようが, 華人社会の思想意識を理解する上で, この時代 の二つの立場の論争は重視に価する12)。抗日戦 争時代,抗日絶対の時代にも,現地意識の側か らの自己主張は消えなかったのである。同じ抗 日戦争への支援のやり方に就いて,全く本土の 人と同じ立場でやろうと言う一派と,現地華人 は独自の条件の下で独自の形でやろうと言う一 派の違いは求心的,遠心的の違いの現われであ るO これらの経緯に就いては今冨正巳「馬華文 学在抗戦初期的ー些問題J
1987. 4韓国「中国 現代文学」創刊号;今冨正巳「同題J
1987. 3 東洋大学アジア・アフリカ文化研究所研究年報 第21号 1987. 3において詳述している。 3. 戦後に勃興した馬華文学独自意識 第二次大戦後の馬華文学活動に就いては二つ の大きな特徴がある。その一つは現地意識の空 前の高まりである。これは三年八ヵ月にわたる 日本の軍政を経て,華人の現地に対する愛着が これまで以上に自覚されたことや,東南アジア 各地の民族独立運動の刺激を受けたことに起因 する。もう一つの特徴は,戦時中に南洋に来て いた中国文人が,中国の内戦のためすぐには帰 国出来ず在留を続け,僑民的な立場,大陸志向 の精神で所謂僑民文学と非難される作品を書い たことである。そこで現地意識を以て僑民文学 を否定し,馬華文学の独自性を主張する側と, 僑民文学の聞に激しい論争が起こった。この論 争は1947- 1948年に最高潮に達したが, これ は結果的に馬華文学の定義,任務,将来の展望 についての反省と総括をするのに役立った。こ の論争の発生について,方修は次のように述べ ている,1
1
.
この時代,現地の独立運動が燃え 上がり,現地の作家に対してこの現実を描き出 す様にとの要求が日々に強くなっていた。2
.
また,中国の革命運動もマラヤの華人社会(文 芸作家を含む)に対して強い応援を求めてい た。異なった二つの要求が同時に突き付けられ たとき,そこから生ずる矛盾をどのように解決 するかが,馬華文学理論界の一つの任務となっ た。 3.抗日戦争時代から戦後にかけて,東南 アジアの各地に居た中国作家が, この時代さま ざまな理由から, シンガポーノレ・マレーシア土也 区に集中して多数滞在していたが,彼らは中国 の事物を題材にして沢山の作品を書き,そして 中華ショービニズムの作風を振りまいた。それ が現地文壇の僑民意識を強め,馬華文学活動の 6 -(149)東南アジア華人の思想意識の変容 に入って来たが,新興文学のスローガンはその 影響の下に提起されたのであり,この思想は特 にプロレタリア大衆の生活を描写することを求 めた。この主張と南洋的色彩の提唱の下で, こ の土地の現実を強調することには,何らかの共 通性がある。そこで新興文芸論者も,作家は現 地の現実に日を向けよと言いだした。」楊氏は 要点をつかんで, この時代の特徴をこのように 説明した。この内容を整理すれば次ぎのように なる。 (1) はじめ,馬華文学は本土志向の僑民文学 が優勢であったが,少数ながら現地志向派 も存在した。 (2) 1925年からは現地志向的な傾向が顕在 化するが,それは南洋華人社会に対する批 判から始まった。これは南洋的色彩の自覚 を招いた。 (3 ) 華人文化の確立を妨げるのは僑民意識で あるO ( 4) 南洋は北米と同様に自己の文化を生み出 す事が出来ると言う見かたもある。 (5) 中国の現実主義理論がフ。ロレタリアート 描写を主とする南洋新興文学を誕生せし め,それがまた現地志向主義を生み出し た。 以上の流れは所謂現地意識9)の生成のし方を 巧まずして語っているO 現地の華人社会が存在 する限り,土着志向を持つ勢力が何時かは生成 すべきものであり,而もそれはあらゆる契機を 利用して発展する性質がある。 次ぎに来る 1934- 1936年の段階に就いて, 楊松年はこの時代になって, これまで暖昧だっ た南洋の観念がはっきりしたものになり,マラ ヤ文学,地方作家,マラヤ地方作家など, これ までなかった述語や概念が定着したと次ぎのよ うに述べている。「マラヤの地方文学を主張す る人々は,マラヤの華人作家の中に華僑意識を 清算しきれず,移民観念を持ち,中国国内の文 学運動の指導を盲目的に受け入れる者が居るこ とを嘆いた。しかし,一般論として,マラヤの 文学も世界文学の一環で,外の影響を受けるの はもとよりのことだから,中国の文学理論の輸 入を過度に批判する必要はないという意見が現 われた。そこで結論としては,中国や世界諸国 の新興文学の理論は紹介も検討もしてよかろ う,然、しマラヤの地方的特殊性を全く抹殺する なら,それは間違いだと言うことになった。」 このように,マラヤの華文文学者は徐々に南 洋的色彩や独自性・独特性を自覚し,外に向 かつてそれを強調し,馬華文学はマラヤの地方 性を持った文学であると規定し,明確な概念の 確立に向かつて一歩前進させた。この根底に は,華人社会の意識形態の変容があるのは言う までもない。すなわち,華人は中国から来た移 民として出発したのは事実だが,現地での衣食 住行の生活実践を重ねる裡に過去の中国人には なかった,現地住民としての意識や,生活態度 が身につき始めたのであり, これらがマラヤの 地方文学を支えたのである。楊松年は, この時 代にそれがはっきりと現われたと述べたのであ る。 楊松年は次ぎに 1937- 1942年を現地意識が 挫折した時代として捉えている。この時代は日 中戦争の時代であり,中国本土の事態は新馬 (シンガポール・マレーシア)の華人の気持に 深刻な影響を与えた。また,戦乱を逃れて多く の中国文人が本土からこの土地に移って来て, その言論と思想、は新馬文壇に影響を与えた。そ の影響を受けた結果,それまで急速に高まって 来ていた現地への帰属意識・土着意識が抑圧さ れ,それに反し僑民意識が顕著優勢になり,新 馬の華人も中国人民の一部分であることが強調 された。 1937年には「抗戦文芸」のスローガン が現われたが, この考え方は中国本土の抗戦文 学活動の進め方と類似し,中国と同じく大衆語 の問題,文芸の通俗化問題,文芸通信運動など がテーマとして取り上げられた。これらには, 多分に本国追随の性格が窺われるが,唯それだ けでもなし、。方修は 1958年 6月21日から 3日 間に亙り星洲日報にこの時の文学通俗化運動に 就いての研究論文を発表したが,氏はこの運動 は「中国の抗戦運動に対応する
J
I
現地の救亡運 5 -(150)東南アジア華人の思想、意識の変容 まざまな方法に見られる各種の観点の違いは, 馬華文学の多面的な性格を反映したものと言え るからである。諸家の時代区分のし万について は,筆者は東洋大学アジア・アフリカ文化研究 所研究年報第23号「馬華文学史を通して観察 されるの華人社会の意識形態の変容
J
,第2
0
号 「マレーシア華文文学の高潮と低潮J
,第 17号 「マレーシア華人の言語と華文文学の調査報告」 等で種々の検討を加えた。時代区分は区分する 人の価値観の違いによって,同じ時期が興隆期 になったり衰退期になったりかるもので,馬華 文学運動史の時代区分においてはさまざまな観 点がある。本論は華人社会の思想、や感情の変貌 に焦点をあてているので,馬華文学運動史を華 人の現地化,土着化の進展の度合い,南洋ロー カルカラーの濃淡を以て時代区分の基準にした 楊松年の説を取り上げて検討する。 楊松年は馬華文学史を次の様に区分した: 1919-1924 僑民思想、濃厚時代 1925-1926 南洋思想萌芽時代 1927-1933 南洋色彩提唱時代 1934-1936 マラヤの地方性提起の時代 1937-1942 現地郷土意識挫折の時代 1946-1949 馬華文学の独自性主張の時代 1949- 中国共産党政権の成立に因り, シンガポール・マレーシアと中 国大陸の関係断絶し,これより 新馬華文文学は自己の進むべき 路を模索しつつ発展した。 1955-1959 現地を対象とする愛国主義文学 が生まれ, この土地の人民のア イデンティティが強まる。 独立以降はシンガポールでは, この国の国民の立場に立ったシ ンガポール文芸の形成が始まっ 1965-fこ。 僑民思想一一中国人の立場に立つ文学活動上 の姿勢,本国志向的で現地意 識・現地自尊の意識の弱い思 想。現地に骨を埋める気でいる 人は,この種の人をこの土地を 心底から愛する気の無い一時的 な滞在者として心情的に隔りを 置いた。 楊松年には別の所で次ぎの様な区分した.6) 1919-1942 戦前 1945-1965 戦後からシンガポール独立まで 1965 -楊松年は現地への帰属意識の成長の過程とそ の度合い,南洋的な色彩の濃淡度の増減の有 様,馬華文学の独自性確立の程度などを基準に して区分しているO 言い換えれば,中国本土を 中心にした求心力と遠心力の程度の変化を観察 しているO この観点は,華人社会の意識形態の 変容状態を解明するのに適しているO く新馬華文文学論集>7)の中のく本地意識与 新馬華文文学 1949年以前新馬華文文学分 期趨議>
8
)
1
こ於いて, 楊松年は次ぎのように述 べている。 i1919- 1924年の段階の少数の作品 は現地の現実を反映したが,大多数は中国に関 する事を反映したものか,或いは中国作家の作 品の転載であり,一部の副刊の類も濃厚な僑民 意識が充満していた。 1925- 1926年の段階で は,南洋現地に対する関心が顕著になり始め た。関心は南洋社会(華人社会を指す)に対す る批判精神から始まった。すなわち,静止,沈 論,停滞,麻庫,半身不随の南洋社会を批判し, この社会を改造すべきであるとの立場から,文 学活動家たちは「南洋的な色彩」のスローガン を提唱するに至った。 1927- 1933年の段階に は上記の状況を承けて,南洋色彩の作品,南洋 社会の知識分子や婦人の問題を反映した多数の 作品が発表された。ある作家は南洋華人の長い 歴史と経済力の背景を強調し,それ故に,華人 は独自の学術や文化を産み出すべきだと主張し た。南洋華人社会の文化がとかく貧弱である原 因は,華人が南洋を一時的な仮の住まいと見倣 し , この土地を自分の故郷とは考えない点にあ るとした。また別のある人は,南洋は北アメリ カと同じように,自身の文化を産み出すことが 出来ると主張した。2
0
年代の末期には,中国の 現実主義文芸理論がシンガポール・マラヤ地区、 、
BF ノ 唱 ' ' A ロ U l / f E ¥ A せ東南アジア華人の思想意識の変容 (9) 文学によって,民族の心の記憶を子孫に 向けて残さなければならない。 (10) 自己の母語による文学を支持すること は,人々の義務である。 この国の歴史や背景事情を知らなくても, こ の十項目だけで,新華文学に期待される意義, 華人社会との関係は大体分かる筈である。英語 化社会に移行すべく進んで居るシンガポールの 副首相が,華語の再重視,再評価を公然、と語り, 而も華語文学の政治的,社会的意義を認めたの は始めてであるO シンガポール大学の楊松年高 級講師が