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東南アジアの都市と華僑(上)一”

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(1)

東南アジアの都市と華僑(上)

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1.東南アジア都市研究の意義と視角  (1}東南アジア都市問題研究の意義

 (2)東南アジア都市分析の視座一都市の3類型について一 2.マレーシアの都市と社会経済構造

 (1)複合社会と三重経済構造

 (2)三重構造の都市と入ロ分布への投影

3.旧植民都市のケース・スタディー華僑定在の諸形態一  (1)旧ポルトガル植民都市マラッカ

 (2)旧オランダ植民都市ジャカルタ  (3)旧イギリス植民都市ジョージタウン  (4)新生都市国家シンガポールの都市計画        く以上本号,以下次号>

4.タイの都市と社会経済構造

 (1)タイ経済とコンプラドール・システム  (2)都市と人口の分布

5.伝統都市と華僑都市のケース・スタディ 6.結 論

  1.東南アジア都市研究の意義と視角

(1) 東南アジア都市問題研究の意義

       注(1)

 かつて本『年報』で緒論的に考察したごとく,発展途上国における都市問題研究の緊要 性は,それが極めてドラスチックに進展しつつある局面ばかりでなく,その発生原因の一 つに,ライスマンが指摘するとおり,旧植民地宗王国が「自己の利益を飽くことなく追求          注②

したことの遺産である」ことへの,厳しい自省と道義的責任を痛感することから必然化さ れる。そして,われわれもその道義的義務を果さなければならぬ国民の一人なのである。

 さらに発展途上国の都市問題は,「いま始まったばかり」であるにも拘らず,rl世紀 半前に西欧で起ったことに驚くほど類似している」のであり,先進国が自らの経験と科学 を生かし,援助の手を差しのべるべき責務と課題でもあるのである。

 さらに,わが国の都市問題とのかかわり合いについて言うならば,宮本憲一氏が正当に

(2)

        1

指摘されるごとく,「日本の都市問題の特殊性は,現代先進資本主義に共通して認められ        注(3)

る新しい問題と」 「産業革命期の古いものがかさなりあっている」のであり,ミユルダル       注(4)

一ルがいう「初発」の比較の意味からも,東南アジアの都市問題にメスを加えることは,

とりもなおさず,わが国の都市問題の特殊性を解明する有力な手掛りを,提供してくれる にちがいないからでもある。

 日本的な都市問題の特殊性は,何よりもまず,都市と農村=近代資本主義的なものと前 近代的「半封建的」なものとの対応関係の特殊性としてとらえることが一般である。

 即ち,日本資本主義は,前資本主義的性格を揚棄しえぬ零細耕作農民層を基盤とし,そ の窮乏を補充するため家族の一員が賃労働者化し,都市に「出稼ぎ」するが一たん不況に 見まわれると,彼等は失業ないし一時帰休によって農村へ還流し半失業,潜在失業として 滞留する。かかる労働者は,戦前全労働者数の3分2ないし半数を占め,好・不況によっ        注(5)

て都市(工場地帯)と農村を往復した。

 これは,資本主義への典型的な発達とされるイギリスにおける農民の賃労働者化が,農 村から都市への挙家離村=脱農という完全な土地からの解放として進展したのと対比すれ ば,その特殊性は明らかであろう。イギリスにあっては,好況に伴う一そうの農民層の分 解→賃金労働者化はあっても,不況に伴う農村への還流は起りえなかったのである。換言 すれば,イギリスにあっては,総体としての賃労働者階級は,都市における資本制社会関 係の内部で再生産され,わが国にみられる如き,半封建的農村を再生産の契機としてもつ         注(6)

必要はなかったのだ。これはあたかも,広大な前期的農村の中に省塗する東南アジアの大 都市が内包するメカニズムに酷似している。それは日本資本主義一封建論争ともかかわる この問題への,新たな接近の糸口を与えてくれるかも知れない。本稿で東南アジアの都市 問題をとりあげた基本的意味とねらいはここにある。

 更に,華僑を中心視座とし,東南アジアの諸都市を,その沿革・系符から解明しようと する本稿の動機は,第1に須山博士を代表とし市川が分担する共同研究r華僑社会におけ る嘉言主義の変貌過程に関する実証的研究一タイ・マレーシア・シンガポールを中心と して』(昭和50年度文部省科学研究費補助,海外学術調査)のための予備的研究のねらいを         注(7)

含あたもので,高冷につづくものである。しかし第2のより根本的動機は,華僑経済が本 来商業資本の範疇に属し,その成立,発展,変質の基盤が,都市の成立,発展,変貌と深 いかかわり合いを有するからにほかならない。西欧近代都市の成立と発展が,ブルジョア ジー台頭の場となったのと対照的に,華僑経済が東南アジアの都市成立の系符における規 定性を有することの考察は極めて重要である。最近,アジアの発展途上国が自らの都市問 題を,自らの手で研究し,解決しようという動きが急速に高まりつつあることに着目した

い。

 本年1月早々本学東南アジア学生研究会のグループを引卒して,シンガポール南洋大学 政治学院に薫慶威教授を訪ねたとき教授の講義で話されたことであり,たまたま,1月2

(3)

日午后開催されるASEAN主催の都市問題研究会に同教授が出席された(クアラルンフ。

一ルで開会)事実からも首肯できる。さらに,次の雑誌の短信からも伺われるが,これら は,本稿の意義と問題意識をより明確化することに役立つであろう。

 rフィリピン行政ジャーナル』誌1973年4,月号の報ずるところによると,同年2月25日 から3月4日までイランの首都テヘランで開催された「大都市の都市化問題研究方法会 議」に出席したアジア11ケ国の代表者からなる都市問題研究家たちは,次の5項目にわた        注(8)

る都市共同研究テーマの採たくについて合意に達したという。

第1図 東南アジアの都市と人ロ分布

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例回 人口百万以上の都市

(注)r東南アジアの経済』 〈クセジュ文庫〉を一部修正

(4)

 ①人口移動と都市化  ②都市施設と地域開発

 ③ 都市化の社会病理学(Socia1−Physica1)的研究  ④ 都市化によってもたらされる社会問題

 ⑤ アジアの諸都市の比較研究

 アジア11ケ国とは,フィリピン・バングラディシュ・インド・インドネシア・イラン・

韓国・マレーシア・ネパール・スリランカ・台湾・タイで,いずれの国々も,肥大化する 大都市問題をかかえ,それらの対応策に迫られ,相互にその打解策についての方法上の意 見交換のための国際会議を開催したものである,そして,上記5項目の研究は,次の3機 関の共同援助の下にすすめられることに決定したと伝えている。

 アジア開発調査,訓練研究協会(Asian Association of Development Research&

Training Institute)

 国際開発研究センター(lnternational Development Research Center)

 テヘラン大学社会調査研究所(lnstitute for Sociol Sヒudies&Research of the University of Teheran)

 これら3機関の性格および,会議に出席した学者,専門家の顔ぶれは明らかでなくその 後の研究成果ないし,中間報告も未だ同誌は伝えていない。しかし,都市問題がアジアの 発展途上国にとって,極めて深刻な様相を呈しつつあること,ここでとりあげられたテー マ自体,既にわが国および先進国にとって,特に目新らしいことではないが,それを発展 途上国自体で解決の方途を見出そうと努力していることに注目すべきであろう。 (第1図

参照)

(2)東南アジア都市牙析の視座

   一都市の3類型一

 今日の東南アジア諸国における主要都市の性格ないし都市構造をその生成の経緯によっ て分類する場合 ①各民族が伝統的に造りあげて来た「古い都市」,②東洋外国人とりわ け華僑が移住し開発して建設した「チャイナ・タウン」および,③旧西欧植民地宗主国 が,その植民地経営のために建設した「植民都市」の3つのパターンに区分することがで       注⑨

きる。同じ分類をする見解は少くないが,差当り川田潤氏をあげておく。

 ところで,都市の分類・類型化について附言すると,筆者はかつて「地方都市の分析視 角」(日本都市学会年報『地域開発理論と地方都市』1969年所収)において関説したとこ ろであるが,とくに重要なことは,単なる機能別,形態的分類や,発生史的分類にとどま らないで,社会経済的重層性に着目した都市分類,類型化を行うことである。即ち,わが 国の地方都市を視角として都市分類を試みた結果,近世以降における都市生成の系譜を背 景としつつも,資本主義段階の中央集権的機構がより強く作用し,重層構造ないし都市ヒ

(5)

エラルキイが極めて明確に看取され,類型の枠組となっていることを解明しえたのである。

 ところで東南アジア諸都市のヒエラルキイの頂点に立つ旧植民都市の内包する矛盾は,

もっとも深刻・緊要な都市問題の様相を呈している。田辺健一氏の問題把握は,都市構造 の側面から興味ある視座を提起しているのでその検討から始めよう。 ノ

 ホンコン・バンコック・シンガポール・ジャカルタ・カルカッタの「5都市の発達過程 には,それぞれ特徴があって一見全く違っているようであるが,その都市構造にはいくつ かの共通点を見出すことが可能である」とし,次の4点を指摘する。

 1つは,それぞれの地域の最大の都市で政治経済の中心であること。

 2つは,第2次世界大戦後に難民の流入を主とした激しい都市化にみまわれたこと。

 3つは,人種構成上ほとんど100%中国人の町であるホンコン,75%のシンガポール,

 ユO%のバンコック,5%のジャカルタ,○.1%のカルカッタと程度の差こそあれ,中国  人人口の占める比率がかなり多いこと。

 4つは,バンコックを除いて,植民地あるいは植民地経済の中心として都市建設が行な  われたこと。

 とくに,植民地型の都市構造上の共通点としては, 「行政の中心である官公庁が,植民 国の当時の建築様式を完全に残して都心を形成し,緑の芝生の都心公園と相侯って,1つ の景観的特徴を与えている。この行政地区に直結して銀行街があり,その外側に商業地区 が形成されている。商業地区では卸売商業地区がかなり広く,中心小売商業地区は比較的 狭い。そしてこの商業地区が,いわゆる中国人街China Townであって住居と職域の分 離がなく,著しく人口稠密な市街地を形成している。行政地区と商業地区とで都心地区が 形成されるのであるが,商業中心よりも行政中心が都心地区の中核をなしている。一方,

それらの外側を占める居住地区としては,商業地区縁辺の中国人街が中,下級住宅地区的 様相を示し,それと対象的位置にかつての外人住宅地区が,緑の多い高級住宅地区として 今も残っている。そして戦後に,それらに隣接して新たに中,下級の住宅地区が形成され た。したがって都市の地域構造としては,一応欧米および日本の諸都市で認められた同心 円構造がこれらの都市でも認められる。しかし住宅地区の著るしく狭いこと,行政地区の 著るしく広いことおよび商業地区に中国先打が重複している点に,都市形成の歴史的背景

と人種構成とに,東南アジアの都市としての特徴が示されている。」と。

 氏の例示する東南アジアの代表的特徴をもつ都市とは,いずれも「植民都市」である。

「代表」とされる理由は,かって強大な植民地宗主国が,自国と植民地との政治,経済,

文化の結節点(Nodal point)として建設されたものであること,それのもつ機能は都市 の肥大化の原動力となると共に,何よりも東南アジア諸国にあっては,一点集中型の過大都 市(人[]100万以上)の形成を進行させ,地方中小都市が育成されないこととなって現れ ているためであろう。しかしながら,「植民都市」のみに視点を限ることは,現実の東南 アジアの都市構造ないし性格を見落すことになる。その政治,経済,文化のメカニズムは,

(6)

地方中小都市および農村地域との関連なしに把握することは困難だからである。

 即ち,東南アジアの経済は,現住民による伝統的自給経済と,華僑による前近代的資本

=商人資本経済と,先進資本主義国による近代的企業=資本経済との3重経済構造(Three

      注(11)

Fold Economy)としてとらえることができる。都市もまた,これらの3重経済構造に基 本的に立脚し規制されることから,必然的に3つのパターン,構造を呈することになる。

即ち,東南アジアの都市の経済基盤として,第1に伝統的自然経済に立つものとして,国 王,サルタン(土候)の居城のある古都を見出すことができる。第2にはユ8世紀以前,遠隔 地商業の担い手とし,或いは王家商入の特権を与えられこの地に定住した華僑の築いた町 である。第3は,18世紀以降この地回を植民地化し,その経営のたあの拠点として,植民 地宗主国が自国の都市計画を模型として建設した町で,近代的な装いをこらした都市が多

い。

 第1のパターンは,古都ユエ(Hu〜:ベトナム)やタイのチェンマイ(Chien−mai)に 代表されるような,それぞれの民族が自らの歴史と伝統の中で築き上げて来たもので,か つては行政,宗教,文化の中心であった都市である。マレーシアにおいては,サルタンの 居所のある地方都市を加えてよいであろう。しかし,これらの都市を支えてきた現住民経 済が,三重構造経済の底辺部に組み込まれ,停滞ないし哀退をたどるようになると,古都 もまた哀微し,廃虚と化すものが少くなかった。わずかに消滅をまぬがれたものとして,

例えばユエ(順化,Hu≦)をあげることができる。

 ユエはアンナンの首都として嘉隆帝により建設された中国式都城で,香河の北岸に東西 3km,南北2krn余の城壁をめぐらしている。城外にヴェトナム人の町が形成され,降っ てフランス人の市街,それをアメリカが引き継いだ。人口43,000人(1936年)で市の西南 にアンナン王歴代の陵墓があり,わが国の奈良に比べられる。

 即ち,港湾,市場ないし新らしい産業立地や政治上,軍事上の要因により,復活する場 合を除き,古都の大部分は,アンコール・ワット(カンボジヤ)に象徴されるように,廃       注(12)

市となってジャングルの奥に埋没する運命をたどったのである。(マラッカ市の項参照)

 第2のタイプは,中国人一華僑が建設した都市であるが,それは独立した都市という形 態をとるものもあるが,むしろ在来の都市ないし植民地時代にヨーロッパ人が建設した都 市内部に食い込むか,ゆ着することにより独特の中国人街(China town)をかたちづく

っている。

 ヨーロヨパ人は,その植民地開発のため,華僑を利用し,豚児一猪仔貿易と呼ばれる中 国人労務者を自己の農園や鉱山に雇用したことから,このように植民地都市内部にChina townが介在,癒着するにいたったのである。しかし,中国人が都市建設の先鞭をつけた

ものとして,クアラルンプールを第一にあげねばならぬ。!8世紀の始め,中国人が錫鉱を探 してここに来住したのに始る。また,西ボルネオのコタ・キナバル(:New China townの 意味)や,西マレーシアのキナバル(China town)等の中小都市は,その名称自体i華僑

(7)

の建設したことを示している。また,現実に華僑の町とみなしうる街区は,ペナン・シン ガポールに見出すことができるし,南ベトナムの首都サイゴン・シヨロンはそれぞれ住民 の50%,70%が華僑によって占められている。インドネシアは,全般的に華僑のウエイト は一その経済力とは別に  低いが,メダンは38%を占めて高く,ジャワ・バタビア・

スラバヤ・スマランの諸都市はユ○%台と低い。ともあれ,独自の都市建設というより,旧 来の現住民が建設した都市ないし後述する植民都市に癒着或いは附随して形成される点に 特徴がある。

 第3のタイプは,ヨーロッパの植民地宗主国が建設した都市である。

 周知のとおり,東南アジアへのヨーロッパ人の進出は16世紀から始まり,タイを除くほ とんどの国がその植民地となった。ビルマとマラヤはイギリス,インドシナ3国はフラン ス,インドネシアはオランダ,フィリピンはスペインからアメリカへと2代の宗主国に支 配された。その一矢はマラッカを15U年,ポルトガルが占領したことに始まり,ついで 1641年オランダの手に移り,戦前の東南アジアにおける植民地分割の地図が完成するので ある(第2図)。彼等は皆,華僑を利用,ポルトガルとオランダがカピタン制をとり,華

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1939年における東南アジア

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      (注)河部利夫『東南アジア・世界の歴史18』より。

僑に一定の自治権さえ認めた例からも分る如く,西欧植民宗主義国は何らかの形で現地人 ないし華僑,印僑の有力者と手を結び,植民都市を建設した。その代表的なものは,田辺 氏の掲げる5市のほかに,マニラ,サイゴン・シヨロンを加える必要があろうし,それに 準ずるペナン,プノンペンその他の中都市の中にも植民地都市を見出すことができよう。

 以上の3類型は,歴史的な発展過程とも照応することを留意する必要がある。まず伝統

(8)

的「古都」は,東南アジアにおける停滞社会の段階に成立基盤をおくものであるが,「華 僑の都市」は,それ自体として成立したものは極めて少なく,当初は「古都」にゆ着し,

ユ9世紀以降は,西欧植民地都市に従属し,China townと呼ばれる独特の「人ロ密集地 区」を形成して来た。その意味では正に彼等の買弁(コンプラドール)的性格を都市の基 盤ないし性格として保持しているということができよう。下って,「植民都市」は宗主国 の権威のシンボル的な存在として,中心に西欧式の都市計画街区をもち,いわゆるCBD

(業務地区)と住居地区を空間的に明確に区分するスマートな都市構造を呈する。その限 りでは,現地社会とはあくまで「異質」な存在であり,現地住民との直接的結合は薄く,

その仲介者としてのChina townを不可避的に随伴せざるをえなかったのである。そこ にも又,植民地都市の不安定性をぬぐい去りえず,第二次世界大戦後相ついでその主人公 の地位を失うに至ったのも当然といえるであろう。

 したがって,都市の3つの類型区分は,あくまで原型の摘出であって,最近の激動する 東南アジアのナショナリズムは,民族経済という新らしいパターンを台頭させ,三重構 造の経済一ゆがんだ経済の是正に動きつつあることに着目しなければならぬ。その背景に は,シンガポールを先頭とする工業化の進展に伴う「テイク・オフ」があるし,マラヤニ ゼーション(マレー人優先主義)にみられる経済,政治の上からのナショナリズム化があ る。更には,歴史というにはあまりにも,ホットなインドシナにおける民族解放斗争の勝 利がある。これらは必然的に,都市の三重的性格を改変させずにはおかないだろう。

 この3つのパターンに要約される都市の複合性,ないし三重構造のもつ矛盾,対立を解 消する顕著な動きに着目したい。それは未だ「情況」としてしかとらええないものである が,一つの方向を示唆する事実が,われわれの目前でドラスチックに進行しているのだ。

 即ち,1975年に入ってからのインドシナ情勢の急展開は,植民都市プノンペン(カンポ シアの首都)につづいて,南ベトナムの首都サイゴン政権の無条件降伏によって終止符を 打たれた。これは,不敗の帝国主義国といわれたアメリカの4半世紀に及ぶベトナム支配 の終焉であり,アジアにおける力関係に致命的打撃を与えた歴史的出来事である。フラン スから引きついだアメリカの植民都市サイゴン市の解放は,第3世界だけでなく,およそ 行きづまった旧世界からの解放を求める人々の心に,大きな希望の炬火をかざすものであ

った。

 南ベトナムの戦乱が,解放戦線VS米国という様相を呈し始めた67年8,月中旬,解放戦 線は新しい政治綱領を発表し,r敵によって一時的に支配されている都市および農村地域

における各層人民を動員して敵の支配を断ち切って政権をかちとる」と宣言,農村地帯か ら都市に戦線を拡大することを明らかにした。

 それ以来解放戦線の都市攻略戦術は68年1.月30日テト(正月)攻勢をかわ切りに南ベト ナム全土を戦火に巻き込んだ。30日にはダナン,コンツム,ブレーク,ニャチャンなど,

31日にはサイゴン,ユエ,ファンチェトのほとんどの省都を含む122ケ所の都市,軍事施

(9)

設が砲撃をうけた。これらの諸都市のなかで,ダナンは米国のベトナム介入の拠点であり,

その象徴的位地を占めたが,75年3月陥落,米国の完全撤退を決定的なものとした。そし て,4月末のサイゴン市の無血解放へとつづく。その帰結としてフランスからアメリカに 引きつがれたベトナム支配の象徴的植民都市サイゴンは,いち早く「チ・ミン」市として 新生することを宣言した。

  即ち『毎日新聞』昭和50年5月1日付は,シンガポール29日ロイター共同として生々  しい無血解放のニュースとともに,次のように報じている。

  「南ベトナムの解放放送が29日伝えたところによると,サイゴン・ジァディン地区解  放戦線委は,同日声明を発表,サイゴン市を故ホー・チ・ミン北ベトナム大統領の名に  ちなんで「チ・ミン市」と改称することを決定。」と。

 ただし,サイゴンに随伴したChina townシヨロン地区の名称にはふれていない。恐 らくそこに住む華僑の経済力は,チ・ミン市の再建に大きく活用されると同時に,商人資 本としての彼等の性格も改変するに違いあるまい。新しい体制下でたどるChina townの 変貌に着目したい。尚,サイゴン・シヨロン市の解放前の概況は次のとおりである。

  サイゴン・シ一山ン(Saigon−Cholon)地区は1931年以来行政的に1つの都市とな  つたが,機能上,人種上の相違は続いている。シヨロンは1778年華僑によって建てられ  た河津で,フランス人到来以前から半折の商工業の中心として栄えた。

  一方サイゴンは古くカンボジア人が住んでいたが,17世紀ヴェトナム人が定着,ヴェ  トナム人が名づけたフ。レイコル(Prei−Kor,カポックの森の意味)をヴェトナム訳で  サイゴン(Saigon)と呼んだのが町の名となったものという。19世紀,フランスが進  出しコーチシナ経営の中心と決定するや,1862年フランスの都市をモデルとした近代的

第3図 旧サイゴン市周辺血

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(注) 『毎日新聞』

  5月1日付より   ショロンに典   型的なchina   townがある。

(10)

 都市計画を実施し,現在のサイゴン市が建設された。

  戦後,ヴェトナム共和国の首都となり,内戦による難民の流入があって,1930年頃に は15万人前後の中都市にすぎなかったものが,1948年には170万人をこえる大都市に発 展した。このうち華僑は少くともシヨロンに約40万人,サイゴンに約20万人いるといわれ

注(12

る。 (第3図参照)

注 (1)市川信愛「アジアの都市問題・その1」長崎大学東南アジア研究所r研究年報』第12集,

  1970年所収

  (2)L.ライスマン著,星野有美訳『新しい都市理論』1968年 鹿島出版,pp.167〜8.

  (3)宮本憲一『日本の都市問題』1968 第1章参照

  (4)G.ミュルダール/S.キング.板垣与一訳『アジアのドラマ』一諸国民の貧困の研究一〈上   巻〉東洋経済新報社,昭和49年4月,69〜76頁

  (5)大河内一男『社会政策の経済理論』1952年pp.216〜220

  (6)かかる見解を代表するものとして差当り隅谷「資本と労働一賃労働関係における封建性一」,

   日本人文科学学会編『封建遺制』1951年p.124をあげておこう。

  (7)市川信愛「東南アジア華僑経済研究の一視角一 Pong field workのための覚え書き・

   その1」,同『年報』第15集 1973年所収

  (8) PhilipPine Journal of Public Administration Apri1。1973, P.250.

  (9)49年12,月4回にわたって行われた。NH:Kラジオ大学講座 川田潤r東南アジアの経済』

  (1① 田辺健一r都市の地域構造』<叢書都市4>大明堂,昭和46年9月,183〜216頁    同「東南アジア大都市の地域構造における特色一概報」r東北地理』19−4(1967)所収    157〜161頁

  (11)この用語を初めに用いたのは,T. H. Sllcock The Economy of Malaya−An Essay    in Colonial Palitical Economy Singapore,1954, p.工.で,その全文紹:介は,須山卓    「マラヤの経済」,国際食糧農業協会(FAO)『国際食糧農業』第9巻,第1号および第2    号所収。

  (12渡辺長編『東南アジア<新世界地理4>』朝倉書店,昭和34年,171〜172頁

  2.マレーシアの都市と社会経済構造

      注(13)

(1) 複合社会と三重経済構造

 産業革命による新らしい生産様式の恩恵を最初に満喫するにいたったイギリスは,新植 民地市場を求めて,東南アジアへ進出する。1786年まずペナンを占領し,ついで1819年シ ンガポールを圧え,1826〜1884年にかけビルマを支配下におき,つづくユ874〜ユ914年には,

マレー半島をほぼその手中に収めるに至った。その間,1896年ペラ・スランゴール・ダグ リ・スンビラン・パハンが連邦州(Federated Maユay States)として英国の保護下に入 り,1909年にはタイよりケダー,クランタン,トレンガヌ,ペルリスの宗主権を譲り受け,

(11)

1914年ジョホールの保護領有をもって,ほぼその支配領域が画定する。

 かかる政治過程と併行して,本国の強大な産業資本,銀行資本による資源の独占的開発,

一次産品の輸出を目的すしたプランテーション農業,スズを基幹とする鉱山発掘等々のモ ノカルチュアー経済への再編が完了する。一般住民に対しては,重税の賦課とりわけ高率 の相続税は,その苛酷さで恐れられた。その支配は第2次世界大戦下の日本占領期を除き,

戦後1948年,4連三州及び5非連邦州の9州でマラヤ連邦(Federation of Ma13ya)が        注(14)

構成され,英連邦の一員としてスタートするまで1世紀半の長きにわたって続いた。

 かくのごとく,イギリスの植民地経営は,すべて自国の渤興する産業資本,金融資本の ためであったが,マレー半島における開発事業,建設事業は多方面にわたった。道路,港 湾,鉄道等の公共事業を起し,ジャングルを拓いてゴムを植栽し,スズ鉱を採掘する等

々。このたあには,多数の賃金労働者を必要としたが,植民地建設当時のマレー半島の住 民は,村落(カンポン)に原始的共同体生活を送り,自給経済を閉鎖的に営み,回教に基 礎をおく慣習から,資本主義的雇用には極めて不向きであった。そのたあ,中国人,イン

ド人の大量移入(一複合社会形成)を不可避のものとしたのである。

 即ち,マレー半島における華僑の数は,1830年代以降植民地建設の進展と正比例し て急増し,20世紀に湿るとマラヤ全域(シンガポールを含む)で90万人にのぼったと推定  注⑮される。第1次大戦後も,その増勢はつづき,193ユ年には工70万人を越えたといわれるが,

30年の世界大不況で一時停滞し,中国人労働者で失業する者も少くなかった。

  即ち,世界大不況下のマレー半島は,ゴム,スズ産業に一大打撃を与え,失業者の急  増,賃金引下げという形で現れた。その結果,出稼ぎ労働者流入,移民が激減するとと  もに,逆に中国本土,インド亜大陸へ出・帰国するものが急増した。帰国しなかった失  業者のなかには,食をうるためにジャングルに分け入り,わずかの空地を見出し,小農  民となる者があり,ジャングルの中に中国人,時にはインド人の新しい小集落が生れ  た。     −、

 しかしながら,1937年の中日戦争の勃発は,マラヤ華僑で本国から家族を呼びよせる風 潮を生み,一そうの増加を促し,ユ947年には260万人1957年には340万人に達した。しかし,

それ以降の移入は停止状態となったが,それは中国大陸における共産政権の制覇により移 動が困難になったことと,マラヤ政府が,マラヤニゼーション(マレー人優先主義)政策 を強化するにつれ,厳重な外国人移住制限措置を推進したからである。 (第1表参照)

 なお,マラヤに移住した中国人はすべて華南地方からであるが,とりわけ福建,広東,

潮州,三家,海南出身者が多い。彼等は蓄の連帯を基礎として団結し,苛酷な労働や差別 にたえて富を蓄積する者が少くなかった。

 一方インド入は19世紀末からゴム園の開発に当たって労働者として南インドのコドラス 州からイギリス農園主によって移民せられたタミル人労働者を主体として構成されており,

今日においても移民的性格を濃厚に残し,主としてゴム農園労働に従事し,ヒンズー教を

(12)

信奉している。このほか,英語教育をうけた官吏,専門職につくエリート・ムスリムの商 人,チェテイアの農園主や金貸業などのような少数の富裕階級と,道路,鉄道等に働く労 働者とがある。

 このようにインド人社会はより移民的性格を残しながら華僑社会会もに階級分化に対応 した意識と運動一主として政治面一一を形成して来たが,マレー人社会は依然一体性が 強い。これはマレー人自身「土地っ子」 (Son of Soi1)と考え,人種的にはマレーシア の支配集団としての意識をもつのに対し,華僑,印僑は,移民から漸次定着化を進めてい るものの,宗教,生活慣習からいってマレー人との同化は困難であり,人種間の壁は厚い。

ただ,華僑,印僑の上層エリートは,自己の階級的利益を守るためマレー人エリートとの 協力,妥協を進めている。しかし中下層や労働者は,自己の階級的(利益)立場を貫こう

とするとマレー人優先政策と対立せざるをえず,階級対立が人種対立に転化しやすい状況 が生れることになる。換言すれば,階級間の矛盾対立と,人種間の宗教的価値観に支えら れた感情的対立矛盾とが交錯しているところにマレーシア社会の特質が認められる。

第1表 マラヤニゼーションの諸措置(1974年)

(1)出資比率の中に占めるマレー人の比率を高めること。

(2)雇用比率はマレーシアの民族構成を反映すること(1969年7月,当時のラザク副首相発言。

  その発言によると,マレー人46%,中国系人40%,インド系人14%)。

  ※ 現実には,各進出企業のマレー人の比率は20〜30%が現状。但し,この比率は管理部     門にも適用される。

(3)今後20年間に,商工業分野において資本所有,雇用の両面で最低30%はマレー入が参加す   るようにする。

  ※外国商社の支店でも,マレーシアを起点とする三国貿易は禁止されているといわれる。

(4)各企業はマレー化の計画を毎年提出するよう義務づけられている。

  ※ 会社設立当初はある程度の外人スタッフは認められるが,最終的には外国人はユ〜2    名に減らされるという。

⑤ 公共入札にマレー入優先。

(6)労働許可証条例(Work Permit System)

  ※ 市民権をもたない者の就業制限。

(7)1980年をメドにマレー語の国語化。すべての看板をもマレー語化の予定。

⑧ 回教を国教とする。

⑨ そ の 他

(出所)各種資料からジェトロ大阪本部情報サービス課でまとめたもの。

 かくして,マラヤ(マレーシア・シンガポール・サバ・サラワクの総称)は,英国の支 配下でマレー人,中国人およびインド人よりなる典型的な複合社会(Plural Society)と

して形成され,それぞれの人種社会のもつ習慣,宗教,価値体系のバランスの上に成立し,

独立以後もこの社会構造は変っていない。

 先住民マレー人について附言すれば,8世紀スマトラから移住して来たもので,1402年

(13)

第4図 マレーシア全図

西マレイシア

    100        102         104

    1      1      1  ペルリス州

毒欝〉イ.翫

…◎.険轟轟.艦

毒聾うでン霧篇1

  一補・要道路

  い Σ可    月1     0      120    240     360    480!{πL

束マレイシア       サバ州

         ;==== 一   出所:外務省経済局編rマレーシア』

され,定着し定型化するに至ったが,この3重構造=3つのセクターは,マラヤという一 つの地域社会内部で行われるので,相互に規定し合い,関連し合っており,3つの区分を 明確にしえない状況にすら融合している面も少なくない。しかし3つのセクターの基本的 特性を摘出することは可能であり,その限りにおいて,マレーシアにおける都市を3つの 類型の検出ないし,典型化して論ずることも可能になるのである。

(2)三重構造の都市と人口分布への投影

 前項でみたごとき,複合社会,三重経済構造は,当然のことながら都市および人口の分 布に反映することになる。それはまず,華僑の分布が,その移民の当初から各種西欧系企 のマラッカ王朝時代に導入されたイ スラム宗教と,サルタンへの忠誠と が,社会結合の原理となっている。

サルタン→王族→貴族→地方首長→

農民というヒエラルキーを形成して いる。このようなタテ社会のリーダ ーシップを現在握っているのが英語 教育をうけたエリートで,一般のマ レー人は地主小作関係が尚広範に残 存する農村部に住んでいる土着の経 済(マレー人の経済)と,i華僑の経 済(主として前期的商入資本)およ び両者の支配者として最上層に位す るイギリス人の近代資本主義的経済 の3つのセクターが形成されたのは,

いわばきわめて自然であったといっ てよいであろう。即ち渡来した華僑 は,西洋式耕作法の導入と買弁の形 で旧宗主国イギリスの資本に結びつ き,ゴム・スズの2大産業の発展を もたらした。換言すれば,植民地下 のマレー半島は華僑にとって彼等の 身代を築きあげる絶好の土地であっ たのである。

 このようにして典型的ともいえる マラヤの複合社会と密接不可分に結 合している「三重構造経済」が形成

(14)

業の活動によって基本的に規定されていたことによる。即ちマレー人と比較して中国人,

インド人のウエイトの高い地域ほど外来資本による企業活動とイギリス人の支配が強大で あり,反面マレー人の人言の支配的な地域においては,外国による資本投下も少なく,そ の地域の経済機構に原始的自給経済が維持されているからである。

 いま,州別にみた人種別の人口分布を示すと,第2表のとおりである。一見して明ら かなごとくマレーシアでは,住民がきわめて不平等に分布している。たとえば,ケラン

第2表  1967年地域別人口,工場の分布(西マレーシア) (単位:千人,事業所)

1マレー人1中臥1インド入1その倒合計に雛同分布※

ジョホール ケダー ケランタン マラッカ ヌグリ・

 スンビラン

ノマハン

ペナン ペ ラ ペルスク セランゴール

トレンガス  合  計

 655  635  627  21ユ  220  246  220  666

 92

 427  353 4,351

 532  189

 38

 !64  207  148  434  722

 21

 678

 23

3,157

98 89  8 34 77 32 91 243  2 278  5 958

31 24 12  8 13  5 16 26  4 48  1 189

1,317  937  685  417  517  432  761 1,657  119 1,432  382 8,655

 356  176  105  121

 99  97

 497  594

 20

 853

 45

2,961

2.7 1,9

L5

2.9

L9

2.3 6.5 3.6

L7

6.0 1.2 3.4

 (注)Survey of Monufacturing Industry, Dept. of Statistics.※は1万人当り工場数 タン州の稲作デルタは,200人を越す人ロ密度をもつとはいえ,西海岸の州にはもっと住 民の多い地方がある。このような雑多な現象は,植民地の極あて特異な性格,都市住民 の例外的とも言えるウエイトの高さに起因するものである。即ち,住民の31%は,5,000人 以上の人びとが集っている84の中心地で生活している(先進国フランスの都市人ロは39

%)。おもな都市は,首都のクアラルンプール(1970年の人口70万7,0GQ人),イポーお       注(17)

よびペナン島のジョージタウン港(1970年の人口33万2,000人,その73%は華僑)である。

 このように大きな人口を抱えるところは,それなりの人口扶養力のあるところであり,

植民地下に形成されたモノカルチュアー化に伴う近代的なプランテーションゴム・ココナ ツ・キニーネ・マニラ麻・コーヒー・タバコ・キトウキビ等々が,主としてマレー半島西 海に立地したためである。一方,マレーシアの首都として繁栄をほこっているクアラルン プール,セレンバンは,かつては人畜も通わぬジャングルのなかであったところが,華僑 を先駆とする錫鉱採掘を契機としてひらけたところである。

 ゴムとスズの産業は,イギリス資本を主体とし,一部華僑資本が加わって経営され,零 細なゴム栽培は,ほとんど中国人とマレー人によるものである。ゴム園の分布を広くマレ ーシア島喚圏としてとらえると,対岸スマトラ島にあるオランダ人のゴム・スズ経営と一 体をなして,マラッカ海峡を両岸から包摂する形で,世界最大のゴムとスズの産業圏を形

(15)

成していることになる。

 一方マレー半島の反対側東海岸沿いには,米作を中心とする農耕社会が散在し,そこに は現住民のマレー人が住んでおり,伝統的な村落社会にどぢ込もり,孤立的,閉鎖的社会 を形成している。しかし近年,政府の開拓,入植政策により,マレー人農民の国内集団移 住が試みられたり,(第1,第2次5ケ年計画),華僑による商品一貨幣経済の浸透に支 えられ,自給経済は急速に崩れつつある。他方,東海岸の地方都市コタバル,クアラ・ト レンガヌは,農村手工業都市として知られ,バチック,銀細工,竹細工,農機具が生産さ れているが,いずれも華僑の中間商人の支配の網の目にくみ込まれ,細々と続いている。

      注(18)

いわばマレーシア版「女工哀史」ということができる。これを戦後初の国勢調査(ユ947年)

の結果に比べると,華僑の分布と集中は,開発のもっとも進んだ西マレーシア西海岸にも っとも顕著で,とくにシンガポール,ペナン,マラッカを始めとする主要都市は,人ロの 過半数を占めている。その結果,都市部における華僑人ロは,一そうその比重を高めるに いたった。即ち,上表中華僑の数と工場分布とが対応を示すことに留意されたい。

 中国人は,ペナン,セランゴール,マラッカ,ペラ,ジョホール,ヌグリ・スンビラン の各州で人ロの4〜5割を占めており,とくにペナンとセランゴールではマレー人が25%

前後であるのに対して,中国人は5割を占め,またべラとヌグリ・スンビランでも中国人 の方がマレー人よりも多くなっている。

 マラヤに移住した中国人は,本人,親あるいは数門前の先租の出身地が同じである者が 郷党的な集団一幕を形成し,これをよりどころとして生活を営んでいる。中国本土の門別 では,福建省と広東省の出身者がマレー在住中国人の9割となっている。ペナン,セラン

ゴール,マラッカ,ジョホールには福建人,ヌグリ・スンビランには客家入が多い。

第3表 所得階層別世帯数分布 (1969年忌,西マレーシア)

月間世帯所得 マレー人中国人インド人その他1合

150Mドル以下 151 〜 300 301 〜 500 501〜1,000

LOOO Mドル以上    計

48.8%

31.2 13.1  5.6

 L3

100.0

18。2 38.0 23.5 15.6  4.8 100.0

29.9 33.6 20。6 12.4  3.5 100.0

 6.8  8.5 32。2 27.1 25.4 100.0

35.6 33.4 17.8 10.ユ  3.1 100。0

 更に,人種の分布は所得階層別にみた構成と微妙な相関を示す。第3表に掲げるごとく,

150Mドル以下の低所得層は,マレー人が圧倒的に多く半数近くを占め,つぎがインド人 の3割,華僑は2割弱にすぎず,ヨーロッパ人を含むその他は,1割にも達しない。他方,

501Mドル以上の高所得者層は,これとは正反対の傾向を示し,もっともウエイトの高い のはその他の25.4%,中国人とインド入はそれぞれ4.8%,3.5%と格段に少く,マレー人 になるとようやくコンマをこえた低さとなる。明らかに,複合社会と三重経済構造の複雑

(16)

な組み合せが看取されるのである。

やや古いが,所得を規定する職業と 人種との関連を,第5図によってみ ると,マレー人は農林水産業に,イ ンド人はエステートに,その他の西 欧人はサービス業への集中度が高い が中国人はほぼ全産業に分布し,そ〆 の活動の多面性,マレーシア経済に 占める地位の根強さを伺うことがで

きる。

 ところで1970年の人ロセンサスに よればマレー半島11州の州都の人口 は,次表のごとくであり,行政,商 業,隣…接地域の工業化などにより都 市化が進んでいることを示してい

注(19

る。このことは,従来閉鎖的といわ れたマレー人社会の中に,現金と職 場を求あて農村を去り,都市へ流入 する傾向が顕在化しつつあることを 示す。しかし,T. E.スミスの調       注⑳

査によると,都市人口の全人口に占

第5図

(%)

60

50

40

30

20

10

産業別経済活動人ロ構造の人種別比較       (1957年)

        総  数     一一一一マレー人

   一一一一一一一一一中国人     一一・一一・一インド人

A一一一その他

\\ハ

X/

ハ/

ハ/ 八

\決 参

     ボノ    ヨ    ε2    『噂・ /

        \

 !

,《気影

    グ ハ_こ7

1/

      0

      農工鉱製建電商運サ(産業)

      lll擁ll

      業ト業三業道業一業

       (出所)南亮三郎『マラヤ・シンガポールの人口構造』

      307頁

める比率は,マレー半島においては,1931年の10.6%からユ947年には14.1%に上昇,この 16年間における全人口の増加は14.1%であったのに,都市入口の増加率は62.2%にものぼ った。この間に,人口2万5,000〜5万人の地方中都市が2〜8に増加したとしている。

      勿論,マレー人の都市集中が顕  第4表 州都別人口分布   (マレー半島)

州  都  名 1人

クアラルンフ。一ル

ジョージタウン

ジョホール・バルー マ  ラ  ッ  カ

セ  レ  ン  バ  ン

アロー・スター

コ タ・ノ・ミノレー クアラ。トレガンヌ

ア ン タ ン

 計

 706,997  332,128  257,309  144,921  97,782  90,062  85,748  69,756  59,494  43,391 1,887,589

割  合

37。5 17.6 13.6  7。7  5.2  4.8  4.5  3.7  3.1  2.3 100.O

著になるのは,独立(1948年)

以降に属し,いわゆるマラヤニ ゼーションの結果によるとして も,その底流は今世紀初めから 始っていたといえる。

 かくのごとく,職場と住居を 都市へ移す者が次第に増加し,

1940年代までマレー人の8割 が農村に住んでいたのに,50 年代には7割台へ,60年代に

(17)

は7割台を割る勢いを示していることである。更にこれは,マレーシアの産業構造の変化 からも首肯されるところである。即ち第4表に示すとおり 47年のセンサスで第1次産業  第4表  マレーシアの産業推進      が65%弱だったものが10年後には58%弱,

二陣・気血第2次産業第3次麟甦 73年には50%と急テンポで磁し・

        %      代って第3次と第2次産業化が進行してい       25.7

      9.9

 1947        64.4

      ることからも判る。

 1957      57.6      12.6      29.8

       とりわけ,第3次産業部門の人ロ増加は,

1973 堰@ 50 1   13 5   36●4 失業,半失業の問題がからんでいる。それ  (注)政府統計による      は生産一就業労働人口の低いことの裏がえ

しにほかならない。統計上生産労働人口に分類されていても,実際上その労働力が十分活 用されているとは限らないからである。例えば,農繁期に完全就労するがそれ以外の時期 には,中途半端な仕事しかえられない季節的失業や,労働者の一部を引揚げても,かくべ つ能率の低下を来たさないような過剰就業は随所にみられる。事実,東南アジア諸国にあ っては,潜在失業は全労働人ロの30〜50%にも及ぶと推定される。いうまでもなくこの要 因は,人口過剰よりも経済的後進性に求めうるのであり,小商売や家事労働といった第3       次産業人口の肥大が,都市部に特

経済問題 三重構造

人種問題 複合社会

都市 問題

地域問題 開発格差

第6図  東南アジア都市問題の構造モデル

に顕著となるのである。

 以上要するに,マレーシアにお ける都市問題は,複合社会という 人種問題と,三重経済構造という 混合経済問題と,その両者が空聞 に投影された地域格差問題という

3極・3元構造によって規定され ているということが分る。いまそ れを模型化して示すと第6図のご とくになるであろう。この3極・

3元構造を,次に都市サイドから 検討することとしたい。

注(13)松尾弘・他『マラヤの華僑と印僑』アジア経済研究所,昭和36年2月,pp,71〜72.なおこ   の項の記述は,同説に負うところが大きい。

  ⑳周知のとおり,1965年8,月シンガポールはマレーシアから分離独立したが,両者は歴史的に    も社会経済的にも共通する面が多いので,ここでは同じものとして取り上げることとした。

  個Victor Purce11 The Chinese m Malaya Oxtord in Asia,1967年,P.278.

  ㈲ 今井瑛一『東南アジア現代史』<亜紀現代史叢書6>亜紀書房,1972年,22〜23頁。

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