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華僑発展史と経済と社会

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華僑発展史と経済と社会 151

華僑発展史と経済と社会

1 華僑発展の前期的形態

 華僑の歴史的な移住や移民について振りかえると、その前期的な先行形態はいわゆる中 国の古代以降の各帝王が誇称してきた王朝の意図的な領土的拡張にともなって形成されつ つあった中国民族(いわゆる漢:族群We−Group)を基幹にした、その周辺種族(いわゆ る非漢族群You−Group)との接触関係を拡大化する間に漸次表面化の過程を辿っている          (註1)

点にある。つまり、言ってみれば中国の歴史はその内的発展の固有の原則にしたがって、

まず最初に中国文明の担い手であり、しかも《中華》に表徴せられる人民大衆の活動が、

定着的農業経済と遊牧および半遊牧との問に分業の発展を起点として胎動を開始すると、

彼らは着々と揚子江流域を越え、異質的要素とみられる非漢族群の、いわゆる蛮夷の地域 に向ってぼう普し、国境を越えて外部に向って拡大していった。そして彼らがそこに発見 したものは、丘陵と密林と湖水とであり、また、小さく豊かな、しかし未開拓の平野のあ る土地をも発見した。この土地には後世の人々が《先住民族》と呼んだ種族が住んでい た。中国民族は、冒険好きな人々の集団(Group)として、これらの種族のなかにわり込 んでいき集団組織に関するより高度の政治技術を彼らのなかへ持ち込んだのであった。彼

らは原住民族の間に定着し、抵抗するものとは戦いながら、しだいに他民族を中国の生活        (註2)

様式に《転向》させていった。しかし、この場合の外部ぼう脹の基本的な方向と径路に ついてみると、それは今の中国領土の南部と北部方面に向って展開されたのが特徴であっ た。中国史に現われるいくつかの史料はこうした領土拡張の展開の模様とそれに伴った住 民生活の経済の模様を物語っている。まず、華僑発展の早期的形態を窺わしめる紀元前2205 年から紀元前246年当時の模様からみてみよう。すなわち、この時代の中華帝国の領土 全体は、北部は今の上海の大道および直隷の保定地方に達し、西南部では雲南の昆陽、広 西の平門に至る地域を含み、また東部では海に面する沿岸一帯を含む全面積まさに124万

2,061平方哩をく.だらざるものであった。これら全領土の拡張運動はとりわけ始皇帝時代 の紀元前246〜211年の間に開始されたのであって、この時の王朝は西南地方の種族を征服

し、138万6,581平方哩の地域を中華帝国の領土として形成した。史記「秦始皇本紀」がつ ぎのように記載しているのが、それである。

       およ     りんとう きょうちう

 地は東は海に至り、朝鮮に暫び、西は臨挑・莞中(今の甘子省方面)に至り、南は北響        つく

 戸に至り、北は河に拠りて塞を為り、陰山に並び遼東に至る。

 と、北海戸とはすなわち南越のことである。当時の南越地方は今日の福建、広西、雲南、

(2)

貴州の一部およびインドシナが包括され、この地域内では越民族は分回しておおくの部:族 国家を形成していた。

 また、同じように漢の武帝(紀元前140〜87年)時代の領土についてみると、南部では 三江、福建、広東、広西およびインドシナを包括し、西南部では雲南の北部地方および貴 州、緩遠省が、北部では内蒙古を、北西部では現在の新彊の南部が含まれ、さらに東北部 では藩陽(奉天)と北朝鮮とが含まれていて、その版図はおそらく200万平方哩をくだら なかったと思われる。

 しかし、この当時の武帝は、内治と外征に巨額の富と人民を犠牲にしたために、力役、

租賦を過重し、塩や鉄などの生活必需品に対しても専売を行なって利潤をむさぼり、人民 の負担を増大さした。このたあ農民は犬豚のような生活をなし、牛馬のごとき労役に服し て、しかも救われるところがなく、相ともなって山野に逃れて盗賊となり、土匪となって 社会の不安をかもすに至った。そして、ややもすれば流亡せんとするこれら農民に拍車を かけたものは、水旱の災害、磯鐘のうれいおよび戦乱のさわぎであった。武帝の元狩3年

(紀元前120年)の山東の水災に際して河西の地に移された流民だけでも実に70余万に達  (註3)

したという。この時;期の基本的な産業は農業生産を中心とする粟作や水稲作の低い生産力 段階にあったので、一般的に言ってもこの経済基盤のうえに立つ王朝の存続的維持は、人 民大衆の収奪を強行し、権力的に人民支配を維持する以外にあり得なかった。したがっ て、この状況のもとで磯謹や水旱による災害、あるいは戦乱の発生をみると、農業生産は たちまちのうちに撹乱され、住民一般の生活苦は必然的に加重される結果となった。そし て、多くの住民たちは自己の生産を放棄し、生活苦の圧力を脱出するため難民となり、と きには反抗の失敗による政治的亡命者となり、あるいは流亡者となって不本意ながらも自 分の郷里を離れていった。

 事態の趨勢はそれだけではない。王朝の国内的権力が弱まってくると、外部のいわゆる 蛮夷の非漢族群の侵攻がしばしば行なわれ、王朝の存立的基盤である経済概乱がしばしば 発生して衰亡の歴史のうえに二重三重の作用を及ぼした。たとえば、紀元317年から620年 の間において 範族(旬奴)の北部から本部内への侵入などはそれであるが、このとき多 くの中国人が追われて、今日の江西、安徽および漸江地方のもっとも平和的と思われる場 所を求めて定住した。そして、ここで彼らは森林地を伐採し、開墾して穀類を栽培し、ま た、養蚕を起してこの地方の中心部を形成する経済開発の基礎を築いたのもその一例であ

る。

 非漢族群によって破壊・撹乱された経済基盤の回復は、漢族群の民族的移動および移住 によって新しい基礎のうえでその均衡を回復したのであるが、従来歴史的に中国人の本拠 といわれるのは、つねに黄河の濁水に洗われている地方に限ぎられていた。北方には花の 都、長安、洛陽はあっても、南方において見るものとしては、漁舟かすかに歌う長江の流 れしがなかった。揚子江の南北にまたがり南方の大国として戦国(紀元前468〜221年)の

(3)

華僑発展史と経済と社会 153 強豪を支配していた楚の領域には、秦を経て漢になっても封鎖的な経済を営む農民が森林 におおわれた野山を焼き払っては水を旧いで水田の耕作にしたがい、あるいは沼沢に漁舟 を浮べて漁猟を事とし、かすかな生計を営なみ、貧弱な土器を使用してその日の用を便じ ていた。前漢末には王奔は南陽の新野(河南省の南部)において、方里におよぶ大地域を支 配したが、これらの地方における前漢以来の中国人(漢人)の努力は、一その開拓を高め、

人口の増大とともに富力をも向上さした。後漢の光武帝が後顧の憂いなく漢室の復興に力 をつくしたのも、実に南陽における豪族の一致したカによるものである。王葬の大乱に当 って中原の名族は准洒を下って会稽に至り、その地に土着したq

 中国人(漢族群)のこれら地方における開発の模様は、後漢の初;期(紀元67年)には盧 江郡(安徽省中部)をめぐる揚州(長江の河ロー帯の地)に養蚕一三は斉(山東省北部)

      (註4)

が原産地一が行われるようになったことによってもその一班を窺うことができる。

 しかし、紀元465〜317年頃になると、中国の北・西部では蛮夷(非漢族群)の居住する ものが漢人と相半ばする状態になった。それは三代以来投降した非漢族群を国内の人口稀 薄の土地に移住させる政策がとられたのが原因であった。つまり、後漢以後にこのような 情勢の変化が進展したのは、第1に旬奴の大勢力が潰滅し、アジア大陸内部の諸民族の大 規模な移動が開始されたためである。その結果移動の波は、西方ではゲルマン民族の移動 をひきおこしローマ帝国を崩壊さした。また第2には、中国内においても八王の乱がおこ

り、それらの異民族が蜂起して大混乱に陥ったためである。すなわち、当時の非漢族群は       てい きよう

モンゴル系の二心・掲・鮮卑、チベット系の琢・莞などであり、これを総称して《五胡》

と呼んだ。そのなかでも南山奴の二二の劉渕は国を漢と号して最も勢力があり、その子の 劉聡のとき洛陽、長安をおとしいれて二二を亡ぼしてしまった。

 この混乱期を永嘉の乱というが、それ以来、華北では五胡十六国と呼ばれる非漢族群の 政権が興亡を続け、農民の流亡ははなはだしく、また各地の豪族も防壁にたてこもって自 己防衛をはかるといった状況であった。非漢族の支配者はとかく漢人を馬鹿にして、漢狗

・一銭漢などと呼んだので、それ以来、悪漢・痴漢・大食漢などと悪口をいうのに漢の字を つけるようになったという。ともかく、永嘉の乱は、漢族の歴史のなかでも有数の大移動 を引き起した。そして宋朝の南渡以後、南北文化の交流に大きな影響を与えたのである。

永嘉の乱によって、漢族群としてまず福建に入っのは林・黄・陳・鄭の4姓の中原の士族だ とされている。この当時、この地方にいた晋の王族司馬容(元三)は、彼らの支持をえて 東晋王朝(紀元317年)を開いたが、その名族のなかには、その後さらに東南アジア地方 に移住し、たとえば林姓のごときは西ボルネオのポンチアナ(Pontianak,坤旬)1帯に おいて華僑として一大族を形成する勢力を扶植した。(註5)

 歴史過程の進展は紀元605年の階の蜴帝の時代になると、中国の南・北部もすでに統一 をみた。この初年には南部は林邑(安南)を征服して、その地を蕩・農・沖の3州とな

        とよくこん       ぜんぜん       しょまっ

し、さらに西部は吐谷渾(青海地方)を撃って、また都善(新彊省ピジャン)・且末(新

(4)

彊省チエルチェン)・西河・河源の4郡を設置した。 「階書地理誌」には、その時代東南        きわま はみな海に至り、西は血石に至り、北は五原に至って垂直の盛んなることここに極った。

と述べている。(註6)

 また「副書」の食貨志には、東区の元帝時代(紀元317〜322年)、人民の北方から南方 に移住するものを《僑人》と呼び、彼らはみな新しい移住地に故郷の名をとって郡・県 を僑立したとある。こうしで南遷を余儀なくされた漢族群(漢民族)の歴史をみると、そ の中に一貫して流れているのは、失われた郷土の再現と同族結集の強い意識であった。

受動的に中国南部一華南の諸地方に《僑居》(閉り住い)しなければならなかった彼ら は、そこに郷里と同じ名称の郡・県を《僑立》することによって、望郷の念を満たそう としたのである。

 《華僑》とは、以上のような歴史的な意味合を込めて、海外で生活する中国人の名称 となったのであるが、彼らの前;期の形態として見逃せないのは、自分の郷土に対して、い わば農民的固執性ともいうべき性格をもちながら、本意なくして郷里を離れ、排出されて いくのであるから、どうしてもそこに流亡者的な性格がつきまとうことは当然であったと いうべきであろう。

(註1) 喝The formation of the chinese People,1928. の著者である李済博士は、その著    において、漢族をもって中国民族の構成的中核体となし、これをWe−Groupと呼び、これ    に対する他の要素をYou−Groupと呼び、中国民族の《民族》としての不断の発展と形    成過程は、中国の地理的自然的条件のもとにおける社会的経済的条件の制約によってこの    We−GrouP(漢族群)とYou−Group(非漢族群)との接触面をますます拡大させながら    文化的基幹族ともいうべき漢族群は異質的要素たる非漢族群を吸収同化し中国民族化してい    く拡充的形成過程を社会科学的視点から解明している。わたくしはこの点に注目した。(須    山訳「支那民族の形成」昭和18年、生活社)

(註2) オーエン・ラティモア「中国」小川修訳、岩波新書87−88頁

(註3) 志田不動磨…「東洋中世史」194頁

(註4) 志田不動磨「前掲書」205頁

(註5) 西ボルネオのポンチアナ在住の林という入は、譜系によって私の遠き祖先は中原から福建       あざな

   の蓄田に移住したことが証明できると称している。唐時代に林披、字茂則なる入は、天宝    11年(紀元752年)臨汀の属官を授けられ、その子供9入はいずれも刺史(漢唐時代の州の    長官)となり、福建南部の名望の家柄となった。清の道光年代(1821〜1850年)に林一家    の1人は西ボルネオに移住し、現在ポンチアナ一帯では、鳴浜は一大族をなしている。(陳    達著「南洋華僑と福建・広東社会」満鉄東亜経済調査局訳、9頁)

(註6) 顧頷剛・史念海「中国出域沿革史」商務印書舘167頁

(5)

華僑発展史と経済と社会

華僑の歴史的発展段階

155

A 中国人と海外との接触

 華僑の海外発展を論ずるにあたっては、まず、中国人と海外との接触の早期の段階につ いて概観する必要がある。このさい一般に海外との接触を現実的に媒介するものは、それ ぞれの時代における海外交通である。すなわち、いわゆる人類が文明の時期にはいるや、

人間労働の発達によって交換生活が氏族間、民族間、国民間に発展するにともなって、海 外交通は古くから行なわれていたのであり、その意味で古代においても、中世において、

それぞれの規模と特質とをもった海外交通を知っていたわけである。

 中国における初期の海外交通の開始は、紀元前にすでに陸路によりヨーロッパと往来し          (註1)

たことが知られている。漢の武帝の時には張蕎、班超はしばしば西域(新彊)に赴いた

     ボ ハ ラ

が、張鷹は布恰爾に到着して、そこで中国入の竹細工職人およびそのほかの商人を見たこ とを伝えている。そして、彼が、これらの中国人に対してどうして此処に来たかをたずね たところ、西南中国、インドおよび中央アジア闘の交易はすでに久しく行なわれおり一こ れは紀元前ユ00年のことである一また、その道路はさらに西方に通じていると語ったと伝        、

えている。 (註2)

 また、小アジア・アルメニアの歴史家の記述によると、紀元前1世紀にすでに中国入が 同国に移住しその後喬は栄えて多くは同国の要職についたということである。(註3)

 広東方面とインドシナとの間には上古から交通があったが、秦が嶺南に3郡(桂林・象

・南海)をおき、漢がその後をうけて経営を進めるにおよんで、交通はますます発達し、

広東からインドシナ近海を経て、マレー半島を廻わり、マラッカ海峡を過ぎてインドのカ ンテプラに至る航路が開かれ、インド人、エジプト人などが広東に来航し、中国入もイン ド南端まで往くようになった。(註4)

 ついで西紀l16年(後漢心烹9年)、すなわち後漢の三二の治世中に、大秦王(東ロー マ皇帝)マルクス・アウレリウス・アントニヌス(三三)から中国へ1人の使節が派遣さ れたが、これは中国とヨーロッパとの使節交通として最初のものである。このとき使節       トンキン

は、海路によってインドシナの東京(日南)に来り、そこの国境から入国した。「後漢書 巻88、大秦国伝」に「日南より外国人が来り、象牙・犀角・玖瑠を献上し、はじめて交通 す」といっているのがこれである。また、同じ二二の治世にはこの同じ交趾(インドシ       てんじく

ナ)への海路を通って天竺(インド)からの使節が来朝している。

 このころ、ローマ人はインド貿易にさかんに従事していたので、ローマごインドニ中国 に通ずる陸上および海上ルートは、すでにインド人によって開かれた海上ルートであり、

ローマ人はこの海路によって中国に来り、インド人にまじって交易を求めたのである。そ して、それとともに中国商人もまたこのルートを経由してローマ・インド・中国の間を往 来して海外との接触を始めた。

(6)

 ところが海外との接触は唐・宋の時代に至れば、中国と海外との通商ならびに朝貢が盛 んとなり、中国使節の東南アジアに往来する者や僧侶の法を求めてインドに赴くものが非 常にひんぱんになってきた。とくに朝貢については、中国の歴代王朝はその周辺諸民族

(非漢族群)国をいっさい服従国と見なし、その服従を前提に貿易を認めていた。服従国 もまた中国皇帝に対しては、その従属の印しとして土産の物品を貢献し、それに対して王 朝側もまたその賞賜品として異民族(非漢族群)に需要のある特産物(絹織物など)を給付 するなどの形式によって《朝貢貿易》を行なったが、王朝はそれを自己の政府統制下に おいた。つまり、いわゆる2世紀以来の朝貢の継続はとりも直さず、こうした意味での貿 易活動を主たる内容とするものであった。しかも、東南アジアの場合は、ヨーロッパ諸国

に較べて民間に資本蓄積がなされ、商人が活躍するのは非常におくれて発足したため、近 代以前には政治上の権力者が同時に経済力をもっていたことから、危険の大きな可能性が あり、しかも大資本を必要とする海上商業は、ほぼ各地の政治的権力者たる王侯のみが営 みえたのが実情であった。中国との朝貢貿易が他面に《王室間貿易》であるといわれて いるのもぞうした理由によるものである。なおそれ以後の経済の発展は、最早これまでの 貢納、下賜だけの貨物交換では、発達した経済社会の要求に応じきれなくなってきたの で、正式の朝貢品のほかに、王侯や朝貢使節の付載貨物が許容され、一定条件のもとで売 却し、その代価で中国商品を購入して帰国することが認められるようになった。

(註1) 張星浪「中西交通史料三三第1冊・古代中国与欧州之交通」1頁

(註2) 向達「中西交通史」中華書局12頁

(註3) ヘンリ・ユール「東西交渉史一支那及び支那への道一」東亜史研究会三編180頁

(註4) 加藤繁「支那経済史概説」l14頁

(註5) 張星浪「前掲書」4頁

B 求法僧の先駆的役割

 これらの朝貢貿易が海外との接触を拡大していく過程において、同時代的に注目される        ほっけんのは僧侶のインドへ赴くものが多くなって きた点である。なかでも東晋の法顕は、最初に 陸路によって西域を経由してインドに赴き、帰途海路によって南海を経て中国に帰着した 僧侶として有名である。そして、帰国後間もない416年に脱稿した自らの旅行記「仏国記」

は彼のインド留学記として、また往復途上の見聞録であるという理由にとどまらず、華僑 の発展史のうえで先駆的な活動の記録として注目されなければならないものであるbそれ によると、賦払は東晋の安帝の隆安3年(紀元399年)に同志10余人と長安を出発して西      うてん

域に向い、上聞国(西域の国名)からパミールの高嶺を越えてインドに入り、梵語を学び        タ マ リテイ

仏教を究め、仏蹟を巡拝し経論を求め、今のベンガル方面、当時の多摩直言から船に乗っ てシーランに至り、とどまること約2年にして帰途についたが、途中大風に南って漂流       ヤ パジィ

し、百余日の惨苦をなめて耶婆提国(ジャワ島)に着き、5カ,月間滞在したのち、義熈9年

(7)

華僑発展史と経済と社会 157  (紀元413年)4月にここを出発し、また難航をつづけてその7月に山東の長広郡不其県

牢山の南岸、すなわち今の青島の東、労山の下に帰えりついたのである。(註1)

 この航海によって東南アジア(旧南洋)に関する新しい知識をもたらす結果になった が、それは耶婆提国に関しての情報であった。考証によると、この耶婆船脚は今日のジャ ワ島であるというのが通説になっているが、ジャワ島というだけで、それが何処の地点を 指すのかが明確でない。しかし、ともかぐこの航海記によって観察すると、インドからの 移民がジャワに多数居住していることが記され、彼らは母国と交通しているだけでなく、

中国とも交通を行なっていることが明らかにされているが、中国人の場合には、彼らがジ ャワへ移住したことについても、また、貿易を開いていた者についても何らの報告がなさ れていない。この点は全く奇異と言わざるを得ない。

 それゆえ彼の旅行記中のセイロンの寺院巡回記の一部をここで抄すると、法曽は故国を 旅立って以来数年を経ており、同志10余人のうち病死したり、離れたりして無事インドに 到達しえたのは法顕ただ一人であったといわれている。このような状況にあった当時の彼 としては、談話の相手もなく全く孤独の旅を続け、異国で眺ある動植物は故国と異なり慰 撫の様子を見るにおよんで、おのつと望郷の情切なるものがあったに違いない。彼は写る 日のこと、仏像のかたわらに座していたとき、商人が参詣にきて中国からもち帰えった 現珀織の扇を供えたのをみて、一層望郷の念が胸にあふれ眼に涙を浮べたと記述してい

る。

 法顕はこのような想いを胸に抱きながらジャワに渡り、約半歳の聞を滞在したのである から、同国人である華僑の居住を探し求めない筈はないとも思われる。また、華僑と面談 したとすれば、旅行記中のどこかに述べられていなければならない。それが見当らないの は不思議といえば不思議である。なお彼の滞在は12月から5月までであり、この期間は季 節嵐の関係で帆船にとっては北方より渡航するのに最も良い時;期であるとせられており、

もしこの当時、中国との間に交通があり、貿易が開かれていたとすれば、すでに中国商人 の移住者(華僑)がいないことはない筈である。ところが法顕の旅行記にそれが一語も発 見できない点からみれば、果してその当時中国との交通はまだ開かれていなかったのであ ろうか。もしそうだとすれば、これを規制したこの時期の中国の国内情勢はどうであった のか、また、なぜこの時の中国商人はジャワへ渡航できなかったのか、といった疑問が生 ぜざるをえない。この疑問に答える史実によっての証明は、つぎの事柄に関してだけ指摘 することができるであろう。すなわち、その当時の中国商人は海外発展に対してまだ消極 的であり、また、漢末以来の国内情勢も一体に混沌として華南地方は中原の版図内に包括 されたもののまだ十分に開発されないままに、中原勢力の政治経済的影響力から遠くに取 りのこされていた。このことは華南地方の沿岸民にとうて商業活動的なセンスはあって も、これを現実的に実現化するだけの刺激的経済動機にはなりえなかった。したがって、

この地方とジャワとの交通はこの時まではむしろ、自然的状態に近く隅然的・散発的であ

(8)

り、すぐれて一般化するだけの事情にはなかったようである。

 こうした状況下にあったジャワにおける華僑の居住は、インド移民の多数に比較してま だ存在的にも、また情勢からいっても注目を引かなかったことが、《法官伝》の記述の 中から消えてしまった原因であるかも知れない。

 ともかくも、法顕が単身で長;期間の海外旅行を終えて無事帰国できたことは、この時代 としてはまさに画期的な出来事であったばかりでなく、中国人として初めての海路の旅行 者としての記録を残したのであるから、それだけでも特筆大書すべきものだといえる。そ れ以来、時代を追って中国僧侶の入竺求法による海外旅行は、国内の仏教の発達に照応し て唐伐の前半においてピークに達する有様となった。そして、それにともなって記録に残 された旅行記もいよいよ具体的な内容をもって談られるようになり、東南アジア地域に関 する交通事情はもとより、文化風俗、経済および政治などにわたっても多面的に照介され ることになって、国内の人民の海外知識の面においても少なからざる開発的役割を果し

た。

 このようにして、求法僧1呂の諸見聞は直接には華僑としての発展的契機と実生活には結 びつかなかったけれども、それが華僑発展の先駆として、精神的に影響を与えた外部から のimpactによる意味合いは高く評価されなければならない。ここで入竺僧侶の通過し た東南アジア諸国を年代順に記してみればつぎの通りである。

曇 無

(同侶25人)

(弟子1人)

(他2人)

入竺僧侶の東南アジア経由地

 本   籍 山西・平陽・武陽

三州・黄竜

四川・清城

四川・成都

四川・成都 安南・交州

年代  往帰路

 399   帰  416

420

664

 経由地

セ イ ロ ン

師 子 国

ジ  ヤ   ワ

耶婆提

イ  ン  ド

天   竺

ジ  ヤ   ワ

詞 陵 国

ス マ  ト ラ

末羅楡国

ハ  ノ  イ

交   趾 詞 陵 国

師子 国

字 ンボジ ア

扶   南

マ    レ    

郎迦戌亥 子 座 尻 陵 国 交   誉 詞 陵 国

ノミ レ ン バ ン

室利仏逝

(9)

華僑発展史と経済と社会

解 脱 天

窺    沖

大 乗 三

(1人)

安南・交州 安南・交州 安南・愛州 以南・交州 三三・愛州

高昌

河南・洛陽 河南・洛陽 湖北・江陵

湖北・江陵 湖北・曲譜 河南・裏陽 湖南・狂騰 湖北・江田

河南・洛陽 湖北・荊州 湖北・刑州 梁 州 湖南・濫州 直隷・荘陽 山西・晋州 栄州 広東・広州 河南・雍丘 河南・洛陽 山東・東莱

683 692 671 694

702 719

往帰

南海諸国

師 子 州 西 印 度

カ   ン  ガ

掠 伽 河

セ イ ロ ン

二三羅国

シ  ヤ   ム

社謡扇国師 子 国

カ ラ キ タ

耽摩立底 室利仏果

159

交趾・詞単 二 盆 国

郎迦下国

野崎(交趾)・郎迦・

  ニコパル

詞陵・韓国・耽摩立底 勢利鶏領国

チ ヤ ン バ

占  婆

印   度 師 子 国

     マ  レ   

室利仏逝・末羅喩州 ケダ ナカバダム 翔茶・那伽鉢壇那 交霊・室野仏逝      チヤンパ

詞陵・掲茶・胆波 罫陵・娼茶・鯨波 野営・勇胆・胆波

バ レ ン パ ン

室二仏二

仏逝国・未羅喩国・

掲茶・裸人国

室利仏果 室利仏逝 室利仏逝 三三仏逝

室利仏逝・師子国 学講・三型・師子国・

印度  (註2)

 以上にみられるように、36人はインド、セイロンのほかマレー半島、スマトラ、ジャワ にも往来している。この地方はこれら僧侶の往来とともにようやく中国商人の往来も盛ん に行なわれるようになり、また、現地にも居留して華僑になるものも少くなかった。かく

(10)

して、中国僧侶の活躍と役割については、華僑発展史の面で2つの側面での意味を重ねて 強調しておく必要がある。その1つは彼ら自身は直接華僑として定住的の海外発展をなし たわけでないが、その役割においては歴史的には海外交通の先駆者として、また、その後 の華僑の発展に対する影響力において開拓的刺激になったこと。第2には、漢人の海外発 展が全く消極的であった時期において、率先してその身の危険をも顧みず海洋に出て、中 国人の海外発展を精神的に鼓舞激励するにあずかって力あったことは歴史的に評価されね ばならない重要なことである。何れにしても南海交通の黎明;期における彼らの功績は偉大 なものであった。 (註3)

(註1) 石田幹之助「南海に関する支那史料」71頁

(註2) 温雄飛「南洋華僑史」24〜30頁

(註3) 成田節男「華僑史」19頁

C アラブ商人の出現と中国商人の登場

 求法僧の活動は以上のように5世紀に始まり、唐代に至って一層盛んになったが、中国 と東南アジアとの接触関係を現わす主要な他の側面の動きは、この頃から東南アジア貿易 に活躍するようになったアラブ商人の出現と、これにならって中国商人の登場が注目され

る。

 この頃、中国の外部世界ではサラセン国が勃興し、第7世紀の初めには西南アジアをそ の勢力下においた。そして、この世紀の半頃からアラブ商人は盛んにインド洋に航行し、

スマトラ、ジャワなどの地点から、さらに中国まで来って広州、泉州、杭州などの諸港に おいて貿易を開始した。当時、中国は唐(紀元624〜907年)の時代であったが、唐朝はこ れらの貿易港に貿易事務をつかさどる《市野司》(官庁)、もしくは市舶務をおいて貿易 を監督せしめ、香料、樟脳、紫檀などの輸入品に対して原価の10分の1ないし10分の3の 関税を徴収させ、国際取引きを目的にした《互市》を開いた。したがって、これらの諸 学にはアラブ人、インド人、南洋諸国人など多数が来航したため居留地が設けられ・それ を蕃坊と呼んだ。そして、これらのいわゆる蕃人たちは、互市貿易に従事し、西方の珍奇 な風俗や文化をもたらして唐帝国の国際性に華をそえた。唐でぽ外国人に対する差別感が 少なく、中国風の姓を名のり中国に住みついて、唐の官吏や軍人になる外国人も多かっ た。それだけに居留外人の数は1カ所で、多きは数万より10数万にも上ったらしく、唐 末、広州で《黄巣の乱》に遭うて殺された蕃人は12万と伝えられている位である。そし て彼れ来ると共に、われもまた往き、中国の商船はジャワ・スマトラ・セイロンを経由し てペルシア湾に達した。その船体は堅牢であって、乗組員の数700人ないし1,000人に及ぶ

ものもあり、帆のほかに簡単な推進機を用いるものさえ生じ、また、羅針盤が航海に広く 利用されるようになったのも、この時からであった。これより先き、南北朝時代までは、

南海の通航を掌ったものは、主としてインド人であって、中国人もその船舶に便乗したの

(11)

華橋発展史と経済と社会 161 であるが、唐・宋のさいには、中国・インド間の航海は中国人によってろう断され、ペル シア湾の航行に便利な小型の商船しかもたなかったアラブ商人は、インドのキーロンで中 国船に乗りかえて東方へ来るのが通例であった。(註1)

 この当時の中国船の発展は、中国沿岸地方の住民の海外渡航ブームを刺激した。なかで も膨湖列島および台湾への中国人の移住はけん著であった。これら移住民の大部分が中国 の今の華南丁丁のうちの門灯、三州、門門、寧波、汕頭、広東および海南島の諸港から移 住したものであった。彼らはその地理的条件の有利性を利用してジャンク貿易商(the        まこう

junk tradesmen)の先駆として活躍し、とりわけその影響は膨湖島の馬公にみられるご とき中国人文化の中心地を形成するに至った。(註2)

 このほか、中国移民を刺激した当時の事情には、さきほど述べた《黄巣の乱》によっ て、海外に逃れた避難民の多数の排出であった。アラブ人マスーディーの西紀943年代の スマトラ島に関する記述によると「いく多の中国人がこの島で耕作や栽培に従事し、とく にパレンバン(三仏斉)には多くの中国人が居住している。けだし、その国には黄巣の乱        (註3)

を避けてきたものがいるからである」と述べていることによ?てもわかる。当時パレンバ ンは東南アジアにおけるアラブ人の最大の根拠地であり、広東へ渡航するものはみなここ から出港した。これらの事情は黄巣の乱にさいしてアラブ人の避難先きがこの地になった わけであるが、この時また中国人はアラブ人に随伴してここに難を逃れたものであろう。

それ以来、中国人にして南洋にある者を《唐人》(いわゆる華僑)と呼び、中国を唐山と 言い、外国人を《蕃人》と呼ぶ慣用語が生れた(註4)

 中国商人の最初の接触はすでに述べたように海路からするインド人およびアラブ人商人 であったが、唐帝国の国際性はまた陸路よりする外国人の入国を招来し、中国商人との互 市接触の機会と範囲とを拡大した。すなわち、このとき西方諸国の商人で河西諸郡(甘粛 省西部)にきて交易するものは大体において240三国に及んだとされ、徳宗の建中元年

(紀元780年)の頃には西安に居留する外国人(蕃人)は4千三家の多数に上ったという。

他方、中国商人もまた交易のため西域やインドに赴くものも多く、その往来する商路は、

      (註5)

陵西の西安より甘粛を経て新彊の塔里木河より西アジアに達していた。しかし、9世紀末 になると、東サラセン王国に内乱が発生して西アジアー帯にも波及したので、これまでの 陸路貿易はこのために阻害されることになり、宋の時代の対外貿易としてはわずかに海路 を主にしての交易が行なわれるにすぎなかった。

 当時の取引商品として注目されるのは、この頃の王侯や特殊的支配階級の需要を反映し て、輸出入商品も主として香料、樟脳、紫檀、宝石、象牙、珊瑚、刀劔、更紗、織物など の贅沢品や珍奇な物品に限ぎられているのが特徴であった。したがって、これら商品を対 象とする国際間の取引においての商人の役割は、従来の中国の歴代王朝が商人に対して一 貫して《重農抑商政策》をおこなってきた歴史過程をみれば、この頃においてもまだ商 人が賎民あつかいを受ける条件に変化がなかったので、商人がこうした身分上の地位から

(12)

解放されない限ぎり、資本蓄積を行なって大型の商取引に応ずるだけの実力と能力とを発 揮するまでには至らなかった。だから事実上、この取引に従事したのは、広州・交趾の富 商や地方官憲の一部に限ぎられる独占貿易であった。

 こうして外国貿易は、一部の貴族や富商の掌握するいわゆる官業貿易・王朝貿易の形態 をとりながら継続されていた。しかも王朝は外国人(蕃人)に対する中国一流の面目を維 持するために一貫して朝貢の形式を重んずることによって、外国商品に対しては《朝 貢》《貢納》の名目によって収受し、それへの反対給付として、絹その他の中国物産を

《賜物》として与えるのがならわしであった。

 このようにして、官業貿易・王朝貿易に対しては「政府の独占が宣言されていただけで

   こくじ

なく、国詰を押した信任状をたずさえ、貨幣二と諸物品を供給され、南洋の商人を招請し、

海外から中国に貿易しにくるようにすることを目的とした特使が天子により外国に派遣さ れた程であった。」(註6)

 政府による外国貿易の国家的独占は、貿易の漸次的発達にともなって、ますます強化され 宋代に至って頂点に達した。海外からもたらされる点薬・宝貨は市舶司において買上げ、

       ひそ

官が、これを民間に出出してその間の利益をおさめたのである。秘かに貿易する者は、酷

      げいめん       の の  

刑に処された。ある場合には、鯨面(顔にいれずみをすること)されて流刑に処せられ        せきぼつ

た。たとえ、権勢の家にして、自己の資本をもって貿易をなす者でも、家産の半ばを籍没

(かこつけて没収すること)された。つまり、貿易は、官みずから船を具し、資本を給 し、人を選んでこれに当らせたのである。

 輸入された商品は、すでに記したように貴族の奢修需要を充たすための商品であった が、これに対し、輸出されるものは、金・銀・銅銭・鉛・錫・絹・窯器などであった。し たがって、貿易が盛んになるにつれて、金・銀およびとくに銅銭の海外流出が重大化せね ばならなかった。実際、宋代には、その銅銭の流出がはなはだしく、東は日本より、西は アラビアに至るまで、広く散布したのである。しかし、それは中国の幣制の金属的基礎を 危くすることに連っていた。それゆえに、すでに唐手から、金・銀・銅銭を与えて互市す ることについては、禁令があらた。それにもかかわらず実際には、貴金属、とりわけ銅銭 の流出は多量に上ったのである。政府は、むろん、漸次増大する外国貿易の利益をおさめ ることができた。

 しかし「この貿易を前進させようとする政府の熱心な努力はまもなく失敗に帰した。天 子の倉庫はたちまち、象牙・犀角・玉石・香料その他一切の南洋の貴重貨物でみたされた。

これらの商品の販路を見出すために地方官吏は人民を強制して、金・織物・米および稲な どに代えてそれを買わせることを命ぜられた。」(註7)

 政府と結托して貿易に従事した一部の富商や権勢の家は、ますます蓄積を増大して豪商 や豪族となったが、没落した一部の富商や権勢の家の者たちは、かい離して海外に流出

し、居留地生活(華僑)に転ずるもの、あるいは華南の海島に蠕居して海賊となり、しば

(13)

華僑発展史と経済と社会 163

しば出入国する貿易船をおそって商品を掠奪する、いわゆる掠奪貿易の先駆者となっ

た。

 「宋書鐘撞伝」および「南臨書蛮夷」はつぎのように記述して南海貿易の模様を伝えて

いる。

  ローマ、インドへの航路はきわめて困難が多いにかかわらず、多数の商船が貿易に従  つた。それは、南海には山卑下宝をおびただしく産し、犀角・蛇珠・火布等々の千名万  品、人の心を虚うするものがあったためである。南海の住民は島ごとに国を建てて統一  なく、宝は山に蔵し、海に隠し貿易に従う商船の利益は莫大なものであり、商人の富は  王を陵ぐものがあった。(註8)

 また、時代的には若干のずれはあるが、一説にはこうも述べている。

  唐時代には宮廷宮司が、外国の商品を先買する権利を有せしのみにて、国民の諸蕃と  交易するを全然禁止せしにあらざるを知るべし。文宗の太和8年(西紀834年)の上諭  に

  任下其(蕃客)来住通流。自為中交易上。

 と記しあるに拠れば少くとも、この時代には、蕃商と民間との交易頻る自由なりしこと  を承認せざるべからず。

 その取締を励行せんことを請求せしが如き、何れも当時中国人と…門門との交易に種々弊        モ ポリイ  害を生ぜし、その弊害を除去せんがために、一時取締を厳にせしまでにて、政府の独占  を維持せんがために、民間の交易を制限または禁止せしにあらず。(註9)

 中国商人の登場は、これらの歴史的背景が前提となって始あて可能だったのであり、そ れによって、自己の商業的活動を有利に展開し、海外との接触拡大を通して華僑としての 内実は漸次形成されることになった。

(註1) 加藤繁「支那経済史概説」115〜6頁

(註2) Ta・chen, A. M。;Chinese Migration, with special reference to labor    conditions,1923, P. 4

(註3)

(註4)

(註5)

(註6)

(註7)

(註8)

(註9)

温雄飛「南洋華僑史」36頁

.温雄飛「前掲書」36頁

李皆伝「中国殖民史」商務印書舘、40頁 サファロフ「支那社会史」早川次郎訳、312頁 サファロフ「前掲書」312頁

白寿罪「中国交通史」商務印商舘68〜9頁 桑原包蔵「日蔭庚の事蹟」岩波書店193〜4頁

D 華商発展の盛期

唐・宋の両時代には造船・航海の技術的進歩がみられ、東南アジアにおける中国海商の

(14)

往来は急速にその数を増加してきた。それにしても当時はまだ商船の往来は規則的なもの でなく、自然の季節風を利用して往復するものが多く、航行の期限には季節の制約がとも なった。それにまた現地での商業取引の関係もあって、一年一往復で冬に行って夏に帰え るといったケースが普通になってきた。また、一方には往々にして難破漂着して、各地に 滞在する場合もしばしばであった。こうした状況を、この時;期の広州地方の見聞録として 書いた1119年の「甲州可談」にはつぎの1節がある。

  中国人が南方海上を航海して、その歳のうちに還ってこないのを《往蕃》という。

 諸外国の人が広州にきて、その歳のうちに帰えらないのを《往唐》という。広州地方  の人が航海資金を借りるとすべて利息は十割であって、商船が帰還したら元利ともに返  えすことを約束する。もし往蕃して十年も卜えらなくても、利息は増さない。

 これによって、通商航海にいって、その土地に滞在することは左程に珍らしい現象でな かったことがわかる。同時に、海上商業の資金は高利で借りられ、時として長期にわたる 方式が存在していた事実から、当時の東南アジア貿易の利益が大きかったこと、また、そ の交易が十分に確立されたものであったことが明らかである。(註1)

 かくしてユ2世紀前後になると、東南アジアの主要地域には、中国人の往来もますます多 くなり、また、渡船先きでの定住者すなわち華僑となって在留するものもいよいよ多くな ってきた。この頃に書かれた南海に関する文献・史料には、これらの事情を反映してその 地理風俗について詳細に記述され、たとえば宋の趙汝這による理宗の早撃元年(ユ225年)

9月に成った「諸蕃志」(2巻)あるいは宋の周平野の撰述になる南宋の淳熈年間(l174

〜84年)に書かれた「嶺外馬丁」 (IO巻)、さらには元の注大渕の撰述による順帝の至元 9年(1349年)以前に書かれた「島夷志下」 (3巻)などは一般によく知られるところで ある。これらの文献・史料あ中からi華僑発展史とその経済に関係のある諸部分を摘記すれ ば、当時の華僑の生活形態はつぎのようにスケッチされるであろう。

 (1)ジャワの華僑

 じゃわ      じゃば

 爪畦はすなわち闇下国(福建人により最初に呼ばれた名称)であり、この国は中国と通 商して両者の往来たえず、泉州から船で1ケ月でジャワに達し、中国人の居住を彼地に移        とばん

す者(すなわち華僑となるもの)はなはだ多く、その地に引板(または板並、賭班)と称 する地方があり、移住者には広東人・潭州人・泉州人が多かった。また、東行半日にして

つえうん      しんつん

測村(ギリセーの中国称)に達するが、ここにも中国人が部落をなし新村と名づけられ、

約千評家があって村主は広東人であった。外国船もここに来航して商売を行ない村に金や 宝が充満していたといわれる。また、南へ航行すれば淡水港に至り、小舟で20斜里を行け ばスラバヤに達するが、かたわらに大きな島があって中国人が多い。

 ち ヒんかろ

 重圏羅(今のスラバや地方)国には酋長がなくて年長者がこれを統治している。野板の 東にあって爪隻(モジヨパイト王国を指す)と相接回している。地に細花木棉、椰子の 実、木棉、色物絹を産し、華商は花銀(貨幣類)、花宜絹および各種の布物をもたらし交

(15)

華僑発展史と経済と社会 165 易している。(註2)

  (2) ブイリピンの華僑

 三島(旧史は三喚と記す)は地味がやせて穀類が少なく、風俗慣習ははなはだ純朴であ  って、ここの人民はとくに中国人を敬慕している。男子は常に船舶に便乗して泉州に至  り、留まること数年、資財を傾け華貨を買って帰える(当時泉州は蕃客往来の中心地であ った)。すでにその国に帰えれば、国人は尊長の礼をもってこれを待遇し、上座にすわら せて父老といえどもまたこれに不平を言うことができなかった。習俗が唐(中国)に似て いてこれを貴ぶ風があったからである。この国には黄蝋・木棉・色物の布を産し、華商は 交易の貨物に銅・玉・青白色の茶碗・花模様の更紗・鉄などを用いている(島夷志略)

 まいと 門門(ミンドロ島の古名)では、中国の船舶は交易商品として三鼎・鉄・五色の半金 布・紅絹(赤色無地の絹布)・銀の類をもたらし、蛮人商人が値段をきめて商品を持ち去 り、然る後に代価を支払う。華商は信を守り、蛮人商人もまた決して約束に背くことがな い(島夷志略)。

 まりる 麻里噌(今のマニラの地)、この地は山高く近海には岩礁多くして林が少なく、地気は       いも熱して地味はやせているので、人民の多くは薯芋を植え、人情は義理を重んじている。土        リンネル

地には靴瑚・黄蝋・丁子香・升布・棉花を産する。

 華商の交易には金・青色の布・磁器盤i・三州磁器(処州は今の三江麗水県)、水びん・

大がめ・鉄鼎などの物品が用いられた(島夷三略)。

 す る 蘇禄(今のスルー諸島)の地は、石崎山をもって要塞となし、山をひらいて田をつく       ぎょからこう

り、ただ粟・麦の耕作に適している。人民は沙糊・魚蝦螺蛤(さかな・えびr貝類)を常 食とし、気候は半熱帯で習俗はきわめて下品である。スルーの真珠は色は青白にして円

く、はなはだ高価である。中国人はこれを首飾りに用いているが、その色がさめないので 絶品といわれ、径寸に達するものもある。大きなものは7・8百錠(錠とは門形をした銀 塊で、5両、10両、20両の数種がある)、中形のもので2・3百錠、小形のもので1・20 錠の値段がする℃華商は交易の貨物として赤金(銅)・花銀(貨幣)・三都三布・青珠・

処州磁器・鉄器の類を用いている(四夷志略)。

 (3>ブルネイの華僑

 三門(今のブルネイの古名)の地は、国土が豊饒で、地の利をえて風俗はきわめて贅沢 であり、男女は頭髪をたばねて色物の布を腰に巻き、花錦布の上衣をきて仏像を崇拝する のに熱心である。尊長がいてその国で計算がよくできるものを1人選んで簿記を掌らし め、その出納・徴税に従事させているが、その計算には一寸の誤差もない(ここでの取引 は中国船が到着すると、先ず船から王への贈物があり、取引は1等書記、2等書記各ユ人 と1等助手、技手各1人つつが臨場し衡量・尺度その他をつかさどって監督する風習があ る一筆者註)。土地には回しよ・黄蝋・獣瑠・樟脳を産し、華僑は交易に白銀・赤金・

どんす

鍛子・象牙の箱・鉄器などを用いている。

(16)

 華僑のこの国に居住する者は非常に多く、みな土着民の歓心をえており、その俗は一般 に唐人(中国人)を非常に敬愛していて酔えばすなわちこれをたすけて宿舎に送り帰えし てくれる(三二志略)。

 か  わ ま た

 仮里馬打(今のカリマンタンの地)の地は、低地のため穀類の収穫が困難で気候は酷熱 であり、風俗は一般にあまりよくなくて恥を知らない。芭蕉の実を採って常食としてい る。海水を煮て塩となし、他国の米と交換している。土地ではカヌー(ボート)を作って いるが、大型のものはそれに乗って1日に60里を行くことができる。また、紫獣瑠・鈴羊 などを産出している。華商は交易の商品として琉黄・珊瑚珠・爪三布・硝子珠・花模様の 更紗などを用いている(丁半志略)。      璽

 かうらん

 勾欄山(今のビリトン島)の地は、元が門下に遠征のさい此処を通過したが、その山に 樹木の多いのを見て船千舟艘を造った。病気の兵卒で行を共にできなかった百余人はつい に此処の山中に留まり、唐人と蕃人が雑居している。男女は頭髪をたばねて短い上衣を着 用しサロンを腰に巻いている。土産物には豹・鹿・おおしかの皮・玖瑚などがあり、華商 は穀類・米・雑色絹織物・銅器・青磁などの貨物をもって交易している。(註3)

 (4)スマトラの華僑  すまとら

 蘇門答強(または蘇門答刺、須文答拉)は、宋代の三仏斉(今のパレンバン地方)王国 であり、この地は人口稠密で地味肥沃、気候温暖にして春と夏は常に降雨がある。風俗は 一般に純朴にして清潔であり、家屋は水中の杭柱のうえに建てられている。土産物には珊 瑚木・樟脳・降真香(香木)・濱榔子・木棉織布・伽羅木などがあり、華商は交易に雑色 絹織物・水晶・珠瑳・布匹・銅鍋・鉄鍋などを用いて取引している(島夷志略)。ちなみ

に、「O三斉の位置については、歴史考証のうえで諸説があるが、上記の南下の周回非の

「嶺外代答」巻2に「三三斉は南海の中に在り、諸蕃の水道の要衝なり、東は闇婆諸国よ

   さらせん こうらむ

り西は大食と故臨(インドのキーロン)諸国より諸物資が集まり、その地には元来の物産 は皆無であるが、そこから、中国に送られる」と述べ、また、趙汝等の「諸蕃志」巻上に

「その国は海中にあって諸蕃の船舶往来の咽喉を拒している」といっていることからすれ

・ば、三門斉をそれより西方のジヤンビー地方に推定するのにはいささか疑念がある。

 すむと ら

 須文芋刺(スマトラの西北岸、パセイ河口の西岸に近い《すむどら》附近を中心にし た地方、スマトラ全島の名称はこれより起るという。)この地は峻嶺がそびえ、海に臨ん でいるので地味はやせ、穀物は少なく、風俗も一般に軽薄である。土産物には門真香・円 頂鶴(鶴ではなく頭に骨質の冠をもった大階鳥と思われる一筆者註)・錫などがあり、迦 羅木は高さ丈余に達していて34年を経過したものがある。華商の交易品には外国の絹布

・樟脳・ばら香水・油を塗った傘・青色の布物・五色椴子などがある(島夷志略)。

 なく る

 那孤児国(一名を花面国ともいい、スマトラの西部にある現在のバタ族の前進地)の地 は、気候は熱さが酷びしく、風俗は一般に純朴である。酋長がいて土民は顔面に青色三点 の入墨を施しているから、この国の名をまた入墨国と呼んでいる。土産物には牛・羊・

(17)

華僑発展史と経済と社会 16ワ 鶏・鴨・濱榔の実・甘庶・白蓮・木棉があり、華商のもたらす鉄条・青色二物・粗碗・磁 器などと交易する。船舶がその地に来って交易するのには、たんに日用に供する物品をも

って限度になっているので、他の物品を販売するのは禁ぜられている(島夷志野)。

 らむぶり

 下郷哩(南三門、南無里とも書き、スマトラ島の西端、今のアチエ地方)の土地は、地 やせて穀物が少なく、気候は温暖で一般に劫掠をとうとぶ風習がある。土産物には円頂鶴・

丁丁・降伊香・犀角・白蓮などがあり、各三国に較べて頭地を抜いている。華商は交易に 金・銀・鉄器・ばら香水・紅色絹布・樟脳・青白色の茶碗などの貨物を用いている(島夷 三略)。

 ⑤ マレー半島の華僑

 マレー地方の古の国名には位置とともに今日なお不明のものが少なくなく、異説があっ て疑問も多い。傭承鈎の「中国南洋交通史」に億「マレー半島諸国名の史伝輿記に見られ ているもので、今日考えられるのは大体11力国であるが、ただ国が半島に存するのでもそ       ちいつ  らんがすか

の方向を確定できないものに丹丹(または丁丁)、盤盤、赤土、狼牙脩(または凌二二、

       ばらなん たんズらりんが 龍牙犀角)の4力国があり、確かにその方向を知ることができるのは仏曜安、弓馬令(ま

       ぱはん       けらんたん       とれんがぬ

たは丹丁令、丹眉流)、彰坑(または彰享)、吉蘭丹または急蘭丹)、丁家厘(または丁

    まらつか  じょほる        (言主4)

桟宜)、満刺加、柔仏の7三国である。と記されている。

 島夷志望によると単馬丁との交易に華商は布物・絹布・青白の茶碗をもたらしたとあ り、 (彰坑宋代三二斉の属国三豊であり、今のパタユー地方)の土産物には龍脳・錫・サ        どらゴなどがあり、華商は交易品として各種の絹・じゃば布・銅・鉄器・漆磁器・銅耀などを 船積みしてきた。

 吉蘭丹(宋代三仏斉の属国である)の地は、地勢広大にして山はやせて田畑も少なく、

暑気が酷びしく収穫は培干している。人民は海水を煮て塩を造り、木棉を織るのを生業と している。酋長がいて土産物には上等の沈香・香木・黄蝋・べつ甲・丹頂鶴・横榔の実な どがある。1小港があって水はきわめて深かく塩からくて魚も美しく、また錫を産出して いる。華商は塘頭市布・布物・青盤・花碗・硝子玉・月琴・銅耀などをもたらしている

(島夷志略)。、

 丁家盧(宋代三仏斉の属国登牙儂であり、今日のトレガンヌ地方)の地は山高く、地味 が肥えていて人民の食糧は足りている。春雨多く気候は微熱、風俗はへんなものを尚ぶ。

その酋長は勤倹にして守門の責任を負っている。華商は交易の貨物として青白花磁器・布 物・紅色絹・錫・酒類をもたらしている(島夷志略)。

 りんが 龍営門(シンガポールの古名)の地は、地味やせて米少なく、気候は暑さが酷びしく4

・5月の候には豪雨がある。一般に劫掠を好むという。昔は酋長がいて地を掘って王冠 が出てきたので、この時を歳の初めと定め、酋長は戴冠披服して賀を受け、今に至っても この王冠を相伝授している。華僑の男女が多く居住している。一般に頭髪をたばね、短か い上衣を着て腰にサロンをまとっている。土産物には香木・錫がある。華商の貿易貨物に

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