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(1)

リカードウ 「比較生産費説」 の論理構造とそれを めぐる最近の解釈批判 (I)

その他のタイトル On the Logical Inference in Ricardo's 'Comparative Costs Theory' (I)

著者 吉信 粛

雑誌名 關西大學商學論集

巻 35

号 1

ページ 52‑84

発行年 1990‑04‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00019910

(2)

52(52) 

関西大学商学論集第

35

巻第

1

(1990

4

月 )

リカードウ「比較生産費説」の論理構造と それをめぐる最近の解釈批判 (I)

目 次

はじめに

]I 

問題の提起

吉 信 粛

III 

行沢教授の見解に対する疑問と検討課題

N  W.O. 

スウェット

(William0.  Thweatt)

教授の見解

(以上,本号•第35巻第 1 号)

ミル父子のリカードゥ継承をめぐる w . o . スウェット 教授の新見解

VI 

リカードゥ理論の論理構造

可 むすび—リカードゥ理論の限界一一

(以上,次号•第35巻第 2 号)

はじめに

リカードウの『経済学およぴ課税の原理』第 7 章「外国貿易論」について は,それが世に出されて以来おおくの事が語られてきた。それはすでに,ぁ らゆる側面で論じ尽くされたかの如き観さえあるといってよいのかもしれな い。それが生まれたイギリス本国においては, リカードウが世を去るやいな ゃ,早くもその次世代を担うものによって,本来のそれとは別とも考えられ うるそれに対する新しい解釈がなされ,さらにいくつかのその解釈に対する 改良• 発展やそのオリジナリティをめぐる論争を経ながら今日におよんでお り,それは欧米の通常の国際経済学一般の共通した認識にもつながっている。

わが国においては,こうした認識をふまえつつも,欧米とはまた異なった

学問的伝統の中で,むしろより広い立場を含む視点から古典派経済学として

(3)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

(53)53 

最近の解釈批判

(I)

( 吉 信 )

のリカードウ「外国貿易論」が取り上げられてきたのであり,国際経済学も しくは外国貿易論の研究に志すものは,いつかはこれに挑戦し,自らの視点 と立場を構築するのが,従来からの研究の道程を成してきたかのように見え る 。

こうしたリカードウ「外国貿易論」研究の流れの中で,

1960

年代後半から

70

年代にかけては,ある意味で一つの転換点を形成するものといってよいの かもしれない。それは必ずしも同じ方向ではないのであるが,限られた視角 とはいえリカードウ自身の叙述を忠実にたどることによって,新しいなんら かの着想を得ようという試みを意味している。すなわち,一つは従来の先入 的観念を前提としつつリカードウ自身の叙述それ自体の中に曖昧さや不合理 性を論証しようとする方向であり,他の一つはその叙述に厳密にもとづくこ とによって,逆に先入的観念とは異なった意義をそこに見いだすとともに,

そこからの新たな学説的継承関係を論証しようとする方向である。

筆者は,すでに「リカードウ『外国貿易論』をめぐる若干の諸問題」とい

(1) 

う論文において,その経済学説全体に占める位置づけをもっぱら考察した が,その具体的理論内容に立ち入って究明することは後の論文に委ねた。こ こに論述しようとするものは,こうした新しい議論の展開を検討すると共 に,その意味では前稿の継続ともいうべきものであり,また,少し前に『経

(2) 

済』誌に「リカードウの詭」という小文を書いたことがあるが,それに対す る謎ときの解答でもある。

Il  問題の提起

(1) 

J.S. 

チップマン

(JohnS.  Chipman)

教授の見解

ミネソク大学のチップマン教授は,

1965

年に

"ECONOMETRICA"

に寄 (1)  吉信粛「リカードウ外国貿易論をめぐる若千の諸問題」,関西大学「商学論集」,

第22巻第 3• 4

号 ,

1977

年1

0

月 。

(2) 

吉信粛「リカードウの謎」,「経済」,

No.293, 1988

9

月 。

(4)

54(54) 

35

巻 第

1

稿した国際貿易論にかんする長大なサーヴェィ論文において,次のように述 べることによって,通念的なリカードゥ理論の解釈に対して決定的な疑問を 投げかけ,この分野の研究者を驚かせた。

「二国間の貿易を支配する法則に関するリカードウの叙述は著しく簡潔で あり,不明確さから完全には解放されていない。イギリスとボルトガルの間 の服地とぶどう酒における彼の有名な設例において,彼は次のようにいう

(1817,  p.135)

。即ち,『バラグラフ⑧

(3) 

イギリスは服地を生産するのに

1

年間

100

人の労働を要し,またもしもプドゥ酒を醸造しようと試みるなら同一 時間に

120

人の労働を要するかもしれない,そういった事情のもとにあると しよう。それゆえに,イギリスは,ブドゥ酒を輸入し,それを服地の輸出に よって購買するのがその利益であることを知るであろう。』これは,ポルト ガルについては一切何もいわれていないから,不合理な推論

(nonsequitur) 

である。事実,議論は尺度単位をもう一度定義することによってのみ転回さ れうるであろう。次の章句も,最初のものとの関連において読まれる場合を 除いては,等しく不十分なものである。即ち,『パラグラフ④ ボルトガル でプドゥ酒を醸造するには,

1

年間

80

人の労働を要するにすぎず,また同国 で服地を生産するには,同一時間に

90

人の労働を要するかもしれない。それ ゆえに,その国にとっては服地とひきかえにプドゥ酒を輸出するのが有利で あろう。』しかしリカードウは,すぐ後に続く章句において,後に比較生産費 法則と呼ばれることになったものの正しい説明を行うことによって,自らを 救っている。

経済学説史家は比較生産費法則に対するプライオリティがリカードウ

(1817)

かトレンズ

(1808, 1815)

か,どちらに対して与えられるべきかを 論争してきた。

Seligman(1903,  1911),  Hollander (1910,  1911),  Viner 

(1937, pp. 441‑7), Schumpeter (1954, pp. 904‑8), 

および

Robins(1958, 

(3) 

ここにバラグラフ⑧と書いてあるのは,以下のリカードウからの引用文を指し

ており,便宜上リカードウの文章の特定の部分を①③⑧というように指定するも

のである。これは,後に述べる行沢教授の用法に従っている。

(5)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

(55)55  pp.1835)

をみよ。論争は集中的に次の問題をめぐって行われた。

(4)  (1)トレ

ンズが原理を最初に述べたのかどうか, ( 2 ) もしそうだとすれば,

<述べられたのかどうか, ( 3 ) もしそうだとすれば,

それは正し それはリカードウから独 立して述べられたのかどうか。 リカードウ自身の法則叙述は,彼がそれを真 に理解していたのかどうかについて,なんらかの疑いを投げかけるのに十分 なほど全く欠如しており,最善の場合でも,彼の説明には不注意な言葉が使 われているということは, これまで認識されてこなかったように思われる のである。」

(J.

s .  

Chipman,'A Survey of  the Theory of Internatio nal  Trade :Part  1,  The Classical  Theory', 

33,  Number 3,  July,  1965,  pp. 479480)

確かに,

Econometrica,  Volume 

チップマン教授の言うように,引用されている箇所だけを取り上 げてその論理を逐一追うならば,それぞれ単独の「それゆえに」という推論 は成り立ち得ないのは明らかである。そしてまた,引用されている文章全体 をもって,

ものであり,

この推論が初めて成り立つという理解からすれば,「それゆえに」

という論理の帰結を表わす言葉は不注意に使われているというよりほかない その論理構造の把握という点においては,

いをさしはさまれても仕方のないものであろう。

その正確な認識に疑 リカードゥ後のほとんど全 ての経済学者は,引用された文章を全体として読むように教え込まされ,

たそこに意義があるように理解してきたのである。

したがって,少なくとも 原文における最初の「それゆえに」は, リカードウ自身が認めた彼の文章作 成技術上の稚拙さか,重大なことを主張せんとする強調のための許されるべ き論点先取りの結論として無視されるかしてきたといってよいと思われるの である。現にわれわれが,この文章を基礎にして教科書的に「比較生産費

(4)

英文括弧内の年号は,チップマン教授の論文の

Refferences

におけるそれぞ れの著者の論文執筆年を示している。直接,教授の論文を参照されたい。なお,

プライオリティに関する論争については, 筆者の論文「比較生産費説の生成に

かんする一考察― R .

Torrens

TheEconomists  Refuted

を中心にして

ー」,「経済研究」,第 11 巻第

1

号 ,

1960

1

月,を参照。

(6)

56(56) 

35

巻 第

1

説」を説明する場合の取扱の仕方を考えてみれば,そのことは明らかであろ う。それは今でも普通に行なわれているし,今後も一般には続けられるであ ろう。 リカードウとトレンズとの間における「比較生産費説」をめぐるプラ イオリティ論争においても,このリカードウの論理そのものは,論点として 問題とされ取り上げられるということはなかったのである。こうした「常 識」に,あえて異を唱えたところにチップマン教授の指摘のある意味での新 しさがあった。だが,どうしてこのようなことが学問の世界において承認さ れ,しかも長い間にわたって続けられてきたのか。

(2) 

行沢健三教授の見解

京都大学経済研究所の故行沢教授は,

1974

1

月における「リカードゥ

『比較生産費説』の原型理解と変型理解」およびそれをさらに発展させた 1978年10 月における「古典派貿易理論の形成—リカードゥとミル父子一」

(5) 

という二つの論文において,チップマン教授とは異なった視角からではある が,上述の問題を日本においてはじめて公に取り扱った。ここでは「改善さ れた」叙述になっている後者に主として拠りながら,その主張を検討してみ

よう。

まず行沢教授によって名づけられた「原型理解」と「変型理解」について 紹介しておくと,行沢教授はチップマン教授によって引用されたリカードウ の原文の二つ前のパラグラフから出発することによって,「それゆえに」の 有効性を主張し,そのようにリカードウのこの箇所の論理構造を理解した場 合に,それを「原型理解」と呼び,そうでなくパラグラフ③,④を同時に読 み込む通常の

2

2

財モデルによる説明の仕方を「変型理解」と呼んでい る。リカードウの原文における二つ前からのパラグラフとは,次のようであ

(5) 

行沢健三「リカードゥ「比較生産費説」の原型理解と変型理解」,中央大学「商 学論纂」,第

15

巻第

6

号 ,

1974

1

月(森田桐郎編著「国際貿易の古典理論」,同 文舘,

1988

年に再録),同「古典派貿易理論の形成ーーリカードゥとミル父子―」,

行沢健三・田中真晴・乎井俊彦・山口和男絹「社会科学の方法と歴史—出口勇

蔵教授古希記念論文集一」, ミネルヴァ書房,

1978

10

月,所収。

(7)

る 。

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

(57)57 

「パラグラフ① 仮にボルトガルが他の諸国との通商関係を全くもたない その資本と勤労の大部分をプドゥ酒の生産に使用し,

それをもって自国用のために他の諸国の服地や鉄器類を購買するかわりに,

その資本の一部分をそれらの商品の製造に向けることを余儀なくされ,

とすれば, この国は,

した がっておそらく量ばかりでなく質においても劣ったものを取得することにな るであろう。

パラグラフ③ この国がイギリスの服地とひきかえに与えるであろうプド ゥ酒の分量は,仮にこれら両商品が共にイギリスで製造されるか, あるいは 共にボルトガルで製造されるならばそうであろうように, おのおのの生産に 向けられる労働のそれぞれの分量によって,決定されるのではない。」(リカ ードウ,堀経夫訳『経済学および課税の原理』,『リカードウ全集』,第

I

巻 ,

134135

ページ〔原〕,以後リカードウからの引用は,原則としてこの全集 本の翻訳を用いることとし,ページ数は,原書のページを示すものとする。)

とりわけここで肝心なのは, 2 番目のパラグラフであって, その主語を形 成する文節の含意するところをより詳しく述べれば, この国, すなわちパラ グラフ①に示されるところのボルトガルが,現に通商関係を有する他の諸国 のうちの一国であるイギリスの服地の

X

量とひきかえに与えるであろうプド ゥ酒の

y

量,ということになるであろう。行沢教授は

the

と い う 定 冠 詞 の 存在によってその量が予め決定されていると指摘しているが,実行される交 換が想定される以上は両商品の分量は当然のこととして定められていると考

(6) 

えざるを得ない。そして,そのままのそれらの分量ー一これがきわめて重要

(6) 

この分量がなんらかの尺度で表示されることによって,正確には一定量の商品

が示されることになろう。

1

巻の服地,

1

樽のプドウ酒,

1トンの鉄, 50

キログ

ラムの小麦というように。したがって,一般的に

X

量の商品A, y 量の商品

Bと

いうように表硯できよう。リカードゥはそれを省略しており,それぞれがあたか

12

個をもって

1ダースと呼ぶように,ある一定量として任意の1

単位を形成す

る,と考えている。後に指摘するように, リカードウが 1 対 1 の交換を前提して

いると理解する場合には,こうした省略法が前提されているとみなすことができ

る 。

(8)

58(58) 

35

巻 第

1

なのであるが一一の服地およびプドゥ酒をそれぞれイギリスおよびボルトガ ルで生産したとすれば, それに必要な労働の分量が特定されるはずである が,両国間で交換される商品のそれぞれの分量は,国内における場合と異な って,それぞれを生産するのに必要な労働の分量によって一ーということは その逆数にしたがってということになるが一ー,すなわちイギリスにおける 両商品の労働の分量によっても,またボルトガルにおける両商品の労働の分 量によっても決定されるのではない。このようにいって, リカードウは具休 的な数字例を提出するのである。したがって,上捐のパラグラフ⑧およぴ④ はこのパラグラフの具休的な数字の適用例として現われているのである。

以上,行沢教授の主張の趣旨に基づいてはいるが,必ずしも言葉通りに紹 介したものではない。より正確であると筆者が考えるように表現を変えて,

リカードウの文章を再構成してみた。すでに指摘しておいたように,チップ マン教授がそこだけを切り放して取り出した問題の引用文(バラグラフ⑧お よび④)は,これに続くものである。直前のパラグラフを受けて数字が語ら れていると考えるのがこの場合当然であるから,より念を入れた言い方をし たとすれば,パラグラフ③の最初の文章は,次のようになるであろう。

イギリスは,服地の

X

量を生産するのに

1

年間に

100

人の労働を要し,ま たもしプドゥ酒の

y

量を醸造しようと試みるなら同一時間に

120

人の労働を

(7) 

要するかもしれない,そういった事情のもとにあるとしよう。

このように, リカードウは数字を与えて,上記の国際交換で

X

量の服地と

ひきかえに

y

量のプドゥ酒が交換されているという条件のもとで,イギリス

の選択すべき有利な道を問うているのである。そうとすれば,これには答え

(7) 

ここに単位という意味では,もう一つの問題が存在する。リカードゥは,生産

のための期間と,それを行う労働者の人数を与えているということである。これ

はやや回り道であるかも知れないが,例えば

1

年の代わりに

1

日を置き換え,

日の労働時間を

10

時間とし,

100

人およぴ

120

人の代わりにそれぞれを

10

で割った

10

人および

12

人に置き換えるとすれば,それぞれ

100

労働時間および

120

労働時間

という同一の関係に言い換えられる。通常, リカードウの設例は,こうして置き

換えられた数字によって与えられることが多い。

(9)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

(59)59 

最近の解釈批判

(I)

(吉侶)

ることができないであろうか。もしこれに対して,推論前提条件不十分とい う判断で不可能というならば,その判断こそ「不合理な推論

(nonsequitur)

」 といわなければならないであろう。それはその次のボルトガルについて述べ られているパラグラフについても,同様に当てはまることである。ただし,

先にイギリスについて述べられているので,数字の選択は逆の方向を取らざ るをえないという制約を強いられることはいうまでもない。ここに述べられ たそれぞれ二組の前提条件から引き出される帰結は, リカードウの「それゆ えに」以下の文章によって明瞭に示されるところである。すなわち,イギリ ス国内ではブドゥ酒の

y

量には

120

人の労働を必要とし,

100

人の労働ではな いのであるから,イギリスは

20

人だけ多く必要とするブドウ酒は国際交換に よって入手した方が有利なことはただちに明らかであろう。ボルトガルは,

その逆であろう。どの商品を輸出し,どの商品を輸入するかは,国内におけ る二つの商品の価値を規定する投下労働の分量によって決定される。いうま でもなく,その分量の小さな方が輸出されるべき商品であり,大きな方が輸 入されるべき商品である。このように,イギリスとボルトガルとは,それぞ れ別個に帰結が導かれてもそれはなんら不合理とはいえない。

このように考えてくると,チップマン教授はリカードウの推論を途中から

取り上げて,結論が引き出されるための前提となった条件の一つを,なぜそ

うしたのかは別として意識的にか無意識的にか切り捨てた上で「不合理な推

論」と断じたことが分かるのである。リカードウのチップマン教授に指摘さ

れた「不合理な推論」にかんする限りでの問題は以上の考察で十分である

が,すぐあとのところでリカードウが展開している,この問題からもう一歩

でたところのイギリスとボルトガルとの国内投下労働量のそれぞれの国内的

度量単位で示される大きさの比較から生ずる新たな問題,この問題について

は,むしろはるかにチップマン教授をリカードウはしのいでいるといってよ

いのではなかろうか。なるほどチップマン教授は,この箇所を「後に比較生

産費法則と呼ばれることになったものの正しい説明」として指摘している

が,あたかも偶然的に結果としてそうなったかのような評価をくだしてい

(10)

60(60) 

35

巻 第

1

る。行沢教授のこれに関する主張を見るためにも, リカードウからの引用を 続けよう。

「パラグラフ④の続き この交換は,ボルトガルによって輸入される商品 がそこではイギリスにおけるよりも少ない労働を用いて生産されうるにもか かわらず,なおおこなわれるであろう。ポルトガルは服地を

90

人の労働を用 いて製造することができるにもかかわらず,それを生産するのに

100

人の労働 を要する国からそれを輸入するであろう,なぜならば,その国にとっては,

その資本の一部分をプドゥ酒の樹の栽培から服地の製造へ転換することによ って,生産しうるよりも,イギリスからひきかえにより多量の服地を取得す るであろうプドゥ酒の生産にその資本を使用するほうが,むしろ有利だから である。

パラグラフ⑤ このようにして,イギリスは,

80

人の労働の生産物にたい して,

100

人の労働の生産物を与えるであろう。このような交換は同一国の 個人の間では起こりえないであろう。

100

人のイギリス人の労働が,

80

人の イギリス人のそれにたいして与えられることはありえない,しかし

100

人の イギリス人の労働の生産物は,

80

人のポルトガル人,

60

人のロシア人,また は

120

人の東インド人の労働の生産物にたいして与えられうるであろう。こ の点での単一国と多数国との差異は,資本がより有利な用途を求めて一国か ら他国へ移動することの困難と,資本がつねに同一国内で一つの地方から他 の地方へ変転するその活発さとを考察することによって,容易に説明され る。」(同上書,

135 136

ページ。)

さてここで,行沢教授に戻ってその主張を聞くことにしよう。行沢教授に

よれば,以上の二つのパラグラフの前までは「リカードウの原型における利

益の推論」は「

J

・ヴァイナーのいわゆる貿易利益論の『

18

世紀

I

レール』の

域を出ないものであり,これに対して

19

世紀の比較生産費説がこれに加えた

もののうち,

(2

財モデルでいうと)絶対生産費において

2

財ともに相手国

よりも優れている国にとってさえ貿易は利益であるという命題は原文④の後

半において述べられ(重ねて原文⑥注で再述され)ている。……だが, リカ

(11)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

(61)61 

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

ードゥの叙述を辿ると,かれ自身はこの第

1

表のような図式(後にマジック

・ナンバー

ii

(1) として示すいわゆる 2 国 2 財モデルの図式—引用者)が 貿易論に対して持つ理論的含意をさらにつきつめて探ることなく,直ちに原 文⑤にあるような結論あるいは系論を導く」(前掲第

2

論文,

208 209

ページ)

というのである。そして,この結論あるいは系論は, リカードウの国際価値 命題 (1 国内部で通用する価値法則は国際間では妥当しないという命題一~

引用者)の論証の結ぴに当たるものであるとされている。このように行沢教 授はここでの問題を整理し,そして一定の解釈を与えた後,「リカードゥの 原型的推論では,少なくとも貿易の利益と方向を論証する段階では第

1

表の 形での図式つまり両国での生産費の比較は明示的には示されていない。そし てこの図式の明示的な提示とその展開は,ジェイムズ・ミルによってなさ れ ,

J •

s ・ミルによって引き継がれ,今日の比較生産費説の通常の理解に つながっていることになる」(同上論文,

209

ページ)と述べている。行沢教 授の叙述の順序とは逆になるが,最後にここで出されている見解,「今日の 比較生産費説の通常の理解」こそは,教授が「変型理解」と名づけたもので ある。

チップマン教授に対するいわばアンチテーゼ的意味における「原型理解」

について,筆者はおおよそ行沢教授の見方に賛成しつつ, リカードウの原文 を引用するとともに筆者なりの紹介と解釈を行なってきた。しかし,それに 続く問題については,なお多くの疑問と検討すべき問題が残されているよう

に思われる。節を改めて,これにふれよう。

皿 行 沢 教 授 の 見 解 に 対 す る 疑 問 と 検 討 課 題

( 1 )   われわれは,行沢教授によって指摘されている「ヴァイナーの貿易利

益論の『

18世紀J

レール』」について,まず考えてみよう。ヴァイナーによれ

ば貿易利益の「

18世紀J

レール」とは「国内では全く生産されえないか,もし

くは国外で生産されうるよりも絶対的により大きなコストでのみ国内で生産

(12)

62(62) 

35

巻 第

1

されうるような諸商品を,国産品と交換に輸入する国にとっての利益」

(J. Viner,  Studies in the Theory of International Trade,  1936,  pp. 439 

‑440)

を指している。要するに,いわゆる絶対生産費説と呼ばれる理論のこ とを意味している。行沢教授は,自ら名づけたリカードウの「原型理解」が この「

18世紀J

レール」の域を出ないものというのであるから, リカードゥは 絶対生産費説の論理にしたがって推論をしているのだということになろう。

ここでもう一度リカードウの推論の方法を吟味してみよう。リカードゥは 確かに二つの国の間において交換される二つの商品の一定の交換比率をまず 定めて,次にその中の一つの国の内部における投下労働量を比較し,そこか な引き出される有利な貿易の方向を示している。行沢教授によれば,推論の 形式はここまでで一段落して終わっており,もう一方の国については推論を 続けるかどうかは,その逆しか選択は残されていないのであるから,どうで もよいものと見ているようである。しかし,これが絶対生産費説にしたがっ た推論であるか,そうでないかは,パラグラフ①,③,③の範囲内での推論 に限っても,それだけでは判定できない。そう判断すること自体が,必然的 に次のパラグラフ④の具体的条件としての与えられた数字との比較を必要と している。つまり, リカードウの推論形式においては,そうでない可能性を も含んでいるのである。

ところで, リカードウはこの推論形式において,この二つの可能性,すな わち「

18世紀J

レール」の示すような数字とそうでない数字とのうち,まさに 後者を選択している。これは偶然そうなったのであるか,それともなにか意 識的にそのような数字を選んだのであるか。これについて考えるためには,

もう少し広い見地からこの推論全体を把握する必要があろう。

もしリカードウが「

18世紀J

レール」の考え方で議論を設定していたとすれ ば,パラグラフ①から始まるような推論の方法を取ったであろうかが,ここで 問われなければならない。リカードウによれば,一般原則として「

18世紀J

ール」で貿易が行われるということを説明するとすれば,それは外国貿易に

ついて特に論ずる必要を恩めなかったばかりか,パラグラフ⑧から始まるよ

(13)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

(63)63 

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

うな推論形式をとる必要はなかったのではないかと思われるのである。ここ で,行沢教授がパラグラフ⑥の問題として指摘している国際価値命題との係 わりが発生するといってよかろう。リカードウは,外国貿易においては,国 内における商品交換とは異なったルールによっても交換が行われうることを 示す必要があった。したがって,先の二つの可能性を十分承知の上で,推論 の出発点において後者の数字を脳裏に描いていたのである。リカードウにと っては,後者のような条件で交換が行われることを示すためには,このよう な推論形式をとるより他に論証の道はなかったとさえいえるかもしれない。

( 2 )   さて,ここに至ってもう一つの問題が提起されることに注意しなけれ ばなるまい。それは行沢教授が「第

1

表のような図式が貿易論に対して持つ 理論的含意」と述べている点である。すなわち,いったん与えられた数字に よって生ずる新たな問題ともいうべきものであるが,行沢教授は, リカード ウがそれを「さらにつきつめて探ることなく」,国際価値命題的結論に導い ていると指摘している。これはある意味で,半ばあたっており半ばあたって いない。まずあたっていないことからいえば,いままで述べてきたリカード ゥの推論形式からいえば,「理論的含意」なるものは異質な問題提起であり,

リカードウの本来の論証目的からは異なった条件を新たに設定せざるをえな いからである。それを一言でいえば,そこで貿易が始まるという,いわゆる 封鎖体系から開放体系への転化を念頭におくという条件である。ところが,

リカードウの推論形式はそうではなく,すでに示したように最初に与えられ た条件として一定の交換比率をもつ開放体系が前提されているのである。こ こからは,その「理論的合意」にこだわって深く論ずる方向は与えられな い。すでに貿易は存在しているのであって,これから始まるのではない。も し二組の数字が与えられたまさにその時点で「理論的含意」を取り上げて論 ずるとすれば,論点をここで横にそらすことになり,それに続く議論に対し て誤った判断を方向づけることになるであろう。

残されたもう一つのあたっている内容とは,そうとすればどういうもので

あるか。これは行沢教授が「原文⑤の次ぎに来る注で再述」と指摘している

(14)

64(64) 

35

巻 第

1

ことに関係している。リカードウは正しく「理論的含意」をつきつめて探る ことなく前に議論を進め, 「国際価値命題」のパラグラフ⑥に達しているの であるが,このパラグラフの最後の箇所に注をつけているのである。この注 の内容については,当の行沢教授はつきつめて探ることなく,ただそこに注 がつけられているという程度にしかふれられないのである。それは思うにこ の注の内容が,行沢教授の「原型理解」とは異なり「変型理解」となってい るからであろう。つまりリカードウは,この一連の推理の最後において,そ の議論の内容とは異なった論点を含む問題を取り扱っているのである。これ は一種の矛盾である。リカードウ自身が,その原型理解を明示するために,

あるいはそれを補足するために,「変型理解」を援用しているからである。

そしてその方向からすれば,その「理論的含意はさらにつきつめて探ること なく」取り扱われているといってよかろう。そこでわれわれは,行沢教授が 自らの主張の一貫性を強調するあまりにその内容の検討を犠牲にしたこの注 について,もう少し詳しく考えてみたい。

( 3 )   まず最初に,行沢教授は第 2論文では, リカードウ後の理論展開に対 してもつ役割からいうと,きわめて重要な意義をもつと思われるこの注の引

(8) 

用を省いているが,われわれはその全文をここで掲げておこう。

「パラグラフ⑥ こうしてみると,機械と熟練について非常にいちじるし い利点をもち,それゆえに,その隣国よりもはるかに少ない労働を用いて諸 商品を製造しうる国は,たとえ,そこから穀物を輸入する国よりも,自国の 土地がより肥沃であり,また穀物がより少ない労働を用いて栽培されうると しても,そのような商品の代償として,自国の消費に要する穀物の一部分を 輸入することがある,ということは明らかであろう。二人の人が共に靴と帽 子をつくることができ,そして一方の人はこれら両方の業務において他方の 人よりもすぐれているが,しかし帽子をつくることにおいては,彼は彼の競 争者に五分の一すなわち

20

バーセントだけすぐれているにすぎず,そして靴

(8)

行沢教授は第

2

論文の冒頭において,われわれがすでに示したパラグラフ①か

ら⑤までを,順に並べてリカードウから引用して示している。

(15)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

(65)65 

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

をつくることにおいては,三分の一すなわち

33

バーセントだけ彼にすぐれて いる,としよう。__〔この場合には、]すぐれた方の人がもっばら靴の製 作に従事し,そして劣った方の人が帽子の製作に従事するのが,両方の利益 ではないであろうか?」(前掲書,

136

ページ)

このパラグラフ⑥の第一のセンテンスは,行沢教授の指摘するようにパラ グラフ④の後半に述べられていることの再述といってもよいのであるが,ょ り当時のイギリスの現状に即した条件にもとづいた叙述となっている点が注 目される。すなわち,本文の純理論的なしかも固有名詞としては硯実的であり ながら事実とはむしろ逆の設例に対して,「こうしてみると ( I t

will appear  then,  that)

」という言葉に始まるこのセンテンスは理論の示す現実的意義 ー 輸 出 入 さ れ る 商 品 も 工 業 製 品 と 穀 物 と い う よ う に 一 を 直 赦 に 表 現 す る ものとなっているのである。その上で,第二のセンテンスに受け継がれるの であるが,それはすでに示した推論の類推的説明として現われている。

こうした類推こそ,従来からいわゆる比較生産費説の分かりやすい卑近な 例として取り上げられてきたものである。第 2 次大戦後硯行リカードウ全集 の編集にあたった

P.

スラッファは,この注にさらに注をつけて,この靴と 帽子の製作にかんする例が,

A. 

スミスの靴屋と仕立屋の例に比定し,出来

(9) 

するものであることに注意を向けている。また,

P.A.

サムエルソンは,そ

(9)

戦後リカードウ経済学に関する大部な書物を書いたサムエル・ホランダーは,

このスラッファの付けた出所を示す注を, リカードウ自身がスミスの権威を借り るため参照させているかのように性急にも誤解した上で,このスミスの例が絶対 生産費説を示すだけであるので,評価できないとリカードウに対して批判してい る 。

Samuel Hollander,  The Economics  of David Ricardo,  Toronto and  Baffalo,  1979, p. 465n. 

しかし,スラッファはスミスにもこのような例を使っ て類推を行なった有名な例があることを注意したにすぎないものと考えられる。

ここで断わっておくと, スミスの文章をよく読むと,この類推はすでに商品交換

が行われており,したがってまた価値法則が支配しているという条件のもとで国

内の社会的分業が国際間でも同じように適用できることを述べており,機械制大

工業より前の時代の条件の下ではこうした類推も正しいものとして成立すること

が分かる。

(16)

66(66) 

35

巻 第

1

の著名な『経済学』のなかで,二人の職業を女性弁護士とその秘書(タイビ スト)に置き換えて同様な説明を行っている。だが問題は,類推の意味する 内容がここでもう一度抽象化された別の形で提出されているということにあ る。いうまでもなくこの場合,二人の人物は同時に二つの仕事にかんするそ の能力を,一方の人物がその両者ともすぐれたものとして,それぞれ別個に 与えられなければならない。リカードウが与えた例は,まさにこの条件に適 合した形で示されているのであって, リカードウの例とサムエルソンの例と は内容において少しも変わらないといってよい。サムエルソンは,この例を 提示した後,「この点は国についても同様である。いまかりにアメリカは,

食料をヨーロッパの

3

分の

1

の労働で,衣料を

2

分の

1

の労働で,生産する としよう。だとすると,ただちにわかるとおり,アメリカは食料で比較優位 をもち,衣料で比較劣位をもつ。アメリカはすべてにおいて絶対的に能率が もっとも高いにもかかわらず,そうなのだ。同じ論法により, ヨーロッパは 衣料において比較優位をもつ(下線は引用者による)」

(PaulA. Samuelson,  Economics,  11th Edition,  New York, 1980. 

都留重人訳『経済学』,下,

岩波書店,

1981

年 ,

712

ページ。)と述べて,議論を進めている。われわれ は,後に掲げる別表において以上のサムエルソンの挙げた

4

つの「マジック

(10) 

・ナンバー」を示しておいたので, リカードウの挙げた#1  ( 2 )のそれと比較 参照されたい。

リカードウの挙げた例は,まぎれもなく一般に承認されている変型理解の

日常的硯象を材料にした例なのであり,二人の人物と二つの仕事は,二つの

国と二つの産業に類推されていることは確かであろう。だが, リカードウ自

身が与えているこの類推は,彼の本文における推論に対して適切なものであ

(10)  4

つのマジック・ナンバー

(Fourmagic numbers)

とは,サムエルソンが与

えた名称であって,簡単化のため比較生産費を示す数字を指していう場合,便宜

上しばしばここでも使うことにする。

PaulA.  Samuelson,'The Way of an  Economist',  The  Collected  Scientific  Papers  of Paul 

M. 

Samuelson,  Vol. III,  edited by Robert C.  Merton,  The M. I.  T.  Press,  1972, p. 678. 

照 。

(17)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

(67)67 

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

るか。二人の人物の間には,あらかじめきめられたその労働の結果たる生産 物の交換比率というようなものは存在しないのが原則であろう。したがって こうした例によって示されるのは,二人の人物によってはじめて交換が開か れるのである。国でいえば,通常よく想定されるように,封鎖休系からそこ で開放体系に移行するのである。したがって,この類推は正しく事態を理解

(11) 

させるための材料とはなっていないといわなければならない。

ところで,もう一歩ふみこんで,サムエルソンのいうように「この点は国 についても同様である」と考えられるべきものであるかどうか。というの は,国家間では一方の国が他方の国よりすべての生産について優れていると いうような条件が与えられたとき,すなわち「

18

世紀ルール」を越える歴史 的条件が硯実的なものとなったとき,具休的にはこれは 19 世紀における産業 革命によって達せられると考えられるのであるが,その時はじめて国家間の 商品交換が始まるというような超歴史的現実は存在しないからである。すで

(12) 

にはるか以前から国家間での商品交換は行われており,それを前提として新 たな生産の条件が発生するのである。これが歴史的現実であり, リカードウ はこの現実を,しかも目の前にある新たな条件としてのそれを出発点としな ければならなかったと考えられるのである。といっても, リカードウが十分 この現実に即応した理論を全体として構築しえているかどうかは,別の問題 であることはいうまでもない。ここにむしろ, リカードウに続く

J.

ミルや

J. 

s .   ミルの新たな問題提起とそれにともなう混乱が港んでいるように考え られるのである。われわれは行沢教授と共に,次の問題に移ろう。

(11)

ごく最近にも,伊藤元重助教授によってアインシュクインとその弟子という二 人が,創造的な仕事と補助的作業とを行うという寓話が挙げられており,こうし た類推が繰り返し無反省に行われているという例には事欠かない。ここではしか し,作業の結果は,あたかも原始共同体の中の労働生産物の共有のように,二人 の共有物と考えられており,商品交換の社会は前提されていない。したがって,

個人を国に共有を交換に類推するのは困難である。伊藤元重「国際経済入門」,

日本経済新聞社,

1989

年 ,

326

ページ参照。

( 1 2 ) 共同体間から始まる交換の歴史については,後注〔次号

(Il)J

参照。

(18)

68(68) 

53

巻 第

1

W.O. 

ス ウ ェ ッ ト

(William

0 .  

Thweatt)教授の見解 (1) 

アメリカ・テネシー州ナシュビルのヴァンダビルト大学スウェット教

(13) 

授は,これまでに二つの注目すべき論文を発表して,われわれが以上におい て述べてきた問題に深くかかわる見解を提出している。行沢教授は生前にお いて最初の論文を検討し,貴重なコメントを与えているのであるが,後の論 文は行沢教授の没後に出されたものである。そこでわれわれはまず,スウェ ット教授の最初の見解とともに行沢教授のそれをも同時にここで取り上げ,

いくつかの点について検討してみよう。

はじめにことわっておくと,スウェット教授の論文,とりわけ最初のもの は,いわゆる比較生産費説の形成において,

J. 

ミルの果たした役割を従来 考えられていたよりは,はるかに大きく重要なものとして評価するというと ころにその目的をおいている。教授のリカードウに対する問題意識も,当然 この視角に制約されて硯われざるをえないのであるが,われわれはわれわれ の問題に引き寄せつつ教授の見解をみていくことにしたい。スウェット教授 は , リカードウの『原理』第

7

章の検討を,次のように述べることによって 始めている。

「リカードウは,

1815

年の初めの頃には,非常に制限された形での自由貿 易—リカードウの時代のイギリスの,小麦畑を耕して『荒れ果てた丘陵の 斜面』にまで至る,といったような急激な収穫逓減を経験しつつある先進的 な豊かな国にとって食糧と必需品におけるより自由な貿易ーーを主張しつつ あった。しかしミルの 2年間にわたる絶え間ない励ましと教導の後, リカー ドウが彼の『原理』を完成した時,彼の地位は何らかの変化を来していた

(13)  William 0.  Sweatt,'James Mill and the early development  of  compa‑

rative advantage',  History of Political Economy,  8: 2 (1976) ;'James and  John  Mill  on  Comparative  Advantage:  Sraffa's  Account Corrected',  in  Trade in Transit:  World Trade and World EconomyPast,  Present,  and  Future,  edited by Hans Visser and Evert Schoorl,  Dordrecht,  1987. 

(19)

リカードウ「比較生産費説」の論理構造とそれをめぐる

最近の解釈批判

(I)

(吉信)

(69)69 

か。その回答が本質的に否であることを見るために, リカードウの外国貿易 に関する章を検討してみよう。その章こそは, リカードウがそれを「古典的 完壁さにおいて」示した比較生産費原理によって「支配されている」と J .

ホランダー

(J.Hollander)

がはるか以前にわれわれに確信させたものであ る 。

いくつかの導入的パラグラフの後に, リカードウは彼の基礎的な定理と,

収穫逓減防止において外国貿易が演ずる戦略的役割を再主張する。

(ここでスウェット教授は原書

132

ページ上から

15

行目(邦訳書左から

4

行目)から始まるパラグラフを一部省略して引用している。一—一引用者]

明らかに, リカードウは穀物条例の廃止を主張しているのであって,自由 貿易一般を主張しているのではない。工業化に拍車をかけるのに必要な賃金 財がより容易に獲得されるかぎりでのみ,より自由な貿易が支持されるので

ある。」

(Ibid.,1976,  pp. 218219.) 

この引用文からも明らかなように,教授のリカードウ『原理』第

7

章解釈 の基調は,それが利潤率の低落を阻止するための安価なる穀物の輸入を正当 化するための自由貿易の主張であり,基本的に『原理』の出発点となった前 著『利潤論』と変わるところはないというのであった。教授はここで「いく つかの導入的パラグラフ」と述べているが,第

7

章の初めからこのパラグラ フまでには

4

ページ半の文章が続いているのであって,「価値額不変の命題」

などの重要な諸命題がその中には述べられており,決してそれは「いくつか の導入的」なものではない。こういう無理な見方をしながら,さらに教授は 第 7章においてこの上もなく重要ないわゆる「国際間での価値法則の適用に かんする命題」を全く無視して先に進み,すぐそれに続く「各国は当然その 資本と労働を自国にとってもっとも有利になるような用途に向ける。……」

というパラグラフを,各国に特殊に与えられている自然的人的賦存に基づく 絶対生産費差がリカードウの念頭にあった証拠として挙げるのであって,総

じてこのくだりまではリカードウが本質的にアダム・スミス的絶対生産費差

概念の上でその議論を完成していると論断するのである。このような解釈の

(20)

70(70) 

35

巻 第

1

手続きを踏んだ後,われわれがすでに指摘したポルトガルとイギリスという 二つの相手となる国名が出てくるパラグラフ①,③に目を向ける時間すら まるで惜しむかのように,教授は「だが次のページにおいて, リカードウは 一 唐 突 に と わ れ わ れ は 考 え る の だ が _ 比 較 生 産 費 原 理 を 輪 郭 付 け る 3 つ のパラグラフを挿入するのである」

(Ibid.,1976,  p. 220)

と指摘し,パラグ

ラフ⑧,④,⑤をほとんど逐語的に紹介する。

引き続くスウェット教授の慨嘆にも似た,しかし誇らしげな「その簡略さ に注意せよ

(Noticethe brevity)

」という言葉は,その内容とは逆の意味 においてきわめて印象的である。教授はここですでに紹介したチップマン教 授の意見をそのまま踏襲して,「サムエルソンがリカードウに学説を帰せし めた場合,彼の『最も偉大な手腕

(greatesttour de force)

』 と 呼 ん だ と ころのものをリカードウが真に理解していないとすれば,われわれはそれを 如何に説明するのか」と,次の問題設定に導いているのであるが,教授は再 度リカードウがそれを書いたとは思われない諸事情のあること,それが比較 生産費説についてリカードウがかつて書いた唯一のものであること,彼と学 説との係わりが深刻なものであったかどうかは疑わしいこと,貿易と発展の リカードウ的理論構造とそれとは容易に適合しないことを強調し,その考え の行き着く先として「いっそう重要なことであるが,ジェイムズ・ミルのリ カードウヘの直接的影蓉の他の事実があるとすれば,該当する章へそれを組 み入れようというアイディアがジェイムズ・ミルから由来するものである」

(Ibid., 1976,  p. 221)

にちがいないというスウェット教授本来の主張を示唆

(14) 

している。

こうしたスウェット教授の議論に対して,行沢教授はその「変型理解」に

よるリカードウ解釈と,

J. 

ミルによる 3 つのパラグラフの直接的挿入の可

( 1 4 )   リカードウのマジック・ナンパーに示される,イギリスがかえって全ての商品

の生産性において劣るという奇妙な想定とその与えられた数字については,今日

これを読むものをして何故このような設例をリカードゥはあえて与えたのであろ

うかとの疑問を,起こさない訳にはいかない性質のものであることは礁かであ

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