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津山高専紀要 第31号

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(1)

(1992)

津山高専紀要 第31号

(63)

 あとがき

 この稿を作るにあたって︑青木治子・足立幸吉・遠藤正治・杉本

つとむ・宗田一・高橋輝和・道家達将・宮下三郎の諸氏からご援助

をいただきました︒そして︑松岡忠次氏からはご所蔵の稿本類につ

いて︑塚原康子氏からは早稲田大学洋学文庫の稿本類について︑ご

協力をいただきました︒また︑吉備洋学資料研究会・究理堂文庫︵小

石秀夫氏︶・京都大学医学部図書館︵富士川文庫︶・静岡県立中央

図書館・武田科学振興財団杏雨書屋・津山郷土博物館・津山キリス

ト教図書館︵森本謙三館長︶・津山洋学資料館︵水田楽男館長︶・

天理図書館・内藤記念くすり博物館・早稲田大学図書館の資料を利

用させていただきました︒皆様方に厚く感謝いたします︒

      ︵一九九二年八月三〇日︶

 ﹁補訂表﹂追加

一八一六年﹁馬匹解剖図﹂閏八月日生呉門同門土堤樹陰者・椿篭宇

志用写真︒︵松尾の獅ぺ︶︒ 一入一七年の上欄注②の2行目﹁薬ノ物

 公ノ観﹂を﹁薬物 公観﹂とする︒ 一八一八年追加︑﹃和蘭手簡﹄

この年か︒ 一八二〇年正月︑﹃徽瘡新書﹄の後書きを作る︒ 一

八二四年8月25日づけのシーボルトの手紙︵あて先きを欠く︶︒﹁こ

の書は古いが︑植物のラテン名を知るのに便利だ﹂︵﹃椿奄先生遺書﹄

杏雨・貴謝︶︒ 一八二九年五月十三日︑伊藤圭介に手紙を出し︑

カステレイン一巻を返す︵都立中央図書館蔵︶︒﹃舎密雑集・文政十

一鼠年﹄︒ 一八三四年六月二十八日︑伊藤圭介に手紙を出す︵都

立中央図書館蔵︶︒九月十五日︑小室あてに手紙を出す︵﹃化学史研

究﹄19巻3号・一九九二年・捌ぺ︶︒ 一八三六年﹃賢哩訳註・巻

二︹第七篇〜十三篇︺﹄菩薩楼稿︵土井康弘氏のご教示による︶︒ ﹃外篇第三秩/舎密提要・巻六﹄天保六年騒月起草︑七年三月十六

日午前結局︒ 一八四﹈年﹃厚生新編・辛丑稿V﹄臓月廿日訳校井

了︵杏雨蔵︶︒

 ﹁文献﹂追加

上野益三のウ﹁︵書評︶植学野原−宇田川椿蕎﹂﹃科学史研究﹄H︵20︶・

 一九八一年︒のち﹃博物学史論集﹄八坂書房・一九八四年︒

木村陽二郎のキ﹁ウエインマンの﹃花譜﹄﹂﹃︵植物図譜ライブラリー

 4︶美花図譜ーウエインマン植物図集選﹄八坂書房・一九九一年︒

幸田正孝のオ﹁宇田川椿蕎と大沢松庵のあらそい﹂﹃洋学資料によ

 る日本文化史の研究W﹄一九九三年︵投稿中︶︒

松尾信﹈﹃解馬新書の調査研究﹄日本中央競馬会馬事部・一九九〇

 年︒向井晃のイ﹁玉里文庫本﹃訳文雑書﹄﹂杉本勲﹃西南諸藩の洋学﹄

 西南諸藩洋学史研究会・﹈九八五年︒

矢島玄亮﹃徳川時代鵬瀦集覧﹄万葉堂書店・↓九七六年︒

(2)

(62)

字田川楼篭の年譜(下)

越後長岡 小村伊佐衛門小村英篭  椀斎栄 建 直系

      妹

譲⊥野

・小村・足立・飯沼家の関係図

理庵

江戸の大垣藩医 道宗     江沢養寿

峯上高←一一嚢

   ︵安岡︶榛斎llII 玄真     =

    ︵林︶     栄 四男 専助  一助 ︑/   ﹇

三酵籍門一上

         一次男

宇田川

長男

︵江沢︶ ︵若園︶

江戸の津山藩医 梶園    宇田川気随

江戸の薩摩藩医     足立梅庵

〈一一一椿

熔 奄

  二女=

   世瑛

     櫟亭

三楼﹇末飾

    =

⊥⁝  ﹂ト\ −1−1−1−養系一Ilは同一人

江戸の篠山藩医   長篤

江戸づめの津山藩士      栗原玉城  道常数馬     賎男 ︻一雍次郎次女 お述長男 道賢長女 お由  一    く お由

 組→i隻

 扇

興蔵

美濃大垣の町医 長顕 ︵初代︶飯沼龍夫.三代 龍夫 四代龍夫 準一

(3)

(1992)

津山高専紀要第31号

(61)

い︑椿蕎側が提出した七月八日づけの文書にも

  ⁝⁝養母之実弟壱人有レ之︒稲葉丹後守様内大橋八郎江右之段懸

  合⁝⁝Q︵﹃江戸日記﹄︶

と出ており︑八月三日の和解書︵﹁規定趣意書﹂︶にも︑坪井信道と

        ひきあいにんともに大橋八郎が引合人として名を連ねている︒      さか 養父玄真の碑文は天保七︵一八三六︶年の九月に︑藩の侍講・昌

谷清渓︵一七九ニー﹈八五八︶に作ってもらい︑十一月に宇田川玄

随︵塊園︶の墓の側に椿篭が墓石をたてた︒今は岡山県津山市の泰

安寺に移されているその墓表には︑

  配は林氏︑子無し︒大垣藩の医員・江沢養樹の男聖篭を養いて

  嗣と為す︒︵もとは漢文︶

とある︒これは養母︵先述の裁判記録では︑後家ゑい︑法号は﹁栄

勝院繁林貞超法尼﹂︶のなくなる三年前のことであり︑養母を︿林﹀

としたことにも根拠があるのだろうが︑その手掛りはない︒系図に

は林を入れておいた︒︵杏雨書屋所蔵の﹃正課先生遺書﹄︿貴顕﹀に

は︑車篭が玄真の没後にまとめた養父の経歴のメモ書きが残ってい

る︒そこに︑

  ⁝⁝字玄真︒榛斎其号︒京師人︒⁝⁝以天保五年 冬十二月四

  卒︒享年六十六︒葬浅草誓願寺⁝⁝︒寛政十年 戌二月念八日

  冒宇田川︒享和元年 酉九月嬰出渕氏女︒無嗣︒文化八年 未

  六月養大垣医臣江沢養樹之嫡子椿奄為子︒⁝⁝

とある︒また︑明治初年に作成されたと思われる津山藩士の家系譜

﹃鶴城譜﹄から︑水田昌二郎△九二〇1四七﹀氏が旧津山藩主松

平子爵邸で写しとった宇田川家の分が残っている︒それによって玄

真の所をみると︑

  妻 酒井雅楽頭殿家中出渕弥惣治娘    天保十亥十月晦日死となっている︶︒ 吉川芳秋氏の﹃日本科学の先覚 宇田川椿蕎﹄の巻頭に︑宇田川準一︵一八四八−二九二二︶の未亡人豊女史より入手された﹁宇田川氏三名家略歴﹂があり︑︿六世 宇田川玄真﹀の項に︑      ママ   妻 前 酒井雅楽頭殿御家来︒出淵彌惣次娘︒離縁︒      ママ     後 稲葉丹後守殿御家来︒大橋八郎女︒天保十己亥年十       ママ       月二十九日病死︒法名栄勝院黒蝿超貞法尼とあるが︑﹃宇田川家記録﹄だけでは︑出害心惣治娘と大橋八郎姉との関係はわからないので︑前妻と後妻にあてたのだろう︒ 家系図を作るにあたっては︑大垣市史︑青木一郎氏︑江馬文書研究会︑足立家過去帳などのお世話になった︒小村英庵については藤浪剛↓氏のものがあり︑中島家と小村家のつながりについては蒲原宏氏・小川福一郎氏の研究がある︒中島家については課題も残ろうが︑こんな風につながりをつけてみた︒ ︵なお︑椿蕎の幼名︑重次郎については︑﹃宇田川家記録﹄︿宇田      ていとう川準一旧蔵・杏雨書屋蔵﹀によった︒また︑号の一つ﹁打蟷﹂については︑和泉屋金右衛門編﹃近代著述目録続編﹄︿天保四年三月序﹀の宇田川椿篭の項に︑﹁号椿篭︑一号訂瞠﹂と出ている︿森のウ謝ぺ﹀︒︶

(4)

幸田 (60)

宇田川椿蕎の年譜(下)

巻のうら見返し︵奥付︶には︑

   聾講内科撰要 醐華編甜顯

  文化七年庚午八月原版

  文政八年乙酉五月再版

      東都下谷池之端仲町

       須原屋 伊八

      浪廻心斎橋通北久太良町

        原質     ・   河内屋 儀助

      同心斎橋通唐物町

       河内屋 太助

と出ている︒大坂の河内屋儀助︵種玉堂︶と河内屋太助︵文金堂︶

のほかに︑江戸の須原屋伊八︵青虫閣︶も名をつらねている︒その

間の経緯を知らないが︑これによって︑文政九年ではなく八年をとっ

た︒

︵五︶ 家系図

        せ よ       へ 椿篭の妻・足立世瑛については︑﹁自叙年譜﹂には三女と出ている︒

しかし︑結婚直前に︑父玄真が仙台の佐々木中沢にあてた手紙︵文

政五年十一月二十一日づけ︶には︑﹁足立次女﹂︵中沢保の54155ぺ︶

とあり︑足立家の過去帳も同じだから︑二女とした︒

 ︿椿蕎の養母n玄真の妻について﹀

 玄真は寛政十︵一七九八︶年二月目︑宇田川玄随のあとをついで

宇田川家へ入った︒そ﹂のさい力ぞえをしてくれた江沢養寿︵?一〜

七九二︶の姉とその年の十月に縁組みをしている︒しかし︑三年後

の寛政十三年二月には離縁している︒こうした行為は︑藩主の許可 を必要としたから︑藩の記録や勤書で確めることができる︒﹁放蕩﹂のために杉田玄白家から追い出されたという玄真だが︑同年の九月二十八日に酒井雅楽頭殿家中・出渕弥惣治の娘と再縁している︒そして︑一六年後の文化十四︵一八一七︶年十月二十七日の藩の政務日誌﹃江戸日記﹄には︑  一︑宇田川玄真義︑酒井雅楽頭殿御家来出渕弥惣治与申者厄介・  同人妻之母井祖母叔母二御座候︒右三人共玄真方江引取厄介二仕  度旨︑口上願書︑以二大目付﹁差出之︒御書届︒︵﹃江戸日記﹄︶と出ており︑妻の親族を引きとっている︒︵同居の妻の祖母が死去するのは︑文政四︿一八二一﹀年八月のことである︒︶ この間︑文化八︵一八一一︶年七月に熔蕎が宇田川家に入っている︵なお︑同年閏二月の﹃江戸日記﹄には﹁旗野六郎と狂者︑玄真妻之弟二付﹂との記録があり︑翌年大橋家に入っている︶︒ 文政八︵一八二五︶年正月の玄真の﹁親類書﹂には︑﹁一︑ 妻稲葉丹後守家来 大橋八郎姉﹂︑文政十年の椿蕎の﹁親類書﹂にもコ︑母 稲葉丹後守家来 大橋八郎姉﹂と出ている︒ しかし︑文化十四年から文政八年の八年間には︑離縁や縁組みのことが藩の記録にも勤書や宇田川家記録にも出てこない︒それに︑文政三︵一八二一︶年四月半二六歳で入門し︑一年後に内塾生となった坪井信道が︑玄真が外耳︵深川土橋︶へ移る文政九年までひきつづいて世話になったのも︑同一人物からであったようだから︑出撃弥惣治の娘11旗野六郎︹ほ大橋八郎︺の姉︑と考えてよさそうだ︒      ゑい 格奄の養母栄︵もしくは栄勝︶は︑上等の﹁自叙年譜﹂の日付︵天   ヘ  ヘ       へ保十年十一月二十九日︶とはちがい︑十月二十九日︵長安院の過去帳︶になくなっている︵藩の記録や勤書では三十日︶︒その翌年︑

大沢松奄との問で宇田川家の蔵板をめぐって町奉行所で対決したさ

(5)

(59)

津山高専紀要第31号 (1992)

年   号 年齢 藩主 1カ月以上江戸を離れた時囮@      「

ゴ7981r 寛 政 1

991 十一 2

1800 十二 3

01・ 享 和 4

案六代松平康ぎ

02 5

03 6

04 文 化 7

江沢椿量次回

05 8

06 9

07 10

08 11

09 12

1810 13

母より孝経を学ぶ

¥條保蕎・井岡桜仙・松下葛山に学ぶ n場佐十郎に学ぶ

g雄俊三にも学ぶ

11 14

12 九. 15

Gずれも津史.行乙婁歴

13 16

14 十一 17

15 十二 18

16 十三 19

17 十四 20

18 文 政 21

第七代松平斉孝︵成裕︶

19 22

1820 23

21 24

22 25

23 26

2.4 27

25 28

26 29

2「7

30

宇田川玄真黒童の養子宇田川椿蕎

28 十一 31

ζ29 十二 32

183b 天 保 33

ll.17藩医となる(中奥組、5人扶持)。

ill月、足立世瑛と結婚)

g雄忠二郎に学ぶ

怦繧ト御前様御ビ代若 殿様兼帯)一どなるξ

T人扶持、金7両(薬種料)・米15俵

@       L(御手当米)

i笛座を学ぶ)

黶@丁 一 一 一 一■一 一 一 一 一 一 一 一 冒■ 一 一 一一 一 一一 一 一 一 一 一 一 一 一一 r− r ■ r冒 一 一 一 一ρ 一一一 一 一 一 一 一 一

苡ャ性組、20人扶持・米15俵(御手当米)・

@         L金10両(薬種料)

i12月、玄真66歳で死去)

訷鼈鼈黷v 一 一 一 一 一 一 一 一 戸 一 一一 一, r一 一 一一 一 一 一 一 一 一一一一一 一 一 一 一 一 一 一 一一 一 P 一一一冒 一一一 一一

ヤ外御ヒ代、20人扶持・米15俵(御手当

@      L米)・金10両(薬種料)

i飯沼興斎を厄介とする)

 天

@文@方

@手@伝

@い

竄P0枚

31、 二. 34

32 35

33 36

34 37

35 38

36 39

37 40

38 41

39 42

第八代松平斉民︵確堂︶

1840 十一 43

年額銀20枚

41 十二 44

…i俸奄鴛トlli5i⁝i口i

42 十三』 45

ゴ43 十四 46

44 弘 化 47

45 48

49

46

47・

(6)

宇田川溶篭の年譜(下1 幸 田

C. 58 )

宇田川虚血略年譜

3.9 江戸の大垣藩邸で誕生    藩医江沢養樹(34歳)と安子(15歳)

   の長男

近藤重蔵・エトロフ探険

次弟・道寧(良雪)誕生 麻疹にかかる

レザノブ、長崎に来航 3 江戸の大火

(玄真「医範提綱』3巻発刊)

(玄真、津山で開臓)

近視になり、メガネを使う (玄真『医範提綱附図』『内科撰要言5篇」刊)フェートン号事件

弟・源右衛門(曲直)誕生         汝真7内科撰要傑6篇L刊・全18巻完結)

7。27榛斉(玄真)先生の養子となる。    幕府「厚生新編三の翻訳を始める。

3.18藩主にお目見え      襲玄真、オランダ書籍和解御用となる)

アワインマン花護の研究に参加

3 商館長ズーフらと対話         咳真、将軍にお目見え)   伊能忠敬・沿海実測全図を完成 馬場塾で8オランダ局方」7草木謳をよむ:t 杉田玄白「蘭学事始1

菩多学究理のはじめ、「寄非乙説」

植学を教える。薬品会を開く。

3 商館長プロムホフらと対話。6.津山からの帰路、藤林召下・小森等等に会う=.

8 「諸厄利亜潟利塩考.

       榛斎訳述・熔奄校「和蘭春蝉t初編(3冊)刊 杉田立干訳「組替新書(刊1に蹟文。

1 じ菩半半詞径刊。「コレラ考」    『遠西名物考芭初・2篇刊、    馬場佐十郎、没(36)。

      「遠西名物考」3〜5篇刊。    7.シーボルト(27歳)来日

「生石灰帯解早年.シーボルトと交流   ヨ遠西名物考;6〜9篇刊.

甲駿へ採薬       ヨ等等名物考」完結。「内科撰要」増訂版    異国船打払い令 3 シーボルトと対話。11.天文台訳員      Ll〜3編刊,

日光へ採薬、「植学独語」      一

温泉の分析。プレンキを訳す:.

3 江戸大火(被災)。

ラボアジエを訳す。

ガルバニ電池を作る:.9.実母、没(48)。

2.玄真(64)隠居し、家督を相続する:.

舎密ニノミ打掛ル

2.大火 3.「植学畑原」刊。

「蘭学重宝記』刊。ヘンリーを訳す。

「和蘭二天:増訂版(1〜2編)刊。

「和蘭薬鏡』同第3編刊。『内科撰要』同門4編出願 7和蘭薬鏡三同第4・5編出。

         J7内科撰要1全6編完結。

シーボルト事件,

7遠西名物考補遺」初篇刊

ヨ遠西名物考補遺;2・3篇刊完結。

「和蘭薬鐘同6編・完結。3遠西名物考補遺」の再版本。

1ユ.養父の墓石を立てる。幕府より俸米5口。

3.7舎密開宗(初篇) 一j刻なる。5.病む。

「舎密開宗・第2篇1刊:.4.実父、没受66)。閏4.7第3篇」刻。

F第4篇』刊。10、養母、没。

験気器を買う。大沢松岸と蔵板をあらそう。

7第5篇」刊。辞書・化学書を買う。「和蘭志略」の準備をはじめる。

風説書を訳す。前藩主夫人、没(55)。

「海上軍術全書」を訳す。「和蘭志略」に死ぬまでとりくむ。

i大塩の乱

〔麺]

オランダ王、開国をすすめる 一町釧︐謹革﹈

4。オランダ国王の手紙を江戸城で訳す。

(7)

津山高専紀要第31号 (1992)

(57)

︵四︶ 宇田川樒奄の略年譜

       ふ ち 藩医としての扶持については︑活字になっている﹁文政十二年津

山藩分限帳﹂﹁天保三年津山藩分限帳﹂﹁津山藩分限帳一天保十一年

二月現在﹂︵いずれも﹃津山温知会誌﹄︶のほか︑津山郷土博物館に

ある文化七年から弘化五年の分限帳︵一部欠けている︶によった︒

扶持米のほかにも︑﹁津山藩諸役工夫方−文政元年九月十五日改定﹂       ニうやくによると︑御手当米・薬種料・膏薬代が御匙代・御医師の場合に支

給されている︒また︑藩の記録︵﹃江戸日記﹄﹃勘定奉行日記﹄︶や﹃勤

書﹄をみると︑年末に皆勤手当が出されている︒

 文化九︵一入〇六︶年九月現在とある﹁津山藩分限帳﹂によると︑       さじ宇田川無住は番外で拾五人扶持とでている︒翌文化十年には御ヒ代

として︑二十人扶持.・米十五俵︵御手当米︶・金十両︵薬種料︶を︑

翌年いごは御ヒとして同額をえている︒文政二︵一八一九︶年から

五年まで若殿様御ヒをかねて︑そのほかに金三両の御手当米を与え

られている︒

 ところで︑玄真が文政八︵一八二五︶年の正月に天文方の高橋作       ひかえ左衛門殿へ差し出した﹁親類書﹂の拍によると︑

      松平越後守家来

   高弐百石      生国山城  宇田川玄真

      撮齢繍醐尉油日鰍 酉歳五拾七

と出ている︵出典は︑宇田川準一旧蔵の﹃宇田川家ノ記録﹄でく宇

田川家譜﹀などとして引用されているもの︒なお︑これが玄真は山

城出身だという一説の起原を明示した記述と思われる︶︒

 藩の分限帳でみると︑玄真は文政十一︵一八二八︶年では物頭格 御ヒで二十人扶持であり︑同十二年また天保二︵一八三一︶年も同様である︒︵天保三年二月に隠居しているので︑﹃津山温知会誌﹄の天保三年の分は誤りである︒︶ 無蓋も文政十︵一八二七︶年に﹁親類書﹂を作っており︑自筆の正出には︑      松平越後守家来   高五拾石       生国武蔵  宇田川血管         鍛冶橋御門内主人上屋舗内住居仕候 亥三拾歳と出ている︵藤浪のオ働べにもある︶︒ ﹁分限帳﹂でみると︑かれは文政元年から五年まで五人扶持︑同十一年にはそのほかに金七両の薬種料と米十五俵の御手当米をもらっている︒そして︑帯出真が隠居して家督を相談すると︑    御小品組中将様御ヒ代少将様御前様大御前様御ヒ代兼帯  ﹈ 弐拾人扶持       宇田川溶庵       米拾五俵       御手当米       金拾両       薬種料となっている︒この額は天保八年十二月十八日に番外格となってからいこも︑同じであった︵天保九年︑十二年︑十三年︶︒ ︿﹃輔講内科撰要﹄の刊行の始まりについてV この書と椿篭の関係については︑宗田一氏の論考︵イ︑エの121

15リ︶がある︒この書には数種類の版があるようである︒そのなか

で︑巻一の表紙の見返しに︑

     纏頭宇田川先生著    第一蛛

     舗内科撰要

      浪豊富蝉  煙鉦蟷蔵版圃

と見える書がある︒この書とともに入っている第三秩︵編︶σ第九

(8)

(56)

幸田

宇田川椿奄の年譜(下)

四三九ページである︒全91巻の総べージ数が三︑七六八ページだか

ら︑平均すると︑墨付き三五丁の和本が二一三冊あることになる︒

実際︑﹁百二十五冊以上︵分冊で二百冊余︶﹂︵﹃国史大辞典5﹄吉川

弘文館・一九八五年の向井晃氏執筆の﹁厚生新編﹂の項︶になって

いる︒ 68巻本と23巻本に出てくる順に︑12人の氏名と担当ページ数とそ

の割合︵%︶をあげると︑次のようになる︒

 馬場佐十郎11九七ぺ・聡%︑大槻玄沢帥八五四ぺ・脚%︑宇田川

玄真口一︑五六〇ぺ・損%︑大槻玄幹H二二九ぺ・侃%︑宇田川椿

50 100%

0

50ペー

ジ分

椿

3,768π

英 幹

ページ

1型 壱内

皿個人別にみた担当量とその割合 奄11四六〇ぺ・旧%︑小関三英口三〇ニペ・㎝%︑湊長安11九七ぺ・聡%︑杉田成卿11八七ぺ・%︑箕作院甫一130ぺ・肥%︑大槻玄東11二七ぺ・艀%︑竹内玄同11一七ぺ・肋%︑杉田立卿け九ぺ・昭%︑となっている︒ いま︑68巻本の!巻あたりのページ数を基準にして︑全体の量ならびに受入の分担量とその割合などをグラフー〜Nで表わしてみる︒ 宇田川玄真と椿巷の父子で全体の54%︑大槻玄沢・玄幹・玄東の三代で31%︑宇田川と大槻で全体の85%を担当したことになる︒

1000/.

」□勢

L v

r 3,768 ページ 50

0

  3F  凄

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@I l蛛@因槻 圃玄 1刻 小関三 馬場逡成卿

真    1篭  l

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リ     1ぺ 州饗1 平坦

1﹁ l l

戟@ll

立話

W家別にみた担当量とその割合

\細川、,。2。ぺ/\大槻・,183ぺ/

     s3.6% 31.4%

(9)

(1992)

津山高専紀要第31号

(55)

 では︑68巻本と23巻本︑あわせて91巻のうち︑どの程度をかれが

担当していたのだろうか︒実は︑この前にしておかねばならない作

業がある︒それは︑担当者の名が記載されていない巻︵冊︶の存在

である︒ 68巻本は︑第一心意一冊﹁訳編二尊大意﹂を入れて一九〇冊から

なっている︒そのうちの5%・10冊に︑訳者・校合者の名がない︵第

三巻の第四冊︑第九巻の第二冊︑第一三巻の第二〜三冊︑第一四巻

の第二冊︑第一五巻の第二冊︑第十六巻の第二〜三冊︑第一七巻の

第一冊︑第二四巻の第二冊︶︒

 しかし︑第九巻第二冊には第一冊﹁一﹂につづく﹁二﹂の表示が

あり︑第一四巻と第一五巻の第二冊には︵下︶・第一六巻の第二〜

三冊には﹁二の上﹂﹁二の下﹂と記されている︒また︑第=二巻の

第二〜三冊・第一七巻の第一冊︵巻之二︶と第二四巻の第二冊︵第

二︶も内容と呈上年月から︑それぞれ前後の冊の記名者が担当した

と判断した︒のこったのは︑第三巻斗四冊である︒そこで︑今一度︑

各巻の担当者をみると︑第一〜三巻は最初の従事者である馬場と大

槻玄沢がその仕事にあたっているので︑この一冊もこの二人の手に

なるものと考えた︒なお︑つづいて任命された玄真と三人連名のも

のが第四巻第一冊︵文化十年成稿︶にはじまり︑第七巻︵二冊︶・

第一四巻の第一〜二冊︵文化十一年春︶となっている︒そして︑こ

の三人連名のものを除くと︑第四巻第二冊から第三八巻までは玄沢

と玄真の連名のものばかりである︒

 追加稿本の23巻本には記名もれのものは存在しない︒そこで︑こ

れらをあわせた91巻のうち︑だれがどの程度を担当したのかを見て

みることにする︒複数の者で担当した場合には︑その人数で墨付き

のページ数を割り算した︒︵こうした作業をした上で︑前掲のグラ フーを作成した︒︶ 68巻本では各巻は二〜四冊︑平均三冊からなり︑その墨付き︵表紙や白紙を除く︶の丁数を影印本︵恒和出版・版︶のページ数でみると︑本文は23〜7ーページ︑平均49ページとなっている︒このーページには稿本の4ページ分︵二葉分︶が入っているので︑一巻とは墨付き三三﹁丁ほどの和本三冊から成っていることになる︒︵なお︑追加稿本の23巻本は︑すべて一巻一冊で︑平均19ページ︑つまり︑墨付き三八丁の和本一冊となる︒︶ 68巻本の墨付きのページ数の合計は三︑三二九ページ︑23巻本は

IOoo/.

50 0

      50ペー       ジ分

3,768

ページ

湊成

玄東

9

854 1,lll 229 460 302

竹内

堂卿

H登場人物順にみた担当量と一       その割合

馬場佐十郎(97ぺ分)

(10)

幸田 (54)

宇田川椿蕎の年譜(下)

 初代の玄沢は︑第↓〜二巻の大槻玄沢を除いて︑すべて﹁大槻茂

質玄沢﹂と名のっている︵ただし︑第三巻と第四巻の第一冊は﹁大

槻玄沢茂質﹂となっており︑馬場佐十郎も︑﹁馬場佐十郎貞応﹂と

同じ表記の仕方になっている︒︶

 玄幹は︑玄沢とも名のっているので︑昭和七︵一九三二︶年に発

表された板沢武雄氏の﹁厚生新編訳述考﹂︵﹃史学雑誌﹄︶にある表

−各巻ごとに︑その内容や訳無者などがひと目でわかる便利な一覧

1は︑注意して眺める必要がある︒︵なお︑追加稿本1123巻本は︑

昭和一二製品ごに見つかったものだから︑その表にはない︒︶

 文化十︵一八一三︶年四月の終りに天文台の訳員となった楼蕎の

養父・宇田川玄真︵瑛︑一七六九一一八三四︶は︑第四巻に名を出

してから︑第五九巻︵二冊︶の第一十目まで連続して名前を見るこ

とができる︒

 格奄︵椿︑一七九八−一八四六︶が訳員となったのは︑文政九︵一

八二六︶年十一月のことで︑名前が出ているのは︑第三九〜四一巻︑

四三〜四五︑四七〜四八︑五〇︑五一〜五五︑五七〜六八︑七〇巻

となっている︒といっても︑国会図書館伊藤文庫の辞世︵第四冊︶

によると︑第四一巻の第一冊  これには﹁宇田川玄真訳﹂とだけ      エッセンテア     へ記載されている  の﹁越二面亜﹂を︑文政四年三月九日に訳し終

えている︵朝倉の35ぺ︶︒玄真のために︑あるいは父の命で訳をし      ヘ  へていたと思われる︒また︑第三四巻第一冊︵大槻玄沢・宇田川玄馬

     じ  ら訳校︶の﹁豊玉﹂と思われる亡帝も三日前に作っているので︑玄真

が担当したかなりの部分に︑正式に登用される以前から椿堂も参加

していた︑と考えることができる︒       ニせき 第六〇巻の第三冊から︑小関選書︵好義︑一七八七一一八三九︶

が名前を出し︑最後の七〇巻までそれをみることができる︒        みなと 第六六巻の第三冊からは湊長安︵酒壷︑一七八六−一八三八︶が登場してきている︒ 追加稿本︵続稿︶についてみてみよう︒第九巻から最終の第三二巻︵ただし︑第=一巻を除く︶までの23巻が︑前に見たように︑68巻本にはないものだった︒玄沢と玄真は二人がペアーとなって︑第九〜第一一と第一四巻を担当している︒あとは︑玄幹がなくて︑椿蕎・湊長安・小関三七のほかに︑杉田成卿︵信︑一八﹈七 五九︶・みつくり箕作院議︵慶儒︑一七九九 一八六三︶・大槻玄東︵茂棟︑一八一     たけのうち三一四二︶・竹内玄同︵正幹︑一八〇五〜八○︶・杉田立卿︵豫︑

一七八六 一八四五︶の名前がでている︒23巻本では玄沢と平脈を

混同する恐れはない︒

 続稿の順序については︑続稿二六巻︵﹁内騎眼の一﹂︶は続稿=二

巻︵内騎眼の二L︶の前になる︵菊池のイ5ぺ︶はずのほか︑担当

者から見ると︑続一四巻は続一二巻より前に入ると思われる︒これ

以外にも成稿の順序は検討しなければいけないが︑呈上の日付の順

には並んでいるようにも見える︒現存の最終巻である続三二巻は︑

三一巻とともに弘化二年八月八日に若年寄・大岡忠固︵? 一八五

二︶に献呈されている︒この両巻は︑ともに蛍篭が関係しており︑

三一巻︵椿篭堂.・杉田成卿校︶の一部は︑早稲田大学仁ある格篭自

筆の稿本によって︑﹁乙巳︹弘化二年置五月﹂にできたことがわかっ

ている︵影印本の﹃索引﹄鵬ぺ以下に複製がある︶︒

 とすると︑弘化三︵一八四⊥ハ︶年いこも宇田川興斎・高須松亭・

箕作秋坪・市川斎宮・木村軍太郎・新発田収蔵らが安政元︵一八五

四︶年まで新しく訳官に任命されるが︵石山皿ぺ︶︑鼻骨の死︵弘

化三年六月︶とともに︑この翻訳事業も実質的には終了してしまっ

た︑といってもよいようだ︒

(11)

 0%0 1

66.7

50

33.3

(53)

□券ページ

(g)

(13)

」63

 1 %oo  ﹁

66r7

50

33.3

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(号)

(5)

呈上年月

(1)一8

津山高専紀要 第31号  (1992)

活字本(68巻本)の第63〜70巻の各巻の担当者と分担量

    全408ページ

 小   関■ l  o  l l  −  l  I  l  −  1  1  1  1 小   関 湊−  I  l  1  1   1  a  O  圏   −  曇   一  1 椿   蕎

小   関

 小   関一  l  I  喜  l  l  l  I  ︸  l  l  l  一 小   関 湊l  1  8  皇  邑  l  l  I  一  巳  酢 一  1  ■ 格   篭

小   関格  篭

64

(1)一9

100ぺ

65 66 67 68 69 70巻  巻  巻

追加稿本(23巻本)の各巻の担当者と分担量    全439ページ

200ぺ 300ぺ 400ぺ

i卿 .卿

椿 椿 杉田

椿

椿

椿

成卿

13ェ.

11

10

9巻

錘弘化論

駐∵三年七月

讐・年六・

雑−詩

警 正月

 }尉

華保麟

14

(12)

 0%0 1

7 66

0 5

3 3 3

o

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66,7

50

33.3

o

□4ページ

(2s)

(.ユ.3)

呈上年月

     宇田川熔苓の年譜(下)  幸 田

(1)一6  活字本(68巻本)の第47〜54巻の各巻の担当者と分担量

      全439ページ

(52)

l l  ll l  1 0  1  1 1  ﹁  l  I  I 椿  篭 玄  真 −  邑  6  一  巳  塵  1  9  1 塵 8  覇  l  I 玄   真

  玄  真UUUU一日一口﹈口U﹇同hhU  玄  真

54

 椿   蕎1  1   1  置  1   一  一  量  −  巳   巳  曇   玄

I  1  1 1  1  1  一  睦  一   匪  巳   巳 玄   幹 玄   真 l  l  a  愚  l   l     曇  書  歴  l  l  l 玄   真

   玄   真U9同U圃U﹇日門U増h響   玄  真

49ェ47巻

 玄  幹l  l  奮   l  l  鍾   曇  3  ︐  量  量 − 椿   篭− 巳 − 藍 l  I  I  l  I  I  O 量 l l I   玄

□券ペーmジ

(g3)

(13)

(1)一7 活字本(68巻本)の第55〜62巻の担当者と分担量

     全418ページ

0ぺ       100ぺ      2QOぺ      300ぺ      400ぺ

 l@l

@:玄  1格

@2 ■幹  1篭 1 : 垂

 l l l  l    巳 l  l

マ玄l o  l l  l  l篭1幹l l  Ill玄 I  l

 1@2 ■椿巳 旨 3奄1 旨 1 玄 1  :

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@3 0篭1幹

@:@3

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@iコ 1玄

@: 1幹 

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 :@: 玄1 小 ■ 3幹1関 ; :  3

@3

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@1@: 8

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@3玄  1.玄

@I o直   1盲ノ、        爪

@旨

@: o

玄真

 l l盲  17て 1 藍   1

コ1玄; l  l

@l・真1真l l  l l  I l  I l  l  1 宣 1   ハ 1玄1 2 1盲  17て 1 2 3 1

 2@: 1玄1椿 0 3真.1蕎 : : 愚

 :

@:

o 1小

@:@3蕎 1関

@3

@2 1

 :

@2

ヨ1椿 巳

@2篭;養.

@2@: 5

 ;@1小馳 椿 5 :関1 篭 2 I o

55

呈上年月 56

57 58 59巻  巻 60

α巻 62

(13)

%GQ l

66.7

50

33.3

o

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66.7

50

33.3

o

(51)

4

1

2分

(昔)

ユ3 呈上年月

津:山高専紀要 第31号  (!992)

活字本(68巻本)の第29〜38巻の担当者と分担量

   全420ページ (ただし、31・32巻はない)

0ぺ      100ぺ      200ぺ      300ぺ      400ぺ

玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢

玄真 玄真. 玄真 玄真 玄真 玄真 玄真 玄真

29 30 33 34 35 36

    (1)一5  活字本(68巻本)の第39〜46巻の担当者と分担量

□券ページ    全413ページ

(23)

( 1T)

37  正月

文政十年

38

   玄   真UUUU臼囲﹈日日嗣口口卿口目   玄   真

l I  l  奮  l  I  l l  −  l  l  一 邑 椿   奄 玄   真

l  l  l  l  馳  − 毒  ■  囑  l  I  l  聰  1  8 玄   真

椿   蕎玄   真 玄   幹    玄   真− 謹 − 馨  巳 1 1 0 9 1 1 一 巳 l  l l l 1 8 1 −  l  l l 書 ■  l  I 1 8 1 1 8

玄   真

 椿   篭一  巳  ■ l l l  l  薗  l  l  I  ■  l  l  l  l   玄

− l l  − 1椿凄  一  ■  一  1篭  玄   真I I l 量  − 毒 一  一 l I  I  l  l  I  ■ 1 玄   真 l  l  曇  l  I  1  5  量  幽 玄   真 玄   幹l l l ■ 一 1  ■  ■  I I I椿   篭− 亀 − 唇 ︐ 8 1  1 −I l玄   真玄   真1  6 5  1  − 1  ■  I lI l

   39} 

呈文上訴

年十正月一月

 年

40

覗巻 42

43 44 45 46巻  ・一:一v一一u巻

   天   保    二七    年月

(14)

宇田川椿篭の年譜(下〉  幸 田 (50)

     (1)一2  活字本(68巻本)の第11〜20巻の担当者と分担量

□券ぺ ジ   全38…ジ

%oo l

66.7

50

33,3

o

(2s)

(13)

0ぺ ユODぺ 200ぺ 300ぺ

玄沢  . 玄沢 玄沢

 1コ l

@I@l玄

 l

@l沢

玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄源 玄沢

8馬︒

場 1

玄  真 玄真 玄真  玄@}

コ I

@I真 1

^ l@I

玄真 玄真 玄真 玄真 玄真 玄真

    七月

14

  同年薯同+謡

暮同年九月

    六月

11ェ文化十二年

  呈上年月     九月16

  同年15

  二月

同十四年     九月∬巻  同年 18

  三月

︵文政元︶年同十五 19 20巻   巻

  正月文政二年

 十︸月同年

□雰ぺHジ (1)一一 3  活字本(68巻本)の第21〜28巻の担当者と分担量       全413ペーージ

 0%O l

66.7

50

33,3

o

(23)

(S)

呈上年月

0ぺ 100ぺ 200ぺ 300ぺ 400ぺ

玄   沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢 玄沢

玄   真 玄真 玄真 玄真 玄真 玄.

^

玄真 玄真

21      22       23      24      25      26       27       28

ェ       巻      巻       巻        巻       巻       巻      巻

  十月文政二年  二月同三年 九月同年   正月同四年

(15)

(1992)

津山高専紀要第31号

(49)

ある︵今︑かりに23巻本とよぶ︶︒そして︑追加稿本のすべてが68

巻本の続稿であるとはいえないものの︑68巻本がつくられたあとで

編まれたものが多いことは︑一校者の顔ぶれをみても︑また︑天文

方の上司である若年寄に呈上された年月日をみてもわかる︒

 幕府の手になる﹃厚生新編﹄の翻訳事業は︑文化八︵一八一一︶

年三月からはじまっている︒68巻本についていうと︑翻訳や校合の

担当者の移り変わりからみて︑おおよそ↓巻から順に翻訳し校合さ

れ︑清書されてから若年寄に献呈されたと思われる︒

 最初に任命された馬場佐十郎︵自由︑一七八九一一八二二︶は︑

第一〜四巻と第七・第十四巻に名前を記している︒大槻玄沢︵茂質︑

一七五六−一八二七︶は︑第﹈巻から第三八巻まで名前がでてい

る︒︵グラフーの一〜4を参照されたい︶

 第三九巻には

  戊子正月十九日 肥後守殿江荒井甚之丞ヲ以上ル  四冊之内

と書きこんであり︑文政十↓︵一八二入︶年正月に︑目付の荒井甚

之丞から若年寄の林忠英に呈上された︵石山の皿ぺ︶と伝えている︒

第39巻の第二回目と第三冊の一部︵三三痛・三三︶は︑文政十年四

月二十四日に宇田川椿蕎が訳している︵国会図書館伊藤文庫に椿篭

自筆の旧稿がある︒朝倉の30134ぺ︶︒また︑第三冊の﹁虫属の説﹂

︵いわゆる昆虫通論︶も同じ日に訳稿ができている︒そして︑この

第二冊から︑文政十年三月に死去した大槻玄沢に代って︑長子の玄

幹︵茂柏︑﹈七八五一一八三七︶がはじめて名を出している︒訳校

者としての玄幹の名前をみると︑この第二冊以外では︑すべて

  大槻茂槙玄沢

となっている︵第四〇︑四二︑四五〜四七︑四九︑五一一五二︑五

五︑五七︑五九〜六四︑六六〜六七巻︶︒

活字本(68巻本)の第1〜10巻の担当者と分担量       全435ページ

(z) 1

400ぺ 200ぺ 300ぺ

100ぺ

] ;IN!XO 一 .t.,.

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沢1

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1  玄

玄1

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真1@6

(23)

(13)

馨+二者・巻+二雪

暮監百・巻同㌔月

・巻同年八月

・巻文化埼年

4巻3巻

2巻1巻

呈上年月

%㎜

66.7

50

33.3

0

(16)

(48)

宇田川椿蕎の年譜(下) 幸 田

   一九八九年︒

 イ﹁小森桃鳩伝研究﹂﹃日本洋学史の研究H﹄創元社・一九七二年︒

 ウ﹁藤林普山伝研究﹂同皿・一九七四年︒

 エ﹁一蘭方医の生活記録−小石元畜の﹁日省薄﹂の研究一L同V・

   一九八一年︒

 ︵よ︶吉川芳秋

 ア﹃日本科学の先覚宇田川椿篭﹄名古屋CA翫味社・一九三二

   年︒

 イ蟻尾張郷土文化医科学史孜﹄私家本・一九五五年六月︒

 ウ﹃尾張郷土文化医科学史孜拾遺﹄同・一九五五年一〇月︒

 エ﹃紙魚のむかし語り﹄同・一九五八年︒

 オ﹃蘭医学郷土文化史考﹄同・一九六〇年︒

 カ﹃さぬきのくずかご﹄同・一九六三年︒

 キ﹃本草蘭医科学郷土史考﹄同・一九七一年︒

 ク﹃蘭医学郷土史雑考﹄同・一九七七年︒

 ケ﹁江戸の蘭学者宇田川店立から名古屋の伊藤圭介宛書翰に就い

   て﹂﹃郷土文化﹄31︵2︶・一九七七年︒

吉田光邦 ﹃江戸の科学者たち﹄社会思想社︵教養文庫︶・一九六九年︒

 ︵わ︶早稲田大学図書館編

 ﹃洋学文庫目録︹稿︺﹄一九七一年︒

渡部 武

 ﹃津山町奉行﹄広陽本社・一九八一年︒ ︵三︶ 樒奄と﹃厚生新編﹄

 ﹃厚生新編﹄が広く人々の目にふれるようになったのは︑大正一

三︵一九二四︶年一一月に葵文庫が設立されたさいの初代の文庫長・

貞松修蔵︵一八七四一一九三八︶氏が︑活字版の一冊本として公刊

されてからであろう︒それは昭和一二︵一九三七︶年の九月のこと

であった︵貞松修蔵編﹃厚生新編﹄厚生新編刊行会︶︒

 葵文庫には︑江戸浅草にあった幕府の蕃書和解御用︵翻訳局︶か

ら蕃書調所・洋書調所・開成所をへて伝えられた七〇冊の稿本が

入っていた︒もっとも︑駿府学校︵のちに静岡学校︶をへて静岡師

範学校に保管されていた問︵一八七五一一九二四年︶に︑第三一巻

と第三二巻の二巻を紛失したので︑貞松氏が残っていた六八巻を毛

筆ですべて写しとり︑それをもとにして活字化が行われた︑という

ことである︵貞松の12ぺ︑菊池のイ4ぺ︶︒

 この刊行が行われた昭和=一年の活字本いご︑新たに静岡県立中

央図書館に三二巻の﹃厚生新編﹄の稿本が入った︒そこで︑活字化

されたことのある六入巻に︑新しく追加された三二巻をあわせて︑

全一〇〇巻の写真による複製本︵影印本︶が︑一九七八年に全五巻

で刊行された︒その翌年には︑総目次に解題・索引などを備え元別

巻﹃厚生新編 索引﹄も出版されている︵恒和出版︶︒

 活字化されたことのある六入巻︵かりに68巻本という︶と︑三二

巻の追加稿本︵影印本でいう続稿︶との関連をみると︑﹁続稿十・

十一巻は︑欠本となっていた第三一・第三二巻に当り﹂︵菊池のイ

5ぺ︶︑続稿の一〜八巻と十二巻は68巻本と重複している︒したがっ

て︑追加稿本のうち23巻がこれまで知ることができなかったもので

参照

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ある典礼の中心となっている感謝の祭儀、というこ とである 17

霊鷲院の歴住の略伝︵下︶ ︵川口︶    号霊鷲院殿徹顔微笑尼首座墓誌   

④松尾の神楽について(神楽衆藤田家の聞き取り調査)