(27)
津山高専紀要第21号(1983)
61
)
60 59 58 イヒ
) ) ) 』
理教科書シリーズ オランダ﹄ ︵帝国書院︶など資料によってちがう
ので︑義務教育については︑おもに﹃新しい世界の学校教育﹄ ︵第一
法規二九八二︶によった︒
︵49︶ こうした活動の広さから︑池田哲郎氏は協会を﹁共益会社﹂と
訳しておられる︒
︵50︶ この部分は注︵33︶の①から︒この項目の執筆者自身がそうで
ある︒︵51︶ 原文のままを再録︒
︵52︶ 一八〇一︵もしくは〇三︶年に﹁星占いと運星判断に関する偏
見の有害さを証明せよ﹂というコンテントが行われて︑ボイスの論文
が協会から名誉章をえた︒おそらくこれにもとづいて︑デボスとの二
冊の共著が書かれており︑それを指すのだろう︒この小論の︵三︶
﹁ボイスの略歴﹂参照︒
︵53︶ ﹁大庭雪斎﹂ ﹃蘭学資料研究会研究報告﹄第一四二号︵一九六
三・五︶五ぺ︒
︵54︶ おもに﹃大人名辞典﹄ ︵平凡社 一九五七︶によったが︑ ﹁霞
の屋のあるじ﹂という号は見えない︒
︵55︶ 文典の文例には︑聖書から数多く引用されており︑.﹁蘭学を研
究するものは︑常にキリストの言葉にふれ︑その内容を理解するため
には︑聖書に重大な関心をもたざるをえなかった﹂︒︵菱本丈夫﹁箕作
玩甫と聖書﹂前掲注︵46︶三七六ぺ︶︒ 雪斎の場合も同様で同書の三
七三i四ぺ︒聖書の翻訳を企てていた︒
︵56︶ 雪斎のほかに四種類ある︒池田前掲論文・注︵29︶の七ぺ︒
︵57︶ 古田東朔﹁大庭雪斎︵一︶i︵四︶﹂ ﹃実践国語﹄第三〇ニー三〇
四号︵一九六五︶︒ ここでは︵二︶の三八i九ページの書き下し文に
よった︒他に﹁江戸期における翻訳書の文章形式﹂ ﹃蘭学と日本文
︵東京大学出版会 一九七一︶一四四ぺ︒
前注書﹃実践国語﹄三〇三号 三八一三九ぺ︒
池田前掲論文・注︵29︶三ぺ︒
﹃目本科学技術史大系1﹄ ︵第一法規 一九六四︶六五ぺ︒
杉本勲﹁九州諸雄藩の蘭学﹂ ﹃蘭学と日本文化﹄前掲注︵57︶
三三〇ぺ︒
︵62︶ この板元については︑手がかりがなかった︒ ﹃扶氏経験遺訓﹄
の板元︵大坂・秋田屋︶ではない︒奥付の書林︵前掲︶のうち︑三都 分については次の通りである︒京都の菱屋孫兵衛は︑ ﹁京都書物問 屋﹂ ︵嘉永六く一八五三V年︶の古組にでている︑明治七︿一八七 四﹀年の﹁京都府管下第一書籍商社﹂の藤井孫兵衛︵上京区御幸町通 姉上路上ル︶もそれかもしれない︒江都・須原屋茂兵衛は︑ ﹁東京府 管下書物問屋﹂ ︵明治六︿一八七三﹀年︶に﹁須原屋 北畠茂兵衛 ︵日本橋通一丁目︶﹂とある︒江都・山城屋佐兵衛は︑ ﹁江戸書物問
屋﹂ ︵嘉永六年︶の古組に︑ ﹁玉山堂 山城屋佐兵衛︵通二丁目藤三 野地借︶﹂︑ ﹁東京府管下書物問屋﹂ ︵明治六年︶に﹁山城屋稲田佐兵衛︵日本橋通三丁目︶﹂とある︒大坂・河内屋喜兵衛は︑ ﹁大阪府管
下書林﹂ ︵明治七年︶に﹁河内屋 柳原喜兵衛︵北久太郎町四丁目︶﹂とある︒ ︵﹃日本出版百年史年表﹄日本書籍出版協会・︿一九六八﹀
によった︶︒﹁軽き仮名文字﹂等の地本ではなく︑ ﹁物の本﹂として扱われたことは︑ ﹁開版見改元帳﹂にのっていることからも︑書林の性
格からもわかる︒︵63︶ 既出の文献・注︵9︶︵25︶︵57︶のほか︑杉本勲﹁大庭雪斎訳述
考﹂ ﹃蘭学資料研究会研究報告﹄二=号︵一九六八︶などによった︒
︹補注︺
*﹃民衆の自然科学﹄ ︵長崎での翻刻書︶一一九ぺ︒前掲書注︵6︶の
一五六ぺ︒
*菅 津山洋学資料館所蔵本による︒なお︑惣郷正明﹃図説日本の洋
学﹄ ︵築地書館・一九七〇︶の資料篇をみると︑モーチノル父子合著の こりつ
﹃和蘭文典前編﹄ ︵グラマチカ︶には︑ ﹁和蘭文典︒文社合著・關州利用︒第二版﹂との訳語がつけられている︵一八ニペ︶︒ 社会福祉が﹁闇
州利用﹂︑協会が﹁文社﹂となっている︒
*** 大庭雪斎は︑協会を﹁文社官府︵ぶんしゃやくしょ︶﹂と訳し
ている︒
**** 伊東栄﹃伊東玄朴伝﹄︵玄文社・一九一六︶の巻末にある﹁門
人録﹂には︑
文久元酉六月十一日
肥前小城藩 宮崎元立
とある︒
︵七月十二日 追記︶
(26)
幸
田『民間格致問答』の著者ボイスと訳者大庭雪斎
︵35︶ 成瀬治﹃世界の歴史15﹄ ︵講談社一九七八︶九五ぺ︒
︵36︶ ④宣誓の禁止 ﹁あなたがたの言葉は︑ただ︑しかり︑しか
り︑否︑否︑であるべきだ︒それ以上に出ることは︑悪から来るので
ある﹂ ︵マタイによる福音書︒五一三七︶︒﹁わたしの兄弟たちよ︒何
はともあれ︑誓いをしてはならない︒天をさしても︑地をさしても︑
あるいは︑そのほかのどんな誓いによっても︑いっさい誓ってはなら
ない︒むしろ︑ ﹁しかり﹂を﹁しかり﹂とし︑ ﹁否﹂を﹁否﹂としな
さい︒そうしないと︑あなたがたは︑さばきを受けることになる﹂
︵ヤコブの手紙︒五−一二︶︒
おきて 地上における神の精神的な王国では︑真実が最高で唯一の掟である
から︑良心のためにも︑禁じられている︒
②このほか︑病人に油をぬっていやす︵マルコによる福音書六一一
二︒ヤコブの手紙五一一四︒︶こと︑さらにメノナイトの場合は︑@
足洗いがある︒ ﹁イエスは⁝⁝上着を脱ぎ︑手ぬぐいをとって腰に
巻き︑それから水をたらいに入れて︑弟子たちの足を洗い︑腰に巻い
た手ぬぐいでふき始められた﹂ ︵ヨハネによる福音書=二章四−一
五︶⑤﹁きよい接吻をもって互いにあいさつをかわしなさい﹂ ︵ロー
マ人への手紙一六−一六︶等︒
︵37︶ 瀬原義生﹁ドイツ農民戦争﹂ ﹃世界歴史14﹄ ︵岩波書店 一九
六九︶三四四ぺ︒
︵38︶ 倉塚平﹁カルヴィニズムの成立﹂前注書三八七i四〇一ぺ︒
︵39︶ 露ZΦ妻O①艮ロ蔓O団98①幽㌶o隔Z98霧糟︑﹃ジャポニカ﹄ ﹃キリス
ト教大辞典﹄は︑生年を一四九二年とする︒前掲注︵33︶の③は一四
九六?︒⑤は没年もこれだけはことなって︵一四九二一一五五九︶と
なっている︒
︵40︶ 彼らがいかに敵視されたかを示す絵が︑フックス﹃風俗の歴史
2﹄ ︵安田徳太郎訳 光文社 一九六六︶の一四七べにある︒なお︑
同書の一四八−一五九ぺと訳者注二四九−五三ぺを︑前掲︵37︶およ
びカトリック側の注︵33︶の⑤と比較されたい︒
︵41︶ 栗原福也﹁ネーデルランド連邦共和国﹂ ﹃世界歴史15﹄ ︵岩波
書店 一九六九︶一二七ぺ︒
︵42︶ 前掲書注︵33︶の①五五三ぺ︒
︵43︶ ﹁オランダ史﹂ ﹃中欧史﹄ ︵山川出版 一九五七︶二四一ぺ︒
漁業は﹁単に食糧の供給源であったばかりでなく︑戦力としての人的
資源の保持・育成の場でもあった﹂ ︵同二四〇ぺ︶︒︵44︶ 岩波文庫︵三︶一九七九 昏酔九−三〇ぺ︒これによると︑一 校あたり教員三人︑生徒=二五人となる︒ 先述した幕府最初の海外留学生赤松則良は︑幕府が注文した開索敵
の建造地ドルトレヒトで小学校に下宿している︵一八六三年︶︒﹁オラ
ンダ共和国時代に同市の貨幣製造所であった宏壮な建物の一部で︑当
時は小学校として校長のゴット・ハルトがそれを借受けて校舎にあ
て︑教員一両名と生徒三︑四十人とが毎日通ってきた︒造船所主義ッ
プスが私達のオランダ語を学ぶ便利を慮って特にこういう場所を選ん
でくれたのであったが︑私はもはや語学の稽古は余暇にすることにし
て︑専ら造船所へ通うことを日課とし⁝⁝三度の食事は下宿に診て取
ることにした︒その晩餐は校長︹五〇歳前後︺始め其家族︹妻と三人
の息子︺と食卓を共にするのが例であった﹂︵前掲注︵15︶一七ニペ︶︒
かつて小学校を見学したこともふくめて︑その様子はこれ以上にはわ
からない︒
なお︑日本の近代的学校制度の基本を定めた一八七二︵明治五︶年
の﹁学制﹂に︑オランダの教育制度も影響を及ぼしている︒学制の起
草に参画した赤松と同じ幕府のオランダ留学生・内田正雄に﹃和蘭学
制﹄ ︵全二巻・明治二年十一月・開成学校︶の訳書がある︒
︵45︶ 池田哲郎氏によった︵注︵29︶︶︒ここでは標題すべてを紹介す
るように努めた︒
︵46︶ 同書の中表紙には﹃和蘭文典後編成句論﹄とある︒なお︑蘭学
資料研究会編﹃箕作腕甫の研究﹄ ︵重文閣 一九七八︶によると︑ラ
フェケッスの文章論の翻訳として︑片かなまじり文の﹃和蘭文典後編
成句論﹄が同じ嘉永元年に出ているとある︵四六七ぺ︶︒
︵47︶ 曽糞①匿二巴鋤巳の︒冨ω透Φ§叶ぎげ麦畠Φ法肩Φ守︒覧︒篤畳Φ
によった︒謹貯冠雲竜ぎωではメンバー数四万六〇〇〇人︑独立部門
は三四六であり︑統計年代の差かと思う︒
︵48︶ オランダの義務教育は九年制︵六i十五歳︶で︑小学校は六年
制︵六一十二歳︶・一クラス平均児童数は三五名で︑中等職業訓練学
校は三一四年制︵十二i十五もしくは十六歳︶である︒ただし︑ ﹃世
界大百科﹄ ﹃ジャポニカ﹄ ﹃世界統計年鑑﹄ ﹃朝日年鑑﹄ ﹃世界の地
一99一
粉
津山高専紀要第21号(1983)
一九七八︶によった︒
︵22︶ ﹃松香私志﹄ ︵一九〇二﹃長与専斎自伝﹄平凡社 一九八○︶
一一〇ぺ︒
︵23︶ ﹃福翁自伝﹄ ︵一八九九 岩波文庫一九五四︶八三ぺ︒
︵24︶ 呉秀三﹃シーボルト先生﹄ ︵一九二六・平凡社一九六七︶3の
六〇ぺ︒
︵25︶ 古田東朔﹁大庭雪斎訂補の﹃暦象新書﹄﹂ ﹃蘭学資料硫究会研
究報告﹄第二五一号︵一九七一・一〇︶二三ぺ︒
︵26︶ 中野操﹃大坂蘭学史話﹄ ︵思盛塩 一九七九︶一六六i七ぺ︒
︵27︶ その威力をグラマチカの最初の翻刻者である熊坂蘭斎は︑ ﹃和
蘭文典﹄ ︵前編一冊︶の抜文でこうのべている︒ ゴロ テ ノ ヲムヲ ノ ニ余頃︑購二五舶来印本一冊一読レ之︑十年積量︑ 一旦氷 シ トシテ ル ヲ釈︑脱然 覚レ非︒ ︵天保十一︿一八四〇﹀年︶ ︵前掲書注︵19︶四
八二一三ぺ︒︶
︵28︶ 前注書四四九ぺ︒
︵29︶ ︿文法書をもとにしてオランダ語を学ぶVというやり方が︑な
ぜおくれた︵?︶のか︒ ﹁これまでは特に熱心な人だけが蘭文法をやっ
ていたから︑一般の学習においてまでは行われることはなかった﹂と
いう考え方もある︒熱心さが広がったということもあろうが︑普通の
蘭学の学習でもやるようになったのだから︑これだけではいかがかと
思う︒
近代オランダ語の基礎は︑政府の命令で一七世紀前半になされた聖
書の翻訳でできた︑といわれている︒
日本には︑オランダ語の文法書として︑どの程度のものがあったの
か︒天明八︵一七八八︶年に刊行された大槻玄沢の﹃蘭学階梯﹄をと せん ってみよう︒同書は︑前野良沢の﹃和蘭訳筆﹄などとくらべて﹁はる
かに整備されたもので︑その影響力は大きく︑以後オランダ語を学ぶ
ものは︑一応これから入った﹂ ︵緒方富雄氏による︒ ﹃蘭学事始﹄岩
波文庫︿一九八二﹀への注︒一二八ぺ︶︒ 上巻では︑日蘭関係の歴
史・蘭学の効用と発達をのべ︑下巻では﹁オランダ語の基本的事項や
学習方法を具体的にかつ簡単に説いたオランダ語への入門書﹂ ︵﹃洋
学上﹄日本思想大系・岩波書店一九七六 の解説五七五ぺ︶である︒
﹁下巻はオランダ文字をはじめごく初歩的な蘭字蘭語の紹介﹂ ︵杉本 つとむ﹃蘭説弁惑﹄八坂書房 一九七二・二四六ぺ︶というレベルで
ある︒これ以後の文法書についてのべる能力はないが︑ガラマチカは︑た とえば名詞の格変化を六十から現行の四通へと整理している︒ガラマ チカには次の序文がついている︒ ﹁本社は他の重要な活動の一環とし て︑正確かつ正則な美しい母国語の知識を授けるために︑先に学校 用・一般向の国&百Φ馨餌︹初歩︺を︑更にまたω冒三図諺を刊行した が︑今回さらに要望に答えてO冨霞匿け一$︵文法則和蘭文語︶一巻を 加えてその完壁を期した﹂ ︵池田哲郎﹁和蘭﹁共益会社﹂本につい て﹂ ﹃蘭学資料研究会研究報告﹄第六七号︿一九六三・一二﹀五一六
ぺ︶︒ 初版は一八ニニ年である︒ 有効さを発揮できる文法書が︑少なくとも日本にあったかどうかが︑学習の場にまでそれが広がるか否かの鍵であろう︒ ︵30︶ 前掲注︵6︶二七六ぺ︒なお︑国立国会図書館参考書誌部の回 答︵一九八三・二・二二︶も全く同様である︒ ︵31︶ ダンネマン﹃新訳大自然科学史4﹄ ︵安田徳太郎訳編 三省堂
一九七八︶一〇⁝一一ぺ︒
︵32︶ 筆者のしるかぎりでは︑わずかに前掲注︵7︶の訳注︵二七五
ページ︶にある︒
︵33︶ メノナイトとメノi1ージモンスの参考文献
① 国ロ︒矯90冨Φ象β︸oh幻①一齢凶︒ロ騨︒μ自田甑8ぎド釦官密H−錦漣 筆者は
アムステルダム大学神学教授兼アムステルダムのメノナイト神学校
教授W・﹂・キューレル︒
② じUユ霞巳op︒<oド嶺噂bQqN一劇 筆者はインディアナ州のゴーシェン
大学神学教授・メノナイト歴史協会書記﹂・C・ウェンガ:︒
③国口証98窪山貯﹀日︒ユBpぎ出稿Q︒宰Φωb︒ふω㎝b・ωOα一O﹃筆者は
ニュー・ジャージ州のオランダ改革派北教会且・G・ハ:グマン︒
④◎塾主︒巳︒蹴巳零︒円急ぎ一.昌㌘ホα1窃O
⑤H・テユヒレ他﹃キリスト教史5﹄︵上智大学中世思想研究所編
訳 講談社 一九八一︶一五一一五ぺ︒
①②はメノナイト系︑⑤はカトリック側の筆者である︒
︵34︶ ヒューバーマン﹃資本主義経済の歩み﹄︵岩波書店 一九五三︶
上の一一九一二三ぺ︒
(24)
幸田
『民間格致問答』の著者ボイスと訳者大庭雪斎
山回・池上哲男・杉山魏の諸先生からご援助をいただまきし
た︒めんどうな仕事をしていただいた本校図書館の諸氏もふく
めて︑皆様方に厚くお礼申し上げます︒
︵一九八三年四月二八日︶
︵1︶ ウィリアム・クルックス﹃心霊現象の研究﹄ ︵一九二六 たま
ヘ へ出版一九八○︶︒ 訳書の見出しに﹁心霊科学の世界的古典﹂とつけ加
えられている︒
︵2︶ 小野洋一﹁︵五年三組かわら版︶こっくりさんって本当かなう
そかな?﹂ ﹃楽しい授業の広場1﹄ ︵倉敷仮説サ:クル︶一九八一︒
塩野広次﹁〃コックリさんと楽しくつきあうために﹂ ﹃授業科学研
究11﹄ ︵仮説祉 一九八二︶︒
︵3︶ 森島恒雄﹃魔女狩り﹄ ︵岩波書店 一七九〇︶一七ニペ・二〇
一ぺ︒
︵4︶ 板倉聖宣﹁手品・超能力と科学の歴史﹂ ﹃ものの見方考え方
第2集﹄ ︵季節社 一九八一︶三五−三六ぺ︒
︵5︶ 板倉聖宣﹁科学読みものの生いたち﹂ ﹃月刊子どもの本棚﹄第
一三四号︵一九八一︶一七ぺ︒のち増補されて注︵6︶の書に収録︒
︵6︶ ﹃日本はじめての科学読物﹄ ︵国土社 一九八二︶︒ 同書には
福沢諭吉の﹁︵訓蒙︶窮理図解﹄も﹁やさしい物理図解﹂として収め
られている︒
︵7︶ フィッセル﹃日本風俗備考﹄ ︵一八三三︑平凡社庄司三男・
沼田次郎訳注 一九七八︶1の一四一ぺ︒なお同書は︑徳川幕府が箕
作玩甫・杉田成卿らに命じて翻訳させている︒
︵8︶ ﹃︵明治前︶日本物理化学史﹄ ︵日本学術振興会 一九六四︶
の=二八ページには︑一八〇二年とある︒
︵9︶ ﹃国書総目録﹄に﹁二童問答下編訳稿・天保十四︵一八四三︶
年﹂とある︒
︵10︶ ドイツ人イスホルディングの﹃医学生のための物理学ハンドブ
ック﹄ ︵一八二六︶のオランダ語訳本︒
一八五六︵安政三︶年に︑広瀬元恭が﹃理学提要﹄ ︵本編二冊・後編
一冊で未完︶として翻訳している︵一八五六一九年刊︶︒翌年には︑ 信夫古訓が﹃理学入門﹄と題して︑原書のまま翻刻している︒ ﹁イスホルディングの書はヴィーンの医学校の教科書として編述され
たもので︑川本三民が翻訳の原本としたヨハネス・ボイスの三等に較 しか べると遙かに程度の高いものではあるが︑然し元来医学生用の自然科 むし 学入門書であるから当時のヨーロッパの学問界の水準から見れば寧ろ
通俗的な書物である﹂ ︵前掲旧注︵8︶の一八七−八ぺ︶︒
︵11︶ 治郎丸憲三﹁箕作秋坪補説﹂ ﹃作陽音楽大学・作陽短期大学研
究紀要﹄第八巻第一号︵一九七五︶一⊥ハ⊥ハペ︒
︵12︶ 翻刻のつづりは昌p︒σqΦ脅爵什が正しく︑また尾諺跨図の団がひっ
くりかえっている︒
︵13︶ 同書には﹁国立図書館 昭和二四・三・二九 寄贈﹂の印があ
る︒これについて︑国立国会図書館参考書守部から回答をえたので︑
西村正守﹁東京府書籍館の人々﹂﹃図書館学会年報﹄第二三巻二号︵一
九七七・九︶︑石川洋﹁国立国会図書館所蔵蘭書の来歴﹂ ﹃蘭学資料
研究会研究報告﹄ ︵一九七四・二︶を参照しながら︑のべておく︒
開成所の後身である東京開成所は︑明治九年に︑蘭書六四七〇冊を
﹁蘭書ハ本校二於テ不用二属スルヲ以テ﹂︑ 国会図書館の源流の一つ
である東京書籍館に贈付した︒しかし﹁既に蘭書が新知識の供給源と
しての役割を英独仏書に譲っていた﹂ ︵西村氏・七四ぺ︶し︑蘭学が
廃棄されてすでに十余年もたっていたので図書の整理作業は未完に終
った︒結局︑明治十四年に﹁閲覧ヲ許サザル﹂乙部図書に編入され︑
その後七〇年余りを経過した︒本書が発見された当時は︑これらの経
緯が不明で便宜的に処理をしたということで︑ ﹁国立図書館洋書図書
原簿﹂には﹁受入種別G﹂︵伽q軍略︶﹁受入先冨塁8δ冨︵無名氏﹂︶とな
っている︒
︵14︶ ﹃大隈公八十五年史﹄ ︵一九二六 原書房一九七〇︶七二ぺ︒
A A A A A A A 21 20 19 18 17 16 15
Xvt Nv V V VI V W
﹃赤松則良半生談﹄ ︵平凡社 一九七七︶ =ニー五ぺ︒
前掲注︵10︶と同一書か︒
﹁二童問答﹂ ﹃自然科学教科書﹄のこと︒
払則主簿︵15︶一ニペ︒
﹃日本洋学編年史﹄ ︵錦正社 一九六五︶四三ニー三ぺ︒
前掲書落二八︑四四九ぺ︒
緒方洪庵については︑伴忠康﹃適塾をめぐる人々﹄ ︵創元社
一 101 一
(23)
津山高専紀要第21号(1983)
︵61︶ていた︒江戸に出る前に︑蘭学寮で雪斎に学んだのだろう︒
この記録をみると︑九年前の丑︵一八五三年︶五月六日に全
六冊が納本されているが︑すでにそのうち四・五・六の三冊
は︑子︵五二年︶六月五日検閲ずみになっている︒此節・戌︵六
二年︶三月二十五日に願い出たのは︑ ﹁前半三冊の出版にさい
して訳者の蔵版にしたい﹂から伺いをたてたので︑この件は︑
五月二十五日に承認された︒
前述の④⑤@もあわせてみると︑一八五二年六月には︑四・
五・六巻が検閲ずみで︑翌年には全六巻を納本した︵前半三巻
はこれより前と考えてよかろう︶︒ 六一年六月に大庭雪斎が題
言をつけ︑翌六二年三月に幕府が出版を許可し︑第一・第二・
第三の三冊を出版するにあたって同年五月に訳者蔵版︵思無邪
斎蔵︶の許可をえた︒そして︑全六巻の新刻がそろったのが六
五年一月であった︒
全六巻を幕府に納本した時点から数えても︑出版にこぎつけ
るだけで十年はかかっていた︒刊行の時期は︑一八六二︵文久
二︶1六五︵元治二︶年となろう︒
蘭学寮の発足︵一八五一年︶の二年後に︑幕府へ全六冊を納
本し︑六五年に全巻が出揃ったとすると︑四十代後半であった
雪斎は︑今や満で六十をむかえ︑改組拡充された好生館の教導
方頭取の地位から身をひく時期にきていた︒この年︑元治二年
は︑四月に慶応へと改元され︑明治に手のとどぎそう.な時期で
あった︒ ︵そのこともあってか︑この大部な本書は︑広く流布
され影響を与えたとは︑いいがたいかもしれない︒慶応四へ一
八六八V年には︑窮理熱ブームの口火をきる福沢諭吉の﹃劉究
理図解﹄ができあがっている︶o 第六巻︵最終巻︶の最終丁の綴じ目の余白 ︵62︶天満難波橋筋 鳥屋文兵衛・板元﹂とある︒ ︵63︶ 大庭雪斎の訳述書
﹃訳和蘭文語﹄前編二巻後編三巻全五冊︵一八五六︿安政二﹀
年−五七︿安政三﹀年刊︶
﹃体液究理分離則﹄四巻四冊 一八五八︿安政四﹀年並
﹃民画格致問答﹄六巻六冊︵一八六二︿文久二>1六五八元治
二V年刊︶
﹃翼果西医療手引﹄二巻
﹃同字算法基原或問﹄六巻
﹃爆数理踏襲﹄
ほかに﹃暦象新書﹄の訂補 一八五七く安政三V年︒
緒方洪庵﹃扶氏経験遺訓﹄ ︵一八五七く安政三V一六一︵︿文
久一V年刊︶に﹁参朝﹂︒
なお︑ ﹃民間格致問答﹄の第五巻の大半を︑本校電気工学科
の山田正保先生と紹介する予定である︒
終りに︑引用文献にお名前をかかげた方々をはじめ︑オラン
ダ大使館︵芦塚隆氏︶ ・日蘭学会・国立国会図書館・岡山大学
︵池田文庫︶・東北大学︵狩野文庫︶・津山洋学資料館・津山キ
リスト教図書館・津山市立図書館・岡山県総合文化センター︑
そして本学関係のデベール・仁枝忠・小滝安正・西村好弘・川
島核三・勢田勝郭の諸先生の︑お世話になりました︒また︑高
(22)
『民間格致問答』の著者ボイスと訳者大庭雪斎幸田
丁からなる大部な啓蒙書である︒これらはいつごろ・どのよう
にして刊行されたのであろうか︒
まず最終巻︵第六巻︶の奥付をあげてみよう︒
「「殉●・.沼,「糀■
沁治みしユ初春鋸挽乃
羽ut
同 煙柱日勢刈洞津備†分心酔刈牽事ゑ韻荊︐佐賀
笈屋灘︽衛
須原厘茂選書山雲漸増央衛﹁山玖厘単射門大恢屈源助
永搬厘東慈雨・原 ロ吉 ム河昏ゑ喜齊術﹁元治二乙丑初春新雛乃﹂にある﹁新鮪乃﹂とはどういうこと
せん さんる か︒ ﹃大漢和辞典﹄によると︑ ﹁讐︑鎭鍍也﹂ ︵字彙補︶とあ
るから︑新刻と理解してよかろう︒とすると︵④一八六五年一月
新刻である︒
第一巻の題言には﹁文久元辛酉六月﹂とあるので︑弾着が最
終的に出来あがつたのが︑⑤一八六一年六月であろう︒また︑
同巻の見返しには﹁文久二年壬戌三月官許﹂とあるから︑幕府
の出版許可をえたのが︑◎一八六二年三月目なる︒
こうした幕府の許可であるが︑シーボルト事件後統制がつよ
まっている︒一八四〇年長崎奉行に︑蘭書の取り扱いと翻訳を
一般人が行なうことに警告を出させ︑四二年には︑翻訳書の出
版には町奉行の許可がいる︑とした︒四五年には︑天文方によ る翻訳書の事前検閲と版行後の一部納本が実施され︑四九年には翻訳にさらに制約が加わり︑五〇年には︑長崎奉行が輸入洋書を検閲し︑その所持と翻訳に目をひからせている︒五六年には新規開板の洋書および翻訳書をすべて洋学所︵翌年に蕃書調所と改称︶で検閲させている︒ ︵ただ将軍家塾が五八年に病気になったため︑四九年に定められた﹁幕府では︑外科・眼科を除いて医者が蘭方で治療するのを禁止する﹂︿蘭医方禁止令Vは解かれた︶︒ 一八六〇︵安政七︶年には︑天文・暦算は天文方が︑世界地図・蘭書翻訳・蘭方医書は蕃書調所が検閲し︑刊行後には一部を献本させることにした︒ 実は︑この蕃書調所の検閲記録である﹁開版見改元帳﹂が︑都立日比谷図書館に所蔵されている︒安政五濁︵一八五八︶年から文久三亥︵一八六三︶年までの六力年分が残っていて︑これらは翌元治元年に清書されたものである︒一八六二︵文久二戌︶年に︑つぎのような記録がある︒
﹁開板見改憲書分
五月二十五日改
丑五月六日全部六冊納本 尤四五六 三冊三子六月五日
見当済 / 民間格言問答 全部六冊之内 一二三 三 ママ 冊立師大庭雪斎翻訳仕候を此節開板之上蔵本二仕度此
毅奉伺候 ︵60︶ 三月二十五日 宮崎元立 ﹂
蕃書調所との交渉には︑江戸にいた雪斎の弟子・宮崎元々が お ぎあたっている︒佐賀藩の支藩である小城藩出身の宮崎は︑江戸 げんぼくへでて佐賀藩がうんだ最大の蘭学者・伊東取下︵一八001七
一)
フ筆先堂に入門し︑蕃書調所の絵図調激増役に抜てきされ
一 103 一
(21)
津山高専紀要第21号1(1983)
ろう︒ ではどうして誤解が生まれたのだろうか︒
メノナイトが一七八四︵天明四︶年に設立した社会福祉協会
は︑その当時創立されて一五〇年余りたつていたアムステルダ
ム市立大学の神学の教授︵市議会が任命し現在は国王が認可す
る︶を︑同派の神学校から派遣している︒ ︵これがいつごろか
らはじまったのか筆者には不明だが︑一八一一年に全野ノナイ
ト協会が設立され神学校への援助をはじめて以後まもなくでは
ないかと思う︶︒ 特定の宗派の私立学校が︑公立学校の教授の
ポストの決定権をいわばにぎるということは︑今日の我々でも
了解しがたいほどだから︑当時はなおのこと協会を﹁政府︵公 ︵59︶ ***的︶機関﹂と理解したようで︑雪斎だけではなかったようだ︒
︵もっとも︑国王の命令で本がえらばれた︑とした方が︑翻
訳・出版に便利ではあろうが︶︒
雪斎が典拠とした第二版︵一八三一年︶に︑どのような序文
などがついていたかは︑筆者には不明である︒が︑当時の情勢
もまた変化に官田んだものであった︒初版がでた︑一八一一年は︑
フランス革命軍がオランダを占領中であった︒ナポレオンの敗
退後︑ヴィーン会議︵一八一四一五年︶によって︑オランダは
オーストリア領ネーデルランドを併合して︑ネーデルランド王
国となった︒イギリスに亡命していたヴイレム一世は︑学問や
芸術の振興をはかるために学士院を創設したり︑領土全域にわ
たる情報の収集にも力をいれ博物館の建設をすすめようとし
た︒ ︵もっとも︑こうした政策もあくまでオランダ人のための
政策であったので︑一八三〇年パリの七月革命を機に︑経済事
情や宗教・言語などがことなるベルギー人は独立を宣言した︶︒ 雪斎の﹁題言﹂が伝えるオランダの教育の姿は︑一八四八年.の憲法改正によって全国化した様子のようにさえみえるので︑三〇年代以降の伝聞が入りこんだのかもしれない︒ 雪斎にこの書の翻訳を命じたのは︑佐賀藩主であった︒長崎に直接する佐賀藩は︑福岡藩と交代で長崎の警備にあたってきた︒ナポレオン一世がイギリスと戦ったとき︑その戦争の一環として︑一八○八︵文化五︶年に長崎でフェ!トン号事件が起こっている︒イギリス軍艦が侵入したこの事件の責任をとつ ひっそくて︑長崎奉行は自殺し︑当番であった佐賀藩主は︑逼塞を命じられている︒しかし︑長崎二番などの任は財政的負担も大きく︑早くから藩財政は窮乏していた︒一八三〇︵天保一︶年にあとをついだ鍋島直正︵閑聖︶は大規模な藩政改革に着手した︒職制改革をおこない︑均田制を断行して封建的自営農の再編成をめざした︒他方では︑国産方をもうけて陶器・石炭などの専売や藩営貿易を行なうほか︑反射炉の建設︑大砲・小銃の製造など軍事力の強化につとめた︒そうした政策の一部が︑五
一︵嘉永三︶年の蘭学寮の創設であり︑幕府が長崎に海軍伝習
所を五五年に開くと︑四十八名の伝習生を送りこんだりもし
なりあきら
た︒薩摩の島津工専とならぶ横撃の大名であったこの鍋島直正が︑雪斎に翻訳を命じた︑という︒ ︵なお︑直正は︑六一︿文
なおひろ
久一﹀年には家督を子の直大︿一八四六一一九二一﹀にゆずっている︶︒
︵七︶
﹃民間格致問答﹄全六巻六冊は︑ わとじ和綴美濃判で︑総計三三七
(20)
幸田
『民間格致問答』の著者ボイスと訳者大庭雪斎
もしいささか若些少も解難きことあらば然るべき人にも問尋ぬべし︒人に
とふ おくあん たとひうまれつきするどきひと問ことを恥て臆案に任せ置ば︑仮令天性鋭敏人たりとも︑
おなじやう とかく道理の根本間違ひて︑生涯同様の才智にて暮す事あり︒兎角
よみものに学問読書は才智を増ためのものなれば︑彼此に心をとむべ
し︒
とき ミニユ ト
一、
許驍二十四時とし︑その時の六十分一を紙紐篤といひ︑ セコンド又その六十分一を旋昆度と云︒︹以下︑度量衡の説明は省略︺︒
あり うっす ことぽ たとへ
一、
a漢に物体は寝ても名のなぎ物は訳べき言なし︒故に輸ば
ストフ うつし かたはら しる素質と訳て︑傍に﹁ストフ﹂と記せるが如きは︑些少は字義
よれ いふ そのままにも由ど︑彼の邦の﹁ストフ﹂と乙名を其侭にて訳せるな
ポリ ン エレキテル め どり︒又剥身・越列幾の如く字義にもよらず︑其侭の名を目的 つひで にして訳せるもあり︒如何なる物と云ことは論の序にて悟る
うつしぶん つたな みるひとねがは べし︒只訳文の拙きは不才不学の筆に罪あれは︑恩人願く
ゆるし とりもち は緕あひて︑事の道理のみを採用ひあへがし︒文久元年辛酉六月 大庭.劇.誌
﹃民間格致問答﹄を出版する十年近く前に︑五十をすぎた佐 あざな賀風蘭学寮の教導・大庭雪斎︵名は窓・字は景徳︶は︑ ﹃訳和 ︵55︶蘭文語﹄全五冊を刊行していた︒これらは︑同じ社会福祉協会
の出版物である﹃ガラマチカ﹄と﹃センタキス﹄の・両者のは
じめてで唯一の全訳書であった︒箕作玩甫のさきに出した翻刻
版は︑函数年前からベスト・セラーであったので︑これらの翻
︵56︶
訳・注訳書も数種類でるほど盛んに刊行された︒ ︵同じ出版元の書だげに今回の翻訳には拍車がかかったと思われる︶︒ ︵57︶ ﹃訳和蘭文語﹄の﹁凡例﹂でこうのべている︒ ﹁方今欧羅巴
ノ諸国︑其ノ文字ヲ新ニシ︑字法・句法・章法ヲ定理︑以テ文 こうまつ章ヲ作ルニ︑之ヲシテ其ノロ語ト︑毫末之差アルコト無カラシ こム﹂︒ つづけて﹁是二於テ︑先覚者斯ノ虚伝ョリテ其ノ已知ノ理ヲ筆シ︑以テ之ヲ後覚二告グ︒後覚モ亦斯ノ法ニヨリテ其論
きょうおく
理ヲ読ミ︑其ノ胸臆ヲ察シテ︑其ノ奥ヲ発明シ︑以テ又其ノ後 また覚二告グ︒其ノ後覚復又イヨイヨ其ノ理ヲ精シクシテ︑造化ノ妙ト同ジキニ至ル﹂としている︒ヨーロッパの学術が進歩している一因を文語とロ語の一致に求めている︒ややくどいくらいにのべるロ調には︑オランダの文章のいきとどいた配慮︵論理的な文章構成︶とわかりやすさに感激している雪斎の鼓動と使命感︑蘭学によせる期待がよみとれるような気もする︒古田東︵58︶
朔氏によると︑緒方洪庵の適塾関係者によって実行された俗文による翻訳と﹃訳和蘭文語﹄の主張は︑のちに国文法や言文一致・ローマ三論などに影響をおよぼしている︒ うつ さて︑こうした意図にもとづいて﹁俗言にて訳﹂された文章は︑原著者たちの意図にみごとにこたえたといってよかろう︒そして︑文体は俗だが﹁事の道理は賎しからず﹂と念をおしている︒さらに︑オランダの道理学問の普及ぶり︑教育のようすと効能︑訳語や度量衡への配慮など︑細かい気くばりを示している︒ ただ︑この書が﹁諸芸勧進の文社官によって﹂懸賞募集された応募作品である︑と成立の由来をのべたさい︵応募作品そのヘ へ
ものではないが︶︑ それを命じたのが国王だとしたのは︑正しくはない︒この本のきっかけになったコンテストは︑ ﹁ボイスの略歴﹂でみたように一八〇一︵もしくは〇三︶年であるが︑いずれもバタヴィア共和国の時代であるし︑社会福祉協会がボイスに賞を与えたのだから︑勧進元は︑協会目文社官自身であ
一 105 一
(19)
津山高専紀要、第21号(1983)
︵53︶ 松根とは︑古田東朔氏によると︑古川松根︵一八一三−七一︶
なおまさ かんそう
のことである︒彼は佐賀藩主鍋島直正︵閑嬰︶ ︵一八一四一七一)
ノ幼時よりつかえ近習頭となっている︒とくに国学典故に
精通し和歌にすぐれ︑能書家でもあったようだ︒明治維新後︑
元の佐賀藩主鍋島直正は︑新政府の議定となり︑軍防事務局
補・制度事務局補を兼任し︑さらに上院議長︑開拓長官などを
歴任した︒オランダ医師ボードィンの治療もむなしく︑一八七
一︵明治四︶年に没すると︑四十年余りつかえた古川松根がそ ︵54︶の葬儀をとりおこない︑終ってから殉死している︒
この訳書が藩主の命ででぎたというから︑側近であった古川
松根が序文をよせたのだろう︒
この序文につづいて︑大庭雪斎の﹁題言﹂がある︒本文とお
なじく︑全文よみがなつきのかなまじり文でつづられている︒
句読法にも気がく砥られ︑中が白いテン︵梅核果︶がこまかに
使われている︒句読点にそのままおきかえ︑引用符なども使っ
て再録してみよう︒ ︵なおルビは一部にかぎった︶︒
○題言
オランダ
一、
髀巣n和蘭陀国にて︑ ﹃フォルクス・ナチュールキュン
なつ あみ おしふ うつテ﹄と名け問答体に編て村野の土民に教る︑理学の書を訳せ
かのくに
るなり︒近年彼国大に文明になりて︑士分の者は大抵諸芸の みちびき学を知ざる者なし︒是において﹁無知の土民をも導て︑才智を開かしめん﹂と思ふ国王の仁心にて︑諸芸勧進の文社官に
めのまへ でき とき命じ︑ ﹁眼前に発現る諸事諸物の道理を説て︑土民を導くべ
ささげ ほうびかね ふれながるき書を捧たる者には︑賞金を与へん﹂と此中に行令した︒此
すはい おのおの あみなし時数輩の硬度︑各一本を編成て捧たるを︑文社章にて之を撰 ほめあげび︑ ﹁論理・文章ともに抜群なり﹂と称誉て︑串本を出版し わがくに国民に与へにけり︒今我邦には是等の道理学問︑いまだ一般 きく たやすく行はれず︑士農工商ともに見も聞も慣ぬ事の様にて︑容易はわかりがた おほせ おのれ解難かるぺければ︑余もまた 命を蒙れるままに︑己が不才 かへりみぞくげん うつし いささか ことばを顧ず俗言にて訳にけり︒されば物の道理は些少にても言の
きき いはんや端︑てにをはの聞やうにて︑あらぬ様に悟ること多し︒況奥
かれこれいりこみ深き道理は彼此混合て︑悟り難きものなれば︑此書の如き眼
さと よくよく つけ およそかきもの前の事を諭せるも︑能口気を付て読むべし︒凡書物にては︑
いか つまびら ときしめ ことばいうつや こいん あが さが如何に詳かに説示したりとも︑言の色彩・五言の上り下りの
しるし くちつて さだ ひととほり記標もなければ︑口伝の様に定かにもあらず︒然るを一通に
よみ わか いひすつ せん ただ読て﹁解らぬ﹂と云捨るは詮なし︒ロバ工夫をこらして︑幾へ
くりかへ よめ おのづあとさき あじはひんも幾へんも繰返し読ば︑自と前後の道理の味もしれ︑不思
議なる天地の事をも悟らるべし︒
ことば いや
一、
カ面の言ざまは賎しけれども︑事の道理は賎しからねば︑
もてあそ たはふれもの おろそ世の玩びの戯作物の様に疎かにせず大切にして読べし︒彼国
にては子生れて六︑七歳になれば︑十二︑三歳まで仁義五常
の道を教へ︑或は算学・地理学を習はせ︑十三︑四歳より十 いれ六︑七歳まで学校に入て︑此書の如き万有学を学しむ︒故に
こども あさゆうあいだよみおし六︑七歳の童子には早くいろは仮名を習せ︑朝夕間に読教へ
ぜんぜん いとけなき おのつ もんて︑事の道理を漸々に諭せば︑幼少より才智開けて︑自と文 じこうじょうかんしよ字の義理もしり︑高上なる漢書を学ぶ時の助けともなるべ
し︒又親たる者は其身の課業と定め︑朝夕其子に読象れば事
あきらか よわたり べんりの道理いよいよ明になりて︑経世日用の事にも弁利のことの いでみ考へ出て︑無益に人力金銀を費すこと少なかるべし︒返す
よむ たやす しょもつ よく返すも書を読時は︑如何程平易き書物たりとも︑能気を付
て︑道理の意味の心にうれしく覚るまで工夫をこらすべし︒
(18)
幸田
『民間三三問答』の著者ボイスと訳者大庭雪斎
らほど遠かろうと︑有能な批評家たちの好きなようにさせて
おこう︒その間に︑私の読者たちが︑この本に諸事さをどれ
ほど多く見つけるか︑そこから自然とその働きについて十分
な知識をみずから獲得して︑人の精神を完全に辱しめるあら
ゆる有害な偏見を追いやる︒旨−畠︒Φ昌か︑をのぞんでもみよ︒
それに︑こうなれば称賛に値する社会福祉協会の意図をこう
して満足させることができよう︒なるほど﹃民衆の自然科
学﹄の真価によって︑少しはよく出まわる取りひきがあちこ
ちで行われるだろうが︑しかしなお︑あらかじめ公言してし
まったことすべてとの関連をみると︑今の異論はその力の非
常に多くを失うだろう︒そしてまた︑この困難さは残ってい
て︑論理を保持するためには︑関連が完全ではないことから
他人が確実に打ち破るはずのと同じ事態に︑入がひたすらに
耐えるだけのようなものであった︒しかもなお︑この本は︑
民衆のための作品であるから︑私自身の考えでは︑確かに︑
全く無知な人々のためとあらゆる読物を奪われた人のためば
かりではなくて︑読みなれていて明瞭な意見を持っており・
またおそらく読書の喜びが一度もない人々よりもこの種の書
物をもっと多く読むはずの人達に︑人は書くことができる
し・またそうしなければならない︒
ヨハ・不スnボイス
アムステルダムにて
一八一一年六月一日︒
﹁誤解・偏見・迷信を防止するために初心者に自然科学を教
授する﹂という原書の副題にふさわしく︑出版元と著者がいか にこの書に力をいれ期待をよせていたかがわかる︒その目的が
﹁神の尊厳と崇拝に導﹂こうとするメノナイトの啓蒙活動の一
環であったこともよみとれる︒
そこでこうした神への賛歌は︑訳書からは除かれたのだろ
う︒では︑その代りにどのような文章がおかれたか︑それをみ
てみよう︒
︵六︶
訳書﹃民聞知致問答﹄には︑本文の前に二つの文章がついて
いる︒訳者・大庭雪斎の﹁題言﹂の前には︑標題のない次のよ
うな文章がある︒
おほよそ︑天地の間にありとしある事に︑物に其もとのこと
わりありといへど︑まことその理をしる人なければ︑世にあ
やしとおもふことすくなからす︒ここにおらんたの国人某が
あらはせる﹃フォルクス・ナチュルキュンデ﹄といへる書な
︵委曲︶
む︑さることのもとをつはらかにときさとしたるふみなりと︵目安︶
かQされと︑かの国人にめやすしとて︑此御国人のたやすく ︵彼方様︶よみとくへくもあらす︒しかるを︑大庭ぬしかなたさまの学 ︵倶 言 葉︶ひにくはしきからに︑いかでこれを御国のさとひことはにうつして世にひろめば︑ことに益あるふみならましとおもひお
こして︑よりよりかくはものせられたるなり︒此ふみひとた
びよに出たらましかば︑いつれの入か物のことわりをあきら
めさらむ︒あなめでたのこのふみや︒かくいふは
霞の屋のあるし
松根
一107一
(i7)
津山高専紀要第21号(1983)
し勤め︑協会が出版した彼の﹃自然科学教科書︹極致問答︺﹄
によって︑ご承知のような賛辞をえた﹂︒
科学的なものに関していえば︑この受賞論文はオリジナル
ではあっても︑表現に関してはそれどころではないので︑中
央委員の間で任命される委員会Oo日露Φω冨の熟慮によって︑
あれほど話題になった評言にたいする決定は︑著者が必要だ
と判断したのと同じやり方で行われること︹著者に一任︺に
なっていることだけである︒
この場では︑この著書について﹁著者がすぐ次のメッセー
ジじσ曾お耳で十分おなじことをやっている﹂とのべる論じ方
で︑目的はよく達せられるだろう︒それゆえ︑ただ︑この本
が目的に到達できればという希望が残されていること︑それ
自体正確に書かれているだけではなく・もっと進んだ目的に
たいしても必要で心地よい議論をよびおこすこと︑前述の目
的に明瞭ですっきりとした概念を与えて︑その結果いずれも
が神への1自然とその創造物をして︑偉大で慈悲深い神の
意図に賢明かつ善良に貢献させている神への 尊厳と崇拝
へと導かれることだけである︒
協会の訓令により︑
アムステルダムにて
一八一一年六月二十一日︒
︹著者ボイスの︺メッセージ
﹃民衆の自然科学﹄を書くのに必要だとされることは︑人も
知るように︑次のような学問を研究することである︑つまり
﹁それはとてもむずかしくて快適とはかぎらない仕事であり 一1非常に注意深く考える作業である﹂︒ というのは︑人が自然科学を身につけることが必要であることは︑その性質について少しでも耳にする機会をすっかり除いてもなお残存しているばかりではなく︑そのうえにまだ︑日常のさまざまな出来事に多くの応用をするには︑ この重要な知識が必要だし︑その間に︑最も迷信深い感覚ですらこれによって追いやられるはずであったからである︒さて︑この学問については︑教育にとり込むためにわずかではあれ極めてはっきりと・しかも同時にしぼしば意味なく話されていて︑1誰かに外国語を乱暴に学ばせ︑たった一つの慣れている会話をその外国語だけによって︑単語は一つもぬきにコトバ自体の基礎がいえるように暗記させる︑まるでそのような状況であった︒ そこで私は︑ ﹁この本で論じるさいに︑論理と=員性に大そう気をくばらねばならないし︑それを書く前にこの学問にみずから全力で専念しよう﹂と思った︒そこでまた︑私が自分の﹃自然科学教科書﹄でやったのと大部分同じ論理に従い︑この本の大きな目標を達成するために批評とお話とをお
り交ぜながら︑領主い顎口幽げ︒Φ目からその園丁↓巳昌ヨ鋤昌への
講釈くoo二Φ瞳pαqΦコでその順序を分けたのは︑次のようなわけである︒すなわち︑明確さと快適さとで民衆の間で自然科学に親しませ︑その間に日々の出来事への応用が︿この学問は必要で欠くことができないものだ﹀とはっきりと示すこと一そこで私はこの重要な仕事をひきうけて︑中央委員諸氏
からなる・報告する多くの義務が私にはある委員会の監督下
で︑この仕事を完成させた︒ここでは︑私がどれほど成功か
(16)
幸田
r民間格致問答』の著者ボイスと訳者大庭雪斎
︵五︶
﹃民間格致問答﹄の原本﹃民衆の自然科学﹄には︑出版元
︵社会福祉協会︶の口上と著者ボイスの序文とが巻頭をかざっ
ている︒これらはいずれも訳書には採録されていないので︑そ
れを紹介してみよう︒
︹出版元の︺序言
社会福祉協会︑誤解・偏見・迷信がなおあまりにも多く貧
民階級にすみついているのを残念な思いでながめ︑しかも
﹁その有害な源泉は︑自然とその現象についての無知にあ
る﹂と確信して︑本協会はヘルムス国Φ一ヨ暮げのドイツで出
版された﹃迷信鎮圧のための自然科学﹄2暮毒茸Φぼ⑦N霞 ︵51︶9日嘗信昌σqq$Ω︒げ︒目αq冨信σ①ロωのような比類ない書を出版し
て︑できるかぎり多くこの源泉をおしとどめるために︑ま
た︑自然現象の影響を指摘し日常生活にそれを適用して︑同
様に重要でもあり必要でもある著作をうみだすために︑すで
に長い間考慮してきた︒
このテーマに関する最近の著作には︑頼りになる二冊が加
︵52︶わり︑批評家たちしd①OOa①O軸壁の︵確かに気がついてみると
大部分同じことだとはっきりしているのに︑それが務めであ
るにもかかわらず︑まるで決まりでもあるように互いに反対
しあわなければならない批評家たち︶によって︑大そう好意
的な証言をえた︒証言によると︑ 一つは︑著名な﹃占い﹄
毛9p︒嵩︒σqσqo且①昌などの著者イエズスーセラッハ冨N賃ω
ω己雷︒げで︑ ﹁自然科学にとても熟練した人物によって書か れており︑それゆえ前もって十分にテーマが練りあげられている︑論じ方だけではなく︑この著書のために決定された対象への近づきやすさにもつと目がすえられている﹂とあり︑もう一つは︑よくしられた﹃太陽から虫まで﹄︿き傷①昌No口8け島Φ昌零︒門9などで︑同様に ﹁一人のベテランの著者によって構成され︑しかも凡人にはとても教えやすいが︑やはり未完でそれゆえ欠点もある﹂であった︒
公開の会合≧αq①ヨΦ①pΦ<2σq9︒画霞ぎαqに向けてのこうし
た発言のすぐあと︑中央委員会は︑前者の発言の入った一通の手紙をうけとった︒そこには﹁著者は︑自分の本への批評を︑欠けている要件に答えるのに必要だと判断されるやり方で自分の論文く①島9・呂Φ躍づぴqにとりくむ︑中央委員の監督下
で名誉章とは縁をきってとりくみつづける一そのための提案として聞いた﹂と明言している︒ ﹁この申し出に同意してもらいたいのだが﹂と︑自分の名前を明かすための説明がそこにはっけ加えてあった︒ 主題の重大さと︑この大いに必要な仕事をおさえ直すための協会の関心とに動かされた一面︑ならびに︑あれほど評判になった批評家たちの証言についてのもう一面とから︑中央委員たちが一このやり方で協会の望みが満されるはずだ︑というあらゆる理由を心ひそかに信じて!著者の名を請け合うという必要な手段を内密にとり︑そのうえでこの同じ提案を専門部に決定させた︒ほとんど全員一致の賛成でこれらが可決されて︑今や︑次のようなニュースが行きわたっている︒この受賞論文の著者は︑ ﹁ハールレムの︹オランダ︺科学学会の会員ヨハネスーボイスで︑合同中央委員をくりかえ
一一一@109 一
(15)
津山高専紀要第21号(1983)
②﹃民衆の化学一実用のための訓練と助言﹄ ︵一八一五年 ア
ムステルダム︶
③﹃センタキス﹄ ︵一八一〇年 レイデン・フローニンヘン︑
第二版・一八四六年︑第三版・一八五六年︶
④﹃オランダ文典初歩﹄ ︵第三版・一八一九年 レイデン︑第
四版・一八二七年 レイデソ・デフェンダー・ブローニンヘ
ン︑第五版・一八四六年︶
⑤﹃ガラマチカ﹄ ︵第二版・一八二三年 レイデン・デフェン
ダー・フローニンヘン︑第三版・一八二九年︶
⑥﹃民衆の幾何−実際に使えるように﹄ ︵第二版・一八三七年
アムステルダム︶
⑦﹃民衆の物理・機械学教科書﹄ ︵一八三九年 アムステルダ
ム︶⑧﹃建築学への寄与一その改良のために﹄︵一八四五−五六年
アムステルダム︶
⑨﹃オランダ詩集粋﹄ ︵一八五〇年 レイデン︶
⑩﹃青年の歩み﹄ ︵一八五一年 レイデン・デフェンダー︶
⑪﹃学校用理科教科書﹄ ︵初版・一八五一年︑第二号・一八五
六年アムステルダム・デフェンダー・レイデン︶
⑫﹃民衆読本・地球の常識案内﹄ ︵第二版・一八五五年越
このうち③と⑤はすでにみたように︑オランダ語を学ぶため
の文法書として︑日本でも大いに利用されていた︒そのため︑
蘭学者としてはじめて一八三九︵天保十︶年に幕府︵天文方の げんぼ蛮書和解方︶に登用された箕作玩甫︵一七九九一一八六三︶は︑
これらの原書を翻刻している︒彼自身が書いて板刻させた﹃和
蘭文典前編﹄は︑ガラマチカの第二版で︑彼の蔵板︵作州箕作 氏蔵板︶で一八四二︵天保十三︶年に刊行された︒一八四⊥ハ︵嘉 ︵46︶永元︶年にはセンタキスを﹃和蘭文典後編﹄の標題をつけて翻刻し出版した︒ ︵福沢諭吉が適塾で使ったのはこれらだろう︶︒ 蕃書調所は一八五七︵安政四︶年に開校し︑箕作院甫らが教授に就任している︒前年二月に作られた﹁規則覚書﹂によると︑
﹁会読・輪講︑素読稽古とも朝五ヅ時︹午前八時︺より夕七ヅ
ヘ ヘ へ
時︹午後四時︺迄之事﹂とあり︑教科書については﹁両文典・稽古本︑銘々持参﹂となっている︒ ︵さきに句読教授方出職・
赤松則良についてみたように︑実際にそうであった︶︒
社会福祉協会は︑現在︑どのような活動をしているのか︑そ
︵47︶
れを紹介してみよう︒協会は四万人のメンバーからなる三二〇の独立部門に組織さ
れ︑その八○%が地方に二〇%が都市に設けられている︒そこ
には合計すると一〇〇〇にのぼる社会文化面のさまざまな機関
があって︑出版活動とならんでよく知られている︒とくに︑二
〇五の図書館︑ 一〇四の幼稚園国旨旨Φ房︒げO冨昌︑ =二四の貯
︵48︶蓄銀行︑二二の小学校および中等職業訓練学校が有名である︒毎年およそ十一万人が夜分にこれらの機関に足繁く通ってい
︵49︶る︒協会は一六三二年に創立されたアムステルダム市立大学に
教育学の特別講座をもっていて︑その教授には︑ 一九一七年
いらい教育学の分野で科学的な研究を行っているメノナイト
の教育専門学校劉暮ωωΦ十階鋤ユロ曰くoO目b9︒Φq四σqOσq陣Φ胃の校長
傷胃09Φ霞があたっているし︑神学の教授も以前から同派の神 ︵50︶学校の教授が就任しているQ