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津山高専紀要 第29号

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(1)

森 浩一 ﹃倭人の登場﹄

 ︵日本の古代1︶ 昭和⊥ハ○年 中央公論社 森 浩一 ﹃縄文・弥生の生活﹄ ︵日本の古代4︶昭和六一年中央公論社

竹内明照  ﹃成羽史話﹄昭和三九年成羽町教育委員会

竹野長次 ﹃古事記の民族学的研究﹄        昭和三五年文雅堂書店

﹃日本神話﹄昭和六〇年 桜風社

門脇禎二  ﹃出雲の古代史﹄ 昭和六三年 日本放送出版協会

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」

一 161 一

(2)

(1991)

津山高専紀要 第29号

徴であり︑それを差し出すということは︑部属氏族が掌握していた

政治権・兵馬権を放棄するということである︒﹁百足ちず﹂は百に

足りないという意味で八十にかかっている︒﹁八十隈﹂︵八十矩磨手︶

は多くの隅々の所の義で﹁建てていただいた大社の隅々の所に隠れ

ていましよう﹂というほどの意味である︒すなわち︑神楽の第三場

でしばしばでてきている幽事をつかさどるということであり︑霊の

世界︑神事が︑敗れた民族の首長に保留された唯一の世界であった

ことを語っている︒

 このように﹃日本書紀﹄においても国譲りは︑平和のうちに完了

するのであり︑フツヌシ︑タケミカヅチの両神は高天原に帰ってそ

のことを復命するのである︒その際いざこざが全くなかったわけで

はなく︑﹁諸の順はぬ鬼神たちを諌ひて︑﹂と記しているが︑その書

きぶりからみて︑それは極めて微小なものだったことがうかがえる︒

また︑その鬼神の中にタケミナカタノミコトが含まれていないこと

は︑かっこ書きを見ても明らかである︒すなわち︑服従しなかった

         か が せ をのはただ星の神の﹁香香背男﹂だけである︒第二の一書には﹁天に

        あまつみかぼし      あめのか が せ を悪しき神あり︒名を天津甕星といふ︒またの名は天香香背男といふ﹂

とある︒ このように﹃日本書紀﹄にはタケミナカタノミコトが国譲りに反

対し︑交戦したという叙述は全く見られない︒それどころか︑タケ

ミナカタという神名さえ見受けられないのである︒つまり︑タケミ

ナカタノミコトに関する話は︑﹃古事記﹄のこの段の他にはなんら

の記述もない︒タケミナカタノミコトはもともと信濃の諏訪地方に

いた豪族であり︑諏訪神社の祭神であって︑出雲国とは何の関わり

もない神である︒要するにこの説話は︑各地に割拠していた豪族が︑

順次大和朝廷に従属していった過程を出雲国という舞台設定のもと にまとめられたものと言えよう︒タケミナカタノミコトが出雲国から諏訪まで逃げてやがて諏訪神社の祭神として祭られたという奇妙な話も︑そう考えると自ら理解できるのである︒ ﹁備中神楽﹂においては︑﹃古事記﹄の力競べの話を脚色して︑激しい合戦の場に仕組んで︑観る人を引きつけ︑建国の精神を鼓舞しようとしたものと考えられる︒参考文献山根堅一逸見芳春竹本健司倉野憲司武田祐吉坂本太郎家永三郎井上光貞大野 晋松村武雄武田祐吉尾崎知光川副武胤折口信夫

荻原浅男 ﹃備中神楽﹄﹃備中神楽﹄ 昭和五七年 岡山文庫昭和五十八年新見市昭和町商店会

﹃古事記・祝詞﹄ 昭和四〇年

 ︵日本古典文学大系︶

﹃日本書紀上﹄  一九八七年春︵日本古典文学大系︶

﹃日本神話の研究﹄昭和五八年

 ︵第一巻〜第四巻︶

﹃古事記編lH﹄ 昭和四八年

 ︵武田祐吉著作集︶

﹃全注古事記﹄  昭和五七年

﹃古事記及び日本書紀の研究﹄        昭和五一年

﹃日本紀﹄    昭和六三年

 ︵折口信夫全集︶

﹃古事記への旅﹄ 昭和六三年 岩波書店岩波書店培風館角川書店桜自社風間書房中央公論社

日本放送出版協会

一162一

(3)

違はじ︒八重事代主神の言に違はじ︒この葦原中国は︑

の御子の命のまにまに献らむしとまをしき︒ 天つ神審判であると考えられていたからであろう︒

 では続いて﹃日本書紀﹄の記述を見てみよう︒

山本

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」一

 オオクニヌシノミコトはコトシロヌシノミコトの進言によって国

を譲ることを決意するのであるが︑タケミナカタノミコトはこれに

不服であった︒そこで︑千人引きの巨岩をさし上げて﹁誰ぞ︑我が

国に来て︑忍び忍びかく物言ふ﹂と︑タケミカヅチノミコト等を威

嚇する︒こうして両者の間に力競べが行われることになる︒タケミ

ナカタノミコトがまず相手の手をつかむと︑それは氷柱や剣の刃に

変化してしまう︒本来タケミカヅチノミコトは︑刀剣の神格化であ

り︑それが﹁立案﹂や﹁剣刃﹂に変容したのは︑本来の姿を顕現し

たのである︒次にタケミカヅノミコトは︑タケミナカタノミコトの

手をつかむや︑﹁若葦を取るごとつかみひしぎて投げ離ち﹂たので︑

さすがのタケミナカタノミコトもついに信濃の諏訪湖に敗走する︒

タケミカヅチノミコトはさらにそこまで追跡し追いつめて︑彼を帰

順させ︑国土献上の幕が下りる︒

 このように︑﹃古事記﹄においては︑戦いというよりも︑むしろ

力競べといった方法で事件の解決をはかっているのであるが︑こう

したやり方は︑西洋にも見られることで︑かのオリンピアの競技は︑

ゼウスとクロノスとが︑国の所有を争い︑勝敗を定めるために︑オ

リンピアで力を角したのに起因していると言われている︒

 また︑多くの若者が一人の乙女を争うとき︑走り競べ︑力競べ︑

技競べなどによって問題を解決するという習俗が広く行なれていた

ということも各種の伝承によって明らかである︒これらの競争が問

題解決の上で最上の確実な方法であったのかもしれない︒いうなれ

ば︑そこにはおのずと神の意志が潜んでおり︑その裁定は神の下す         おおなむちのかみ︹書紀本文︺かれ︑大己貴神︑すなはちその子の辞をもつて︑

ふたはしら       たの       さ

この神にまをして曰はく︑﹁我が蕾めし子だにもすでに避去り       ほ せまつりぬ︒かれ︑吾また迫るべし︒もし吾防禦かましかば︑国       ほせ内の諸神︑必ずまさに同じく禦ぎてむ︒今我在り奉らば︑誰か

  あ    まつろ      む

また敢へて順はぬ者あらむ﹂と申したまふ︒すなはち国平け

   つ       たてまっ

し時に巻けりし広矛をもて︑二の神に授りて曰はく︑﹁吾こ         ことなの矛をもて︑つひに功治せることあり︒天孫︑もしこの矛をも

   し       さ き      ももた

て国を治らば︑必ず平安くましましなむ︒今我まさに百足らず

や そくま  か く       くま で

八十隈に隠去れなむ﹂とのたまふ︒︵隈︑これをば矩夕空と云ふ︒︶

       まか       もろもろ  まつろ言終りてつひに隠りましぬ︒ここに二の神︑ 諸の順はぬ鬼

   つみな      ある      あしきかみ      たぐひ

神たを酔ひて︑︵﹈に云はく︑二の七つひに邪神及び草木石の類

 つみな      む         うべな      か か せ をを詠ひて︑焦すでに平げぬ︒その不服はぬ者は︑ただ星の神香香三男

       しとりがみたけはっちのみこと  つかは   うべなのみ︒かれ︑また倭文神建葉槌命を遣せば服ひぬ︒かれ︑二神天

       しとりが み       っひ  かへり ヨリとに登るといふ︒倭文神︑これをば斯図梨俄未と云ふ︒︶果に復命す︒

 オオクニヌシノミコトがその子コトシロヌシノミコトの意向を伝

えて言うには﹁私が頼りにしている子が︑勅命を承諾してよそに去

りました︒私もそれに従いましょう︒もし私が防戦したら︑きっと

国中の神々は私といっしょに戦うにちがいない︒私が避けたら︑誰

一人として従わぬ者はありません﹂と︒さらに自分がこの国を平げ

た時に杖にした広矛を二神に授けて﹁百足らず入十隈に隠去れなむ﹂

とといって隠れた︒

 ﹁広矛﹂はいうまでもなくこの国を造った﹁大国主﹂の権威の象

一163一

(4)

(1991)

津山高専紀要 第29号

がて鬼は取り押えられる︒

 両神  ﹁さあ︑なんと申すそ︒﹂

 鬼  ﹁われは建御名方の命なり︒国譲りの妨げを︑あくまでいた

  さんそや︒さ︑さ︑なんと申すそ︒﹂

 両神 H天つ神の勅使︑経常主︑武甕槌の両神なり︒荒ぶる神は

  やすやすと退治申さん︒﹂

 鬼  ﹁おお︑好むところなり︒﹂

 両神 ﹁しからば互いに剣を抜き放ち︒﹂

 鬼 ﹁もう一回戦︒﹂

 両神 ﹁しからばいざ︒﹂

 両者それぞれ剣を抜き︑前にもました激しい戦いになる︒﹃平家

      く も で   かくなは物語﹄1橋合戦の巻に﹁敵は大勢なり︑蜘蛛手・角縄・十文字・と

んぼうかへり・水車︑入方すかさず切ったりけり﹂という表現があ

るが︑まさにそれである︒しかし孤軍奮闘︑やがて鬼は刀をとりあ

げられる︒       なぎなた 鬼はすばやく一ふりの長刀を手にする︒

 鬼 ﹁よきものが手に入ったり︒いざもう一合戦︒﹂

 両神は一時幕内に身を隠す︒鬼もまたしばらく息をつぐ︒したた

り落ちる汗︒全身からもうもうと湯気が立つ︒やがて︑両手︑ある

いは片手で長刀を大車輪に振り回す︒さらには寝ころがって足を上

げ︑両足︑片足に長刀をからませて振り回す︒この技は神楽の中で

も一つの見せ場であって満場が拍手に包まれる︒

 両神もそれぞれ長刀を手に現われ︑長刀の合戦になる︒合戦数刻

の後︑両神が長刀を奪い取ると︑鬼は再び刀を手にする︒口に一刀

をくわえて恐ろしい形相で︑ころびつ︑まろびつの鬼の立ち回りは

観る者をして由りつを覚えさせる︒しかし︑ついに力尽きて取り押 さえられ︑ 鬼  ﹁われを助けたもうものなれば︑親子もろとも皇孫に従い奉  らん︒﹂ 両神  ﹁いよいよ鎮まりたもうものなれば︑信州諏訪の郷におい  て︑諏訪の神社と祝い申すが︑幾世久しく皇孫の御手に従い申  すかいかに︒﹂ 鬼  ﹁幾久しくかたじけなき御ことなり︒﹂ 両神  ﹁しからば舞入りたまえや︒﹂ 恨みを残しながら︑鬼は幕内へ入る︒ 両神舞い上げ︒うれしき舞︒  ﹁げにありがたの御ことや︒皇孫の命が豊葦原の中つ国をば治  めたまえば︑建御名方の命は︑信州諏訪神社と祭るべし︒二代  主の命は美保が関に美保神社と祭るべし︒大国主の命は出雲大  社と祭り申せば︑天下太平国家安穏に︑治まる御代こそめでた  かりけれ︒﹂ それではこの場面を記紀のそれと比べてみよう︒        たけみなかたのかみ ちび  いは たなすゑ ざさ ︹古事記︺その軽量十方神︑千引きの石を車馬に夕げて来て︑  ﹁誰ぞ我が国に来て︑忍び忍びにかく物言ふ︒然らば力競べせ  む︒かれ︑我先にその御手を取らむ﹂と言ひき︒かれ︑その御       たちひ      つるぎば  手を取らしむれば︑すなはち立氷に取りなし︑また剣士に取      おそ  りなしつ︒かれ︑ここに催りて退き居りき︒ここにその建御名

       こ      つか

  方神の手を取らむと乞ひ帰して取れば︑若葦を取るがごと︑裕   ひし      い  み批ぎて投げ離ちたまへば︑すなわち逃げ去にき︒かれ︑追ひ     しなののくに すは   せ  往きて科野国の州羽の海に迫め到りて︑殺さむとしたまひし時︑       かしこ  建御名方神まをししく︑﹁恐し︒我をな殺したまひそ︒この地

   お         あだ  とニろ

  を除きては︑質し処に行かじ︒また︑我が父大国主神の命に

一 164 一

(5)

山本

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」一

が慣例であり︑この場合のコトシロヌシノミコトの﹁恐し︒この国

は︑天つ神の御子に立回らむ﹂の一言は︑神の意志であり︑絶対的

権威をもつものと考えられる︒

︹書紀本文︺時に事代主神︑使者に語りていはく︑﹁今天つ神︑

       みことのりこの問ひたまふ羽あり︒我が父︑避り奉るべし︒吾また︑      あをふしがき違ひまつらじ﹂といふ︒よりて海中に︑八重の蒼丈六を造りて︑

懲を踏みて避りぬ︒使与すでに還りて遇聴す・

 コトシロヌシノミコトが使者にいうに︑﹁天つ神の勅に対して︑

父は身をひくのがよい︒私も仰せに背くわけにはいかない﹂と︑海

中に幾重にもはりめぐらした青柴垣を造って︑船の脇板を踏んでそ

の柴垣の中に入ってしまった︒使いは︑オオクニヌシノミコトのと

ころに帰って︑そのことを報告した︒

 このように︑その内容は古事記の叙述とほとんど同じである︒違

うといえば︑日本書紀では︑コトシロヌシノミコトが使者に自分の

意志を伝えるとさつさと青柴垣の中に身を隠す点である︒言うなれ

ば古事記以上にコトシロヌシノミコトの意志が強調されるのであ

る︒ここにコトシロヌシノミコトのこの説話における役割︑意味あ

いがこめられているものと考えられる︒

 国土献上という最も重大な事柄を決定するにあたって︑オオクニ

ヌシが︑単に生存をはかるという慰撫策のみに執心したとは考えに

くい︒その運命をコトシロヌシノミコトにまかせたということは︑

神の声に依拠したのであり︑神の皇霊者であるコトシロヌシの口か

ら出る言葉によってこの国の運命を決したのである︒つまり︑呪術

あるいは宗教が︑社会的︑政治的な面にも強大な力を占めていたこ とを物語る神話的表現だといえよう︒

第七場 鬼退治

 こうして国土献上は平和のうちに遂行されようとするのである

が︑ここに強く異議をとなえる神がいた︒それはオオクニヌシノミ

コトの二男にあたるタケミナカタヌシノミコトである︒﹁備中神楽﹂

ではこの神のことを﹁荒鬼﹂もしくは﹁鬼﹂とよんでいる︒したがっ

て︑ここでは﹁鬼﹂という表記で話をすすめることにする︒

 さて︑フツヌシ︑タケミカヅチの両神は︑この鬼を迎え撃つため

に戦闘準備に入る︒両神の幕掛りがこれである︒幕掛りとは︑鬼が

幕の内にいてそれが今に出てくることを想定しての舞である︒幣と

扇の舞︑次いで剣を抜いての舞をひとしきり力強く舞う︒太鼓の嘩

も次第に高潮してくる︒

 両神  まつろわば神も助けんあだなさば

         切りてはふりて国を治めん

 鬼の登場︒

 大きな鬼の面に黒のシャグマをかぶり︑鎧をつけたものすごい形

相の鬼が舞い出る︒手にはすもっとと扇を持つ︒

 幕の内の舞をしたあと舞い出る︒テンポの早い太鼓の嘩子に乗っ

て︑舞台いっぱいに舞う︒力のこもった舞は︑鬼舞といわれて力動

美にあふれ︑妖気さえ漂う︒父と兄は両神に屈し︑その国土を日の

神に奪われるという怒りと口惜しさを表すその舞は︑最も高度な技

術を要するとされている︒

 鬼︑舞をやめてしばらく休息するところに︑両神がうかがい出て

戦いとなる︒両者すもっとを振り合い︑大立ち回りになる︒両神は

あるいは二人で︑あるいは一人で︑入れ替り立ち替り攻め立て︑や

一 165 一

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(1991)

津山高専紀要 第29号

事代主両神

一同        すめみま 天つ日の変わらぬ限り皇孫の     深き守りと仕えまつらん

 あらはに     すめみまかみこど

 顕の事は皇孫幽事は     大国主の神の御心 天つ神国つ社と別れても     誠を受くる道は変わらず﹁さあらば永のお別れを告げ申さん︒﹂

めでたく国譲りの交渉が成立し舞い別れる︒

 かくして︑コトシロヌシノミコトの﹁天命に従わざるは正道なら

ず︒直ちに国を譲り奉り⁝⁝︒﹂の進言によって国譲りの交渉は平

和のうちに成立する︒そしてその代償として︑オオクニヌシノミコ      さいトには︑神戸の里に日本一の大社を建てて祭り︑幽事︑すなわち祭

祀権を与える︒神戸の里の大社はいうまでもなく現在の島根県簸川

郡大社町にある出雲大社である︒また︑コトシロヌシノミコトには︑

美保の関において海上安全を守る神として祭ることを約束するので

ある︒八年冬美保関町にある美保神社である︒

 記紀においても備中神楽と同様に平和のうちに国譲りが成立して

いるが︑多少趣の異なる点があるので︑それについて︑照らし合わ

せてみよう︒

      め︹古事記︺かれここに天の鳥船神を遣はして八重事代主神を徴し       かしこ来て問ひたまひし時に︑その父の大神に﹁恐し︒この国は︑

       たてまつ天つ神の御子に立撃らむ︒﹂といひて︑すなはちその船を踏み

      さかて  あをふしがき傾けて︑天の逆手を青柴垣に打ち成して︑隠りき︒  前にも述べたように︑高天原の武力交渉にあって︑オオクニヌシノミコトは自ら返答せずして︑その子コトシロヌシの言を聞いで返事をしょうと言った︒そして美保の関に鳥猟︑魚取りに出かけていたコトシロヌシを迎えにトリフネノミコトを遣わされる︒コトシロヌシノミコトは﹁おそれ多いことです︒この国は天つ御子に献上なさるのがよろしい﹂と言ってその乗ってきた船を踏み傾けて︑逆手を打って青柴垣を作ってその中に隠れてしまった︒ まことに奇妙な話になっている︒国土を譲るか譲らないかということは出雲国にとっては最大な事件である︒この一大事にあって︑      しんしゃくコトシロヌシは父の意見を斜話しないで自分の一存で決定している︒一般の父子の間柄であれば︑当然﹁父上はどうお考えですか﹂と先づ父の意見を聞くのが普通であろう︒ところがコトシロヌシノミコトは自分の意見だけを述べてさっさと身を隠すのである︒ また︑﹁その船を踏み傾けて︑天の逆手を青柴垣にうち成して隠りき︒﹂という表現も不思議な表現である︒この部分の解釈については諸説があって一致しないところであるが︑だいたい次のような      まじな意味だと考えられる︒﹁逆手をうつ﹂というのは︑呪いをする時に       ひもろぎする拍手であり︑﹁青柴垣﹂というのは青い樹木の柴垣で神簸︵神の座︶のことである︒すなわち︑逆手を打って神秘的に神解を作り出し︑神のことばを述べ︑終わると直ちに神籠の中に隠れたことを言うのである︒ このように︑国譲りの決定権はオオクニヌシノミコトではなくしてコトシロヌシノミコトにあった︒コトシロヌシは﹃古事記﹄の中でも﹁事贈主﹂と﹁言言主﹂の両様の書き方をしている︒要するに

言語の神であって︑何か事がある時に託宣に現われる神である︒特

に︑政治的行動を起こすに先立って神を祭り︑神の啓示を受けるの

一166一

(7)

山本

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」一

 この舞は︑﹁エビス様の鯛釣り﹂とよばれ︑軽快なリズムに乗って︑

スモットにとりつけた鯛を巧みに泳がせながら舞うものである︒

 コトシロヌシノミコトは︑知恵︑福をもたらす神として崇拝され︑       え び すオオクニヌシを﹁大黒様﹂と呼ぶに対して﹁恵比須様﹂として親し

まれている︒

第六場 親子相談︑国譲り

 オオクニヌシのミコトが幕内から出て声をかける︒

 大国主 ﹁さて︑それに見ゆるはせがれ黙認主の命にておわしま

  さんかな︒﹂

 事良主  ﹁なかなかのことなり︒尋ねたもうは父の君におわする

  かな︒﹂

 大国主  ﹁さればにてあり︒委細は稲置脛より聞きつらん︒この

  度はいかに取り計ろうてしかるべきかと存ずるかな︒﹂

 帳代主  ﹁さてそれがしが案ずるに︑再三の勅なれば︑天つ日嗣

  の神に従い︑国は直ちに捧げ奉りたまえや︒﹂

 大国主  ﹁もし譲らぬとなればいかに︒﹂

 事代主  ﹁されば神勅に背くは違勅の罪︑また天無くして種を下         はら  さず︑地なくして胎まず︒天地万物一体なれば︑天命に従わざ

  るは正道ならず︒直ちに国を譲り奉り︑われらは宮造りなし︑

    かくれユと  世の幽事をつかさどりてはいかにおわするかな︒﹂

 大国主  ﹁これは良きところに心づいた︒さあれば汝の言葉にま

  かせ︒国は譲り奉らん︒このところに天つ神の勅使は立ち出で

  たまえやの︒﹂

 両神出てきて平伏する︒両神は次の合戦に備えて面をはずし︑武

装している︒ 両神  ﹁なかなかのことなり︒両神しばらく控えて相待ち申した り︒見れば親子ご相談と見受け奉る︒いかにご評定の相なり候 うかな︒﹂大国主 ﹁さきにはこ両神ともご苦労千万︒さて︑この適せがれ 事代主を招きとり︑親子勘考つかまつりしに︑数度の勅命なれ ば︑国は譲り奉り︑われら親子は鎮座所を定め︑幽事をつかさ どりたいと申すゆえに︑今より改めて国は三代の君に捧げ奉る にてあり︒﹂両神 ﹁これはこ神妙の御ことなり︒黒月主の命のこ進言により︑ 天下安らかになる上は︑ご両所ともに鎮座所を得させ申さん︒      かんど 大国主の命には︑八雲立つ神門の里︑八雲山の麓において日本 一の大社と祝い奉る︒幽事を守りたまえや︒事代主の命には︑ 雲州美保の関に︑母神三保津姫の命と御相殿申し︑美保両神と 祝い奉る︒海上安全を守りたまえや︒﹂大国主 ﹁さて今回の件に仲立ちに立ったる稲葉脛の命には︑い かなる鎮座所を得さするかな︒﹂      さぎ両神  ﹁稲背脛の命は鷺の浦にて︑鷺神社と祝い奉る︒疫病退散 を守りたまえや︒﹂大国主 ﹁さて国譲りの御しるしは︑広矛の剣︑これは皇孫降臨    ふ き ね の時︑富貴根の命をもって捧げ奉らん︒﹂両神 ﹁かたじけなき御ことなり︒これは皇孫の宝蔵に収め︑こ の矛の威徳をもって︑世を安国としずめようずるにて候う︒﹂      ひずみ大国主 ﹁さあれば引き別れに一首を詠じて︑日隅の宮に舞い入 るにて候う︒﹂     たかみくら大国主 高御座天つ日嗣と日の御子の

        受け伝えます道はこの道

一 167 一

(8)

(1991)

津山高専紀要 第29号

諸手船に乗って行くのであるが︑諸手船とはどんな船であったので

あろうか︒

 美保の関は島根半島の東端に位置し︑中世以降は出雲屈指の貿易

港として栄え︑日本海西回りの海運︑あるいは隠岐への渡航地とし

てにぎわい︑海関が置かれたためにその名が知られている︒関の

五本松の民謡もそういうところがら生まれたのであり︑関の五本

松は︑海上を航行する者にとって︑生きた灯台でもあった︒また︑

漁港としても栄えたところである︒古代においてもその地勢から考

えて︑風待ち︑潮待ちに格好の良港たり得たと思われるし︑また︑

いさど漁りには最適の地であったと思われる︒

 さて︑イナセハギが乗ったという諸手船とは︑どのような船であっ

たのか︒ このところの叙述を記・紀にみると

      あ ︹古事記︺﹁僕は得まをさじ︒我が子︑八重事代主神︑これまを

      な         み ほ  さき  すべし︒然るに鳥の遊し︑魚取りに︑御大の前に往きて︑いま

  だ還り来ず﹂とまをしき︒かれここに天の宝船神を遣はして︑         め  八重事代主神を徴し来て︑問ひたまひし⁝⁝

とあり︑この時コトシロヌシノミコトは︑御大の前︵美保の関︶へ

鳥猟や魚取りに出かけていたので︑鳥船神に呼びに行かせたとだけ

記しており︑諸手船については何も記していない︒       み ほ ︹書紀本文︺この時︑その子事代主神︑遊行して︑出雲国の三穂

   さき       わざ       とりあそび

  の碕にあり︒釣魚するをもちて楽とす︒或はいはく︑遊鳥す

       もろたぶね      あまのはとぶね  るを楽とすと︒かれ︑熊野の諸手船︵またの名は天鵠船︶を

      つかひいなせはぎ  もちて︑使者稲背脛を載せて遣りつ︒

とあり︑﹁諸手船﹂の語が見える︒折口信夫博士は諸手船について︑ ﹁舟の両舷にオールのような罹が幾本も出ているもの︒多くの人間で漕ぐから︑早い船である︒別名﹁天鵤船﹂の﹁鵠﹂は︑船玉︑船の精霊の名︑テは擢で︑普通の擢とは違い︑舷に固定してぎいぎい動かし得ると同時に舵でもあるもの︒﹂と説明を加えている︒ 十二月三日に三保神社では諸手船神事が行われているがこの神事       しおがき    まろうとも神話にちなんだもので︑祭りの当日になると︑昏々して客人社に参拝し︑九人ずつ二手にわかれて諸手船に乗り︑美保湾に漕ぎ出し︑二隻の諸手船は︑互いに冷たい水をかけあいながら湾内を一巡する︒それが終わると︑ずぶぬれの姿で本社に帰り︑宮司と問答を行ない神事を終わるという︒

第五場 三代主の命の舞︵鯛釣りの舞︶

 美保の関に着いたイナセハギの﹁さって︑事代主の命様は急がれ

たまえ﹂のことばでコトシロヌシの舞となる︒

    え び す 童顔の恵比須面に立て鳥帽子︑狩衣に陣羽織︑背中には大きな鯛

を描き︑波模様の袴という華やかな衣装をつけ︑右手に舞扇︑左手

にはすもっとに鯛をとりつけたものを持って︑軽快に舞い出でる︒

  幕内︑

  歌ぐら︑今日もまた三保の浜沖静かにて

      いざ船浮けて釣りをせん

  舞い出し︑言い立て

 事代 ﹁さってこの所に舞い出でし神をいかなる神とや思うらん︒

  大国主の命の子︑踏代主の命とはそもわがことにて候う︒海上

  の波静かなれば︑これより釣針をおろさばやと存じ候う︒﹂

      すなどりや鳥の遊びも空晴れて

      波風立たぬ今日の楽しさ

一168一

(9)

山本

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」一

両神 ﹁汝が違勅の行為も︑二君に仕えしも︑みな後世を遠慮し︑

 時を待ち︑大国主の命の御心を動かし︑神勅に筋立つよう取り

 計らいたき深謀をもって︑これまで滞在したるもの︑この度を

 期し︑天つ神の勅命に従い︑国土平定の実をあげるよう取り計

 ろうとあれば︑しばらく汝にまかせおかんそや︒﹂

稲背  ﹁恐れ入り奉る︒﹂

両神  ﹁しからば急ぎたまえや︒稲背は大将と見受けたり︒﹂

稲背  ﹁両神こそ大将︒大将大将︑畑の中の芋大将︒﹂

両神幕内へ入る︒大国主の命再び現われる︒

大国主 ﹁さて︑それに見ゆるは稲背丈の密なるかな︒﹂

稲背 ﹁いかにもいかにも︒稲背脛の命にありけるが︑声をかけ

 たもうは大国主の命にてはましまさんかな︒﹂

大国主  ﹁さればにてあり︒主人大国主の命にてありけるが︑汝

 も承知のとおり︑天つ神も再三の勅命なれば︑もはや待たせ方      ろく   は なきことかとも存ずる︒汝はもとは高天原の禄を食むといえど

 も︑すでに久しくわが家臣となり︑国土のために尽くしたる見

 所あるその方なるが︑この度のことは︑いかに取り計ろうてし

 かるべきと存ずるそや︒﹂

稲背  ﹁さて︑それがしもとくと勘考つかまつるに︑ 一天万乗の      の 勅命なり︒もはや再三の勅使をもって宣りたもうことなれば︑

 ただ譲らぬとのみのたもうては相なるまじく︑御命には︑百余       たけみ なかた り八十一柱と申し奉るご子息ある中にも︑武勇猛き建御名方の

 命あり︒また︑天にあっては天のことを知り︑地にあっては地      ことしろぬし のことを知る忠孝全備の神と賞揚されたもう聖代主の命もこれ

 あることに候えば︑一応諸神にも相談あらせられ︑親子ご異存   なきところを︑日の神へご返事なしたもうてはいかにまします  かな︒L 大国主  ﹁よきところへ心づいた︒さあれば汝の進言にまかせ︑  一応事代主を招き返し︑親子勘考評定のむねをもって︑返り事       もろたぶね  申し上げん︒汝は大儀ながら︑これより諸手船にうち乗り︑三  保の関へはせ参り︑事代主の命を︑宇賀の山本の宮まで迎え申  せ︒﹂ 稲背  ﹁かしこまって候う︒﹂ 大国主 ﹁おお︑大儀ながら急げ急げ︒﹂ かくしてイナセハギは︑コトシロヌシを迎えに行くために美保の関へ急ぐ︒その道ゆきにわたって︑大鼓たたきを相手にこっけいな問答や仕草で観客を笑わせる︒ 稲背  ﹁ところで音楽︒このたび︑御主人様の言いつけで︑事代  主の命をば美保の関まで大至急に迎えに行かねばならぬことに       もろたぶね  相なった︒御主人様のおおせでは︑諸手船に乗って行けとのこ  と︒この文明の世の中に︑最新式の車で行けとはおっしゃらん︒  諸手船は丸太船︑しかれば丸太船の船長らしゅうして行かにゃ  ならん︒﹂ と侠から豆しぼりの手拭いをとり出し頬かぶりをして諸手船に乗るしぐさで船頭歌を歌い︑やがて馬に乗るしぐさ     急ぐには風のはかまに火の車      千里の道も一とびにする こうして撃破クニヌシノミコトの命を受けたイナセ毒心は︑コトシロヌシノミコトが漁に出かけているという美保の関に出かけるこ

とになるのだが︑美保の関とはいったいどんな所であろうか︒また︑

一 169 一

(10)

(1991)

津山高専紀要 第29号

 ﹃古事記﹄も﹃日本書紀﹄もともに﹁国譲り﹂の決定にはコトシ

ロヌシノミコトが関わることになっている︒そのコトシロヌシノミ

コトは今︑鳥の猟あるいは漁取りのために出雲国のミホノサキにい

て︑不在である︒そこで当然そのコトシロヌシノミコトを迎えに行

かねばならぬことになる︒その使者にたつのが古事記では︑アメノ

トリフネノカミであり︑書紀本文ではイナセハギである︒

 ﹁備中神楽﹂では使者はイナセハギノミコトとし︑しかも︑前段

に述べたように︑フツヌシ︑タケミカヅチの両神とオオクニヌシノ

ミコトとはまさに交戦状態におかれている︒したがってイナセハギ

ノミコトは︑まず両者の間に入って仲介の労をとるという脚色に

なっている︒ではその場面に目を移そう︒

     いなせはぎ 第四場 稲背脛の命

 立ち合い数合︑まさに大乱闘になりそうな時にイナセハギノミコ

トが割って入る︒

 稲背 ﹁待った︑待った︒しばらく休戦︒やれこりや︑やあやあ︑

  待てと言ったらしばらく待て︑もったいなくも︑恐れ多くも︑

  葦原の中つ国の最高裁判所長のおでましなるぞ⁝⁝︒ひゆひゆ

  うどんどん⁝⁝︒わが君には︑ひとまずあれへ︒﹂

と︑オオクニヌシノミコトを幕内へ入れる︒

 稲背  ﹁さて︑それがしがいつものとおり︑あれなる事務所にお

  いて仕度をしておると何ぞやしからん︒表は喧々ごうごうとし

  てものすごし︒何事ならんと天下の情勢を見てやれば︑あろう

  ことかあるまいことか︑若い二人が国つ神を相手どり⁝⁝︒﹂

 鼻の穴に紙こよりをさし込んだとんきょうな仮面をつけ︑こっけ

いなしぐさで︑口から出まかせ︑言いほうだいにしゃべくりまくっ て︑やがて両神の身元や乱闘のしだいを尋問する︒両神は黙して語らず︒やがてあまりの悪ロ雑言にたまりかねてついに立腹し︑逆襲に転じる︒ 両神  ﹁さて︑そこもとの言辞を聞けば︑甚だもってその意を得  ない︒何となれば︑ここはすでに大国主の命との戦い︑戦場の  ところであり︑かつまた︑汝はここにまかり出るに︑おのれが  姓名を名のらず︑われらに対する敬意を失し︑また前後をわき      ひげんばんユ  まえざる序言蛮語をもってわれわれを侮辱し︑言語に絶する行  為︑このままには相なり申さん︒いかなる者かおのれの名前を  申し述べんかな︒﹂ 稲背  ﹁これは失礼千万︒さればそれがしの名前を申し述べん︒      ひなどり  それがしは天にある時は夷鳥の命︑また葦原の国に天降りて︑      いなせはぎ  大国主の命と主従の契りを結びてよりは三一脛の命と申すな  り︒﹂ 両神  ﹁いかにも汝はもとは天つ神の勅使︑今は大国主の命の家  臣稲脊脛の命なるか︒われは神勅を受け天降る︑経津主︑また  武甕槌の命なり︒﹂ 稲背  ﹁これはしたり︒﹂      かえりユと 両神  ﹁汝は高矢原の勅使として天降り︑日の神へ復奏もいた  さず︑大国主の命の家臣となり︑二君に仕える罪を犯しながら︑  おくめん  臆面もなくここへまかり出ずることは︑いかなる思慮を有する  ものなるか︑その心底のいかんによっては︑そのままに相なり  申さんそや︒﹂       じんぜん 稲背 ﹁まことに恐れ入り奉る︒それがし若君今日に及びたるも︑  大国主の命の御心を和らげ︑勅命の次第を円満に遂行せんがた

  めに候う︒﹂

一170一

(11)

山本

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」一

       い な さ   をはま  こをもちてこの二毛の神︑出雲国の伊那佐の小浜に降り到りて︑

  とっかつるぎ       ほ さかしま       さき  十掬剣を抜きて︑浪の穂に逆に刺し立てて︑その剣の前に

  あぐ  跣みまして︑その大国主神に問ひたまひしく︑﹁天照大御神︑

      みニと      いまし  うしは

  高木神の命もちて問ひに使はせり︒汝が領ける葦原の中つ       ことよ  国は︑我が御子の知らす国ぞと言依さしたまひき︒かれ︑汝が       あ  心はいかに﹂とのりたまひき︒ここに答へまをししく︑﹁僕は

      や へことしろぬしのかみ  えまをさじ︒我が子︑八重言代主神︑これまをすべし︒しか

         な        み ほ  さき  るに鳥の漏し︑魚取りに︑御大の前に往きて︑未だ還り来ず﹂

  とまをしき︒

 こうしてタケミカヅチ︑アメノトリフネの二神は出雲国のイナサ

の小浜に降りついて﹁国譲り﹂の交渉に入る︒イナサの小浜という

のは︑前にも述べたように︑今日の出雲大社のすぐそばの海岸であ

る︒そしてこのイナサの小浜が︑天孫系と出雲系の両民族の接触交

渉の地点となる︒しかし︑歴史的な事実としては︑両民族の接触は︑

広大な地域にわたって何回も繰り返し行われたものと思えるが︑古

事記ではイナサという特定の地で︑しかも︑タケミカヅチ︑トリフ

ネの二神対オオクニヌシ︑コトシロヌシというように︑個的な人物

によって行われた行為として記されている︒

 さて二神は交渉に臨み︑﹁十掬剣を抜きて︑浪の穂に逆に刺し立

てて︑その剣の前に嵩みまして﹂オオクニヌシノミコトに向かうの

であるが︑章魚の剣を逆に立てるというのは︑長剣の柄を下にし︑

刃を上にして立てることである︒浪の穂は︑波状をなしている高い

部分の意である︒剣の前に跣みてというのは︑その剣の尖端に安座

しての意であり︑本来雷神であるタケミカヅチの武威のきびしさを

述べたものであろう︒

 このようなきびしい武力交渉に対してオオクニヌシノミコトはみ ずから返答せず︑その子コトシロヌシノミコトの言を聞いて返事をしょうと言うのである︒ では︑﹃日本書紀﹄はどのように記しているであろうか︒      たかみむすひのみこと       つど︹書紀本文︺この後に︑高畠産霊尊︑さらに諸神を会へてハ当に

  あしはらのなかつくに       まを       いはさくねざく

  葦原中国に遣はすべき者を選ぶ︒みな日さく︑﹁細裂根裂の

   いはつつのを  いはつつのめ      ふ つぬしのかみ    よ

  子磐筒男・磐年女が生める子︑書影主神これ佳けむ﹂と︒時

    あめのいはや         いつのをばしりのかみ    みかはやひのかみ

  に︑天石窟に住む神︑稜威雄走神の子甕速日神︑甕速日神

       たけみかつちのかみ    ひのはやひのかみ  の子模速日神︑懐速日神の子武甕槌神ます︒この神送みてま

      あに      ますらを       やつかれ  をさく︑﹁鶉豆ただ経津主神のみ大夫にして︑ 吾は大夫にあら       いきざしはげ  ずや﹂とまをす︒その辞気慷慨し︒かれ︑もてすなはち︑経

     そ      む  津主に配へて︑葦原中国を平げしむ︒

  ふたはしら       い   た さ   をはま  あまくだ

  二  の神︑ここに︑出雲国の五十田狭の小汀に降到りて︑す

     とっかのつるぎ      さかしま      つきた      さ き

  なわち十握剣を抜きて︑ 倒に地に干てて︑その鋒端に

  あぐみゐ    おほなむちのかみ       のたま      すめみま

  鋸 て︑大宝貴神に問ひて曰はく︑﹁高皇産霊尊︑皇孫を降

      くに  きみとしたま      ふたり  しまつりて︑この地に君臨はむとす︒かれ︑先づ我二の神        はら しつ    いまし こころいかに さ  を遣はして︑駈除ひ平定めしむ︒汝が皮歯如︒亙りまつらむ      まを  やいなや﹂とのたまふ︒時に︑大筆貴神対へて日さく︑﹁当に

       かへリュとまを  我が子に問ひて︑しかうして後に 報 さむ﹂とまをす︒こ

        ことしろぬしのかみ  ある       み ほ  さき  の時に︑その子事代主神︑遊行きて出雲国の三穂の碕にあり︒

  つ り      わざ      い      とりのあそび

  釣魚するをもて楽とす︒或いは曰はく︑遊鳥するを楽とすと

  いふ︒

 書記本文も︑その大要は古事記の叙述と同様である︒ただし︑高

天原からの使者としてまずフツヌシノミコトが選ばれたが︑タケミ

カヅチノミコトが積極的に使者たらんと申し出たことによりフシヌ

シに添えて派遣したとある︒

一171一

(12)

(1991)

津山高専紀要第29号

 と存ずるそや︒﹂

大国主 ﹁なるほど︑仰せのごとく再三の勅使天降りたもうたり︒

 さりながら︑天の穂日の命は二代の君の天降りたもうことを誓

 いたり︒されどもこの神は自ら降臨を見合わせたまいたり︒ま

 たその重くだりたもう天の若日子の命は︑二つ神の返り矢に当

 たりて︑身命をかくしたまえり︒しかしこれは勅使の素行上に

 より︑自然の帰結にして︑大国主としてその責に任ずべきもの

 にはこれなく︑勅命の尊く︑天つ日嗣の神勅には違背つかまら

 ずといえども︑葦原の中つ国の主宰たる国造りの大権の上より

 考えるとき︑さよう軽卒に国土の進退を決めるわけにはまいら

 ん︒よって︑一応高天原にお引き取りたもうて︑天つ神へ現下

 の国情と︑それがしの陳述とをご奏上くだされたく存ずる︒﹂

両神  ﹁これはいかにも︑大国主の命はかれこれと言葉を左右し

 て︑神勅に背きたもうものなれば︑われら両神は高天原へ帰る

 こと相なり申さず︒またこの国へ滞在つかまつることも相かな

 わず︒しかればもはや両神は神勅の命ずるところに従うほかご

 ざなく︑葦原の国土平定の功績顕著なる大徳の神と︑敬意をもつ

 て︑述ぶるに礼をもってし︑論ずるに義をもってなすといえど

 も︑ことここに至れば万止むを得ず︑天つ日嗣に背く上は︑違

 勅の罪何ぞ逃れん︒わが帯する剣をもってやすやすと退治申さ

 ん︒﹂大国主  ﹁心得てあり︒いかに君命にせよ︑葦原の中つ国の主宰

 なるそれがしを︑征伐するとはもってのほかのおぼしめし︒わ      や そまが れ老いたりといえども︑八十禍つ神をうち平らげ︑生まれかわ

      くにつくりし こ お  おおものぬし おおくにたま り死にかわり︑七つの御名をなす国造色許男︑大物主︑大国魂︑

 あらくにたま  おおなむち   や ちほこ

 顕国魂︑大己貴︑八千父の神と賞揚されたるは︑もとよりわが

     ごんげ       ざん

  神徳の権化なり︒しかる威徳に報ゆるに︑剣をもって身命を斬       や ちほこ  するとは︑主宰の神に不敬の言辞なり︒われも八千気の神とな  り︑立ち向い申さんそや︒﹂ 両神  ﹁心得てあり︒いかに大徳にせよ功労あるにせよ︑主宰権      ふてん  もとそつど  ひん  ありといえども︑普天の下率土の浜︑いずれか王土王臣ならざ  るはなし︒天地開けて国土万物を創造なしたもう一天万乗の大  君︑天照大神のこ神勅には何者も背くこと相なり申さず︒天つ      ほうそ  日嗣は万世一系︑宝酢は天壌無窮の大御心は︑再三諭すところ  なり︒天命を奉ずる勅使の任務として︑一刻も猶余寒なり申さ  ず︒しかればいざ参らん︒﹂ 両者  ﹁しかればいざ︒﹂﹁しかればいざ︒﹂ 両神怒気を含んで立ち向かおうとするのでオオクニヌシノミコトも立ち上がって︑乱闘になろうとする︒ このように﹁国譲りの掛け合い﹂は︑それぞれの立場に立って一歩もゆずらぬ論戦になるのであるが︑これを簡単にまとめてみると︑まず両者の名のりからはじまり︑次に両神がアマテラスオオミカミの神勅を奉じて天降った次第を述べ︑皇孫ニニギノミコトに葦原の中つ国を譲るように要請する︒オオクニヌシノミコトは両神の労をねぎらいつつも︑苦労して造りあげたこの国を一朝一夕に献上するわけにいかないと︑しばらくの猶予を願う︒おだやかな調子から︑しだいに高潮し︑譲れ譲らぬで掛け合いは長々と続く︒はては交渉が決裂し︑力をもって結着をつけようということになる︒ではこの場面について︑記紀の文章を参考にしてみよう︒

︹古事記︺      とりふね     たけみかつちのかみ  そここに天の鳥船の神を姉御雷神に副へて遣はす︒

一172一

(13)

山本

備中神楽と記紀 一神代神楽その三「国譲り」一

大国主  ﹁いかにも経津主の命︑蓋置槌の命のこ両神は︑高天原

 のこ家臣と存ずる︒して︑この葦原の中つ国へは︑いかなるし

 さいにて天降りたもうかな︒﹂

両神  ﹁されば︑この度両神天降るは余の儀にこれなく︑大国主       まつりユと   ちじん の命の御主宰に相なる豊葦原の中つ国の政事を︑地神三代の

 すめみまに に ぎ      かくれリィ と 皇孫瑳環杵の命に譲り奉り︑御身は幽事をしろしめせとの天

 つ神の神勅により︑この度両神天降り候へば︑神勅のままに国

 は三代の君へ捧げ奉りたまへや︒﹂

大国主  ﹁これはいかにも︑この度ご両神天降りたもうはいかな

 るご用かと存ずるに︑われしばらく主宰せる豊葦原の中つ国の

 政事を天つ神の玄孫瑳項杵の命に譲り奉り︑われは幽事をしろ       の しめせとの神勅により︑この度両神天降ると罵りたもうかな︒﹂

両神  ﹁さればにてあり︒﹂

大国主  ﹁これは御両神ご遠路大いにご苦労千万︒さて︑それが      もとい しがこの国を主宰つかまつるその基たるや︑素二極尊が潮の

 や おあい      ね  かたすくに

 八百会をしろしめすとお定めありしも︑この神は根の堅州国へ

 神去りたもうて以来︑この国をつかさどる神もなく︑われは国

 つ神なれども︑生まれながら神徳あるゆえに︑国造り大国主の

      や そわざ 命となり︑八十禍つ国をば︑生平生血を持ちて︑山の根︑川の

   う       ニとや

 瀬を伐ち平らげ︑岩根木の立草の片葉も言止めて︑安らげくな

  ひだかみ      けんじ

 る日高見の国と打ち広めたる国なれば︑直ちに顕事は天つ神︑

 ゆうじ       かいびゃく

 主事は国つ神と分別するは︑天地開關以来の大変革なれば︑

 さよう一朝一夕には相なりがたし︒よってこ両神はしばらくの       ふじつ 間この国にご滞在に相なれば︑不日改めてご返答申しあげるに

 て候う︒﹂

    おんみこと両神  ﹁御命の仰せ承るに︑一応はごもっとも千万︒さりなが  ら天照大神は︑皇孫環項杵の命にみことのりしてのたまわく︑  ちいほあきみずほ ﹃千五百秋の瑞穂の国は︑わが子孫のしろしめす国なり︒なん      ほうそ     てんじょうむきゅう じ皇孫行きて治むべし︒宝詐の栄えは天壌無窮︑国土の隆盛 は万世不易﹄とのみことのりこれあり︑三代の君ももやは御薗 臨もこと急務なるの御意にましませば︑直ちに君命にお従いこ れあるべきものと存ずる︒L大国主 ﹁なるほど︑天つ日嗣の御子をもって︑国土を統治せん との御意なることは︑万々承知いたしおり候う︒しかしながら︑         おしほみみ 地神二代の神︑天の忍穂耳の命降らんとみことのりしたまいて︑ く ぶ 供奉の三十二神を召し連れ︑天の浮橋に立ちたまい︑葦原の国 土をみそなわしたもうに︑国土はいまだいたくさやぎてありけ るゆえに︑自ら降臨を御とどまりたもうたり︒その後︑今日に 至るも国土の発達も遅々として進まず︑しかるに三代の君は︑ 天つ日嗣は天壌無窮とみことのりしたもう︒天壌とは天地の意       そうせい 味なれば︑国家すなわち国開け蒼生繁栄ならざれば︑天壌無窮 の大御心にかない奉らず︒ゆえに今いっそう国土を駆け巡り︑ 国の政事に善美を尽くし︑しかる後に皇孫の君に国を返上奉る︒ まずそれまでは国譲りはしばらくお断り申しあげるにて候う︒﹂両神  ﹁その儀は相成り申さん︒何となれば天つ神の御神慮とし      ほ ひ ては︑地神二代の神を天降らすおぼしめしにより︑天の穂日の       わかひ こ 命を始めとして︑その後︑天の若日子の命を遣わしたもう︒さ      かえりこと れども︑これらの神は天つ神に何らの節奏をいたさず︒天つ 神はその意を不快とおぼしめされ︑改めてこの度われら二神を 遣わしたまいしは︑三代百里杵の命に改めて勅命なしたまいし     ほうたい 大御心を奉戴つかまつり︑神勅を相述べし儀なれば︑もはや猶      こうしよう 予相成り申さず︑直ちに皇詔を御遵奉相成りてしかるべきや

一173一

(14)

(1991)

津山高専紀要 第29号

ていたという何でも願いの物が打ち出せるという不思議な小槌であ

る︒もちろんオオクニヌシノミコトの神話とは無縁のものである︒

これも大黒天と同じように財福を希求する信仰と結びついたもので

あり︑中世以降の庶民の所産であろう︒

 また︑広矛というのは︑幅の広い矛の意であり︑神を祭る道具で

もあり︑権威の象徴でもある︒

 第二場は︑その歌ぐら天地の広き広野を田となして︑くわの御

矛や露の玉米にみえるとおり︑原野を開拓して米作り︑国造りを

したオオクニヌシノミコトの偉業を忍び︑﹁かまど巡り﹂が象徴す

るオオクニヌシの慈愛を称える場面である︒このオオクニヌシノミ

コトについての記紀の叙述をのぞいてみよう︒

 オオクニヌシノミコトは︑古事記の系譜によると︑スサノオノミ

コトの六代目の子孫となっている︒しかし︑日本書紀本文ではスサ

ノオノミコトの子としており︑その一書では三世の孫︑または三世

の孫としている︒このように︑オオクニヌシノミコトが幾世の子孫

に当たるかは定かでないが︑スサノオノミコトを祖神としている点

では一致している︒

 また︑オオクニヌシノミコトは多くの神名を併有する神である︒

﹃古事記﹄では︑

       おほな むぢのかみ       あしはらし ニ  大国主神︑またの名は大穴牟遅々といひ︑またの名は葦原色許

  をのかみ       やちほこのかみ       うつし  男神といひ︑またの名は八千矛神といひ︑またの名は宇津志

  くにたまのかみ

  国玉神といふ︒あはせて五つの名あり︒

と五つの名称を記している︒      おほなむちのかみ ﹃日本書紀﹄本文では大辛藍革とし︑一書第六では︑大国主神︑

       おほものぬしのかみ       くにつくりおほなむちのみこと  まを

  またの名は大物・王神︑または国作大己貴命と号す︒または

  あしはらのしニを       や ちほこのかみ       おおくにたま

  葦原醜男とまをす︒または八千父神とまをす︒または大国玉

  のかみ      うつしくにたまのかみ

  神とまをす︒または顕国玉神とまをす︒と七つの呼び名を掲げている︒ このようにオオクニヌシノミコトが多くの別名を持つということは︑オオクニヌシノミコトが多方面にわたる霊能を兼有した偉大な神格であることを示唆しているものといえよう︒ さらに﹁大国主﹂の呼称についていえば︑古代のわが国には︑諸         くにぬし地域の支配者として﹁国主﹂なるものがあったと考えられる︒その中で力ある者がやがてそれらの﹁国主﹂を征圧・懐柔し統合してゆく︒それが国造りであり︑国造りの偉業をなし遂げて︑最大の力を持ち得た﹁国主﹂に対する称号が﹁大国・王﹂であろうと考えられる︒

﹃出雲国風土記﹄ではオオナモチノミコト︵大穴持命︶と呼び︑オ

オクニヌシとは呼んでいないが︑この神について﹁所レ造二天下︷大

神命﹂と記している︒

第三場 国譲りの掛け合い

 オオクニヌシノミコトが休息しているところへ両神が素面で再登

場し︑これより国譲りをめぐっての掛け合いとなる︒

 両神 ﹁さて︑この所にまします神は︑いかにも大徳の神と見受

  け奉る︒いかなる神にましますかな︒﹂

 大国主 ﹁わがことを尋ねたもうかな︒﹂

 両神 ﹁さればにてあり︒﹂

 大国主  ﹁われはこの国の主宰大国主の命に候うが︑お尋ねに相

  なる神はいかなる神におわすかな︒﹂

 両神  ﹁さればにて候う︒われは天照大神の神勅を受け天降る経

  事案の命なり︒またこれなるは武苫舟の命にてあり︒﹂

一174一

参照

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1.研究の目的 2.平成13年度の研究事業