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3 年におけるオーストラリア金融恐慌

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(1)

1 8 9

3 年におけるオーストラリア金融恐慌

本 間 直 行

【要旨】

1 8 7

3

年恐慌に始まる

9 1

世紀末「大不況」は,ベアリング恐慌後の

0 9 8 1

年代の 不況に最終局面を迎えることになった.この中で煎要な意味をもったのは周辺 地域の経済動向や金融動向であり,オーストラリアの経済動向はこうしたもの の一つであった.経済開発が進んでいたオーストラリアの中で,

0 8 8 1

年代後半 にはとりわけビクトリア植民地を中心に開発が進行していた.経済開発の動き

0 8

年代末には不動産投機の形をとるようになり,その崩壊に伴い

88-89

年に 恐慌が勃発した.さらにベアリング恐慌の影響当時の主要産業である牧羊業 との関連もあり,

91-92

3 9

年と恐慌を繰り返し,景気は悪化した.

0 9

年代 を通じてオーストラリア経済は長期の厳しい不況にさらされたのである.本稿 は,こうしたオーストラリア経済の動向をイギリス,とりわけその金融市場と の関連において検討し,

9 1

世紀末「大不況」の解消に向かう局面で,周辺地域 とイギリスとの関係がもつ意味を明らかにする.

【キ_ワ_ド】

1

9

世紀末「大不況」 オーストラリア恐慌 ペアリング恐慌 ロンドン 金融市場 ピクトリア経済開発

(2)

1 8 9

3 年におけるオーストラリア金融恐慌

目 次

はじめに

1

経済開発と投機の崩壊

I

I

再度の金融恐慌

I

I

I 8 9 3 1

年恐慌 むすぴ

はじめに

本 間 直 行

1 8 9

0

年のベアリング恐慌後の不況は

9 1

世紀末「大不況」の最終局面となった.

イギリスを中心とする世界経済の構造変化の最終段階となったのである.その 中で周辺地域は重要な役割を果たした.銀価格低下により大きな影響をうけた インドをめぐる問題はその最重要な一例である.こうした中で同様に重要な位 置を占めたものの一つが,

8 0

年代末から

0 9

年代初めにかけて厳しい恐慌を経験

したオーストラリア経済である.

オーストラリア植民地はヨーロッパから遠く離れ,その経済開発はすでにあ る程度進展していたとはいえ,この時期に一層本格化してきたところであった.

オーストラリアではベアリング恐慌に先立って恐慌が発生し,

0 9

年代に入って

3 0 1 9

年代同様の深刻な不況期と指摘されるような,1 厳しい恐慌が持続す ることになった.

9 0 1 8

年前後の金融恐慌はオーストラリア経済の新たな展開を

1 ,yurblsaS .S and .K Sweeney, The ,lluB eht Bear and eht Kangaroo: The -siH t

o r

y of eht ydneyS kcotS ,geanchEx ,8891 .751.p

(3)

導くと共に,その経済動向は長期資本移動,貿易等を通してイギリス経済にも 大きな影響を及ぽし,さらに惟界経済の構造変化の進展に一定の影響を及ぽし たのである. しかも政治的には,この時期は連邦結成に向けた準備段階として 重要な意味をもつ時期でもあった.

本稿は,イギリス経済との相互作用を中心にして,オーストラリア植民地の 経済動向を, 1880 年代末から90 年代前半における金融恐慌を主に検討しようと するものである.

本稿が対象としている時期より前には,クイーンズランドや

NSW

がオー ストラリアにおける重要な成長地域であり, 80 年代に入ってからピクトリアの 経済拡大が著しくなっていった.それだけにこの時期に特にビクトリアで投機 的色彩が強まった側面があるともいえよう叉同時にピクトリアにおける反動 も他地域に比べ大きくなっていた.オーストラリアとしての全体的,統一的な 景気動向は必ずしも明確にはみられず,むしろ各植民地が関連をもちつつそれ ぞれに特有な景気動向が展開していたということができよう.以下,ピクトリ アを中心にしつつそれぞれの景気状況をみていくことにする.金融恐慌は88-9 91-2 93 年と三波にわたり生じており,以下この順に検討していこう凡

I

経済開発と投機の崩壊

1880 年代後半に周辺地域の経済開発を伴いながら軋界的に景気が拡大する中 で,オーストラリア各地でも建築プームが進展した.甚本的には,植民地の経 済発展をうけた移民の増加,都市人口の増加がその背景にある.イギリスから

2 ,llaH A. ,.R The cktoS Exchange of Melbourne and eht niartocVi Economy, 1852-1900, ,8691 .891.p

3 この時期の概略およぴ諸説については, de S,ellivre ,.P 9381" Remembered," -rotciV i

a

n lacirotsiH ,lanuroJ ,46.loV ,.2oN October ,3991 石田高生 rオーストラリアの金 融・経済の発展』 H本経済評論社, 0502 年,諸説についてはさらに,,eylsaeGr .D and

L

.

,eylOx "Segmenting eth s:urntoCo alianAustr Economic Growth ",1319-2881 A

u s t r a l i a

n Economic yrotsiH ewRevi (以下, AEHR と略記),,73.loV ,.loN March 1

9 8 7

, ,5-34.pp 参照.

(4)

オーストラリアヘの移民は82 年から89 年まで毎年

3

万人を上回り, 1880-90 にメルポルン,シドニーの人口は共に四分の三近く増加している.メルボルン の人口増の多くは初期の都心周辺部分で生じており,メルポルン市の拡大を伴 いながら人口が増加していったことになる.なお, 91 年と1901 年の人口を比較 すると,

NSW

とクイーンズランドで

2

割前後増加しているのに対し,ビクト リアでは

5 %

程度の増加にとどまり,また, 90-1900 年にシドニーの人日増加

25%

以上であるのに対し,メルボルンのそれは

1%

程度にとどまっているこ となどから,後者の90 年代経済危機がもつ影響の大きさ,持続性をあらかじめ 確認できるし

こうして地域的に濃淡を伴って建築プームが進んだ.住宅建築投資について

B

u t l i

n

の推計でみると,

NSW

では80 年代前半にピークに達し,その後増減を 伴いつつ91 年以降低水準になっているとされる凡これに対して,ビクトリア では80 年代に次第に増加してゆき半ばがピークとなり,その後次第に減少に向 かい,

3 9

年以降は低水準とされる.このピークは

NSW

のそれより低い水準 とされる.その意味では,人日動態,経済動向に対応して,

NSW

における早 期の投機的拡大とその沈静化,ビクトリアでの新規建築の相対的な少なさおよ ぴ投資時期の遅れをみることができよう.ただし,総投資でみると,ビクトリ アの投資額は

NSW

80 年代半ばから90 年代初めまで上回っているとされて おり,その意味ではビクトリアにおいても住宅への大きな投資が展開されてい たとみることができよう.イギリスからの急速な資金流入により建築組合の資 金力も増加しており, 80 年代後半には投機的投資家が建築業に参入していった といわれる.6 なお,こうした都市の建築需要が同時に工業発展への剌激とな

• tsitatS i c a

l tactrbsA for lraeevS lianloCo and Other nsosisessoP of eht United Kingdom ni Each Year from 1887 ot ,1019 2091 (以下, .atS s.Ab と略記),,6.p M

i t c h e l l

, ,.R.B lanoitnaretnI lacirotsiH :scitsitatS ,acirfA Asia and Oceania 1750 - 1988, Second Revised ,niotidE ,5991 ,34.p ,llhetcMi ,.R.B histirB laicrtosHi S

t a t i s t i c s

, ,8891 ,18.p n,Daviso ,.G icblPu" seitilitU and eht Expansion fo Mel- b

o u r n

e ni eht ",s0881 AEHR, ,01.loV ,2.oN September ,0791 .961.p

5 ,niltuB ,.G.N nttmevesIn ninialratsAu Economic elopmentDev 1861- 1900, ,4691 p

. 2 6 6 .

• .dibI

, ,372.pp .7-682

(5)

表 1 鉄道総延長(政府)

(マイル)

NSW ピクトリア 南オースト

北部地域 西オースト

タスマニア クイーンズ

ラリア ラリア ランド

1 8 8

7 6,032 0881, 20,41 861 841 5761, 1

8 8

8 14,12 18,02 00,51 381 851 193,1 1

8 8

9 71,12 90,12 10,61 381 502 4062, 1

8 9

0 2,182 7142, 10,61 641 381 153 2142, 1

8 9

1 2,182 8742, 6,661 461 891 773 042,3 1

8 9

2 5,182 8882, 61,61 461 981 204 53,32 1

8 9

3 1352, 0962, 4,661 461 522 204 79,32 1

8 9

4 1502, 053,0 6661, 461 193 042 79,32 1

8 9

5 1532, 9093, 2721, 461 735 042 9372, 1

8 9

6 1532, 963,0 3721, 614 885 042 0432, 1

8 9

7 0,642 2083, 24,71 461 709 542 9602, 1

8 9

8 1692, 2083, 4721, 614 929 843 42,72 1

8 9

9 7062, 4103, 4721, 614 55,31 843 0802, 1

9 0

0 1812, 9203, 6731, 614 55,31 943 0182,

(出所)lacitsitatS tcratbsA for eht alrveeS laniolCo and therO sniosssesoP of eht United Kingdom ni Each Year from 1887 ot 1,190 ,0291 ,4-212.pp より作成.

っていた.7

これらと相まって,鉄道建設が80 年代後半に大きな伸ぴを示した(表1).

ピクトリアではとりわけ0,9 91 年に

10%

を上回る路線の伸ぴを記録し, 89 年以 降は

NSW

を上回る路線網を維持していた.新規の鉄道投査はビクトリアで 80 年代後半に急増し, 89 年頃がピークと考えられる

. s

このピークにおける 水準はこの時期のオーストラリア各植民地のピーク時のそれを上回っていると みられ,建築同様にビクトリアでの鉄道建設の時期的に相対的な遅れや急激な 展開をみることができよう.この建設拡大については,収益性について十分配 慮されず政治的に決定されたと論評されることが多い一方で,そうした評価ヘ の反批判もある,.もっとも80 年代末からは投機的住宅建築のため鉄道の収益 性は低下し, ,88 89 年とピクトリアの鉄道の収益はとりわけ新線で低くなって

1 ,.dibI .012.p

8 .atS ,.sbA ,222.p ,niltuB .po,.tic .053.p

(6)

いた.ちなみに

NSW

の新規鉄道投資は

5 8

年と91 年をピークとし,後者がこ の時期全体のピークと考えられる.ただ,

NSW

の鉄道建設は公債発行の大き な部分を占めるにもかかわらず,次第に支線中心となっていった.01 また,ク イーンズランドのピークは86 年とされ,その水準は

NSW

やビクトリアに比 べ低く,好況の程度や時期の地域差が現われているということができよう.

政府による橋梁港湾投資も大幅に増加し,

NSW

では84 年に全体のピークに 達した後, 91 年にも高水準に達している.11 クイーンズランドでも83 年から91 年まで比較的高い水準となっている.ビクトリアで比較的水準が高かったのは 84 年から89 年であり,やはり他より比較的遅い時期に高水準とされているが,

NSW

はいうまでもなく,クイーンズランドも下回る水準にとどまったと考え られよう.地理的条件もあり,この時期についてはこの点でのインフラストラ クチャー形成は比較的に低水準だったと思われる.

こうしたインフラ整備を前提にして,建築プームと共に,畜産,農業等緒産 業への投資も増加した. 80 年代前半の旱魃のあと,牧羊など畜産への期待が高 まり80 年代後半には高水準の畜産投資が行なわれた.21 羊飼育頭数は, 80 年代 末に

NSW

を中心に大幅に増加している(表

. ) 2 NSW

では91 年のピークま でに3 割以上増加している.その四分のーから三分の一の水準ではあるが,ク イーンズランドでも87 年から92 年にかけて7割以上の増加を記録している.ビ クトリアはこの点ではクイーンズランドよりさらに少ない水準で,増加も大き なものではなかった. しかし,飼育地が次第に条件の悪い地域へ移り,旱魃も 続き,鉄道等と同様に過大投資の傾向となり, 92 年に飼育のピークに達してか

1901 年にはほぼ7割の水準にまで低下することになる.31

9 ,tsorF ,.E.L "A Rniotatrerpteine ofs'iaroticV Railway ionructnstCo Boom of t

h

e ",s0881 AEHR, ,62.loV N o,1. March ,6891 ,05.p on,visDa .po ,.tic ,9-717.pp G

r a t t a n

, ,.H.C The teshwtouS cificaP ot :0091 A Modem ,yrotsiH ,3691 .492.p 1

°,storF .po,.tic ,25.p The conomistE (以下, o.cE と略記),.naJ ,81 ,0981 ,27.p -siaS bury and Sweeney, .po,.tic .271.p

1

1,niltuB .po,.tic .063.p 1

2,.dibI .8-701.pp 1

3 ,anttraG .po,.tic .162.p

(7)

2

羊飼育頭数

(千頭)

NSW ビクトリア 南オースト

北部地域 西オースト

タスマニア クイーンズ

ラリア ラリア ランド

1 8 8

7 56,946 4620,1 109,1 74,51 2692,1 1

8 8

8 30,546 9810,1 1212, 034,1 4443,1 1

8 8

9 70,150 288,10 8736, 46 7362, 155,1 047,14 1

8 9

0 68,955 39,612 0507, 46 5522, 916,1 700,18 1

8 9

1 183,61 82,912 4667, 99 26,91 433,1 0290,2 1

8 9

2 0088,5 5962,1 25,17 75 668,1 32,61 8701,2 1

8 9

3 1986,5 9093,1 6827, 57 2122, 535,1 769,18 1

8 9

4 77,956 811,13 2132, 727,1 858,19 1

8 9

5 81,641 6292, 425,1 75,891

1 8 9

6 91,348 2436, 97 924,2 156,1 49,591 1

8 9

7 395,43 33,05 06 1122, 9751, .71 897 1

8 9

8 124,41 1305, 46 2252, 4941, 35,571 1

8 9

9 41,236 6765, 45 228,2 726,1 62,251 1

9 0

0 12,040 3525, 84 443,2 846,1 93,301

(出所),.dibI ,3-27.2pp より作成.

羊毛の生産は80 年代に変動を伴いながら増加を続け, 89 年には81 年の

6 . 1

に達し,さらに

2 9

年までに

2

割以上増加している.しかし,羊飼育頭数の動き をうけて以降は減少を続けることになる.羊毛価格低下の中での生産拡大は一 層価格低下をもたらしていた庄価格低下も一因となってオーストラリアの産 業構造の変化が生じているわけで, 90 年代不況の一面を推測することができよ

これに対して,乳牛の飼育頭数は

5 8

年以降急増し,

2 9

年のさしあたりのピー クまでに

6 . 1

倍に達している.増加の多くを占めたのは

NSW

であったが, 90 年を除いてはビクトリアが最大の飼育頭数を維持していた.酪農プームの中で 複雑な技術が導入され,地方の仲介者による銀行からの資金仲介がみられた.51 80 年代に入りエンジンの改良も背漿に,冷凍肉の対外輸送が本格化するように

14 ,ekarlC ,.G.F The ryotsiH fo,ailartsuA ,2002 .08-97.pp

15 ,elliV ,.S "Networks and Venture alpitCa ni the Australian ralPasto Sector b

e f o r

e World War Two," sseniSftB ,yrotsiH ,83.loV 3,.oN lyuJ ,6991 1.5-94.pp

(8)

なった.61 屠殺額はオーストラリア全体で

8 4

年に高水準になった後,低下し,

9

0 年から再度増勢に転じ, 93 年がさしあたりのピークになっている.これは全 体的には

NSW

の動向に規定され,ビクトリアは

4 8

年から

2 9

年まで高水準を 持続した.

他方,農業では小麦生産が大きなものだった(表

. 3 )

まず作付け面積は80 年代半ば以降急速に増加し, 0 年代後半は比較的安定していたといえる. もと8

もとは南オーストラリアの面積が広かったが, 90 年代を含めてほぽ横ばいとな っている.これに対してビクトリアの面積は90 年代に入ると増加に転じること になり, 90 年代後半に南オーストラリアを上回ることになる.

NSW

は90 年代 にもっとも面積を広げ,

9 1

椛紀末には上記

2

地域に近い面積となっている.生 産最は天候上の問題もあり変動が激しく,

8 7

93 年がさしあたり 1000 トンを 上回るピークとなっている.地域別では南オーストラリアの収絨がかなり低い ため,ビクトリアの生産がもっとも大きくなっている.小麦耕作面積は拡大し たものの,連作の結果土地の肥沃度が低下し, 80 年代末以降は鉄道にもマイナ スの影響を及ぽしたとされる.71 ピクトリアの生産はとりあえず93 年までは高 水準を続けていた.生産額の推計では

8 8

年がこの時期のピークである.生産額 では飼料も小麦とほぼ同水準を推移しているものと考えられる.生産鼠.生産 額共にジャガイモがこれらに次いでいるが,両者の差は比較的大きいといえよ ぅ.農業生産額全体では86 年から 89 年に 13. 倍を上回り,その後は95 年までに

4

割程度まで急減している.天候等自然条件の影響も大きかった.

これらに対して,

Haig

GDP

の推計では製造業の比重は

17%

前後で安定 している(表

4).

第一次産業が依然として重要な地位を占めていたと考えら れるものの, 80 年代には製造業の伸ぴは,

NSW

の景気が低下した6 年を除い8 ては比較的に順調であったと考えられる. しかし, 90 年代に入ると他部門に比 較しても急速に悪化することになる.

NSW

とビクトリアを比較すると,前者

16 ,zeeroB ,.F ceanstDi" Tamed: Steam Navigation ot aialrstAu and New Zealand from stI gsnninBegi ot eht Outbreak fo eth reatG War," The urnaljo fo Trans

p o r

t ,yrotsiH Third ,seireS ,V o01.l N o,l. March ,9891 .01-8.pp

11 ,llehctiM ,lanoitanretnI ,202.p ,tsorF .po,.tic .35.p

(9)

3

小麦作付面積•生産量

NSW ビクトリア 南オースト 西オースト

タスマニア クイーンズ

ラリア ラリア ランド

面積(千エーカー)

1 8 8

7 489.3 9.322,1 .527 50.4 2.8

1 8 8

8 804.3 27.12,1 .730 70.4 .39

1 8 8

9 819.4 7.7811, 03.4,81 .535 .194 .58 1

8 9

0 233.3 2.4511, 63.7,61 .833 59.3 4.10 1

8 9

1 756.3 7.3231, 42.5,51 .926 67.4 3.19 1

8 9

2 .9524 52.4,31 60.521, 15.3 .985 .13 7 1

8 9

3 .8935 49.6,41 72.731, .742 35.5 09.2 1

8 9

4 547.6 7.73,31 07.7,51 41.2 02.5 09.2 1

8 9

5 796.5 7.12,41 01.1,41 23.2 74.6 17.2 1

8 9

6 .1668 6.80,51 03.9,61 .531 5.74 85.3 1

8 9

7 .4993 57.5,61 .72521, 78.3 95.8 99.5 1

8 9

8 59.311, .24152, .88751, 05.7 35.8 10.7 1

8 9

9 26.421, 75.16,2 .11821, .584 34.6 95.6 1

9 0

0 60.531, 37.01,2 .23911, .374 81.5 3.79 生産(千プッシェル)

1 8 8

7 .895,64 .88323,1 .2702 1.756 32.81 1

8 8

8 50.451, 77.648, .9103 .5198 .38 1

8 8

9 .370,56 .79541,1 .477,541 94.50 66.75 34.31 1

8 9

0 .249,63 .3175,12 .499,39 47.46 03.64 08.20 1

8 9

1 763.,93 .3967,13 56.436, 95.26 77.93 32.93 1

8 9

2 .517,86 6.1484,1 10.4,29 .4064 68.101, .6246 1

8 9

3 .702,56 2.5525,1 18.1,631 1.205 .8338 1.341 1

8 9

4 .441,07 9.4541,1 .281,77 40.71 .0287 1.554 1

8 9

5 .395,15 2.6965, .329,95 18.81 9.6411, 6.231 1

8 9

6 .453,88 .01097, 54.,802 53.24 7.8621, 31.06 1

8 9

7 10.56,10 2.8050,1 94.,014 68.40 3.6861, .39001, 1

8 9

8 26.279, 31.8,591 .978,78 .9708 03.302, .0760 1

8 9

9 24.603,1 97.3,251 13.45,8 .6669 31.0,11 .4461 1

9 0

0 83.176,1 37.4,871 13.25,11 74.77 40.1,11 1.94,11

(出所),.dibI ,1-04.2pp より作成.

の方が安定的に成長を続けていたと考えられるが,後者についても

0 9

年代の下 落幅は極端に大きくはない.瓶用については,当初,後者が前者を上回ってい

(10)

4

産業別実質

GDP

( 1 8 9

1 年価格,百万ポンド)

一次産業 製造業 建設 サーピス 地代 GDP

牧畜 農業 酪農 鉱業

1 8 8

0 1.40 27.1 5.11 .64 .86 8.81 .88 49.2 .01 7 701 0. 1

8 8

1 .839 66.1 90.1 .84 .57 4.20 31.1 51.3 41.1 .3411 1

8 8

2 .542 38.1 6.11 9.4 7 .7 0.22 5.13 24.3 2.11 24.21 1

8 8

3 .947 00.2 5.15 2.5 .27 1.23 35.1 .73 7 8.12 96.31 1

8 8

4 .646 49.1 1.14 .45 .87 1.25 06.1 01.4 7.13 52.41 1

8 8

5 .044 98.1 0.12 .65 .57 .626 28.1 41.4 4.14 64.41 1

8 8

6 .847 59.1 .415 .85 .27 .026 1.81 92.4 0.15 89.41 1

8 8

7 .252 21.2 .417 .06 67. 1.27 1.71 84.4 8.51 751 0. 1

8 8

8 .148 02.2 .611 .26 38. .629 9.91 16.4 9.16 60.61 1

8 8

9 .259 63.2 2.18 .46 01.1 .530 9.81 59.4 3.17 45.71 1

8 9

0 .658 03.2 .71 7 .66 3.11 .031 9.71 90.5 0.18 36.71 1

8 9

1 .962 .82 7 1.35 .86 0.21 .529 1.51 02.5 3.18 87.71 1

8 9

2 .168 30.3 2.18 .47 3.12 .825 3.01 51.5 8.18 64.71 1

8 9

3 .173 22.3 .418 .08 5.14 1.23 97. .15 7 1.19 94.71 1

8 9

4 93.7 .532 .71 7 .68 0.51 .624 96. 91.5 6.19 96.71 1

8 9

5 .127 4.33 .813 7 1.8 1.6 .226 67. .35 7 9.19 49.71 1

8 9

6 82.7 4.30 .615 .98 0.81 .527 27. 45.5 10.2 9.821 1

8 9

7 .108 18.2 .871 .09 24.2 .528 57. 57.5 30.2 9.931 1

8 9

8 73.8 0.29 .920 .29 .624 .329 38. 49.5 90.2 61.20 1

8 9

9 09.8 1.28 .021 40.1 .429 .431 69. 61.6 80.2 42.21 1

9 0

0 50.9 .526 .324 2.11 8.62 .33 7 4.01 64.6 90.2 00.22

(出所),giaH ,.B "New seatmistE fonaliarstuA GDP: ",94/8491-1681 AEHR, ,14.loV ,l.oN March 2

0 0 1

, ,92-82.pp より作成.

た.また,

0 8

年代半ばまでは労働集約的生産のパターンが維持されたが,後半 には都市建築需要の増加の中で変化が見られるようになっていた.81 結局さま ざまに調達された資金の多くは開発関連や土地投機に向けられ,この時点では 製造業に投下される部分は相対的に少なかった.ただ,同時に製造業の拡大が 阻害されるということでは必ずしもなかったといえよう.91

さて,これらの経済開発のための国内資金形成はなお不十分で,

80

年代には

1• ,inlutB .po ,.tic .-10209pp.

19 Clarke, p.o ,.tic ,57.p Boot, H.M., "Government and the Colonial Economies,"

AEHR, ,38l.Vo .I,No March 8,919 .-594.pp

(11)

資本輸入が投資の半分近くまで比率を増し,次第にイギリスの資金供給能力な いしオーストラリアヘのその吸収持続性が,オーストラリアの経済動向にとっ て重要なポイントとなっていった吼イギリスからの資本輸入は85年にひとつ のピークを記録してから, 0年代後半にはさらに高水準を続けたと考えられる.8

しかし, 0年代後半には世界的好況を背景にロンドン資本市場での調達がむし8 ろ減少し, 0年代末には,ロンドンにおいて他の諸地域のみならず植民地間の8 資金獲得競争が激化し,借入条件が悪化していった.一般に景気拡大時には,

来からの借入急増も背最に,オーストラリア各植民地も継続的な衰金吸収を進 めることができなくなっていった.このため増大していた資金需要に伴い,と りわけスコットランドを中心にして銀行による預金獲得が増加することになっ .12

8

8年にはオーストラリア企業への資金供給は減少したとされるが究オース トラリアの経済開発においてはイギリスからの賽金供給が大きな意味をもって いたから,ロンドン資本市場における発行の縮小は経済開発の展開に重要な影 響をもたらすことになった.イギリスから預金形態での資金流入が補足的にあ ったにしても,さしあたりそれらが十分ではない限りで,投機化した開発活動 は早くも80年代末に破綻していったのである.この展開には地域差を伴い,そ れによってその後の

0 9

年代の経済動向が左右されることになったと考えられる.

その後のピクトリア経済がとりわけ低迷を余儀なくされたのに対して,他の植 民地では

0 9

年代の低迷は相対的には緩やかなものにとどまったのである.

オーストラリア全体として87年から景気は上昇に向かい, 88年には最活況に 達したといえよう.一般に88年には投資がピークとなっている. 885月には イギリスでオーストラリアにおける投機に対する替告が出されている.また,

インフレよる信認の低下,銀行の配当の減少も相次いで指摘され,秋には土地 投機の行き過ぎの指摘がある.32 ロンドンにおける発行停滞化には世界的な資

20 Boem, ,.A.E ytirepsorP and Dniosserpe Ani,ailartsu 1887-1897, ,1791 .821.p

2

1,niltuB c.po,.ti ,744.p Boem, c.po,.ti .2-041.pp

22,.ocE .naJ 1,5,988 .9.p

(12)

金需要増大の中でこうした警戒感の強まりもあったのである. しかし,それ以 前の86 年には早くも南オーストラリアでCommercial Bank が支払停止とな り,この時点で南オーストラリアや

NSW

の投機活動は抑制されることにな

った. 88 年には, Bank of New Zealand の株主への文書の中でシドニーや

アデレードなどでの企業経営の悪化が指摘されている礼上昇に転じていた金 融機関の流動性比率は再ぴ低下に向かった.52 他方で,ピクトリアではここで 投機活動が終了せず,さらに継続することになり,資金供給が細り始める中で,

投機的活動が集中していったのである筑とりあえず88 年初のロンドンでの資 本発行では2 倍以上の応募があり,入札額も高水準となった. 89 年初めにはロ ンドンにおけるビクトリアの発行には

2

倍以上の応募があったのに対して,南 オーストラリアのそれには6 割弱しか応葬がなかった.そして 89 年 3 月には南 アフリカ鉱山の投機,フランスの銅投機の崩壊があり,ロンドン市場の警戒感 は強まり, 8 月以降はバンクレートの引上げがさらにロンドン証券市場全体へ 影響することになった.72

投機活動の中心となったビクトリアについてみていくことにしよう.ビクト リアではメルポルンを中心に土地プームが展開し,プリスベーン等各地にも波 及していった.すでに07 年代以降,人口急増を背景に近郊の土地不足懸念から 各地で投機的活動がみられていたが,上述のように86 6月の金利上昇により ビクトリアでもとりあえず投機は一段落した. しかし,人口増加が続いたこと,

鉄道建設が進んだこと, 87 8月に金利が引き下げられたこと等により,とり わけビクトリアで不動産投機があらためて活発化していった.さまざまな分野 で会社設立が進み, 88 年には433 社が登記され,内訳は金融会社が半数を占め,

23 ,llaH .po,.tic ,031.p ,niltuB .po,.tic ,24.p ,.ocE May ,5,8881 ,465.p May ,91 .p

6 2 4

, Nov. ,3.0831.p

24 ,.ocE .tcO ,6,8881 .2521.p

25 t,reerM ,.T.D niaalrstAu" Banking eictacrP and eht sisirC fo",3981 AEHR, l.oV 2

9

, ,.loN March ,9891 .67.p シドニー証券取引所は投機増大に対して98 3月に取引 方法を変更しているryusbal(S and Sweeney, .po,.tic .)341.p

26 ,ntatraG .po,.tic ,592.p ,niltuB p .o c.,.ti .214.p

21 ,.ocE .anJ ,41 ,8881 ,25.p Mar. ,2 ,9881 ,372.p Mar. ,98,-79.2pp Mar. ,32 ,563.p A

p r

. ,31 ,374.p Aug. ,01 .2201.p

(13)

製造業も5 社を占めている.金融緩和,現金委託による信用取引,鉱山・土地4 手形の割引等により,投機を持続することが可能となり,とりわけ土地会社,

建築会社,金融会社の株式投機が盛んになり,証券取引所では民間取引が活発 化する一方で,詐欺などもかなりみられるようになったとされた筑

この投機のピークの一例がプロークンヒルの銀山プームである.特にBHP の株価は87 年末から88 2月にかけて2.4 倍になったともいわれる.証券取引 所取引の処理が追いつかず, 88

3

月末から市場は

0 1

日ほど閉鎖されるほどで あった. しかし,市場再開後にはむしろ緊張感が高まり,この銀山プームは終 わることになった.ただし,市場の関心が銀山から土地会社や金融会社に向か っただけで,銀山の経営自体への影響はほとんどな<'経済全体も活況を維持

したとされる.

7

月にはこれらでの上昇も止まることになり,投機の中心はさ らに株式から土地へ向かうことになった.92

建築組合,土地抵当会社,貯蓄銀行による貸付残高は90 年には2300 万ポンド に達し, 80 年の

5

倍を上回る水準に達した. 80 年代末には会社による土地購入 が個人のそれを大きく上回るようになっている吼しかし,建築プームが88 89 年初めにはピークに達し,土地抵当会社は不動産取引減退に伴い土地購入 を停止した.土地価格のピークは89 年になっており,メルボルンの89 年の水準 は8

6

年の2.3 倍に達していた.13

対外取引では80 年代後半に輸出が停滞する一方,建設プームや金融活動を背 景に輸入が増大していた呟地金銀を除く輸出は80 年代後半にほぽ横ばいとな っている.最大の輸出品である羊毛がほぼ横ばいで,穀物や家畜は年による変

28 Boem, .po,.tic ,251.pp ,802 .252-442 リスク上昇については,,tterrMe .po,.tic .46.p

29 ,llaH .po,.tic .3-04.pp

30 ,grebrebliS ,.RlanoitutitsnI" srotsevIn ni eht Real estatEs Mortgage Market ni V

i c t o r i

a ni eht ",s0881 AEHR, ,81.loV N o,2. September ,8791 ,861.p ,grerbebliS R

.

, "The Melbourne Land Boom," AEHR, ,71.loV ,2.oN September ,7791 1-2.1pp 2

.

31 Boem, .po,.tic ,241.p g,rebrbeliS alniotuittnsI" "s,ortesvIn ,961.p ,rgberbeilS

"

M e l b o u r n e ,

" .911.p 08 年代の建築組合の増加の大半はメルポルンで生じていたとされ

,grebrebliS( lanoitutitsnI" ",srotsevnI .)661.p

32 Boem, .po,.tic .701.p

(14)

動が大きかった.他方輸入は

8 0

年代末に急増し,

0 9

年まで

NSW

を上回る額 になっている.綿製品,鉄道資材等鉄鋼製品,機械,木材,羊毛製品等の他,

羊毛が増加している.かくて貿易赤字は

0 8

年代末に急激に増えていった.鉄道 建設の基準が緩められていったことはさしあたり経済拡大には貢献したであろ うが,それに伴う輸入増や鉄道の収益性低下等から,イギリスからの投資には 悪影響を及ぽすことになった. しかもビクトリアの地方自治体は

- 9 2 8 3

年にロ ンドンで

0 2 0

万ポンド弱を借入れているが,公共施設等の優先度の低い計画に 資金投下されていたとされ,ロンドンにおける不信感を強めた.33

他方で,銀行の組織拡大も急速に進んだが,業務内容の他全性はむしろ後退 していた.債権債務のミスマッチも

0 7

年代から次第に広がっていたと考えられ る.貸付は長期化し,担保内容は市況商品が増え,資産価値上昇を背景にクレ ジットラインの拡大も進んだ.支店網が特定地域に集中したり,借手のタイプ が一定の性格に偏ったりといったように, リスク分散が不十分になっていた.

8

0

年代にはすでに銀行業務で割引以外が増加し,土地・住宅担保貸付,牧畜向 け貸付がかなりの比重を占めていたと考えられる.この背景には50 年代後半以 降銀行の貸付担保条件が緩和されてきたことがある_43 こうして87 年には流動 性維持に向けた委員会の勧告が出されていた. しかも預金のうち利子付き預金 の比率が上昇し,貸付利子率と借入利子率との利鞘が狭まり,銀行の収益は圧 迫されるようになっていた.拡大し始めていたイギリスからの預金はオースト

ラリアにおける預金と同等に取扱われ,

NSW

では限界部分にとどまったのに 対し,ビクトリアで多く受入れられたとされる咲

こうして民間投資,公的投資共に

8 8

年ないし

8 9

年にピークを迎えた.土地会 社は預金を中心に短期で資金を調達する一方,建築,土地購入等長期で資金を 運用していた.そして結果的には販売不能となってゆく土地を積み増していく

ことになったのである筑

33 ,.dibI ,21-71.pp n,soaviD .po,.tic .3-281.pp

34 t,etrerM .po,.tic ,57-86.pp Boem, .po,.tic .02-812.p

35 ,niltuB .po,.tic ,361.pp ,13-922 ,932 t,etrerM .po,.tic .56.p

36 Boem, .po,.tic ,451.pp ,851 .462

(15)

かくて, 88 年秋には投機への晋戒感が強まり,金融引締に転換することにな った.次第に輸入が増加し,ロンドンでの資金調達が停滞化するにつれ,貨幣 市場は逼迫していった.こうして土地投機心理は抑制されることになったが,

この時点では大規模な破綻はさしあたりあまりみられなかった丸金融逼迫を うけ消費動向にも変化が生じたとはいえ,

8

月から開催されていたメルポルン 百周年博覧会もあり,土地投機への直接的効果はまだ小さいものだった.

9

には銀行貸出の急増,預金増加の停滞,現金準備の減少という状況が明らかと なり,

0 1

月にはメルポルンで金利が引上げられ,土地担保貸付が制限されるこ とになった.土地会社への影響は大きく,土地関連諸企業の株式時価総額は

7

月から

2 1

月にかけて

45%

程度まで低下した. 89 年初めには民間住宅建築の拡大 が頭打ちになった.83 かくて89 年に入ると経済実体への影響が表面化し, 89 後半には顕著な倒産が続くことになった.たとえば,建築のペースが低下し建 築組合の貸出も一時停止され,

6

月になっで慎重な形で再開された.ただし投 資も全体的に縮小ではな<'伸ぴ率の低下にとどまることが多く,全体として 大きな混乱とはならなかった.93

メルポルンでは,投機に菩告が出されている中,株価は8

8

年半ばから低下に 向かい, 89 1月にはピークの三分の一にまで低下したが,それでもなおプー ム前より

40%

高い水準だったとされている.ここでも当初の縮小は比較的ゆっ くりとしたものであった.公的部門の資本活動が依然として拡大を続けたこと などが一因とされる.そして鉱業部門の投機が全体の崩壊を妨げることにもな った例

土地会社は高値で購入した土地を保有し,不動産市場の低下により困難に陥 った.かくて銀行より高い金利を付した預金を吸収したり,ロンドンに支店を 開設したりしていった. しかし, 89-90 年には貨幣市場の緩和,資本輸入の継 続,輸出拡大,旱魃の収束等により少なくとも大手企業は破綻を免れることが

37 ,.dibI .352.p

38 ,llaH .po,.tic ,911.pp ,3-131 .441

39 ,niltuB .po,.tic ,4-21.4pp ,llaH .po,.tic .9-841.pp

•0 Boem, .po,.tic ,-4351.pp .7-642

(16)

できた. しかも,ピクトリアの法律では破産者は債権者と秘密合意が可能であ り,投機活動の実態や不健全な状況は必ずしも明らかにはならなかった.かく して,結局この時点では大手企業の破産は89 12 月のPremier Permanent

Building Association 等に限られ,これがこの時期におけるメルポルンでも

っともひどい破産とされている.14

いずれにせよ,この段階では経済悪化の程度は極端に大きなものではなく,

当時なお健全な状況にあると考えられたのも無理はないとも評価されることに なる屹

I

I

再度の金融恐慌

1890 年にはベアリング恐慌が勃発し,その他にも南アフリカ,アメリカ等で も金融的混乱が生じ,34 世界的に屎気が転換していったが,すでにみたように オーストラリアでは80 年代末にすでに好況の展開はとりあえず頓挫しており,

その後景気はむしろ横ばいないし回復の方向に転じていた. 88

0 1

月以降に土 地プームが一度崩壊した中でも,多くの土地抵当会社は生き残り,不健全な手 法が隠蔽されたままになっていたとされる.むしろあらためて土地投機が再燃 し,関連する不動産抵当会社の競争激化,株価下落が生じていると指摘されて いる. ,98 90 年のイギリス資金供給をめぐる困難にもかかわらず,経済は必ず しも一層の低下には向かわなかったのである仕

しかし, 91 年には再度金融危機が生じ,景気は急激に悪化することになる.

91

6

月末現在の鉄道収益は証券の利子率以下であり,新線の損失が大きくな っている.他方,

NSW

では鉄道は順風満帆とはいえないにしろ, 91 年秋には 業績はとりあえず順調であった例前述のように一般に投資は91 年に再ぴ高水

•• ,.dibI .852.p

42 ,llaH .po,.tic .321.p

43 ,.ocE .peS ,72 ,0981 ,5-4221.pp .ceD ,31,2-1651.pp .nuJ ,02 ,1981 .197.p

" B,niltu .po,.tic ,414.p ,.ocE .naJ ,3,1981 .5-4.pp

45 ,.ocE .luJ ,81 ,1981 ,497.p .peS ,91.5021.p

(17)

準になっており,牧畜投資は91 年には回復している.しかし, 91-2 年には金融 引締によりメルポルン,シドニー,プリスベーンなどで建築会社,土地会社の 破綻が生じ, 92-3 年には銀行を含む金融調整が生じることになる賊

オーストラリアの経済状況は

0 9

年に入るととりあえず好転しているように感 じられていた.農業の収穫は順調で, 89 年を下回る統計が多いものの一般に88 年の水準を上回っていることが多い.民間建築の縮小は止まり,製造業の雇用 にも大きな変化は見られなかった.輸入の減少はむしろ銀行貸出への依存を弱 め,金融は緩利の方向へ向かった.年初にはビクトリアの過大な借入が懸念さ れ,ロンドンでの資本発行は延期が予想されていたものの,

4

月にビクトリア 政府はロンドンでの

0 0 4

万ポンドの発行に成功したのである. もっとも当然な がら以前ほど信用は高くないとされている.あるいはその直前にクイーンズラ ンドが資本発行しているものの,ここでも公共事業への投資等,替戒感も示さ れている.すなわち,とりあえず経済は回復過程にあるとみられていたが,他 方で重大なリスクがあるという認識が広がっていると一般に理解されていた玖

9

0

年後半になるとオーストラリア各地の証券発行がイギリスで過剰とされ始め,

ベアリング恐慌を経て91 年前半にはロンドンでの発行は失敗に終わっている.84

年初には南オーストラリアのロンドンでの発行への応募は少額であり,オース トラリア各地の発行が増加するであろうという予想の中で,すでに発行が難し くなっていることが指摘されている. 91 年前半には一般に高級植民地証券にも 人々は反応しなかったとされる.そして,ビクトリアの発行については大きな 問題を引き起こしかねないと替告され,結局全額応券されることはなく,応募 価格も額面を割込んだ. 5月にはクイーンズランドが,最低価格を低く固定す るなどして発行を試み,腎戒感の中でもその経済状況を評価する声もあったが,

結局必ずしも成功とはいえず,あらためてビクトリアやクイーンズランドの借 入れ手法の問題が指摘されることになった.94

NSW

91 年にロンドンで予想

" Boem, .po,.tic ,552.pp .334

" H,lla .po,.tic ,1-051.pp ,.ocE .naJ ,4,0981 ,9.p Mar. ,22 ,-4363p.p Apr. ,21 ,554.p J

u n

. ,82 .328.p

" Boem, .po,.tic .561.p 09 11 月以降ピクトリアのロンドンでの発行は困難となってい った,llaH( .po,.tic .)521.p

(18)

より好条件の証券を発行できたものの,調達した資金は鉄道建設以外では大半 は返済に向けられたという.

さらに金融混乱が始まった中で, 92 年初めに 2年という短期証券をロンド ン&ウェストミンスター銀行を通して発行しているが,通常の長期債を発行で きない異例な発行とされている.そして,ロンドンで発行できず,シドニーで の発行を余俄なくされている判西オーストラリアの92 年の発行は失敗してお り,ビクトリアの発行も成功にはいたらず,財政状況への不信感,金融機関支 払停止に伴う債権者の見通しの暗さが指摘されている.15

90 年代初めにオーストラリアに投下された海外投資は2500 万ポンドに達 し,財政収支悪化,輸出価格低下の中で,利払いは追加証券発行によるところ が拡大し,その発行が困難となれば公共事業中止から景気の悪化,失業増大と いう結果になった.25 しかもビクトリアは91 年夏のロンドン発行の際にイング ランド銀行からの支援をえたが,後になって行き違いが明らかになっていた.35

かくて,イギリスからの長期資金流入ははっきりと縮小することになった.

90 年の証券取引所では鉱山株への関心が強まったが,採鉱条件の悪化,スト ライキの影響などにより,必ずしも取引は活発とはならなかった.オーストラ リア各地の鉱山株に関する不安定性が指摘されている.銀採掘会社の株価は高 水準をつけていたが,さまざまな角度から替告が出されていた.アメリカにお ける銀政策,大統領選を背菜に銀価格が低下するにつれ,

BHP

の株価は低下 していった.こうして全般的に相場,取引雇共に低下傾向をたどった.45 それ でも, 91 年初めに不況感が一般化したとはいえ,主としてメルポルンとその周 辺に限られ,さまざまな生産の分野ではかなり健全な状況にあるという評価も

•• ,.ocE eb.F ,7,1981 9,-681.pp .ebF ,82 ,372.p Mar. ,41 ,733.p Apr. ,81 4,3-49p.p May ,32,6-556.pp May ,03 .pp ,5-496 .nuJ ,31 ,067.p .nJu ,72 .128.p

50 yburlsSa and Sweeney, .po,.tic ,471.p ,.ocE ,21.peS ,1981 ,6911.pp ,1811 .tOc ,51 1

8 9 2 , .0031.p

51 ,.ocE .nuJ ,52 ,2981 ,328.p Aug. ,31.8-7301.pp

52 ,ekarlC .po,.tic .08.p

53 ,.ocE Nov. ,41 ,1981 .7541.p

54 ,.ocE .prA ,62 ,0981 ,125.p ,ryusblSa and Sweeney, .po,.tic ,60-571.pp ,261 ,llaH o

p . ,.tic .07-661.pp

(19)

あった. しかし, 3月にはシドニーが主導して各地で金利が引上げられ,ベア リング恐慌の影響やピクトリアの資本発行の失敗により状況は悪化した.政府 は歳入減少に対応して歳出も削減し,景気は一層悪化することになる_55

90 年に安定した銀行の流動性も91 年の金輸出の増加と共に低下していった.

銀行は第

2

四半期には預金を始め各種業務を縮小させた.頂金減少は資本流入 の縮小,ベアリング恐慌に関わるロンドンヘの資金移動等によった.第

3

四半 期にはビクトリアを中心に預金が大幅に減少し,貸出の伸ぴはわずかとなって いる.第

4

四半期には,一方でロンドンからの預金増,大手銀行への預金移動 により預金は増加したが,他方で貸出の伸ぴは依然としてわずかだった.65 うして91 年秋にはオーストラリア諸銀行のロンドンにおける株価低下が報じら れている.破綻した銀行以外でも資産悪化等の問題が出ていた.75

90 年代に入っても問題の焦点はビクトリアであった. 89 年に一度縮小してい たメルポルンの投機は91 年夏には縮小が明確になっていた. 80 年代から持ち越 された建築の過剰能力が深刻な問題であった.イギリスでもビクトリアの土地 所有者の不動産負債急増が報じられている.85

イギリスでの預金は90 年半ばにはオーストラリア内のそれより増加幅が大き くなっていた.この預金吸収には仲介業者が入り,銀行にとってはコストが高 しかも,弱小金融機関は高金利を提示する必要もあった判上述のように

91 年にはロンドンにおける資本発行は困難となっており,依存を強めていたイ ギリスが漿気悪化に苦しむ中で,景気下降に一層拍車がかかり,本格的な調整 が必要となっていったのである例そして, 91 年にはメルポルンやシドニーの 土地抵当会社の支払能力の実情が明らかになっていった.

6

月に建築組合は預 金引出しに対応して金利を引上げ,商業銀行からの資金供給が停止されるに及

City of Melbourne

Bank が破綻に追い込まれた.

7

月24 日には

Impe-

55 ,llaH

. p o , . t i c

.3-251.pp

56

Boem, . p o , . t i c

,102.p

, . o c E . t c O

,01 ,1981 ,0031.p .naJ ,2,2981 ,11.p Mar. ,91.483.p

57

, . o c E , O I . t c O

,1981 ,0031.p

. t c O

,71 .9231.p

58

Boem, . p o , . t i c

,451.pp ,742

, . o c E Nov.

,22 ,0981 .4741.p

59

, . o c E . b e F

,7,1981 ,371.p May ,2,565.p

. b e F

,6,2981 .671.p

60

Boem, . p o , . t i c

,871.pp .081

(20)

r i a

l Banking Co

が支払停止となる.土地プームが清算されることになった

のである.

1 9

年後半には近郊土地抵当会社の破産が続いた.16

NSW,

ピクト リアの議会では証券発行を議決するが,ロンドンでは従来同様オーストラリア の公共事業優先の考え方に疑問が呈され,借人抑制が優先されるべきであると 批判されている.イギリス預金者の被害も大きく,メルポルンでは発行延期の アドバイスが出されていた.26

こ う し た 展 開 は

NSW

に波及することになった.

8

月には

h i s t r i B Aus- t

r a l i

a Land and Banking Co

の閉鎖,

9

月には

i a n A u s t r a l Mutual t - s e v n I ment and n g B u i l d i Company

の破綻があり,パニックになった6

. 3

しかもす でに銀行の民間企業支援能力は低下していた.

1 9

年7月から

8

月にかけてシド ニーで

3

つの銀行が破産,

3

つの土地会社が支払停止となり,

9 2

3

月までに シドニーで2

0

以上,メルポルンで2

1

以上の破産が生じ,

1 9

年秋にはプリスベー ンに,

9 2

年にはクィーンズランドにも波及することになった.

9 2

3

月58 払停止となった

Mercantile Bank f o l i a s t r a A u

では預金の

6

割近くがイギリ スからであった6

. 4

メルポルンの恐慌のピークは9

1

年1

1

月から

9 2

3

月で,大 企業の一部は株主から再建計画への了承を得たが,結局多くは釆り切れなかっ

た . メ ル ポ ル ン の 土 地 銀 行 崩 壊 の 項 点 は9

2

3

月の

Mercantile Bank f o A

u s t r a l i

a

の支払停止である.会長が破綻した土地銀行に関与しており,銀行 協会に援助を求めていたが間に合わなかった.その後その他諸銀行の一部破綻 や救済合併の実施を伴いながら,経済活動は縮小をたどっていった.56 しかし,

3

月258 にメルポルン公共事業局が

5

年物証券発行に成功し,

2 8

日に銀行協会 が諸銀行に対する共同支援の発表を行ない,ょうやく事態は沈静化していっ た6

. 6

凍結された預金1

1 2 5

万ポンド中,イギリスからの預金は345 万ポンドで

61

, l l a H . p o , . t i c , 3 5 1 . p e m , B o . p o , . t i c , 3 6 1 . p , . o c E . p e S , 2 1 , 1 9 8 1 , 3 7 1 1 . p o v . N , 7 . p

1 4 2 6

.

具体的なプロセス,破綻銀行については,

, . o c E . b e F , 6 , 2 9 8 1 , 6 7 1 . p . r p A , 2 . p 4

4 8 .

62

, . o c E . c e D , 9 1 , 1 9 8 1 , 0 2 - 9 1 6 1 . p p . n a J , 2 , 2 9 8 1 . 0 1 . p

63

y r u b s l a S a n d , y n e e e S w . p o , . t i c . 9 - 8 6 1 . p p

••

Boem, . p o , . t i c , 3 - 0 6 2 . p p , . o c E May , 4 1 , 2 9 8 1 . 2 3 6 . p

65

Boem, . p o , . t i c , 3 6 2 . p p . 3 - 1 8 2

(21)

あったとされる.あるいは91

7

月から支払停止となった21 金融機関の預金の 三分の一

7 5 3 (

万ポンド)はイギリスからである.ビクトリアでは92 年第

1

半期には預金が若干増加し,貸出は減少した. 92 3月末現在のオーストラリ アにおけるイギリス預金は4335 万ポンド余と推計され, 91 年秋以降オーストラ リア金融機関の信頼が揺らいでいる時期にむしろ大幅に伸ぴたようである豆

92 年に入りロンドンにおける植民地政府証券価格は低下が大きくなり,植民 地政府の借入過剰や南アメリカ証券との類似性が指摘されることになっている.

そして92

4

月にはビクトリアの銀行協会の相互保証に安心感をえて,ロンド ンでは植民地証券価格が最悪期から回復することになった.また, 92 年半ばに かけて支払い停止機関は多くなったとはいえ,土地銀行に限定的だったことも あり,シドニー金融界は比較的楽観論が強かった.86

ただし,これらは一般の経済動向に強い下降圧力を加えた. 91 年末には不況 はかつてなく厳しいものになっていて,イギリス投資家のオーストラリアヘの 資金供給の停止,羊毛,小麦,銀価格の低下,

NSW

の旱魃が一層経済状況を 悪化させることになった.特にビクトリアでは

0 8

年代末から不況が進行中だっ たので,不況の一層の深化を招くことになった. 92 年には失業はもはや季節的 なものにとどまらなくなり,労働者の示威運動が盛んになった.失業は拡大し,

労働者の生活はかなり悪化した. 92 年夏にロンドンにおける金縁証券について の分析においては,金融状況の悪さを考えると

8 8

年のピークからの植民地証券 の低下が小さいと指摘されている例市場にも依然として植民地の信頼が残っ ていたということもできよう.

66 ,.ocE May ,41 ,2981 .236.p

67 ,.ocE .nuJ ,81 ,2981 ,397.p .nuJ ,11 ,957.p .luJ ,03.2-179.pp

•• ,.ocE .prA ,32 ,2981 .735.p

•• ,llaH .po,.tic ,6-551.pp Boem, .po,.tic ,962.p ,ainSw ,.L.S eutttisDe" and Depen- d

e n t

: Case seiduSt ni tyPover ni ne,lbourMe ,"0091-9081 lacirotsiH ,seidutS l.Vo 1

9

, ,4.7oN ilrpA ,0891 ,45.p ,.ocE Aug. ,72 ,2981 .4901.p

(22)

I I

I

3 9 8 1

年恐慌

1891 年秋以降に景気は本格的に悪化することになり,すでにみたように各種 の経済指標は91 年から低下傾向を示している.さらに93 年の恐慌をうけオース トラリアの景気はなかなか回復のきっかけをつかめないまま, 90 年代の残りの 時期に長期不況に苦しむことになった.

NSW

の鉄道の92

6

月期決算では,後半伸びが低下したものの,前年比で 改普がみられた.ただし,利払いには不十分で,最終的には赤字決算となった.

92 年夏にクイーンズランドで経済状況の改普見通しが指摘されている. しかし,

その他では不況状況の継続が指摘され,特にメルポルンでは金融状況がはるか に低迷し,不信感が強まっている中で改普がほとんどみられないとされている.

社会問題には慈普活動で対応されており,労働者は建設活動の増加を求めてい るとされる呵大きく低下した不動産市場は十分機能せず早期の回復見通しも ままならず,清算金融機関の見通しも改普しなかった.ロンドンに支店をもつ オーストラリアの諸銀行の払込資本金は1210 万ポンドであるのに対し,時価は 90 10 月に3230 万ポンド, 91 10 月に2900 万ポンド, 92 10 月に2470 万ポンド と大幅に低下していた. 80 年代から銀行間で一定の協力関係が形成されつつも,

銀行間の競争は各地で厳しかった.17 私的清算が増加する中で,保有資産価値 が大幅に縮小する例もあり,株主,預金者の資金はほとんど回収できない傾向 にあった. しかも,金融的混乱に関わる刑事手続実施には,取引に関わる人間 関係の問題等から政府,議会は消極的だったとされる吹こうした中,ビクト

リアからは人口流出が続いた.37

93 年には羊毛の需要減少,価格低下が一層進行した.これにより資産価値が 低下し,牧畜業の困難が増し,金融危機に大きな影響を与えた.47 銀行の準備

10 ,.ocE .peS ,01 ,2981 ,5111.p Nov. ,62 .2841.p

71 Boem, .po,.tic ,4-112.pp ,.ocE .tcO ,51 ,2981 ,9921.p .tcO ,22 .5231.p

12 ,.ocE Nov. ,21 ,2981 .9-814.pp

73 ,.ocE .ecD ,71 ,2981 ,9751.p May ,72 ,3981 .036.p

74 Boem, .po,.tic ,08-97.pp .98

表 1 鉄道総延長(政府) (マイル) NSW  ピクトリア 南オースト 北部地域 西オースト タスマニア クイーンズ ラリア ラリア ランド 1887 6 ,03 2 0 88 1, 20 ,4 1 8 6 1 8 4 1 5 76 1, 1888 14 ,1 2 18 ,0 2 00 ,5 1 3 8 1 8 5 1 1 93 , 1 1889 71 ,1 2 90 ,1 2 10 ,6 1 3 8 1 5 0 2 4 06 2, 1890 2 ,18 2 71 4 2, 10 ,6 1 6 4 1 3
表 2 羊飼育頭数 (千頭) NSW  ビクトリア 南オースト 北部地域 西オースト タスマニア クイーンズ ラリア ラリア ランド 1887 5 6 ,9 46 4 62 0, 1 10 9 , 1 7 4 ,5 1 26 9 2, 1 1888 3 0 ,5 46 9 81 0, 1 12 1 2, 0 3 4 , 1 44 4 3, 1 1889 7 0 ,1 50 2 88 , 10 87 3 6, 46 7 36 2, 1 5 5 , 1 0 47 , 14 1890 6 8 ,9 55 3 9
表 3 小麦作付面積•生産量 NSW  ビクトリア 南オースト 西オースト タスマニア クイーンズ ラリア ラリア ランド 面積(千エーカー) 1887 4 89. 3 9
表 4 産業別実質 GDP (1891 年価格,百万ポンド) 一次産業 製造業 建設 サーピス 地代 GDP  牧畜 農業 酪農 鉱業 1880 1 . 40 2 7. 1 5

参照

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